如月は生徒会室のドアを静かに閉めると、足音を響かせながら廊下を歩き出した。頭の中では、生徒会長と副会長とのやり取りがぐるぐると回っている。けれど、そんなことに動じてはいられない。
「上位二十位以内ね…。」
心の中でため息をつきながらも、目の前の状況をどうにかしなくてはならないという焦燥感が広がっていった。試験で結果を出さなければ、停学処分の危険すらある。もしそうなったらとうとう授業についていけなくなる。自分の人生がかかっている。それは十分すぎるほど理解していた。
「でも、出来ないわけじゃない。」
口の中で小さく呟き、手元のスマホを見つめた。
定期テストは半月後だ。
画面のカレンダーを何度も見返しては、少しだけ心を落ち着けようとした。
何か策はないか、どうやったらあの二人を納得させられるのか。頭をフル回転させる。
「…簡単じゃないってことは分かってる。」
小さく息を吐きながら、もう一度、目を前に向けた。
焦りと不安を隠すことはできなかったが、それでも、今はとにかく試験に向けて動くしかない。
私にはもう引き返す余地はないのだから。
放課後、私は静かな足音で校内の大図書館に足を踏み入れた。
普段はあまり利用しない場所だが、今日はどうしても落ち着いて勉強する場所が必要だった。試験勉強に集中するためには、他の生徒の目も気にならない場所が一番だ。
図書館に入ると、広く高い天井、整然と並べられた本棚、そして静寂の中に時間が流れているような感覚が広がっていた。鈴花は少し戸惑いながらも、自分に合った席を探す。
ふと、目に留まった席があった。
それは、大きな窓の近く、静かな角のテーブルで、きっと誰かが常に使っている席だろう。けれどそこには誰もいないようだ。
私はためらうことなくそこに向かい、席に腰を下ろした。
一方、鳳城司は放課後の人気のない図書館に忍び込んだ。
彼は生徒会の仕事が終わった後、女子たちの取り巻きから逃れるために、普段来栖が利用している場所に向かった。来栖がここにいるとき、彼は彼女の近くにいることで安らぎを感じていたからだ。だが、今日は彼女の姿はない。
鳳城は普段来栖が座る席に向かった。だが、その席には既に先客が居た。見知らぬ少女――いや、今朝顔を合わせた如月鈴花だった。
彼女の姿に少し驚いた鳳城は、短く息をついてから、目の前に座る鈴花をじっと見つめる。
如月はそのまま静かにノートを広げ、勉強を始めていた。
「来栖は…⋯いないのか」
私は少し離れたところで生徒会長が立っている事に気づいていた。最初は無視しようとも思ったが、彼がじっと自分を見ているのを感じ、仕方なく視線を向けた。
勉強に集中したいのでさっさと片付けてしまいたい。
「何か用ですか?」
私が簡潔に尋ねると、鳳城は少し間を置いてから、口を開いた。
「いや、何も。」
その言葉を聞いて私は少し疑問に思うも、すぐに気にせず再びノートに目を戻す事にした。
だが、鳳城は何か言いそびれた様子で、再び言葉を紡ぎ始めた。
「来栖に席を譲ってもらったのか?」
「いいえ。たまたま空いていただけです。」
面倒だが後が怖いので、ほんの少しだけ目を動かして答えておいた。
「そうか。」
彼はそう返事をし、片手に持っていた本を机に置いて、あろう事か私の向かいの席に座ってきた。
「はっ?」
私は思わず声を上げてしまった。
「何だ。不都合でもあるのか?」
しれっと言い返され、私は「いえ、何も⋯⋯」としか言えなかった。
鳳城は向かいで勉強を続ける如月をちらりと見た。彼女は黙々とノートに向かい、筆記用具を動かしている。その横顔は真剣そのもので、余計な感情の色は一切見えなかった。
朝の生徒会室での出来事が、ふと頭をよぎる。
――来栖は、妙に如月に対して風当たりが強かった。
もちろん、彼女が校則違反を犯した以上、厳しくするのは当然だ。だが、来栖の言葉や態度には、どこか冷え冷えとしたものがあった。
以前の彼女なら、規律を重んじつつも、努力する生徒には手を差し伸べるようなところがあった。だからこそ、鳳城は彼女を尊敬し、対等に見ていた。
今朝の如月への態度も、彼女を試すつもりなのだと思っていた。
本当に努力できるのか、その覚悟があるのか――そういう意図で厳しく接したのだと。
だが、違ったのかもしれない。
鳳城は無意識に眉を寄せた。何かが引っかかる。けれど、何が引っかかるのか、自分でもはっきりとは分からなかった。
鳳城は手元の本をめくりながらも、隣で静かに勉強を続ける如月の様子を意識していた。小さく動くペン先。静かな筆記音が、大図書館の静寂の中に溶け込んでいく。
「……なぜ、そこまでして?」
しまった。口に出てしまっていたらしい。
如月が手を止めて、わずかに顔を上げる。
「何の話ですか?」
気まずくなって如月から視線を逸らしてしまった。
俺は泳いでいた目を急いで本に戻し、ページをめくりながら質問を続けた。
「アルバイトのことだ。学費のためなら、奨学金を申請すればいいのではないか?」
質問は穏やかに発したつもりだったが、如月の指が一瞬だけピクリと動いたのを鳳城は見逃さなかった。
空気が一瞬に張り詰めた。鳳城は辺りの空気が冷めたように錯覚した。彼女に弁明の言葉をかけようと思った瞬間、如月は穏やかに微笑した。
彼女は静かに言った。
「私の成績で出来ると思ってます?」
「貸与の奨学金のために優等生になる必要はないですし。ただ学歴が欲しいだけなんで」
短く、淡々とした返答。しかし、そこにある固い意志を感じ取り、鳳城はそれ以上は踏み込まなかった。ただ、彼女の真っ直ぐな言葉が不思議と胸に残る。
「それで、アルバイトを?」
「そうですね。おかげさまで何とか生きています」
皮肉めいた微笑を浮かべる如月を前に、鳳城はふと息をついた。
「……君は強いな」
思わず漏れた言葉だった。如月が目を丸くする。
「強くなんてないですよ。ただ、やらなきゃいけないことをやってるだけです」
この学園には、努力しなくても道が開かれている者が多い。自分もまた、その一人だ。だが、目の前の少女は、誰にも頼らず、たった一人で立っている。
「……そうか」
それだけ呟き、鳳城は手元の本に目を落とした。けれど、さっきまでのように文字が頭に入ってこない。
しばらくして、隣から小さな溜息が聞こえた。
如月がペンを止め、ノートを睨んでいる。数式を前に何度も線を引いては、首を傾げていた。
鳳城はその様子を横目で見ながら、自然と口を開いていた。
「見せてみろ」
彼がノートを覗き込むと、そこには数学の問題が並んでいた。しばらく目を走らせ、彼は如月の手からペンを取り上げる。
「ここが違う。こう考えればいい」
手早く計算の流れを示してペンを返すと、如月はじっとそれを見つめ、すぐにもう一度解き始めた。今度は、先ほどよりも迷いが少ない。
「……なるほど」
解き終えて静かに呟く鈴花を見て、鳳城は気づかぬうちに口元に微かな笑みを浮かべていた。
放課後・生徒会室にて
「無断アルバイトの処分についてですが、副会長のご意見を伺えますか?」
生徒会室の一角で、取り巻きの生徒が恐る恐る問いかける。
「処分?」
来栖綾華は、微笑みながら紅茶を口に運んだ。その仕草は優雅で、まるで何気ない会話を交わしているかのように見える。しかし、その目には冷淡な光が宿っていた。
「ええ、当然罰は必要ですわね」
「ですが、副会長は彼女にチャンスをお与えになったのでは?」
別の生徒が遠慮がちに尋ねると、来栖は目を細めた。
「ええ、機会は与えましたわ。けれど……ねえ、皆さん?」
彼女は周囲を見渡しながら、ゆっくりと微笑む。
「如月さんが本当に、その『機会』を活かせるとお思い?」
室内に一瞬、沈黙が落ちた。
「……まぁ、正直難しいとは思いますけど」
「そうですわよね。だって、彼女のような人間には、分不相応なことですもの」
紅茶のカップを静かに置くと、来栖は淡々と続けた。
「学業も平凡、家柄も取り立てて立派ではない。そんな人が、突然『努力すればなんとかなる』なんて、随分と夢見がちですわ」
「……副会長、少し言い過ぎでは?」
「まぁ、ごめんなさい。けれど、現実って厳しいものですわよ?」
優しく諭すような声音だったが、その言葉には明らかな見下しが滲んでいた。
「私、思うのです。生まれ持った環境というのは、やはり乗り越えられない壁がありますわ。努力は素晴らしいけれど、何をやっても無駄なこともある。それなのに、無理をしても仕方ないのではなくて?」
「……でも、如月さんは頑張るつもりなんでしょう?」
「ええ、ええ。だからこそ、見守ってあげましょう? どこまであがけるのか。どこで足を滑らせるのか」
彼女の言葉に、一部の生徒はクスクスと笑い、一方で顔を強張らせる者もいた。
「それで、もしできなかったら……?」
「もちろん、然るべき処分を受けてもらいますわ。ルールを破ったのですもの。当然でしょう?」
「……退学、ですか?」
「ええ。規律を守れない人がいると、学校の品位が下がりますものね」
来栖はあくまで上品に、穏やかに微笑みながら言い放った。
鳳城司は、その様子を黙って見ていた。
(おかしい……)
彼は来栖綾華を尊敬していた。厳しいが公正で、誰に対しても毅然としている。そう思っていた。
だが、今の彼女は——。
(まるで、如月を排除しようとしているようだ)
その違和感を言葉にすることはできなかったが、鳳城の眉は僅かに寄せられていた。
