それから――河埜と勉強を始めて、十日がたった。
「今日こそできるんだろうな」
 勝ち誇ったように、岡が言う。風花は、ぎゅっとペンを握っていた。河埜と勉強を始めてからというもの、岡の圧はすさまじさを増していた。プリントを伏せて配られる。今日こそ、きっと合格するんだ。どきどきと、うなじに心臓があるみたいに全身が脈打っていた。汗が浮き出てきて、口の中まで何だかかゆい。はじめ、と言われて、プリントを裏返す。じっと岡が見つめる中、問題に向かった。
 落ち着いて、河埜くんの目を見るみたいに――緊張にくらくら揺れる頭を落ち着けるように、息を吸おうとして、喉につまって、むせこんだ。体を丸めていると、岡がふんと冷笑した。
「なんもできんな」
 かあ、と頭が熱くなった。その通りだ。固まっていると、岡は呟く。
「河埜もたいしたことないな」
 その瞬間、さっと風花の頭の中が冷たくなった。みどり色の風が吹いて、河埜の笑顔だけ、思考に流れていく。
「生田さんならできるよ」そう言って、いつも私に向き合ってくれた。
 ――負けるもんか!
 わき起こったのは、ものすごい闘志だった。
「残り五分」
 岡の言葉は、もう情報としてしか、聞こえなかった。問題に全部の神経が、集中する。
 数式が、風花に語り掛けてきた。何を聞いてるか、わかる。風花は、ペンを走らせた――。

 ◇

 朝の光が強くなり、廊下は人の気配にざわつきだした。風花は大きな背中にかけよった。
「――河埜くん!」
「生田さん、おはよう」
「おはよう!あのね、あの、テスト通ったよ!」
 そう言って、風花は、プリントをかかげて見せた。プリントには赤い丸だけがついている。河埜は、「おっ」と目を見開いた。
「おめでとう」
「ありがとう!ついに、通った……!本当にありがとう。河埜くんのおかげ」
 岡のプレッシャーを越え、とうとう満点を取ったのだ。それもこれも、河埜が何度も問題を見てくれたおかげだった。河埜が、自分を信じてくれたおかげだった。河埜はにこっと笑った。
「俺はなにも。生田さんが頑張ったからだよ」
「ありがとう……」
 自分のしたことで、こんなに嬉しいことは、初めてかもしれない。風花も顔いっぱいに笑った。
 河埜が、そっと手を差し出す。風花もにっこり笑って、手を出して――二人はハイタッチをした。


 教室までを一緒に歩きながら、風花は、幸せをかみしめた。今日のことはずっと忘れない。大切にしていよう。
「じゃあ、また放課後にね」
「えっ」
 河埜の言葉に、風花は目を見開いた。河埜は不思議そうに、じっと見返した。風花は、呆けたまま、尋ねる。
「これからも勉強、見てくれるの?」
「うん。――駄目だった?」
「だ、駄目じゃないよ!」
 食い気味に、言葉を返す。すごく嬉しかった。だって、小テストが終わるまでだと思っていた。だから、きっと、河埜との時間は、これで終わりだって。
 でも、まだ続くんだ。じわじわ、心のうちからひかりが差すみたいに、嬉しさがあふれてくる。
「嬉しい。ありがとう、河埜くん」
 河埜は、少し虚をつかれた顔をして、それから笑った。そして、「またね」と、教室に入っていく。
 風花も教室に入り、自分の席に向かった。もっと頑張ろう。そう決意しながら。こんなに明るい気持ちで決心したのは、初めてだった。