瀬名は足を止めることなく歩きつづけた。早足で廊下を進み、階段を下りる。そして下駄箱を通り抜けると、上履きのまま外へ出た。
「……なあ」
あいかわらず彼女の手は俺の手首をつかんでいる。
たぶん振りほどこうと思えば、すぐに振りほどけるぐらいの力だった。だけど俺はできなかった。その手が離れるのが怖かった。その手が離れた途端、また指先ひとつ動かせなくなりそうだった。自分がこの世界のどこにいればいいのか、さっぱりわからなくなりそうだった。
「なんで、助けたんだよ」
どこに向かっているのか、と。
俺は迷いのない足取りで校門を出て歩きつづける瀬名に、そう訊ねようとしたはずだった。だけど喉からこぼれていたのは、そんな、ひどく頼りない声だった。
瀬名の手が一瞬、ぴくりと動く。だけど足を止めることも、こちらを振り向くこともなかった。ただまっすぐに前を向いて歩きつづける瀬名の横顔に、俺はかまわず言葉を継ぐ。
「瀬名が言ってたとおりなんだよ、俺」
空には灰色の雲が垂れ込めていて、昼間だというのに薄暗い。芯から冷たい空気が、口を開くたび白く色づいた。
「紗子の髪が好きだった。ずっと。たぶん、髪の毛だけが」
さっき教室で聞いた驚きと蔑みの声が、まだ耳の奥に残っている。最後に見た、佐橋の青ざめて引きつった表情も。
まるで恐ろしい化け物でも見るような目で、彼は俺を見た。だけど俺が捉えたのが彼ひとりだっただけで、あの教室にいた全員が、その目で俺を見ていたことも知っていた。
理解できない、決して受け入れがたいものを見る目で。
「紗子が好きだから紗子の髪の毛も好きなんだって、そう信じようとしてたけど。だけど違った。長い髪の毛ならなんでもよかったんだ、ほんとは。紗子の髪以外でも。集めてたら、すげえ興奮した」
気持ち悪い。
繰り返し向けられた言葉が、耳の奥で反響する。
〝これ〟が知られれば、そう言われることはわかっていた。だからもうやめたほうがいいとも、床に落ちた髪の毛を目に留めながら何度も思った。
なのに気づいたときには、俺はいつも憑かれたように手を伸ばしていた。身体の中心から突き上げる強烈な欲求に押されるまま、それを拾い上げていた。
「変態なんだよ、マジで、どうしようもないぐらいの」
冷たい風が、頬や首筋に吹きつける。踏みつけた石の感触が、上履きの薄い靴底越しに伝わる。
瀬名はあいかわらず前を向いたまま、ただ歩きつづけていた。何度か曲がりながら細い路地を進み、やがて大通りに出る。人通りの増えた歩道を歩きはじめると、自転車に乗った男性が前から走ってきて、すれ違いざま、一瞬だけ怪訝そうな視線をこちらへ投げていった。
「……いいじゃん」
瀬名がふいに口を開いたのは、ちょうど目の前で遮断機の下りた踏切の前で、はじめて足を止めたときだった。
え、と訊き返しながら瀬名のほうを見ると、彼女もこちらを見ていて、
「変態でも。べつにいいじゃん」
こぼれ落ちるような声だった。
彼女はわずかに細めた目で、まっすぐに俺を見つめて。
「わたしだって変態だよ」
カンカンカン、と電車の接近を知らせる警報音が近くで鳴る。
「わたしは」
それより小さなはずの瀬名の声は、だけど不思議とかき消されることなく、くっきりと耳へ届いた。
「紗子ちゃんの顔が、好きだった。羽島くんが言ってたように。頭が変になりそうなぐらい、好きで好きでたまらなかった」
俺の手首を握る彼女の手に、少し力がこもる。
「紗子ちゃんがあの顔でいてくれるなら、紗子ちゃんの内面なんてどうでもいいって思うぐらい。あんなにきれいなひと、他にはいないと思ったから。わたしがはじめて見つけた、宝物だって」
だから、と。続けた瀬名の瞳が、かすかに揺れる。
「紗子ちゃんがきれいじゃなくなるの、嫌だって思っちゃったの」
高い金属音が鳴り、電車が遮断機の向こうを走り抜けていく。勢いよく吹きつけた風に、前髪が乱れてまぶたにかかる。けれど俺はそれを払うこともできないまま、瀬名の顔を見つめていた。
ふいに硬くなった心音が、一度耳元で鳴る。
「……瀬名が」
やがて走行音が遠ざかり、瀬名の背後で、ゆっくりと遮断機が上がる。そうして戻ってきた静けさの中に、声はすべり落ちるように落ちていた。
「殺したのか?」
瀬名はなにも言わず、黙って俺の顔を見た。そのままみじんも視線を揺らすことなく、まっすぐに俺の目を見つめ返した。
横の道路を、動きだした車が進んでいく。
「……わかんない」
そのまま三台ほど、通り過ぎるのを見送ったあとだった。
ふっと瀬名が足元へ視線を落とした。そうして一度唇を噛んだあと、どこか途方に暮れたように口を開いて、
「だから、知りたい」
「え」
「死ぬ前の、紗子ちゃんのこと」
呟くようにそれだけ言うと、あとはまた黙って俺の手を引き、踏切のほうへ歩きだした。
「……なあ」
あいかわらず彼女の手は俺の手首をつかんでいる。
たぶん振りほどこうと思えば、すぐに振りほどけるぐらいの力だった。だけど俺はできなかった。その手が離れるのが怖かった。その手が離れた途端、また指先ひとつ動かせなくなりそうだった。自分がこの世界のどこにいればいいのか、さっぱりわからなくなりそうだった。
「なんで、助けたんだよ」
どこに向かっているのか、と。
俺は迷いのない足取りで校門を出て歩きつづける瀬名に、そう訊ねようとしたはずだった。だけど喉からこぼれていたのは、そんな、ひどく頼りない声だった。
瀬名の手が一瞬、ぴくりと動く。だけど足を止めることも、こちらを振り向くこともなかった。ただまっすぐに前を向いて歩きつづける瀬名の横顔に、俺はかまわず言葉を継ぐ。
「瀬名が言ってたとおりなんだよ、俺」
空には灰色の雲が垂れ込めていて、昼間だというのに薄暗い。芯から冷たい空気が、口を開くたび白く色づいた。
「紗子の髪が好きだった。ずっと。たぶん、髪の毛だけが」
さっき教室で聞いた驚きと蔑みの声が、まだ耳の奥に残っている。最後に見た、佐橋の青ざめて引きつった表情も。
まるで恐ろしい化け物でも見るような目で、彼は俺を見た。だけど俺が捉えたのが彼ひとりだっただけで、あの教室にいた全員が、その目で俺を見ていたことも知っていた。
理解できない、決して受け入れがたいものを見る目で。
「紗子が好きだから紗子の髪の毛も好きなんだって、そう信じようとしてたけど。だけど違った。長い髪の毛ならなんでもよかったんだ、ほんとは。紗子の髪以外でも。集めてたら、すげえ興奮した」
気持ち悪い。
繰り返し向けられた言葉が、耳の奥で反響する。
〝これ〟が知られれば、そう言われることはわかっていた。だからもうやめたほうがいいとも、床に落ちた髪の毛を目に留めながら何度も思った。
なのに気づいたときには、俺はいつも憑かれたように手を伸ばしていた。身体の中心から突き上げる強烈な欲求に押されるまま、それを拾い上げていた。
「変態なんだよ、マジで、どうしようもないぐらいの」
冷たい風が、頬や首筋に吹きつける。踏みつけた石の感触が、上履きの薄い靴底越しに伝わる。
瀬名はあいかわらず前を向いたまま、ただ歩きつづけていた。何度か曲がりながら細い路地を進み、やがて大通りに出る。人通りの増えた歩道を歩きはじめると、自転車に乗った男性が前から走ってきて、すれ違いざま、一瞬だけ怪訝そうな視線をこちらへ投げていった。
「……いいじゃん」
瀬名がふいに口を開いたのは、ちょうど目の前で遮断機の下りた踏切の前で、はじめて足を止めたときだった。
え、と訊き返しながら瀬名のほうを見ると、彼女もこちらを見ていて、
「変態でも。べつにいいじゃん」
こぼれ落ちるような声だった。
彼女はわずかに細めた目で、まっすぐに俺を見つめて。
「わたしだって変態だよ」
カンカンカン、と電車の接近を知らせる警報音が近くで鳴る。
「わたしは」
それより小さなはずの瀬名の声は、だけど不思議とかき消されることなく、くっきりと耳へ届いた。
「紗子ちゃんの顔が、好きだった。羽島くんが言ってたように。頭が変になりそうなぐらい、好きで好きでたまらなかった」
俺の手首を握る彼女の手に、少し力がこもる。
「紗子ちゃんがあの顔でいてくれるなら、紗子ちゃんの内面なんてどうでもいいって思うぐらい。あんなにきれいなひと、他にはいないと思ったから。わたしがはじめて見つけた、宝物だって」
だから、と。続けた瀬名の瞳が、かすかに揺れる。
「紗子ちゃんがきれいじゃなくなるの、嫌だって思っちゃったの」
高い金属音が鳴り、電車が遮断機の向こうを走り抜けていく。勢いよく吹きつけた風に、前髪が乱れてまぶたにかかる。けれど俺はそれを払うこともできないまま、瀬名の顔を見つめていた。
ふいに硬くなった心音が、一度耳元で鳴る。
「……瀬名が」
やがて走行音が遠ざかり、瀬名の背後で、ゆっくりと遮断機が上がる。そうして戻ってきた静けさの中に、声はすべり落ちるように落ちていた。
「殺したのか?」
瀬名はなにも言わず、黙って俺の顔を見た。そのままみじんも視線を揺らすことなく、まっすぐに俺の目を見つめ返した。
横の道路を、動きだした車が進んでいく。
「……わかんない」
そのまま三台ほど、通り過ぎるのを見送ったあとだった。
ふっと瀬名が足元へ視線を落とした。そうして一度唇を噛んだあと、どこか途方に暮れたように口を開いて、
「だから、知りたい」
「え」
「死ぬ前の、紗子ちゃんのこと」
呟くようにそれだけ言うと、あとはまた黙って俺の手を引き、踏切のほうへ歩きだした。



