まだ動揺が残るまま教室に戻ると、中がなんだか騒がしかった。
「あ、羽島羽島」
なにかあったのかと近くのクラスメイトに訊ねようとしたところで、一拍早く佐橋が駆け寄ってくる。
「おまえ、さっき四組の教室の前通ってきた?」
出し抜けに訊ねられ、「いや」と俺は首を横に振ると、
「なんで?」
「や、なんか揉めてるらしくて、今」
「揉めてる?」
「四組で、喜多村と瀬名が」
え、と声をこぼした俺の横を、ふたりの男子がすり抜けていった。「けっこう雰囲気やばそうだって」「マジ?」となんだか楽しげな声でしゃべりながら、四組の教室のほうへ駆けていく。
「え、羽島?」
気づけば、俺は彼らのあとを追うように走りだしていた。後ろで声を上げた佐橋にかまわず、急いで三つ隣の四組の教室まで向かう。
教室の前には、すでに十人ほどの野次馬が集まっていた。
「だからこないだっからさあ、陰キャが出しゃばってくんじゃねえよ!」
近づくにつれまず聞こえてきたのは、そんな喜多村の高い声だった。
野次馬は誰も、中で起こっている揉め事を止める気はないらしい。「うわあ、こわ」「めっちゃキレてんじゃん喜多村」だとか、ただ面白そうにささやき合っている彼らをかき分けるようにして、俺は教室の入り口まで進む。
「だいたいなんなの? このまえまでずっとへらへらオドオドしてたようなやつがさあ」
中を覗けば、教室の真ん中あたりで向かい合っている瀬名と喜多村が見えた。
瀬名はこちらへ背を向けていて、ここからは喜多村の顔だけが見える。眉間にしわを寄せた喜多村は、目の前の瀬名を鋭く睨みつけながら、
「なに花井が死んだ途端イキってんだよ。きしょいんだよ。いちいちうちらの話につっかかってくんな」
喜多村は自分の席の場所に立っていて、机の前には喜多村のほうを向いて座っている青山と吉見もいた。おそらくこのまえのように、喜多村の席に三人集まってしゃべっていたのだろう。なにか瀬名が許しがたいような、紗子の話を。
「じゃあもう、そんなふうに紗子ちゃんのこと話さないで。紗子ちゃんの名前を口にしないで。紗子ちゃんのことなんて、どうせなんにも知らないくせに」
喜多村の席の横に立つ瀬名は、怒りに震える声で喜多村に反駁する。髪の隙間からのぞく彼女の耳が、赤く染まっているのが見えた。
「はあ?」
喜多村が瀬名の言葉に顔をしかめる。ぎゅっと細めた目で瀬名を睨む。
「うっざ。紗子ちゃん紗子ちゃんうるせえんだよ。なに、まさかあんたらってマジでデキてたわけ?」
ふっと喜多村が唇の端を歪めるように笑って、そう吐き捨てたときだった。
「あー、そういえばあたし見た」
それまで黙っていた吉見が、ふいに口を開いた。机に頬杖をつき、面白がるような笑顔で瀬名のほうを見上げながら、
「瀬名と花井が美術室にふたりでいるときにさ、めーっちゃべったりくっついてんの。ぜったい友だちの距離感じゃないってぐらいの近さだったもん」
「あ、それならあたしも見たことある!」
途端、青山もすぐに乗っかってくる。ニヤニヤと、まるで鬼の首を取ったかのような表情で、
「てか、顔めちゃくちゃくっつけてたこともなかった?」
「あったあった! なんか空気感おかしかったよね、あのふたりのあいだだけ」
「ね、やっぱガチでデキてたんじゃないの? べたべたしててキモかったもん。紗子ちゃん紗子ちゃんって、いっつも瀬名が花井の後ろにくっついててさあ」
きゃはは、と青山と吉見が顔を見合わせて笑う。鼓膜を引っかくようなその声に顔が歪むのを感じ、俺が思わず教室の中へ足を踏み入れたときだった。
「……なにが悪いの」
ふいに、瀬名が低く呟く声がした。
よく聞こえなかったのか、青山と吉見が笑うのをやめ、「え?」と訊き返す。
俺も驚いて瀬名のほうを見ると、彼女は身体の横でぐっと拳を握りしめながら、
「わたしが紗子ちゃんのことを好きで、なにが悪いの」
「……は」
「好きだったよ。大好きだった。死ぬほど。わたしは紗子ちゃんを愛してた」
ひと息にまくし立てられた瀬名の気迫に、一瞬、青山も吉見も喜多村も言葉に詰まったように黙った。
「ねえ、なにが悪いの」
そのあいだに、瀬名は繰り返す。投げつけるような、だけど今も泣きだしそうな声で。
「あんなにきれいだったんだもん。そりゃ好きになるよ。紗子ちゃん以上にきれいなひとなんて、この世にいなかったんだもん。世界でいちばんきれいなひとのこと、世界でいちばん好きになって、それのなにが悪いの」
「瀬名」
瞬間、粟立つような焦燥が背中を駆けた。
気づいたときには、俺は瀬名に駆け寄り彼女の腕をつかんでいた。
だめだ、となぜか直感的に思った。あふれでたような瀬名の声は、自暴自棄な色がにじんでいて。
――きっと彼女は今、言ってはいけないことを言っている。ずっと自分の中に隠していた、隠しておかなければならないことを。
「もう行こう、瀬名」
だから俺はとっさに、瀬名の腕を引いて教室から連れ出そうとした。多目的教室のときと同じように。
だけどその手は、「離して」という鋭い声とともに強く振り払われて、
「だってそうでしょ。なにもおかしくない」
そこではじめて見えた瀬名の顔は、頬も目元も赤く染まっていた。潤んだ瞳が、睨むように俺を見上げる。
「瀬名」
「紗子ちゃんのこと好きじゃだめなの? なんで責められるの。わたしのなにが間違ってるの」
瀬名、と彼女の言葉をさえぎるように呼びながら、もう一度腕をつかもうとしたときだった。
「――は?」
横から、喜多村の強張った声がした。
「うそ、なに? マジで瀬名と花井って、そういう関係だったってこと?」
どくん、と心臓が鳴る。
喜多村の声からは、さっきまであった怒りの色すら抜け落ちていた。ただかすかに引きつった、動揺のにじむ声で、
「は……きもちわる」
ぼそっと呟いた。その言葉を聞いた瞬間だった。
心臓から熱が引く感覚がして、俺は力任せに瀬名の腕をつかんでいた。無理やりに瀬名を引っ張ろうとしたのだけれど、瀬名の抵抗も全力だった。思いきり手首を回し、つかまれた腕を大きく振り上げる。拍子に瀬名の腕が肩にぶつかり、その勢いで身体が後ろへ押された。
あっと思ったときには、もう遅かった。ぐらりと傾いた俺の身体は、そのまま勢いよく床へ倒れ込んでいた。
ガタンッという大きな音が耳元で鳴ると同時に、背中に硬い感触がぶつかる。痛みに一瞬息が詰まったとき、廊下のほうで小さく悲鳴が上がるのが聞こえた。
「あ、ご、ごめ――」
瀬名の引きつった声がして、俺は反射的に閉じていた目を開ける。突き飛ばされたのだと、理解は一拍遅れて追いついた。
瀬名たちへ注がれていた教室中の視線が、いつの間にか俺に集まっていることに、そこで気づいた。後ろにあった机を巻き込むような形で、床に尻もちをついている。机にぶつけた背中以外とくに痛むところはなかったので、俺はすぐに立ち上がろうとした。けれど途中で、ふと動きが止まった。
すうっと、背中を凍るような冷たさが駆けていった。
俺の前に立つ、瀬名の足元。そこに、スマホが落ちているのが見えた。黒いカバーのついた、見慣れたスマホ。倒れ込んだ拍子にポケットから落ちたのだろうそれの横には、透明のビニール袋も落ちていた。俺がスマホといっしょにポケットに入れていたはずの、ビニール袋が。
「――えっ、なにあれ、髪の毛!?」
最初に耳をつんざいたのは、そんな喜多村の声だった。
目を見開いた彼女の指先が、床の上のビニール袋を指す。瞬間、周りの視線が一斉に〝それ〟に集まるのを、ぞっとするほど鮮明に感じた。
「うわマジだ!」と続けて青山の悲鳴のような声が上がる。
「髪の毛じゃん!」
耳元で、なにかが壊れる音がした。
それはもう決して取り返しのつかないものだと、俺は一瞬で悟った。
「やば、なにこれ!? なんかめっちゃ入ってない?」
「は、なんで? なんでそんなん持ってんの?」
身体から血の気が引く。頭の中が真っ白になる。
喜多村の声を皮切りに、ぎょっとしたような声はそこかしこで弾けた。青山や吉見だけでなく、教室中で。
「え、しかも自分のじゃないよね? あれぜんぶ女子の髪っぽいよ」
「なに、学校で女の子の髪の毛拾って集めてるってこと?」
「は、怖すぎ! やばいんだけど!」
一気に耳を覆った言葉の濁流に、ぐらぐらと視界が揺れる。
早く拾わなければと思うのに、身体が動かない。意識が身体から抜け出したみたいだった。夢の中の出来事のように、すべてが遠い。
そもそも今さら拾ったところで、とっくに手遅れだということはわかっていた。
ずっと自分の中に隠していた、隠しておかなければならなかったもの。それが今、教室の床に落ちている。教室中の視線に、さらされている。
「――きもちわる」
近くで、誰かが呟く声がした。鼓膜に突き刺さるように、それは響いた。
「ガチの変態じゃん、やば」
「うわ無理無理、キモすぎるって」
「髪の毛フェチってやつ? マジでいるんだね、そういうひと」
耳を覆う声が、遠い。ぜんぶ遠い。
次にとるべき行動がわからない。声が出なくて、身体も動かない。ただバカみたいに呆然と、床に落ちたビニール袋を眺めていたときだった。
ふいに、瀬名がそのビニール袋を拾った。
え、と思っている間に横にあったスマホもいっしょに拾った彼女は、続いて無言でこちらへ歩み寄る。そうして床に座り込んだままだった俺の手首をつかむと、ぐいっと上へ引っ張った。
それほど強い力ではなかった。それでもさっきまで動かなかった俺の身体は、不思議とその手に引き上げられるまま立ち上がっていた。
「……瀬名?」
驚いて瀬名の顔を見たけれど、彼女と目は合わなかった。そのまま無言で歩きだした瀬名に引きずられるようにして、俺もよろけながら歩きだす。
背中に、喜多村たちから声が飛んでくることはなかった。教室にいた他の生徒も、廊下に集まっていた野次馬たちも、誰もなにも言わなかった。ただ遠巻きにこちらを見ながら、時折ひそひそと小声でなにかささやき合っていた。
瀬名に手を引かれるまま、早足に教室を出たとき。ふと、廊下に立つ佐橋の姿が目に留まった。
どくん、と心臓が硬い音を立てる。彼はこちらを見ていた。一瞬、たしかに目が合った。だから俺は、佐橋、と思わず口を開きかけて、だけど声は喉を通らなかった。
すぐにその視線を下へ逸らした佐橋は、なにも言わず、ただ俺たちを避けるように、一歩後ろへ下がった。
「あ、羽島羽島」
なにかあったのかと近くのクラスメイトに訊ねようとしたところで、一拍早く佐橋が駆け寄ってくる。
「おまえ、さっき四組の教室の前通ってきた?」
出し抜けに訊ねられ、「いや」と俺は首を横に振ると、
「なんで?」
「や、なんか揉めてるらしくて、今」
「揉めてる?」
「四組で、喜多村と瀬名が」
え、と声をこぼした俺の横を、ふたりの男子がすり抜けていった。「けっこう雰囲気やばそうだって」「マジ?」となんだか楽しげな声でしゃべりながら、四組の教室のほうへ駆けていく。
「え、羽島?」
気づけば、俺は彼らのあとを追うように走りだしていた。後ろで声を上げた佐橋にかまわず、急いで三つ隣の四組の教室まで向かう。
教室の前には、すでに十人ほどの野次馬が集まっていた。
「だからこないだっからさあ、陰キャが出しゃばってくんじゃねえよ!」
近づくにつれまず聞こえてきたのは、そんな喜多村の高い声だった。
野次馬は誰も、中で起こっている揉め事を止める気はないらしい。「うわあ、こわ」「めっちゃキレてんじゃん喜多村」だとか、ただ面白そうにささやき合っている彼らをかき分けるようにして、俺は教室の入り口まで進む。
「だいたいなんなの? このまえまでずっとへらへらオドオドしてたようなやつがさあ」
中を覗けば、教室の真ん中あたりで向かい合っている瀬名と喜多村が見えた。
瀬名はこちらへ背を向けていて、ここからは喜多村の顔だけが見える。眉間にしわを寄せた喜多村は、目の前の瀬名を鋭く睨みつけながら、
「なに花井が死んだ途端イキってんだよ。きしょいんだよ。いちいちうちらの話につっかかってくんな」
喜多村は自分の席の場所に立っていて、机の前には喜多村のほうを向いて座っている青山と吉見もいた。おそらくこのまえのように、喜多村の席に三人集まってしゃべっていたのだろう。なにか瀬名が許しがたいような、紗子の話を。
「じゃあもう、そんなふうに紗子ちゃんのこと話さないで。紗子ちゃんの名前を口にしないで。紗子ちゃんのことなんて、どうせなんにも知らないくせに」
喜多村の席の横に立つ瀬名は、怒りに震える声で喜多村に反駁する。髪の隙間からのぞく彼女の耳が、赤く染まっているのが見えた。
「はあ?」
喜多村が瀬名の言葉に顔をしかめる。ぎゅっと細めた目で瀬名を睨む。
「うっざ。紗子ちゃん紗子ちゃんうるせえんだよ。なに、まさかあんたらってマジでデキてたわけ?」
ふっと喜多村が唇の端を歪めるように笑って、そう吐き捨てたときだった。
「あー、そういえばあたし見た」
それまで黙っていた吉見が、ふいに口を開いた。机に頬杖をつき、面白がるような笑顔で瀬名のほうを見上げながら、
「瀬名と花井が美術室にふたりでいるときにさ、めーっちゃべったりくっついてんの。ぜったい友だちの距離感じゃないってぐらいの近さだったもん」
「あ、それならあたしも見たことある!」
途端、青山もすぐに乗っかってくる。ニヤニヤと、まるで鬼の首を取ったかのような表情で、
「てか、顔めちゃくちゃくっつけてたこともなかった?」
「あったあった! なんか空気感おかしかったよね、あのふたりのあいだだけ」
「ね、やっぱガチでデキてたんじゃないの? べたべたしててキモかったもん。紗子ちゃん紗子ちゃんって、いっつも瀬名が花井の後ろにくっついててさあ」
きゃはは、と青山と吉見が顔を見合わせて笑う。鼓膜を引っかくようなその声に顔が歪むのを感じ、俺が思わず教室の中へ足を踏み入れたときだった。
「……なにが悪いの」
ふいに、瀬名が低く呟く声がした。
よく聞こえなかったのか、青山と吉見が笑うのをやめ、「え?」と訊き返す。
俺も驚いて瀬名のほうを見ると、彼女は身体の横でぐっと拳を握りしめながら、
「わたしが紗子ちゃんのことを好きで、なにが悪いの」
「……は」
「好きだったよ。大好きだった。死ぬほど。わたしは紗子ちゃんを愛してた」
ひと息にまくし立てられた瀬名の気迫に、一瞬、青山も吉見も喜多村も言葉に詰まったように黙った。
「ねえ、なにが悪いの」
そのあいだに、瀬名は繰り返す。投げつけるような、だけど今も泣きだしそうな声で。
「あんなにきれいだったんだもん。そりゃ好きになるよ。紗子ちゃん以上にきれいなひとなんて、この世にいなかったんだもん。世界でいちばんきれいなひとのこと、世界でいちばん好きになって、それのなにが悪いの」
「瀬名」
瞬間、粟立つような焦燥が背中を駆けた。
気づいたときには、俺は瀬名に駆け寄り彼女の腕をつかんでいた。
だめだ、となぜか直感的に思った。あふれでたような瀬名の声は、自暴自棄な色がにじんでいて。
――きっと彼女は今、言ってはいけないことを言っている。ずっと自分の中に隠していた、隠しておかなければならないことを。
「もう行こう、瀬名」
だから俺はとっさに、瀬名の腕を引いて教室から連れ出そうとした。多目的教室のときと同じように。
だけどその手は、「離して」という鋭い声とともに強く振り払われて、
「だってそうでしょ。なにもおかしくない」
そこではじめて見えた瀬名の顔は、頬も目元も赤く染まっていた。潤んだ瞳が、睨むように俺を見上げる。
「瀬名」
「紗子ちゃんのこと好きじゃだめなの? なんで責められるの。わたしのなにが間違ってるの」
瀬名、と彼女の言葉をさえぎるように呼びながら、もう一度腕をつかもうとしたときだった。
「――は?」
横から、喜多村の強張った声がした。
「うそ、なに? マジで瀬名と花井って、そういう関係だったってこと?」
どくん、と心臓が鳴る。
喜多村の声からは、さっきまであった怒りの色すら抜け落ちていた。ただかすかに引きつった、動揺のにじむ声で、
「は……きもちわる」
ぼそっと呟いた。その言葉を聞いた瞬間だった。
心臓から熱が引く感覚がして、俺は力任せに瀬名の腕をつかんでいた。無理やりに瀬名を引っ張ろうとしたのだけれど、瀬名の抵抗も全力だった。思いきり手首を回し、つかまれた腕を大きく振り上げる。拍子に瀬名の腕が肩にぶつかり、その勢いで身体が後ろへ押された。
あっと思ったときには、もう遅かった。ぐらりと傾いた俺の身体は、そのまま勢いよく床へ倒れ込んでいた。
ガタンッという大きな音が耳元で鳴ると同時に、背中に硬い感触がぶつかる。痛みに一瞬息が詰まったとき、廊下のほうで小さく悲鳴が上がるのが聞こえた。
「あ、ご、ごめ――」
瀬名の引きつった声がして、俺は反射的に閉じていた目を開ける。突き飛ばされたのだと、理解は一拍遅れて追いついた。
瀬名たちへ注がれていた教室中の視線が、いつの間にか俺に集まっていることに、そこで気づいた。後ろにあった机を巻き込むような形で、床に尻もちをついている。机にぶつけた背中以外とくに痛むところはなかったので、俺はすぐに立ち上がろうとした。けれど途中で、ふと動きが止まった。
すうっと、背中を凍るような冷たさが駆けていった。
俺の前に立つ、瀬名の足元。そこに、スマホが落ちているのが見えた。黒いカバーのついた、見慣れたスマホ。倒れ込んだ拍子にポケットから落ちたのだろうそれの横には、透明のビニール袋も落ちていた。俺がスマホといっしょにポケットに入れていたはずの、ビニール袋が。
「――えっ、なにあれ、髪の毛!?」
最初に耳をつんざいたのは、そんな喜多村の声だった。
目を見開いた彼女の指先が、床の上のビニール袋を指す。瞬間、周りの視線が一斉に〝それ〟に集まるのを、ぞっとするほど鮮明に感じた。
「うわマジだ!」と続けて青山の悲鳴のような声が上がる。
「髪の毛じゃん!」
耳元で、なにかが壊れる音がした。
それはもう決して取り返しのつかないものだと、俺は一瞬で悟った。
「やば、なにこれ!? なんかめっちゃ入ってない?」
「は、なんで? なんでそんなん持ってんの?」
身体から血の気が引く。頭の中が真っ白になる。
喜多村の声を皮切りに、ぎょっとしたような声はそこかしこで弾けた。青山や吉見だけでなく、教室中で。
「え、しかも自分のじゃないよね? あれぜんぶ女子の髪っぽいよ」
「なに、学校で女の子の髪の毛拾って集めてるってこと?」
「は、怖すぎ! やばいんだけど!」
一気に耳を覆った言葉の濁流に、ぐらぐらと視界が揺れる。
早く拾わなければと思うのに、身体が動かない。意識が身体から抜け出したみたいだった。夢の中の出来事のように、すべてが遠い。
そもそも今さら拾ったところで、とっくに手遅れだということはわかっていた。
ずっと自分の中に隠していた、隠しておかなければならなかったもの。それが今、教室の床に落ちている。教室中の視線に、さらされている。
「――きもちわる」
近くで、誰かが呟く声がした。鼓膜に突き刺さるように、それは響いた。
「ガチの変態じゃん、やば」
「うわ無理無理、キモすぎるって」
「髪の毛フェチってやつ? マジでいるんだね、そういうひと」
耳を覆う声が、遠い。ぜんぶ遠い。
次にとるべき行動がわからない。声が出なくて、身体も動かない。ただバカみたいに呆然と、床に落ちたビニール袋を眺めていたときだった。
ふいに、瀬名がそのビニール袋を拾った。
え、と思っている間に横にあったスマホもいっしょに拾った彼女は、続いて無言でこちらへ歩み寄る。そうして床に座り込んだままだった俺の手首をつかむと、ぐいっと上へ引っ張った。
それほど強い力ではなかった。それでもさっきまで動かなかった俺の身体は、不思議とその手に引き上げられるまま立ち上がっていた。
「……瀬名?」
驚いて瀬名の顔を見たけれど、彼女と目は合わなかった。そのまま無言で歩きだした瀬名に引きずられるようにして、俺もよろけながら歩きだす。
背中に、喜多村たちから声が飛んでくることはなかった。教室にいた他の生徒も、廊下に集まっていた野次馬たちも、誰もなにも言わなかった。ただ遠巻きにこちらを見ながら、時折ひそひそと小声でなにかささやき合っていた。
瀬名に手を引かれるまま、早足に教室を出たとき。ふと、廊下に立つ佐橋の姿が目に留まった。
どくん、と心臓が硬い音を立てる。彼はこちらを見ていた。一瞬、たしかに目が合った。だから俺は、佐橋、と思わず口を開きかけて、だけど声は喉を通らなかった。
すぐにその視線を下へ逸らした佐橋は、なにも言わず、ただ俺たちを避けるように、一歩後ろへ下がった。



