「涼音、なにがあっても車から出るな。
いいな」

それだけ言い置き、旦那様は車を降りた。

「あの……」

「静かに」

なにが起こっているのか尋ねようとしたが、菰野さんに遮られて口を噤む。
不安な気持ちで旦那様が歩いて行った先へ目を向けると、黒い靄が次第にあたりへ漂いはじめた。
それはあっという間に濃度を増し、もういくら目をこらしてもなにも見えない。

……旦那様は大丈夫なんだろうか。

ただただ落ち着かず、じっと車の窓の外を見つめた。
――と。

「ギャッ!」

「ひっ」

唐突に大きな悲鳴が聞こえ、私の口からも短く悲鳴が漏れる。
それを合図にしたかのように靄が急速に晴れ、車からいくらも離れないところに旦那様が立っているのが見えた。
髪の毛が逆立っていて、攻撃的に見える。
目は爛々と輝き、爪は私が知っている状態よりも長い。
開いた口から伸びる牙もずっと立派になっている。
体格も一回りほど大きくなっているようで、着ている服が破れていた。
今まさに襲いかかろうとしているその姿はまさしく、悪鬼だ。

()りましたか」

「いや、逃がした」

旦那様が右手を振り、血飛沫が飛ぶ。