もっと殺伐としているのかと思った警察署の中は、案外、のどかな話し声であふれていた。
窓口にはお年寄りが多く、免許の更新や返納といった単語があちらこちらから聞こえてくる。壁には、飲酒運転撲滅のポスターや指名手配犯の顔写真などが所せましと貼られていた。
免許交付受付、交通安全指導など、横にずらりと並んだ窓口を眺めながら俺はちょっと迷う。
どこの受付も用件とは違う。だけど、その他受付なんて窓口もないので、とりあえず空いていた車庫証明受付のところへ行ってみた。
「あの」
「あ、はーい」
カウンターの前に立つと、手前の席に座っていた女性の職員がすぐに気づいて来てくれた。「こんにちは」と笑顔で俺の前に立つ。
「車庫証明の申請で――」
「あ、いえ」
慣れたように話を進めかけた彼女を、俺はあわててさえぎってから、
「花井紗子さんの」
「え?」
「二月四日に死んだ、花井紗子さんのことで」
早口に告げれば、にこやかに微笑んでいた女性の顔が、ふっと真顔になった。
え、と困惑した声をこぼした彼女は、書類を取り出しかけていた手を止めて、
「あ……ええと、どういったご用件で――」
「自殺じゃないです」
「え」
「紗子は自殺じゃない。ぜったい違うはずなんです。なのになんで、警察がそう判断したのかわからなくて、それが聞きたくて来ました。担当者の方と話したくて」
「あ、ちょ、ちょっと待ってください」
彼女は困ったように後ろを振り向くと、奥に並んでいるデスクのほうをちらっと見渡してから、
「今は、その件の担当者が不在でして」
「じゃあ待ちます。いつ戻って」
「侑くん」
きますか、と訊ねた俺の語尾に重なるように、後ろから俺の名前を呼ぶ声がした。
「なにしてるの、侑くん」
驚いて振り向くと、璃子さんが立っていた。
彼女と会うのは、紗子の葬式以来だった。
黒いコートを着て薄紫色のマフラーを巻いた璃子さんは、ぎゅっと眉を寄せて俺の顔を見つめる。そうして俺がなにか返すより先に、
「――すみません」
俺に対応していた職員さんのほうへふっと顔を向け、短く告げた。
「もう大丈夫です、帰りますから。お騒がせしました」
え、と声をこぼした俺の腕を、璃子さんはいきなりつかんできた。かと思うと、そのまま俺を引きずるようにして歩きだして、
「は? ちょ」
わけがわからないまま、気づけば俺は璃子さんといっしょに警察署を出ていた。
「璃子さ……」
「乗って」
困惑する俺にかまわず、璃子さんは駐車場に停まっている赤いミニのところまで歩いていく。見慣れた璃子さんの愛車だった。
「いっしょに帰ろ」
そこでようやく俺の腕を放した璃子さんは、片手で車の鍵を開けながら、
「家まで送ったげるから」
「……いや、俺は」
「いいから、ほら乗って」
言いかけた俺をさえぎり、璃子さんは助手席のドアを開ける。そうしてほとんど押し込むように、俺を車に乗せた。
璃子さんの車に乗るのははじめてだった。
見かけるたびかっこいいなと思っていたその車は、黒で統一された内装もおしゃれで、そこで運転している璃子さんの姿と合わせて完璧に絵になっていた。
車内にはなんの音楽もかかっていなくて、「侑くん」と口を開いた璃子さんの声が、やけに大きく響く。
「学校は? 今日平日でしょ。まだ二時だけど」
「サボりました」
短く返せば、璃子さんは「……そう」と呟いただけで、それ以上なにも追及はしてこなかった。
「璃子さんは」
代わりに俺が口を開く。
「なんで、警察署に来てたんですか」
「ちょっと手続き関係でね。親が忙しいらしくて、私が代わりにいろいろやってるの」
短く答えたあとで、「ていうか」と璃子さんはすぐに言葉を継いで、
「どっちかというと、それはこっちの台詞なんだけど。なんで侑くんが警察にいるのよ。びっくりした」
「……それは」
「いや、だいたい聞こえちゃったんだけどね、さっき。ごめん」
俺が言葉に詰まると、璃子さんは少し間を置いてから、
「……侑くんはさ」
「はい」
「紗子が、自殺じゃなかったと思ってるんだね」
「はい」
はっきりとした声で頷けば、璃子さんは黙った。
その沈黙と、さっきの訊き方だけで充分わかった。いや、先日の葬式の時点で、もうわかってはいたけれど。
璃子さんは。
璃子さん、も。
「紗子は自殺したと、思ってるんですね」
「……うん」
思ってる、と璃子さんは静かな声で告げた。
なんで、という言葉はもう出てこなかった。
真っ暗な絶望とあきらめが、すでに胸の奥に横たわっていた。
ここで俺がなにを言っても、またあの目を向けられるだけなのは、嫌になるほど予想がついた。物分かりの悪いかわいそうな子どもを見るような、困惑と哀れみを湛えた目。ここ数日で、何度も向けられた目。
璃子さんは、それ以上なにも言わなかった。だから俺も、それきり黙って窓の外を見ていた。見慣れた街の景色が後ろへ流れていくのを、ただじっと見つめていた。
その日の夜、佐橋から電話がかかってきた。無視していてもなかなか切れないので、十コール目ぐらいで仕方なく電話に出ると、
『おまえさ、なんで学校来ないの』
開口一番、佐橋の大きな声が聞こえてきて、俺はスマホを少し耳から離した。
真っ暗な窓の外に目をやりながら、「ちょっと具合悪くて」と俺が適当に返せば、
『嘘つけ。いいから、明日はもういい加減来いよ。ぜったいだぞ。来なかったら家まで行くからな。いいか、来いよ』
「はあ?」
一方的にそれだけ告げると、俺がなにか言うのを待たず電話は切れた。
なんだあいつ。ひとり呟いて、俺はスマホを無造作にベッドへ放る。その隣に俺も寝転がり、目を閉じた。
今日交わした璃子さんとの会話が、脳裏をよぎる。それを追い出したくて、強く目を瞑り、布団を頭まで被る。
早く眠りたいと思った。
最近は、いつもそうだった。
担任の先生が、はじめて見るような深刻な顔で朝のホームルームに現れた、あの日から。俺はずっと、夜になるたびそんなことを思うようになった。
早く眠って、自分が過ごしたその日を夢にしてしまいたかった。夢になるのではないかと願った。眠る前はいつも、本気でそんなことを願った。
だけどけっきょく夢になどなることはなく、いつも、目の覚めた世界に紗子はいなかった。朝が来るたび俺はその事実に絶望するのに、それでもまた夜になると同じことを願っていた。
なにもかも見えない振りをして、聞き分けのない子どものように、ただひたすらに願っていた。
窓口にはお年寄りが多く、免許の更新や返納といった単語があちらこちらから聞こえてくる。壁には、飲酒運転撲滅のポスターや指名手配犯の顔写真などが所せましと貼られていた。
免許交付受付、交通安全指導など、横にずらりと並んだ窓口を眺めながら俺はちょっと迷う。
どこの受付も用件とは違う。だけど、その他受付なんて窓口もないので、とりあえず空いていた車庫証明受付のところへ行ってみた。
「あの」
「あ、はーい」
カウンターの前に立つと、手前の席に座っていた女性の職員がすぐに気づいて来てくれた。「こんにちは」と笑顔で俺の前に立つ。
「車庫証明の申請で――」
「あ、いえ」
慣れたように話を進めかけた彼女を、俺はあわててさえぎってから、
「花井紗子さんの」
「え?」
「二月四日に死んだ、花井紗子さんのことで」
早口に告げれば、にこやかに微笑んでいた女性の顔が、ふっと真顔になった。
え、と困惑した声をこぼした彼女は、書類を取り出しかけていた手を止めて、
「あ……ええと、どういったご用件で――」
「自殺じゃないです」
「え」
「紗子は自殺じゃない。ぜったい違うはずなんです。なのになんで、警察がそう判断したのかわからなくて、それが聞きたくて来ました。担当者の方と話したくて」
「あ、ちょ、ちょっと待ってください」
彼女は困ったように後ろを振り向くと、奥に並んでいるデスクのほうをちらっと見渡してから、
「今は、その件の担当者が不在でして」
「じゃあ待ちます。いつ戻って」
「侑くん」
きますか、と訊ねた俺の語尾に重なるように、後ろから俺の名前を呼ぶ声がした。
「なにしてるの、侑くん」
驚いて振り向くと、璃子さんが立っていた。
彼女と会うのは、紗子の葬式以来だった。
黒いコートを着て薄紫色のマフラーを巻いた璃子さんは、ぎゅっと眉を寄せて俺の顔を見つめる。そうして俺がなにか返すより先に、
「――すみません」
俺に対応していた職員さんのほうへふっと顔を向け、短く告げた。
「もう大丈夫です、帰りますから。お騒がせしました」
え、と声をこぼした俺の腕を、璃子さんはいきなりつかんできた。かと思うと、そのまま俺を引きずるようにして歩きだして、
「は? ちょ」
わけがわからないまま、気づけば俺は璃子さんといっしょに警察署を出ていた。
「璃子さ……」
「乗って」
困惑する俺にかまわず、璃子さんは駐車場に停まっている赤いミニのところまで歩いていく。見慣れた璃子さんの愛車だった。
「いっしょに帰ろ」
そこでようやく俺の腕を放した璃子さんは、片手で車の鍵を開けながら、
「家まで送ったげるから」
「……いや、俺は」
「いいから、ほら乗って」
言いかけた俺をさえぎり、璃子さんは助手席のドアを開ける。そうしてほとんど押し込むように、俺を車に乗せた。
璃子さんの車に乗るのははじめてだった。
見かけるたびかっこいいなと思っていたその車は、黒で統一された内装もおしゃれで、そこで運転している璃子さんの姿と合わせて完璧に絵になっていた。
車内にはなんの音楽もかかっていなくて、「侑くん」と口を開いた璃子さんの声が、やけに大きく響く。
「学校は? 今日平日でしょ。まだ二時だけど」
「サボりました」
短く返せば、璃子さんは「……そう」と呟いただけで、それ以上なにも追及はしてこなかった。
「璃子さんは」
代わりに俺が口を開く。
「なんで、警察署に来てたんですか」
「ちょっと手続き関係でね。親が忙しいらしくて、私が代わりにいろいろやってるの」
短く答えたあとで、「ていうか」と璃子さんはすぐに言葉を継いで、
「どっちかというと、それはこっちの台詞なんだけど。なんで侑くんが警察にいるのよ。びっくりした」
「……それは」
「いや、だいたい聞こえちゃったんだけどね、さっき。ごめん」
俺が言葉に詰まると、璃子さんは少し間を置いてから、
「……侑くんはさ」
「はい」
「紗子が、自殺じゃなかったと思ってるんだね」
「はい」
はっきりとした声で頷けば、璃子さんは黙った。
その沈黙と、さっきの訊き方だけで充分わかった。いや、先日の葬式の時点で、もうわかってはいたけれど。
璃子さんは。
璃子さん、も。
「紗子は自殺したと、思ってるんですね」
「……うん」
思ってる、と璃子さんは静かな声で告げた。
なんで、という言葉はもう出てこなかった。
真っ暗な絶望とあきらめが、すでに胸の奥に横たわっていた。
ここで俺がなにを言っても、またあの目を向けられるだけなのは、嫌になるほど予想がついた。物分かりの悪いかわいそうな子どもを見るような、困惑と哀れみを湛えた目。ここ数日で、何度も向けられた目。
璃子さんは、それ以上なにも言わなかった。だから俺も、それきり黙って窓の外を見ていた。見慣れた街の景色が後ろへ流れていくのを、ただじっと見つめていた。
その日の夜、佐橋から電話がかかってきた。無視していてもなかなか切れないので、十コール目ぐらいで仕方なく電話に出ると、
『おまえさ、なんで学校来ないの』
開口一番、佐橋の大きな声が聞こえてきて、俺はスマホを少し耳から離した。
真っ暗な窓の外に目をやりながら、「ちょっと具合悪くて」と俺が適当に返せば、
『嘘つけ。いいから、明日はもういい加減来いよ。ぜったいだぞ。来なかったら家まで行くからな。いいか、来いよ』
「はあ?」
一方的にそれだけ告げると、俺がなにか言うのを待たず電話は切れた。
なんだあいつ。ひとり呟いて、俺はスマホを無造作にベッドへ放る。その隣に俺も寝転がり、目を閉じた。
今日交わした璃子さんとの会話が、脳裏をよぎる。それを追い出したくて、強く目を瞑り、布団を頭まで被る。
早く眠りたいと思った。
最近は、いつもそうだった。
担任の先生が、はじめて見るような深刻な顔で朝のホームルームに現れた、あの日から。俺はずっと、夜になるたびそんなことを思うようになった。
早く眠って、自分が過ごしたその日を夢にしてしまいたかった。夢になるのではないかと願った。眠る前はいつも、本気でそんなことを願った。
だけどけっきょく夢になどなることはなく、いつも、目の覚めた世界に紗子はいなかった。朝が来るたび俺はその事実に絶望するのに、それでもまた夜になると同じことを願っていた。
なにもかも見えない振りをして、聞き分けのない子どものように、ただひたすらに願っていた。



