頑張るぞ。両腕を大きく振って、家に帰る。すると、また見慣れた学生靴がある。
 一気にしぼむ心を叱咤し、「ただいま」と言った。母が顔を見るなり、目をつりあげた。
「何してるのよ!千尋くん、ずっと待ってくれてたのよ!はやく行きなさい」
 そう言って、急かされる。おされるように階段を上った。いつもより、なんだか気が重かった。
「遅い。何してるんだよ」
 千尋が、参考書から目を離さずに言う。けど、不機嫌なのがはっきりわかる声だった。それに咄嗟におどつく気持ちになりながらも、「ごめん」と言った。ふん、と千尋は鼻で笑う。
「馬鹿ほど時間を浪費するよな。そんなことできる身分じゃないのに」
 あまりに馬鹿にした声音。それは、いつものことだ。けど、なんだかいつもより、三倍くらい刺さった。
 ――生田さんは、馬鹿じゃないと思うよ。
 穏やかな声が、よみがえる。顔を俯かせて、カバンを置いた。手を洗いに行こうとすると、「おい」と、太腿の前を、参考書で軽くはたかれる。ぞっとして、思わず顔をしかめた。千尋は、目を見開き、それから笑う。
「ずいぶん今日はいきがるじゃん。いいことでもあった?テストで五点取ったとか」
「……べつに、関係ないよ」
 話したくなかった。素敵な気持ちを、きっと千尋は土足で踏み荒らすに決まっている。そう言って、部屋から出て行った。
 手を洗いながら、思う。もう帰ってほしい。今日は、本当に、勉強をしたいのだ。
 けれども、千尋は、いつも通りいて、風花の心がぺしゃんこになるまで、詰め続けた。
「こんな問題も解けないって、終わってるだろ」
「あーあ、また泣くのかよ。泣きゃいいから、女は人生イージーだよな」
 そうして、のんびりご飯を食べて帰っていった。
 親にはもちろん叱られた。「学校の子に、勉強を教えてもらうことになった」と言うと、「なんてことするの!」と机を叩いた。
「千尋くんに言ってないでしょうね?失礼すぎるわよ」
「言ってないよ。でも、だからもう千尋にはあんまり来られても相手できないと思う」
 そう言うと、机の上に置いた手を、ぱしんと叩かれた。
「何てこというのよ。えらそうに!千尋くんが、どれだけあんたの為に時間をとってくれてるか!」
 千尋といていいことなんて、一個もなかったように思う。でも、言ってもわかってもらえないのは、もうわかっている。「あんたがもっと頑張ればいいのよ」って言うのだから。
 俯いて、母の怒りが流れるのを望んだ。しかしそうはいかなかった。母はずっと怒った。
「あんたの学校のレベルで傷をなめあっても仕方ないでしょ。千尋くんに教わる方が確実なのよ!」
「なめあいなんて……千尋くんだって時間があるし、」
「だから、あんたが上手いこと合わせるのよ。程度の低い友達付き合いより、昔からの縁を大切にしなさい!」
「程度って……――教えてくれる子は、学年主席なんだよ」
 風花は、咄嗟に言葉を強くして言った。言ってから、恥ずかしさに、顔が真っ赤になった。何てさもしい返し方だろう。そもそも程度の低い友達なんて、失礼な言葉なのに、こんな反論した自分が、恥ずかしかった。頭の良し悪しで見られるのがつらいのに、すっかり染まってしまっているのだ。
 河埜くんは、私を馬鹿じゃないって、人間扱いしてくれたのに。
 母は、不快そうに目を眇めた。けど、しばらくして、尋ねた。
「その子、男の子?」
 一言目がそれ。もう話したくなかったけれど、「そうだよ」と答えた。そう言えば、聞いてくれそうだったから。
「ふうん。でも、あんたの高校ででしょう?顔だって――」
 もう聞きたくなかった。だから、しばらくだんまりでいると、「心配してるのに、気取っちゃって!」と母は怒って部屋を出て行った。ドアが大きな音を立てて閉まる。それを見送って、風花は、じっと膝の上にのった、自分の握りしめて、白くなった拳を見つめていた。