今日はニンゲン生物学の授業はない日だけど、寮の部屋にずっといるのもなんだか手元無沙汰だったので誰もいない教室にふらっと足を運んだ。
 教卓に座りぼーっとする。ずっと、心が重たい。嫌なことばかりフラッシュバックして落ち着かない。
 こんな時パソコンやスマホがあれば気分転換にネットサーフィンでもしながら時間を浪費するんだけど、異世界という醒めない夢の中ではそうもいかない。
「……あ、いた」
「わ!? えっ?」
 突然教室の扉が開いたかと思えば、顔を覗かせてきたのはゼノくんだった。
「今日授業の日……じゃないよね? どうしたんですか、ゼノくん」
「あー……っと、職員室、いなかったんで、一応教室見に来たんすけど」
 あれ、どうしてだろう。
 ……なぜだか、声がやけに大きく頭に響く。
「あ、ごめんね……! 職員室、まだハードルが高いというか……」
「ハードル高いとかなくないすか。職員なら職員室使うだろ」
 ドクドクと心臓の鼓動が速くなる。命を脅かす生き物と対峙した時のような緊張で、手に汗が滲んだ。
「あはは……たしかに。僕に用事がありましたか?」
 平静を取り繕って返すと、ゼノくんは眉を顰めた。
「……あの」
 スタスタと僕に近寄って、ぐっと顔を寄せる。しばらく至近距離で睨まれたあと、ゼノくんはバツが悪そうな顔で首を掻いた。
「……やっぱ、かかってねえすか」
「か、かかる?」
「俺の魔法」
「き、君の……?」
「精神干渉魔法……昨日、使った時アンタ近くにいただろ。ハルハードの先生たち超優秀な魔法使いなんで、まさか俺の魔法なんてかかんねえって思ってたんすけど……その感じ、魔法の影響残ってる感じするんで」
「……あ」
 そうだ。昨日の訓練で彼の声を聞いてから、妙に気持ちがざわついて、嫌なことばかり思い出す。
「……アンタ、チルベッタ様直々の推薦で赴任してきた教師って聞いてたんすけど、俺の魔法で気分悪くしてて大丈夫なのかよ」
「ご、ごめんなさい……」
「……解くんで、大人しく目ェ閉じてろ」
「……はい……?」
 困惑する僕の頭に手を翳したゼノくんは、小さく何か呪文のようなものを唱える。
 頭の先から、じんわりと熱が広がって行くようだ。暖かい血液がそこから全身に流れていき、爪先まで辿り着いた頃にはもうすっかり僕の心は晴れていた。
「わ、すごい……! 気持ちが軽くなったよ。ありがとう、ゼノくん!」
「……こんぐらい、むしろなんでできねえんすか」
「え、えっと……。その、苦手分野で!」
「……」
 苦しい言い訳だろうか。様子を伺うためにチラリとゼノくんを見る。
「……まあ、治癒系の魔法は特に難しいんで、仕方ないっすね」
「……やっぱり治癒魔法って難しいんだ……」
「……壊すのは誰にでもできるけど、治すのは違う。元々の形を知っていて、治し方を知っていて、治す技術がないとできない。だから全ての魔法の中で治癒魔法が一番難しい」
「へえ……」
「へえ、じゃねーよ! アンタ本当に教師なんだよな!?」
「ごめんなさい……」
「チッ……、こんなにレベルの低い学校だと思わなかったぜ。師匠はどうして俺を学校なんかに……」
「……師匠って、確か……ゼノくんが大好きだっていうお師匠様のことだよね」
「!!?」
 ゼノくんは二、三歩後ずさって口をパクパクさせている。真っ赤に染めた顔に怒りを浮かべた。
「そっ、れ、……もしかしてリンが言ったのか……!!」
「え、ごめん、間違ってた……?」
「違ッ……くは、ねえけど!! また余計なこと言って……!!」
「あはは、違くないのかぁ。素敵だね、好きだって、尊敬することができる人がいて」
「…………」
 恥ずかしそうに目を逸らす彼は年相応の幼さが垣間見えて、僕は少し嬉しい気持ちになった。
「ゼノくんの師匠ってどんな人?」
「……師匠すか。……まあ、んー……、気まぐれで、悪ふざけが過ぎるところがあって……、そんで、やりたいことしかしないお方っすかね。やりたいことしかしないのに、そのやりたいことの中にすごく面倒だったり、大変だったり、大事なことだったりが含まれる時があって、そういうとこ凄いなって思うんだよ」
「聞く限り自由な人なんだね」
「師匠以上に自由な人を俺は知らない。好きなことしてるのが似合ってるんすよ、師匠には。……なのに、ずっと俺に付き合ってくださってる。感謝しかないんすよ、ほんと」
 声が優しい。大切な人の、大切な思い出の話をする時の声だ。少し粗暴な印象のあった彼からはこんな姿、想像できなかった。
「……先生にはいないんすか。先生に何かを教えてくれた師匠みたいな人」
「僕? ……僕にはいない、かな。先生はたくさんいたけど……僕には才能がなかったから、僕を気にかけて熱心に教えてくれる人はいなかった。僕自身、途中で諦めたからさ……」
「……ふーん。そういう消極的で自虐的なとこ、直した方がいいすよ」
「え?」
「先生にこういうこというのアレだけどさ。精神干渉魔法はトラウマやコンプレックスをつついて心を壊すんすよ。先生、あの魔法との相性良すぎなんで、対策すべきっすよ、マジで」
「そ、そっか……ごめんね」
「怒ってるとか貶してるとかじゃねえよ。アンタのために言ってる。心を強く持たなきゃ気にしなくていいことに気を取られる。それは弱点だろ。命取りになる」
「……うん、ゼノくんの言う通りだ」
「……ゆっくりでいいと思うけど、自分に自信持てるようにしろよ。俺は師匠に出会ったのが人生の分岐点だった。アンタの人生にもきっと、何かきっかけが現れるだろ。……あ、タメ口ばっかすんませんっす」
「う、ううん! 気にしないで!」
「気にした方がいいですよ、カルタ先生」
「リンくん!?」
 気づかないうちに僕の隣にリンくんが立っていた。ドアから入ってくる音も、隣に立たれた気配も感じなかった。いつの間に……。
「ゼノくんってばカルタ先生に失礼なことばっかり! だめだよ、そんな態度とっちゃ!」
「……っるせえバカ!! だいたいなんで居るんだよ! もういい、帰る!」
「あー、もう! カルタ先生、本当にごめんなさい」
「いえ、魔法も解いてもらいました。ゼノくんには感謝してます」
「ふふ、よかった。ゼノくんのこと嫌いになっちゃったらどうしようって思ったから……」
「嫌いになんてならないよ。リンくんは優しいですね」
「優しい人と一緒にいると、優しくなれるんです。僕のことを優しいと思ってくださるのなら、それはきっと……ゼノくんが優しいからですね」
 そう言ってリンくんはゼノくんの後を追って行った。ゼノくんからリンくんへの態度は強く、少し心配だったけど……杞憂だったみたいだ。