マンションの七階にたどり着いてなお、熱海からチャットの返事は来ていなかったので、黒川さんに千秋さんから預かった合鍵を渡して、俺は自宅に戻った。
 五分ほどしてから黒川さんから『来ても大丈夫だよ~』とチャットが届いたので、俺も熱海家に向かうことに。

 熱海の家の中の造りと我が家の作りはまったく一緒なので、どこがなんの部屋なのかはハッキリとわかる。インテリア等のおかげで雰囲気は違うものの、間取り自体は一緒だ。
 靴を脱いでリビングに向かうと、黒川さんが熱海の部屋と思しき場所から手招きしていた。

「えぇ……大丈夫なのか?」

「うん! 道夏ちゃんが良いって言ってるから~」

 女子の部屋に入ることにしり込みする俺に対し、黒川さんはあっけらかんとした口調で言う。なんだか俺だけ意識してしまっているようで空しい。
 あまりうるさくして頭に響いたらかわいそうだなと思い、抜き足差し足で熱海の部屋へ。中に入ると、俺たちが買っていった冷却シートを頭に貼って、ベッドの上に横になっている熱海がいた。
 彼女はこちらに目を向けると、「そんなにビクビクしなくてもいいわよ」と苦笑しながら言った。

「いやでも、熱海のことだから『王子様以外の男なんか入れたくないもんっ!』とか言いそうだし」

「こんなにひどい声真似も珍しいわよね――ゴホッ――ごめん。えっと、マスクあったっけ……」

「あー、起きなくてもいいよ! 大丈夫! 私風邪とか移らない種族だから心配しないでっ!」

 黒川さん、人族じゃなかったのか。
 とまぁそんな冗談を言い合ったりしつつ、黒川さんはベッドに腰掛けて、俺は勉強机の前に置いてあった椅子に腰かける。

「熱は今どれぐらいあるんだ?」

「んー、今どれぐらいだっけ……」

 熱海はぼんやりとした口調でそういうと、ベッドサイドに置いてあった体温計を手に取り、パジャマのボタンを一つ外して――ってぇ!?

「わぁああああっ!? 道夏ちゃん!? 有馬くんがいるんだよ!?」

「あ、ご、ごめんっ」

 ただでさえ二つボタンを外していたのに、熱海はさらにもう一つ外してしまったのだ。
 おかげで俺の視界にはちらっと――本当にちらっとピンク色のナニカが移ってしまった。

「いやなんで熱海が謝るんだよ……こういう場合どちらかというと謝るのは俺のほうじゃない?」

 黒川さんが身体を張って俺の視界を遮ってくれている間に、俺は後ろを向いてからそう口にした。熱海は「悪いのはあたしでしょ」と小さく笑っていた。
 火照った顔を正常の状態に戻すために深呼吸を繰り返していると、ピピピという音が聞こえてくる。無事体温を測り終えたようだ。

「見せて見せて――うわっ、八度七分だって! 本当に大丈夫なの道夏ちゃん!?」

「ちょっと頭が痛いだけよ。もともと平熱が高めだから、そんなにきつくないわ――というかいつまで有馬はそっち向いているのよ。もう大丈夫だから」

 熱海からお許しがでたので、俺は地面を蹴って椅子ごとくるりと回転。
 彼女はいつの間にか体を起こしていて、俺を見てクスクスと笑った。
 なんだか弱っている彼女は儚げで、何もしてあげられない自分をふがいなく思ってしまった。

「なに? その顔」

「別になんでもない……本当に大丈夫かお前? 水分はとってるか? 朝から何か食べたか?」

 何も食べてなさそうだなぁと思いつつも聞いてみる。すると彼女は眉をハの字に曲げた。

「水分はとった。でもゼリー飲料は昨日の夜飲んじゃったし、あまり食欲ないから」

 俺の予想通り、熱海の胃にはあまり物が入っていないらしい。熱が出ているときは体力を使うから、何か食べていたほうがいいと思うんだけどなぁ。

「あっ、道夏ちゃん! さっきスーパーでゼリーも買ってきたんだよ! みかんゼリーはなかったから、今日はブドウゼリーだけど」

「ほんとに? ありがと陽菜乃、有馬。ゼリーなら食べたいかも」

 熱海はそう行ってから、黒川さんが蓋を外したゼリーを受け取る。それをプラスチックのスプーンでぱくりと食べて、ニコリと笑った。

「おいしい、ありがとね、二人とも。こんど何かでお返しするから」

「「気にしなくていいよ」」

 まったく同じタイミングで、まったく同じセリフを俺と黒川さんが口にする。
 それがなんだかおかしくて、俺と黒川さんは顔を合わせて笑ってしまった。
 そんな俺たちを、熱海はあきれたように笑っていた。
 

☆☆ ☆ ☆ ☆


 あまり長居をしても悪いから――ということで、俺と黒川さんは一時退却。
 ただ、万が一の時のためにと、黒川さんは五時までうちで待機することになった。
 熱海と二人なら慣れたもんだが、黒川さんと二人きりというのはこれまでになかなかなかったから緊張するな……駅まで迎えに行っていたときは、熱海の体調に意識が向いていたから、そこまで気にならなかったんだけど。

「いちおう連絡がなくても、帰る前にもう一度家に行ってみるよ。熱は出てたけど、起き上がれないほどきついみたいじゃなかったし」

「おう、そうしてくれると俺も安心だ。俺一人だと、勝手に家に入るのはマズいだろうから」

「ふふっ、勝手に入ってきて嫌な人に合鍵なんて渡さないよ~」

 彼女はそう言うと、コップに入ったリンゴジュースを飲む。たしかに、それはそうか。
 黒川さんはコップをテーブルの上に置いて一息ついたところで、再度口を開く。

「有馬くんって、道夏ちゃんのこと好きなの?」

「――んぐっ!? ケホッ、きゅ、急にどうした?」

 ちょうどお茶を飲んでいるところにそんな質問が飛んできたので、黒川さんにお茶を吐きだしてしまうところだった。なんどかこらえたが。

「有馬くんと道夏ちゃんって、すごく仲良しさんだからね。学校でも『付き合ってるの?』って聞かれたりしたでしょ?」

 興味津々といった様子で、黒川さんは前のめりになって聞いてくる。テーブルをはさんでいるとはいえ、胸を強調するようなポーズで迫られるとドキッとしてしまう。思春期男子ですので。

「そういうのじゃないよ。うちの母さんと千秋さんが同じ職場だし、家が隣だし、学校じゃ席が前後だからな。一緒にいる時間が長かったら、仲良くもなるだろ」

 俺がそう言うと、黒川さんは「なるほどなるほど」と頷く。納得してくれたようだ。

「第一、熱海には例の王子様がいるじゃないか。あそこまでハッキリと明言しているやつを好きになれないと思う。俺も黒川さんと同じで、まだだれかを好きになったことがないからわかんないけどさ」

 俺がそう言うと、黒川さんは難しい顔をして腕を組む。「むぅ」という可愛らしいうなり声も上げていた。

「恋愛って難しいね」

 結局、彼女がたどり着いた結論はそんなありふれたものだった。
 その意見には、まったくもって同感だが。