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 ――侑ちゃん、と。
 紗子は俺のことをそう呼んだ。

「ねね、侑ちゃん、見てこれ」
 言いながら、紗子が笑顔で鞄から一枚の画用紙を取り出す。
 中学一年生の秋だった。久しぶりに放課後紗子と時間が合って、しかも瀬名が用事でいなかったので、ふたりでいっしょに帰っていたときのことだった。
 俺が自分の性癖を自覚して、紗子に必要以上に近づくのはやめようと決めた日から。俺は紗子の家に遊びにいったり、放課後待ち合わせをしたり、なるべく彼女とふたりきりで過ごす時間は作らないようにしていた。
 とはいえ仲違いをしたわけではないし、ぱったりと関係が途絶えることはなかった。紗子は変わらず俺に話しかけてきたし、俺もそんな彼女を避けるようなことまではしなかった。
 ただ小学校のころのような、”いちばんの友だち”と呼べる関係性ではなくなった。あくまでただの友だちとして、校内で顔を合わせれば軽く話したりするぐらいの間柄になった。
 それぐらいにしておこうと、俺が決めた。

 彼女の長い髪が風になびいて、ふわりと甘い匂いが漂ってくる。それに頭の芯がぐらりと揺れるような感覚がして、俺は極力彼女のほうから目を逸らしていたのだけれど、
「じゃーんっ」
 弾んだ効果音をつけて彼女が画用紙を広げたので、仕方なくそちらへ目をやれば、そこにはひとりの女の子の絵が描かれていた。
 紗子が描いた絵ではないのは、すぐにわかった。「なにこれ」と俺は目をすがめる。
「なんの絵?」
「小春が描いた絵」
「瀬名が?」
「私を描いてくれたんだよ」
 正直、あまりうまくはなかった。というより、俺とどっこいどっこいの画力に見えた。線は粗いし拙くて、ところどころ歪んでもいる。紗子が描かれているというのも、たぶん教えられなければわからなかった。
「かわいいでしょ?」
 だけど紗子はうれしそうに、目を細めてその絵を眺めながら、
「私を描きたいって言って、描いてくれたの」
「……瀬名って、たしか美術部だったよな」
「そうだよ。このまえ入ってくれた」
 俺が感想に困って無言でその絵を眺めていると、紗子は俺の困惑を察したように、
「小春、絵はあんまり描かないらしくてね」
「うん。みたいだな」
 俺が言うのもなんだけれど、明らかに初心者の絵だ。頑張って丁寧に描いているのは伝わるけれど。
 すぐに納得して相槌を打ってから、「……え、じゃあ」と俺はふと眉を寄せる。
「なんで瀬名、美術部に入ったんだよ」
「私と放課後いっしょに過ごしたかったから、だって。かわいいよね」
 そう言った紗子の声はうれしそうに弾んでいたけれど、俺はなんだか、あまり笑えなかった。
 ……かわいい、というか。
 口の中でぼそりと呟いて、瀬名の描いた絵に目を落とす。さすがに続く言葉を、口には出せなかったけれど。

 中学に入学して少し経ったころに、紗子が瀬名小春と急速に仲良くなったのは知っていた。
 そのきっかけが、あまり良いとは言えないものだったのも。
 瀬名とは違う小学校だったから、小学生時代の瀬名のことは知らない。ただ瀬名と同じ小学校だったやついわく、瀬名は小学生のころから、いわゆる〝いじられキャラ〟だったらしい。それも愛されているというより、見下されているタイプの。
 クラスでいちばん背が低くて、顔立ちも幼くて、性格は大人しくて気弱。
 なにを頼んでもノーと言わない瀬名は、しだいにクラスメイトたちから面倒ごとを押しつけられるようになって、いつしかそれが当たり前になっていったという。
 そして小学生時代に出来上がったそういう関係性は、中学校でもきっちり引き継がれた。同じ小学校だったやつらは変わらず瀬名に面倒ごとを押しつけて、そんな姿を見た周りにも、瀬名は雑に扱ってもいい存在なのだ、という認識がすぐにうっすらと広まった。
 さらに運悪く、瀬名のいた一年三組には、気が強くて性格が悪くて、暇つぶしを求めているタイプのリーダー格女子がいた。
 なにかきっかけがあったのかは知らないけれど、とにかく彼女はすぐに瀬名に目をつけた。悪質な嫌がらせは、五月には始まっていた。最初は小学校のころと同様、配りものや掃除当番を押しつけられたりするぐらいだったようだけれど、やがて教科書を捨てるだとか靴を隠すだとか、より具体的な攻撃に移っていった。

 そして紗子は、そんな瀬名と同じ、一年三組だった。
 紗子は決して、瀬名に対するそれを許さなかった。迷うことなく瀬名の側について、瀬名を助けようとした。
 瀬名が掃除当番を押しつけられそうになっていたら、割って入って「自分でやりなよ」と突っ返したり。瀬名の教科書がなくなればいっしょに探して、焼却炉の中に捨てられていたそれを、制服が汚れるのもかまわず拾いにいったり。さらにそのあと、「これ捨てたの誰ですか」とクラス会で糾弾したり。
 そんなふうに動いたのは、あのクラスで紗子ひとりだけだった。

「もうさ、やめたら」
 そんなことを続けているうちに、しだいに紗子まで瀬名とともにクラスで孤立していき、嫌がらせの対象も紗子にまで広がってきたころ。一度だけ、耐えかねて紗子に言ってしまったことがある。
 瀬名とはただ友だちとして傍にいるだけにして、クラスメイトに突っかかったり、反撃したりするのはもうやめたほうがいいんじゃないのか、と。そうすればクラスで浮くのは仕方なくとも、これ以上紗子まで攻撃されることはないのではないか、と俺は思って。
 だけど、
「明らかに間違ったことしてる人たちを、見逃せってこと?」
 紗子はまっすぐに俺の目を見据えながら、真顔で言葉を返した。
「いや、見逃せっていうか」
「だってどう考えても、あっちが悪いことしてるんだよ?」
「それはそうだけどさ」
「私は、無理だな」
 あまりにまっすぐに問い返されて、咄嗟に口ごもってしまった俺に、紗子はこれ以上なくはっきりとした口調で告げる。
「私、自分が正しくないって思うことはしたくないもん。自分の生き方は、自分で決めたいの」
 そこには、自分はなにがあってもその意志を曲げないという強さがあった。それだけはわかって、俺はそれ以上、もうなにも言えなかった。
「それにね」
 そこでふっと照れたように表情を崩した紗子が、前髪に触れる。撫でるように動いた指先の上を、さらりと前髪がすべり落ちていく。
「私、小春といっしょにいると安心するんだ」
 その動きを思わず目で追ってしまってから、はっとした。
「安心?」
 あわてて目を逸らしながら、訊き返す。
 うん、と紗子ははにかむように笑って頷いて。
「だから私が、小春と友だちでいたいの。小春に笑っていてほしいの。私のためでもあるんだよ。私が小春を、どうしても助けたいのは」

 せめて瀬名がもう少し強い人間だったら、と思ったことがある。
 小学生のころの紗子は、社交的というほどではなかったにしろ、それなりに友だちはいたし、クラスの輪の中にはちゃんと入れていた。
 だけど瀬名といっしょにいるようになってからの紗子は、変わった。瀬名以外の人間に対して、どこか排他的になった。学校にいるあいだ、四六時中瀬名といっしょにいるようになって、瀬名以外といる姿を見なくなった。瀬名側に立つクラスメイトが紗子以外に現れなかったから、そうならざるを得なかったのかもしれないけれど。
 紗子が学校に報告したりいろいろと動いたことで、瀬名へのいじめはやがて止んだけれど、その後も紗子と瀬名の関係は変わらなかった。紗子を追うように美術部にまで入った瀬名と、それからも紗子はずっとふたりきりでいた。

「瀬名ってさ、あれ、いつも美術部でなにしてんの」
 美術部での瀬名は、そこでも常に紗子にひっついていた。紗子の隣に座り、自身はなにも描かずに、真剣に絵を描く紗子の横顔を眺めていた。
 何度か美術室を覗いた際に見かけたその奇妙な光景がどうしても理解できず、俺は紗子に訊ねたことがある。「瀬名、いつもなんも描かずにずっと紗子のこと眺めてるよな」と。
 紗子はすぐに思い当たったようで、ああ、とちょっと照れたように笑って、
「小春、私の顔が好きなんだって」
「は?」
「だから見ていたいんだって。至福の時間らしいよ。絵を描いてる私を横で眺めてるのが」
 そう言ってうれしそうに笑う紗子の手には、水のペットボトルが握られていた。
 紗子が瀬名といっしょにいるようになってもうひとつ変わったことが、それだった。
 中一の夏ごろから、紗子はよく水を飲むようになった。大好きだったはずのオレンジジュースやカフェオレをぱったりとやめて、飲み物はお茶か水しか口にしなくなった。
「そのほうがお肌にいいから」と紗子は言っていた。
 そのころから紗子は、やたらとそういうことを口にするようになっていた。
 まったく太っているわけではないのに、ダイエットを始めたと言ってお菓子類を一切食べなくなったり、爪を熱心に磨きだしたり、リップを塗るようになったり。自分の見た目の美しさに、ものすごくこだわるようになった。
 瀬名がそういう見た目にこだわるタイプというわけではなかったから、瀬名の影響というよりは、単に紗子が中学生になって大人びただけかもしれないけれど。
 とにかくそのころから、紗子は急激に垢抜けた。もともとの素材が良かっただけに、かなり人目を引く華やかな容姿になった。
 それで自信がついたのか、紗子が自画像を描きはじめたのも、そのころからだった。
 同時に自身の容姿を誇るような発言をたびたびするようになり、それが鼻についたらしい他の女子たちから、ちょっと陰口を叩かれるようになったのも。