努力は報われるとか、夢は叶うとか、そんなぬるま湯のような言葉に浸っていた。
"いつか"はかならずいつか来てくれて、"そのうち"と後回ししたことは全部そのうちなんとかなると思っていた。

__28歳、現在。

 僕は、何者にもなれずに大人になった。



[異世界ニンゲン生物学!]



 東京の夏は蒸し暑い。電気代節約のためここ数年稼働させていないエアコンは部屋のインテリアに成り果て、風を浴びようと開けた窓からは熱風が注ぎ込んでくる。
 完成したイラストファイルを添付してエンターキーを押す。サウナのような部屋でようやく仕事を片付け、僕はぐっと伸びをした。
 業務委託という形でイラストレーターの仕事をしている。会社が持ってきた仕事を僕がもらい、完成させたものを会社に渡す。僕の名前はどこにも載らず、僕の絵は知らない場所で公開される……そんな仕事だ。この仕事は嫌いじゃない。僕は絵を描くことしかできないのに、絵を描くことに疲れているから。食い繋ぐために絵を描いて、絵を描くために食い繋いで、僕はそうして同じことを繰り返して生きている。
 なんの変化もない、毎日毎日同じサイクルの日々。それが僕の人生。
 いつからこうなってしまったのか、と思い起こせば脳裏に浮かぶ美術大学の学生だった頃……と、思い出したくない記憶を振り払うように頭をブンブンと振った。
「僕、何をしてるんだろう……」
 夢を諦め、目標も持たず、何の意欲も向上心もないまま体だけが大人になってしまった。社会の歯車にもなりきれないのに、道を外れる勇気もない。僕は生きているのではなく、死んでいないだけのつまらない人間だ。
 目頭が熱くなる。一人きりとはいえ泣くのはなんだか癪で、僕はぎゅっと目を閉じた。






 すん、と鼻を通る空気の温度が下がる。
「……へっ?」
 目の前に広がるコンクリートの床と壁。いや、コンクリートというには荒く、石を削って作ったような四角い部屋。暗がりの中を照らす蝋燭が四隅で揺らめき不気味な雰囲気を醸し出していた。
 一瞬だった。目を閉じて、それから開けばここにいた。
 もしかして仕事が終わって気が抜けて、そのまま眠ってしまった? ここは夢の中だろうか。それともバランスを崩して椅子から落ち、頭を打ってしまったとか? 暑さによる幻覚……。熱中症で血管が切れた? 最悪死んでしまったか?
 ありとあらゆる可能性が浮かび、パンク寸前だ。そんな時、この不気味な暗闇に不釣り合いな鈴のような声が聞こえた。
「ニンゲンさん、はじめまして」
 僕は、雪の妖精に出会ったのだと思った。
 全身を真っ白な衣装で包み、肌も髪も透き通るような純白。目元はベールで隠し、その人が動くたびに踊るように揺れる。発光なんてしていないはずなのに、あまりにも純粋な白は輝いて見えることを知った。
「……ニンゲンさん? 聞こえているかしら?」
「あっ、はい! え? ニンゲンさん? 僕のことですか……?」
「ああ、よかった! 学校に張っている言語通訳魔法は異世界のニンゲンさんにもきちんと対応しているようですね」
「……はい?」
 僕の腰ほどしか背丈がないのに上品で大人びた振る舞いをする目の前の少女は、くすくすと笑って僕の手を取った。
「私はチルベッタと申します。あなたをこの世界に召喚した者です」
「うぇ!? い、異世界転生!?」
「転生とは少し異なります。転移ですよ、召喚術ですもの」
「へ、へぇ……」
 ライトノベルや漫画はあまり読んでこなかった。イラストレーターとはいえ僕は元々画家を目指していた美大生だ。いわゆる二次元的なコンテンツは嗜んでこなかった。だから……
「まさかこっち系の夢を見るとは……」
「夢だと思われるのも無理ありません。ニンゲンさんのいる世界とここは本来交わらない場所です。高度な召喚術を持ってようやく扉の開く幻の場所」
「……えっと、ちなみにそんな高度な召喚術を使ってまで、何故召喚されたんでしょうか……」
 詳しくは知らないが、こういった召喚による異世界転移といえば世界救済や魔王討伐などの花形業務だろう。アニメや漫画ではお決まりの展開だ。ここが僕の夢ならば、きっとどこかで聞き齧った知識からそういった展開が待っているはず。
「召喚した理由はただ一つ」
「ただ一つ……」
 ゴクリと息を飲む。
「……そう、ニンゲンさんに我が校ハルハードにて教鞭を取っていただくためです!」
「…………はい?」
「我が校ハルハードは優秀な魔法使いを育てる学舎です。そこであなたには、生徒にニンゲン生物学を教えてあげてほしいのです」
「……ニンゲン生物学……?」
「もちろん毎月お給料も出します!」
「え、長期……?」
「ちなみにあなたがニンゲンだとバレればおそらく殉職となりますので気をつけてくださいね」
「教職で殉職なんてあるんですか!?」
 この雪の妖精は何を言っているんだろう。情報が多すぎて全く頭に入ってこない。
「あ、あの! まず……その、一つずつゆっくり教えてください……、えっと、チルベッタさん」
「私としたことが……、急に色々と言われても困りますよね。では場所を変えてお話をしましょう。ええっと……」
「あっ、黒井かるたです。僕の名前……」
「では、カルタ先生。行きましょう!」
 ニッコリと笑う口元は幼い愛嬌と美しさを感じさせ、僕は抵抗することもできず言われるがまま着いて行った。