授業中の廊下は当然ながらひとけがなく、しんと静まり返っていた。
 先生には「保健室へ行く」と言って教室を抜けてきたのだけれど、俺の足がふらふらと向かっていたのは北校舎のほうだった。
 渡り廊下を抜け、階段を三階まで上がる。特別教室ばかりが並ぶ北校舎の廊下はよりいっそうしんとしていて、歩いていると足音がやけに大きく反響した。
 放課後、ときどきここを訪れていたときは、もっとにぎやかだった。音楽室から吹奏楽部の演奏が聞こえていて、そこここから明るい笑い声が響いていて、その中には紗子の声も混じっていた。

 長い廊下のちょうど真ん中あたりに、美術室はある。
 紗子は美術部だったので、放課後はほとんど毎日ここにいた。同じく美術部である瀬名と、ふたりで絵を描いていた。
 もちろん美術部員はふたりだけではなかったのだけれど、ほぼ活動に参加していない幽霊部員だったり、外でスケッチをしている人だとかが多かったらしく、俺が覗きにきたとき、美術室にいるのは紗子と瀬名だけであることがほとんどだった。
 とはいえ、瀬名が絵を描いている姿はあまり見たことがない。そういうときのふたりは、たいてい真剣に絵を描いている紗子の横に、なにをするでもなく、ぼうっと紗子を眺める瀬名がいた。時折、ぽつぽつと控えめな声で言葉を交わしながら。
 瀬名は退屈じゃないのだろうか、とか、あんなに見つめられて紗子は居心地が悪くないのだろうか、とか、はたから見ればちょっと不思議な光景だったのだけれど、ふたりにとってはそれが日常らしかった。そうしているふたりのあいだにはいつも、ひどく穏やかで落ち着いた空気が流れていた。

 鍵が閉まっているかと思った美術室の戸は、引けばカララと音を立てて開いた。
 油絵具のつんとした匂いが鼻を刺す。いつ来ても変わらない、この場所にだけ充満する独特の匂い。
 そこは、当然無人だと思っていた。だから俺はなにも確認することなく、無言で中に入って戸を閉めたところで、
「――羽島くん?」
 ふいに傍から聞こえてきた声に、一瞬息が止まった。
「え」
 驚いて声のしたほうを振り向くと、教室の後方に瀬名が立っていた。奥にある準備室に入ろうとするところだったのか、ドアノブに手をかけた姿勢で、顔だけこちらを向いている。
「瀬名?」
「え、どうしたの?」
 瀬名も驚いたように、目を丸くして俺を見ていた。
「今授業中じゃ……」
 戸惑ったような彼女の声に、「瀬名こそ」と俺は返す。
「なにしてんだよ、ここで」
 訊ねる声が、思わず硬くなる。
 瀬名と顔を合わせるのは、二日前に渡り廊下で話したとき以来だった。
 ――羽島くんが好きなのは、紗子ちゃんの髪の毛でしょ。
 そうぶつけられた、あのあと。俺はなにも返せず、逃げるようにその場を去った。もっと問い詰めたかったことはあったはずなのに、それも途中で放り出して。
 思い出すと、またあの日の瀬名の声が耳の奥で響いた気がして、思わずブレザーのポケットに上から触れたとき、
「あ、うちのクラスは今自習で……わたしは、絵を探しにきてて」
 瀬名は足元へ視線を落として、どこかもごもごとした調子で答えた。なぜか少し怯えたような歯切れの悪い口調に、俺はふと眉根を寄せる。
「絵?」
 訊き返した声は、つい詰問するような口調になった。
「なんの?」
「……紗子ちゃんの、最後の絵」
 瀬名はあいかわらずうつむいたまま、小さな声で答える。
 紗子の、最後の絵。
 それがなにを指すのかは、すぐわかった。
 ――もう少しで完成しそうなんだよね。
 そう言って美術室へ向かった紗子の背中が、ふとまぶたの裏に浮かぶ。
 俺が見た最後の、生きている紗子。あのあと美術室へ行った彼女は、そこでいつものように瀬名といっしょに絵を描いて――その日の夜に、死んだ。

「……なんで?」
「え」
「なんで紗子の絵を探してんの?」
 訊ねると、瀬名は顔を上げて俺を見た。そこで俺の向ける疑念に気づいたのかもしれない。
「……なんでって」
 口を開いた瀬名の声には、さっきまでとは違う険しさが含まれていた。
「わたしのもの、だから」
「は?」
 間の抜けた声を漏らした俺の顔を、瀬名はまっすぐに見据えて、
「紗子ちゃん、わたしにくれるって言ってたの。今描いてる絵、小春にもらってほしい、って。そう言われてたから、だから」
「もらってほしいって言われてたのに、その絵がどこにあるのかわかんねえの?」
 彼女の言葉をさえぎって訊ねれば、瀬名は言葉に詰まったように押し黙った。うつむいて、軽く唇を噛む。痛いところを突かれたみたいなその反応に、「なんだそれ」と低く俺は呟くと、
「……なあ、本当なの? それ」
「え」
「紗子が瀬名に、絵をあげるって言ったっての」
 ふっとよぎった疑問を口にすると、瀬名は目を見張った。不快感を顔に浮かべ、「本当だよ」と投げつけるように返す。
「ちゃんと約束してた。完成したら小春にあげるって、紗子ちゃん言ってくれた」
「完成したのか? その絵って」
「した、みたい」
 短く返した瀬名は、そこで一度口をつぐんだあとで、
「……紗子ちゃんが、死んだ日に。紗子ちゃん、その絵を描き上げてた」
「死んだ日に?」
「うん」
 足元に視線を落とした瀬名の顔を、俺はしばし見つめてから、
「描き上げたのに、紗子はその場で絵を瀬名に渡さなかったってこと?」
 うん、と瀬名はうつむいたまま小さく頷く。そうしてまた軽く唇を噛んでから、
「まだ今はあげられないって。美術室に置いておくから取りにいって、って言われた」
「まだ今は?」
「理由は、わからないけど」
 とにかく。話を打ち切るように言って、瀬名は顔を上げると、
「本当に、紗子ちゃんはわたしに言ってくれたの。絵をくれるって、ちゃんと約束してたの」
 それでもまだ俺の目に浮かんでいた疑念を、瀬名は読み取ったのだろう。ぎゅっと目をすがめた彼女は、まっすぐに俺の顔を見据えながら。
「――わたしは、紗子ちゃんの親友だったんだから」
 あなたと違って。言外にそんな意味が含まれていそうな言葉を、強い語気で続けた。
「……親友」
 瀬名の口にした単語を、思わず拾って繰り返したとき。
 ふいに、ざらりとした嫌悪感が胸を撫でた。
 親友。たしかにふたりがそう呼べる関係性だったのは知っている。実際に紗子が瀬名のことをそう呼んでいたのも聞いたことがある。
 たしかにある、けれど。
「……本当に?」
「え」
「本当に親友だって思ってたのか? 瀬名は、紗子のこと」
 さっきより大きく見開かれた瀬名の目に、今度こそ火が灯る。怒りに頬が紅潮する。唇がわななくように震え、瀬名がなにか言いかけたのがわかった。だけどそれより先に、「だって」と俺は続けた。
「瀬名は、紗子の顔だけが好きだったんだろ」
 ――そうだ。知っていた。
 瀬名と紗子がはじめて出会った日。俺も、ふたりといっしょにいた。
 紗子が落とした消しゴムを届けにきてくれた瀬名は、紗子の顔をひと目見た瞬間から、彼女に釘づけになっていた。隣にいる俺のほうへは一瞬たりとも視線を寄越すことなく、恍惚とした表情で、ひたすら紗子を見つめていた。
 それから、ふたりはすぐに仲良くなった。
 そしてそのころから、紗子は変わった。
 もともと、紗子は整ったきれいな顔立ちをしていた。だけどあまりおしゃれに気を遣うタイプではなかったからか、どちらかというと地味で、ぱっと目を引くような容姿ではなかった。よく見れば花井ってかわいいよな、と陰でときどき噂されていたぐらいで。
 そんな彼女が、瀬名に出会ってからはみるみるうちに垢抜けた。一年も経つころには、『よく見ればかわいい』から、『誰もが認める美少女』になっていた。

 ――小春、私の顔が好きらしいから。
 そしてそのころの紗子は、よく言っていた。
 ――私のいちばん好きなところは顔なんだって。小春言ってた。だからね、私もっときれいになりたいの。小春が私の顔を、ずっと好きでいてくれるように。
 紗子はうれしそうに笑っていたけれど、俺はその言葉にざわりとした嫌悪感が湧いたのを覚えている。
 紗子に対してではない。友人のいちばん好きなところとして、顔を挙げたという瀬名に対して。
 理解できなかったからではなく、どうしようもなく〝わかって〟しまったからこその、同族嫌悪が。

「――そうだよ」
 思い出して、そのときの嫌悪感がまた這い上がってきたときだった。
 ふいに、瀬名のひどく静かな声がした。
「は……」
「わたしは紗子ちゃんの顔が好きだった。大好きだった。死ぬほど」
 そこにはなんの躊躇も、迷いもなかった。
 俺の顔に留めた視線を、彼女はじっと揺らすことなく、
「愛してた。だから、わたしは」
 そのとき。ふいに、どくん、と心臓が揺れた。
 ――きれいだったの。
 璃子さんの声が、頭の中に響く。
 紗子が死んだ翌日。俺に状況を教えてくれたときの、彼女の言葉が。
 ――死んでる紗子を見て。私、真っ先にそう思ったの。自分でもおかしいって思うけど、でもそれぐらいきれいだったんだ、紗子。作られたみたいに。紗子は。
 ――〝きれいに〟死んでた。
「紗子ちゃんが死んで、よかったと思ってる」
 瀬名の声は、たしかに鼓膜を揺らした。
 はずなのに、その意味を理解するには、少し時間がかかった。
「……は?」
 あっけにとられて瀬名の顔を見れば、彼女もまっすぐに俺を見ていて、
「紗子ちゃんは」
 その瞳を逸らすことなく、瀬名は続けた。震えも掠れもしない、はっきりとした声で。
「あの日、あの場所できれいに死ねて。永遠に、美しいままで死んでいけて。それでよかったんだって、わたしは思ってる。あの日、そう思った」
 つかの間、思考が白く弾け飛んだ。息が止まる。
 気づいたときには、俺は瀬名の制服の襟元をつかんでいた。身体の底から込み上げた熱に、手が震える。「は?」と息苦しい喉から押し出した声も、ひどく掠れた。
「マジで言ってんの? おまえ、紗子が死んでよかったって」
「うん」
 それでも瀬名の表情は静かなままだった。苦しさにかすかに眉根を寄せながらも、俺の顔からは視線を逸らさずに。
「よかったよ。これでわたしの中にいる紗子ちゃんは、永遠にきれいなままでしょ」
 は、と俺が口を開くと同時に、瀬名は乱暴に俺の手を振り払った。強く握りしめていたつもりだったその手は、彼女の小さな手に押されるままあっけなく引きはがされる。勢いで身体まで軽くよろけた。
 瀬名はそれきりこちらを一瞥もせず、踵を返した。そうしてそのまま、足早に美術室を出てく。
 つかの間、俺はそんな彼女の背中を呆然と眺めたあとで、
「瀬名」
 はっと我に返ると同時に、あわてて彼女を追って美術室を出た。廊下を歩く彼女に駆け寄り名前を呼ぶ。それでも瀬名が足を止める気配はなく、「待てよ」とその肩に手を伸ばしかけたとき。

「――うそっ、自殺?」
 ふいに聞こえてきた高い声に、俺も瀬名も反射的に動きを止めた。
 姿は見えないけれど女子の声だった。しかも、聞き覚えのある。
「なんか、らしいよー」
 それに応えるべつの女子の声も、すぐに続いて。
「一組の子が言ってたもん。あんまり公にしないでってことになってるらしいけど」
「マジ? 事故じゃなくて自殺なの?」
 話し声が聞こえてくるのは、前方にある多目的教室からだった。「でもなんで?」とさらにもうひとり、べつの女子の声も会話に加わる。
「なんかあったの? 自殺するようなこと」
「や、あたしもそこまでは知らないけど。べつに仲良くなかったし」
「え、え、でもさあ」
 声量を絞ることなく噂話に花を咲かせている彼女たちの声は、廊下まで丸聞こえで、
「花井って、自殺しそうなタイプには見えなかったよねえ」
 ひとりが口にしたその名前も、嫌になるほどくっきりと、耳に届いた。
「わかるー」とすぐに同意の声が続く。
「なんていうか、ナルシっぽいところあったじゃん? 自分かわいいみたいなことも言ってたし」
「あー言ってた言ってた! あたしも聞いたことある、それ」
 聞いているうちに、声のひとつが喜多村(きたむら)乃愛(のあ)のものだと気づいた。四組のいわゆる一軍女子で、以前から紗子とはなんとなく折り合いが悪いようだった彼女。
 ひとりが喜多村なら、あとのふたりは取り巻きの青山(あおやま)吉見(よしみ)あたりなのだろう。
「てかさ、知ってる? 花井が美術部でいつも描いてたの、あれ自分の絵だったらしいよ」
「自分? なにそれ、自画像ってこと?」
「そうそう。基本自画像しか描かない人だったって」
「え、やば! マジでナルシじゃん」
 気づけば俺は吸い寄せられるように、多目的教室のほうへ歩いていた。
 入り口のところから中を覗く。いたのは、思ったとおりの三人だった。ひとつの机を囲むようにして、窓際の席に固まって座っている。
「てか、あたしその絵見たことあるけど、ふつうにめちゃくちゃ美少女だったよ。自認あれなんだってびっくりしたもん」
「そりゃ自分かわいいと思ってなきゃ自画像なんて描かないでしょー」
「しかもあんな熱心に!」
 全員が入り口に背を向ける格好で座っていたので、こちらには誰も気づいていないようだった。
 誰かが発言するたび、残りふたりの揶揄するような笑い声が交じる。鼓膜を引っかくようなその声に顔をしかめながら、俺が教室に入ろうとしたときだった。

 さっと、俺の横を瀬名が追い抜いていった。
 早足で教室に入った彼女がまっすぐに向かったのは、三人のもとではなく、前方の棚に置かれた花瓶だった。白い花の生けられたそれを持ち上げ、そこからおもむろに花を抜く。そうして踵を返し、今度は喜多村たちのもとへ歩いていったかと思うと、
「――きゃあっ!」
 花瓶に入っていた水を、彼女たちへ向けて思いきりぶちまけた。
「は、なに!?」
 がたんっ、と派手な音を立て、いちばん手前にいた喜多村が立ち上がる。拍子に、彼女の茶色い髪から水滴が落ちた。
「なんなの、なにしてんの!?」
 混乱した様子で濡れた髪に触れながら、喜多村が叫ぶ。彼女は激高した目で瀬名を睨んだけれど、
「やめて」
 瀬名はぴくりとも怯まずに、低く言った。
「は……」
「紗子ちゃんのこと話さないで!」
 瀬名のこんな大きな声を聞いたのは、たぶんはじめてだった。
 出遅れた俺はその場に突っ立ったまま、驚いてそんな瀬名の背中を見ていた。
 喜多村も一瞬不意を打たれたように固まっていたけれど、
「――は?」
 すぐに顔をしかめ、乱暴に瀬名の肩をつかんだ。「なにおまえ」と怒りに頬を紅潮させながら、
「ふざけんな、なにしてくれて」
「紗子ちゃんは」
 それでも瀬名は、その場から一歩も動かなかった。目の前の喜多村へ向けた顔を下げることもなく、ひどくはっきりとした声で、
「ふつうにめちゃくちゃ美少女だった」
「……は?」
「天才的にかわいかった、紗子ちゃんの顔は。だからなんにも間違ったことなんか言ってない。自分の顔があれだけかわいかったら、自画像だって描くに決まってるもん。いちばん近くにいちばん良いモデルがいるんだよ。そりゃ描くよ。当たり前だよ。なんにも、なんにもおかしなことじゃない」
 瀬名が言葉を継ぐたび、小さな肩が大きく上下する。
 こちらに背を向けている彼女の表情は見えない。ただ髪のあいだから覗く彼女の耳が赤くなっているのは、かすかに見えた。
 一気にまくし立てた瀬名に、つかの間、困惑したように喜多村が言葉を詰まらせる。
 そのあいだに俺は早足でふたりのもとへ歩み寄ると、喜多村の腕をつかんだ。ぐっと引っ張り、その手を瀬名から引きはがす。そこではじめて喜多村は俺の存在に気づいたようで、驚いたようにこちらを見たけれど、
「もう行こう」
 俺は瀬名のほうを見て短く告げると、彼女の手をつかんで歩きだした。
 そのまま、瀬名を引きずるようにして教室を出る。
 喜多村たちのほうは、一度も振り返らなかった。