水底に届く光の歌を。

 学校が始まった。家にいても学校にいても、作曲に没頭する時間以外はあまり変わらない。息苦しさも、生きづらさも。
 でも、この間の雪斗の言葉のおかげで、いくつか心のおもりは減ったように感じる。「困難は分割せよ」とはその通りなのかもしれない。才能がないという苦しみ、苦しみを抱いているという自己嫌悪。この二つに分けて、雪斗はそれぞれにアドバイスをくれた。だから、片方がすっと軽くなった。

 雪斗は不思議な人だと思う。出会ったことのないタイプだ。透明な、綺麗な心を持っている。でも、ふとしたときに見せる悲しい表情が、雪斗が消えてしまうんじゃないかという不安を呼び起こす。
 実際、リアルで繋がることができないのだ。いつ会えなくなってもおかしくない。そう考えると、胸が締め付けられる。いつもの苦しさとは違う、切ない気持ちだ。雪斗はいつも、私に新しい感情を芽生えさせてくれる。

 学校に行く準備をしつつ、なんとなくスマホを見ると、通知がありえないほどたくさん溜まっていた。びっくりしてSNSを開く。オールインPとして作ったアカウントへの引用が、とんでもないくらいバズっていた。

『この曲めっちゃいい!全人類聴くべき!』

 その人はちょっとしたインフルエンサーらしい。その人が紹介してくれたおかげで、そのファンがこぞって聴いてくれたみたいだ。再生回数も一気に伸びている。1曲紹介してもらえたことで、連鎖的に他の曲も伸びていた。そして、アカウントのフォロワーやチャンネル登録者も一夜で面白いくらい増えた。

 やっぱり、私には才能がある。そうだ、これでも一応、あの人の娘なんだから。そう考えるのは癪だが。

 コメントにはひとつひとつ返信した。いくら才能があっても、楽曲が溢れるこの世の中で掘り出してもらえない曲だってたくさんある。見つけてもらえたからには、感謝を伝えたい。
 賞賛のコメントばかりだった。こんな感覚は初めてだ。やっと、認めてもらえた。思わず頬が弛んでしまう。

 これであの人を見返すことができるかもしれない。帰ったら言ってみよう。

 私は浮かれながら学校へと向かった。

「莉音!おっはよ〜!」

「おはよ!」

 机にリュックを下ろした私の元へ、舞香が駆け寄ってくる。いつも通り。ぐいっと下に心臓が引っ張られる。これもいつも通り。でも、数々の賞賛の声がもう一度心臓を引き上げてくれた。落ちそうになる口角が元に戻る。

「あれ?莉音、今日いつもよりさらに元気だけど、いいことあった?」

 長く一緒にいれば、表情にも鋭くなるものだ。頬が弛んでいるのがバレてしまったのだろう。

「ちょっとね」

 自慢げにこう言うと、ええ〜なんて言いながら、別の話題に逸れていく。

「あ!そういえばさ、冬休み課題、やった?」

「え、ああ、うん!一応やったよ、めんどかったけど」

 そんなものあったな、と遠いことのように思い出す。全然遠くないのに。冬休みに入ってすぐ、DTMに集中するためにパパッと終わらせた。答えがあったやつは写したりもしたが、まあ内容はなんとなくわかっているから大丈夫だろう。作曲の時間を増やしたかったんだ。仕方ない。

「それな〜。特にさあ、あの音楽の課題。意味わかんないよ〜」

 ドキッとする。そう、この冬休みに音楽の課題があったのだ。コンテストに出品するために短い曲を1曲作れ、という課題。私はいつも作曲する感覚でちゃちゃっと終わらせたが、音楽に触れたことのない人にとっては大変だろう。

「あ、でも莉音はピアノ弾けるんだっけ?私楽器弾けないから適当に音符並べちゃった〜」

 心臓がドキドキしている。ピアノ。そのワードはあまり出したくない。この話題は良くない。ボロが出かねないからだ。早く話題を逸らさないと。

「まあ、そんなんでいいんじゃない?ちゃんと見てないだろうし。それよりさ、物理の課題の方が重くなかった?」

「物理?あー、あのプリントか〜。めんどかった!いきなり応用問題ばっかりで全然わかんなかったし」

 よかった。うまく逸らすことができた。これで大丈夫。

 その日の7時間目は音楽だった。なんだか嫌な予感がする。
 私は音楽の授業が嫌いだ。有名な音楽家の娘というだけで勝手に伴奏に選ばれたり、何かと水瀬徹(みなせとおる)の演奏を引っ張ってきたり。私は水瀬莉音なのに。

 悪い予感というものはだいたい当たるものだ。今回もそう。

「今日は冬休み課題で作ってきてもらった曲を1人ずつ発表してもらいます。ピアノが弾ける人は自分で弾いてもいいです。弾けない人は先生が楽譜を見て弾きます。それぞれ、どんな思いを込めて作ったのかを語ってください」

 音楽室に不満の声が溢れる。発表なんてみんな嫌いなんだから、当たり前だ。このままなくなってしまえばいいのに。でも、そんなはずはなくて、生徒の反対を押し切って授業は始まった。
 出席番号順に発表は進んでいく。私は苗字の一文字目が「み」だから最後の方。舞香は「志賀」だから割と最初の方だ。舞香の方を見ると、真っ青な顔をしている。適当に音符を並べた曲を弾かれるのが怖いからだろう。

 ああ、音楽ってこんなに嫌なものじゃないのに。みんな、音楽が嫌いになるように仕向ける。あの人も、この音楽教師も。私は嫌いにならなかっただけマシか。

「次は舞香さん。わかりました、先生が弾きますね」

 その場で立ち上がった舞香はガクガクと震えている。教師が眉を顰めながら音を鳴らす。クラスのみんなは息を潜めていた。高校生にもなれば、発表が嫌な気持ちは誰にでも手に取るようにわかるし、仮にそれが不協和音だろうがなんだろうが、バカにすることなどない。
 教師が楽譜を弾き終わる。当たり前だが、曲にはなっていなかった。適当に音符を並べただけでは、いい曲などできるはずはない。教室が静まり返る。舞香は全てを諦めたような顔をしていた。

「舞香さん、この曲にはどんな意味を込めたのですか?」

 それでも、授業は進んでいく。時間内に全員分聞くため。滞りなく進んでいく。

「えっと……雑音、です。日常の雑音を、並べました」

 震えながら、なんとか言い訳を繰り出す舞香。うまい言い訳だと思った。そう言ってしまえば、音楽性が見い出せる。ナイス、と心で声をかける。クラス中が思っていることだろう。

「なるほど、素敵な視点ですね。次作るときは、小節ごとに拍子分だけ音符を入れ込むようにしましょう。では、次の人」

 舞香は崩れ落ちるように座った。きっと舞香の心臓は今でもドクドクと嫌な音を立てているのだろう。なんだか、昔のレッスンを思い出す。
 いつだって、私たち子どもは正解を出すことを求められているのだ。正解なんてないはずなのに、相手がこう言って欲しいという答えを汲み取って、その通りにこなすことを求められている。理不尽な話だ。教育なんて大人の都合だと思う。

 そんなことを考えていると、自分の番がやってくる。私がピアノを弾けるのは教師にバレているから、自分で弾くしかない。作曲の時と同じ。そう言い聞かせて、嫌な気持ちに蓋をして、グランドピアノの前に座る。自分の曲を弾く。

 弾き始めたら、もういいや、と思えた。全てを忘れて、作曲中の自分を取り戻す。感情を乗せて、音を奏でていく。周りの尊敬の視線も、教師の興奮の視線も、何もかもどうでも良かった。ああ、私は作曲するために、この世に生まれてきたんだ。そんな全能感。
 きっと、曲がバズったことで自信がついたのだろう。私は自分に酔うことの愚かさに気づきながらも、演奏に酔った。

「素晴らしい!流石は水瀬徹の娘さんね!この曲は何を込めて作ったのですか?」

 体中に電流が走ったような気がした。教室がざわめくのを感じる。お願いだから、その名前を出さないでよ。高校では知られていないのだから。

「水瀬徹ってあのピアニスト?」

「うっそ!うちのお母さん、めっちゃファンなんだよね」

「誰それ、俺知らん」

 いろんな声が聞こえて、眼前がぐらぐら揺れる。ピアノ椅子に座っているのに、貧血を起こしたみたいな感覚。

「水瀬さん……?そういえば、この間、お父様のコンサートに行ってきたの。本当に素晴らしかった。やっぱり莉音さんにも音楽家の血が流れているのね」

 追い打ちをかけるように、そんなことを言う教師。もう嫌だ。私は”水瀬徹の娘”じゃない。水瀬莉音なのに!
 怒りの次にやってきたのは、絶望だった。ああ、誰も私を見てくれないんだ。私の音楽家としての才能の有無しか、見ていないんだ。

「先生、莉音の具合が悪そうなので保健室に連れて行きます!」

 驚いて顔を上げると、舞香が前に出てきていた。私に手を差し伸べてくれている。

「え?あらそう?気づかなくてごめんなさいね。行ってらっしゃい」

 一瞬戸惑った私に、舞香は困ったように微笑んだ。私は彼女の手を取り、音楽室の外へと向かった。舞香の手は温かかった。
 保健室ではない方向へとずんずん進んでいく舞香に、尋ねる。

「え?ちょっと、どこに行くの?」

「うーん、屋上は寒いだろうし、空き教室とか?」

「え?なんで?」

「いいから、ついてきてよ」

 空き教室に辿り着く。周りの教室から、授業をしている声が聞こえる。窓際の隣同士の席に座った。

「ごめんね、ずっと隠してて」

 私は自分の家族のことを一切話したことがなかった。素直に、謝罪がこぼれる。

「いいよいいよ、なんかあるんだろうなって思ってたし」

「え?」

「家族の話とか音楽の話とか、莉音は一切話さないじゃん?まあ別にそういうこともあるかなって思ってたんだけど、最近だんだんと、あえて避けてるんじゃないかって思うことが多くなったのよ。だから、きっと何かあるんだろうなって。でも、私は莉音の好きな時に喋って欲しかったからさ。それなのにこうやって邪魔が入っちゃって、あの先生が無理やり莉音の隠したいことをこじ開け始めたから、嫌になって連れ出してきちゃった」

 舞香はてへっなんて言っている。
 そうか、バレていたのか。心臓がバクバクと鳴っているのは、すごい勢いで歩いてきたから、ではないだろう。

「もちろん、莉音が話したくなったらでいいんだけどさ、いつか、教えてくれないかな。私たち、学校では一緒にいるけどさ、あんまりお互いの深いとこ知らないじゃん?私はもっと仲良くなりたいんだ」

 真っ直ぐに私の瞳を見つめて言う舞香。吸い込まれてしまいそうなほど純粋な思いに、私は応えたいと思った。

「重いよ?」

「いいよ。覚悟してる。ってか私たち、もう高校生だし。耐性あるっしょ」

「じゃあ、今話したい」

「うん、聞かせて」

 また、私は全部をしゃべった。雪斗の時と同じように。家族のこと、苦しみの感覚、才能探しのこと、どうしてこれまで隠していたのか。
 話すにつれて、舞香のビー玉のような瞳から透明なものが溢れて流れ落ちていくのが見えた。

 話し終えると、ぎゅっと強く抱きしめられ、びっくりしてしまう。

「よく耐えたね、これまで。偉いよ、偉い。莉音はすごいよ」

 ボロボロと涙を流す目の前の友達に、つられてこちらも泣けてきてしまう。

「重いとか関係ないよ。莉音が重いものを背負ってるなら、それを手分けして一緒に背負ってあげるのが友達じゃん。だから、これからはしゃべってよ」

「うん」

「莉音は才能を探したいんだと思うし、私はそれを尊重したい。でも、もしどの分野でも見つからなくたって、私は莉音の友達でいたいよ。私だって何にもできないし、課題やってこなくて先生に怒られてばっかだし、さっきの発表だって死ぬかと思うくらい恥ずかしかったんだからあ!」

「うん」

 最後の方は話が支離滅裂だが、私のために感情をむき出しにしてくれていることが、何よりも嬉しかった。私を見てくれていることが、どうしようもなく嬉しかった。

 その日はチャイムが鳴るのも気づかないまま、2人で抱きしめ合って泣き続けた。



♪*。



 家に帰ると、すぐに夕食の時間だった。あの人に伝えよう。私にはピアノを弾く才能がなかったが、作曲の才能はあった。やっと、見返せる。
 舞香が私の根本の部分を否定せずに向き合ってくれたから、すっきりした気分であの人に向き合える。そんな気がする。

 いつも通り、音楽の話が飛び交うテーブル。から揚げを一つ食べて、弱い発言権でも適用できる合間を探す。才能への確信からか、いつもよりスッと言葉が出てきた。

「あの、先生。私、ボーカロイドを使って曲を作ったのですが、それが今朝、10万再生を突破しました。ぜひ、聴いてみてほしいんですが……」

 話し始めはよかったのに、先生の表情が変わらなくて、怖くなって後ろが萎んでいってしまう。

「ボーカロイドだと?そんなの音楽ではない!ふん、これだからクラシックのわからんやつは」

 一蹴されてしまった。
 ああ、ダメなんだ。こうなってしまったら、反論は許されない。呆気なく終わってしまった。10万再生でもダメなんだ。そして、きっとこの先何万回再生されようと結果は変わらないのだろう。

「ボカロ?え?お姉ちゃんってオタクだったの?」

「10万って結構すごいんじゃない?」

「え〜、でも自分の姉がボカロPってちょっと恥ずいかも」

 妹弟たちは好き勝手言う。ああ、そうだ。この子たちとは住んでいる世界が違うんだ。この子たちは当たり前に発言権を持っている。私がどんなことを考えて、どんな思いで今の言葉を発したか、これまでどれだけ苦しい思いをしてきたか、何も知らないんだ。仕方ない。
 お母さんも困った顔をしているだけで、庇ってはくれない。

 ピアノ以外の才能があっても意味がないのだ。結局、先生だったあの人は自分が求める理想の子どもが欲しいだけで、ピアノの才能がある子どもが欲しいだけで、何かに突出していたとしても、それがピアノでなければ見向きもしないのだろう。

 考えてみれば、すぐにわかることだ。何を浮かれていたんだろう。あの人が私なんかを認めるはずないのだ。どうあったって私とあの人は同じタイミングで音を鳴らしたとしても、不協和音にしかならないのだろう。

 私はもう何も喋らず、黙々とご飯を食べ進め、小さくごちそうさまと言って部屋に戻った。1人きりになっても、涙は出なかった。

「私、何してたんだろう。何を求めてるんだろう」

 小さなつぶやきは服に落ちた雪の結晶のように、じわりと溶けて消えた。
 結局のところ、私は何のために曲を作っていたのだろうか。ピアノの才能がなくて悔しかったから?認めてくれないあの人を見返すため?才能があるんだという自信を持つため?
 なんだかどれも違うような気がして、迷子になったような気分だ。これまで、別の道で才能を見つけられれば、目的は果たされると思っていた。でも、果たされなかった。もう、どうしたらいいかわからない。ぽっかりと穴が空いたような気もするし、最初からあった穴に今更気づいたような気もする。

 才能はあったのに、水底に沈んでいるそれを掴みに行ったことで、さらに息苦しくなった気がする。ああ、なんてこの家は生きづらいのだろう。
 音楽は素敵なものなのに。それすらももう、手放してしまいたい。
 
 誰か、助けて。もがき苦しむ私を、水面まで連れて行って。誰か、誰か。



 雪斗……。




♪*。




 目を覚ますと、もやの中にいた。溺れかけている人のように、じたばたしながら公園に辿り着く。そのまま橋まで直行した。側から見れば変人だろうが、そんなことは関係ない。

「雪斗!」

 その姿を見つけた途端、わっと涙が溢れ出る。もう嫌だよ、助けて。
 
 雪斗は迷子の子どものように号泣する私をそっと抱きしめてくれた。

「また、ベンチに行こうか」

 泣きながら頷いた私の手を引いて、広場のベンチに座る。まだ早い時間だからだろうか、周りにはあまり人がいない。

 私が泣き止むのを、雪斗はずっと待っていてくれた。その優しさに、かえって心が痛んだ。

「何があったか、聞いてもいいかな」

「今日の朝起きたらね、私の投稿した曲がバズってて、10万再生くらい行ってたの」

「ええ?すごいじゃんか」

 雪斗は不思議そうにしている。それはそうだ。ここまでだったら、ただの吉報でしかない。私だって本当に嬉しかった。いや、今でもその嬉しさは変わらない。

「それでね、私はそれで才能の証明ができたんじゃないかって思ったの。自惚れかもしれないけど、界隈で10万再生って言ったら結構すごいことだし、今もどんどん伸びてるから。自分には作曲の才能があったって思ったの。思いたかっただけかもしれないけどね」

 また雪が降ってきた。本当に毎日のように雪が降るんだ、雪国は。ゆっくりと落ちてくる白い粒が綺麗で、なんだか切なくなった。

「これでやっと『先生だったあの人』を見返せるって思った。それで、夕食のとき、自分が発言できそうな合間を縫って、あの人の機嫌を損ねないように慎重に言葉を選んで、ボカロ曲を聴いてみて欲しいって言ったの。そうしたらね……」

 また、目に膜が張る感じがした。

「ボーカロイドなんて音楽ではないって。一蹴されちゃった」

 雪斗は眉を顰める。

「わからないんだ、もう。何のために頑張ってるのか、自分の目的が何だったのか、これからどうすればいいのか。才能があっても、それがピアノの才能じゃなければ見返したことにはならないんだって思って。そんなの、無理じゃんか……」

 ぎゅっと強く握りしめた拳の上に、雪斗の手が柔らかく重なる。冷たいのに、温かい。支えられているみたいで、心強い。

「何を期待していたんだろう。もう、諦めた方がいいのかな」

「——何を?」

「あの人を見返すの」

 自分で言葉にして、すとんと腑に落ちた。もうやめた方がいいんじゃないか。期待するだけ無駄なんじゃないか。どこかでずっと思っていた。でも、そうしたら、今までの全てが無駄になる気がして、なんだか怖い。

「家族ってなんだろうね」

 雪斗がつぶやく。ビー玉のような瞳は、虚空を見つめていた。

「莉音はさ、本当に見返すために頑張ってきたのかな?」

 どういうことだろう。隣に座っているのに、雪斗が遠くに感じられる。目の前がぐらぐらする。ああ、まただ。何かショックなことがあると、いつもこうなる。でも、今ショックなことって……。

「言っちゃいけないことかもしれないんだけど、本当はさ、お父さんに振り向いて欲しいんじゃないのかな」

 ずしん、と心臓にとてつもなく大きなおもりが落ちてくる。

「ち、違うよ。私はただ、あの人に見捨てられたのが悔しくて、私にだって才能があるって証明したかったんだよ。反骨心だよ」

 そんなこと、ありえない。否定したい。あの人に振り向いてほしいだなんて、そんなこと。だって、こんなにも恨んでいるのに。過去の厳しいレッスンのこと、捨て駒のように私を切り捨てたこと、何一つ許していないというのに。

「莉音。悲劇のヒロインになるのは大事なことだけど、だからと言って向き合うことから逃げちゃダメだよ」

「なんでよ。私はちゃんと向き合ってるよ!」

「ううん、認めたくないことを認めないのは向き合ってるとは言えないよ」

 掠れているはずの雪斗の声が、凛と響く。
 
「だって、だって、こんなにも恨んでいるのに。大嫌いなのに!」

 突然、自分が2人になったかのように感じた。1人は認めたくない事実から目を背け、激昂する自分。もう1人は、それを冷静に俯瞰する自分。初めての感覚に戸惑う。
 私は、本当に才能が欲しいのだろうか?

 頭の中でぐるぐるといろんな光景、感情が回る。電灯の明かりでうっすらと見える雪が地面に静かに落ちていくように、一つの収束地点に向かって答えのようなものが生まれ落ちていく。

 違う。才能は手段でしかなかったんだ、初めから。

「私は——『私』を見てほしかったんだ」

 認めてしまったことの悔しさに思わず唇を噛む。才能があってもなくても、水瀬莉音という人間を見て欲しい。でも、見てくれないから才能が欲しい。そうして、私は、才能にこだわる愚かな人間になっていったんだ。

「ひどいこと言ってごめん。でも、逃げていることに気づかずに才能にこだわる莉音、苦しそうだったから」

 雪斗の温かい微笑みが、心のわだかまりを溶かしていく。悔しさも、「私」を見てくれない悲しさも寂しさも、雪斗が隣にいてくれるだけで、薄れるような気がした。

「ううん、私こそ、ごめん。ありがとう、雪斗はいつも大事なことに気づかせてくれるね」

 一瞬だけ、雪斗の顔が歪んだ気がした。すぐに元の笑顔に戻ったから、気のせいか、と思い直す。

「あーあ、これから何しようかな〜」

 おどけたように言う私に、ふふっと笑う雪斗。

「作曲は続けないの?待ってる人、たくさんいると思うけど」

「え?」

「僕もその1人だし」

 照れたように笑ってそう言う彼は、やっぱり綺麗だった。写真を撮りたいな、と思うが、カメラは出てきてくれない。写真を現実に持って帰れないからだろうか。
 そして、曲を待っていると言われるのは純粋に嬉しい。

「そうだね。続けるよ、私も作ってるとき楽しいし」

「よかった」

 水底から水面を見上げると、光が差し込んでいる。やっと見つけた暖かな光。安心して、その方へと泳いでいく。もがく必要はもうなさそうだ。そろそろ息ができるかもしれない。

「あとね、そういえば、友達に全部話せたんだ」

「え?」

 私は今日の音楽の授業の話をする。友情は決して底浅いものではなかった。そしてそれを気づかせてくれたのは——。

「ありがとう、雪斗。雪斗が最初に受け止めてくれてなかったら、私は今日も話せなかったと思う」

 いつも、私を変えてくれる人。この人は本当にすごい人だと思う。

「こっちこそ、僕なんかと話してくれて嬉しいんだ。だから、これからも聞かせてよ」

 色が変わり始めた空は、夢の時間の終わりを告げていた。

 パン!パン!

 薄れていく景色の中、私たちはお互いの存在を確かめるように、ギリギリまで手を握り合った。




♪*。




 朝起きてスマホを見ると、また通知がたくさん来ている。昨日のインフルエンサーの発言が結構バズったようで、それによる流入がまだ続いているみたいだ。再生回数は1日でさらに10万増えていた。素直に嬉しい。
 コメントの中には、この曲に救われた、助けられた、という声もそれなりにあって、私の痛みが誰かのためになったのなら、悪くないかもな、なんて格好つけた主人公みたいなことを思った。

 夢を思い出して困り顔で笑ってしまう。私はこの家に居場所がないことが何より悲しいんだとやっと気づけたのに、やっと向き合えたのに、今日もどうせ居場所はないのだ。本当に家族ってなんなんだろう。笑うしかない。
 いつも通り、静かにご飯を食べて、学校に行く支度をする。苦しさはあまり感じない。もっと温かい家がよかったな、と思うくらいで、それ以上期待しなくなったのかしれない。これがいい方向に進んでいるのか、悪い方向に進んでいるのかはわからない。ただ、苦しみというのは、自分がどこにいるのか、何をしているのか、何もかもわからない、どうしたらいいかもわからない時に感じるものなのだということは学べた。

 学校に行くと、担任が慌てて教室に入ってくる。教師という職業はいつも忙しそうだ。

「来月、文理選択があるのはみんなわかっているな。今日から休み時間とかを使って軽い進路面談を進めていくから、そのつもりで」

 ドキリとする。うちの学校は1年生の2月に文理選択をさせられるのだ。そろそろ本格的に志望校やら将来やらを決めなくてはならないらしい。今の自分の気持ちですら曖昧で掴めないというのに、どうやって将来の道を決められるというのだろう。

 その日の授業は、文理選択のことを考えていたらいつの間にか終わっていた。どこの部活にも所属していない私は、作曲のためにいつもは早く帰るが、今日はなんとなく居残りする。
 放課後の誰もいない教室は人の温もりがなく、少し寒い。コートを着て、自分の席で考えごとをしながらスマホをいじる。この雰囲気も意外と嫌いではないかもしれない。曲のワンシーンに使えるかも。

 しばらくそうしていると、担任が教室に入ってきた。気まずい。あまり教師と話すタイプではないから、こういう時どうすればいいかわからない。スマホに集中しているふりをした。

「おお〜、水瀬。残ってたのか。どうせなら、今、面談しちゃうか?」

 教師は忙しいから、やれる時にやれることをやっておきたいのだろう。私はそのせかせかした感じがあまり好きではないのだが。
 断るわけにもいかず、はい、と答える。担任は私の前の席にどかりと座った。

「水瀬はどこに行きたいとか何やりたいとか、決まってるのか?」

「いえ、特には」

「そうかそうか。難しいよな。先生も高校生の時はなんとなく生きてたからな」

 担任は遠い目をしてそんなことを言う。私はなんとなく思っていることをぶつけてみることにした。昨日の夢のおかげか、今の私は何かと吹っ切れているのかもしれない。

「なんか、今どんなことを夢見ていても、結局そこら辺の会社のOLに落ち着くんだろうなって思って。それなら最初から無難なところ目指した方がいいかな、なんて思うんです。女性で理系は少ないって聞くし、文系にしようかなって思ってます」

 もう外は暗くなっていて、教室はどんどん寒くなっていく。私はコートを着ているが、担任はスーツだけだ。寒くはないのだろうか。
 少し考えて、担任は言葉を紡ぎ始める。

「水瀬。学生が夢見なくて、一体誰が夢を見れるんだ?」

 その言葉は、後悔を帯びているように私には聞こえた。

「先生はな、昔、ミュージシャンになりたかったんだ——」

 時が止まったかと思った。でも、教室の時計は音を立てて進んでいる。

「高校生の時、同級生とバンドを組んで、ちょっとしたフェスに出たりもしたよ。でも、受験に集中するって言ってメンバーが次々に辞めていって、俺も現実を見るようになっていった。そうして、当時それなりに得意だった数学を使って受験をした。結果、いつの間にか俺は先生になっていたんだ。やっぱり今でも思うよ、あの時辞めてなかったら、今頃何してるかなって」

 いつの間にか、担任の一人称は「俺」になっていた。本当の経験を話してくれているのだろう。
 意外だった。担任は数学を教えていて、教え方が非常にわかりやすいため、生徒から人気だ。教師になるべくしてなった人だと思っていた。

「俺がここで夢を見ろって言ったからと言って、水瀬の夢が叶う保証になるわけじゃない。無難にOLを目指しておいた方が良かったって思うのかもしれない。でも、現実を見るには高校生って早すぎるんじゃないかって俺は思う」

 吹奏楽部の練習する音が聞こえてくる。聞いたことがない曲だが、音はわかる。

「もし夢を見るとするなら、水瀬は何がしたいんだ?」

 何がしたいんだろう。無難なOLじゃないとするなら、何を。いや、答えは自分ではわかっている。でも、喉まで出かかっている答えは口から外に出ることはなく、代わりに別の言葉が落ちた。

「……わかりません」

「そうだよな、まだ確信持てないよな」

 担任は私を見透かしているように、意味深な言葉を吐く。

「先生だってまだ人生の途中だから、偉そうなことは言いたくない。でも、人生のちょっと先輩としてこれだけは伝えたい。勉強も大事だけど、それ以上に自分と向き合うこと、自分の大切なものごとに向き合うことの方が大事だ。」

 私を真っ直ぐに見つめるその瞳は、やっぱり後悔で染まっていた。

「文理選択まではまだ1ヶ月ある。ちゃんと向き合えよ。」

「はい、ありがとうございます」

「水瀬に今のことが言えて、俺は先生になってよかったと思ったよ」

 日の落ちた窓の外を眺めてそう言った担任は、担任というより「1人の人間」だった。私は荷物をまとめ、帰りの挨拶をして教室を出る。まだ微妙に明るい昼と夜の狭間の空には、一番星がはっきりと見えた。

 その日は将来のことを相談しようと思って早めに眠りについたが、夢の公園に行くことはできなかった。次の日も、またその次の日も。夢の中でもやが現れることはなく、気づいたら朝になっている。
 これが当たり前なんだ。普通は夢なんて覚えていないんだ。そんなことはわかっている。でも、どうしてもあの掠れた声が聴きたくて、あの温もりに触れたくて、どうしようもなく切なくなって、私は静かに涙をこぼした。






 それから2週間が経った。雪斗の綺麗な声、整った顔、真っ白な手、温もり。全てが恋しい。会いたい。この前まではほとんど毎日のように会えていたから、会えるのが当たり前になっていた。でも、当たり前ではないのだ。夢の中で会っているだけなのだから。毎日会える保証などない。
 大切な時間、大切なものごと、大切な人。私たちはそれらと一緒にいることを自然に受け入れてしまいがちだ。失ってから、それが当たり前ではなかったことに気づく。どうして、最初から自覚できないものだろうか。
 このまま会えなくなってしまうかもしれないという考えが過ぎると、不安で苦しくなる。また水の中に溺れてしまったみたいだ。雪斗がいたから、苦しみを乗り越えてこれたのに。その雪斗にもう会えないかもしれないだなんて。

 ここまで考えて、私は自分の気持ちを認めざるを得なかった。私は雪斗に恋をしているんだ。

 それなりにスキンシップをしてきた。普通の高校生男女よりも距離は明らかに近かったと思う。でも、私の苦しみを分かち合うために雪斗がしてくれていることだ。恋愛とは違う。深い深い友情、固くしっかりした絆だと、そう思っていたのに。

 ここまで気持ちが膨らんでしまえば、もう認めるしかないではないか。好きだ。どうしようもなく、彼が好きなのだ。

 その日は、東京でも珍しく雪が降った。夢の公園とは全然違って、本当にうっすらとしか積らなかったが、真っ黒なアスファルトにまだらに模様を作る白い結晶も、ちらちらと落ちてくるそれも、全てが切なさの元凶だった。だって、思い出してしまう。

 雪斗に会いたい。

 そして、その想いが叶ったのか、その夜はやっと公園に通じるもやの中に行くことができた。私はもう無我夢中でもやを走り抜け、広場を抜け、橋まで向かった。珍しく雪が降っていないのにも、しばらくは気づかなかったくらいだ。

 果たして、雪斗はそこにいた。だが、以前とは変わり果てた様子だった。顔は傷や痣だらけで、やつれていた。目は少し落ち窪んでいる。どこを見ているのか、目は虚ろだった。

「雪斗……?」

 やっとこちらに気づいた彼は、力なく笑った。

「莉音……」

 会いたかった、などとは言えなかった。そういう雰囲気ではまるでなかったのだ。私が来る前、いつも雪斗は歌っているが、今日はただ棒立ちしているだけ。
 どうしたらいいのかわからない。これまで、雪斗は私をたくさん救ってくれたが、いざ私が雪斗を救うとなると、何をどうすればいいのか、どう声をかけたらいいのかすらわからない。なんて自分は情けないのだろう。

 でも、恩返しをしたい。今度は私が。

 賭けに出るような感覚で、キーボードを出した。「夜の音」を感情を込めて奏でる。
 
 今、雪斗は何を考えているのか、何に苦しんでいるのか、私が助けになりたい。私の音楽で救いたい。だって、雪斗は私の大切な人だから。私を苦しみから救い出してくれたのは雪斗だから、今度は私の番。私の昔の経験で、雪斗を助けられるのなら、私はあの苦しみも大事なものだったと思うよ。

 「夜の音」を弾き終わった後も、続けて自分の作った曲をどんどん弾いていった。どの曲も私の苦しみを、才能への熱望を描いたものだ。
 寒い中鍵盤の上を踊る指は、もう凍えてしまいそうで感覚などない。それでも弾き続けられるのは、どこにどの音があるのか感覚でわかるのは、皮肉にもあの人のレッスンのおかげだ。
 モーツァルトはキーカバーの上からでも難しい曲を弾きこなしたと言うが、きっと同じ感覚なのだろう。いや、偉人と比べるなんて烏滸がましいか。

 雪斗は黙って私の曲を聴いている。疲れ切った顔が、最初よりほんの少しだけ緩んでいるような気がして、私はもっと弾き続けた。

 段々と夜が明けていく。もっと、救いたいのに。それに、もっとこの人と一緒にいたいのに。待ってよ、まだ明けないで!

「ずっと、ここにいたいよ」

 雪斗の掠れた小さな声が、痛いほどの叫びが届いて、共鳴する激情を白と黒の音に乗せる。でも、時間の流れも地球の自転も誰にも止められない。

 パン!パン!

 雪斗の泣きそうに歪んだ顔が薄れていく。私は思わずピアノから手を離して大好きな人に向かって手を伸ばしたが、その手は空を切った。

 起きてから、しばらく泣き続けた。せっかく答えを、この先の進むべき道を、見つけられたような気がしたのに。

「救えなきゃ、意味ないんだよ……」




♪*。




「おはよ〜!」

 舞香が私の席のところにやってくる。

「あれ、大丈夫?めっちゃ目腫れてるじゃん!」

「やっぱわかる?家出る前色々試したんだけどなぁ」

 夢の世界が消える直前の雪斗の顔が脳裏にチラつく。思わずため息が出る。

「おっと、恋する乙女ですかな?」

 おどけたように問うてくる舞香。当てられてびっくりしてしまう。

「お、図星みたいだ。話聞くよ〜。JK、失恋かい?」

「何そのキャラ」

 思わず笑ってしまう。1時間目までまだ時間がありそうだ。私は舞香に相談に乗ってもらうことにした。あれだけのことを打ち明けて、私のために泣いてくれた友達だ。もう相談することに躊躇などない。

「その人とは、ちょっと色々複雑な事情で、喋る時間は限られてるの」

 夢の公園のことは説明が難しいし、本筋から逸れてしまいそうだから、その部分は伏せて話し始める。

「私はこれまでその人に何回も救ってもらったんだ。辛いことがあった時に一緒にいてくれたり、私の悩みに真剣に向き合ってくれたり。あと、その人はとっても歌が上手いんだけど、その歌声にも救われてたんだよね」

 舞香が真面目な顔をして頷きながら先を促す。

「でも、昨日久しぶりにその人に会ったら、なんだかとてもやつれていて……。必死に泣くのを我慢しているように見えたの。私はこれまで助けられてばっかだったから、今度は私が助けたいと思ってね、でもかける言葉が見つからなくて、キーボードを弾いたんだ。ちょっとは表情が緩んだような気がしたんだけど、大して救えた実感もないまま、時間が来ちゃったの——」

 夜が明ける瞬間の雪斗の顔を思い出して、また目頭が熱くなる。泣いてはダメだ。ここは教室なのだから。涙をこぼしたら、目立ってしまう。
 目の前の親友は、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。目をぱちぱちして無理やり涙を押し留める。

「えっと、電話越しにもっと弾いてあげる、とかできないの?」

「連絡先、持ってないの」

「え?」

 親友の大きな瞳はさらに丸く開かれる。それはそうだ。今の時代、連絡先を交換しないだなんてあり得ない。驚くのも無理はない。

「まあきっといろんな事情があるんだね……え、じゃあどうやって会ってるの?」

「たまたま、同じ時間に同じ場所にいれば、会える……」

 なんとも不思議な話だ。話していて、改めてその不可思議さを実感する。でも、あの夢は、雪斗との出会いは実際に起こっていることだ。それだけは間違いない。

 舞香がうーん、と唸る。私の悩みに真剣になってくれる人がここにもいるんだ、と少しだけ心が軽くなった気がした。

「莉音は今寂しいの?それとも、助けてあげられなかったことに罪悪感?みたいなのを感じてる?」

 私は少し考える。聞かれるまで考えたことがなかった。雪斗に会えないかもしれないのが、会える時間が限られているのが寂しい?それとも一緒にいる時間が長ければ救えるかもしれないのに、と思っている?
 頭の中をいろんな考えがぐるぐると駆け巡る。どれが自分の感情で、どれが誰かが言っていた借り物の言葉で、どれが今を表すのに相応しいのか。ぐるぐる回る。回っているうちに、少しずつ、少しずつ上っていって、出口が見つかりそう——

「わかったかも。私、共感してるんだ」

 そうだ。私はずっと水底にいる感覚から逃げ出したかった。そんな時、あの夢の公園に行けるようになって、雪斗と話すようになって、その間だけは息がしやすかったんだ。だから、あの時間が永遠に続けばって思っていた。
 そして、今朝雪斗は「ずっと、ここにいたいよ」と言っていた。その言葉にどうしようもなく共感してしまったんだ。

「会える時間が限られてるのは、どっちのせいでもないの。だから、もっと一緒にいたいって思う気持ち、そうしたら辛いことも忘れられるのにって思う気持ちが痛いほどわかって、でもどうしようもなくて、もどかしいんだ」

「そっか。同じ感覚を共有してる素敵な相手なんだね」

 そうなんだ。私と雪斗はあの夢を通して、同じ感覚を共有している。きっと雪斗も、苦しみから逃れたくて必死にもがいているのだろう。

「苦しいって思ったり、辛いことがあった時ってさ、感情が迷子になってわけわかんなくって、どこに向かえばいいか全く見えてこないことがあるんだけど、そういう時、誰かに相談して感情を言葉にするのって大事だと思うんだよね」

 ふと、舞香がそんなことを言う。

「なんか舞香がいいこと言ってる!」

「え?私いっつもいいこと言ってますけど!」

 ぷっと吹き出して、2人で同時に笑い出す。ああ、この時間も永遠に続いてくれたらいいのに。

ガラガラ

 「はい、席につけ〜。授業始めるぞ〜」

 時を司る神様は、決して私たちを甘やかしてはくれない。ガヤガヤとしていたクラスが徐々に静まり返っていく。英語の教師は淡々と授業を始めた。

 私は少しずつ、担任の言う「夢」の正体を掴み始めていた。まだ、こうできればいいのになぁ、という小さな願いに過ぎないが、確実に大きくなりつつある気持ちだ。
 文理選択まであと2週間。やっぱり、時間は待ってくれないみたいだ。季節外れのもくもくとした大きな雲が、風に吹かれて勢いよく流されていくのが見えた。




♪*。




 文理選択に伴って、進路面談がある。担任、保護者、生徒の三者面談だ。私はもちろんお母さんに来てもらうつもりだが、とはいえ進路は家族で話し合うものという一般的な考え方がある。
 家族。家族ってなんだろう。うちは一般家庭とはだいぶかけ離れているような気がするし、先生だったあの人を父と思ったことはない。

 でも。少しずつわかってきた自分の気持ちを押し通す上で、一つやりたいことがあった。ここで逃げたら、私は一生向き合えない気がするから。「悲劇のヒロインになってもいいけど、向き合うことから逃げちゃダメ」。これは雪斗が教えてくれた大切なことだ。

 家に帰った私は、文理選択の希望用紙を持ってお母さんのいるキッチンへと向かった。夕食の下拵えをしているところだった。

「お母さん。ちょっといいかな」

「いいわよ。どうしたの?」

「先生を呼んできてほしいんだけど」

 お母さんはハッとして固まった。しばらく呆然としている。私が「先生だったあの人」とまともに話そうとしたことなどほとんどないからその反応は当然だと思う。この間のボカロ曲の話だって、まるで会話になっていなかったのだから。

「え、ええ。いいんだけど、大丈夫なの?」

「うん」

 本当は怖い。この間、結局認めてもらえないんだ、とわかったばかりだ。私はあの人の子どもではなく、たまたまこの家に生まれ落ちてしまった出来損ない。あの人がうまく操ることができなかった、壊れた操り人形。それがわかった上で、今日は向き合おうとしている。
 足がガクガクと震える。これは緊張か、恐怖か。

 パタパタとスリッパで廊下を急いで歩くお母さん。今日もあの人は防音室で一番下の弟に厳しいレッスンを施している。それを呼びに行ったのだ。

「徹さん、莉音が話があるって」

「なんだ」

 不機嫌そうなあの人の声が聞こえてきて、萎縮してしまう。でも、ここで立ち止まってはいられないのだ。口から飛び出そうな心臓を飲み込みながら、防音室から出てきた水瀬徹とお母さんに声をかける。

「進路について、話がしたいので、リビングに来てください」

 この一言を言うだけでも、息ができなくなる。溺れていく。あの人は黙ってついてきた。お母さんはソワソワしていた。

 リビングのソファに向かい合って腰を下ろす。張り詰めた空気に、心臓が嫌な音を立てる。その音を掻き消すように、頭はどこからか雪斗の歌声を引っ張ってきた。私の作った曲を歌う、雪斗の掠れた甘い声。
 そう、私にはやりたいことがある。救うべき人がいる。目指すべき光が明確にある。溺れていた頃とは違う。だから、今は息ができなくても大丈夫。

「あの、2週間後に三者面談があります。お母さんに来てもらうことになっていますが、その内容について、ちゃんと先生にも話したいと思ったので、来てもらいました。」

 心臓におもりがどんどん吊り下がっていくような気がする。それも全部、全部吐き出してしまえ。今、ここで。

「私は将来、音楽をやりたいです!ずっと、苦しかった。才能がないことなんてわかっていて、賞を取れたこともなくて。みんなどんどん私を追い越して行って。息ができなかった。でも、それでも音楽は嫌いにならなかったんです。曲を作っているとき、聴いているときだけは、かろうじて息をして来れました。だから!私も——」

「だからなんだ?認めろ、とでも言うのか?」

 思わず口を噤む。一瞬の沈黙が、何分も続いているような気がした。私がこんなにも緊張しているというのに、目の前の人は感情の揺らぎが全く見えない。

「音楽の世界は厳しい。才能のないお前がやっていけるわけがないのは当たり前のことだ。曲作りが上手くいっているように見えているのも今のうちだけだ。すぐに落ちていく。夢を語るな。やめておけ」

 お母さんが少しだけ息を吸った音が聞こえる。

「徹さん、最後まで聴いてあげましょう。せっかく莉音があなたと話す気になったのに、遮るのはひどいですよ」

 驚いた。今までお母さんは敵にこそ回らなかったが、味方をしてくれたことはなかったのに。どういう風の吹き回しだろう。それに、結構キッパリと言った。
 言い終わったお母さんの息が乱れている。きっと、心臓がドクドクとうるさいことだろう。あの人は何を考えているかわからない表情で、押し黙った。

「私は私の音楽で誰かを救いたいんです。私が救われたように。ただそれだけです。成功とか失敗とか関係ありません。才能もなくていいです。だから、夢を認めてほしいなんて言いません。何を目指そうと私の勝手なんですから!」

 感情が昂って、少しだけきつい言い方になってしまう。ずっと言いたくても言えなかったことが溢れてくる。こうでもしないと自分の気持ちを伝えるのは難しそうだ。感情に任せて言葉を吐くのは良くないことかもしれないが、そうせざるを得ない時だってある。そう思いたい。

「私はただ伝えたかっただけです。そして、先生がなんて言うのか聞きたかった。やっぱり、変わらないんですね」
 
 頭の中を3人の人の顔が浮かんでは消えていった。雪斗、舞香、そして担任。この3人は私のことを対等な人間として扱ってくれた。「1人の人間」として見てくれたのだ。目の前の人間とは正反対に。そういう人がいるっていうこと。それだけで十分。

「最近わかったことなんですが、私はあなたに『1人の人間』として接してほしかったんですよ。才能を持っているか持っていないかの捨て駒ではなく。でも、結局先生は私の、いや、私()()の『才能』の部分しか見ていない。一度見捨てた私が音楽をやるだなんて認められませんよね、だって自分の見立てが間違っていたってことになるかもしれませんから」

 この人は何を言っても変わらないんだ。こうして子どもが精一杯想いをぶつけているのに、無表情を貫いているくらいだ。才能のない私というピアニストには、もう興味などない。壊れたおもちゃを投げ捨てるように、私も投げ捨てて、そのまま。
 やっと言えた。才能じゃなくて、私を1人の人間として見てほしい。ずっと願っていたこと。最近まで道に迷ってしまっていたけど、根底にあった思い。
 そしてそれに気づけたのは、間違いなく雪斗のおかげだ。雪斗の顔を思い出すだけで、いろんな感情がごちゃ混ぜになった心が少しだけ凪ぐ。

 私が喋らないと、静寂だけがただそこにあって、外の喧騒まで聞こえてきそうだった。その間に、私は決断をする。自分の中で、大きな川を渡る。

「もう大丈夫です。踏ん切りがつきました。ありがとうございます」

 私は今、商談を終えたビジネスマンのような笑みを浮かべているのかもしれない。一周回って清々しい。

「辛い思いをさせていたわよね……。ごめんなさいね、莉音。私がいっつも何も言えないから」

 お母さんの方を見ると、ポロポロと涙をこぼしていた。言い過ぎたかも、と少し後悔する。お母さんには同情してしまうからだ。なぜ離婚しないのかわからないくらい、水瀬徹という人間に気を遣って過ごしている。お母さんもこの人の被害者だ。

「大丈夫だよ、お母さん」

「お母さんは莉音が何を目指すって言っても、応援するわ」

 私は静かに頷いた。

「勝手にやりなさい。私は干渉しない」

 先生だったあの人は、最後にこう言い残して防音室へと戻って行く。残酷にも、最後まで私のほしい言葉は言ってはくれなかった。こうして、先生だったあの人は今日、私の中で完全に「赤の他人」になったのだった。
 目を閉じると、これまでの苦しみが走馬灯のように瞼の裏に映る。私は、川の向こうの過去の自分にお別れを告げ、瞳を閉じたまま、口角を上げたまま、黙って涙を流した。

 お母さんが、優しく抱きしめてくれた。




♪*。




 その夜から私は、自分の苦しみを吐き出す歌ではなく、自分の苦しみを経て、誰かを助けるための歌を作り始めた。傷を負った人こそが、人の傷をわかってあげられるのだから。私が音楽をやっている間は少しは息がしやすかったように、今苦しみ、もがいて生きている人の酸素になってあげたい。
 言ってほしかった言葉は言ってもらえなかった。苦しかった時の自分は報われなかった。
 でも、私は後ろを振り返らない。私は私を解放してあげるのだ。

 翌朝、登校するとちょうど担任も出勤してきたようだった。小さな声で挨拶をする。大きな声でするべきなのかもしれないが、私にはそんなことはできない。恥ずかしいし、周りがやっていないことはやっぱりどうしても難しい。

「水瀬!どうだ、やりたいことは見えてきたか?」

 担任はそんな気持ちを無視して、話しかけてきた。別にいいけど。もうだいぶ息が吸えるようになった私は、ゆっくりと辺りの酸素を取り込む。

「はい。私、音楽をやります」

「そうか。見つかってよかった」

 担任が心底ほっとしたような顔で言う。生徒として、だけではなく、昔の自分に重ねているのだろう。やっぱりこの人は私のことを「1人の人間」として見てくれる。

「ああ、そうだ。音楽やるって決めたはいいけど、志望大学もちゃんと決めろよ?」

「え?」

「え?じゃないぞ。いろんなこと学んで、教養を身につけてこその音楽だぞ」

 ハッとした。大学なんて全く考えていなかった。普通に高卒で曲だけ作って生きていこうとしていた。それではダメなのか。

「高校までの勉強ってどうしてもカリキュラムが決まってるからな。好きなことを深く学ぶのは難しい。でも大学はそうじゃない。自分で好きな授業を取れる。潜って聴きにいくことだってできる。音楽をやるのに必要な要素、集めてこい」

 真剣な顔でそう言われると、そんな気がしてくる。それに、普通の大人は子どもに答えの通り動くよう求めてくるが、この人はそうじゃない。本心から、私のためを思って、私のためになることをアドバイスしてくれているんだ。そう思えるから、私はこう答えた。

「そうします」

 進学先という大きな考えごとは増えたが、決して心のおもりが増えた感じはしなかった。むしろ心が軽いようにすら感じられる。
 廊下の窓からは雨音が聞こえてきて、私利私欲に塗れたこれまでの大人たちの「アドバイス」を洗い流してくれているような気がした。頭の中では、雪斗の歌声が繰り返し再生されていた。





♪*。




 結局まだ何も書いていなかった文理選択の希望用紙を机の上に置く。深呼吸をして、音を奏でる時と同じような落ち着いた気持ちでペンを取った。

 第一志望:私立 翠山学院大学 比較芸術学科
 文理選択:文系
 選択科目(社会):世界史 日本史
 
 担任に大学に行けと言われたことを踏まえて、お母さんとゆっくり話し合った。これまでは2人でしっかり話し合う機会がなかったから、新鮮だった。お母さんは直接的に味方になってくれたことはあまりないが、ずっと私のことを心配してくれていたらしい。この人も私を1人の人間として見てくれているんだ、とまた、ほんの少しだけ救われた気がした。

 第一志望は私大に決めた。一応あの人はかなり有名なピアニストだから、うちにはお金はたくさんあるのだ。だからこそ、これまでは貧乏で苦しい思いをしている人に引け目を感じていたのだが。
 比較芸術学科。音楽について学ぶことができるし、教養も身につきそうだ。私に才能があれば、あの人は私を音大に進学させていたかもしれないが、私は音大は選ばない。担任が言ったように、知識・教養という観点から音楽を学んで、新しい音楽を作っていきたいのだ。

 選択科目は歴史にした。人間の心理が学べそうだからだ。人の行動には必ず何かしらの感情が付きまとう。それを想像しながら過去の人々の行動に思いを馳せるのは、音楽のためになりそうだと思った。

 全ては私の音楽で誰かを救うため。

 項目を埋め切った私は、お母さんに紙を見せて判子を押してもらう。心なしか、お母さんは緊張しているように見えた。子どもの重大な決断を自分のことのように捉えてくれているのだろう。家には居場所がないと思っていた私が、初めて家族の絆を感じた瞬間だった。

 テスト期間を乗り越え、あっという間に面談がやってくる。各教室の前に並べられた椅子は居心地が悪そうに見えた。
 あれから、夢の公園には一度も行けていない。私の物語は進んでいるが、雪斗はどうなのだろう。どうしているだろうか。時間があると、すぐに雪斗のことを考えてしまう。

「莉音」

 椅子に座って時間が来るのを待っていると、お母さんがパタパタと廊下を急いで歩いてくるのが見えた。気弱で気を遣ってばかりのお母さんには、パタパタというオノマトペがどうしても似合ってしまう。

「お母さん、来てくれてありがとう」

 少しびっくりしたような顔をしていた。

「いつも来てるわよ」

「うん、だからさ。ありがとう」

 こんな素直に感謝を伝えたことなど今までになかったかもしれない。私はいつも自分のことで精一杯で、周りを見ることができていなかったのだ。苦しい苦しいって内側へ内側へと縮こまっていた。

「ああ、お世話になっております。どうぞどうぞ、お入りください。莉音さんも」

 担任がヘコヘコしながら教室から顔を出す。数学の授業をしているときはキビキビしている感じなのに、それ以外はなんとなくシャキッとしない人だ。
 促されるまま、4つの机が合体されたところへと向かう。お母さんと一緒に腰をかける。

「早速ですがこちら、成績表になります。莉音さんは国語の成績がいいですね。家では勉強とかされていますか」

 お母さんが首を傾げる。居た堪れなさそう。

「あまり勉強をしているところは見たことがありません。いつもパソコンに向かって何かしているみたいですが……」

 会話が進んでいく。文理選択の話になって、私は用意してきた用紙を提出する。

「進路がはっきりしてきたようで、よかったですね。担任として、これからもサポートさせていただきますから」

 三者面談なのだからお母さんに伝えるべき言葉だろうに、なぜか担任は私の目を真っ直ぐに見てこう言った。なんだか少しだけ恥ずかしくなってしまって、頷きながら下を向く。

 3人以外誰もいない教室は、ガランとしていてやっぱり少し寒かった。寒さを感じるたびに、雪斗の温もりを思い出してしまう。こんな大事な時でさえ。いや、大事な時だからこそ、か。

 気づけば面談は終わっていて、また促されるまま廊下に出た。次の生徒とそのお母さんらしき人が椅子に座っていて、会釈を交わす。廊下の端っこまで、私は何も喋らなかった。

「やっぱり、いい先生ね」

 やっぱり、ということは前も同じ会話をしたのだろうか。記憶を辿るも、思い出せない。今までの私はそれだけいっぱいいっぱいだったのだろう。

「うん」

 短く返事をした私は、荷物を取りに行くと言ってお母さんと別れた。なんとなく、一緒に帰るのは気まずかったからだ。味方だとわかったとはいえ、最近のことだ。まだうまく会話をするのが難しい。思春期、というやつだろうか。そういうことにしておこう。
 それに、少しだけ1人になりたかったというのもある。
 校舎の西側の階段を駆け上がる。屋上に行こうとして、扉を開けようとしたが、鍵は空いていなかった。そう、普通屋上の鍵は空いていないのだ。物語なんかでは、みんな屋上に行くが、そんなことはあり得ない。
 階段の手すりに腕を乗っけて、さらにその上に顎を乗せてみる。冬の手すりは冷たくて、どこまでも無機質だった。

 私は解放された。向かうべき光も見えた。
 
 じゃあ、雪斗は?

 私を救ってくれた、あの華奢で色白の男の子は、今どんな思いを抱えているのだろうか。知りたい。話してほしい。会いたい。だって、大切な人だから。
 踊り場の天井の電球がチカチカと点滅している。あと数日でこの電気は切れてしまうのかもしれない。

 どうか、今日こそは会えますように。窓の外から見える紫色のグラデーションに、強く、強く願った。




 面談から2日が経った。夢の公園には行けていない。やっぱり、もう雪斗には会えないのだろうか。夢の中での記憶は、時間と共に少しずつ、少しずつ薄れていくようで、怖かった。このまま、忘れていくというのか。こんなにも、雪斗を大切に想っているのに。

 人は死んでしまったら、最初に声が忘れられていく、と聞いたことがある。それだけ、音という情報は形のない曖昧なものなのだ。

 雪斗の歌声を忘れたくない。また私の作った曲を、あの少し掠れた甘い声で歌ってほしい。
 それに、まだ助けることだって叶っていない。昔話では鶴ですら恩返しができたというのに、人間である私は恩を返す機会さえ与えられないのだろうか。

 なんだか切なくて、胸がきゅーっと締め付けられる。この間まで感じていた苦しみとは全然違う。これは間違いなく「恋」というやつだ。

 自分の気持ちに名前をつけることができて安心したのか、私はまだ寒い2月の夜に沈んで行った。

 目を開けると、そこには公園の管理人がいた。周りはやっぱりもやで覆われている。

「一緒にいてあげて」

 黒いハット、黒いロングコートを纏ったその人は、やっぱり顔が真っ黒だった。でも、確かにその人はこう言った。声の雰囲気や話し方が、どことなく雪斗に似ているような気がする。きっと、この人も心が綺麗で優しい人なのだろう。
 もやが濃くなり、管理人の姿は見えなくなっていく。姿が消える直前、管理人は困ったように微笑んだ気がした。顔は見えなかったが、私にはそんな確信があったのだ。

 しばらく呆然としていたが、ハッとして走り出す。もやを掻き分けるようにして、前に前にと進んでいく。やっと会えるかもしれない。今日こそは、雪斗を救いたい。
 息を続かなくなって、肺を冷たい空気が駆け巡る。それでも走るのをやめなかった。いつもの公園に辿り着く。迷いなく橋に向かったが、そこには雪斗はいなかった。

「雪斗!どこ?雪斗!」

 大声を出すためにさらに酸素を吸い込むと、肺がビリビリと痛んだ。東京とは比べものにならないくらい冷え切った空気。でも、そんなことお構いなしに、私は大好きな人の名前を呼んだ。
 公園の中を走り回る。ベンチに座って絵を描いている人、雪の塊にダイブしている人、公園の中の道をぐるぐるとランニングしている人。みんながただならぬ様子の私を見て引いている。それはそうだ。夢の中とはいえ、真夜中の公園で叫びながら焦って走り回っている人など、変人でしかない。
 でも、周りの目線なんて気にしている場合ではなかった。今日を逃せばまた会えないかもしれない。この世界がいつ途切れてしまうかわからないのだ。早く、早く見つけないと。

 いつの間にか、初めて来る場所にいた。昔の城によくある、赤い橋がかかっている。いつもの古びた小さな橋とは違って、朱色が綺麗に塗られている。暗い夜の中、電灯の光でも綺麗さがわかるくらいだ。色褪せた橋を誰かが塗り直したのだろう。
 
 小さな小さな歌声が聞こえた。途切れ途切れで、今にも消えてしまいそうな歌声。
 すぐにわかった。雪斗だ。本当に小さな声だったが、やっぱり魅力的だった。何度も脳内で再生した声なのに、実際に聴いてみると何十倍も、何百倍も心に沁みる。

 声を辿ってさらに進む。大声を出しながら走り続けていたからか、身体中が悲鳴をあげている。足がもつれそうになる。夢の中なのに、そんなところまでリアルだ。
 それでも、雪斗に早く会いたいから、前に進む。

 ほどなくして色白の彼を見つける。彼は朱色の橋を超えた少し先の木の影で歌っていた。

 声をかけようとして、息を呑む。美しい横顔に、涙が伝っていたからだ。雪斗は静かに泣いていた。

「ああ、莉音。ごめんね」

 こちらに気づいて、彼は振り向く。なぜ謝ったのかわからない。でも、そんなこと聞きたくなかった。私は何も言わずに雪斗に近づいて、優しく包み込むように抱きしめる。雪斗は抱きしめ返してはくれなかった。ただ静かに涙を流し続けている。
 私はどう声をかけたらいいか、わからなかった。いつもそうだ。助けたいと思っているのに、毎日あんなに強く願っていたのに、大事な場面で何も言えない。

 しばらくして、雪斗はそっと私の両肩を両手で押して、抱擁から逃れた。彼の黒い瞳は何も写してはいない。私は猛烈に寂しさを感じて、でも今ここで雪斗に縋ってしまうのは違うと思い、自分勝手な気持ちに無理やり蓋をした。ここで相手の気持ちを慮らず、ところ構わず泣き喚くほど、高校生は子どもではない。

 雪斗は少しの間思案して、何かを決心したように私を真っ直ぐを見る。
 一瞬、フラれるのではないかと思った。想いを伝えることすらしていないというのに、フラれることのどれほど惨めなことか、その瞬間のうちに想像して固まってしまう。ブラックコーヒーを飲み込んだあとのような味がした。

「莉音。僕のことを、話してもいいかな」

 怖くてぎゅっと目を瞑ってしまうが、雪斗から紡がれた言葉は予想とは違うものだった。安心して力が抜けて、それもそうか、と思う。今雪斗はきっと水底でもがいているのだ。この前までの私と同じように。そんな時にフるだのフラれるだの考えられるわけがない。
 助けたいと言っておきながら、真っ先に我が身を案じていた自分の身勝手さに呆れてしまう。

「広場のベンチまで、歩かない?」

 雪斗は頷いて歩き始めた。私は後ろをついていく。雪斗が自分のことを話すと決めてくれたことへの微かな喜び、抱擁を拒まれたことへの不安、気まずさ、これからされる話への緊張。いろんな色の絵の具が水の中に溶け合って落ちていく。
 ベンチまでの道のりは、ものすごく遠く感じられる。いや、実際そこまで近いわけでもなかったかもしれない。その間私たちは一言も喋らなかった。

 真夜中というに相応しいくらいの時間になっているのに、広場のベンチは空いていた。なんだか最初の頃よりも、この夢の公園を利用する人が減ったような気がする。みんな、きっと現実が充実しているのだろう。
 久しぶりに心臓におもりが吊り下がる感覚になる。これは何?劣等感?

 前に雪斗がそうしてくれたように、私はベンチの雪を払って腰かけ、隣をポンポン、と叩いた。雪斗の黒髪が夜に溶け込んでいるように見える。なんとなく、管理人と同じ雰囲気を纏っているように感じた。

「前にさ、莉音に向き合うことは大切だって、偉そうに言ったことがあったよね」

 自嘲。この言葉が今の雪斗を表すのに一番ぴったりだった。いつもの穏やかなゆったりとした喋り方は鳴りをひそめ、どこか苛立ちを含んでいるようにすら聞こえる。
 私は頷いて先を促す。偉そうだなんて全く感じなかったが、今の雪斗はそんな些細な一言でも否定すると壊れてしまいそうだから、あえてしない。

「あれ、僕が一番できてないことなんだよね」

 喘ぐような呼吸をして、苦しそうな顔をする雪斗。やっぱり、雪斗も水の中で溺れているんだ。

「僕には5つ上の兄がいたんだ。でも、10月の初めに自殺しちゃった」

 思わず、息を呑む。ひゅっと変な音がした。

「お互いそんなに自分のことはあまり喋らなかったけど、本当に優しい兄ちゃんだったよ。そんな兄ちゃんが大好きだったんだ。それなのに、何も言わずに遠くに行っちゃった。遺書には大学で人間関係がうまくいかなくて、いい未来が見えなかったって書いてあった」

 私は何も言えないで、ただ黙っていた。

「絶望したよ、大切な人を失うってこんなに辛いんだって。僕も同じ場所に行きたいって何回も思った。辛すぎて現実を認めたくなくて、葬式では涙すら出てこなかった。きっと母さんも父さんも同じだったんだと思う。兄ちゃんが死んでから、2人ともおかしくなっちゃって、母さんは絶望で何もできなくなった。家事はもちろん、自分のことも何も。そんな母さんを見ていられなくてか、父さんもだんだん家に帰ってこなくなった。何してるのかは知らない。知りたくもないから」

 雪斗は夜空を見上げて、数拍待ってからまた喋り出した。

「僕は自分の絶望を我慢して、家事をやったり、母さんにご飯食べさせたり、頑張ってる。母さんが途方に暮れてるから、僕が強くいなきゃって思って。でも、たまにどうしようもなく寂しくなって、空っぽになったような感じがするんだ。それで、歌に逃げてた。歌を歌っている時だけは、ちょっとだけ寂しさが埋まるような気がしたから」

 白い手が胸の辺りを押さえている。ぎゅっと強く、跡が残ってしまいそうなくらい強く。私は溺れる雪斗を少しでも支えたくて、自分に近い方の彼の手を自分の手とつないだ。恋人同士の甘い雰囲気は全くない。迷子の子どもの手を引くような、そんな感覚だった。

「そうやって逃げてると、今度は罪悪感が襲ってくる。寂しさと向き合わないで逃げるって、兄ちゃんを忘れようとしているみたいで、それはそれで苦しいんだ。しかも、僕は母さんとも向き合えないでいる。本当は母さんと支え合って生きていかなきゃいけないんだと思う。でも、途方に暮れて何もできなくなった母さんから目を逸らしちゃうんだ。母さんを見ると、余計寂しくなるから」

 ぽろっとこぼれるように、雪斗の瞳から涙が1滴、彼の膝に落ちた。

「それなのに、僕は莉音に、向き合えだなんて偉そうなこと言った。自分は全部から目を逸らし続けているのに。ごめん、ごめんなさい」

 小さな子どものように縮こまって謝る雪斗。その謝罪は私に向けられたものなのか、お兄さんに向けられたものなのか、わからない。

「謝らないでいいんだよ、雪斗。雪斗は頑張ってるじゃん。きっと、今の雪斗は辛いことと向き合う準備をしてるんだよ。すぐに向き合うのは難しいと思うけど、でも、その方法を探してるんじゃないかな。だから、現実逃避だって悪いことじゃない。謝らなくていいんだよ」

 泣く子をあやすように諭す。でも、自分の考えていることがうまく言語化できなくて、伝わっている自信がない。雪斗は私にいつも欲しい言葉をかけてくれたけど、私はそれがうまくできないみたいだ。どうすれば、大切な人に伝えたいことを伝えられる?

「それに、私は向き合わなきゃダメだって言葉に救われたの。あの時の私は、もう向き合う準備ができているのにずっと目を逸らしていたから、その言葉が相応しかったんだよ。だから、立場が違うから、自分ができてないから言っちゃいけないなんてことない!」

 感情的になってしまう。雪斗の苦しみが痛いほど伝わってきて、私まで涙が出てきてしまった。私が泣くべきじゃないのに。今一番泣きたいのは雪斗なはずなのに。ああ、本当に情けない。

「莉音は優しいね」

 ポツリと呟かれた言葉は地面に不恰好に落ちていった。

「ううん、そうじゃない。私は雪斗を助けたいの。これまでたくさん助けてもらったから、私も雪斗の力になりたい」

 雪斗の左手を両手で包み込む。どうか、私の想いが伝わりますように。同じ想いを返して欲しいなんて、そんなこと言わないから。せめて、助けたいという気持ちだけはちゃんと伝わってほしい。

「雪斗は溺れてる私に光はこっちだよって教えてくれたけど、私にはそれは難しそうだからさ、ゆっくりでいいから、一緒に向き合う方法を探そう?溺れる苦しさは知ってるから——」

「わかったようなこと言うなよ。莉音は本当の意味で家族を失ったことなんてないじゃないか」

 低い声がその場の空気を支配するような感じがした。びっくりして手を離してしまう。今のは、本当に雪斗が言ったの……?

「いや、ごめん。僕、冷静じゃないみたいだ……。1人にさせて、ほしい」

 雪斗はふらりと立ち上がって、歩いて行ってしまった。私はすぐに追いかけようとしたが、さっきの雪斗の言葉が頭に響いて、足が地面に張り付いてしまう。

 私はなんて傲慢だったのだろう。自分が苦しんできたから、人の痛みがわかると思っていた。辛いことを経験してきたからこそ、今辛い思いをしている人に寄り添えると思っていた。でも、それは(おご)りでしかないのだ。
 前に「苦しみは人それぞれ」だと雪斗から学んだじゃないか。それなのに、人の苦しみを勝手に推し量って、自分のそれと同じだと見積もった。私はまた同じ過ちを繰り返しているのだ。なんという愚か者だろう。
 ベンチの前に立ち尽くして、自らの言動を恥じる。なんて声をかけるのが正解だったんだろうと、頭の辞書をパラパラめくる。でも、どの言葉も満点解答にはなりそうになかった。

 正解ばかり求めてくる大人の気持ちがわかった気がする。もしかしたら、大人たちには悪気はないのかもしれない。むしろ、正解ばかり求められる世界で、正解の求め方を学ばせようと考えてのことなのかも。

 私はその場でキーボードを出すと、どうしたらいいかわからないぐちゃぐちゃな感情をひたすら曲にぶつけた。少し前の苦しかった時と同じように、誰かを救うためなんかじゃなく、自分の心を曲に乗せるだけのアグレッシブな弾き方で。
 鍵盤の上を指が踊るたび、涙が一粒ずつこぼれ落ちていく。声は出さず、静かに涙を流しているうちに、あたりは明るくなっていき、公園もキーボードも薄れていった。

 光を見つけたような気がしたのに、結局私はずっと暗闇を彷徨っているだけみたいだ。こんな時でも、必ず夜は明けるというのに。




♪*。




 それからまた、夢の公園には行けない日が続いた。
 2月も後ろの方になり、東京では徐々に寒さが和らいできている。三寒四温という四字熟語の通り、数日寒い日が続いて、暖かい日が続いて、また寒くなって……を繰り返して、全体の平均気温は緩やかに上がってきているようだ。
 学校に行く途中、本当に一瞬だけ春の匂いがした。季節は何食わぬ顔をして巡る。3年生は国立受験があるから、最近は学校全体の雰囲気もどこかピリピリしているような気がする。こうやってなんとなく生きていると、受験なんてあっという間に来てしまうのだろう。吹いている風はまだ冷たい。春になりきれない冬が、水の中から抜け出せない私と重なる。

 前ほどは息苦しくない。でも、この間の雪斗の低い声が、拒絶が、薄い膜のようになって心臓に張り付いて、酸素を通すのを拒んでいるみたいだ。
 謝らなくてはならないと思うが、謝りたいと思うのは自分勝手な気がする。自分が楽になるためだけに謝りたいと思っているみたいだから。次に雪斗に会ったら、なんて言えばいいのだろう。まだ正解は出ていない。
 救いたいと思うのはエゴなのだろうか。誰かを助けるために音楽の道を志すと決めたのに、もう揺らいでしまっている。
 
 もう会えないかもしれないということも、不安を募らせる。12月ごろは毎日のように公園に行けていたのに、最近ではほとんど行ける日がない。それが不安で不安で仕方なかった。毎度行けない日が続くたび暗闇に呑まれそうになる心を、どうにかして取り去ってしまいたい。感情なんて無くなってしまえばいいのに。

 もし、家族が自殺してしまったら、私はどんなことを感じるのだろうか。不謹慎な話だが、雪斗のお兄さんの話を聞いて以来、何度も想像してしまう。もしお母さんが自殺したら。私の唯一の家族と言える人だ。立ち直れないし、居場所がなくなってしまって私もあとを追うかもしれない。
 もし、妹弟たちが自殺したら?悲しいし空虚は感じるはず。でも、もしかしたら、納得してしまうかもしれない。だって、絶対その要因はあの人の厳しいレッスンだろうから。
 もし、先生だったあの人が自殺したら——。

 結局、私のことを見てくれないまま死んで行ったんだなって思うだけかもしれない。

 最低だな、なんて思いながら、あまり膨らまなかった想像を頭から消し去る。経験していないことはわからない。曲にもできない。やっぱり、私はわかったようなことを言っていただけなんだと思い知らされた。

「思い詰めた顔してるね、大丈夫?莉音」

 授業の合間に舞香が私の席に遊びにくる。

「え?あ、大丈夫、ごめん」

「こらー!謝るんじゃなーい!」

 小さな手で頭を小突かれる。

「さては想い人となんかあったな?」

 舞香は私のことはなんでもお見通しのようだ。感心してしまう。
 私は夢での出来事をかいつまんで話した。

「うーん、きっとその人は喋ってて冷静じゃなくなってたんじゃないかな。後で思い返してみたら、大して怒ることでもなかったってなることもあるじゃん。次いつ会えるかわかんないんだったよね?ある程度時間が空いた方がお互い冷静に喋れるし、ちょうどいいんじゃない?」
 
 確かにそうかもしれない。
 相談に乗ってくれる舞香はとても心強い。一回りくらい歳が上のお姉さんみたいな感じ。口にしたらそれこそ怒らせてしまうだろうが。

「莉音はその人好きだから難しいだろうけどさ、怒ったり怒られたりして、もう一回話し合って、それでぐいって距離が近くなって、お互いのことさらに知っていくもんだと思うな。だから、不安になることない!大丈夫だよ!」

 舞香の自信たっぷりな笑顔を見ると、なんだか本当に大丈夫な気がしてくるからすごい。今回のことは、解決策は自分で考えるべきだ。でも、それを立ち止まらずに考えるための力をくれる、背中を押してくれる言葉が欲しかった。そして舞香はそれを迷わずくれた。やっぱり持つべきものは友達だ。

「いっぱい考えてる莉音にご褒美!帰りクレープ奢ったげるから、元気出〜して♪」

 ふふっと笑ってしまう。悩み相談なんて一番返す言葉の正解がわからないのに、舞香はいとも簡単に私のほしい言葉をくれたり、喜ぶことを思いつく。私もこうなりたいな、と目の前の眩しい女の子を見上げて思った。





❆。:*.゚





 僕は篠崎雪斗。岩手県盛岡市に住む高校1年生だ。10月の初めに5つ上の兄ちゃんが飛び降り自殺をしてから、4ヶ月半以上が経った。その間、ずっと吹雪の中を歩いているみたい。前が見えなくて、足もうまく上手く動かせなくて、雪がサクッサクッと音を立てるのにも飽きてきて、もう歩くのをやめてしまいたくなるような、そんなギリギリの状態。毎日を死んだように生きている。

 母さんはもっと酷い状態だ。ずっと布団に横になって、虚な目で天井を天井を見つめている。僕が食べさせなければ食事は摂らないし、全く動かない。排泄のためだけに這いつくばって家の中を移動する。
 そんな母さんを世話するために、僕は僕の苦しみを必死で我慢する。押さえ込む。中身でいっぱいな箱に無理やり蓋をするみたいに。

 昔は明るい家庭だったのだ。母さんは朗らかな人で、僕たちの学校での話に大きな声で笑ってくれた。父さんも合わせて静かに笑っていた。兄ちゃんが大学進学で東京に引っ越して、少しだけ寂しかったけど、たまに帰省してきた時は勉強を教えてくれた。仲のいい家族だったと思う。
 
 でも、兄ちゃんは死ぬことを選んだ。誰にも相談せず、何も言わずに死んで行った。それから、家族は壊れてしまった。父さんはしばらく帰ってきていない。もう帰ってくることはないのかもしれない。

 僕はただ、戻りたいと思っても戻れない過去から目を背けて、向き合いたくない現実からも目を逸らして、歌に没頭した。

 11月くらいから、僕は夢の中で真っ黒な男の人に連れられて、盛岡城跡公園に行くようになった。最初は全然人がいなかったが、その真っ黒な男の人がだんだんと色んな人を連れてくるようになって、夜の夢の公園は賑わって行った。
 そこにはなんでもあるようで、それぞれがやりたいことを自由にやっている。絵を描いたり、走ったり、バドの素振りをやっている人なんかもいた。楽器を弾いている人も。
 僕は歌った。自分の作った曲を何回も何回も歌った。集中して歌えば、少しだけ吹雪が和らぐから。

 毎回、夜が明けるタイミングで真っ黒な男の人は手を2回叩く。そうすると、その夢の公園は消えてしまう。まるで夜の公園を司っているようだったから、僕はその人を管理人と呼ぶことにした。

 その夢は居心地が良かった。母さんの世話をする必要はないし、家事をやる必要もない。歌だけに集中できる。それに、なぜかそこは兄ちゃんの近くのような気がしたから——。

 でも、居心地のいい夢は続いてはくれない。朝になったら、僕たちは起きなくてはならない。ずっと、夢の中にいられたらいいのに。

 12月に入ると、盛岡は本格的に雪だらけになる。冷たくて自由に進むことを許してくれない雪。歩くのは遅くなるし、転ばずとも滑ることは数え切れないくらいある。バスは中心部の自分の家の近くでも30分くらい遅れてくるし、バイパスは毎朝渋滞を起こしていて、滑らかに進んでいるのを見たことがない。雪かきは面倒だし、寒さで耳がちぎれそうに痛くなるのも不快だ。
 どうして僕は雪斗なんていう名前をつけられたのだろう。雪なんて嫌な気分になるだけなのに。
 
 そうやって生きているのか死んでいるのかわからない毎日を過ごしていると、夢の中に1人の女の子が現れた。いや、他にもたくさん高校生らしき人はいるのだけれど、その子は僕の歌を聴きにきてくれたから、「知らない人」だったのが「知り合い」になったというわけだ。
 その子は水瀬莉音(みなせりおん)という名前の、綺麗な顔立ちの女の子だった。高めに結ばれたポニーテールが動くたびゆらゆらと揺れている。クールな印象を受けた。

 中身は全然そんなことなかった。素直で、ワードチョイスが独特な不思議ちゃんという感じ。でも、音楽が好きなところ、作曲をしているところ、と共通点が多くてすぐに仲良くなった。
 ただ、莉音は何かにこだわりというか執着というか、重たい感情を抱えているのはなんとなく察していた。だから、僕たちは似た者同士なんだろうと勝手に思っていた。
 面白くて話が合う、似た者同士の莉音に、僕は少しずつ惹かれていった。愛おしさのようなものが、少しずつ膨らんでいくのがわかった。

 そんなとき、彼女が打ち明けてくれたのは、なんとも苦しく残酷な話だった。音楽家の家庭は厳しいところが多いと聞くが、実際にそういう家庭で育った人と喋るのは初めてだったから、小さい頃から辛い思いをしていたんだろうな、と想像して胸が痛んだ。
 莉音にかける言葉は慎重に選んだ。苦しんでいる人をさらに苦しめることはしたくない。結果的に、出てきた言葉は「悲劇のヒロインになってもいいけど、向き合うことから逃げるのはダメ」というなんとも説教じみた言葉だったのだが。

 僕は莉音の話を聴いて、心のどこかでこう思っていたのかもしれない。

 最初から家族と思っていなければ、失っても悲しくなんてならないのに。苦しくないのに——。

 僕は羨ましかったのかもしれない。大切なものを失うくらいなら、最初からそんなものなければ良かったのに。もちろん、兄ちゃんと出会わなければよかったなんて、そんなことは1ミリも思わないけれど。でも、僕は大切な家族がいたから、失って苦しい思いをしているのは確かだ。
 莉音は今たとえお父さんを失っても、そんなに苦しくないんじゃないのか。そう思って、嫉妬していたのだと思う。その結果、手を差し伸べてくれた莉音を拒絶して、ひどいことを言ってしまった。

「わかったようなこと言うなよ。莉音は本当の意味で家族を失ったことなんてないじゃないか」

 僕は悲劇のヒロインになりすぎていたのだ。僕が一番苦しいはずなのに、僕よりも苦しそうな顔をしないでほしい。そんな身勝手な考えが根底にあったのだ。その考えのあまりの愚かさに自己嫌悪が蜷局(とぐろ)を巻いた。
 「人と苦しみを比べるな」なんて偉そうなことを言っておきながら、自分が一番比べているじゃないか。他者の痛みなんて推し量れないのだから、僕の苦しみは僕の苦しみで、莉音の苦しみは莉音の苦しみだと頭ではわかっていたはずなのに。

 莉音に合わせる顔がない。これも自己中なのだろうけれど、そんな理由で僕は1週間ほど公園には行かなかった。

 



❆。:*.゚





 今日、学校で講演会が行われた。防災に関する講演会で、東日本大震災で津波の被害に遭われた方が登壇された。当時、僕は3歳か4歳くらいだったらしく、震災の記憶はない。僕たちの年代は皆そうだろう。それでも、岩手に住んでいればいまだに震災に関連するニュースがやっているし、比較的身近ではあるのだ。普段、講演会では寝てばかりのクラスメイトも、流石に今日は起きていた。
 津波の映像が流れる。怖くて泣き出してしまう女の子もいたようだった。
 映像では何回も見たことがあるが、僕にとってそれはどこまでも「映像」でしかなくて、今回もまた呆気に取られるしかなかった。
 でも、突然家族を失ったショックは、痛いほどわかる。だって、自分も経験しているのだから。涙すら流れなかった葬式が、体も顔もぐちゃぐちゃになった兄ちゃんの遺体が、嫌でも想起される。酸素が吸えなくなっていくのがわかる。どこに空気があるのか、わからない。吹雪が自分に吹きつけて、息を吸うのを邪魔してくる。

 僕は思いついた曲を頭の中で歌う。浮かんでくる過去の映像を必死にかき消すように、自分の作った曲を歌った。
 なぜか、あれだけ夢の中で練習しているはずの莉音の曲が、思い出せないのだ。ずっと、そうだ。今こそあの曲が必要なのに、タイトルも音の連なりも歌詞も全て()()がかかっているように思い出せない。

 あの夢に行きたい。莉音に会いたい。あんなひどい跳ねつけ方をしておいて、本当に身勝手だ。でも、会いたくてたまらなくなった。恋しさで痛む心臓を左手でぎゅっと押さえつける。そしてそれをレポート用紙を挟んだバインダーで隠した。

「死者を想うのは、生者である我々にしかできないことです」

 その時、講演をしている方の言葉がすっと耳に入ってきた。

「私も最初の頃は、両親と実家を失った悲しみに暮れ、何も手がつきませんでした。瓦礫の山の前に呆然と立つしかありませんでした。でも、死者を弔うことができるのは、生きている者だけです。私たちは生きたかったであろう人たちの思いを胸に、悲しみも背負いながら、現実と向き合いながら、前を向かなくてはなりません——」

 言葉の一つ一つがすとんと体の真ん中に落ちてくる。

 ああ、そうだ。寂しさも悲しみも背負って、やっぱり向き合わなくちゃいけないんだ。そろそろ前を向かないといけない。
 莉音はちゃんと向き合ったんだ。才能に固執して、自分の本当の想いに蓋をしていた莉音は、ちゃんと自分と真正面から向き合って奥底にある気持ちを認めた。これまで友達に打ち明けることが出来ていなかったことも、全部話せるようになっていた。そうして、僕の苦しみにも全力で向き合おうとしてくれた。

 じゃあ、僕は?その気持ちに応えるべきじゃないのか。
 ひどいことを言った。でも、それを理由にまた逃げるのは違うんじゃないのか。
 
 これまでは「向き合わなきゃいけない」という事実がむしろ胸を押し潰してくる存在だったのに、なぜかこの人の言葉で、その事実自体に真摯に()()()()()ような気がした。
 
 僕は2つのことを決意した。莉音に会いに行くこと。そして、母さんと話して兄ちゃんの死と向き合うこと。講演会が終わって、渡り廊下を通って教室に戻る時、窓から見上げた空はバカみたいに晴れ渡っていた。兄ちゃんの葬式の日も、同じような快晴だったと思い出して、目尻にじわっと涙が浮かぶ。僕はふるふると首を振って前を向いた。

 その夜、固い決意を胸に、僕は夢の公園に向かった。家の壁をすり抜けて、澄んだ水が音を立てて流れる中津川にかかる毘沙門橋を通り、点々と並ぶベンチを通り越して、汚れた水の池にかかる小さな橋の上に立つ。

 莉音に会いたいという気持ちを込めて、歌を歌い始める。「夜の音」。何度も繰り返したメロディは、もう音を外すことはほとんどない。夢の中なら、歌詞も完璧に頭に入っていて、するすると出てくる。それくらい大好きな曲だ。
 莉音に届いてほしい。ここに来てほしい。自己中だとわかっているけれど、一緒にいてほしい。

 何曲か歌い終わり、次は何を歌おうかと考えていた頃、莉音はやってきた。怒っているかもしれない、と思うと第一声を発するのが怖かった。一瞬の躊躇。

「雪斗!この間はごめんなさい!」

 高い声がその場に響く。ポニーテールがばさっと激しく動いて、僕はやっと莉音が頭を下げていることに気づいた。どうして?謝るべきは僕なのに。

「ううん、僕の方こそ、本当にごめん——」

「雪斗は謝っちゃダメ!」

「え?」

「私が自己中な発言をしたんだから、私が悪いの。雪斗の気持ちを考えられていなかったのは私。だから、雪斗は悪くないの。悪いことしてないのに謝るのは損するだけだからダメ!」

 しばらくの間、ポカーンと突っ立ってしまった。数秒の沈黙ののち、ふふっと笑いがこぼれる。

「え?なんか面白いとこあった?」

「いいや、なんでもないよ。ありがとう、莉音」

 深呼吸をする。この夢は、現実より幾分か息がしやすい。それは莉音がいるからか、それとも夢だからか。

「莉音。また僕の話をしてもいいかな」

 莉音は僕の決意を感じ取ったのか、真剣な顔で深く頷いた。2人で広場のベンチへと向かう。大粒の水を含んだ重たい雪がぼたぼたと空から落ちてきていた。
 不思議なことに、この夢では体は濡れない。凍てつくような空気の冷たさは感じるし、雪は降っている。それなのに、体やその場に自分の意思で出したものには雪がかからないのだ。それでも、雪国育ちの癖みたいなもので、ベンチの雪は払ってしまう。

「母さんと、向き合うことにしたんだ」

 心臓の音がはっきりと聞こえる。打ち明けることに緊張しているのか、母さんと向き合うと決めたことに緊張しているのか、自分でもわからない。どっちもあるのかもしれない。

「現実って辛いことばっかで、この夢みたいな居心地のいい場所にずっといたいって思うけど、それじゃきっとダメで。僕たちが生きているのは現実だから、ちゃんと現実を生きなきゃいけないんだ」

 隣に座る莉音の顔が少し歪んだのを感じた。あえて見ないようにしているけれど。莉音だって現実から目を逸らしたいと思っていたはずだから。この間は僕の方から莉音を突き放してしまったけれど、僕たちは同じなんだ。

「それに、今日とある言葉に出会って、それに納得したんだ。『死者を想うのは生者にしかできない』っていう言葉なんだけど。兄ちゃんを弔うのは、僕たちにしかできない。兄ちゃんが生きた証を失わずに持ったまま現実を歩くことができるのは僕たちだけだ。そのことに気づいたんだ」

 悲しみに暮れるのも必要な時間だろう。でも、いつまでもそうしていてはいけないんだとも思った。この決断を天国から見ている兄ちゃんはどんな気持ちだろうか。

「まだ母さんと話すのはちょっと怖い。話せるのかもわからない。何もできていない母さんに、兄ちゃんの死という現実を突きつけることで、僕の家族は本当に壊れてしまうかもしれない。でも、それでも、向き合うべきだと思うんだ」

 夜空の色は黒ではない。紫やら青やらが混ざった色。苦しみを抑えて毎日を過ごすだけで精一杯だったここ数ヶ月は、空の綺麗さにも気づいていなかった気がする。感傷的な気分になって、じわっと涙が浮かんできた。

「僕はさ、自分が一番苦しいってどこかで思っていたんだ。だから、無意識のうちに莉音のこと、羨んでた」

 莉音は自分の名前が突然出てきたことに驚いたようだった。バチっと視線が絡み合う。

「本当に最低だと思うよ。僕の方が苦しい思いをしているのに、そんな苦しい顔しないでよって思ってたんだと思う。ひどいよね、莉音と喋る資格なんてないと思うよ……」

 抑えていた涙が溢れる。

「人には『他人と痛みを比べるな』なんて言っておいて、自分が一番比べていたんだ。僕は、悲劇のヒロインになりすぎていた。莉音、本当にごめん」

 莉音は押し黙った。なんの感情も読み取れない顔をしている。しばらく待っていると、やっと薄い唇を開く。

「いっぱい考えたの。雪斗にわかったようなこと言うなよって言われて、『他人と痛みを比べる』ってどういうことだろうってもう一回考えてみたんだ。多分だけどさ、『他人と痛みを比べない』って人間には無理なんだと思うんだ。どうやったって私たちは弱い生き物で、悲劇のヒロインになりたいっていう思いを抱いてるし、同時に人を見下す心も持ち合わせてる。だからこそ、『他人と痛みを比べないようにしよう』って考えることが大事なんじゃないかな」

 考えながら言葉を紡いでいるようで、ゆっくりと説明する莉音。僕は莉音の言わんとするところが掴めているのか掴めていないのか微妙で、一生懸命頭を回して考える。

「うーん、なんて言えばいいのかな。あの人の方が苦しんでいるから、私は苦しまない方がいいのかなっていう考え方が出てきたら、他人と痛みを比べないようにしよう、悲劇のヒロインになろうって考える。あの人よりも私の方が苦しんでるんだから、あの人の苦しみはわかってあげられないっていう考え方が出てきたら、他人と痛みを比べちゃダメだ、あの人にはあの人の境遇があって、私には知らない部分があって、私の苦しみとは全く別なんだって考える、みたいな?」

 段々と、莉音が言いたいことが輪郭を成してきた気がする。

「ええっと、つまり……『他人と痛みを比べない』っていう考え方が、苦しみに溺れないようにするための調整器具になるんじゃないかってこと!」

 莉音自身も答えを見つけたように、晴々とした顔をこちらに見せてきた。少し自慢げでもある。調整器具、というワードチョイスに少し笑ってしまうが、わかりやすい。
 やっぱり莉音は面白いな。それに、どこまでも優しい。

「確かにそうだね……僕は後者の使い方をしなきゃいけなかったんだなぁ。莉音を傷つけちゃって、本当に申し訳ないよ」
 
「雪斗はさ、前者も使うべきだよ。お母さんの方が苦しいだろうから、自分は苦しんじゃダメだ、強気でいなくちゃって思ってたでしょう?向き合う前に、そう考えるのをやめないと自己嫌悪みたいなのでもっと苦しくなっちゃうよ。それに、私に申し訳ないなんて思わなくていいんだよ。多分なんだけど、雪斗は誰かに苦しい、助けてって言いたかったんじゃないかな。ずっと1人で溜め込んでたんでしょ?」

 また涙がこぼれる。この夢の中にいる間はどうも涙腺が緩んでしまうみたいだ。
 そっか。僕は誰かに聞いてほしかったんだ。誰にも話せない重い話だから、自分の中で抱え込んで、どんどん重みを増していって。莉音に八つ当たりするまで溜め込んで。ああ、本当、僕ってバカだなぁ。

「莉音、聞いてくれてありがとう。そして、僕に大切なことを気づかせてくれて、ありがとう」

 涙は止まらないけれど、精一杯の笑顔を向けて感謝を伝えた。目の前の、愛おしい人に。
 莉音は少し赤くなって照れて、誤魔化すように早口になった。

「い、いや、私こそたくさん雪斗に助けてもらったし!それより、やっと笑ってくれてよかった」

 重たい雪はいつの間にか水分をどこかに忘れたように軽くなっていた。

「っていうか盛岡寒いねえ!東京は段々あったかくなってきてるのに!まだこっちは真冬じゃんか!」

 体を両手で抱きしめるようにして寒い寒いと言う莉音。僕が毛布を思い浮かべると暖かい毛布がポンっと現れる。

「これ使って」

「わわ!あったか〜い。そっか、服とか毛布とか出せばよかったんだ。気づかなかった……」

 ぬくぬくしている莉音はかわいらしくて、愛おしさが増した。僕ってこんなにも莉音のこと——。

「雪斗!久しぶりにセッションしようよ。『夜の音』弾くからさ」

 雪の中に現れるキーボード。僕は微笑んで頷いた。
 夜が明けるまで、莉音が作った曲を2人で奏でた。僕を孤独にする吹雪は弱まって、日の光がどこからか差し込んできているのを感じる。決意の朝、という感じがした。
 
 パン!パン!

 微かに色づいていく世界に、溢れる美しい音に浸りながら、僕は公園が完全に消えるまで歌い続けた。





 
 朝起きてすぐの僕の仕事は、まず家中のカーテンを開けること。母さんは布団から起き上がれないから、僕が開けないといけない。
 今日はいつもと違う。決意を抱いて、勢いよくシャッと開ける。盛岡の冬は長いけれど、雪はまだ降り積もっているけれど、日が昇るのは段々と早くなってきているのを感じる。

「母さん、朝だよ。今から朝食作って持ってくるから、待ってて」

「ごめんねぇ、雪斗、ごめんねぇ、月斗(つきと)

 うわごとのような母さんの謝罪に、心臓が潰れそうになる。月斗というのは兄ちゃんの名前だ。

 キッチンに向かい、炊飯器からご飯をよそう。残ったご飯はラップで保存して冷凍庫に入れた。暖房を入れたばかりのリビングは歯がガチガチ鳴るくらい寒い。手も凍りそうなくらい冷たい。っていうかもう凍っていると言っても過言ではないと思う。保温された米があげる湯気に手を当てて、ちょっとだけ温まった。
 シリコン製の電子レンジで使う調理器具で、温泉卵もどきを作って、納豆パックを冷蔵庫から取り出す。
 お盆にそれぞれお茶碗、卵、納豆を乗せて、母の寝室に持って行った。

「母さん、朝食持ってきたよ。体起こせる?」

 目が虚ろでどこを見ているかわからない母さんは僕の支えを借りてゆっくりと体を起こし、僕がスプーンで掬ったご飯を少しずつ食べる。
 全く会話ができないわけじゃないし、食事も睡眠も取ることはできている。専門機関に相談したこともあったが、本人の意志で前を向かない限り寝たきりの生活は治らないと言われた。僕だってまだ前を向けているわけじゃないから、僕より辛いであろう母さんに前を向くことを強制するのは酷だと思って、何も言わずに僕はただ世話をすることを選んできた。
 
「母さん、食べ終わったら話があるんだ」

 死んだような瞳が少し動いて、僕を捉える。ドキリとした。ここ数ヶ月でこんなことはなかった。

「わかったわ」

 いつもより少ししっかりした声で返事をされて面食らう。世界が心臓の音に支配される。そうか、僕は今緊張しているんだ。
 母さんは固まった卵が好きだから、食べさせるのが簡単だ。割らないように気をつける必要がない。僕は半熟の方が好きだけれど。そういえば、兄ちゃんも固い卵が好きだったなぁと思い出す。目頭が熱くなった。どうやらここ最近はすぐに泣いてしまうみたいだ。
 このあとなんて話し始めるかを考えていると、いつもは途方もなく長く感じられる食事の時間が、あっという間に終わってしまった。

「この間、学校で講演会があったんだ。津波で家族を亡くした方が喋っていて、僕はその中の言葉に大切なことを気付かされたんだ」

 話し出した僕に母さんは耳を傾けているようだ。「家族を亡くした」のところで明らかに母さんの顔が苦しそうに歪む。わかるよ、母さん。僕だって苦しいんだから。

「その人は『死者を想うことができるのは生者だけだ』って言っていたんだ。そこで僕は気づいた。兄ちゃんのことを、兄ちゃんが生きた証を繋いでいけるのは生きている僕たちだけなんだって。僕はここ数ヶ月ずっと苦しかったよ。なんで兄ちゃんは僕たちを残して死んじゃったんだろうって。僕も同じところに行きたいって何回も思った。でも、母さんはもっと苦しいだろうし、父さんだって苦しかっただろうし、だから僕は我慢してた。僕が苦しんじゃダメだ、僕は頑張らないといけないんだって思ってた」

 話しながら僕は、布団に横たわる母さんの華奢な手を掴んだ。

「でも、でも、兄ちゃんを弔うことができるのは、僕たちだけなんだよ。父さんはどっかに行っちゃった。家族を元に戻すことを諦めたんだと思う。それは許せないけど、残されたのは僕と母さんだけなんだ。この2人で、兄ちゃんの死と向き合うしかないんだ」

 溢れる感情が透明な粒になって頬を伝って母さんの腕に流れ落ちた。気づけば、母さんの目からも涙が溢れていた。母さんは葬式の日以来泣けていないはずだ。僕が無理やり兄ちゃんの死の話を出したから、久しく何にも動いていなかった感情が揺れているのだろう。
 申し訳ない気持ちが出てくる。でも、僕がここで思いをぶつけるのをやめてしまったら、きっとこの家族は崩壊の一途を辿るだけだ。多分、分岐点にいるんだと思う。どうなるかわからない未来に強張る体を叱咤して、さらなる思いを紡ぐ。踏みとどまりそうになるのを、莉音の言葉を思い出して必死で動かす。

「現実を生きる僕たちは、現実と向き合わなきゃダメなんだ。だから僕は、兄ちゃんの死と向き合うことにしたよ。そして、母さんと向き合うことにした。母さん、僕は母さんに、僕と一緒に前を向いてほしい」

 流れ落ちる涙は止まることなく、次から次へと粒を生み出されていく。

「子どもを亡くした、それも自殺で亡くした母さんの痛みを全部わかるなんて言わない。でも、それでも、()()()よ」

 母さんがゆっくりと起き上がった。僕の支えなく、自力で。そして、僕の体を両手で抱きしめた。力が全然入っていないけれど、力を入れようとしているのが感じられた。

「僕たちは、いつまでも下を向いているわけにはいかないんだ!」

 僕は年頃の「恥ずかしい」とかいう感情を捨てて、母さんをぎゅっと抱きしめ返した。わかってよ、母さん。一緒に、前を向こうよ。

「ごめんなさい、雪斗。辛い思いをたくさんさせてごめんなさい」

「謝らなくていいんだ、母さん。誰も悪くないんだから。現実は目を背けたくなるようなことばっかり起きる。僕だってこれまでずっと目を逸らしてきた。居心地のいい夢にずっといれたらって思うよ。それでも、僕たちが生きているのはどうやったってリアルだ」

 途中から、自分に向けて言い聞かせているようにも思えてきた。そうだ、僕たちはどうしたって生きている人間なのだから。この世界と向き合わなきゃいけないんだ。

「うん、うん。お母さんもずっと目を逸らしてきた。あれから、起きあがろうとしても、この部屋から出たら、月斗との思い出が蘇ってきて、動きたくなかった。月斗がもういないっていう現実を受け入れたくなかった。家のことも私のことも、全部雪斗に任せてしまっていた。罪悪感を感じていたのに、体は思うように動いてくれなくて。本当にごめんなさい。雪斗も苦しかったのにね、私はひどい母親ね……」

 ボロボロ泣きながら、母さんが言葉を紡ぐ。久しぶりに母さんの声をこれだけ長い文章で聞いた。少し掠れた密度の薄い儚くて綺麗な声。

「そんなこと言わないでくれよ!これから前を向けばいいんだから。少しずつでいいから……」

「そうよね——ああ、月斗、月斗、どうして自殺なんてしたの……?もう戻ってきてはくれないの?大学なんて行かなくてもよかったのに。就職だってできなかったら家に戻ってくればよかったのに。母さん、月斗のためだったらパートでもなんでも稼ぎに出るのに。生きてさえいれば、生きていてくれれば……どうして?ああ、どうしてなの……」

 母さんは声をあげて泣き出した。悲しみが痛いほど伝わってくる。
 葬式以来、兄ちゃんの死の話が出ると目も口も閉ざして全てをシャットアウトしてしまっていた母さんはもういない。

「そうだよね、母さん。生きてさえいれば、そして僕たちに相談してくれていれば、何か解決のしようがあったのかもしれないのに。でも、きっと兄ちゃんは本当に苦しかったんだよ。解放されに行ったんだ。きっと天国で僕たちを見てくれているよ」

 でもやっぱり、戻ってきてほしいよ、兄ちゃん。置いていかないでよ、大好きなのに。
 たくさん、思い出が浮かんでくる。幼い頃、買ってもらったおもちゃが壊れてしまって泣いていた僕に、自分のおもちゃをくれた兄ちゃん。小学生の頃、テレビのチャンネル争いでよく喧嘩していたこと。ゲームをやりすぎると父さんに怒られて取り上げられてしまうから、お互いにゲームをやっていることを父さんに見つからないように協力したこと。中学に入って、難しい数学の問題にぶつかった時、丁寧に順を追って教えてくれたこと。どれも暖かくて幸せな時間だった。
 同時に、たくさん、後悔も浮かんでくる。あの時、兄ちゃんに感謝を伝えていれば。盛岡に帰ってきてくれた時にこぼした就活への不安にもっと真剣に向き合ってあげれば。年頃で、恥ずかしくて伝えられなかった「大好き」という言葉をもっと伝えていれば。

 それから、僕はその日は学校に行かず、ずっと母さんと抱きしめ合って泣き続けた。

「お母さん、今日から少しずつ自分のことやるわ。すぐに全部こなすのは難しいかもしれない。雪斗にはまだたくさん迷惑をかけると思う。でも、頑張るから許してくれるかしら?」
 
「もちろん。許すとか許さないじゃないよ。一緒に頑張ろう。でも、無理はしちゃダメだからね」

 母さんまで無理をしていなくなってしまったら、僕は本当にひとりぼっちなのだから。
 これからは、2人で支え合って生きていかなければならない、この残酷な世界を。

 いや、この世界は残酷なだけではなく、綺麗だ。窓を見遣ると雪は止んでいて、太陽がまばゆい白い光が世界を照らしていた。窓の外の景色は、はっと息を呑むほど美しかった。
 吹雪は終わったんだ。兄ちゃんとの思い出は胸に抱えたまま。後悔も抱えたまま、僕たちは今日からまた、一歩一歩確かに歩き続ける。美しい銀世界に足跡を残しながら。

 ありがとう、莉音。君のおかげで、僕は大切なことに気づけた。言いたかったことをちゃんと伝えられた。君は僕にとって、吹雪を抜けるための光だ。
 莉音に対する温かい想いがまた膨らんで、夜が待ち遠しくなった。


 

❆。:*.゚




 学校に休みの電話を入れて、母さんに出かけてくると言い、僕は盛岡城跡公園に向かった。外に出るのは寒いから、玄関の扉を開ける瞬間、ちょっと覚悟しなければならない。とはいえ、やっぱり春は近づいてきているみたいで、少し前までより寒さが和らいでいるように感じる。
 平日の昼間に街を歩くのは、背徳感があってなんだかいい。今クラスのみんなは授業を受けているんだと思うと、少し心が躍った。大通りを通って中ノ橋を渡る。車やトラックが橋を勢いよく渡っていっても、全く橋が崩れないのは何気にすごいことだと思う。
 ザーと川が流れる音が身近に感じられる。鴨がスイスイと泳いでいた。中津川は北上川の支流で、川の水が非常に綺麗なことで有名だ。秋には鮭の遡上(そじょう)が見られるくらい。実際、橋の上からでも水が透き通っていることがわかる。

 最近はこんなことを考えることすらなかった。川の水が透き通っているだなんて、日々の生活が忙しければあえて気にすることはない。自分がいっぱいいっぱいだったことを改めて実感した。
 真っ直ぐ進んでいくと、城跡公園の正面の入り口がある。いや、正面なのかはわからないけれど、花時計があって、1年中何かしらの花が植えられている。今日はそこから入ることにした。
 広場を抜けて、夢の中で莉音と会う小さな橋に向かう。池があって、ところどころ岩で渡れるようになっている。広場の方からは、お散歩に来ている保育園児たちとその先生の声が聞こえてきた。

 この公園には母さんと兄ちゃんとよく来たことがある。家から近いため、母さんがよく連れてきてくれていた。春は桜が綺麗で、夏は中津川がキラキラ涼しげで、秋は紅葉が映える。冬は一面雪で覆われて、それはそれは美しいのだ。四季を感じられるこの公園は、子どもの感受性を豊かにするのに打ってつけの場所のはずだ。
 さっき泣いたことで腫れているであろう目が冷たい空気にあたって少しヒリヒリする。

 小さな橋はコンクリートでできていて、池を覗くとすぐに落ちてしまいそうなくらい柵が低い。よく莉音が柵に寄りかかっているのを見て、ハラハラしてしまう。いや、別に落ちても大した怪我はしない高さなのだけれど、いかんせん池の水が汚いから、落ちたくはないだろう。
 そこまで考えて、ハッとする。僕は確かに、いつもの夢でこの池の水が汚いことを()()感じていた。中津川の水が澄んでいることも、()()感じていたように思う。電灯があるとはいえ、暗い夜のことだ。水が綺麗か汚いかなんて見てわかるものだろうか。
 
 そもそも、あの夢は何のために見せられているのだろうか。

 最初に夢に連れていかれた時によぎった考えがもう一度頭に浮かぶ。ドクドクと心臓が血を巡らせる音がはっきり聞こえる。もし本当に()()だとしたら?
 黒ずくめの管理人の姿が脳裏に写る。今日、夢で公園に行って、あの人に聞いてみよう。そうすればわかることだ。

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