嘘つきな君は私の嘘を知りたがる。
 
 プロローグ
 第一章 どーでもいい
 第二章 わからない
 第三章 小さな一歩
 第四章 辛かった。君と私は嘘を知る。
 第五章 ありがとう。
 エピローグ
 
 プロローグ
 
 今から自己紹介をしたいと思います。
 名前は桜田春子、高校ニ年生です。
 好きだったことは人とおしゃべりをしたり遊んだりすることです。
 嫌いなことは人と関わることです。
 私は優等生だった気がします。複雑な計算ばかりで頭を抱えるような数学だって、暗記をたくさんしないといけない科学や社会だって、簡単。
 私は頼れる存在でした。休み時間、いつも私の周りにはたくさんの人で溢れてました。騒がしいぐらいあったけど、それもそれで楽しかったし、いい思い出でした。
 私は家族も友達も大好きでした。
 最近、気分転換に——を吸っています。頭にきたとき、死にたいと思って気が狂ったとき、嫌なことをされたときに——を吸うと気分がすっきりします。
 
「今、幸せですか?」って聞かれたら私は、「はい」と自信満々に答える…じゃなくて、「いいえ」と即答するでしょう。
 
 私はとっても強いです。鋼のメンタルを持っています。だから人前で泣いたり、弱いところを見せたりするなんて絶対ありえません。学校で——なんか受けてもなーんも気にしません。
 
 ……好きな人はいないと思います。でも私は恋をしない、してはいけない、する権利なんてないと思ってます。
 私はずっとこのままかと思っていました。
 
 あいつが、私の目の前に現れるまでは。
 
 第一章 どーでもいい
 
 夏の明け方、青と緑が混じり合ったような夜と朝の狭間は不思議とずーっと見ていられるような気がする。寝起きのぼんやりとした視界に映る微かな陽光が眩しくて目が覚める。特になんの意味もないけど、無意識に体が動き、窓を開けた。網戸の隙間から入ってくる澄んだ空気が循環して、部屋の中の清涼感で満たされた。
 
 ——こんな朝が続けばいいのに…。
 
 そんなことを考えているうちに東の空の端からあっという間に明るさを増し、街が光に包まれていく。
 
 心地のよい光のせいで今起きたばかりなのにまた眠たくなってしまった。ファーッと大きくもなく小さくもない、ふつーのあくびをして腫れた目を擦る。
 
 大まかに言うとベッドくらいしかない三畳というまるで刑務所のような一人部屋の片隅に一人立ちすくみ、特になにも考えずに時間が過ぎていく。
 
 今日も生きてる。
 今日はどうやって生きよう。
 誰とも話したくないし会いたくない気分だな。
 ずーっとなーんにも考えずにいたいな。
 孤独になりたいな。
 誰も知らないまちに行って、誰もいないばしょに行って、一人になりたいな。
 また一日がはじまるなぁ。
 眠らなかったら朝は来ないのかな。
 そんなばかなことないか。
 朝ごはん、どうしよっかな。
 あいつに頼むわけにはいかないし、頼んだらどんな朝ごはんがでてくるか。
 考えるだけで背筋がゾッとする。
 
 不意に横に向けた視線の先にはまだ五時をも回っていない時計。ボロボロになったレースのカーテンは静穏な風に吹かれて優しく踊る。
 
 学校は好きだけど嫌い。いつもだったら遅刻は当たり前のようにするし、気分によっては授業を途中で抜けて帰ることもあるけど、今日は珍しく早く目が覚めたし、ぷらーっと散歩でもしようかなぁ…とも思ったけど。
 
「部屋から出たくねぇな……」
 
 言葉遣いだけ聞いたら、ほとんどの人が男子だと思うだろうけど、残念ながら私は女の子。だけど言葉遣いはバリっバリっの男だ。男子じゃない、男だ。偏見になるかもしれないけど不良にも思えなくはない。
 まぁ、部屋から出たくない理由はあいつらが起きてきたときにひじょーにめんどくさいから。ふつーに顔も目と合わせたくないし、声も聞きたくない。ウザいし、顔見ただけで吐き気する。
 もし会えば、私はどうなるかわからない。命が危険だ。そんなことしてまで部屋を出る必要はないけど…。
 
「マジどーしよっかなー……。昨日も一昨日もなんにも食ってないから腹減ったなぁー。とりまここで準備して、そっからコンビニに直行するか。そーしたら会わなくて済むし、そっちのほうが自分にとってもメリットあるし」
 
 我ながらいいアイデアなのでは?と自問自答しながら、プリキュアの変身シーンのようにささっと着替え終える。背中の真ん中あたりまでまっすぐに伸び切ったストレートの金髪の髪は束ねずに下ろしておく、それが私流だ。理由は……。
「スマホとモバイルバッテリー、まぁ一応ペンは一本持ってればいいっしょ。一応ね。これでよしって、あぶなっ財布忘れてた…あれ……ない。どこ?」
 そろそろ出ますかと思い最終チェックをしているとき、財布がないことに気づいた。
 物の管理はできるほうだと思うので、毎日財布は棚の奥にしまっている。
 
 でもあるはずの場所にそれがない。
 
 どこかで落とした?いやそんなわけない。
 昨日、ちゃんと引き出しの中に入れたのを覚えてる。まず入れ忘れるわけがない。一番大事な物だし。
 
 しかも私が財布を入れている引き出しは鍵付き。昔から文房具でも服でもなんでも、人に自分の持ち物を触られたり、プライベートを探られるのが大っ嫌いだから南京錠を二個もつけている。百円ショップなんかの安物ではなくちゃんとした専門店でもいいお値段を出してまで買った。ダイヤル式ではなく、鍵で開けるタイプのものなので、この引き出しの鍵を持っている者、つまり開けれるのは私しかいない。それなのに。
 
「なんで……どーゆーこと?」
 
 一人慌ただしく部屋中を探りまくる。まるで運動不足のハムスターのように。
 真剣に探した。ベットの上や布団の中、机や引き出しの奥の方も念入りに。絶対無いような、バッグや服が入っている棚の中も。それでも見つからなかった。
 
 どうしようという不安や緊迫感、なんでという疑問と不信感。二つの感情が私の心をコントロールしているとき、イヤな予感がした。一つの考えが浮かんだと同時に全身の血液が逆流し始めたかのように怖気がした。心拍数も体温も一気に上がっているのがわかる。動悸が激しく気分が悪い。
 
「…ま、まさかね」
 そんなわけがないと自分を落ち着かせるために深呼吸をしてみたが手遅れだった。目を閉じて冷静にになろうと思ったけどダメだった。心の奥底に眠っていたもう一人のわたしが私自身の能を支配して言うことを聞こうとしない。
 気づけば自分の部屋から飛び出して、後ろの方でガチャンと大きな音がたったと同時に、滑りそうになって壁にぶつかり花瓶を地面に落としていた。瓶は粉々になり、破片が足に刺さったのか、足裏に衝撃が走る。水が飛び散って服や靴下はびしょ濡れになった。
 花びらはいくつか散ったがそんなのはどーだっていい。
 真っ先に向かったのは両親が寝てる寝室。
 
「ねぇ!私の財布、あんたたちがとったでしょ?ドア開けろって!おい、聞こえてんのかよ!?」
 怒りのあまりに抑えられなくなった感情は爆発する。ドアを力任せに叩いたり、ドアノブをガチャガチャ回して音を立てても起きないのに余計に苛立ち、舌打ちをした。
「いつもは私を監視するのに、起きとかなくていいのに、余計なお世話で起きてるくせに、こういうときに限って、起きてこねぇのかよ」
 私の口は止まらない。思ったことを感情にまかせて次から次へとでてくる言葉。
「どうせお前らがとったんだろ!?分かりきってるんだよ!ビビってんのか!?無視してんじゃねぇよ!?お前らは返事の一言もないのかよ?」
「あーもう!うるさいっ!あんた今何時だと思ってんの!?ほんと近所にいい迷惑ね。あんたのせいで家の評判がどんどん下がっていくのも納得ね。他の家の子は真面目でいい子ばかりなのに、あんたはなに?つくづく不良度が増して?可愛げがなくなって?親にそんなデカい態度とって?ほっんと、いいご身分ねぇ?それとも、また家から追い出されたいのかしら?」
「よそはよそうちはうち、これ誰がいってたんだっけ〜?大人ってほんと都合がいいよねぇ、うらやましい〜。何?他の子が真面目だったら私も真面目にしなきゃいけないの?そんなルール誰が決めた?ないよね?ちがう?別に追い出したいなら追い出せばいいじゃん?私はお前らみたいにウザくてキモくて、何かイライラすることがあったらすぐ子供に当たって暴力振るような家庭にいたくありませーん。そもそもお前が財布盗んだから、取り返しに来ただけだし。何時とか関係ねぇよ!いいから返」
 パシーン——
 一瞬、何が起こったのか分からなかった、でもすぐに理解した。いつものことだから。
 
 母は今、私に、未成年の子どもに対して平手打ちをした。頬と手のひらがぶつかり合った鈍い音は閑静な廊下に響き、数秒後には私の左頬にヒリヒリと痛みが走った。当たりどころが悪かったのか、いつもより苛立っているのか、慣れてるはずなのに「痛い」と思い、反射的に左頬を押さえた。熱をもった左頬にひんやりとした左手が気持ちいい。
 頬を抑えている間のほんの数秒の間に母が近づいてきたと思ったら、今度は髪の毛を引っ張り壁に押し倒された。よほど激しく強打したのか、視界がぐにゃりと曲がり思わずふらついてしまう。そのまま地面に座り込み。顔を伏せる。
「親に対してお前呼び?バカにするのも大概にしたほうがあんたのためよ?いい加減自分の態度を改めないと、誰からも相手さらなくなるよ?もうすでに一人みたいだけど笑」
 あーあ、うるさいうるさい。また始まった。ぐちぐちうるせーなー。怒られてるっていうか、ストレス発散中っていうか、お前も朝からいいご身分ですねー。朝から自分の子供に暴力振るう親いる?笑

 あーあ肩が痛い。頭も強く打ったかな、また一つケガが増えたなぁ。せっかく綺麗に伸ばしたストレートの金髪が床にいくつか散らばってる。どんだけ強く引っ張ったんだよ?
 
「人に返事をしろだの散々文句言ったくせに、お前は人の話も聞けないのか!?」
 
 パシーン——
 
 ほら、また叩いた。
 毎日これだよ。無限ループしてんじゃないかって勘違いするぐらい、同じシュチュエーションすぎて、辛いとかそんなんよりも逆に笑えてくるよねぇ。
 
「朝っぱらからお前お前うるせぇよ、俺らはお前みたいなガキの召し使いか?違うよな?ほんとお前は馬鹿で学習できねぇよな、毎回同じこと言わせて、どんだけアホなんだよ?」
「お前のほうが馬鹿でアホだろ?親父は関係ねぇだろ、クソが。余計な首突っ込んでくんな!」
「態度をわきまえろと何度言ったら分かるんだ!?この馬鹿娘が」
 
 先ほど母に叩かれたところを今度は父が叩く。大人の男の叩きは女と比べ物にならないほど威力が強い。背丈のある私だって飛ばされる。
「……すぐ暴力振るうお前らもなんなん?私はお前らのストレス発散用のおもちゃじゃありません。叩くことしかできないお前らの子供とか、私可哀想笑。あーあ、家出て行きてーな」
「…あんなみたいな子、産んだのが間違えだったわね。お金と労力の無駄遣い。ストレスがどんどん散り積もるだけだわ」
「ほんと、母さんの言う通り。あーあ、こんな馬鹿」
「家にはいらないんでしょ?笑分かってるって。まぁそりゃそうよね、あなたたちは私がいないほうが清々するだろうし私もそっちのほうがいいし、今日から家出しまーす」
「まぁ、それは嬉しいご報告だわ。それじゃあ、さよーならー」
 私がいなくなることが嬉しいみたいで?それはよかったですねー。私もこんないい報告ができてよかったでーす。
「じゃあねぇー。……クソどもが」
 私の呟いた独り言は廊下にリプレイされることなく、空気のように消えていった。
 
 スマホを片手に持ち、ポケットの中に必要そうなものを二、三個入れて、家から飛び出してきた。行く場所はない。目的地もない。強いて言うなら学校ぐらいだけど、そんな場所に助けを求めようとは思わないし、そもそも助けを求めるって何?
「ぜんぜんつらくないしー……どーでもいい」
 緑が生い茂る芝生は微風に仰がれさらさらゆれる。先に見えるのは薄ら輝く浜辺。月は完全に沈み、太陽が目を覚ました。雲ひとつない快晴は容赦なく照りつける。
 約一時間のぐちぐちタイムが終わり、刑務所から脱出、家出開始から十三分後、六時二十九分、私は今、朝ごはんを買い終えて食べるところを探している。ついでに今日から私の家となり、寝床になる場所も。
 
「この時間、意外と暑くなくて快適なんだな、ここは人通りも少ないし、ぶっ叩くアホみたいな奴もいないしこの雰囲気がいいんだよねぇ」
 なんとなーく気の向くままに歩き回っていると街の裏のみたいな暗くて人が寄って来なさはそうなところにたどり着いた。すぐ近くには河川敷もある。神様が珍しく私に味方して導いてくれたのかも…なんてあるわけないか笑。朝ごはんを食べるだけで、特に何もする気はなかったが、先ほどまでのイライラを吐き出すためにはここがちょうど良さそうだ今日からここが私の家だ。

 河川敷のほうに足を運び、錫色スカートをレジャーシート代わりにして芝生に敷き、座り込む。
「うわー、内出血してる。こぶもできてるし、まぁあんだけぶっ叩かれたりぶつけたりしたら当たり前か笑…あー痛かった。過去一痛かったかもなぁ、私、よく泣かずに耐えたなぁ。どんどん強くなっていくねぇ私の心。どこまで強くなるんだろう。これこそ鋼のメンタルじゃん」
 思い出したくもない。過去の記憶を消してくれるステキなマシーンがあったらいいなぁなんて、ありもしない妄想を考えて自嘲する。あの時の二人は何か汚いものを見るかのように、消えて欲しいものが消えるのが嬉しくで喜色満面の笑みを浮かべている悪魔のように見えた。
 悔しいことに財布は取り返せなかった。部屋に無理矢理突入してもよかったんだけど、そんなことしてたら、今頃こんなふうにのんきに歩けてないよね。
 
「でもよかったー今まで懸賞とかで当たったポイント貯めてて。これどんだけあるの?えっーと一、十、百、千、万、十万…三十四万九千円…私すごっ」
 
 三十五万ぐらいあったら何日持つかな。寝床は無料だし、ご飯は毎日食べなくても死にゃしないだろ。
 まぁせめて、一ヶ月は帰りたくないね、あんな家に。どーせ帰ったらバイトしよっかなぁ。
 
「とりま腹減ったし、朝ごはん食うか」。
 
 腹が満たされたらイライラと少しは解消するかなぁと思い、ここにくる前に買っておいた、コンビニの袋からサンドイッチを取り出す。嬉しいことに半額シールがついている。
 これから見ることが増えるであ

「なんでこんなとこにいんの?」
 
 てっきり一人だと思い込んでしまって、びっくりしたため慌ててサンドイッチを袋の中にしまう。
 聞き覚えのある声が、右後ろから聞こえた。
 
 西松嘘珀、私の唯一の友達……ではないけど幼なじみ。生まれた場所は違うけど、中途半端な時期に引っ越したせいで、なかなか幼稚園に馴染めなくてぼっちだったときに、一番最初に話しかけてくれて、それからずっと嘘珀とばかり遊んでいたのを今でも鮮明に覚えている。
 偏見だけど男子なのにしっかり者で真面目、悪いことは悪いって、いい意味で思ったことをはっきり言える。憎いぐらい優しくて、気遣いできる……まぁプラスアルファするなら、すこーし、少しだけだけど…かっこいい。欠点はチクリなところ。こいつのチクリで何度酷い目にあったか。
 そんな優しい西松嘘珀が今、私の真後ろにいる。でも今は誰とも顔を合わせたくない、誰とも喋りたくないのに、最近は通りすがっても声かけてこなかったくせに、なんでこういうときは話しかけてくんのよ?会いたくもないのに会わなきゃいけないのよ、あーもう、ほんと最悪。せっかくいい場所見つけたのに。一人になれると思ったのに。

「はる…こ?おい、聞こえてる?春子だよな?」
「何?あんたこそなんでここにいんのよ。私になんか用?」

 西松嘘珀は人間違えじゃなかったことに安堵した様子で胸を撫で下ろした。よかったと一息ついて口を開く。

「俺ちゃんと名前あるし、春子からあんたって呼ばれたくない。あとここ、俺の通学路だから普通に通りかかっただけだけね」
「あっそ、なんも用がないなら早く学校行けば」
「……そんなに俺がここにいるのが嫌?嫌なら別にいいんだけど」
「別に嫌じゃないけど……」
「少し、隣にいてもいいか?」
「……」
「じゃ、隣失礼しまーす」
「私いいとか一言も言ってないんだけど!」
「だって返事なかったから、いいかなぁって思って。また聞くけどさ、なんでここにいんの?」
「いいじゃん…どこにいようが、私の勝手でしょ」
「それ、朝ごはん?朝からピクニックじゃなあるまいし、家で食わねぇの?なんでここで?」
「そんなこと知ってどうすんの?なんの役に立つの?あんたになんのメリットもないし、意味のないこと聞いても、なんも得られな」
「知りたいから知る。気になるから聞く。それが人間だろ?俺だけ?何が得られる得られないじゃない。そんなこといちいち気にしてたら話せないよ」
 私の話を遮るように口を挟んできた。しかも今、私こいつに説教されてる?なんなのこいつ。私になんの用で…。
「あーもう、うるさいうるさい!何?私にいちゃもんつけに来たの?」
「これいちゃもんなの?笑。だったら世の中いちゃもんだらけだな」
「私からしたらいちゃもん!そういうのウザい、ウザいから!」
「おい……そのケガ、何?それ、タバコ?それともタバコに似たお菓子?どっち?」
 
 そう言われて我に返った。
 しまった。
 急いで袋の中に小さな箱をなおし、再び顔を覆い隠した。しまった。しくじった。こいつの言うことにイライラしたせいで袋の中にアレを入れてるのを忘れてた。それプラス、今見せたら面倒なことになるのに思わず顔を上げてしまった。はぁと大きなため息をつき頭を抱える。自分のバカさ加減に呆れたってやつだ。
 久しぶりに見た世界はあまりにも明るかった。伏せていたからなおさら、目を瞑ってしまうほどに眩しかった。
 久しぶりにこんな近距離でちゃんと見た西松嘘珀の顔は見たこともないほど険しかった。目を細めて、眉間の間にシワを寄せていた。
 
「隠すなって、そのケガと箱、何?隠してもいつかはバレるから、教えて、俺に」
「こっちこないで!触んないで、キモい!」
 
 顔に近づけようとした西松嘘珀の手を思いっきり振り払った。パシンッと弾く音とともに、電線に止まっていた小鳥たちはバサッと羽を伸ばし、飛び去った。
 さっきまで無風だったのから一転、風が吹き荒れ、私と西松嘘珀の間に沈黙が流れる。
 風に流されて靡く金髪、煌々と照らされてるのにちっとも茶色くならない黒髪。
 ジリジリと近寄ってくる西松嘘珀、一線も引かずただ睨みつける私。
 
「お願い、教えて。教えてくれるまでずっと聞き続けるから」
「言わない。絶対、絶対言わないから」
 
 来ないでと、教えないと、何度も言っているのにそれでも私に近づいて傷を確認しようとする西松嘘珀をもう一度、睨みつけた。
 手を伸ばしてきては、私が叩いて睨む。同じ場面を何度もリピートする。
 険悪なムードが流れる中、たまたま私たちのいる河川敷の下を散歩に通った気難しそうなおばあさんが私たちの口論に気がついたのか、こちらに駆けつけて来た。
 
「ちょっとそこの子達、朝からあんまりうるさくしないでちょうだい。今時の子はほんとお行儀が悪い子が多くて困っちゃうわ〜。地域の治安がよくなるどころか、一向に悪くなって……近所迷惑にもなるからやめてちょうだい」
「……お前も朝からぐちぐちぐちぐちうっせーなぁ。ばばあには関係」
「あぁすいません。声が大きかったですよね…。ついつい、興奮して、盛り上がっちゃって…。静かにしますね」
 
 西松嘘珀は、深々と頭を下げておばあさんに謝罪した。何……コイツ。いいやつぶって、腹立つ。さっきまでお前とか口悪かったくせに。私もだけど。
 彼は何度もペコペコ頭を下げ、それならいいわと言わんばかりにおばあさんはにこにこしてこの場を去っていった。
 
「ふぅ〜、なんとか面倒なことにならなくて済んだ……お前、俺になんかいうことないのかよ」
「ふぅ〜じゃないわよ!?面倒なこと?私はただ、あの愚痴愚痴うるさい口出しばばあにちょっと文句言ってやろうと思ったのに、なんで口塞いだのよ!?結局なんも言えなかったじゃない!?あーもうイライラする!クソが……」
「いやいや、ちょっと落ち着けよ。そんなカッとならずにふつーに考えて、名前も知らない赤の他人にうっせーとかばばあとか言えない…てか言わないでしょ?もし俺が止めてなかったら今頃、交番行きか警察呼ばれて」
「だから!私は邪魔しにきたあのばばあを追い払おうとしただけ!なんか悪い!?もし交番行くにしても警察呼ばれるにしても逃げ」
 
 ——パチン
 
 西松嘘珀は私の右手を叩いた。強くはない、弱く優しかった。突然の出来事に困惑したが、叩かれなきゃいけない理由が分からない。

「ちょっとなんで叩いたのよ…なんであんたに叩かれないといけないのよ!?」
「ばばあなんて口悪いこと言うな!でも、春子だけ一人で頑張って悪い癖直すのもあれだから、俺も口悪くなんないように気をつける、そうしよ」
「………」
「それと、逃げようとするな。悪いことしたのは春子だろ?そこはちゃんと事実を受け止めないとダメだ。悪いことしたなとか、今のは良くなかったかもしれないとか、注意されたときは、気持ちがこもってなくていい、心から全力で謝れとも言わない。すいませんって軽く受け流しとくんだよ。逃げたり、それ以上のこと言ったりしたら春子の負け……とは言わないけど。でも、捕まるのが怖いから逃げるんじゃないのか?ほんとは怒られるのが嫌なんじゃないのか?俺は怒られるのは嫌だけど春子は違うか?それとも他の理由があるのか?」
「………」
 
 何か言ってやろう。そう思ったけど投げる言葉が出てこず何も否定できない。ただ口をぱくぱくさせるだけで、私の口から言葉が出てくることは待ってもないだろう。認めたくない、認めたくないけど、こいつの言うことは間違っていない、模範解答だ。
 あー、何も言い返せないのが悔しい。
 イライラが、西松嘘珀に対する不満が積もって今にも爆発しそうだ。
 でも……こいつの言う通り、私は怖いのかもしれない、警察に捕まるのが。
 それ以外に理由は、ないと思う。

「そーなのかもね、怖いのかも」
 諦めて、何も反論することなく終わった。
 なんでこいつの意見認めてんだろう、私。
 いつもなら絶対、ここでぶつけてるはずなのに。
 どーでもいいやと思って緑生い茂る草原にごろんと寝転んだ。目を瞑って、気を落ち着かせよう。
 
「……春子なら、わかってくれると思った」
「……は?」
 
 目を開けると、西松嘘珀は笑っていた。目尻を下げて私に優しく微笑んでいた。
 
 なんで、なんであんなことしたのに、そうやって私に優しくできるのよ。なんでいつもそうやってニコニコしていられるのよ。許してくれなくてもいいのに、ほっといてくれてていいのに。なんで毎回、私を庇うのよ。
 西松嘘珀はこいつはほんとに意味がわからない、訳のわからない生き物だ。
 
「……何、急に。怖いんですけど」
「ごめん、久しぶりに春子が認めてくれたから嬉しくてつい」
「……あっそ」
「あっ思い出した、それで?そのケガはなんだったんだよ」
 
 忘れてたかと思ったのに、思い出されたか。
 まためんどくさいことになるし、ここは嘘で乗り切ろう。
 
「…別に、ただ転んだだけ」
「転んだだけでこんなことならないだろ、お前こういうのに関してはバカっていうか、嘘つくのが下手くそっていうか」
「あんたこそ私のことお前って今言ったじゃん」
「それこそいちゃもんだろ、てか今そんなの関係ない。嘘つかないで教えて、怒んないから、約束する。俺、嘘つきが世界で一番嫌い」
「……嘘珀に嫌われたって別にいいし……」
「おぉ、名前呼びになった笑。そんな塩対しないでさぁ、教えてよ」
「…誰にも言わないって約束する?」
「心に誓って約束す」
「そう言って昔、チクったじゃん。これだから真面目は嫌いなんだよ、悪いことを悪いって言ってるだけみたいなこと言ってヒーロー気取りして。あのあと大変だったんだから」
「あれは言わないといけないだろ、普通にほっとけないし、黙っとけれない…っておい、大丈夫か?」
 嘘珀が話途中なのはわかっていたけど、私はスマホの画面を見て驚いた。だって時間が
 ……。
「……そっちが大丈夫?」
「大丈夫って何が…?」
 珍しく私が心の底から心配しているのを感じ取ったのか、彼はキョトンとしつつも、焦っている。
 
「いや、今八時過ぎたか学校遅刻しないかなぁって思」
「えぇぇ!!!!!あっ、やべっ声がデカすぎた。またさっきのおばあちゃんい怒られるな。って、それよりも!ヤバい、走んないと間に合わない!」
「遅刻しても私は悪くないからね。嘘珀がちょっといいか?なんかカッコつけて言って、いいよなんて一言も言ってなのに、来て、話が長くなったんだから。じゃあねー」
 
 お腹も空いたし、早く一人になりたかったので強制的に学校に行ってもらわないと。
 嘘珀には悪いけど顔にできた傷についての話題が切れてよかったと内心思う。だって嘘珀に話したらまた面倒なことになる。そうあの時みたいに。
 ボロボロになった顔でなんとか笑顔を作り、手を振っているのに中々私のとこから立ち去ろうとしない。
 
「何?まだ私に何か用事?早く学校行かないとほんとに遅刻するよ
「……今日も学校来ないか?」
「…いけないでしょ、てか行くわけないでしょ。考えたらわかると思うけど?そんなんもわかんないって頭いいけど馬鹿ね。そもそも、私と嘘珀は学科が違うんだし、私が行くにしても関係な」
「いや関係ある」
「例えば?」
「例えば……特に理由はないけど…。わりぃ、話はまた明日の朝、ここに来てもいいか?今日は大会前だから放課後練習試合あって」
「いいよ気にしないで、別に明日も来たくないなら来なくていいよ」
「絶対行くから、来るから待ってて。約束。んじゃ行ってくる」
 
 その柔らかな声は、透き通った目は、嘘紛れもなかった。明日本当に来る、思う思った、信じられる声だった。
 いつの間に結ばれていた指、嘘珀の指切りげんまんと言う声で我に返る。
 
「また明日、ここで集合」
 
 そう言い残して、ようやくこの場を去った。手を左右に振り、知らぬ間に私より大きくなった背中を向けて振り返ることなく走っていく。運動神経はいいけど、結構焦ってるのか、制服だから走りにくいのか、足がもつれて転けそうになっているから心配になる。余計なお世話かな笑?
 だんだんと小さく、離れていくのに一人になれて嬉しい、気持ちがすっきり反面、まだ居てほしかったなぁ、明日来てくれるって言ってくれたけど、ほんとは放課後話したかったなぁなんて思っている反面もある。
 一人になりたかったんじゃないの、私?
 
「……いってらっしゃい」
 
 意味のわからない雫が私の頬を伝っていく。そのまま雫は灼熱の地面に落ちて、何事もなかったかのように消えていく。
 なんで泣いてんだろ、私。
 
「意味わかんない…あんたのせいで朝ごはんの時間、遅れちゃったじゃん」
 
 もう彼は隣にいないのに一人でぶつぶつ呟く。
 それを誰かに見られたけど、探しはしなかった。普通だったら誰かの視線を感じたら振り向くと思うけど。別に気にならなかった。
 
 朝ごはんが早く食べたいのに、私は座らない、身体が座ろうとしない。
 
 全速力で走る彼に向けて、顔の下で小さく手を振り、見えなくなるまで見送りたかったから。

 第二章 わからない
 
 いつぶりか、夢を見た。
 まだこんな不良になってないときの、家族と幸せに暮らしてる夢だった。ずっと夢の中に居たいと思えるような夢だった。
 
 朝起きた「おはよう」って迎えてくれる家族がいて嬉しそうだった。ほんの数分だけどみんなでニュースを見ながら食卓を囲み、同じ朝ごはんを食べていて幸せそうだった。行ってきますって元気に行った時も元気に言えなかった時も、頑張っていってらっしゃいって言ってくれるのが当たり前だった。
 学校に行ったら、あいさつを交わす人が必ずいて、みんなにおはよう!おはよう!って言うのが大変だったけどそれだけ友達がいるんだと思って誇らしそうだった。勉強熱心でわからない友達に教える。そしたら友達は問題がわかって、スラスラ解けるようになっていて楽しそうだった。私も誰かの役に立てのが嬉しそうだった。
 家に帰ったら誰もいなくて一人ぼっちだったけど、宿題して待ってたら家族が帰ってきて「宿題してたの?偉いね」って褒めてくれていた。それも嬉しかったなぁ。
 夜ご飯の時間が一番幸せだと思ってたから待ち遠しかったなぁ。学校であった楽しかったこと、面白かったこと、新しく知ったこと。家族と会話できるこの時間は私にとって一番の幸せだった。家族は私の話が長すぎて嫌だったかもしれないけど、私はこの時間が永遠に続けばいいのにって思ってた。
 続くと思ってた。
 なのに、なのに……。
 いつだろう、この幸せに日々が入っって、取り繕えない、取り返せないほど壊れてしまったのは。
 
 全てがどーでもよくなって、何がなんだかわからなくなって、どれもこれもが面倒くさくなって。
 
 気づいたら私はすべてを捨てた。
 
 みんなが一番大切で愛してるといってるかけがえのない家族を、一生に一度しか芽生えないすばらしい友情を、「これがやりたい」「私はこうしたい」「なんでだろう」という人間の湧き上がる興味や本能を。理由は何もかもが私にとっていらなくなったから。なくてもいいと思ったから。こんなことを考えてる時間も無駄なんだよ。
 
 …でもね、少しだけ話させて。
 
 もともとはこんなんじゃなかった。家族は自分の命とかえてでも守りたいぐらい愛してた。友達も家族と同じぐらい大好きだった。おもしろいこととかうれしいことがあったら笑って、ときにはお互いすれ違ってケンカするとけもあったっけな。好奇心旺盛で疑問に思ったことはすぐにネットで調べたり先生や家族に聞いたりしてた。勉強もスポーツも大好きだった。みんなテストが嫌だといって先生に駄々をこねてたとき、一人だけワクワクしてたこともあったっけなぁ。何か嬉しいことがあるたびに、人間に生まれれたことが幸せだと思った。
 
 でもよく見て、ぜーんぶ過去形でしょ?そう、ぜんぶ、ぜーんぶ過去のこと。
 
 家族は愛してる?友達のことは好き?
 いいや、嫌い。大っ嫌い。みんないなくなっちゃえばいいのに、全員死んじゃえばいいのに。私はそう思ってる。
 
 今はどう?私は幸せなのかな?
 どーだろう、分かんない。
 
 私は今生きてる意味があるのかな。
 ないと思う。ないよ、親に殴られて、傷だらけ、一人ぼっち、私の居場所なんかない。世界のどこにも、どれだけ探しても見つからない。
 私がいなくなっても、世界が滅亡するわけじゃないんだし、誰かが悲しむわけじゃない。

 私みたいな人間は消えたほうがいいんだよ。
 
 ……そうでしょ?違うの?何か間違ってる?
 
 どれが正解で、どれが不正解なの。
 
 あなたなら知ってるでしょ?わかってるでしょ?

 ねぇ教えてよ、嘘珀 
 
         〜
 
 早く目覚めた朝、静かな夜明けの空のような色が目の前に広がっている。大人の深みや渋みが漂う色のようにも見える、雨降り前の、湿りを帯びた空気のような色にも見える。
 不意にまだ手に収められるほどの年齢だった時の、幼い頃のことを思い出した。
 絵を描くのが好きでプレゼントやご褒美によく、絵の具セットや聞いたこと、見たこともない珍しい色が入った色鉛筆セット、大量のスケッチブックを貰って大はしゃぎしていた。
 絵の具やクレヨンで空を描くときは、迷わず水色を手にしていた。刻々と変わる空の色は、濃い青だったり、ちょっと灰色がかっていたり、曇りのないスカイブルーだったり。でも思い浮かべる空は、いつだって水色一色だったな。
 今、見上げている空は、そんな記憶のままの水色の空。そんな晴れ渡る空を、数羽の鳥が快さそうに自由に羽ばたいている。澄みきった夏の水色の空を飛ぶって、どれだけ気持ちいいんだろう、想像するだけで羨ましい。

「生まれ変わったら鳥になりたいな」
 
 ほんの数秒の間にいろんなことを考えた。空を見ると何かしら浮かぶさまざまな感情や、記憶を呼び起こす何か不思議な力を感じる。
 
 今日はいい天気だなぁとか、朝ごはんは何を食べようかとか、今頃あいつは何をしているのだろうとか。過去のことも未来のことも、『考え』として浮かび上がってくる。
 
 特に今日のような冴えわたった淡いブルーは私の心を落ち着かせてくれた。大きく息を吸っては吐く。息をしたくなくてもずーっと繰り返される。今日もまた生きなきゃいけない。
 
 短い夜が明け、家出してから早くも一日が経った。目が覚めると、体のあちこちが痛くて思わずぐっと背伸びをする。
 
「まぁ…ふかふかしてるわけでもないし、こんな薄っぺらい芝生の上で寝たら体が痛くなるのも当たり前か笑」
 
 肩を大きく回して、よいしょと立ち上がる。あいつが来る前にとりあえずコンビニ行こう。
 一旦河川敷から離れ、最寄りのコンビニを探す旅に出た。
 
「今日は何を買おっかなぁ…もし昨日のサンドイッチがあったらそれでもいいけど、店内揚げたてのカレーパンも美味しそうだったしメロンパンも……あぁ迷う、なんなら全部、は流石に食べ切れないよね笑」
 
 歩きながらポケットの中に入っていた手のひらに収まるサイズの箱から一本の白い棒を取り出し口に咥えた。
 すーっと吸って、フーッと吐けば白い煙が宙を巻く……と言いたいところだけどこれはみんなが想像しているものではない。
 みんなが想像したのは恐らく……タバコだろう。
 でも私が実際に口に咥えたものはココアやコーラ、サワーなのどのあまーい味がするシガレットという長年愛されている砂糖菓子だ。昨日、嘘珀の目の前で落とした白い箱もこれだ。確かに箱も見た目もタバコそのものだから、見間違えるのにも無理はない。遠くから見たらタバコにしか目えないだろう。
 流石にこんな不良でも、未成年なのは変わりない。年齢を偽ってまで買うなんて、バカバカしい。盗みもしない、そもそもタバコの煙は臭くて吸うと気分が悪くなるので極力避けるほどだ。
 
 そんなことはさておき、昨日は雲一つない快晴が夜まで続き、澄んだ夜空に輝く星々が綺麗だった。
 でもやっぱり天の川の上を優雅に飛ぶような位置で輝くはくちょう座。
 
「きれいだったなぁ」
 
 仰向けになって見上げる星空はまるでプラネタリウムのようで、眠たいのに中々寝れずに、眺めていた。
 これから私はこんな美しい空の下で……と考えると心なしか小さな幸せを感じた。
 
 本当は嘘珀が去ったあの後、違う公園に行こうかと思ったけど、わけもないのにこの場所を動く必要もないし、いろんな意味で疲れていた私にとって、この河川敷が一番、癒しの場として最適だと思った。ただの私の勘だけど。
 
「いらっしゃいませー」
 
 ピーンポーンピーンポーンと二回、私が人間だ認識したセンサーがドアを開け、愉快な入店音とは反対に、早朝でまだ気合が入っていないのか、大きなあくびばかりしてやる気のなさそうな若い男性店員と目が合った。
 コンタクトをしていないので顔立ちや見た目はハッキリとわからなかったが、その男性店員は私が店に入るのを確認すると何故か、驚いたような顔をしていた。今度は壁に寄っかかるのをやめ、いじっていたスマホをポケットになおしたかと思うと慌てた様子でバックヤードのほうへと姿を消していった。
 
「……変な人」
 
 ただ一言、ポツリと出て来た言葉は変。人の顔見て驚くとか、もしあのバカ親とかあいつらとか嘘珀だったらキレてぶっ叩いてるかもしれない笑。
 なおさら、逃げるようにどっか行くとかいくらなんでも非常識……ではないか……。ただ急用を思い出しただけかもしれないし。あっ…もしかして、私の顔とか見た目が怖くて、怯えて逃げちゃった、意外と弱虫だったりして。
 
「そう、私は怖い、怖い人。もっと怖く見られるようにしないと……」
 
 だからと言って、勝手な妄想で変人扱いするのは
 
「嘘珀に怒られちゃうね笑」
 
 嘘珀の性格的に「会ったことも話したこともない人を偏見だけで決めるのはダメだ。相手のことをちゃんと知った上でこの人はこんな人なんだ、変わった人だなって思う分にはいいと思うけど」なんて言いそうだと思って独り笑いをした。
 
 小さな笑みをこぼしながら、ドリンクコーナーに行き、自分が飲むわけでもないのにグレープジュースをカゴに入れた。今度はお菓子コーナーに足が動いたと思ったら、スラリと伸びた手が十円ガムに触れて、二つ取ってからレジに向かった。
 
「いらっしゃいませ。レジ袋はご利用ですか?」
「だいじょーぶでーす」
「お会計百五十五円です。お支払いは方法はどうされますか?」
「現金で」
 
 さっきまではくだらないことで一人で笑えていたのに、大人を前にしてに立つとどうしても睨みつけてしまう。これはつい最近できた私の悪い癖だ。原因は一つしかない。
 家庭環境が整っていない、親の教育が悪い。そういうことにしておこう。私は悪くないはずだ。
 でも店員さんは愛想よく接客してくれているのに私は睨みつけているだけだと考えるとこんな自分が嫌だなと思った。
 変わりたいなと思った。
 
 少し自分自身に嫌気がさしながらチラッと見えた店内時計は七時十三分。まずい、もう少ししたらあいつが来る。あいつが約束を忘れていなかったら。
 少しのんびりしすぎたかなとも思ったけど別に遅れてもいいやと気が変わった。
 
 店員さんの「ありがとうございました」という明るい声で我に帰る。
 購入品をポケットの中に突っ込んでほんとにわからないくらい小さく頭を下げた。
 いつもだったらできていないことをしたのに少し変われたかな、でもやろうとした気持ちが偉いのかなと、誰も褒めてくれないけど自分だけは褒めてあげた。
 
 店を出る前にふと目に入った光景に私は目を疑った。先ほど私が入店してから急いでバックヤードに行ったきり戻ってこなかった男の人が、お疲れ様でしたと言って焦った様子で帰って行くのを目にしたからだ。
 でも驚いたのはそれじゃない。その帰って行く姿が、自転車に乗り、優しく吹く風に髪が揺れる姿が、誰かと重なったのだ。
 懐かしかった、愛おしかった。この光景を見るたびに、いつも寂しく、悲しい気持ちになっていた。
 
「今の、どっかで見たことあるような気がする……いや、気がするんじゃない、あるんだ。見たこと……私が、一番知ってるはず……」
 
 一度モヤモヤしたことはなかなか頭から離れてくれない。しょうもないことなのに、考えて、記憶を辿って、思い出そうとする自分が変だと思った。
 考えている間に何人もの客が通り過ぎて行く。時折、邪魔だな、変な子だ、子供はさっさと学校行きな、と通りすがりにボソッと呟くタチの悪い大人たちが私を睨む。
 確かに邪魔だ、入り口のど真ん中で突っ立っていたら。
 呆然とし、ただ人を見つめていたら変な子だも思われてもおかしくない。
 金髪に髪を染めていようが、制服を着ていなくても、大人からしたら私は子供にしか見えないだろう。普通の子だったらこの時間帯は通学してる。学校に行かないでコンビニなんかにいたら学校に行けと言われても当たり前。
 
 いつもだったら、昨日のおばあさんみたいに逆ギレして、暴言を吐いている。
 
 今日は違う。あいつに言われたからか、それとも考えるのに必死だからか分からないけど、言葉は全て、私の耳を素通りしていく。
 
 つい最近のことじゃないのかもしれないと思って少し過去の記憶を探ってみた。するとなぜか、あいつの、西松嘘珀の姿にたどり着いた。
 自分でもびっくりした。なんであいつが?こんなとこで働いてるわけ?あいつがバイトするわけないし、やっぱり、私の記憶違いだよね。
 そう自分で自分を納得させ、ゆっくりとその場を後にした。
 
         〜
 
 束ねた髪が大きく左右に揺れ、ポケットの中のジュースとガムが踊る。
 寄り道することなく、元来た道を真っ直ぐ進む。数分歩いたところであっという間に河川敷と誰かの姿が見えた。

「おはよう。元気ないけど大丈夫?」
「……いるじゃん。なんで」
「いや、昨日約束したから。絶対来るから待っててって言ったでしょ?なのに来たときいなかったからふつーにビビった」
「……それはごめん」
「まぁしゃーない。朝ごはん買いに行ってなんだろ?……あれ、違った?」
 私の青ざめていく顔を見て嘘珀が心配する。
 朝ごはんというワードにドキッとした。
 そんなわけないよねとポケットの中はジュースとガム二個だけ。行きはあんなにメロンパンが食べたいとかカレーパンでもいいなとか、迷ってたのに……。何か忘れていると思ったけど、今わかった。自分の朝ごはんだ。 一番大事なものを買い忘れるなんて、どんだけアホなんだろう、私。
 すごく恥ずかしいけど、これは言うしかない。小学生の頃に生徒会長に立候補して、みんなの前でスピーチをする時と同じくらい緊張する。勇気を振り絞って、ストレートに言葉を放つ。
 
「……買うの忘れてた」
「へっ?マジ?」
「……恥ずかしいけど、結構マジで」
「お前…マジで?結構やばいと思うけど」
 
 私の顔は今、真っ赤になっているだろう。顔が熱い。
 私が頬を赤らめて言うと、嘘珀は腹を抱えて笑った。
 
「春子、お前何しにコンビニ行ったんだよ笑!ガム二個と?グレープジュース?お前、グレープジュース苦手とか小さい頃言ってたけど好きになったの?…あっもしかしてこれが朝ごはん?違うでしょ?あー春子がバカすぎて面白い笑腹痛い笑朝からこんなに笑ってるの、俺たちぐらいだろ笑」
「あんた、そんなに人の失敗笑って楽しいの……?」
「いや、春子だからおもろい笑春子のことだから行きは何食べよっかなぁとか、これもいいけどあれも食べたいなぁ、せっかくならどっちも食べたいけど、流石に無理かとか言ってうきうきしながら……って思ったら余計おもろい笑」
「……」

 なんか、気持ち悪いぐらい予想が当たってて怖いんですけど。しかもほぼほぼ考えてること一致しすぎてゾクっとする。ストーカーされてるって勘違いされてもおかしくない。こいつ、将来警察に捕まりそう…笑。
 
「ねぇ、嘘珀。一つ聞きたいことあるんだけど」
「何?どーした?」

 一つ大きな深呼吸をし、思い切って聞いてみた。

「もしかしてだけどさ、ストーカーとか趣味だったりする……?」
 
 絶対ないのはわかっている、もしそれが事実だったら、こいつは今頃ここにいれるはずがないから。
 自分でも馬鹿げた質問だなと思いなが嘘珀の回答を待つが、答えるどころか、余計にツボらせてしまった。

「俺の趣味がストーカー!?どんな趣味してんの、俺?春子から見た俺ってストーカー?ちょっ笑、腹痛くなるから喋んないで笑!」
「だって!私が考えたことと全く同じこと言ったから!ストーカーじゃないなら、どっかから盗聴してるんじゃ……」
「春子、一旦黙ろう笑」
 
 私は顔をムッと顔をしかめているのに、こいつはずっーとゲラゲラ笑って。こんなんじゃ話にならない。
 
「で?どうなの?盗聴したの?それともストーカーしたの?今なら警察に通報しないで見逃してあげる」
「だ!か!ら!俺はそんなことしてないって。なんでストーカーした前提で話進んでんの?春子なら分かるでしょ!?俺がそんなことしないって。俺はただ春子の性格的に考えて、そう思っただけであって、そんな悪趣味なことはしません」
「なんでいきなり敬語になったのよ?あー、ますます怪しい〜、やっぱり警察に通報したほうが…」
「敬語のなったのは間違えたの!敬語にしたほうがいいかと思ってしたのに、状態悪化したし、最悪。でもほんとに違うから!俺を信じろよ!」
「そんだけ言うな信じようかなぁ」
「よかったぁ。ようやく信じてくれた……」

 私が本当に警察に通報するのかと思ったような、ビビっている姿がおもしろくて少し意地悪をしだけど、ちょっとリアルすぎたかな?
 
「本気で警察に通報するんじゃないかって、ビビったわ」
「そんなことするか、めんどくさい」
「そう言うのも昔から変わってないよなって、つめた!」
「…あんた、グレープジュース好きだったでしょ。それとこれもあげる。間違えて買ったやつだけど」
  
 嘘珀は「あ」か「え」か「お」かわからない紛らわしい口をして、キョトンとなっている。
 受け取っていいのか、でもなんで私が自分のために買ったんだろうと言うような顔をしている。
 この理由が百パーセント正しいとは断定し難い。
 自分でも曖昧でよくわかんないけど、多分、こいつの、嘘珀の喜んでいる顔が見たくてあの時手が、足が、勝手に動いたんだと思う。
  
「………俺が、グレープジュースが一番好きだってこと、覚えてくれてたのか?」
「…別に。たまたま手に取ったのがそれだっただけ」
「さっき言ったじゃん!あんた、グレープジュース好きだったでしょ?って!それって覚えてくれてたってことでしょ?」
「あーもう!覚えなくていいことは覚えてるって、これだから嫌なんだよね」
 
 私の嫌がる姿に喜ぶようにわざとピースサインをしたので、一発頭を叩いた。とても響きのいい音に気づいて、またまた昨日のおばあさんがやってくる。またこの子達かと言わんばかりに、不興顔をしている。
 私は正直呆れていた。放っておいてくれたらいいのにいちいち話しかけてというか、説教をしてくるというか。私と嘘珀の問題だし、余計なお世話だから口出ししないでほしい。 そんな私がおばあさんに対して暴言を吐くことを察して恐れたのか、嘘珀は速やかに立ち上がっておばあさんのとこをに向かおうとする。その顔は、すごく真っ直ぐだった。嘘珀が悪いわけじゃないのに、まるで自分が罪を償いますみたいな顔して…。
 いつもの私なら、嘘珀が立ち上がる前に暴言を吐いてるか、嘘珀に謝罪を押し付けているだろう。
 でも、でも。
 
 ——注意されたときは、気持ちがこもってなくてもいい、心から全力で謝れとも言わない。すいませんって軽く受け流しとくんだよ。逃げたり、それ以上のことしたら春子の負け……とは言わないけど
 
 謝れると思う?私にできると思う?
 やっぱり、逃げたら私の負けだよね。
 そう教えてくれたのは、気づかせてくれたのは
 
「嘘珀、待って…」
 
 なかなか開いてくれなかった口を思い切って開いた。もう一人の自分に操られて動けなかった身体を、抗って動かした。
 真剣な目をしてると自分でもわかる。自分なりに、前へ前へと一歩ずつだけど進んでいる。一人しかいなくても、背中を押してくれる人がいるから。こんな私でも、信じてくれている人がいるから。
 今私は、こいつの目にどういうふうに映っているのだろう。頭の中で、心の中で、どんな言葉をかけようと考えているんだろう。
 
 チラとのぞいた嘘珀の顔は私の錯覚だろうか、大きく瞳孔が開いて動揺しているように見えた。ここは俺がなんとかするからお前はどっか行っといてというような仕草も見受けられた。おばあさんはすぐそこまで来てる。
 
 ——逃げたい、ここから走り去りたい。何もなかったかのように。
 
 また自分の奥底で眠っていた自分が目を覚まして、悪いほうにと考えてしまう。やっぱり、私には無理かな。私こそ、余計な口出しばっかりしてるよね。
 そうやって、嘘珀に任せようとした。
 
「……春子。わかった、信じてるから」
 
 風が優しく揺れたかと思ったら、嘘珀も優しく笑みを向けた。
 嬉しそうな、なんでか泣きそうな。いろんな感情が混じった、言葉で表しきれない表情。
 
「私、変わったから。今なら、ちゃんとおばあさんの話、聞けるような気がする。反抗もしない……と思う…」
「春子ならできる。落ち着いて、やばいと思ったら一回深呼吸して。行ってきな、ここで見守ってるから」
 
 後ろは見ずに、ゆっくりとおばあさんのほうへ進んでいく。
 わたしを待っていたかのようにおばあさんは私のことをじっと見つめた。
 金髪の髪の毛を見て、眉を寄せる。耳に数箇所開いた小さな穴を見て、顔を歪めた。
 そんなおばあさんに向かって私は、これでもかというくらい、深々と頭を下げた。
 
「昨日も今日も朝から迷惑かけてすみません」
「昨日は激しく言い争って、今日は人に暴力を振るって、女の子なのに品が悪いわ〜。口論になっても、先にに手を出した方が負けよ?お母さんやお父さんからこんなこと言われなかったの?」
「あーごめんなさい。こいつが私に向かって余計なこと言って頭に来たんでついつい手が出ちゃって」
「いくら頭に来ても暴力はダメよ。せっかくきれいな顔してるんだし、もっと穏やかに生きなさい。わかったかい?」
「あーはい、わかりましたー」
「あと、そろそろ時間なんじゃないかい?学校は行かなくていいのかい?」
「今日、学校休みなんで、心配しなくて結構です」
「そうかい。じゃあ気をつけるんだよ」
 
 昨日治安が悪くなるだとか、近所迷惑だとか言って口うるさかったおばあさんは、柔和な表情や、穏やかな口調をして私のついた嘘に騙されたわけてではないが、なんの疑いもすることなく私たちから離れていった。
 これでよかったのかな。私が答えを確認するかのように後ろを振り返ると、目が悪くて視界がぼやけているけど、確かに嘘珀が私のほうに走りながらグッドマークをしているのがわかった。

「昨日と全然違ったよ。ちゃんと言えたじゃん、凄いし、偉いと思った。少しずつ変われてる。さすが春子だな」
「……」
「もしかして照れてる?笑」
「てっ、照れてなんかないし!ふつーに!なんて言っていいかわからなかっただけ!すぐそうやって勘違いとか妄想するからいや。茶化すようなこと言うのもいや。なんなら嘘珀の全部がいや」
「褒めたのになんか悪口言われて悲し!ていうか、そんなにすぐイヤイヤ言わない!赤ん坊じゃあるまいし。おかしいよ?笑」
「また出た!すぐ子ども扱いする!今日はもう話したくない!時間も時間だし、学校行ってきてっ!今日も放課後来なくていいから!今日明日は顔見たくない!行ってらっしゃい!ほら早く!」
「時間が時間なのはほんとだけど、今日と明日は顔見たくないってのは嘘なんじゃない?…いや、よく考えたら今日と明日が顔見たくないだけで、明後日は顔見たくなるかもしれないってこと?そー考えたら嬉し」
「うるさいっ!いいから黙って!余計なこと喋るな!この自意識過剰男!」
「はいはい、わかったから、今日明日は来ないから、また明後日ね、行ってきまーす」
「…………」
 
 最後に言い放った自意識過剰男という言葉がクリティカルヒットしたのか、少し肩を下げて、すんなりと反対方向に歩いていった。
 でもその顔はなんでかわかんないけど暗かった。この世界から追い出されたように、寂しく、悲しい顔をしていた。
 話したくない、顔見たくない、少しキツく言い過ぎたかな……。さすがの嘘珀も、傷ついたかな……。
 自分の言い方が悪く、嘘珀にまた嫌な思いをさせてしまったんじゃないかと罪悪感を抱きながら、右にちらりと顔を向けた。
 
 口開けたら喋ってうるさいし、何喋り出すのかとおもったら、同い年なのに妹みたいに子ども扱いして、褒められても嬉しくないのに偉いじゃんとか変われたじゃんとかカッコつけて言って…。私に暴言吐かれてショック受けてるとか、私は悪くない。自業自得…。それと…自分勝手、そうやってまた私は嘘珀に引っ張られなきゃいけないの?私はあんたの子分でも、妹でも、友達でもない。なんでもないのに。
 
 でも昨日と一緒で、遠く離れていく後ろ姿を見て、寂しくなった。行かなでと手を伸ばしたくなる。
 手を伸ばしたら伸ばしただけ、行くな、お前は追いかけてはいけないというように風が吹き抜ける。
 どんどん離れていく。待って、私も連れて行って。
 
 今日も昨日も、嘘珀に会ってから自分がおかしいってことは分かってる。後ろ姿を見て寂しくなっている自分を。どーでもいい話だけど、会話を交わしているうちに心が開けてるような気がして、心地よさを感じてる自分も。
 思ってない、これこそ勘違いだ。何かの間違えだ。そうやって自分に何度も何度も同じ言葉を言い聞かせてるのに。なんで泣いてるの?これは何泣き?あいつがいなくなったことへの嬉し泣き?さっきのおばあさんに対する行動への感泣?
 わかるかもしれないけどわかんない。
 
 まだあいつに言いたいことはたくさんある。うざいとかしつこいとかめんどくさいとか。ポジティブすぎとかうるさくて耳が痛くなりそうとか。
 ——とか。
 あの時のこと、まだ話せてない。五年間、自分の想いを伝えれないまま時間だけが過ぎて。嘘珀もう忘れてしまったかもしれない。
 
 どれがどれが私のついた嘘でどれが事実なのか私にも分からない。
 結局また、何も謝らなかった。
 
         〜
 
 あいつが背を向けてから約四時間が経つ。
 長いようで短く、この四時間は退屈でつまらなくて、自分の存在は消えたようにも思えた。目を瞑って寝ようと思っても、あまりにも光が眩しすぎて瞼の裏まで通り抜けて寝れない。
 ぼんやりとした視界、奥を見渡すと、七月にしては真夏すぎる青空のような、深く濃い青色が目を惹く紺碧色の世界にもくもくと立ち上がる乳白色の入道雲が夏を感じられる。
 雑草がさらさらと音を奏でるように風が薫る。
 緑葉を身にまとい、緑生い茂る木々に蝉たちが止まり、合唱をする。私にはそれが少々うるさく感じてしまって、なんだか申し訳なくなった。
 あいつは今頃、何をしているだろうか。どうせ私の言ったことなんて忘れて、友達とゲラゲラ笑っているだろう。仲間に囲まれ、自分が中心の輪となり、楽しそうに学校生活を過ごしているだろう。
 母親が作った弁当をみんなに見せびらかし、俺の母ちゃんの唐揚げはめっちゃ美味しんだぞとか子供らしいことを言ってみんなの笑いをとっているのかもしれない。
 どちらにせよ、あいつがクラスの中心的存在で、みんなのリーダーということは間違えない。小学校の頃もそうだった。運動会の団長になって、男子で唯一生徒会選挙にも立候補した。卒業式のときは卒業生代表として、大勢の人がいる中、緊張することも、泣くことなく長ったらしい答辞を読み上げた。

「人前に出ることが好きなあいつなら、人間関係に困ることはなさそうだなぁ」
 
 いつの間にかあいつのことを考えている自分が怖くなった。最近、あいつがいないとき、今は何してるかな、こういうとき、あいつならこんなこと言いそうだなと一人で勝手に予想しては頬を赤らめる。そんな自分が気持ち悪いなと感じながら、頬を一回パチンと叩いた。
 あいつのことでふと、小学校の頃のことを思い出した。ちょうど恋愛話が好きだったり恋をしたいお年頃。そう六年生の時、二月、バレンタインデーの二週間ぐらい前。仲が良かった友達と休み時間に教室の隅っこで戯れ、盛り上がっていた。(過去形だからなんとなく予測がつくと思うが、今は仲良くない)

 好きな人とか気になっている人はいるか、その人のどんなところが好きなのか、バレンタインのチョコは渡すのかなど、みんなで興味津々に話し合い、興奮しすぎて叫んだ女子が先生に呼び出されて怒られていたっけな。
 八人ぐらいで話していた。話しやすくするために、その中でも特に重要な人物をA子とB子にする。
 他の六人とはまぁまぁ仲はよかったが、A子はなぜか私のことをライバル視するわけじゃないけど、たまーにバチバチと稲妻を走らせることがある。B子はA子と保育園から一緒らしく、私とA子が言い合いになったり、やばそうな雰囲気になった時はもちろんA子の味方をし、私に向かって反論する。
 私はA子とB子のことが嫌いなわけではなかったけど、なんとなく苦手だなぁとは思っていた。(他のみんなは私がA子とB子とはあまりよろしくない関係だということは知っていたみたいだけど、特に誰も心配して声をかけてるれることはなかったし、自分もそこまで気にしていなかったからよかったけど)
 
 そんな私でも六年生のとき、好きだった男子がいた。(これも過去形。今は曖昧で好きかどうか分からない……)付き合いたいとかそういうわけじゃないけど、いつも輝いていて、私を救ってくれるのが嬉しくて気づいたら…みたいな、恋愛マンガでありがちな展開だ。だけど、A子には信用がなかったし、言ったら大事になりそうだったから秘密にして言わなかったけど、私とA子は好きな人が被っていた。
 他の子達も知らないし、B子なんかなおさらだ。B子に知られたらどんなことになるか想像するだけで恐ろしい。

 そんなこんなでバレンタインデー一週間前。男子はバレンタインのチョコ貰えるかななんて浮かれて過ごす日々。その日はいつものメンバーではなく、A子とB子の三人で、帰り道に恋愛会議をした。
 案の定、先に会話を持ち出したのはA子だった。

 A子「ねぇねぇ、みんな知ってる?卒業式の日にグラウンドに植えられてる桜の木の下で告白すると付き合えるって噂!」
 B子「なにそれ、初めて聞いたんだけど!」
 A子「B子知らないの〜!?結構有名だよ!」
 私「でもそれってただの噂でしょ?あんまり信じないほうがいいんじゃない?」
 A子「春子、わかってないねぇ。これは前の六年生から聞いたんだけど、その桜の木の前で告白した女子がずっと片想いしてた男子と付き合えて、今も付き合ってるって話!他にも歴代カップルが九組ぐらいいるらしいよ!」
 
 いつか好きな男子に告白するとか言ってたA子は興奮しているのか口がずっと開きっぱなしで話が止まることがない。A子は好きバレしてて、その男子もA子が好きなんじゃないかという両思い疑惑が出ててどちらも学年のリーダー的存在、ほとんどの人が二人のことを知っているので学年では大騒ぎ、二人の恋愛話で持ちきりだった。それを自慢げに思っているB子も興味津々に聞くがきゃーきゃーと叫んでばかりで落ち着きがない。
 
 B子「マジ〜!?やばくなぁーい!?それさ、絶対信じたほうがいいよ!」
 私「なんか、それだけ付き合った人がいるなら少し信じれるよね」
 A子「でしょでしょ〜!」
 B子「A子めっちゃ顔真っ赤!笑どーせまた——君のことが考えてるんでしょ〜。普段はクールだけど、私たちの前ではすぐ照れるところ、ギャップ萌えっていうのかなぁ〜?」
 私「……もしかしてだけどさ、A子は桜の木の下で告白するの?」
 
 すぐに機嫌が悪くなったり怒ったりするA子に気を遣って恐る恐る聞いてみると、恥ずかしさを手で覆い隠すようにしてヒソヒソ話した。
 
 A子「言ってもいいけどさぁ〜、それなら二人とも内緒にしてくれる……?」
 B子「もちろん!私たち親友でしょ?秘密は絶対漏らさないって心に決めてるから!」
 私「誰にも言わないから教えてほしいな……」
 A子「卒業式が終わったあと、フォトタイムみたいな自由時間あるじゃん…?その時に呼び出して…桜の木の下で告白しようかなぁって思ってる…。これ話したの二人が初めてだからね!?ママにもパパにも、言ってないんだよ!?ヤバっめっちゃ恥ずかしい……」
 私「A子めっちゃ顔赤くなってるけど大丈夫笑?A子意外と恋愛話したら照れるタイプ?意外〜」
 B子「そーだよ!春子知らなかったの?こう見えてもA子は一回好きになったら振り向いてもらうまで絶対諦めないちょ〜ちょ〜一途で!恋する乙女だから!笑」
 A子「こう見えてもってどーいうことよ!」
 B子「ごめんごめん!って春子どーしたの?なんか暗いし元気ないけど、だいじょーぶそ?」
 私「なんでもないよ!眠たいだけだから!」
 
 A子とB子は二人できゃっきゃとはしゃいでいる。まるで私の存在がないかのように。ただ私は二人の話を聞いて、たまーに心配してないと思うけど心配かけないように会話に交わるようにする。でもほんとは泣きたいし、早く帰りたい。同じ空間にすら居たくない。いるだけで息が苦しくなる。特に恋愛系の話を持ち込まれるとダメージが大きい。
 そりゃ暗くもなるし、元気がなくなるに決まってる。だってあんたと好きな人が被ってるんだから。
 
 A子は可愛い系というより綺麗系だ。スポーツクラブに入っていないのに運動神経が良くて、一つ一つの動きに目を惹かれる。私だってA子が何かしてるときはすごいなぁとかかっこいいとか感心してる。特にバスケが上手くてドリブルしながら相手をかわすA子の姿は宙を舞う蝶そのものにしか見えないほど、動きが綺麗だ。
 私が知っている限りでは五人の男子がA子のことが好きだと言っている。そのくらいモテてる。自分でもモテ自慢をよくする。
 毎回モテるって意外と大変だなぁって独り言みたいな感じで言ってたけど、厚かましいなぁと思う。ほんと黙れって感じだ。
 他の女子も黙ってはいられない。私もしょっちゅう、口から手が出て殴りそうになる。嫉妬してる人多くいるけど、結局誰もA子には逆らえない。A子の機嫌を損ねたらどうなるかみんな知ってるから。今までにもそうやってクラスののけ者になった子が何人いるか。それほど強い権力を持ってる人に「好きな人、同じなんだよね」って言える勇気があるのは多分B子ぐらいだろう。
 男子は知らないだろうけど、A子は男女によって明らかの態度を変えてる。目に見えて分かるほど酷いということだ。女子にお願い事とか頼み事するときは承諾してもないのに「これやっといて」と一言で済ませたと思ったらどっか行く。
 私も一回、先生に呼び出されてるから代わりにやっといてと言われて嫌だったしめんどくさかったけど、断ればもっとめんどくさいから仕方なくいいよと言ってみたと思って窓の外見たらびっくり。
 A子は好きな男子と二人きりで帰っていだからだ。
 こいつ、人を使ってまで好きな人と帰るってどんだけ卑怯なんだよって内心思った。
 だけど?男子の前ではいい人ぶって。「お願いだけどさぁ、もしよかったらこれやっといてほしいなぁ。えっ!いいの?ありがとっ!」ってニコって笑顔見せて、ありがとうありがとう言っとけばいいと思ってる。男子はA子と仲良くなれることをラッキーと思っている。A子の頼み事は神様からの贈り物と一緒。
 だから——はA子の裏の顔を知らない。女子にとってる悪態を知らない。
 だから——がA子を好きになることも納得できる。
 
 なにが恋する乙女だよ。気持ち悪い。桜の木の下で告白する?恥ずかしい?じゃあ黙っとけばよかったじゃん。——にはお前が似合わない、——に近づかないでほしい。私の昔の想い。
 
 まぁ、これも過去のことが混じってるし、今がどうなってるとか興味もないけどね。
 桜の木の下で告白は結局失敗したらしく、理由は聞けなかったけど泣きながら戻ってきたの今でも覚えてるけど。あのときはスッキリしたなぁ。心がスーってなったっていうか、気持ちが楽になったっていうか。

 久しぶりに過去の話を自分で思い出し、珍しくこんなこともあったな、懐かしいなと思っていたら、河川敷付近に数本立てられた送電線の横にあるもう一本の棒。小さな箱から正午を告げるアナウンスが流れた。
 そういえば、今日朝ごはん買い忘れて食べてなかったんだ。どうりで十時を過ぎたあたりからお腹が可愛くない鳴き声をあげていたわけか……。今はもう麻痺してお腹が空いたとも感じないけど。
 
 立ちあがろうと思っても、時折吹く風が雑草をさらさらと音を奏で揺れるように風が薫り心地よくて仕方ない。
 空や風は私を包み込むように優しいのに、朝の穏やかな陽光は、昼になったら一転して照りつけるどころか、肌に刺すようなものに変わり果ててしまった。
 そんな汗が滲み出てくるような灼熱の空間に今は一人、若草の上に寝転んでいる。
 あとで、銭湯に行って、この汗を流したらさっぱりするだろう。夜になったらまた涼しくなる、それまでは近くの図書館でも借りて涼ませてもらおうかな。
 
 頭の中では色々と計画を立てても、いざとなったら体がだらしくて動けない。頭はクラクラするし、目も回る。喉が渇いた、少し水を飲んだらこの目眩も良くなるかもしれない。
 右脇に置いておいた二リットルペットボトルを手に取り、力を入れてキャップを開ける。
 もったいないから少しずつ飲もうと思ったが、喉と身体は限界、水を求めている。動き回って疲れたわけでもない、誰かに取られるわけでもない。それなのに一心不乱にごくごくと休む暇なく飲み込んで、半分くらい残っていた水はあっという間に空になった。
 正直言うとまだ飲み足りない。もっと冷水を一気飲みしたい。そんな欲望があるが、今はとにかく銭湯を探して、身体をさっぱりさせよう。
 人の行き交いも朝に比べたら減ったが、散歩やウォーキングをしているお年寄りと目が合うと、やはり目を細めて、なんで子どもがこんなところにとヒソヒソと話すような声が聞こえた。
 
「私も何がしたいのか、なんでこんなところにいるのか分かんないよ」
 
 誰もいない、この声が誰かの耳に届くわけでもないのにただ独り言を呟いて、空高く舞い上がって壊れたシャボン玉のように消えていった。

         〜

 雲がさっきより増して、こちらへと近づいて来たように思える。青空は白い雲に覆われて、街は薄暗い世界に包まれ始めた。
 閑静な住宅地を誰ともすれ違うことなく進んでいく。申し訳ないがここは何もない。事実を言っているだけで私は悪くない。
 安くてコスパがいいと言って夕方は賑わってそうな大型スーパーもないし、今どきの中高生が好きそうなキラキラした服屋もない。SNSのおすすめに出回ってくるようなスイーツやランチなんてもってのほか。
 同じ都でも、場所によってはこんなに何もないのかと正直驚いた。
 あるのと言ったら靴磨き屋さんとか、クリーニング店、コインランドリーや壊れた自転車を修理するあまり儲からなそうな店、駄菓子屋。駄菓子屋はレトロっぽくていい雰囲気だからまだいいとして、靴磨きとかいる?
 いる人からしたらいらないかもだけど、もう少し大型チェーン店とか、今どきっぽい店を出したら地域おこしになって経済的にもいいと思うんだろうけどなぁ。
 まぁ私には分かんないや。この街を変えるような権力もないわけだし。
 
 そうこう考えながら、河川敷から歩いて三十分。我ながらよくこんなところまで歩いて来れたなと感心しながら古びた商店街を通り過ぎて、賑やかな住宅街にたどり着いた。
 洗濯物を取り込み忙しそうなおばあさん。趣味か頼まれたのか、庭の木や花の手入れをして嬉しそうにしてるおじいさん。
 保育士さんたちと手を繋ぎ散歩中の上機嫌な園児たち。
 
 時々、バーベキュー特有のジューっと肉を焼く音と共に煙が立ち上がり、肉や野菜の旨みが混ざった香ばしい匂いが私の食欲をそそった。
 会社か大学の何かで集まってるのだろう。数人の若い男女が庭に集まって一つのバーベキューコンロを囲み、立ち食いをする。会社だったら上司の話か、ただの世間話か、間々男の人のガハハッと言う盛大な笑い声と女性の甲高い声が耳を貫く。
 子供だが、大人の話が気になるお年頃だ。バレないように物陰に隠れ、ひっそりと耳を傾けた。

「ちょっと今真ん中で焼いてる肉、私のだから!自分の肉ぐらい自分で焼きなさいよ。人のこと使わない。めんどくさいなら食べない!」
「お前、社会人にもなってピーマン残すとかガキンチョかよ笑!よく子供の頃好き嫌いしないで食べなさい、好きなものだけ食べてたらおかわりさせないって親にうるさいぐらい言われてたわ〜!」
「あー分かる分かる!やっぱどの世代のお母さんでも同じこと言うんだねぇ」
「せっかくだしさ、みんなで一杯、キューっといこうよ!せっかくクーラーボックスに氷詰め込んでキンキンに冷やしたんだし、冷たいまんまで飲みたいっしょ?だから、この日のためにタンブラー、人数分買っときました〜!酒飲めねぇやつのためにオレンジジュースとかその他もろもろ買っておいたからさぁ〜!好きなの選んでコップに移し変えてー」
「おぉ!気がきくねぇ!じゃあお言葉に甘えて一杯!」
「ほんとは飲みたいところなんだけど、子供の迎えがあるから今日はジュースで我慢しとくかぁ」
「子供の迎えならしゃーないよなぁ、また今度誘うから今度は絶対飲もうぜ!」
「誰も触れてないけどさ、このタンブラー高かったでしょ?なんか申し訳ないよ」
「そうだよね、ジュースとかお菓子まで買ってもらって、なんかお返し」
「心配無用!実はこのタンブラー、百円ショップで買いました〜!」
「えぇぇ!?マジで!?とうとうそんなものまで売り始めたのか……」
「いつか百均だけで生活必需品揃いそうじゃない〜?近い将来、小型洗濯機とか小型掃除機とか販売されそうじゃない?笑」
「もうそれワンコインじゃおさまんないだろ!笑」
「たしかにー!笑」
「んじゃ、せーの!」
「「「「「「かんぱ〜い!」」」」」」
 
 なんか……。もっとギスギスした感じかと思ったら。
 めっっっっちゃ楽しそうじゃん。
 みんな揃って仲がいいし多分この家の主であろう男の人が、会社の同僚か、大学のサークル仲間と一緒にひんやりと冷えてそうなアルミ缶を高く持ち上げ、ぐいっといっぱい飲む。そんな仲睦まじい姿を見て、自然と口元が緩んだ。
 口の周りについたであろう白い泡が、まさにCMの裏シーンを見ているかのようで、なんだかいい気分になった。
 
「仲が良さそうでいいなぁ〜」
 
 あの中に混じれるもんなら混じりたいが、向こうは大人ばっかりだ。子どもが乱入してきたらさぞかし迷惑をかけるだけ。
 恨めしそうな顔をしていると自分でもわかる。これ以上欲望が出ないように、速やかにその場を後にした。
 
 住宅街を通り過ぎ、繁盛してそうな場所に降りてくる頃には、さっきまでの夏景色はどこへやら、澄んでいた透明の空に墨汁をぶちまけたような不気味な雲たちが大きな建物が重くのしかかるように散らばり始めた。
 不幸なことに私はショッピングをしにここへきたわけではないので傘を持っていない。後もう少しもってくれないかと思った矢先、雨が降り始める。自然って敵だよなぁと憎んでも憎めないような相手にクレームを一つ。
 
「やば、スマホの充電、あと十七%しかない。三日間持ったって考えたらまだマシかもだけど……」
 
 雨は容赦なく降り注ぐ。降り注ぐといいたらなんか優しいイメージだからちょっと違うかな。
 ピークを迎えた雨が降りしきり、服も髪も何もかもがびしょびしょだ……。これなら雨の強さが伝わりそうだ。
 陽光に照らされ陽炎をつくり、接触すると火傷してしまいそうなアスファルトの地面は蒸気をあげて、喜びの宴を唄う。
 
 この調子じゃ、あの河川敷で寝るのは難しそうだな。
 誰の家にとつりに行く?とつるような仲よい友達もいないけど。家には絶対帰らない。これだけは最終手段にも選びたくないね。
 じゃあどうする?コンビニに雨が止むまでお邪魔させてもらう?いや、ダメだ。子どもが何時間も何も購入せずにフリースペースに居座っとけば、いつしか声かけられて追い出される。
 ホテルに泊まるのもいいけど最近ニュースでホテル代値上がりしてるとか言ってたし、なるべく家に帰らないでいいようにお金はあまり使いたくないし……。
 頭ではどうにか宿泊できる場所を探しながら、一刻も早く銭湯に辿り着きたいというわがままな自分に苦笑する。
 
「ここで合って…る?なんか、すごい気味悪い建物だけど……」
 
 スマホのナビ通りに道を歩いて、到着したのは築何年だろう。とにかくものすごく古びた怪しげな建物だ。今にもガッシャーンって崩れ落ちてきそう。これ、元々の壁の色、何色だ?どれだけ目を擦っても答えはわからなかった。そんだけ……汚れてるというか、汚い。看板の文字もなんて書いてあるか一文字も読めない。スマホで見たのではいい湯だ屋って名前だった気がするけど、本当にそんな文字書いてたのかな…。
 って…ドアは手動じゃん。窓ガラスとか壁に伸びきって一周したつるがより不気味さ増してるし……。外から見ても一目瞭然。カーテンがビリビリに破かれてる……のか破れたのかわからないけど、新しいやつに変えたら気持ち雰囲気かわ…らない。
 もう一度スマホを確認してみても案内は終了しましたの文字はある。場所もここで間違ってないみたいだけど、どう考えてもここが
『検索 〇〇市〇〇町 銭湯 人気』だとは思い難い。
 他のところを探してみようと画面を二回タップした。二回タップ……。あれ?つかない。
 最近接触が良くないし、とうとう壊れたのだろう。こういう時は横についてる起動ボタンを押せば…。
 目を疑いたい光景、これは嘘だと思いたい。
 漆黒の画面のど真ん中。細く白い線で描かれた長方形の物体の左側に赤い縦ラインがこれまた細く一本。
 さっきまでついてたのに。限界早くない?
 
「充電、切れちゃったよ……マジかぁ最悪。検索手段なくなったよ…」

 今日は諦めて、元来た道を戻るしか
 
 ドカーンッ……——
 
 数メートル先が一瞬眩しくなったと思ったら、目の前。よく戦隊向けのアニメでラスボスの城に辿り着いた時の青白い稲妻が目の前を走っていった。
 こりゃあ、危険だ。普段と変わったことが起こったことが起きた時興奮するような私でもわかる。
 もし今戻ったとしたら……。最悪の場合雷に打たれて即死亡。
 いや怖い怖い。余計な妄想するんじゃなかった。一つ身震いし、何も考えることなく店の中へ入店する。
 中を見て少々驚いた。
 外見の潰れかけた工場、廃墟感はどこへいったのか。古民家を改装したようなだけど、床はほとんど変えていないようだ。ココア色の柾目板、ダークブラウンの板目板、コーヒー色の追柾目板。技術の先生が言ってたような気がするけど柾目板ってすごく稀少なやつじゃなかったっけ?
 カフェスペースみたいなところあるし、あれなんて書いてるんだろ。「手作り、スイーツあります」かいいなぁ。手作りか…。手作りとか食べることも減ったな。もう二、三年は食べてない。どんな味するんだろう。優しいのかな?温かさがあるのかな。
 店内をぐるっと見渡していると、ドアを開けた時に鳴った鈴に気づいたここの店主であろうがこちらに目を向けた。

「いらっしゃいませ…って、やだ!ちょっと、どうしたんだい!?そんなにびしょ濡れになって…。傘を持ってなかったのかい?それとも急に降り出してきたのかい?それだったら仕方ないけど、でもお天気予報見ても当たらないことが多いから困っちゃうわよねぇ。だからと言ってこんなに濡れるなんて、お嬢ちゃんはどっから来たのかい?それにしても、寒いだろう?ほら、いつまで玄関に突っ立ってないで、こっちの方へおいで、今タオルケット持ってくるから、ソファに座って待っててちょうだい。何か温かい飲み物も持ってこよう。ホットミルク、ホットレモネード、ホットココアぐらいしかないけど、何がいいかな?」
 
 私が入店した時、おばあさんは五、六メートルぐらい離れたカウンターの横にある椅子に腰を掛けて、眠たそうに本を読んでいた……はず。そのあと私に気づいて、見て驚いた。そりゃ当たり前か。こんな雨の中、入浴セットもカバンも何も持たずに客一人が入店してきてましてはずぶ濡れの状態だったら。
 それにしても心配性というか、優しすぎるというか、私自身もおばあさんの接客態度にふつーに驚いて、声が出なかった。餌をくれるの待つ腹ペコ金魚のように口をパクパクさせることしかできないのが少し恥ずかしく思う。

「びっくり、した……。なんなの、あの人。あんなに優しすぎると逆に怖くなってきた」
 
 初めて来店、初めての顔合わせなのにどうしてこんなに心配してくれるんだろうという疑問と、入店する前に見た生ホラー物件の概念が吹き飛ばされた安堵感。あのおばあさんは一体何者なんだろうという小さな恐怖心と寒いし頭がくらくらするし吐き気がする。色んな感情というかなんというか。とにかく混ざり合いすぎて頭がどうにかなりそうだ。
 軽ーく目を瞑って心を落ち着かせていると奥のほうからガサガサッガタンッと二つの音が聞こえた。
 雨でびしょ濡れな私、一歩踏み出せば、滴が滴り落ちて、床もびしょ濡れになるだろう。掃除する手間がめんどくさいと思ったけど、脳が命令動けと命令したわけじゃないのにとっさに足が動いて音がした方に向かうと、さっきのおばあさんが足を滑らせたのか、小さな段差につまずいて転けたのか、膝に手を当てながらうずくまっていた。左膝に私の拳ぐらいの青あざがくっきりと見える。どれだけ激しく打ちつけたのか、想像するだけで痛々しい。
 こんなの笑って大丈夫と言える人はいない。おばあさんは当たり前のように顔を歪めて、痛い痛いと繰り返している。
 痛めたところは触らないように近寄り、恐る恐るおばあさんに声をかける。
 
「大丈夫ですか!?どうしたんですか?」
「私ももう年やからねぇ、なんの段差がなくてもすこーし歩くだけで足がもつれて転けそうになるのよねぇ。いつもだったら手すりに掴めるし、手が先に出て転けないんだけど、ちょうどタオルを持って早歩きできたからねぇ間に合わなかったのよ」
「…私がいけないんです。ごめんなさい」
 
 私がこんなに雨に濡れなかった、おばあさんはタオルを持ってくる必要がなかった。私が濡れてると風邪をひいてしまうということを心配して急いでタオルを持ってきたから、転けて怪我したんだ。そもそもいつもみたいに反抗して、いらないって断っておけばよかったんじゃないか。なんで断らなかったのか、なんで甘えたのか。自分でもわからない。
 自分の曖昧な気持ちと行動に視界が滲んだ。
 赤の他人の私に親切にしたばかりにおばあさんは不幸な目に遭った。こんな反抗するし、家出中だし、学校にも行かないでこうやってぷらぷら遊んでばかりの私のせいでと考えるとどうにも申し訳ない気持ちで胸が苦しくなる。

「ごめんなさい……ごめんなさい」
 
 何度も頭を下げた。痛くて泣きたいのはおばあさんのほうなのに、なんで私が泣きそうになってるんだろう。失礼、意味不明すぎる。
 こんなことして呑気に風呂に入らせてもらうなんてどこぞの非常識人だ。私でもそんなことはできない。おばあさんは顔の表情を歪めたまま動かない…いや、動けないのだ。
 私が背負って病院まで連れて行ったほうがいいのだろうか…いや、また鈍臭いことしておばあさんを背負ったまま転けたらもっと大事になる……だから警察、じゃなくて救急車を呼んだほうが確実か。

「えっと…どうしたらいいですか!?き、救急車呼んだほうがいい」
「そんな大袈裟な!ちょっと前も同じところぶつけたから疼いただけよ!今はすぐには歩けそうにないかもしれないけど、このぐらいだったら一時間もしたら治るわよ!救急員さんにも迷惑になっちゃうし連絡はしないで大丈夫だからね」
 
 私の右手に持った、すでにキーパッドに119と書かれた予備用のスマホを見たおばあさんは私の腕を耳から優しく話した。
 関係ないけど、こういう時に予備用を持っておくと便利というか助けになるなと思った。
 いやいや、そんな便利とか都合のいい話をしている場合じゃない。

「雨宿りみたいな感じで来て、タオルまで頂いたのに、余計な事故?…事件?…トラブルに巻き込んでしまってすいません。おばあさんの気に障らなかったら、何か、何かお詫びをさせてください…。謝るだけじゃ許されないです。なんでもいいです、買い物にも行ってきますし、今日の晩御飯でも作ります。本当になんでもいいので私に何かやらせてください」
「まぁまぁ、なんて気を遣えるいいお嬢さんなんでしょう…。でもいいのよ、気にしなくて。そんたいしたことなから、強迫観念しなくても」
「どこがないしたことないんですか!?この膝のあざ!全然たいしたことじゃないですけど!?おばあさんにとってはどーでもいいことかもしれないけど、私からしたら大事なことです。あれだったらコンビニで湿布買ってきます。冷やしたほうがいいですか?私はどうすればいいですか!?」

 一回自分のせいだと思ったら、後を引けないタイプの人間である私の勢いにおばあさんは困惑の表情を見せたけど、すぐに温かな笑みを漏らし、くすくすと微笑んだ。
 私には何がおかしいのかさっぱりわからない。普通、怒るはずだ。こんなに水纏って、店の中入ってきたら、濡れるし掃除するのはお前じゃないぞって、私だったら誰が相手だろうが、容赦なく怒鳴りつけるのに。このおばあさんは、私のことを一回も叱ってない。叱るどころか心配ばっかりしてくれて、初めて顔を合わせたのにこんなに優しくしてくれている。

 世の中にはこんな人もいるんだ。

 おばあさんに怪我をさせてしまったことはすごく申し訳ないと思ったけど、いつぶりか人の温かさを感じたのは私の勘違いだろうか。
 心に、身体に巻き付いた鋼の鎖が少し欠けたような音がして、緩く楽になった気がした。切れかけた糸が、ほんのちょっとだけど太くなったように思えた。これはおばあさんに対する私の心が開けたってことなのかな。
 どちらにせよ、自分の中の何かが変わったということははっきりとわかった。

         〜

「わざわざありがとねぇ。自分一人でもいけたのに、使っちゃって」
「このぐらいしないと心配で帰れませんよ」
「まぁなんでいい子なのかしら」
「……いい子じゃない。私なんか、親に反抗ばっかりするし、捻くれ者だし、迷惑ばっかりかけてる。死んだほうがいい人間なんです」
「何か言ったかい?ごめんねぇ耳が遠いから、もう一回行ってくれるかな?」
「あっいや、なんでもないです。独り言なので、気にしないでください」
「そうかい、そうかい」

 あの後、私のしつこさに観念したおばあさんは、申し訳そうな顔をして隣の家に湿布があるからそれを持ってきて欲しいと頼まれた。逆にそれだけでいいのかとまた悪いしつこさが出てきそうだったが、頼んでくれただけよかったと思い、湿布を持ってきた。頼まれてはないけどお茶も入れて。
 服は乾かしてる間、おばあさんのお孫さんの服を借りた。話によると、お孫さんは私より一個下でよく遊びにやってくるらしい。止まることもあるようでお孫さん用のクローゼットには服がたくさん掛けられていた。
 タオルも四枚もらって拭いてもらったし、なんか色々迷惑をかけているなと思い申し訳なくなる。
 寒くないと言ったら嘘になるが、これ以上余計なこと喋ったら、それまた余計なお世話になると思うので口を閉じておく。
 
「お風呂はどうだったかい?熱すぎなかったかい?」
「すごく気持ちよくて、汗かいてたんですけど、おかげさまでさっぱりしました。ありがとうございます」
 
 ならよかったと言わんばかりにおばあさんはニコニコしている。
 
「お風呂の床が乾いてたんですけど、聞きにくいことだけど、もしかして私が今日一番のお客さんだったりしますか?」
「そうそう、お嬢ちゃんが一番だよ。夏はジメジメして暑いし今日は雨だからなおさらお客さんが誰も来なくてねぇ。でも一番風呂に入れたのはお嬢ちゃんラッキーだねぇ。私がいうのもなんだけど意外と人気な温泉だから、もっと寒くなったらお客さんが絶えず来て大変なぐらいだよ。予約組が三十ぐらいあった時もあるぐらいだよ。だから夏はお客さんに会えないのが少し寂しいねぇ。今日はお嬢ちゃんが来てくれたから満足だよ」
「私が来てくれて満足?……怪我させてしまったのに?なんでそんなに笑顔でいられるんですか?怪我だって完全によくなったわけじゃないのに……」
「もういいのよ!ちっぽけなことでそんなに引きづらなくても!私はこの通り、元気が有り余ってるの!笑顔でいたほうが、幸せが来そうな気がしない?ほらお嬢ちゃんも、せっかく可愛らしい顔してるんだから、暗い顔してると勿体無いわよ」
「…………」
 
 可愛らしい顔…か。そんなこと、言われたことないな。自分の両親でさえ、可愛いとかきれいとかお世辞でも言ってくれたことないのに。このおばあさんもお世辞で言ってくれてるのかもしれないけど、ちょっと心が温かくなった…気がする。
 だからと言って、ありがとうございますって言ったらあいつと同じで自意識過剰女になるし、逆にそんなことないですよって言ったら憎たらしい子だなって思われそうだ。
 可愛いとか言われたことない私が反応に困ってオドオドしている隙に、話題はぽんぽん切り替わっていく。
 
「そういえばお嬢ちゃんの名前聞いてなかったねぇ。怪しいものじゃないからよかったら教えてくれないかね?」
「名前、ですか?私の名前、聞いてもなんの意味も……」
「意味があるないじゃなくて、聞いておきたいだけよ。嫌なら無理して言わなくてもいいのよ。言うか言わないかはお嬢ちゃんに任せるから」
「……桜田」
「苗字は桜田さん?名前はなんて言うの?」

 まぁ苗字言ったら名前もセットでついてくるか。なんとなく予想できたけど、やっぱり自己紹介は乗り切れないもんなんだなと諦めをつけ名前も名乗ることを決める。名前名乗るってなんかあるわけじゃないし。

「…春子。桜田春子です」
「桜田春子ちゃん。桜に春に、可愛いものがいっぱい詰まってるねぇ。お母さんとお父さんが一生懸命考えてつけてくれた名前、大切な宝物だから大事にしないとね」
 
 本当にそうなのかな。あれは本当のお父さんじゃないし、お母さんもあんな感じだと私のために一生懸命考えてつけてくれた名前という考えには結び付かない。どうせ私が春生まれだからという理由で付けたんだろう。きっとそうだ。私なんか生まれないほうがいいと思ってるだろうし。
 
「…そうですね。えっと…おばあさんの名前は…?」
「あっはっは!笑私の名前かい?私が名乗ったら、春子ちゃんはこれから、名前で呼んでくれるのかい?」
「えっ、まぁ。おばあさんって言うのもなんかちょっと…」
「そんだけ言うなら名乗りましょう。私は八代縁里、縁の里でゆかり」
「珍しいし可愛い、名前ですね」
「あら、やだ!お年寄りの名前を可愛いだなんて、春子ちゃんは口が上手ねぇ!」
 
「春子ちゃんは学生さんだろう?髪はキラキラしてるし、大人っぽいけど、私には誤魔化せないわよ〜?学校はどうしたんだい?行かなくていいのかい?」
「今日は学校がお休みなんですよ。夏風邪が流行ってて、学級閉鎖中で…。私は全然なんともないんですけど」
「まぁ、それは大変ね。それにしても春子ちゃんは見かけない子だねぇ。ここら辺の子どもたちの顔はほとんど覚えてるんだけど、初めて見た顔だねぇ…。どこが違う地区の子かな?歩いて来たのかい?」
「まぁ一応…住んでるのは割と近くで、散歩がてらと言うか、ぷらーっと歩いてたら雨が降ってきて、ちょうど汗もかいてたしお風呂に入りたいなぁって思ったらここに辿り着いたわけです」
「なるほどねぇ、わざわざここを選んでくれたありがとうね。雨足はだいぶ弱くなってきたけど、ゆっくりして行っていいからね。何かあったら遠慮せず言ってちょうだい」
「ありがとうございます…」
 
 そう言うと縁里さんは早めの夕飯の準備をしてくると付け足して、隣にある家へと戻って行った。
 引き分け戸がぶつかりあってぴしゃんと音を立てた後、部屋はシーンと静まり返りいくら雨足が弱くても外の音が聞こえてくる。
 シーンとした空間がどうにも居心地が悪くて立ち上がる。グルッと辺りを見回して歩き出す。
 特に何も探り入れなかったが棚の上にある写真立てがどうも気になって仕方がなかった。私の身長的にも届く位置にある写真立てに手を伸ばし目の前に持ってくる。
 写真立ての中に入っていたのはまだ真新と思われる縁里さんとお孫さん、お孫さんの両親が仲睦まじそうに写っていた。
 笑顔がすごく柔らかくて、温かくて、優しそうなお母さんだなぁ。
 一見真面目そうだけど、この娘のことをしっかり愛してそうなお父さんだなぁ。
 縁里さんはお孫さんのことが大好きで、お孫さんも縁里さんのことが大好きなんだろうなぁ。
 イライラしてるわけじゃないのに心の底からふつふつ音がして、気付いたら写真立てを持った右腕が振り上がっていた。
 動悸が激しくなる。全身の血液が逆流しているかのように、気が狂う。
 あぁ落としたい。壊したい。粉々にしてしまいたい。
 
 ——これを下ろしたらどうなるか、この家族は縁里さんは何もやってないだろ。なのにそんなことしていいのかよく考えろ、春子。お前なら分かるはずだ。
 誰かの影が、声が聞こえたから身体が驚いたのか、それとも目覚めた自制心が働いたのか。わからないけど写真立てを下に振り下ろしかけたが、ギリギリのところで動きを止めた。
 あと少し下にいってたらこの写真立ては音を立てて粉々になっていただろう。
 ついさっきまで普通に話して、いい人だなんて思ってたのに、急に縁里さんのことが憎くなって、無意識に、他の誰かに操られたみたいに、壊そうとして、自分のやってることが怖くなった。

「何やってんだろ、私…」

 ——あぁ奪いたかったな。あのまま壊れてしまってたらいいのに。なんで壊さなかったんだろう。あの声が、聞こえてなかったら壊せてたのかなぁ…。

「…また、変なこと考えてる」

 ゆっくりしていいと言ってもここで寝泊まりしていいと言われたわけではない。それに今だって、縁里さんのみていないところで最低なことをしようとした。
 私は今すぐここを出ないといけない。
 自分でもはっきり分かった。これ以上ここにいてはいけない、色々してもらった恩は返せなかったけど、逆に縁里さんを地獄に突き落としそうで、また自分がどんな悪事を働かせるかを考えると、ここにいるにはふさわしくない。
 まだ少し爪先ら辺が湿った靴を履いて、隣に向かった。雨は完全に止んでいた。複数個の水たまりに反射してできた世界奥深くまで見える。私の裏心も知ってそうだ。空は薄暗く不気味だった世界から変わり果てて、太陽が雲越しにこちらを覗いてくるように感じられる。
 夕飯の支度途中だった縁里さんはもっとゆっくり過ごせばいいのに、せっかくだからご飯も家で食べていかないかと本当に親切なことを言ってくれたけど、あなたがいないところで私がどんなことをしたか知らないから、私の裏の顔を見たことがないからそんなに優しくできるんだよなぁと思ったら、なんか馬鹿馬鹿しくなってきた。
 縁里さんは一人暮らし。お孫ちゃんも私と同じぐらいの歳。私だったらおばあさんの家に泊まれるような気分になれない。お孫ちゃんもきっとそう。最近は泊まりにも、会いにもすら来てくれないんだ。だから寂しくて、誘ってくれたのかなと思うと断りにくい。

 それは普通の人間だったらの話。

 私は普通か?どっからどう見ても普通じゃない。異常だ、とんでもなく。
 縁里さんはただ私が散歩中に雨が降ってきたから雨宿り気分でここにやって来たと思っているようだけど、実際は違う。
 知ったら怒るかな?怒りはしないか、縁里さん、優しそうだから怒れなさそうだもん。
 怒ると言うより事情を聞かれそうだ。こりゃまためんどくさい。
 心配もかけたくない。面倒なことにもさせたくない。だから縁里さんには言えない。
 私は今絶賛家出中だと言うことは。
 家族に暴力を振られ、学校では——られ、居場所がなくなった不良、変わり者だということも。
 いまぁつも通りの私だったら、ふつーに出て行けって言われてるだろうし、こんな長い時間居座らせてもらえてないな思ったら人付き合いが上手くなったんじゃないかと思った笑。
 これで人付き合いが上手なら世の中甘いな。
 
「短い間でしたけど、お世話になりました。色々迷惑かけてすみません。ありがとうございました」
「また顔見せてちょうだい。温泉にも入りにきてね」
「…はい」

 短い間。お世話になりました。この単語一つ一つに意味がある。
 ここへはもう来ないのに、返事をしてしまった自分が嫌になった。
 また私は嘘をついた。

 第三章 小さな一歩

 西に眠っていく黄金色の夕日、激しく燃え上がるような雲は目を惹くほど、美しく神秘的だった。その場の静寂はまるで絵から切り取ってきたような別世界。
 カラスの群れが電線に止まり、仕事終わりに一休みする姿が気楽そうで羨ましい。
 夕日…。まだ私が幼くて人懐っこかった時、幼稚園の帰り道に母に手を引かれ、夕焼け空を見ながら「夕焼け小焼けで日が暮れて…」と歌いながら歩いていたことを思い出す。
 歌いすぎて耳がおかしくなるほどしつこく口ずさんでいたあの時は幸せな時間だったんだろうなと考えたら、幸せってちっぽけだなぁと思った。
 日が暮れ始め、下校する小中高生が楽しそうに会話しながら私を通り過ぎていく。なんか疲れてふらふらと歩いて帰る、地獄に向かう極悪人のような私を睨む…まではいかないけど「変な人」「怖っ、あれ近寄っちゃやばいやつじゃない?離れとこ…」と。一言多いんだよ、あれって一応私も人間だし。物じゃない。近寄っちゃいけない、離れたほうがいいと思うんならこっち見んなよ。
 そんな女子中高校生たちの会話には少し興味がある。向こうからは気づかれないように耳を傾けると家庭での出来事、アニメやドラマ、私が大っ嫌いな恋愛話も。それでも青春してるなと思うと妬ましくなり顔をそっぽにむけてしまう。
 目の前から歩道いっぱい、お構いなしに広がりチャラチャラしてそうな四人組の女子軍団が迫ってくる。後ろにいる人たちは迷惑かけてるのにも気づいていないようだ。
 時折気の強そうな人が「どいてください」と声をかけると「すいませ〜ん」と思ってもいない謝罪をして何がおかしいのかゲラゲラ笑い声が耳に響く。あの制服、私と一緒の高校じゃん。同じ高校の生徒として恥ずかしい…って私が言えることじゃないけど。私のほうがもっと恥ずかしいことばっかりしてるから。
 他にどんな迷惑をかけるのか気になってぼっーと見つめていると、一人の女子と目が合った。

「えっちょ見てよあれ!春子じゃない!?笑」
「学校サボって一人でお散歩中?笑意外と可愛いところあんじゃん」
「あれのどこが可愛いの?笑あんなやつが可愛いならウチらちょー可愛いじゃん?」
 
 なんのことだろう、なんで名前を知ってるんだろうと思って首を傾げている私を指差しながら周りにいる三人の女子とクスクスと笑っている仕草、笑い声に混じって聞こえる別の声でようやく気づいた。
 顔がはっきり見えなくても知ってる。忘れるわけがない。昔からこいつのことだけは忘れるもんか。嫌でも忘れたくても頭に永遠にこびりついて洗い流せない。
 あいつだ、あいつらだ。なんで、なんでここから通って帰ってるんだ。もっと早く分かってたら別の道から帰ってたのに。こういう時に限って会うなんて最悪だ。いくらなんでも運が悪すぎる。

「あれ〜?誰かと思ったら春子じゃん。なんか久しぶりに会った気がするけど…元気にしてた〜?でもまぁ相変わらず派手な金髪に惨めオーラが出てるからすぐ分かったよ?笑こんなところで何してんの?一人ぼっちで笑」
「私が何してようと勝手でしょ。声かけてこないで」
「うわ〜、感じ悪〜。久しぶりにこうやって会えて、誰からも相手されないから可哀想だなぁ〜と思って話しかけてあげたのに、何その態度」
「ほんと!愛莉は私と違って優しいからあんたみたいなやつにも声かけてあげれてるのに、態度改めたほうがいいよ?生意気だし。いい加減にしたほうがいいんじゃない?」
「ちょっと咲!笑どストレートに言い過ぎだって!春子が泣いちゃうでしょ?笑…まぁ美花は愛莉と咲が正しいと思うけど、優海は春子の味方〜?私たちライバル〜?笑」
「ちょっと美花!んなわけないでしょ!こいつの味方とか死んでもなりたくないよ〜!こんなやつと一緒だったらメンタルもやられそ〜」
「めっちゃ言えてる〜!あれ?春子ちゃーん?どうしたの〜!悲しくなって喋れなくなっちゃったかなぁ?もしもーし?聞こえてますかぁ?」
「………れ」
「なに〜?大きい声でハキハキとって学校の先生に言われ…あっ!不登校だしそんなのも教わってないから分かんないか!ごめんごめん」
「黙れって言ってんだよ!?お前も聞く力がないよなぁ?人のこと言えねぇ〜笑いい子ちゃんはおとなしくお家に帰りな笑」
「急に怖〜!こんな人と一緒にいたら私たちの雰囲気が悪くなっちゃう〜」
「さっさとどっか行こ〜」
「じゃあねぇ〜またどっかで会えたらいいね笑」
「……」

 私の荒げた大声に反応した人たちは私と目が合うと気まずそうにそらし、足早になる。人の目お構いなしに睨みつけていると、何かを思い出したのか一人の女子が私に近づいくる。その言葉は信じられないもので私に衝撃を与えることになった。

「そーいえば、言い忘れてたけど私嘘珀君と付き合うことになったから」
「…えっ」
「ガッカリするよねぇ?悲しいよねぇ?だって小学校四、五年ぐらい?の時から好きだっだもんねぇ?私、知ってるから。あんたが隠してたの。私が桜の木の下で告白するって言った時にはすでに分かってたよ。あんたって意外と卑怯だよねぇ?私はあんたを信じたばかりに秘密打ち明けて、あの時は失敗しちゃったけど、ようやく嘘珀君も私の良さに気づいてくれたみたい。保育園ぐらいから一緒だったって聞いた時は流石に焦ったわ〜。そりゃ幼馴染のほうが気が合うだろうし。まぁ、結局私の嘘珀君になっちゃったけど。そもそもあんたみたいな不良と優しい嘘珀君は釣り合わないからもう諦めたほうがあんたのためよ。一生付き合えることもないだろうし。あんま調子乗んなよ?」

 そう言うとに私のことを押しのけ、勝ち誇ったような笑みを、悪魔の笑みを向けて、他の三人が待っているところに行った。私に見せつけるかのように「よかったね!」「愛莉なら絶対付き合えると思ったよ!」「ずっーと応援してるから!」とわざと聞こえる声で…。
 頭が真っ白だ。理解が追いつかない。途中から、話の内容も頭に入ってこなかった。
 嘘だ、嘘だ。信じられない。どうせこれも私に対する一つの嫌がらせだ。嘘珀が…あんなやつと、愛莉と付き合うわけない。私の絶望する顔を見たくて企んだんだ。
 意地が悪いくて卑怯なのは誰なんだよ。私じゃなくて愛梨のほうだ。人に言っておいて自分のほうが卑怯なくせに。。
 まだ甲高く聞こえるあいつらの笑い声も、堪えていた最初の一粒が流れると静かに音も立てずに次々と止まることはない。視界が不透明な不透明な光に満たされて、これ以上泣くものかと、下唇をグッと噛み締めた。
 
 通り過ぎていく人たちは私に声をかけてくれることはない。そりゃ当たり前か笑。いきなり声を荒げるような人間には誰も近づきたくないよね笑。
 雫は私の頬をポタポタと伝っては地面に落ちて、地面の暑さに負けて儚く消えていく。 こんな姿を見せてられない、止めようと思って拭っても拭っても溢れ出てきて、嗚咽が漏れて抑えきれない。過呼吸になって息ができなくで苦しいのか、心が苦しいのかわからない。
 ……そっか。そうだったんだ。私はきっと悔しんだ、あんなやつに嘘珀を奪われたことが。きっと悲しんだ、私が一番知ってる。どんな時でも何があっても優しくできて、私と違って善悪が区別できて、太陽みたいに明るい嘘珀が、卑怯で人の絶望した顔を見て笑うようなあんなやつと付き合ったことが。

 あの日、一人でいたいと言ったけど、本当は嘘珀が声をかけてくれたのは嬉しかった。
 隣に座って一緒にいてくれたことがちょっとした救いだった。
 それと気づいたことがもう一つある。
 なに考えても真っ先にあいつの顔のことが思い浮かぶのも、あいつのことを考えるたびにふわふわして顔が赤くなるのも。理由がわからないまんま時だけが進んでいったけど、今はっきりとわかった。
 もう遅いけど、今までずっと嘘珀のことが好きだったからなんだ。

         〜

 赤く燃える日はあっという間に西に沈み、東の空から昇ってきた月が顔を出す。
 薄らと光を放つ月明かりが私の涙を照らす。
 
 愛莉たちと再開した後どうやってここ、河川敷まで戻ってきたかそこら辺の記憶がまったくない。切り取られたようにぽっかり大きな穴が空いて、よほどショックを受けたと言うことか。
 未だ本当に信じられない。夢だと思って何度も顔を叩いてみたり、思い込みをしてもなんの変化もなかったから「あぁ嘘じゃないんだなぁ」と思った。
 ふつーの幼馴染だったら、どっちかが付き合ったら「おめでとう」って言えるんだろう。けど今もし、嘘珀がここに来ても、もっと悲しくて心が苦しくなるだけだろう。そうだとしたら自分はどーしょーもない人間だ。
 そんなことを考えながら、あいつらに泣き顔とか弱みを見られてしまったことが、負けを認めたみたいで、参りましたと頭を下げたようで自分に嫌気がさした。
 今までなんのために、自分を強く見せてたのか。何のために自分を犠牲にしてまでここまでやってきたのか。これまでの努力が全部水の泡になったような気がした。
 鼻も、目も全部痛い。苦しくて辛くて息ができない。どんだけ泣いたんだろう。スマホ越しに見ても鼻が真っ赤なのがわかる。

「……嘘珀…嘘珀……」

 また泣く。啜り泣く声と滴り落ちる涙がポツリと音を立てて。今度は誰にも見られていない、一人きりで。
 幼子のように泣きじゃくった。声を上げて、地面を殴った。石に当たったんだろうなぁ、血が出て痛くて、それでも殴る自分がおかしい。こんな私を止めれるのも多分この世でたった一人だけだと私は思う。

「……ねぇ嘘珀、会いたいよ…。私をどうにかしてよ…」

 嘘珀のことが頭から離れないくて。思い出すと余計に涙が出てくる。考えちゃダメって思っても頭のどこかに残ってる欠片が記憶を呼び起こす。
 私がこうやって泣いてる今も嘘珀は愛莉と仲良く連絡してるのかな。
 こう言うの嫉妬っていうのかな。
 ……でも…元はと言えば私が一人でいた最中にたまたま嘘珀が通り過ぎただけ。私と親友になったわけでもない。自慢できるような特別仲が良い幼馴染というわけでもない。

「…なに勘違いしてんだろ笑」

 一周回ってもう笑いが込み上げてきる。
 あーおもしろい。自分の勘違いで大泣きするとか自業自得、馬鹿すぎてウケる。嘘珀が言ったことは正しかったんだ。私は馬鹿だ。大馬鹿だ。
 吹っ切れたような、まだ未練があるような。曖昧な気持ちは月に照らされて儚く散っていくように見える。
 私は多分、まだ泣くだろう。朝が明けるまで一人ぼっちで。そんな私を顔を出す星は静かに見守ってくれる。もし流れ星が流れるなら、嘘でありますようにと願いたい。

         〜

 だいぶ気が落ち着いてきて、あいつらに対する気持ちも心の奥底へと塞ぎ込んだ。虚ろな目でスマホの画面を眺めてはシャットダウンして、またログインして音楽を聴く。時間を無為に過ごしすぎかなと思っても身体は動こうとしない。
 そんなときなんとな」く小腹が空いてきたなぁと思い、チラと見た時刻は二十二時をとっくに過ぎていた。
 そういえば、涕泣しすぎて夜ご飯を食べ損ねたんだ。それでも身体は動かない。
 身体が動かない理由はただ一つ、人に会うのが億劫だからだ。どこのどいつのせいかすでに気疲れしているのに、店に入るのにはやはり多少ながら気苦労がいる。しかし幸いなことに今は、芝生の上に寝転んでいるだけ。服もパジャマなんてものは着てない、どんな時でも外着。準備する手間がないのは家出中の唯一のメリットかもしれない。
 コンビニに行こう、と気だるげな頭がぼんやりと呟いて、宙に消えた。
 ほのかに石けんの匂いがする髪を梳かして雑に束ね、手をポケットに突っ込む。
 
 風薫り、鼻にかかった匂いが夜の匂いだ、と思った。
 昼間の熱を残したままの生ぬるい空気。ゆるく私を通り過ぎていく。その風に乗って、息を潜めたような夜独特の香りが鼻をくすぐるのだ。
 なんの香りなのかはわからない、甘いような、苦いような、ふわっとしたような、ぬるっとしたような、なんとも言えない不思議な香り。
 これを香りと言うべきか、匂いと言うべきか、どーしょーもないことで悩んでいた。香りと言えるほど上品な感じもしなければ、匂いと言えるほどありふれているわけでもない。どこか野性的だけれど、決して臭いではない。けれど人によっては臭いと形容できるのかもしれない、私はこの匂いを嗅ぐと落ち着くから好きだけど。
 うーんと首を傾げて考えていると前からチャリンチャリンとベルが聞こえた。ヘッドライトが点灯し、カチカチとグリップシフトで変速する音。前カゴに入れた荷物がガタガタと暴れ回ってる。自転車だ。
 とっさに道路脇に避けて、自転車に乗った女の人がまあまあなスピードで走り去っていく。
 その瞬間、風に流されたロングヘアからふわぁっと匂いがした。懐かしい匂い、この夏にしかあんまり聞かない匂い。なんだっけ、なんの匂いだっけ。どっかで嗅いだことある、匂いだった。これも私が一番知ってはず。

「…そうだ…シトラスの、香りだ。確か…」

 また、嘘珀との会話を思い出した。

         〜

 初夏、まだあたりが暗くなるのが早かった、十八時。体育館、音楽室、グラウンドから聞こえるボールの跳ね返る音、楽器から流れる色とりどりのハーモニー。晴れやかな空の下、泥まみれになった野球部たちの練習声が聞こえなった部活終わりの放課後だった、誰もいなくて、静寂とした渡り廊下。本当は通り抜け禁止だけど、誰もいないから少しだけと、こっそり近道に使った。
 一人、薄暗く細い道、先生がいない空間。
 ワクワクした、心が躍った。たまにはうるさいやつら抜きで一人でゆっくり帰ろうと思って、スリッパを靴箱に直し、つま先を二、三回トントンとして歩き出したとき。
 聞き馴染みのある声が前から聞こえた。後ろからじゃないのが衝撃だったけど。
 今も変わらない少し低いけど、性格が明るすぎるせいか高く聞こえる、嘘珀の声。

「何してんの?一人で。部活仲間は?」
「息してる。他ん奴らは先帰った帰った」
「しょーもな。でなんなの?何しに来たの?」
「…………」

 小学校六年間嫌でも文句言えず同じだったクラスもようやく離れた。(今思えば嫌じゃなかったけど…)
 お互い部活に入ってたし嘘珀なんか将来有望な選手だって言って顧問が胸を張っていたぐらい。帰りの会が終わった瞬間、廊下の前を走り去っていく嘘珀の姿。一分後には下について、いつ着替えたのか部活用のジャジーに早替わり。
 県総体が近づいていてなおさら練習ばっかりで忙しそうだった。市総体に続いて優勝するって意気込んでたし。
 そんな中、いきなり私に話しかけたもんだ。最初は少し驚いた。私から一緒に帰ろうということは多少あっても、向こうからはなかったのだから。
 中学生の時の嘘珀は今みたいに二十四時間三百六十五日ニコニコしてないし、陽気もなかった。むしろ仲良くなった人しか笑顔を見せないと言うか、トゲトゲとしてて、女子からはクール系男子、落ち着きがあって顔が整ってるイケメンだって騒がれてた。(私も少しは感じてたけど……その時はただ、幼馴染だから話しかけてくれるんだと思うけど…)

 少し間があって。用がないなら帰るけどと一言言って去ろうとした。
 「待って」と今度こそは後ろから聞こえた声には焦り、困惑が混じっていたような気がする。

「もう何!?ま〜だ私になんか用があんの?黙ってたから用済みかなと思ったんだけど」
「もう部活終わったんでしょ?なら一緒に帰ろうよ。途中から帰る道は違うけど」
「はぁ…?嘘珀、この前部活忙しいって言ってたじゃん?私となんか帰ってる暇なんか」
「俺が一緒に帰りたいから言ってるのわかんない?部活が忙しかったら話しかけてる暇とかないし。暇だからこうやって話しかけんてんだけど。久しぶりにというか、息抜きで春子と話したいって思っただけで、嫌なら嫌って言っ」
「帰る…。私も久しぶりに話したい…かも」
「かもってなんだよ。曖昧だなぁ」

 何勘違いさせるようなこと言って。のちに後悔するのは私の方だったけど、あの時の私はまだバカだった。あの頃から好きだったんだろうし、だから自分で言ったことが少し照れ臭くなって、最後に「かも」をつけたした。
 ならよかったと言わんばかりに嘘珀が後ろで小さくガッツポーズをしたのは私の気のせいだったかも知れないけど。

 まだ私がこんなんじゃなかったとき、あんなことする前だった。二人きりで帰ったのが楽しくて、幸せだなぁと思ったのは事実。
 向こうから話しかけてくれたこと自体が嬉しくて。顔も動作も、冷静に何もないかのように演じてたけど。マスクの下の顔は暑いからか、それとも緊張してるのか真っ赤で。ドキドキして、じっーと目を見てしまう。
 自然と目が惹かれて離れないのが不思議だ。オッドアイとかハーフ顔とか。そういう訳じゃない。
 日にあたってもいっさい茶色くならない黒曜石みたいに真っ黒で気持ち癖っ毛が昔っから変わってないマッシュヘア。シュッと尖って凛とした鼻と羨ましいぐらいにキレイな顎ライン。横長で瞳のサイズが小さい目。おまけに二重瞼と長いまつ毛。
 スラーっと短パン、袖から伸びた手と足。意外と日焼けしてるし。
 ていうかなんでスタイルいんだろう。そーいえばこいつ、食べても太りにくい体質だって言ってたな。いいなぁ。そんなんだったら無限に美味しいの食べれるし…って何一人で考えてんだろって。
 
  話を提供するような話題もないし、最近楽しいこともない私にとって、無言はきつい。
 でも私は悪くないはず。向こうから誘ってきたくせに終始無言で、気まずいなぁとか、なんか喋ってくれないかなぁとか。何のために私を誘ったのか未だ意味不明だ。
 私は通学距離が近くてそこそこ頭がいい中学校を選んだので歩いて十五分ぐらい、そろそろ家が見えてきそうだし、ここら辺で嘘珀とも別れだと言う時。

「夏はシトラスの香りが人気らしいね。春子は知ってる?」
「…はぁ?笑」
 
 いきなり変なこと喋り出すもんだから、何言ってんの、なんでそんなこと知ってんのよと意味もわからず機嫌悪くしてたな。頭では別のこと考えてたし、ほんとに何言ってんのかわかんなかった。
 嘘珀がもうちょっと優しく言ってよってケンカまではいかないようなケンカして。あの頃は楽しかった。

「シトラスの香りってどんな香りなんだろう?名前からしたらさっぱり、爽やか系な感じがするけど…」
「そうそう、名前の感じだけでなんとなくわかる…そういうとこはやっぱり女子だな」
「そういうとこってそれ以外は女子じゃないってこと?地味に悪口混じってるけど」
「やっ、そ、そーゆーつもりで言ったんじゃなくて…」
「ふーん?ま、どーでもいいけど。で?結局シトラスの香りって何なのよ」
「まぁ簡単に言えば柑橘類とかミカン属の総称のことで、レモン、ライムをはじめとした、グレープフルーツ、ゆず、みかん、とか…を指してるらしくて。フレッシュな柑橘系を中心とした爽やかな香りがするのがシトラス。清涼感、清潔感があって、日本人にとっても馴染みがあるから人気なんだ。特に夏は暑いっしょ?そういう意味でも夏はシトラス……ってどした?……春子の気を悪くするようなことを言ったつもりはないんだけど…気づいてないだけで俺、やらかしてた?」
「えーっと……そーゆーわけじゃないんだけど、なんか、うん。詳しすぎてびっくり、しただけだから、だ、大丈…夫」
「その感じ全然大丈夫そうにないけど」

 言葉が詰まり、唖然とした私を心配した嘘珀。結構顔が真剣だったから笑いを堪えながら、正直いうと全然大丈夫じゃなかった。
 私が「うんうん」と頷く暇も、「ちょっと待って。何でそんな詳しく知ってんの?」と聞く暇も与えずにまるでインターネットで調べたことを丸暗記してきたかのようにスラスラと話す嘘珀に正直相当驚いたからだ。まぁ学年トップ五入りの天才君にはこのぐらいの文章なんて覚えるのも楽勝だったのかもね笑。
(それか、隠してるだけで意外とこういうことに興味があるのかもしれないとかも思ったけど)
 どちらにせよ

「そんなに詳しく聞いたらちょっと気になるかも…、シトラスの香り…。私、みかんとかレモンの匂い好きだし…」
「えっ?マジ?ホント?気遣ってくれたとかじゃなくて?春子そーいうとこあるからなぁ?」
「別に気遣っても優しくもないし!みかんの匂いが好きなのは嘘じゃないけど、ちょっとだけだから!ちょっただけ!」
「おいおい!何で、そんなにちょっとってところだけ強調す」
「ねぇ!てゆーかさぁ、それ私に聞いてどうするの?今思ったけど、関係なくない?」
「ちょ、えーっと…。いや、それは、言えないけど…。話の話題的なやつって思っ」
「話題的なやつって、今頃!?遅!もうすぐで私帰るっていうのに!?私もなんか話してよって聞けばよかったのかもだけど!私ずっーと話しかけてくれるの待ってたんだけど!?それに、なんかもうちょいいい話期待してたし。クラス違うしさ、ほらおもしろいこととかなかったの?前はあんなに私が知ってもない部活仲間のとこ話してき」
「じゃ、じゃあ俺こっちだから!じゃーな!」
「話してる途中!そーいうとこほんと嫌!まぁいいや、じゃあね」
「……」

 ほんと常の思う。なあんかあったらすぐ話逸らすし。全く関係ないのにいきなり変なこと喋るし。訳わかんない。
 珍しく私の機嫌よかったから「じゃあね」ってなんか別れの言葉言えたのに無視かよ。もうほんとに色々訳わかんなくて、モヤモヤした。
 オレンジやピンク、深みのある紫の空の下を歩いていく嘘珀の後ろ姿を少しだけ見送りながら、顔の下で小さく手を振った。

 それから数週間後。私が暇な時は嘘珀が忙しく、嘘珀の部活が休みの時は私が忙しくいという、都合の合わなささに心の底どこか退屈で肩を落とす日々だった。そのままなかなか顔を合わせる機会がなく、迎えた私の誕生日。
「…ん。桜田さん?」
「…あぁ、ごめんなさい。私に何か用?」
「えっと、嘘珀君が…」
「えっ?嘘珀が?教えてくれてありがとね」
「…どう、いたしまして」

 最初にある沈黙、接点もないがないはずなに隣のクラスの男子ではなく名前を知ってた。私の返答に対しての曇った表情。今思ったら多分、あの時声かけてくれた子も嘘珀のことが好きだったんだろうなと思った。
 所詮、私は他人の恋愛事情なんてどうでもよかったから気にしてなかったけど。
 前のほうの扉から少し見えた姿にトクンと心臓が跳ねた。

「どうされましたかぁ?教科書なら貸してあげないけど」
「そんなんじゃなくて、少し用事があるから部活終わり、校門集合な。勝手に帰んなよー!」
「用ってなんよ?」
「だーかーら!それを放課後言うんだって言ってんだよ!ほんとそーゆーとこ抜けてるって言うかバカっていうか…っいってぇ!」
「私より二、三個人位が上だからってあんまり調子乗らないでよね。別にその用事ってやつに行かなくてもい」
「調子乗ってごめんない。じゃあまたあとでっ!」

 軽ーく背中をパシって叩いたつもりだったけど、ついつい勢いが出てバシッと音がした。音に驚いて肩を上げると同時に周囲の視線が音の原因である私達に向けられる。
 男子は訳も分からずニヤニヤしてる。そこそこのお年頃の男子はちょこーっと異性と話してるだけで「いい感じじゃね?笑」とか「こんまま付き合う説ある?」とか恋愛の方向に持っていこうとするから困る。

 その一方で女子。穏やかでに和やかな笑顔なんて私が嘘珀と話しているときは裏が出てる。ニヤニヤ、キャッキャ、そんな可愛らしくて普通の人間だったら照れ臭くなる擬音語は似合わない。
 ギロッ、ジロッと。「あいつ、少し嘘珀君と仲がいいからって調子乗りすぎじゃね?」「あーわかるわかる笑!あんま可愛くないし愛想もないのによく嘘珀君と話せるよね〜」と。そんな棘のある言葉ばかり交わされて、私はどーでもよかった。これもどうせ、——発展していくことになったんだし。

 嫌なのは、これだけは許せないのは嘘珀が巻き添いを喰らうこと。私の悪口も、嫌味も、妬みも嫉妬も、私にはどれだけ言ってもいいから。私は傷ついたりしてない。軽く適当に受け流せば懲りるだろうし。
 それでも嘘珀のことだけは悪く言わないでほしかった。だって嘘珀は何も悪くないから。〝嘘珀〟って名前を私と一緒に出してほしくない。嘘珀自身の印象が、雰囲気が悪くとられそうだったから。

 なのにいつになっても。どんな時でも。気づいたら私の隣にいて。周りの目なんか気にしないで話せてる嘘珀。
 逆に言えば、今日までいい意味で鈍感でいてくれてありがとうと思う。

 六時ごろになってもまだ明るいかったからか、時間が進んでいないように感じた。ウォーミングアップから始まった部活動は同じ練習メニューでもいつも以上に長く感じた。まだかまだか待ち続けて、ようやく望んでいた私の放課後。体育館を足早に去り、靴箱に向かう。またお馴染みの声が前から聞こえた。

「今日は早く帰ったほうがいい感じ?」
「別に。多分家帰っても一人だし。多少遅くなっても大丈夫。そっちに合わせる」
「オッケー。んじゃ帰りコンビニ寄って帰ろうや。俺の奢りで」
「急にどーした?今まで散々ケチだったのに」
「気のせい気のせい。ほら早く」

 校門前ではなく靴箱前で合流した私たちは他の男子や女子に見つからないようにこっそり学校を後にした。(やっぱり嘘珀も恋愛方向に持っていかれるのは嫌なのかも…)
 ゆっくりゆっくり沈んでいく太陽を見ると時間は進んでいるだなぁと実感した。

「なぁ、コンビニ行ったら何が食べたい?アメ玉とか?」
「子供じゃあるまいしあんまり舐めたこと言わないでね。また叩くよ」
「アメ玉に子どもとかないだろ〜。それに叩くのだけは勘弁かな。未だに春この手跡ついてるよ。あの時まぁまぁ痛かったもんなぁ」
「それはごめん…」

 結局コンビニは行かなかった…というよりコンビニがたまたま改修工事やら、店舗移転やら、閉店でどこもここも開いてなかった。
 せっかくこうやって帰れたのになぁと少し残念に思いながら、近くにあった石ころを蹴った。

「これ、春子に」
「何、これ?」

 特になんの前触れもなく、上品な紙袋に入れられた一枚の紙と白い小さな箱。私の手のひらよりは大きかったけどぱっと見ただけでは私は検討がつかなかった。

「大したのじゃないし、気にいるかもわかんないけど…」
「……!もしかして覚えててくれたの?」
「誕生日おめでとう。帰ってからの楽しみで開けて」
「なんか、ありがと…!」

 久々に見せた私の照れ臭さ混じりの笑顔に釣られて嘘珀もにっと笑った。
 一旦別れて一人歩く道。住宅地が立ち並ぶこの地域の夕方は人気がなく寂しかった。聞こえるのは気持ちが抑え切れずに漏れた愉快な鼻声だけだった。いつもだったら外で縄跳びをしたり鬼ごっこをしたりする子どもたちもなければ、外で三十分も一時間も世間話をする大人もいないかった。
 でも一人のほうが、こうやって興奮しすぎたバカな姿を見られることもないし、鼻歌も歌っても変な目で見られない。
 前後ろ、前後ろと腕を振ると同時に下から聞こえるカタっという音。
 聞こえたら開けたくなる。どうして人間は「開けるな」とか「触るな」とか言われたら逆らって逆のことがしたくなるんだろう?
 帰ってから見るように言われたけど、そんなの我慢できるはずがない。
 人間あるあるの欲望が満ちすぎて開けたいという気持ちが昂っているから…という言い訳にしたいけど。
 …好きな人からの誕生日プレゼントとか誰もが早く開けたいに決まってる。
 幼馴染だから当たり前かもしてないけど、誕生日を覚えてくれててて「おめでとう」て言ってくれるだけでも嬉しいのに、プラスでプレゼントくれるとか(私は)どう言葉に表していいか、国語辞典にも載ってない。
 気に入ってくれるかわかんないけど?いやいやなんでも嬉しいです。文句言うやつは私が殴ります。本当にそれぐらい嬉しかった。
 ただ袋から箱を取り出すだけなのに緊張してるのか嬉しすぎてなのか手が震えて力が出なかった。中身がカタカタカタカタ揺れてたのを今でも覚えてる。
 白い箱から出てきたのは透明な小瓶に入った香水。匂いはシトラスだった。

「私がこの前気になるって言ったから?…いや、違う」

 その確認をするために帰ろうって言ってくれた。私が興味を持たないと使わないことを知ってたから。だからあの時、丁寧に長々と説明してくれたんだと気づいた。
 私のために、必死になったかは本人にしかわからないけど、一生懸命考えて策を練っている姿を思い浮かべると「これはつけないとどうするんだ」と思った。
 どこにつけたらわかりやすいか、どのくらいつけるのがベストなのかとか調べまくった翌日。早速身に纏って学校に行った。

「…いい匂い」

 ころっと出てきた独り言。自分が動くたびに広がる爽やかな香りにあの時は自然と笑みが溢れた。学校に行くのも少し変わった自分になった気がして。少し早めに家を出たっけな笑

「ねぇ、もしかしてだけどあれ…つけてくれてる…?」
「……嬉しいからつけて、なんか悪い?」
「めっっっちゃ嬉しい!」

 あの時見た心から思いっきり笑ってた嘘珀の笑顔が思い返される。ちっちゃい『つ』をめっちゃいれるほど嬉しそうだった。
 私がただくれたものをつけただけで、喜んでくれる、些細なことで笑顔を弾けさせるのがズルくて。
 めっちゃ長くて忘れられない。私の思い出だった話。
 擦りすぎて腫れた目尻は下がり、口角は自然と上に上がった。

「あれっ、ここどこ?」

 そうこう一人で語っている間にコンビニを通り過ぎてしまったようだ。
 ここから先に行くのは体が受け付けていないようなので、仕方ないが引き返すしかない。くるっと体を回転させて元来た道を戻る。
 橋を渡る鉄道の車輪と線路の摩擦し合う音が数百メートル離れているこちらまで空気を振動させて聞こえる。
 無駄に歩きすぎて限界を迎えた両足をなんとか前へ前へと進める。ふらふらと歩いていると目の前に自転車を路肩に停め、ずうっと上を見上げながら誰かと通話している人がいた。どうして空を見ているんだろう。誰がわからない人につられて視線を上げてみると、そこには雲の切れ間に広がる星空。
 雨が降りそうな厚い雨雲を通してぼんやりと滲むように月明かりが見えたり、雲が切れて月が明るく見えるたり。暑かった昼間が終わったあとに感じれる、夏の夜空に凛と輝く月には涼しさを感じた。
 小さな宝石を黒色の絨毯に散りばめたような光景をずうっと眺めていたくなるのもわからなくはない。

「……きれい」

 ポツリとはいた独り言は誰かに届くわけでもなく果てしなく広がる夜空に吸い込まれていった。

         〜

 まだ完全に日が上りきっていない早朝。同じ場所でも辺りは薄暗く別世界に転生したかのよう。夜が明ける頃、空がうっすらと白んでいく白白明けに目を奪われる。白々明けを迎えた景色は、水墨画のような世界観。ずーっとぼーっと眺められるその景色には身動きするのがためらわれるような、静謐な空気に満ちている。
 
 レールのつなぎ目を通過するときに鳴る「ガタンゴトン」という音で目が覚めた。
 気兼ねなく出た大欠伸と同時にグッと大きな背伸びをする。頭はまだ寝てる、目だけ開いてる感じた。

「目だけ開いて寝てるとか、私魚じゃん笑」

 朝一発目の笑いはまさかの自分のボケには衝撃を受けた。
 昼間はお祭り騒ぎのように賑やかなこの河川敷も早朝はシーン——…として色んな音が景色が見て聴ける。
 澄み渡った空を高く舞い、羽を伸ばす鳥のさえずり。河川敷の下を流れる河川のせせらぎ。心の邪悪まで浄化してくれそうな優しくそよぐ風。
 ここは心地いい。少し傾斜になっている草原にもう一度体勢を崩して思った。

 あんな家を出て行ってから一週間が経つ。もう一週間、まだ一週間。長いようで短い、なんとも言えない期間の長さだが薄っぺらい使い古したマットのような地面で寝るのも、最初はなかなか寝付けなかったが今では家のベッドより寝心地がいい。起きてすぐ全身の激痛が迎えてくれるのも慣れた。
 まだ七月のはじめだからという暑くない理由もあるかもしれないが、クーラー無し生活という苦難にも対応してきた自分を褒めてあげたい。
 家出中なのにこんなテンションでいいのかとふと思う。
 これ以上朝から調子に乗るのは心臓が可哀想だという結論に至り、一旦大きな深呼吸をした。取り込める限りの酸素を取り込んで、ふぅ〜っと時間をかけて吐く。
 
 さて、本題に入ろう。今日はなにをして時間を潰すか。スマホも見ず、気の向くままにどこか遠くの涼しい場所を探る?気分転換に隣町の山までに散歩する?誰もいない静かな場所を見つけて自分だけの秘密基地にする?秘密基地にした場所を新たな家にするのもありだな。
 どちらにせよ、私の本能は『どこか』に行きたいらしい。
 移動するには天候を知っておいたほうがいいと思い、スマホで「〇〇市 今日の天気」と検索する。
…この天気予報が正しければ今日の天気は曇り、気温もぼちぼち。よほどのことがない限り汗はかかないはず。
 よし、決めた。自分の新しい家探しに行こう。どこまでも歩く準備はできてる。
 脳内のどこかでやる気スイッチがカチッとONになった音がした。そうとなったらまずはここを去らないと。

「一週間短い間だったけどありがとねー。感謝してるー。寝るのは少し痛かったけど」
「お前ここで寝てたの?」
「そうそうここで寝て…誰っ!?」

 仄暗い世界に私一人…プラスもう一人。人間らしき人影が目に入った。一歩ずつ、ゆっくり近づいてきて、誰だかようやくわかった。
 あんなに小さくて、弱虫みたいだったのに気がつけば私の身長をとっくに越してしまった。男の子らしくなった肩。風に優しく揺れるふわぁっとした柔らかそうな髪。真っ白なシャツから伸びた細長い腕。昔から変わらないきれいな顎ライン。ちょこんとつけた鼻。上にも下にも上がってない、真っ直ぐに引かれた目の輪郭。墨につけたガラス玉のようにまんまるな瞳。
 少しの濁りもないその瞳に、わたしはどのよう映っているのだろうか。

 久しぶりに会った。二日ぶりかな。私が顔を見たくないと言ったのが二日分だから、本当に来てくれなかった。
 ……正直言うとこの二日間は退屈だった。楽しみだった朝起きるのが憂鬱で、いるはずなのにいないというのにため息が出た。時間が過ぎるのが長く感じた。

 本当は会いに来てほしかった。ほんの少しのことでもいい、しょーもないことでもいい。なんでもいいから話がしたかった。近くで顔を見たかった。どーでもいいことで腹を抱えて笑う、嫌なことが全部吹き飛ばしてくれる笑顔が。顔見たくないなんてこれっぽいも思ってない。
 あの時言ったことは全部全部嘘、大嘘。今言ったことは全部本当。
 これは私の欲望なの?それともまだ想ってるの?もう遅いのに。もう無理だってわかってるのに。
 顔を見たかったけど、いざ見ると悲しくなった。その笑顔が私をもっと傷つける。傷を抉る。私に笑顔を向けないでって思う。君の前だけでは泣きたくないから。弱いところを見せたくないから。
 もう、どれが私のついた嘘でどれが本当か。自分でもわからなくなってきた笑

「最後にクエスチョンマークついてるのなんで?見てわかんない?俺のこと」
「だ、だってまだ…六時前だよ!?いるとか思わないじゃん。そっちこそなんでこんなところにいんの!?」
「…早くに目が覚めて眠れないから早起きした」
「それなら家でのんびりしとけばいいじゃん!朝早くから外出るとか憂鬱じゃない?」
「憂鬱じゃないよ。早起きしないといけないんだ。そりゃ〜、のんびりくつろげるならくつろぎたいよ。俺だって。でもそんな暇ないし。それに、春子に……たかったから」

 視界がぼやける中、遠くを見つめる嘘珀の瞳にはどこか悲しさ、やるせなさを感じた。声を出して泣きそうなわけじゃないけど、無理して笑ってるような気がした。涙だけが物静かに流れてきそう。そう思った。
 なんで泣きそうなの。何か悲しいことでもあったの。
 なんで早起きしないといけない?なんでのんびりくつろげないの?どうして暇がない?私に何なの。どう言うこと?言ってる意味がわかんなかった。
 最後はわざと濁したのか、たまたまなのかそっぽ向いて聞き取れなかった。
 よそを向いた顔がほんのり赤く見えたのは多分私が寝ぼけてるから。
 色々聞きたい。本当はなんかあるんじゃないの。嘘ついてるんじゃないの。嘘つきは嫌いって言ったのは嘘珀でしょ。

「最後なんて?」
「別に聞こえてないなら聞こえなくていいから。どーでもいいことは聞いても意味ないでしょ?笑」
「それは前の話!今はどーでもいいとか思ってないから」
「ふーん?で、ここで寝てたって本当のこと?ここキャンプ会場じゃないよ笑」
 
 私がただ単に馬鹿なことをしてるだけと思っているのか嘘珀は鼻で笑った。
 おもしろがって言っているつもりだらうけど馬鹿にされるのには腹がたった。
 でも笑われて当然か。私の事情知らないんだし…笑
 内心、あははと心のこもってない笑いをした。今は普通に喋れない。喋れても声が震えるだろう。
 一呼吸おいて、変にならないように口を開けた。

「そりゃそーだろーね。クーラーもあって涼しいでしょ。いいなぁ、私もクーラーがある部屋でダラダラしたいなぁ」
「それこそダラダラしとけばいいじゃん……?できない、の…?」
「……」
「春子、もしかして、だけどさ」
「お願い。それ以上言わないで。嘘珀の言ってること、多分あってるから。予想通りだと思うよ…」
「なんで。何があったの、ケンカでもしたの?それとも自分から?なんかあるなら言えよ」
「……私が悪いのかなぁ。私が悪いんだよねぇ。全部。大丈夫だから放っといていいよ」
「放っとくわけないだろ。目の前に悩んでる人間がいたら誰だって手を貸すに決まってる」
「いいの。これは私の問題。私自身の問題。私が悪いからこんなことになってるの。本当に大丈夫だから」

 顔をあげて嘘珀を見る。『心配』と言う言葉のまんまの顔をして私を見ていた。
 
 初めて無理して笑った気がする。歪んでしまいそうな顔を、口角を必死に上げて、明るく振る舞った。『私は本当に大丈夫』と言葉の代わりに。
 笑えてたかな。ちゃんと笑顔作れてたかな。下手くそな笑じゃなかったらいいな。
 無理して笑うってこんなにキツいの?こんなにしんどいの?ただ笑うだけなのに心がグッと痛くて苦しかった。
 でもここは乗り切らないとダメだと思った。私の『嘘』を隠し切らないといけないと思った。
 そうじゃないとまた心配される。もっとめんどくさくなる。一回思い感じたことは一線を引かず、頑固にしつこく聞いてくる。

 聞かなくても察してよ。見てわかるでしょ。嘘珀なら言わなくてもわかるでしょ。私がこんなクズみたいな人間だから仕方ないの。暴力を振られても、家を出て行くことになっても。全部自分が決めた人生だから仕方ないの。
 生き方を間違えたの。失敗したの。
 もうこれはダメなの。諦めないといけないの。やり直せないと思うから。

「なんかさぁ…もっと楽しい話しようよ。ほら、前みたいにさぁなんか学校でおもしろかったこととかないの?」
「言いたいことはめっちゃあるよ。でも今はそんな場合じゃないだろ。春子、少しだけでいいから聞かせて。言えることだけでいい」
「……何回も言わせないで、大丈」
「何があったか、言って。そんな俺頼りない?信用できない?なれるかわかんないし、なれるなら俺だって力になりたい。こんな俺でよければ、手、かせる。俺は絶対、春子の味方だからさ」

 私はどんだけ最低な人間なんだろうと思った。これだけ言ってくれてるのに頑なに口を開こうとしない自分が嫌で。頼っていいよ、力になるって言われると余計頼ろうとしない天邪鬼になって。
 本当は言いたいよ。全部思ってたこと全部吐いてしまいたい。信用してる、頼ってる。嘘珀なら絶対わかってくれるって信じてるよって言いたい。
 言いたくても言えない。口が開かない。心配をかけたくないから言わないのか、あいつと付き合ってるから優しくされるのが余計悔しくなるから言わないのか。理由は探しても見つからない。
 グッと力を入れた。バレないように下に隠した右手にはありえないぐらい握りしめた拳。 堪えて堪えて、雫が流れてくるのを我慢するために。ここで今、嘘珀の目の前で泣いてはいけない。そう思ったから。
 でも嘘珀を見たら泣きたくなるのはなんでだろう。無性に涙が溢れてきそうになるのはなんでだろう。

「お願い。少しだけ。一人に…してほしい…」
「春子」

 柔らかい声が私を呼んだ。視界に入らないように遠くを見つめていた私に優しく微笑んで、そっと手を取られた。その手は温かかった。優しかった。

 あぁ、これはダメだな。私の負けだな。

 そう思った瞬間。固くきつく結んだ糸がシュルシュルと解けて、鉄鋼の鎖で塞がれていた心が開く。
 溜め込んで溢れないようにしてた透明な宝石がブワッと一気に出てきた。
 子どもみたいに声をあげて、荒げて、嗚咽を漏らして泣く。外で大泣きすることの恥ずかしさも、近所への配慮もなしに。
 すべて吹き飛ばされたような気がして、今は何もかもどうでもいいと思った。
 いつもだったら泣き気覚ましに叩いてるはずの頬には触れず、いつもだったら泣くことさえも許されない自分を束縛して苦しめるプライドも許して、泣いてしまおう。
 嘘珀ならきっと、何も言わないで、そっとしてくれるはず。きっとそうだ。

 そうそう。なにも考えずに、時間なんか気にしないで泣けばいい。泣くことは負けじゃないんだから。泣きたいときは泣けばいい。思いっきり泣けばいい。俺の前ではどんだけ泣いても大丈夫。

 遠くを見つめて会うはずもない、喋ってもないのに嘘珀の心の言葉が聞こえた気がして、私の頬を伝っていく雫は跡を絶えない。
 息ができなくて苦しくて、呼吸がどんどん乱れて目眩がして。どうにかなってしまいそうだった。
 それでも声を潜め、小さな声で泣くことなんてできなかった。何もかも投げ出して、その場でしゃがみ込み泣いてしまった。
 誰も見てない、誰もいない、私たちだけの空間に響く私の声。治るどころか悪化して、理性を失ってしまったみたいに。

         〜

 あたりがシーンと静まり返り、ようやく泣き止んだんだなと、これだけ泣き喚いたのはいつぶりだろうかと思った。
 ぐしゃぐしゃになった不細工なところを見られたくなくて伏せていた顔をゆっくりとあげる。
 あんなに薄暗く不気味だった夜明けは沈み、見上げた世界は朝を纏っていた。眩しくて反射的に瞼をぎゅっと瞑ってしまうほど。
 きれいに洗われた水彩絵の具の水色をたっぷりの水で溶かして、薄っぺらで真っ白な画用紙一面に壮大に撒き散らしたような空模様が広がっている。
 空気は澄み渡り新鮮な匂いが鼻を燻る。
 

「だいぶ落ち着いてきた?」
「…うん」
「泣くならまだ泣いてていいよ。俺なんなら行かなくてもいいし。泣けるときは思いっきり泣いたほうがすっきりすると思うよ」

 今の私は全然ダメだなと思う。何を言われても、どんな声かけられでも涙腺が崩壊して泣き出しそうになる。
 今だってそうだった。
 迷惑ばかりかけている。本当は早く行かなきゃいけなかったかもしれないのに。
 なんでそんなに優しくできるの。なんで私なんかのために、時間を費やせるの。無駄に頭使って、イライラしないの。
 いつかこの疑問もアレと一緒に晴らせたらいいなと思った。

「こ、はく」

 思い切って出した声はコロナやインフルにかかって高熱を出したあとの容体より酷く、ガラガラでほとんど掠れて聞こえなかった声は嘘珀には届いていた。
 声は出さないけどこちらを向いて「んー?」と言わんばかりに首を傾げるのを見てもう一度口を開く。

「学校…行かなくていいの?」
「うん」
「欠席の枠に一ってついちゃうよ。体調不良でもないし、家族が知ったら怒られるんじゃないの。ズル休みって思われて評価下がっちゃうかもよ」
「…家族は、怒んないと思う。評価下がってもいいよ。てか一回休んだだけでそんな一気に下がんないでしょ」
「……そう、だよね」
「俺ここにいたら邪魔?泣きにくい?」
「…邪魔なんかじゃない。ここにいてほしい」
「そっか」
「……ごめん。迷惑ばっかかけて…」
「全然、こんなの迷惑だなんてうちに入らないから」
「…ずっーと言ってるけど、嫌なら無理してここにいなくてもいいから」
「……」

「気にしないで」と言うように眉を下げ、優しく上げた口角。
 泣かせるのが得意な人間、それとも今、私がズタボロでダメなだけ?
 さっきまでとは言わないがまたポロポロと塩辛くて生温かい雫が私の視界を崩す。
 もう泣かないと決め、目元に手を当てようとしたとき。嘘珀に腕を掴まれた。

「…離してよ…。私、これ以上泣かない。泣けない」
「……涙が出てくるってことはさ。心はまだ泣きたいんじゃない?泣かせてあげなよ」

子供扱いされてるような、慰めてくれてるような。ふわっと時折吹く風に嘘珀の服が靡き、どこか懐かしい石けんの匂いがした。
 その風は私に知らせるように、嘘珀が吹き下ろしたような風だった。

 心はまだ泣きたいんじゃない?泣かせてあげなよ。

 落ち着いたトーンゆっくり優しく変わっていく表情が私の脳内をぐるぐると過ぎる。
 泣いてもいいの?甘えてもいいの?泣かせてあげてもいいの?
 私の心の中だけの疑問に「いいよ」と応えるように吹いた優風にまたうるっときて、うつ伏せてしまう。
 そしてまた泣く。今度は涙を流すだけにした。時間をかけて頬を流れた一筋は腕に浸透して。また一筋流れて浸透する。何度も何度も同じ場面の同じ動作だけを再生するドラマのように。
 
 そろそろ人気が増えてくるのに。嘘珀も恥ずかしい目に合わせてしまう。
 あぁ、やっぱり“あの時”みたいに私は迷惑しかかけられない人間なんだなぁと思った。
 ため息混じりに吐露した「ごめん」は自分でもほとんど聞き取れなかった。
 ごめん、ごめんと何度も呟いていると、いきなり髪が横に揺れて、くしゃくしゃにった。
 顔をあげ、まだ涙で掠れる視界は透明で歪んでて、前の世界も正しいがわからなかった。でも何が起こったかはすぐわかった。
 横に顔を向けると、私の予想通りのシュチュエーション。
 長く伸びた手を私の頭に乗せ、柔らかな笑みが溢れ出てた。

「そんなに何回も謝らないで大丈夫。ほらゆっくり深呼吸しよ。まともに呼吸できてないでしょ。そんなしゃっくりばっかりしてたら笑」

 笑いながら私のしゃっくりをおもしろく受け止めてる反面、勘違いや視界が悪いせいか見間違いではなければ『心配』というような表情を感じた。
 言われた通りに吸って吐いてしていると、頭から離れた手は移り、背中をさすってくれた。

「……だいぶ良くなった。すごくすっきりしたっていうか。ちょっと楽になった、気がする」
「春子の力になれたならよかった」

 嘘紛れもない目、ニッと笑うその表情を見て「また助けられたなぁ」と身にしめて感じた。

「……色々長い時間こんなことに付き合ってくれてありがと。なんかお礼したいな」
「お礼?そんなのいらないって。俺はただ、春子を助けたくて助けただけだし、こんなのお礼してもらう資格なんてないよ」

 消しゴムを拾っただけだから何もしなくていいよというようにケロッとした顔でこちらを見つめる。
「助けたくて助けただけ」「お礼してもう資格なんてない」か……。私はこんなかっこいい台詞、いつになっても言えないだろうな。
 助けてくれる自体すごいのに、助けたかったからと自分の希望として言葉に表せるのが嘘珀のすごさだなぁと思ったら。
 何度も聞いてしつこいと思われそうだったけど、ここはどうにかして聞いてもらわないと。こんな私でもさすがにに気が引けない。

「でも……やっぱりだめだよ。何もしないで帰ってもらうなんて。探しておいてよ。今日までに」
「今日まで!?ん〜…。難しいなぁ。本当に何もしなくていいのに」

 今日までというとても短すぎる締め切り期限に目を丸くさせ、手を顎に当ててものすごく悩んでいる。眉を寄せ、動物でも住んでいるのか唸り声も時々聞こえた。
 ボソッと聞こえた「何もしなくていい」という言葉にいい加減キレそうになった。
 なんですぐ思いつかないの?この前とかアイス食べたいって言ってたじゃん。もっと高いやつでも全然私は気にしないのに。

「ねぇ、本当に何もないの?なんでもいんだよ?なんでも絶対否定しないから」
「本当に?」

 ついさっきまで見向きもしなかった体をいきなりこちらに向け肩を震わせる。

「えっ、うん。本当だよ」
「じゃあさ」

 何を言われるんだろう。なんで「なんでも絶対」だなんで言ってしまったのか。めっちゃ後悔してる。自分がなんでもいいって言ったけど、本当にどうしよう。マジでバカ高いものが欲しいとか言ったらやばい。嘘珀のことだからそんなことは言わないってわかってるけど、急に不安の煙に包まれた。
 心臓の鼓動が明らかに速くなっていく。ドクンドクンからドッドッドっと太鼓を叩いてるみたいに。
 嘘珀が口を開くと同時に手に汗を握り、固唾を呑んだ。

「学校、一緒に行こ…?」
「へっ?」

 思ってたのと違う予想外の回答が返ってきたことに腰を抜かす。もっと剣呑なことを言われるだろうと違う意味で期待したので変な声が出てしまった。
 高すぎるおねだりじゃなくてよかったという緊張の糸が一気に解けていくのと同時に何を言っているのかといく疑問が覆い被さってきた。
 
 嘘珀は学校に行こうと言ったのか?
 アレから三ヶ月は顔を見せていないだろう“あの教室”に行こうというのか。
 嘘珀からしたら簡単なことだろう。でも簡単そうで私にはとても深刻な願いだった。学校に行けばいいだけじゃない。教室に入ることはできる。三ヶ月前までは——を受けながら、きつくて辛くて苦しい思いをしても普通に勉強できていた。
 教室に入れる入れないということではなく入った後でが問題なんだ。
 
 嘘珀は知らない。“あの教室”には私を——てくる奴、——をする奴が複数人もいるということを。“あの教室”に行けば私はまた——られるということを。
 知らないから仕方ないけど、嘘珀には申し訳ないけどそんなに呑気に言わないでほしかった。
 決して口にはしなかったけど。

「なんでもいいよって言ったけど、ごめん。それは聞けない」
「……やっぱり無理?」
「無理だと思う……今の私じゃ」
「……そっか」

 残念そうに、芝生に寝転ぶ嘘珀を見てチクッと心が痛くなった。
 チラッと見えた時計台の針はそろそろ登校したほうがいいだろう七時三十分。ここからだったらたぶん、二十分ぐらいかかるはず。歩きで行くならなおさら急いがないと、八時五分を過ぎたら遅刻扱いと一緒。

「……じゃあ行ってくるから。泣きたいときは思いっきり泣くこと。また明日ここに来れたら来るわ」

 むくっと起き上げた身体。芝をぱっぱっと振り払い、嘘珀は去っていった。
 悲しそうな顔をして。この場を後にした。
 私一人だけ、ここに残って。
 手を振ってくれたけど振り返せなかった。
 どんどん離れていく、見えなくなっていく。
 今日は何もない空間を手で掴もうとしなかった。行かないでと涙を流さなかった。

「嘘珀!待って!」

 雲は全て吹き飛ばされ、一面に広がる青天井に向かって叫んだ。
 翼を思う存分に広げて空を飛び交う鳥も、外に出れたことが嬉しく走り回る犬も。
 横を向きぺちゃくちゃと長ったらしい世間話をしながら手足を前後に動かす人間も。
 うだるような暑さにも、短時間に振り付ける豪雨にも負けず強く生きてる植物たちも。
 
 生きている生物全ての視線が私一点に集まった気がした。
 でも一番見て欲しいのは鳥でも犬でもない。ウォーキングしてる人間でも、新緑の植物でもない。

「琥珀!」

 泣く代わりに今私は走ってる。意識的にじゃない。芝生の上に座ってたはずなのに、気づいたら立ち上がっていて、走り出していた。
 自分でもびっくりした。こんな行動ができるんだと。

「春子!?どーした!?」

 私に何かあったんじゃないかと心配したのか、走り終わる最終地点が自分に来るということを理解した嘘珀は振り返って私の元にやってきた。
 こんなに全速力で走ったのは久しぶりだ。
 運動が苦手なわけじゃないのに少し走っただけで息が切れる、苦しい。膝に手をついて休んでいると前からドタバタと騒がしい何かが近づいてきた。

「大丈夫!?めっちゃ息切れてるけど」
「…私も、一緒に行く」

「えっ?」と驚きの声が頭上から聞こえた。
 俯いているので顔は見えないが、きっと目を丸くさせているか、ワニのように大きく口を開けているか、またその両方だろう。
「なんなんだ、コイツ」と内心では思っているかもしれない。
 やっぱりダメか。無理って言ったのにいきなり一緒に行くとか。自分勝手な行動されたら困るよね。
 わかってる。わかってたけど、今行かないとだめだ、これが最後のチャンスなのかもしれない。気づいたら走り出していたと言ったが本当は頭の中でどこかそう思って、行動に移してしまったのかもしれない。

「私も、一緒に行く」

 今度は目を見てはっきり言った。これ以上後戻りはしない。取り消しなんてしない。
 決めたから。指切りのない約束をしよう。
 
 進むから、一歩ずつゆっくりと。
 いつか絶対、アレも誤る。いつになるかはわからない、今すぐにはできないかもしれないけど、少しずつ自分でも変わっていくから、待っててほしい。
 口に出しては誓えないけど私のわがままをきいてほしい。
 
 辿り着くまでに相当な時間がかかるかもしれない、自分がしたことだけどなかなか勇気が出なくて言えないかもしれない。
 呆れて私から離れてもいい、でも嘘珀にだけは見捨てないでほしい。
 私が今、唯一愛せると思ってる人だから。

「…わかった。一緒に行こ」
「……うん」

 青空の下を歩く。一人の人間として、この世界で生きている。
 惨め、憎たらしい、いつも自分を軽蔑して、こんな自分を憎んでるけど。
 ほんの小さな一歩、いつしか大きな道を切り開くための自分になれた気がして、ほんの少しだけ輝いているように感じた。

第四章 辛かった。君と私は嘘を知る。

 久しぶりに足を運ぶからか、ちょっと前までと思って今道が異空間に思えた。
 静寂な河川敷から一転、大通りに出てくると「こんな感じだったっけ?」と思うようなものばかり。目がチカチカするというか、賑やか過ぎて眩暈がするというか。
 とにかく私の家(河川敷)とは大違いすぎて、居心地がめっちゃくちゃ悪い。(この周辺に住む人たちには申し訳ないが)残念なことに騒がしいというのが第一印象になってしまう。
 
 どこから見てもガラスで覆われ大きく立ちはだかる高層マンション、休む暇なく次々へと目の前を行き交う自動車や自転車。緑が少なく、やたらと人と建物が多い。

「こんなところからいつも通ってるの?人混みとかやばいじゃん。ここ通り越すまでに相当時間かかるんじゃない?」
「まぁね。この時間とか特に笑」

 嘘珀はお人好しだが人混みはあまり好きじゃないはず。なのに何故か嬉しそうに声を発した。

「でも!こっち、ついてきて!」

 そう一言言うと大衆の中に消えていった。どこに行ったかわからない。
 このままじゃ迷子系女子高生になってしまう。人波を掻き分けて必死に探すも裸眼じゃ目が悪すぎてどうしようもない。最悪なことに嘘珀を見失ってしまった。

「どうしよう。行き方わかんな」
「ついてこいって言ったじゃん!はぐれたらやばいから。手、引っ張るよ」
「えっ、ちょっ」

 人混みの中から出てきた現れた手に手首をギュッと掴まれた。「誰!?」と思った。危うく振り払うところだったが、前方から通り抜けて聞こえた声で姿が見えなくても嘘珀だとわかった。
 痛くないように少し緩めているような、離さないように強く引っ張ってるような。
 いきなり引っ張られて、どこにいくかも知らされないで連れて行かれて、走らさせるままに走った。
 蒼天の下、雑踏の中、自分たちだけの空間を私たちは駆ける。人がいるのに、いない。邪魔なのに邪魔じゃない。

 人間って変だ。いつもだったら言えることが言えない。いつもだったらできることができない。
 本当は「引っ張らなくても自分で行けるし」と言うはずだった。幼子じゃあるまいし、迷子になったのは初めての場所だったから。「ここ曲がるよ」とか「こっち」とか言ってくれたら私だってこんなことしなくても大丈夫なのに。

 口を開こうという意思すらなかった。なんの抵抗もしないで、引き寄せられるがまま、磁石のようにスッと惹きつけられた。

 その隙間から見える笑顔が眩しくて、光って見えて、私の鼓動を揺らす。夏の暑さとは何か違う。別の何かの熱さが頬に、耳に、顔に加わった。
 
 こんなこと、できるんだ。こんな少女漫画や恋愛小説みたいなシーンが今。私の目の前で起こってる。
 それよりも、私の想いはスピードを増して、境界を変えてしまいそう。惹きつける力があって、私をどんどん魅了していく。叶わない恋、叶えてはいけない恋なのに、どんどん好きになっていく。
 愛莉にもそうやって優しくしてるの?私だけじゃないんでしょ。
 わかってる。私だけじゃないっで。でもそうやって私を引っ張っていく。
 この手を一生離さないように、離れないようにギュッと手を握り返した。

         〜

「……はぁ疲れたぁ。どんだけ走らせるの?めっちゃ疲れたんだけど」
「ごめんごめん。でもこっちのほうが落ち着いてていいじゃん」

 大通りを抜け、一歩路地へ入った先には閑静な抜け道が真っ直ぐに伸びていた。両側には塀が走り頭上を緑のカーテンが覆う。
 大通りのときよりもはるかに涼しい。熱が遮断されて、日陰が広がる。なんなら少し肌寒いぐらい。

「ここ涼しい…冬に戻ったみたい」
「涼しいのは涼しいけど大袈裟笑」
「でもさぁ、緑のカーテンって普通学校の窓側にあるもんじゃないの?」
「そうそう。頭の上にこれがあるのはちょっと珍しいよな。でもなんか斬新と言うか……んー…」
「独創的でいいよね」
「それそれ!俺が言いたかったの!」
「ほとんど同じ意味だけどね。パッと思いついた、言い換えみたいな感じ」

「やっぱり春子は頭がいいなぁ」と褒められたような気がして照れ臭くなり「よくないし」と否定した。
 
 歩いたことない道。通ったことない場所。少しワクワクした。
 初めて公園に来た赤ちゃんみたいだなぁと思いながら路地を抜け、下り坂に出た。右の土地との高低差を楽しんで下り坂を見下ろす。まぁまぁ傾斜があり、力を抜いたら勝手な走り出しそう。
 涼しかった路地はあっという間に通り過ぎ、数十メートル先に目的地の高校が見えたとき。
 風がそよぐのとほぼ同じタイミングで嘘珀の口が開く。
「一つ、聞いてもいい?」
「私が答えれそうな範囲だったら…いいよ」
「……なんで、ついてきてくれたの?」

 嬉しそうな、不思議そうな顔つきをして尋ねられた。
 答えられそうで答えられない質問。なんでって言われても、ついていこうって思ったから。ただそれだけって言おうと思ったけどそんな勇気はない。
「んー……」
「答えれそうになかったら答えなくて全然いいから。気になっただ」
「たぶんね、昔のことを思い出したの」
「昔の、こと…?」
「そう。昔のこと。嘘珀はもう、忘れてるかもしれないけど、幼稚園のときだったかな、私引っ越してきたでしょ?」
「うん。めっちゃ地味な…なんでこんな時期にってときに来てびっくりした」
「一人だった、私から声かければよかったのかもしれないけど。グループみたいなのができちゃってて、輪の中に混ぜてほしいなぁって思ってたけど入れなかった。一人で絵を描いてた。絵を描くのは好きだけど、一人は嫌。そんなときに一番に声かけてくれたの、嘘珀だよ」
「……俺?それとなんの関係が…?」
「嘘珀はね、私の記憶が正しかったらこう言ったの。一緒に行こう、外で遊ぼうって。その言い方とか手の差し出し方とか、全部が、まったく、変わってなくて」
「なんで泣くの!?本当は嫌だった!?」
「ううん、違う。その逆、真逆だよ。声をかけてくれて嬉しかった。すごく。嘘珀は忘れても私は忘れないよ。優しくて温かくて、惹きつけられるような何かがあって。またこうやって手を差し伸べてくれたんだと思ったら嬉しかった。だからついていこうって思ったのかもね」
「……そっか。それなら、よかった」
「ありがとう」

 素直な気持ちを言葉に表して伝えた。恥ずかしかった。でも思い出すと嬉しくて、思出泣した。
 涙を拭って笑うと嘘珀も「春子が笑うと俺も嬉しくなる」なんて言って相合を崩した。

 校門の前には教師だけででなく生徒会組織や登校する生徒で埋め尽くされていた。
「おはようございます」と言う体育教師らしい中年でガタイのいい男性に「はよざいまーす」と気怠そうに返事を返す生徒たち。もはや「おはよう」は聞き取れない。

 対する嘘珀は先手を取るような挨拶で周囲の目を引いた。いつもこんな感じなのかと思うと私と二人きりのときとはギャップ?があってかわいいなと思った。

「相変わらず元気がいいなぁ!体育教師として挨拶ができる生徒は非常に誇らしく思う!」
「いやいや、挨拶は気持ちよく。小学校からの教えつけですよ!気分の上がらない朝こそ、声を張れってよく怒られてました笑」
「そうかそうか笑!今日も一日頑張ってこい!」

 朝の第一ミッションをクリアしたかのような満足気で校門を通り抜けた。

「いつもあんな感じなの?私がいるときとは全然雰囲気違うね」
「いや〜挨拶できない奴は内申点ゼロ!なんて担任が言うからさぁ〜。嘘ってわかってるけど元気よくな」
「あれっ〜!?嘘珀君の横にいるの春子じゃない〜?みんなやばいよ〜逃げろ〜!」

 広大なグラウンドに響き渡った聞き覚えのある声。悪意、嫉妬、人気取り。あいつだ、近くにいる、どうせまた私を的にするんだろう。

「誰?今の声。すごく、不快だった。呼び捨てだったってことは知ってる人?」

 珍しく、嘘珀の目が怒ってた。滅多に怒りの感情をあらわにすることがない嘘珀が。力んだ眉、下がった声のトーン、下の方で私見えないようにした握られた拳。

「だ、誰って言われても。知ってるでしょ。嘘珀が一番」
「知らない、あんな奴。同じクラスの人でも部活仲間でも友達でもない。あの声、初めて聞いたけど聞いててイライラする。知ってんだろ、誰?」

 答えれなかった。頭が真っ白になって、理解するための歯車がぴたりと動きを止めた。知ってるはず、知らないはずがない。だって嘘珀はあいつと付き合ってるんでしょ。嘘ついてるの?
 “誰?”“知らない”“初めて聞いた”
 どこにも『嘘』という要素はなかった。本当に知らない。そんな表情をしていた。
 もしこれ全て本当なら、嘘珀が正しいのなら、私があのとき聞いた言葉は

「春子じゃん〜。久しぶり〜、河川敷であったぶりかなぁ?お散歩は楽しかったぁ?笑」
「ちょっと愛莉。早く行こ、こんな奴に付き合ってる暇ないよ。時間の無駄」
「朝から咲の毒舌調子やば〜笑優海はどうする?春子と一緒にいたいんじゃない?笑」
「やめてよ〜!笑美花は相変わらず春子と私を一緒にしたがるよね。そういう美花こそ一緒にいたいんじゃないの?笑」
「ちょっと、冗談は程々にしてよ笑」

 キャハハと甲高い笑い声で女王様気分で愛莉たちは校舎内へ歩いていった。
 その横で嘘珀は怒りの感情を昂らせていた。

「ねぇ、なんなのあいつら。めっちゃ腹が立つ。何かあるなら言えよ。俺が代わりに言ってくるから」
「大丈夫だって。私が不良なの知ってるでしょ。私みたいなやつがノコノコとやってきたらみんな嫌だよ。大丈夫だから」

「桜田さんめっちゃ久しぶりに学校来たくない?来なくていいのに……」
「わかる〜。みんな怯えちゃって教室の雰囲気悪くなっちゃうもんね。香水がちょっときついときあるし」
「趣味でつける分にはいいけど学校にはねぇ。やめてほしいよね」
「アイツ、なんも持ってきてないくせによく来れたよな笑」
「横にいるの西松ってやつじゃね?」
「嘘っ!マジで?似合わな!」
「西松ってあんなやつとよく一緒にいれるよな」
「嘘珀君が可哀想」
「実は西松嘘珀も桜田みたいな人間説〜」
「表ではいいやつですよアピールして、裏ではマジやばいやつ的な?笑」
「ワンチャンないこともない笑」
「近づいたら間違って裏の顔出てくるかもね〜」
「怖いこと言わないでよ」
「西松ともみんな距離とったほうが身のためかもよ笑」

 私が標的だった。私を中心とした悪口や嫌味から、話が進んでいくごとに嘘珀へと変わっていった。
 私に対することはなんでも言ってもいい。思う存分言って楽しんでください。そのぐらい軽く受け流すこともできる。
 でも嘘珀のことを悪くいうのだけは私が一番大っ嫌いで許せないこと。

「春子…もしかして。あの、さっきの女子とかから」
「違う。そうじゃない」
「でも、今のこの全員の状況、雰囲気は」
「ごめん嘘珀。やっぱり私帰る。ここにいたら、嘘珀まで悪く言われちゃう。巻き添い喰らっちゃう。それだけは私嫌だから」

 自分が悪いのに涙が出そうになった。私がこんなクズみたいな人間だから全く関係のない嘘珀まで悪く言われてしまった。
 自分のせいで、こんなことになってしまったのが許せない。
 周りの生徒たちはクスクスと笑ってる。誰を笑ってるのか。きっと私だろう。
 やっぱり私はここにいては行けない人間なんだ。当たり前か。元からわかってたことだ。嬉しかったから。そんな理由で足を運んだ自分がバカだったのかもしれない。
 ここから立ち去るために身体を捻った。足を一、二歩踏み出して走り出す。

「春子、待って」

 まただ。また私の手首を掴んだ。
 どうして止めようとするの。なんでそうやって私を離してくれないの。
 私だけなら別にいい。でも違ったでしょ。周りの生徒たちの話し声、聞こえてたでしょ。私がここにいたから
 
「私じゃなくて、嘘珀が、なんの関係もない嘘珀が悪く言われたんだよ!?それでも私の腕を離せない!?離せないなら」
「気にすんな。俺は大丈夫。俺は俺よりも春子のほうが心配かな」
「…………」

 必死に訴えた。泣き目で、視界が崩れても。声が震えて、怒鳴りそうになっても。カッと頭に血が昇って、嘘珀にも手をあげそうになっても。
 冷静に一言。その「大丈夫」が大丈夫じゃないのに私を安心させる。私なんか心配してどうするの。私はもう終わってる。ダメなんだから。
 それより、自分が悪く言われてるんだよ?
 学科も私と違う頭のいいほうに通ってるのに、せっかく受験頑張って受かって、楽しく過ごせてるのに。
 誰か一人でも噂を流したら、悪い噂が流れるようになったら評価も下がるんだよ。
 評価よりももっと嫌なことになるかもしれないんだよ。
 私は

「…嘘珀にだけはいじめられてほしくないの!」
「……やっぱりそっか。放課後、夜でもいつでもいい。河川敷に居て。行くから」
「……知られたくなかったなぁ」
「そんなこと言うな。言ってほしくない」
「だって…だって」
「いじめはな、一人で抱え込もうとしたらいつか爆発する」
「…………」
「今日はどうする。帰ったほうが」
「大丈夫。いじめはほとんど治ってるから。教室でじっとしてれば何もならないから」
「その言葉、信じてもいいのか?」
「信じてほしい。本当に大丈夫だから」
「…じゃあ気をつけていってらっしゃい。なんかあったらすぐに逃げろ。逃げ出すのは負けじゃないんだから」

 別の校舎、別れ道。背を向けた後ろ姿にはどこかまだ怒り、愛莉や他の生徒への寛容できないという思いがのしかかって見えた。
 
 嘘珀、ごめん。ごめんなさい。
 本当に申し訳ない気持ちで胸が苦しい。ため息しか出ない。あぁなんでこんなことになったんだろう。
 知られてしまった。正直な気持ち、このことだけはいつになっても知ってほしくなかった。
 こうやって迷惑かけて、心配かけて、火の粉を被してしまうことになるってわかってたから。

 私は“いじめ”の標的だということは。

 

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