電流みたい。
 君に触れているとそう思う。
 性格が真反対で苦手かもなって感じていたのに、段々懐に入っては、気づけば心を開いていた。
 殻に閉じこもっていたのに、君といると何でもないことのように思えて、一歩を踏み出すことができる。
 バチっと電気が流れ、不思議と世界が明るく見える。
 そんな君と出会ったのは、高校二年の春だった。


 ひらりと、手のひらに微かな重み。
 それらは満開に咲き誇り、私たちの歩みを祝うように薄紅色に色づいていた。
 それを見て、昨年の景色を思い出す。あの時は緊張しながらも、ここに入学できたことが嬉しくて、浮足立っていた。
 でも今は、鉛がついたように足が重い。それでも一歩ずつ踏みしめていると、黒のスポーツバッグを持った集団が視界に入る。その真ん中にはバスケットボールの刺繍があった。
 肩にかかるスクールバッグへ、つい力がこもる。俯いてピンクの絨毯だけを見て、そこを避けるように私は速足になった。
 四時間目まで授業が終わり、昼休みになる。周囲ではクラスメイトに声をかけて購買に行き、机を繋げては一緒に弁当を食べ始める。私もさっさと弁当を持って教室を出ようとすると、同じタイミングで入ってきたクラスメイトとぶつかりそうになる。相手の方が身長は一回り大きく、私が抱き留められる形になった。
 身長が大きいといっても、私は百六十二センチと女子では比較的高い方。それよりも一回り上で、なおかつ女子。すらっと長い手足を見て、誰なのか見当がついてしまった。
「凛、あのさ――」
「ごめん、ちょっと急いでて」
 言葉を遮り、横をすり抜けて小走りになる。一階まで降りたところで速度を緩め、上がった息を整える。
 よくないよね、こんなの。
 そう思いながらも、ああするしかなかったとも思っている。私が彼女たちと対等にいていいはずがない。
 私は彼女たちと違って、逃げた人間なのだから。
 昼ご飯はいつも中庭で食べていた。といってもいっぱい人がいるところではなく、誰も寄り付かなそうな、ちょっとした段差に腰かけて。今日もそこに行こうとすると、ぽつっと制服の裾が濡れる。段々と雨脚は強まり、私はまた校舎内に入った。
 これでは中庭にいられるはずもなく、仕方なく教室まで戻ることにした。それでも足取りは重く、わざわざ遠回りして向かっていく。
 すると、空き教室の扉が少し空いているのが目に入る。ここはたしかどの授業でも部活でも使われていないはず。中を覗いてみると、部屋の隅に長机とパイプ椅子が置かれているだけで、使われている様子も人の気配もない。
 もしかしたら、ここで時間を潰せるのでは?
 誘惑と良心が葛藤するも、クラスに戻るくらいなら後で怒られた方がマシだと決断し、周りに誰もいないことを確認してから入る。念のため施錠し、椅子に座って一息ついた。
 そもそもここら辺は使われている教室が少なく、昼休みは特に誰も立ち寄らないだろう。そう安心し切って弁当を食べ進めていた。
 すると、ガラッと窓が開く音が響く。
 何事かととっさに目を向けると、誰かが足をかけ、勢いよく入ってきれいに着地する。私は固まってただそれを見ていると、こちらの存在に気づいて振り向く。
 その拍子に、何かがポケットから落ちる。私の下まで滑って止まり、反射的に拾い上げようとした手が止まった。箱には『たばこの煙は』と書かれている。
 間違いなく煙草の箱で、つい彼の顔を見上げていた。すると彼は「あ」とだけ声を漏らし、慌てる様子もなく手に取る。
 目元は長い前髪で隠れ、表情が見えなく戸惑っていると、彼は髪をかき上げる。カーテンが開くように表情が映り、奥二重気味の目がだるそうに私を捉えた。
「見なかったことにしといて」
 悪びれる様子もなくいう彼。普通は驚くところなんだけど、私は彼が誰なのか分かり、その態度に納得していた。
 彼は学年でも有名な問題児で、名前はたしか高城由羅。ただ問題なだけならそこまで知名度は上がらないけど、何より彼はイケメンともてはやされていた。気まぐれで登校しては、他クラスでも話題になってしまうほど。
 正直そこまで興味はなかったけど、目の前にするとやはり違う。
 高い鼻にシャープな輪郭。やや鋭利だけど大きな瞳は艶っぽく、雨降る夜のように深く暗い。現に私は目を離せずにいると、彼はよけい気だるげに目を細める。
「ここ、使ってんの?」
「あ、うん。ごめん、すぐ退くから」
 急いで弁当箱をしまって出ようとすると、彼に手を捕まれる。
「ここで食ってればいいじゃん」
「え、いいの?」
「うん。これで共犯ってことで」
 そう言って彼は少し離れた窓際まで移動し、煙草を一本出す。煙草を咥えながら、ポッケにあったライターで火を点け、白い煙を吐き出す。妙に慣れた手つきに見惚れつつ、どうせ行き場所もないからと弁当を食べ進めた。
「てか、何でここで食ってんの? ボッチ?」
「まあ、そんなところ」
 あまりにも直球な聞き方に眉を顰めつつも、言い訳せず認める。どうせ状況的にバレているだろうし。
「なんか、ぱっと見そうは見えないのにな」
「……居場所なんて、簡単になくなるんだよ」
 慰めなのか思ったことを言っただけなのか、分からないけど、つい言わなくて良いことまで口から零れる。彼に愚痴ったところで、何の意味もないのに。
 またデリカシーのないことでも言われるのかなと思っていた。でも彼は煙を吐き、雨に溶け行く様子を眺める。するとこちらに振り向き、とんとんっと窓の枠を指で叩いた。
「なら、今度からここ使えば? 窓の鍵なら壊してあるからいつでも入れるし」
 さらっと物騒なことを言っていると思いつつ、あえて触れないでおく。
「でもここ、高城くんが使うんでしょ?」
 彼は学校で一人になりたいから、わざわざ窓を壊してまで場所を作っている。それなのに私がいたら邪魔で、普通なら二度と来させないようにした方が良いのに。
「使うけど、たまにしか学校行かないし。それに……いや、まあそういうことだから」
 そう言って、彼はまた窓から飛び立つ。下に煙草を落とし、火を消して去ろうとする。けど、途中で私の前の前で立ち止まり、窓をノックした。
 何だろうと思いつつ窓を開けると、人差し指を伸ばして口元に寄せた。
「あと、ここは俺たちの秘密な」
 そう目元を細めてニヒルに笑い、ぽんっと私の頭に触れる。一連の流れに私は固まってしまい、窓から覗いたときにはもう彼の姿はなかった。
 ふわりと、濡れた風が吹く。
 でも自然な香りではなく、しびれるグレーな香り。
 ずっと漂い続けるように、頭から離れなかった。


 薄っすらとした青い日差しと、甲高いスズメのさえずり。風も穏やかで、スポーツウェアに着替えた私はアスファルトを蹴って走り出した。
 私は毎朝ランニングをしている。といっても部活時代とは違って、だいぶ負荷は軽くしていた。朝早起きしてやる必要はもうないんだけど、朝練があったころの習慣が抜けず、こうして走る時間に当てていた。
 といっても無理はしていないから、私には合っているルーティンなんだろう。実際、走って風を切る感じや、終わった後の疲労感は心地良かった。
 走り終えて家に戻り、軽くシャワーして身だしなみを整え、制服に着替えてリビングに向かう。ドアを開けると、いつものおいしそうな匂い。この時間にはお母さんが弁当と朝食を準備してくれていた。本来時間があるなら私も食事の準備をすれば良いのだけど、高校卒業するまではお母さんがやりたいらしい。逃げ出した私なんかにここまでしれてくれて、感謝しかなかった。
 席に着き、トーストにジャムをつけて食べていると、お母さんから弁当を手渡される。お礼を言い、お母さんも前に座ってご飯を食べる。
「ランニングも良いけど、バスケはもうしないの?」
「もうしないってわけじゃないけど」
「近くに小さいコートあるから、遊んでみてもいいじゃない?」
「まあ、気が向いたらね」
 そう言って私は一気にトーストを頬張り、コーンスープで流し込む。まだ熱かったけど我慢し、行ってきますと登校した。
 母が口を出したくなる気持ちもわかる。今までバスケばかりしていて、高校もほとんど部活目当てで決めたのだから。
 それでも、今はもう考えたくない。
 本当にこれで良かったのかと、迷いだしてしまわないように。


 チャイムが鳴ると同時に、私は教室を後にする。でも前まで使っていた中庭ではなく、渡り廊下を途中で曲がり、壁沿いを進んでいく。窓を六つ過ぎた先の教室の窓を空け、よじ登って入った。
 あれから私はずっとここでお昼を過ごしている。もう最近は雨も降っていないから、わざわざ使わなくても良かったのだけど、こっちの方が私的には落ち着けた。
 そして、来るたびに彼はいるのかなと考えてしまう。といってもクラスの女子の恋愛的な感情ではなく、心配からだった。正直、もし彼がいてもどうして良いかが分からない。
 まあでも大丈夫だろう。彼自身がたまにしか学校に来ないと言っていたし。
 そうやって完全に油断していたのが布石だったように、教室に入ると、彼が壁に寄りかかって床に座っているのが見える。目を閉じていて、よく見ると耳からイヤフォンの線が垂れているのが分かる。
 寝ているのかな。だとしたら起こすのも悪いような気がしつつ、急にいる方がびっくりしちゃうと思い直し、彼に近寄って肩に触れようとする。
 すると、パチッと彼の瞼が開く。私はわっと声を漏らし、後ろに尻もちをついてしまった。彼はそんな私の姿を見て目を丸くし、ふっと小さく笑う。
「なんだスパッツか」
 そこで気づいて私はとっさに足を閉じ、彼を睨みつける。
「普通、下に何か履くでしょ」
「そうなん? いつもパンツの子ばっかだったから」
 飄々と言う彼に、どうしてそんなことを知っているのだろうと思ったけど、すぐに彼の印象を思い出す。彼はモテるから理由なんて決まっていたけど、私はすぐに考えるのをやめた。
「てか、本当に使ってたんだね」
「だって、使って良いって言ったから」
 首をかしげてしまうと、彼は一つため息を吐いては少し前のめりになる。
「そりゃそうだけど、俺みたいなタイプ苦手そうじゃん?」
「でも、クラスにいるよりはマシ。あと、高城くんあまり学校に来ないから」
「それもそうか」
 だいぶネガティブなことを言ったのに、彼は不思議と笑みを浮かべた。私は立ち上がり、パイプ椅子に座って弁当を広げる。するとなぜか彼もついてきて、もう一個のパイプ椅子へと腰かけた。彼はスティックパンを食べつつ、じっとこっちの弁当を見てくる。
「前から思ってたんだけど、弁当うまそうだよな」
「まあ、お母さんが作ってるから」
 きっと私が作ったらこんなにちゃんと作れないだろう。そう思って言ったことに、彼は一瞬目を丸くし、納得したように頷く。
「そっか、そんなもんか」
 零れた言葉の語尾は弱く、頬杖をついて窓の外に目をやる。その眼差しを見て、私はつい弁当を彼の方に寄せていた。
「どれか食べる?」
 試しに聞いてみると、彼は何度か瞬きをし、視線を落とす。何とも言えない表情をしていて、迷惑だったかなと弁当を下げようとすると、彼に手首を掴まれる。
「玉子焼きで」
 そうお願いされ、卵焼きとついでにウィンナーも弁当の蓋に乗せて渡す。彼は指で摘まんで食べ、青空を眺めながら「うま」とだけ言った。顔はたしかに綻んでいたけど、その瞳はどこか霞んで見えた。
 それから彼はぼうっとスマホをいじっていた。てっきりここを喫煙所にするつもりだと思っていたから以外で、つい聞いてみてしまった。
「あれ学校で拾ったやつだから。たぶん先生の」
「じゃあ、普段は吸ってないの?」
「高いし買えないよ。だから人に一本もらったときだけ吸ってる」
 ちゃんと吸ってはいるんだと思いつつ、ここで吸うことはないのか、となぜか頭に浮かんでいた。
「何、吸ってみたいの?」
「ううん」
 そんなことを聞かれてすぐさま頭を振ると、彼は首を傾げる。
「なら何でガッカリしてんの?」
 どこか呆れたように言われ、私は箸を止めてしまう。私はガッカリしていたのか。でも吸ってみたいとはこれっぽっちも思っていないのに、どうしてだろう。彼がウィンナーを食べる様子が横目に映り、視線がつられる。窓の外を見つめる横顔に、白い煙を吐いていた彼の姿が過る。
「高城くんの煙はきれいだなって思ったから」
 気づけば出ていた言葉に、彼は目を丸くし、プッと噴き出すように笑った。
「変な感性してんな」
「なんか君には言われたくないかも」
「それはそうだな」
 彼はいっそう口角を上げ、無邪気に笑う。その時に大きく笑うとえくぼができることを知って、不覚にも、ほんの少しだけどかわいいと思ってしまったのが悔しい。
 それから私たちは昼休みを一緒に過ごすようになった。不登校気味だった高城くんも段々登校ペースが上がり、ついには毎日来るようになった。変わらず一匹オオカミのようだけど、クラスでボッチの私も同じだから何も言えない。
 それと一緒に、彼は私の弁当から一つ摘まむようになった。いつも菓子パンやカップ麺を食べていたから飽きていたよう。
 そこで気になったのは、家では親がごはんを作ってくれないのか、ということ。でもそれはセンシティブな話で、簡単に踏み入ってはいけないことなのは私でもわかった。
 だからこそ、私は何かしたいと思ったのかもしれない。
 私はいつもより少し早起きし、朝のランニング時間を少し早めに終わらせる。それから私は身支度を終わらせ、リビングのキッチンへと向かった。
 昨日作り置きしておいたポテトサラダに、彼がよく選ぶ卵焼きを作る。家が甘めなので私もそれに習うことにした。その間にウィンナーも焼いておく。そんな感じで事前にお母さんから教えてもらった通りに作っていき、完成したころにお母さんが起きてきた。
「おはよ。おいしそうにできてるわね」
「うん。まあ、お母さんの言った通りにしたから」
「普通に作れるのがすごいのよ。覚えていないと思うけど、凛が小さいころの弁当はちょくちょく失敗していたんだから」
「そうなんだ。どれもおいしかったから、たぶん分かってなかったと思うよ」
 お母さんは「それならよかった」と安心したように目じりを緩ませた。
 お母さんにもまだ上手じゃない時期があったことを知り、私も上手くなるために今後も続けてみようかなと思った。久しぶりに料理をしたけど、コツコツ手順に沿って進めていく感じはけっこう好きかもしれないし。
「で、その二人分の弁当は誰に渡すのかしら?」
「いや、一人分だよ。最近お腹すくなって思って」
「ふ~ん」
 意味深長な笑みを浮かべているけど、私は無視して朝食を取ってから学校に向かった。その道のりで、気持ち丁寧に歩いていた気がした。
 昼休みになって空き教室に向かうと、一足先に高城くんがいた。といっても、いつも来るのは彼が早かった。
 彼は今日も菓子パンを持ってきていて、私は弁当を取り出す。けど、そこで蓋を開けるのを躊躇ってしまった。張り切って作ってみたものの、今さら緊張してきた。味見した時はばっちりのはず。それでも、やはり頭を過ってしまう。
 おいしくないと思われたら、どうしよう。
「何してんの? 食べないの?」
 さすがにいつまでも固まっていておかしいと思われたのか、彼は眉をひそめていた。ここまできて躊躇したところで、何の意味もない。私は唇を丸め、弁当を開けて一気に彼の前に差し出す。
「弁当、作ってきたんだ」
「え、すご。しかもめっちゃうまそうじゃん」
 前のめりになって目を輝かせる彼を見て、ひとまず見栄えは問題ないことに一安心する。
「え、何か一つくれんの?」
 指を差しながらどれにしようか悩んでいて、私はやや俯き気味に左右に首を振る。
「これ、二人分なんだけど」
 つい声が小さくなると、彼は目を瞬かせてから首を傾げた。
「俺も食べていいってこと?」
「うん」
「マジかよ、めっちゃうれしい」
 ぱあっと満面の笑みになり、それを見て照れ臭くもなりながら、胸の辺りがほっこりと温かくなるのを感じる。
 さっそく彼に箸を渡し、食べ始める。まずは、やはり玉子焼きから。一口で頬張ると、一段と頬に深くえくぼが刻まれた。それからポテサラやウィンナーと食べ進めていき、その度にうまいと言っていた。
 ああ、本当に作ってきてよかった。
 心の中でそう思ったのと同時に、作ったごはんをおいしそうに食べてもらえるのは、こんなにも嬉しいことなんだと初めて知った。
「また、作ってこようか?」
 だからなのか、自然と言葉が零れる。また彼に喜んでもらえるのならと。彼は一瞬顔を綻ばせたように見えた。それなのに、瞬く間に表情は曇っていき、私から視線をそらしてしまった。
「いや作ってほしいけどさ、大変じゃね?」
 思っていたものとは真逆の返答が着て、言葉を詰まらせてしまう。てっきりせがんでくれるのかと思ったけど、意外とそういう面は気にしてくれるらしい。
 いつもだったら、ここで躊躇ってしまうと思う。
「料理するのけっこう好きかもって思ったから、大丈夫」
 私はすぐさま答えを返していた。やや早口にもなっていた気がして、引かれたかなと彼の様子を窺う。最初は戸惑ったように固まっていたけど、すぐに表情がほどける。
「ありがとな」
 その微笑みは、今までの彼にはない穏やかさだった。だから私は、それを喜んでくれていたのだと思ってしまった。
 けれど違った。
 その日から彼は、空き教室に現れなくなったのだから。


「ありがとうございました」
 そう声をかけると、お客さんは退店していく。レジがひと段落して、残っていた品出しを再開した。
 コンビニでバイトを始めてからもう一年経ち、慣れてきたからか流れ作業のように済ませていく。そのせいか、他のことを考える時間が生まれてしまう。
 そろそろ、あの空き教室で昼ご飯を食べている頃かな。
 あの弁当うまかったな。
 もう関係ないことなのに、過るのはそのことばかり。俺は大きく息を吐き、仕事のことだけを考えるように言い聞かせる。
 そうやって数時間が経って仕事をあがり、いったん買い物をしてから家に帰る。といってもカップ麺と水くらいしかないから、さっさと済ませてしまおう。その道中で、スーパーの卵が安くなっていることに気づく。
 そしたら彼女の玉子焼きがパッと浮かんで、俺はつい卵を手に取っていた。
 家に帰ると、母さんが身支度をしていた。これから仕事で、派手な色の化粧品がテーブルにずらっと並んでいる。俺はそれをしり目に、さっき買ってきた卵と元からあるパックごはんを取り出す。
 作ったことなんてなかったけど、ネットで調べればいけるだろうと試してみる。火加減を失敗したのか歪な形で少し焦げているけど、紛れもなく卵焼きができあがった。それも二人前。
「玉子焼き作ってみたんだけど、食べる?」
 母が使っているテーブルに卵焼きを置く。それを母さんは一瞥し、すぐに横へ首を振る。
「ごめん、リップ塗っちゃった」
「そっか。なら、いいや」
 俺はさっさと皿を持ち上げ、母さんの反対側に座る。パックごはんと一緒に食べていると、準備が終わったのか少し慌てながら母さんは家を出てしまった。
 一度、玉子焼きに目を見やる。それらを全て頬張り、一気にご飯をかき込んだ。
 まあ、こんなもんだよな。
 俺は食器を片付け、また外に出た。今日もいつもの居酒屋で約束があって、ちょっと早いけどもう行くことにした。
 一足先につき、店の前の喫煙所で待つことにした。本当はよくないことだけど、店員と知り合いだから多めに見てもらっていた。
 貰い者の煙草から一本取り出し、一服する。白い煙の先では、他校の生徒が楽しそうに話しながら下校していた。
 今、すごく楽なんだと思う。
 あそこにいると窮屈で、俺の肌には合わないだけ。
 前まではそれを何とも思わなかった。
 それなのに、どうして今は彼女のことが頭から離れないんだろう。
 彼女に俺は不釣り合いって、頭では十分わかっているのに。
 早く、忘れよう。
 そう煙を吐き出すと、見知った制服が視界に入る。ほんとうはまずいはずだけど、もう行くことはないから良いかと、もう一度煙草を吸おうとした。
 その時、手首を掴まれる。
 とっさに振り向くと、そこにはショートヘアの女子が一人。
 眉上で切り揃ったぱっつん前髪に、小さい顔の輪郭。丸っこい一重の瞳はガラス玉のように澄み、真っすぐこっちを捉えていた。
「やっと見つけた、高城くん」
「凛、なんでここに」
 つい聞いてしまうと、彼女は唇の片端を上げた。
「聞いて回ったからだよ。地元とか、バイトしてるかとか。そしたら偶然見つかられたの」
「何してんだよ、マジで」
「ほんとだよ、何してんだろう」
 呆れて言ったはずの言葉に、なぜか彼女は清々しく笑っていた。おもわずため息が零れつつ、自分の手に持っている物に気がつく。こんなの持って街中にいたら、凛が誤解されてしまう。さっさと火を消そうとしたけど、逆にこれは使えるのではないかと思った。
「てか、帰れよ。煙草吸ってるやつと一緒にいたらやばいだろ?」
 煙草をもう一吸いし、周囲を見渡してみる。チラチラとこっちを見ている人はいて、彼女もそれには気づいていた。
 これで帰ってくれるだろう。
 これで、良いんだ。
 そう頭で繰り返していると、突然彼女は俺の手から煙草を奪い取り、口にくわえて思いっきり吸い込んだ。案の定咽てしまい、心配して近寄る。だけど彼女はその手を払い退け、二ッと下手くそに意地悪く笑った。
「一緒に来てくれなかったら、この煙草ずっと吸い続けるから」
 彼女はそのままもう一度加えようとして、それをやめさせようとするけど、彼女に素早くよけ続けられてしまう。だから俺は大きく息を吐き、首を縦に振った。
「わかったよ。だからやめろって」
 頬をかきながら言うと、彼女はそれを見て満足したのか、大きくガッツポーズをした。
 約束している相手に連絡してから、俺たちは公園に移動した。遊具もなく閑散とした場所で、唯一あるベンチに俺たちは腰かける。
 だけど、お互い言葉が出てこないまま時間が過ぎていく。何か話さないとさすがに気まずいと思い、学校のことでも聞こうかと横を向くと、口を開けたまま固まってしまう。
 彼女の頬に、一つ筋ができていた。そこを辿るように、雫が零れ落ちていく。目が合うと、彼女は急いでそっぽを向いてしまった。
「ごめん」
「いや、大丈夫だけど、どうしたんだよ」
 そう聞いても、中々彼女は答えてくれず、鼻を啜る音だけが聞こえてくる。どうして良いか分からず、ただ待っていることしかできなかった。
 彼女は大きく深呼吸をし、こっちをしっかりと向く。
「高城くんに会えなくなるのが、どうしても嫌だった」
 滲んだ目でこっちを見つめ、言い切った後、彼女はまた嗚咽を漏らして俯いてしまう。俺はその瞬間、気づけば凛のことを抱きしめていた。すると余計に彼女は泣いてしまって、俺はどうしたら良いかまた分からなくて、もっと強く抱き寄せる。
 少し彼女が落ち着いてきたころ、俺はあやすように頭を撫でながら気持ちを告げる。
「俺も会いたかった。ずっと凛のことばっか考えてた」
「私もずっと考えてた。だから、探しに来た」
 涙声のはずなのに、言葉は俺の中に力強く流れてきて、おもわず笑顔にさせられる。また、抱きしめる手に力を込める。
「凛は強いな」
「強くないよ」
 少し体を離せばむすっとした顔が見えて、まだ濡れている目元を袖で拭ってあげる。
「俺はビビりで逃げてばっかだから、真っすぐな凛が眩しかったんだ」
 彼女は目を丸くしていたけど、俺はかまわず言葉を紡ぐ。
「最初は凛も仲間なのかと思っていたけど、やっぱり違うことを知って嫌になって、避けて、それなのにまた会いたいって、マジでダサいよな」
「そう言われるとちょっとダサいかも」
「おい」
 突っ込むと彼女は笑みを零す。俺もすぐ笑ってしまうと、彼女は俺の目をじっと見つめてきた。
「でも、そんなことどうでも良い」
 凜は両手で俺の頬を包み、おもむろに顔を近づける。
 すると、頬に柔らかな感触。
 彼女の顔が離れると、赤らめつつも、差し込む夕日のように穏やかな微笑みが待っていた。
「だって、私は高城くんのことが好きなんだもの」
「え、は?」
「高城くんと出会ってから前を向けて、学校も楽しくなって、気づいたら好きになってた。だからそれを伝えたくて、会いたかったっていうのもある」
 あまりにも唐突なことに頭が追い付かなくなるけど、でも出てくる言葉はもう決まっていた。
「俺も、凛のことが好きだと思う」
 それなのに答えが曖昧になってしまう。思えば誰かに気持ちを伝えたことなんてなくて、どういう風にすれば良いのか分からなくなっていた。
「じゃあ、付き合お?」
 こんな俺とは裏腹に、彼女は凛としていた。緊張は伝わってくるけど、とにかく真っすぐだった。俺は「うん」と二つ返事しかできなくて、それがおかしかったのか彼女はまた笑みを零していた。
「じゃあさっそくなんだけど、彼女からのお願い聞いてくれる?――


 緑色になった桜の木。たった数日しか経っていないのにやけに久しぶりに感じるのはどうしてだろう。
 俺は今、学校の校門近くで凛を待っていた。というのも、彼女からのお願いというのが一緒に登校してほしいというものだった。どうしてそんなことがしたいのか分からなく、何より俺といたら悪目立ちをするに決まっている。それでも彼女の望むことならと待っていると、やはりチラチラと学生がこっちを見ているのが視界に入る。
 やっぱり彼女に迷惑がかかるし、連絡だけして先に登校しようとする。けど遅かったようで、視界に眉上ぱっつん前髪が映る。
「おはよ、由羅くん」
「おはよ。てか、由羅くん?」
「うん。彼氏だから、名前呼びの方が良いかなって。嫌、だった?」
「いや、良いけど」
「ならよかった」
 俺は急いでそっぽを向いていた。顔が熱く、彼女にはバレないように。今まで女子から名前で呼ばれることなんて何も思わなかった。
 それなのに、どうして凛に呼ばれるとこんなに違うんだ。
 大きく息を吐いて平静を保ちつつ、俺たちは一緒に登校した。その間色々な人に見られ、コソコソ言われていたような気もする。でも彼女は気にする様子を見せずに話していて、本当に強いなと改めて思わされた。
 彼女のクラスに近づき、分かれて自分のクラスに行こうとする。けど彼女に手を引き留められ、ぐいぐい引っ張られる。
「え、なに?」
「友達に紹介してもいい? 私元々バスケ部で、すごく仲良い子がいるんだ」
「え、ボッチだったんじゃないっけ?」
「そうだけど、この前仲直りしたんだ。このままじゃいけないなって思って」
 いつの間にか状況が変わっていることに驚きつつも、そんなこと気にしている暇はないのかもしれない。
「でも、俺が彼氏って知られたらやばいんじゃない?」
「だから、やばくないって知ってもらうの」
 すぐさま言い返され、凛は立ち止まって振り向く。朝日が彼女の瞳で反射し、プラネタリウムにキラキラと眩しい笑顔。
「私の大好きな彼氏だから」
 その言葉に、照れ臭くてまた顔をそらしてしまう。そして不思議と、彼女の言葉を聞くと大丈夫なんじゃないかと思えてくれる。
 彼女は、電流みたいだった。
 彼女に触れていると、しびれるように伝って、パッと心を照らしてくれる。暗かった世界が、不思議と輝いて見えてくる。
 学校なんてやめようと、何度も思った。
 それでも何とか通っていたのは、凛に出会うためだったのかもしれない。
 だから、今度こそはちゃんと言葉にする。
「凛、俺も好きだよ」