「紗子! それどうした!?」
ある日の昼休みだった。廊下の向こうから歩いてきた紗子が怪我をしているのに気づいて、俺はぎょっとして駆け寄った。
「あ……さっきね、そこで転んじゃって」
紗子はちょっと恥ずかしそうにへらっと笑って、指先で頬を掻く。
その笑顔がどこか硬くて、ふいに胸の奥がざわりと波立った。
「転んだ?」
訊き返しながら、俺は彼女の血のにじんだ膝に目をやる。よく見れば、スカートには少し砂埃がついていた。
「そこってどこで?」
あそこ、と紗子は後ろを振り返って指さす。
「そこの、昇降口でちょっと」
「昇降口?」
紗子の指さしたほうを視線でたどった俺は、思わず眉を寄せた。だだっ広い昇降口の床はタイル張りで、段差もなにもない。
「……そこで転んだのか?」
「うん。なんでか、つまずいちゃって」
「なんでか?」
「うん。なんでか」
紗子はあいかわらず指先で頬を掻きながら、苦笑する。その仕草にもなんとなく煮え切らない口調にも、胸の奥がざわざわした。
込み上げた嫌な予感を振り払うように、俺は視線を上げる。そうして紗子の顔を見ると、「保健室に行こう」と言った。
「最近さ、侑ちゃん、美術室来なくなったね?」
保健室の先生が不在だったため、消毒液とガーゼを借りて俺が紗子の怪我の処置をしていると、パイプ椅子に座った紗子がぽつりと言った。
「うん、ちょっと」
一瞬どきっとして手が止まってしまったのを、俺はあわててごまかすように、
「最近、なんか忙しくて」
「まあ、うちのサッカー部強いしね。忙しそうだよね」
実際はそんなこともなかったけれど、納得したような紗子の言葉には、ただ曖昧に頷いておく。
たしかに最近、放課後に俺が紗子のいる美術室へ行くことはなくなっていた。
瀬名が美術部に入ったから、というのも理由のひとつにはある。俺が瀬名に苦手意識があるように、瀬名のほうも、俺のことはあまり好きじゃなさそうだったから。
瀬名といっしょにいるとき紗子に俺が話しかけると、たいてい瀬名は顔を強張らせ、逃げるようにその場を離れた。何度か美術室に遊びにいったときも、瀬名は俺とは常に距離をとっていた。それまでは紗子の隣で紗子を眺めていたのに、俺が来ると即座に離れた位置で絵を描きはじめたり。
あからさまにそういう態度をとられるとさすがにこちらも嫌な気分になって、瀬名とは関わらないようになった。最初のころは、紗子と仲の良い瀬名とは俺もそれなりに仲良くしておこうとか思っていたけれど、今となってはすっかりそんな気持ちは萎んでいた。
――だけど美術室へ行かなくなった理由は、それだけではなかった。
美術室だけでなく、紗子と待ち合わせをしていた近所の公園にも、紗子の家にも。
俺はもう、行かないようにしていたから。
「……はい、終わり」
「わ、ありがとう! さすが侑ちゃん」
最後に絆創膏を貼って手当を終えれば、紗子が笑顔になって立ち上がる。
顔を上げると、彼女の長い髪がふわりと揺れるのが見えて、俺はあわてて目を逸らした。
さっきまで目の前にあった、彼女の細い脚は平気だったのに。つゆほども、感情は動かなかったのに。途端に速くなる鼓動や熱くなる身体が気持ち悪くて、俺は彼女から視線を外したまま、
「……あの、さ」
「うん?」
「あんまり、無理はするなよ」
そんなことしか言えない自分が、つくづく嫌になった。
紗子は一瞬きょとんとしたあとで、うん、と笑って、
「ぜんぜん大丈夫だよ、私は」
本当なら、俺がずっと彼女の傍にいて守ってやりたかった。俺がいちばんつらかったとき、彼女がそうしてくれたように。今度は俺が、彼女のいちばん傍にいたかった。
だけどそのころの俺には、どうしてもそれができなかった。
できないくせに、瀬名のことを苦々しく思っていた。
もっと強くなって、嫌なことは自分で嫌と言えるぐらいになってほしい、とか。これ以上紗子によりかかって、紗子を苦しめないでほしい、とか。
なにもできない自分は棚に上げて、瀬名に対してただ、そんなことを願っていた。
***
ある日の昼休みだった。廊下の向こうから歩いてきた紗子が怪我をしているのに気づいて、俺はぎょっとして駆け寄った。
「あ……さっきね、そこで転んじゃって」
紗子はちょっと恥ずかしそうにへらっと笑って、指先で頬を掻く。
その笑顔がどこか硬くて、ふいに胸の奥がざわりと波立った。
「転んだ?」
訊き返しながら、俺は彼女の血のにじんだ膝に目をやる。よく見れば、スカートには少し砂埃がついていた。
「そこってどこで?」
あそこ、と紗子は後ろを振り返って指さす。
「そこの、昇降口でちょっと」
「昇降口?」
紗子の指さしたほうを視線でたどった俺は、思わず眉を寄せた。だだっ広い昇降口の床はタイル張りで、段差もなにもない。
「……そこで転んだのか?」
「うん。なんでか、つまずいちゃって」
「なんでか?」
「うん。なんでか」
紗子はあいかわらず指先で頬を掻きながら、苦笑する。その仕草にもなんとなく煮え切らない口調にも、胸の奥がざわざわした。
込み上げた嫌な予感を振り払うように、俺は視線を上げる。そうして紗子の顔を見ると、「保健室に行こう」と言った。
「最近さ、侑ちゃん、美術室来なくなったね?」
保健室の先生が不在だったため、消毒液とガーゼを借りて俺が紗子の怪我の処置をしていると、パイプ椅子に座った紗子がぽつりと言った。
「うん、ちょっと」
一瞬どきっとして手が止まってしまったのを、俺はあわててごまかすように、
「最近、なんか忙しくて」
「まあ、うちのサッカー部強いしね。忙しそうだよね」
実際はそんなこともなかったけれど、納得したような紗子の言葉には、ただ曖昧に頷いておく。
たしかに最近、放課後に俺が紗子のいる美術室へ行くことはなくなっていた。
瀬名が美術部に入ったから、というのも理由のひとつにはある。俺が瀬名に苦手意識があるように、瀬名のほうも、俺のことはあまり好きじゃなさそうだったから。
瀬名といっしょにいるとき紗子に俺が話しかけると、たいてい瀬名は顔を強張らせ、逃げるようにその場を離れた。何度か美術室に遊びにいったときも、瀬名は俺とは常に距離をとっていた。それまでは紗子の隣で紗子を眺めていたのに、俺が来ると即座に離れた位置で絵を描きはじめたり。
あからさまにそういう態度をとられるとさすがにこちらも嫌な気分になって、瀬名とは関わらないようになった。最初のころは、紗子と仲の良い瀬名とは俺もそれなりに仲良くしておこうとか思っていたけれど、今となってはすっかりそんな気持ちは萎んでいた。
――だけど美術室へ行かなくなった理由は、それだけではなかった。
美術室だけでなく、紗子と待ち合わせをしていた近所の公園にも、紗子の家にも。
俺はもう、行かないようにしていたから。
「……はい、終わり」
「わ、ありがとう! さすが侑ちゃん」
最後に絆創膏を貼って手当を終えれば、紗子が笑顔になって立ち上がる。
顔を上げると、彼女の長い髪がふわりと揺れるのが見えて、俺はあわてて目を逸らした。
さっきまで目の前にあった、彼女の細い脚は平気だったのに。つゆほども、感情は動かなかったのに。途端に速くなる鼓動や熱くなる身体が気持ち悪くて、俺は彼女から視線を外したまま、
「……あの、さ」
「うん?」
「あんまり、無理はするなよ」
そんなことしか言えない自分が、つくづく嫌になった。
紗子は一瞬きょとんとしたあとで、うん、と笑って、
「ぜんぜん大丈夫だよ、私は」
本当なら、俺がずっと彼女の傍にいて守ってやりたかった。俺がいちばんつらかったとき、彼女がそうしてくれたように。今度は俺が、彼女のいちばん傍にいたかった。
だけどそのころの俺には、どうしてもそれができなかった。
できないくせに、瀬名のことを苦々しく思っていた。
もっと強くなって、嫌なことは自分で嫌と言えるぐらいになってほしい、とか。これ以上紗子によりかかって、紗子を苦しめないでほしい、とか。
なにもできない自分は棚に上げて、瀬名に対してただ、そんなことを願っていた。
***



