***
「――私、死ぬときは小春に殺されたいな」
紗子ちゃんがふいにそんなことを言ったとき、美術室にはわたしと紗子ちゃんしかいなかった。ふたりきりの美術室で、紗子ちゃんは夕焼け空を飛んでいくアゲハ蝶の絵を描いていた。
紗子ちゃんは基本的に自画像しか描かないひとだったから、「風景画なんてめずらしいね」とわたしが紗子ちゃんに話しかけたら、「このアゲハ蝶も私なんだよ」と紗子ちゃんは教えてくれた。「死ぬときはこんなふうにきれいに飛んでいきたいなと思って、描いてるの」と。
突然出てきた物騒な言葉にわたしがちょっと驚いていると、紗子ちゃんはふとわたしのほうを見た。そして、いいこと思いついた、みたいな口調で、付け加えるように言ったのだ。
死ぬときは小春に殺されたいな、と。
「……へ?」
わたしは間の抜けた声をこぼしながら、ぽかんとして紗子ちゃんの顔を見た。なにを言われたのか、とっさによくわからなかった。
紗子ちゃんはそんなわたしの顔を、やわらかく目を細めて見つめながら、
「こんなお願い聞いてくれるの、たぶん、小春しかいないだろうから」
「……お願い」
「そう。私が死ぬときは、殺してって」
穏やかな声に、理解は数秒遅れてようやく追いついた。わっ、とぎょっとして口を開いたら、声が思いきり上擦った。
「わたしだって聞けないよ、そんなお願い!」
「でも、小春しかいないの。私」
それでも紗子ちゃんの表情に変化はなかった。まっすぐにわたしの顔を見つめたまま、彼女はゆっくりと重ねる。その目はなにかを見透かすように、わたしの瞳の、ずっと奥のほうを見ていた。
「小春は、たったひとりの私の親友だから」
――親友。
彼女の声で紡がれるその単語はいつも、甘い毒みたいに脳の奥を痺れさせる。
思わず言葉に詰まったわたしのほうへ、紗子ちゃんはすっと手を伸ばして、
「ね。……お願い、小春」
言いながらその手が、わたしの頬に触れたとき。「いつ」とわたしの唇からは、掠れた声がすべり落ちていた。
「いつ死ぬか、決めてるの、紗子ちゃん」
どうしてそんなことを訊いたのか、わからなかった。ただ目の前で淡く微笑む彼女の、ぞっとするような美しさに見惚れながら、気づけば声がこぼれていた。
紗子ちゃんの指先が、わたしの頬を撫でていく。そうして彼女は目を細め、「うん」と頷いた。
「決めてる。具体的にいつってわけじゃないけど」
「いつ、なの」
「私が、きれいじゃなくなるとき」
――だったらそんな日は、きっと永遠に来ない。
紗子ちゃんの答えを聞いて、わたしは思った。
それは予想ではなく、確信だった。
中学一年生で出会ってから、ずっと。紗子ちゃんは日に日にきれいになっていた。
生まれ持ったものが最高に素晴らしかったのはもちろんだけれど、彼女がずっと努力してきたのも知っていた。体型管理も、髪や肌のケアも、身だしなみも。紗子ちゃんはしっかりと自分の美しさを自覚していて、だからこそそれを最大限に磨いていた。
そんな彼女がきれいじゃなくなる日なんて、来るわけがなかった。きっと紗子ちゃんはこれからもますますきれいになって、目を見張るほど美しい大人の女性になっていく。そんな姿しか想像できなかった。そんな未来しか、ありえなかった。年老いてもぜったいに、彼女の美しさだけは衰えない。衰えるはずがない。美しさこそが、紗子ちゃんが紗子ちゃんである証なのだから。
この世でいちばん美しい、わたしの神様なのだから。
「……わかった」
――ああ、そうだ。
紗子ちゃんの言葉に頷きながら、わたしはすっと腑に落ちるような感覚がした。
理解できなかった彼女の言葉が、急にしっくりとそこに収まる。
「そのときが来たら、わたしが」
そうだ。
もしも本当に、そんな日が来るとしたら。
彼女の美しさが、壊れることがあるのなら。
「紗子ちゃんを、殺してあげる」
――それはたしかに、彼女が死ぬべきときなのだろう。
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「――私、死ぬときは小春に殺されたいな」
紗子ちゃんがふいにそんなことを言ったとき、美術室にはわたしと紗子ちゃんしかいなかった。ふたりきりの美術室で、紗子ちゃんは夕焼け空を飛んでいくアゲハ蝶の絵を描いていた。
紗子ちゃんは基本的に自画像しか描かないひとだったから、「風景画なんてめずらしいね」とわたしが紗子ちゃんに話しかけたら、「このアゲハ蝶も私なんだよ」と紗子ちゃんは教えてくれた。「死ぬときはこんなふうにきれいに飛んでいきたいなと思って、描いてるの」と。
突然出てきた物騒な言葉にわたしがちょっと驚いていると、紗子ちゃんはふとわたしのほうを見た。そして、いいこと思いついた、みたいな口調で、付け加えるように言ったのだ。
死ぬときは小春に殺されたいな、と。
「……へ?」
わたしは間の抜けた声をこぼしながら、ぽかんとして紗子ちゃんの顔を見た。なにを言われたのか、とっさによくわからなかった。
紗子ちゃんはそんなわたしの顔を、やわらかく目を細めて見つめながら、
「こんなお願い聞いてくれるの、たぶん、小春しかいないだろうから」
「……お願い」
「そう。私が死ぬときは、殺してって」
穏やかな声に、理解は数秒遅れてようやく追いついた。わっ、とぎょっとして口を開いたら、声が思いきり上擦った。
「わたしだって聞けないよ、そんなお願い!」
「でも、小春しかいないの。私」
それでも紗子ちゃんの表情に変化はなかった。まっすぐにわたしの顔を見つめたまま、彼女はゆっくりと重ねる。その目はなにかを見透かすように、わたしの瞳の、ずっと奥のほうを見ていた。
「小春は、たったひとりの私の親友だから」
――親友。
彼女の声で紡がれるその単語はいつも、甘い毒みたいに脳の奥を痺れさせる。
思わず言葉に詰まったわたしのほうへ、紗子ちゃんはすっと手を伸ばして、
「ね。……お願い、小春」
言いながらその手が、わたしの頬に触れたとき。「いつ」とわたしの唇からは、掠れた声がすべり落ちていた。
「いつ死ぬか、決めてるの、紗子ちゃん」
どうしてそんなことを訊いたのか、わからなかった。ただ目の前で淡く微笑む彼女の、ぞっとするような美しさに見惚れながら、気づけば声がこぼれていた。
紗子ちゃんの指先が、わたしの頬を撫でていく。そうして彼女は目を細め、「うん」と頷いた。
「決めてる。具体的にいつってわけじゃないけど」
「いつ、なの」
「私が、きれいじゃなくなるとき」
――だったらそんな日は、きっと永遠に来ない。
紗子ちゃんの答えを聞いて、わたしは思った。
それは予想ではなく、確信だった。
中学一年生で出会ってから、ずっと。紗子ちゃんは日に日にきれいになっていた。
生まれ持ったものが最高に素晴らしかったのはもちろんだけれど、彼女がずっと努力してきたのも知っていた。体型管理も、髪や肌のケアも、身だしなみも。紗子ちゃんはしっかりと自分の美しさを自覚していて、だからこそそれを最大限に磨いていた。
そんな彼女がきれいじゃなくなる日なんて、来るわけがなかった。きっと紗子ちゃんはこれからもますますきれいになって、目を見張るほど美しい大人の女性になっていく。そんな姿しか想像できなかった。そんな未来しか、ありえなかった。年老いてもぜったいに、彼女の美しさだけは衰えない。衰えるはずがない。美しさこそが、紗子ちゃんが紗子ちゃんである証なのだから。
この世でいちばん美しい、わたしの神様なのだから。
「……わかった」
――ああ、そうだ。
紗子ちゃんの言葉に頷きながら、わたしはすっと腑に落ちるような感覚がした。
理解できなかった彼女の言葉が、急にしっくりとそこに収まる。
「そのときが来たら、わたしが」
そうだ。
もしも本当に、そんな日が来るとしたら。
彼女の美しさが、壊れることがあるのなら。
「紗子ちゃんを、殺してあげる」
――それはたしかに、彼女が死ぬべきときなのだろう。
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