交差した平行線

 公園のベンチに一人座っていた。
 
 高校を卒業してから、一ヶ月。
 ここは、久しぶりに訪れた場所だった。
 ただ、この公園には何の思い出もない。ただの通り道。それなのに僕はなぜかここに引き寄せられていた。
 それは、卒業式の後、一人で立ち寄った場所だからなのかもしれない。

 僕は、何気なくスマホを取り出し、画面に映る時刻を確認した。
 なんとなく、アルバムアプリを開く。

 高校時代の写真を見ても、特に何も感じない。
 ここにあるものは、僅か数ヶ月前までの出来事なのに、もう遠い過去のように感じていた。
 ただ、今の僕にとっては、それで良かったはずだった。

 だけども、僕が自分自身で、そうであると考えていたのにも関わらず…。
 その自らの意思に反して、目を閉じると、あの頃の記憶が鮮やかに蘇ってきた。



 高校二年の秋。
 僕と彼女は同じ生徒会に所属していた。
 僕は副会長、彼女は書記。生徒総会の準備で忙しい日々を送っていた頃だった。
 生徒会室には、書類の山が積み上げられていた。

「この議事録、どう思う?」

 彼女はいつも僕の意見を求めてきた。
 まっすぐな瞳と、少し緊張した表情。
 長い黒髪を耳に掛ける手つきに、気がつくと、僕は視線を奪われていた。

「うん、いいと思うよ。でも、ここの記述はもう少し具体的に書いた方がいいかな。」

 僕は議事録の端を指さした。
 彼女が少し身を乗り出して覗き込む。
 その瞬間、ほんのりとした香りが鼻をくすぐった。
 何の香りだろう。花のような、でも甘すぎない香り。

「あ、確かに。ここ修正します。副会長って細かいところまでよく見てますね。」

 彼女は素直に頷いた。
 僕の言葉をいつも真摯に受け止めてくれる。否定することなく、考慮してくれる。
 そんな彼女の姿勢が、僕の中で特別な存在になっていった。
 それは別に好きとかそういうことではない。

 ただ、一緒に仕事をしていて心地良かっただけだ。それだけのことのはずだった。

 生徒会の仕事は多かった。
 放課後の時間はほとんど会議室で過ごした。彼女と二人きりになることも少なくなかった。
 他のメンバーが先に帰った後、残った書類の整理をすることが多かったからだ。

「今日もお疲れ様。」
「お疲れ様でした。まだ終わらないですか?」
「あと少しだけ。先に帰っていいよ。」
「いえ、手伝います。二人なら早く終わりますから。」

 そんなやり取りが日常だった。
 彼女との何気ない会話が、続いていた。
 教室では話す機会がほとんどなかった。クラスが違う。そして、休み時間は彼女はいつも友達のグループの中にいるはずだった。
 廊下で会っても、軽く会釈する程度。

 それでよかったはずなのに、なぜか生徒会の時間だけは特別だった。
 生徒会室だけが、僕と彼女だけの特別な空間のように思えた。
 そこだけは、僕も彼女も同じ役割、同じ責任を持つ仲間だった。
 もっとも、それ以上でもそれ以下でもないのだけれども。

 彼女が生徒会に入ったのは、実は彼の勧めがあったからだと後で知った。
 彼。
 それは、同じ高校の同級生で、クラスは彼女と同じ。サッカー部のエースで、成績も優秀。
 学校中の女子から人気を集める存在だった。

 そんな彼が、ある時、何故か僕に話しかけてきた。

「副会長、今日も遅くまで残ってるの?すごいね。」

 練習を終えた彼がたまたま生徒会室の前を通りかかり、声をかけてきたことがあった。
 僕とは違った種類の真面目さを持つ彼。その堂々とした姿勢と、誰に対しても変わらぬ優しさは、嫌でも認めざるを得なかった。
 すらりとした背の高さは女子に人気があるらしい。

 サッカー部のユニフォーム姿がよく似合う均整の取れた体格。
 彼の人気は見た目だけではなかった。授業中に分からないところを丁寧に教えてくれたり、困っている人がいれば率先して手を差し伸べたり。
 そんな彼の性格を、彼をよく知らない僕でさえ否定することはできなかった。

 僕のような地味な性格と違い、彼の周りはいつも人が集まっていた。
 そんな彼が生徒会に入らなかったのは、単にサッカー部が忙しかったからだろう。
 もし、彼が生徒会に入っていたら、きっと会長になっていただろう。

 生徒総会の準備が終わり、定例の生徒会活動が続く日々。
 僕たちの作業時間は安定していった。それでも夕方までかかることが多かった。

「もう暗くなってきたね。」

 窓の外は日が落ち始めていた。
 彼女の横顔が夕暮れに染まっている。思わず見入ってしまう。

「あ、本当ですね。今日も遅くなっちゃいました。」
「送っていこうか?」

 言うべきではない言葉が、唐突に口から飛び出した。
 彼女は少し驚いたように目を丸くした。

「えっ、でも遠回りになってしまいますよ?」
「いいよ。最近物騒だし。」

 実は彼女の通学路なんて知らなかった。
 送ると言い出したことを既に後悔していたけれど。

「じゃあ、お言葉に甘えます。ありがとうございます。」

 それからは時々、彼女を駅まで送るようになった。
 仕方なく、というわけではない。
 ただ、そうするべきだと思ったからだった。

 駅に着くと、彼女はいつも礼儀正しくお辞儀をする。

「ありがとうございました。また明日。」

 そう言って改札へと消えていく。その背中を見送った。

 ある日、彼女を送った帰り道。
 駅のホームで偶然、彼と彼女が話している場面を目にした。
 彼女の表情が明るい。僕には見せない笑顔だった。二人は同じ方向に住んでいるらしい。
 電車に乗り込む二人の姿を見て、胸が締め付けられる感覚を覚えた。

 サッカー部の練習試合を見に行ったことがある。
 別に彼を見るためではない。サッカー部の決裁書をもらいに行った時のことだった。
 グラウンドを駆け回る彼の姿は、理想的な動きをしていた。正確なパス、素早いドリブル、鋭いシュート。
 周囲から天才、と呼ばれる理由が素人の僕にも分かった気がした。

 試合後、彼は後輩たちに丁寧にアドバイスをしていた。
 その姿を見て、僕は何も言わずに立ち去ることしかできなかった。

 冬休み前。
 生徒会室で二人きりになった日があった。
 会長も他のメンバーも早く帰り、残ったのは僕と彼女だけ。窓の外は既に暗くなっていた。

 重たい空気が流れる中のことだった。
 その時、彼女のスマホが鳴った。
 画面を見た彼女の表情が、パッと明るくなる。
 これまで見たことのない、輝くような笑顔だった。

「ごめん、ちょっと出なきゃ。」

 僕は黙って頷く。
 それを見ているのか、彼女はさっさと廊下に出て行った。

 扉の向こうから聞こえる彼女の嬉しそうな声。
 戻ってきた彼女に、僕は尋ねた。

「誰からだったの?親?」
「あ、ううん、ちょっと…。」

 言葉を濁す彼女の目が、僕から逸れた。少し頬が赤らんでいるようにも見えた。

「そろそろ帰ります。」

 彼女は話題を変えるように言った。



 その翌日、僕は偶然、彼女を見かけた。
 駅前の交差点で、彼と楽しそうに話す彼女。彼女は彼に、僕に見せたことのない笑顔を向けていた。

 僕はその場に立ち尽くした。
 胸の奥が締め付けられる感覚。呼吸が苦しくなった。
 二人は気づかない。僕の存在に。
 楽しそうに笑い合う二人を見ていると、全身から力が抜けていく感覚に襲われた。

 彼女の笑顔は、生徒会室では見せない表情だった。
 僕に向けたことのない、心から楽しそうな表情。彼が彼女の肩に軽く触れた。
 自然な仕草だった。

 二人の距離感は、明らかに単なる知り合い以上のものを感じさせた。

 彼は、そのまっすぐな瞳でいつも相手を見つめる。
 その視線には嘘がない。だから皆が彼を信頼するのだろう。
 彼女もきっと、そんな彼の誠実さに惹かれたのかもしれない。

 気づくと、僕は彼らから目を逸らし、別の道を歩いていた。
 家に帰る途中、何度も立ち止まった。胸の痛みが歩くことさえ困難にした。

 そうか、彼女と彼は。考えてみれば当然だった。
 彼のような人物が彼女に好意を持つのは自然なことだ。背が高く、スポーツができて、勉強もできる。
 何より、あの人懐っこい笑顔と優しい性格。彼女が彼を好きになるのも当然だ。

 そう思った。でも、なぜだろうか、それを認めたくなかった。別に僕は彼女のことを特別には思っていない。ただの生徒会の同僚だ。
 それなのに、なぜ、認めたくないのか。よく分からなかった。

 冬休みが明けて、僕は彼女に冷たく接するようになった。
 なぜだか、自分でも理解できなかった。
 彼女が話しかけると、そっけない返事をする。彼女の提案には必要以上に批判的になった。

「これ、明日までに終わらせておきますね。」
「ああ。」

 そっけない返事に、彼女は戸惑った顔をした。
 でも、僕は無視した。
 彼女は何も悪くない。ただ、少し腹が立っているだけだった。

 彼と彼女が付き合っているという噂が学校中に広まり始めた頃だった。
 別にそんなことは知りたくなかったのに、どこからともなく耳に入ってくる。

「あの二人、お似合いだよね。」
「彼女、彼に告白されたんだって。」
「付き合い始めたらしいよ。」

 噂かどうかも確かめようとしなかった。
 でも、廊下で彼らが一緒にいるのを見かけるたび、何かが込み上げてきた。
 彼女が笑う。彼も笑う。周りの友達も交えて楽しそうに話している。
 そんな輪の中に、僕の居場所はなかった。

 そんな日々が続いた二月のある日。
 生徒会の予算会議で、彼女の提案に僕は厳しく反対した。

「この提案じゃ、他の部活動に迷惑がかかるよ。もっと全体のことを考えるべきだと思う。」

 必要以上に強い口調で言った僕の言葉に、会議室が静まり返った。

「どうして…。」

 彼女的になった彼女の声。

「どうして最近そんなに冷たいの?」

 周囲の視線を感じながら、僕は言葉を選べなかった。
 会長や他のメンバーが困惑した表情で僕を見ている。

「別に冷たくなんかしてないよ。ただ、客観的に見て、その提案は問題があるって言ってるだけだ。」

「そうじゃなくて…」

 彼女の目に水滴が浮かんでいた。

「私、何かしたの?何か悪いことした?」
「あのね…」

 言葉を発する前に、彼女は立ち上がった。
 椅子が床を引っ掻く音が会議室に響いた。

「もういい。わかったから。」

 そして会議室を出て行った。
 その背中を追いかけることができなかった。
 残された会議室は重苦しい沈黙に包まれた。

「副会長、ちょっとやりすぎじゃない?」

 会長が静かに言った。僕は答えられなかった。

 翌日から、彼女は生徒会を休むようになった。
 その数日後、学食で一人で昼食を取っていると、彼がトレーを持って近づいてきた。

「ここ、いいかな?」

 断る理由はなかった。断る勇気もなかった。
 彼は僕の向かいに座った。彼の表情には、いつもの穏やかな笑顔がなかった。

「彼女に会った?最近、生徒会に来てないって。」
「ああ。休んでる。」

 僕は平静を装った。
 ただ、なんとなく、彼の目をまっすぐ見ることができず、食事に集中するふりをした。

「彼女から聞いたよ。生徒会の予算会議のこと。」

 動きが一瞬止まる。彼は続けた。

「最近の副会長、彼女に冷たいって。何かあったの?」

 何もない、と言いたかった。
 関係ないだろ、と言いたかった。

「彼女、副会長のこと本当に尊敬してるんだ。いつも真面目に仕事をしてて、意見もしっかり聞いてくれる人だって。」

 彼は僕を諭すかのように言葉を続けた。

「だから、急に冷たくされて、すごくショックを受けてるみたいなんだ。何か誤解でもあったんじゃないかって。」

 僕は箸を置いた。もう食欲はなかった。

「誤解なんてない。生徒会のことで意見が合わなかっただけだ。」

 言い訳めいた言葉が口から零れた。
 彼はしばらく僕を見つめていた。その瞳は僕の心の奥まで見透かしているようで、居心地が悪かった。

「そうか。でも、彼女はそう思ってないみたいだよ。自分が何か悪いことをしたんじゃないかって、すごく気にしてる。」
「もういい。」

 僕は彼の言葉を遮った。
 これ以上聞きたくなかった。知りたくもないことだった。

「俺、行くから。」

 席を立とうとした僕に、彼は最後の一言を投げかけた。

「彼女が生徒会辞めるかもしれないって言ってた。それでも構わないの?」

 彼の言葉に、振り返ることはしなかった。

 一週間後、彼女は正式に辞任した。
 その日、会長から辞表を見せられたとき、僕は何も言えなかった。

「体調不良って書いてあるけど、本当はそうじゃないよね?」

 会長の問いかけに、僕は黙ったまま。自分のせいだと認めることができなかった。

「彼が言ってたよ。副会長、彼女に何かあったの?って。」

 会長の言葉が、まるで僕を責めているように感じた。

「いえ、僕は何も知りません。」

 僕はそう言い切った。

「そうか。」

 それ以上、会長は僕に聞いてくることはなかった。 



 教室で見かけても、彼女は僕と目を合わせなくなった。
 廊下ですれ違っても、まるで僕が透明人間であるかのように通り過ぎていった。それが一番辛かった。彼女にとって、もう僕は存在しないのだ。

 彼女の隣にはいつも彼がいた。二人の関係は本当に進展したのだろう。
 手をつないでいるところを見たわけではないが、彼らの間の空気が変わった。より親密になった。
 それを見るたび、自分の愚かさを思い知らされた。別に僕は彼女に何も感じていない。ただの同僚だった。

 ただ、毎日が無色透明になっていくような感覚がした。
 生徒会の活動も実務的な作業になった。
 生徒会室は、ただの四角い部屋でしかなかった。

 卒業式の日。
 教室の前で待っていると、彼女と彼が並んで立っている姿を見た。
 校門の前で、二人とも卒業証書を手に、笑顔で話している。
 親しい友人たちに囲まれて、記念写真を撮っていった。

 彼はいつも周囲の人たちを笑顔にする。
 そういう存在だった。彼の周りには自然と人が集まり、そこには温かな空気が流れていた。

 その日の夕方、この公園に一人で来た。
 疲れた体を引きずるようにしてベンチに座り、空を見上げた。
 もう終わった。全てはそれでいい。そう自分に言い聞かせた。



 現実の音に引き戻され、目を開ける。
 子供たちの笑い声。遠くを行く車のエンジン音。
 日常の断片が、過去の記憶を彼方へと押し込めていくようだった。

 公園の景色が戻ってくる。
 ただ、一ヵ月が経った今も、あの日の違和感は消えていない。
 むしろ日に日に鮮明になっていく。まるで古い記憶が色あせるのではなく、逆に色を増していくようだった。

 ふと、公園の向こう側に見覚えのあるシルエットが見えた。
 僕の視界に入った瞬間、僕は驚いた。
 彼女だった。
 もはや制服ではなく、淡いブルーのシンプルなワンピース姿。耳に掛けていた黒髪が、春風に揺れている。

 思わず立ち上がりかけた。
 その一瞬、忘れていた何かを思い出したような感覚。
 でも次の瞬間、彼女の隣を歩く姿を認めた。

 彼だった。

 二人は楽しそうに笑いながら歩いている。
 自然な距離感。彼の方が少し背が高い。彼女は時折、彼の肩にもたれかかるようにして歩いている。

 その彼の洗練された立ち振る舞いは、僕と同じ年齢の人間であるとは思えなかった。
 自然と周囲の視線を集める存在感。彼女の隣にいる彼は、まるで雑誌から抜け出してきたモデルのようだ。
 それでいて、決して威圧的ではなく、いつも周囲を気遣う気配りができる人間だった。

 そんな彼だからこそ、みんなが心を開いたのだろう。
 彼女も、彼の隣で心を開いている。どこか他人行儀に接していた彼女とは別人のように、自由で伸びやかな表情。

 彼女は僕に気づいていない。

 そして、交差点で信号が変わり、彼らは向こう側へ渡っていった。
 二人の姿が徐々に小さくなっていく。
 他の歩行者たちの中に溶け込み、やがて見分けがつかなくなる。

 彼女は振り返らない。
 それが示しているかのように、僕と彼女の道は、もう二度と交わることはないのだろう。
 まるで一度交差した直線が、無限の空間で再び出会うことのないように。
 絶対に交わることのできない平行線より、一度交わってしまった線の方が、もっと孤独なのかもしれない。

 きっと、どのようにやっても、僕は彼女と向き合うことはなかったのだろう。
 それが運命だったのか、他の要因だったのか、答えはもう見つからない。

 ゆっくりとベンチから立ち上がる。木のざらつきが手のひらに残る。
 座っていた場所だけが、僕の体温で暖かった。

 あの交差点の向こう側で、彼女は幸せな道を歩み始めているように思えた。
 彼という理想の伴侶と共に。確かに、彼なら彼女を幸せにできるのだろう。

 交差して二度と会わない運命。それが僕に与えられた答えなのかもしれない。
 それでも、あの日々は確かに存在した。そこにいるだけで心地よかった時間。
 生徒会室の閉じられた世界。彼女の真摯な眼差し。書類を整理する繊細な指先。耳にかける黒髪の仕草。それらはすべて、実際にあったのだ。

 僕は立ち止まった。
 空は青く、雲一つない。
 僕は前を向き、再び歩き始めた。

 一歩、また一歩。
 決して二度と交わらない軌跡を描きながら。