「生田!いい加減にしろ!」
プリントに、真っ赤で大きなバツをつけながら、岡が怒鳴り散らす。あんまり怒るので、唾が風花の手にとんだ。それに反応する余裕もなく、風花は、ただ身を小さくしていた。
「何度、同じ問題を間違えるつもりだ⁉やる気がないにもほどがあるだろう!馬鹿にするなっ!」
今は、小テストの追試をしていた。職員室で人目のある中、岡が手元を覗き込んでいる状態でテストをするという、風花にとって最悪のコンディションだ。頭は働かず、信じられない間違いばかりしては舌打ちされ、しまいには手が動かなくなった。
「明日も、十五分早く集合だ!まったく、この調子だと、始発さえなくなるぞ!」
「はい……すみません」
朝から泣きそうになりながら、頭を下げた。すると、そのとき「先生」と岡の後ろから、声がした。温和な低い声は、冷え切ったこの場ですごく異質に響いた。腕組みをした、岡が振り返る。
「河埜か。何の用だ」
名前に、「あっ」と、風花は思わず顔を上げた。河埜くん――学年主席の。
河埜は、自分と同じ色のテキストを持ってそこに立っていた。風花はその姿に、思わず呆ける。河埜は、すごく迫力のある生徒なのだ。
高い背に、広い肩幅、長い足という、恵まれた体格とすっきりと整った覇気のある顔立ち。ピンク色に脱色した髪は短く刈られているが、すごく似合っている。全部が、アイドルみたいに様になっていた。
河埜は、風花を見る。
そのとき、目で会釈された気がして、「え」と思う。河埜は「お話し中、すみません」と言った。
「谷田先生が呼んでました」
そう言って、向こうをさした。谷田先生が、受話器を持って、待っている。岡も「むう」と唇をつきだして、うなった。「どうも」と言った。そして、風花に「解け」と言って去っていった。
風花は、あわてて問題に向き直りつつ、内心すごく驚いていた。
河埜といえば、自分とは違う意味で、遠目に見られている生徒ということで有名だった。
おしゃれにしている子も、どこか置きに行ったところのある進学校では、河埜の容姿は「怖い」「厳つい」と、かなり浮いているのだ。無理しているとかじゃなくて、すごく似合っているから、なおさらである。「すごくおしゃれな年上の彼女がいる」と言われていて、アプローチしする女子も、本当に成績と容姿に自信のある子しかいなかったし、それもかわされるともっぱらの評判だ。
河埜の話は、風花の耳にもよく入る。おそらく、うらやましいからだ。自分とは違う意味で、ギャップを持っている河埜のことが。
落ち込む気持ちを振り払おうと、問題を読む。岡がいなくなったことで、ちゃんと意味が解ってきた。河埜は、岡を待っているのか、まだそこに立っていた。そのことに気づくと、緊張してまた解けなくなる。
「すまんかったな」
と、岡が戻ってきた。そして、風花の手元を覗き込むと、目をいからせた。
「全然といとらんじゃないか!何してたんだっ!」
大声が、あたりに響いた。身をすくめて「すみません」と言った。岡は顔を真っ赤にして怒鳴る。
「もうお前は、居残りだ!――ああ、河埜!テキストを持ってるなら貸せ!」
そう言って岡は、河埜のテキストをひったくって開いて見せた。端正な文字が、華麗に数式を解き明かしている。あんまりきれいなので、呆然とした。
「問題はこうして向き合うんだ!お前のを見ろ!汚いったらない!甘えた根性が全部出てるな!」
風花は顔を真っ赤にした。千尋と幼馴染なのだ。できる生徒とくらべられることは、しょっちゅうだ。けれど、傷つかないわけじゃない。何度も消して汚れた自分のテキストを隠した。
「先生、そんな言い方ないと思います」
やわらかい、低い声がそっと割って入った。見上げると、河埜が、静かに岡を見下ろしていた。
「いくら先生でも、性格まで悪く言う権利はないです。その上、こんな風に詰められたら、解けるものも解けないですよ」
落ち着いた芯のある声で、河埜は言った。
思わず、風花の目から涙がこぼれでた。抑えようとして、嗚咽が漏れる。
こんな風に、誰かに――まして男子に、やさしい言葉をかけてもらったことなんて、一度もなかった。
岡は顔を真っ赤にした。ばん、と机を叩く。
「えらそうに、なんだその言い方は!俺はこいつのためを思って」
「ためを思うなら、ひどいこと言ってもいいんですか?俺はそう思いません」
岡が河埜をにらみつける。しかし、河埜は揺らがなかった。まっすぐ見返す。岡は気圧され、たじろいだ。しかし、河埜を見上げて、指をさした。
「そんなに言うなら、お前がこいつに教えてみろ!勝手ばかりして、少しは人のためということを覚えるんだな!」
固まったのは風花だった。やり玉にあげられ、おろおろする。どうしよう、自分のせいで河埜まで――しかし、河埜はやっぱり動じなかった。静かに見下ろす。
「わかりました」
「はっ?」
「彼女さえいいなら、俺が教えます」
河埜の言葉に、風花も、岡も――職員室中が、固まった。河埜は、風花をじっと見た。売り言葉に買い言葉とは思えない、ゆったりした様子だった。
「いいかな?」
「え、あ」
こんな時にそぐわないほど、穏やかな声。風花は、思わず、頷いていた。岡はそれを見て、わなわなと震えた。
「どいつもこいつも!好きにしろ!」
そう言って、足音荒く、去って行ってしまった。まずいことを言ったかもしれない、と身を小さくしていると、河埜が「ごめんね」と言った。虚をつかれて、見上げる。河埜が少し身をかがめて、こちらを見下ろしていた。
「勝手に、巻き込んじゃったね」
「あ、は、いえ」
申し訳なさそうに言われて、あわてて首を横に振った。こんな風に、丁寧に接されたことがなくて、動揺する。けど、何とか言いたいことを返そうと口を開く。
「あの、ありがとう……」
見上げると、河埜はにこっと笑った。笑うと澄んだ目元に、年相応の空気が出る。
「これからよろしくね。名前聞いてもいい?」
「あ、はいっえっと……生田風花です」
「生田さん?俺は河埜碧志」
自分の名前って、こんなに優しい響きになるんだ。と、風花はひどく感心した。河埜はそれから、風花に、クラスを聞いた。風花は慌てながらも問いを返す。すっかり動転していて、聞かれるままに返事をした。
「じゃあ、放課後に」
「は、はいっ」
そう言って別れてようやく、「えっ!」と、ようやく状況を飲みこみ、叫んだ。
もしかして、河埜くん、本当に教えてくれるの?
プリントに、真っ赤で大きなバツをつけながら、岡が怒鳴り散らす。あんまり怒るので、唾が風花の手にとんだ。それに反応する余裕もなく、風花は、ただ身を小さくしていた。
「何度、同じ問題を間違えるつもりだ⁉やる気がないにもほどがあるだろう!馬鹿にするなっ!」
今は、小テストの追試をしていた。職員室で人目のある中、岡が手元を覗き込んでいる状態でテストをするという、風花にとって最悪のコンディションだ。頭は働かず、信じられない間違いばかりしては舌打ちされ、しまいには手が動かなくなった。
「明日も、十五分早く集合だ!まったく、この調子だと、始発さえなくなるぞ!」
「はい……すみません」
朝から泣きそうになりながら、頭を下げた。すると、そのとき「先生」と岡の後ろから、声がした。温和な低い声は、冷え切ったこの場ですごく異質に響いた。腕組みをした、岡が振り返る。
「河埜か。何の用だ」
名前に、「あっ」と、風花は思わず顔を上げた。河埜くん――学年主席の。
河埜は、自分と同じ色のテキストを持ってそこに立っていた。風花はその姿に、思わず呆ける。河埜は、すごく迫力のある生徒なのだ。
高い背に、広い肩幅、長い足という、恵まれた体格とすっきりと整った覇気のある顔立ち。ピンク色に脱色した髪は短く刈られているが、すごく似合っている。全部が、アイドルみたいに様になっていた。
河埜は、風花を見る。
そのとき、目で会釈された気がして、「え」と思う。河埜は「お話し中、すみません」と言った。
「谷田先生が呼んでました」
そう言って、向こうをさした。谷田先生が、受話器を持って、待っている。岡も「むう」と唇をつきだして、うなった。「どうも」と言った。そして、風花に「解け」と言って去っていった。
風花は、あわてて問題に向き直りつつ、内心すごく驚いていた。
河埜といえば、自分とは違う意味で、遠目に見られている生徒ということで有名だった。
おしゃれにしている子も、どこか置きに行ったところのある進学校では、河埜の容姿は「怖い」「厳つい」と、かなり浮いているのだ。無理しているとかじゃなくて、すごく似合っているから、なおさらである。「すごくおしゃれな年上の彼女がいる」と言われていて、アプローチしする女子も、本当に成績と容姿に自信のある子しかいなかったし、それもかわされるともっぱらの評判だ。
河埜の話は、風花の耳にもよく入る。おそらく、うらやましいからだ。自分とは違う意味で、ギャップを持っている河埜のことが。
落ち込む気持ちを振り払おうと、問題を読む。岡がいなくなったことで、ちゃんと意味が解ってきた。河埜は、岡を待っているのか、まだそこに立っていた。そのことに気づくと、緊張してまた解けなくなる。
「すまんかったな」
と、岡が戻ってきた。そして、風花の手元を覗き込むと、目をいからせた。
「全然といとらんじゃないか!何してたんだっ!」
大声が、あたりに響いた。身をすくめて「すみません」と言った。岡は顔を真っ赤にして怒鳴る。
「もうお前は、居残りだ!――ああ、河埜!テキストを持ってるなら貸せ!」
そう言って岡は、河埜のテキストをひったくって開いて見せた。端正な文字が、華麗に数式を解き明かしている。あんまりきれいなので、呆然とした。
「問題はこうして向き合うんだ!お前のを見ろ!汚いったらない!甘えた根性が全部出てるな!」
風花は顔を真っ赤にした。千尋と幼馴染なのだ。できる生徒とくらべられることは、しょっちゅうだ。けれど、傷つかないわけじゃない。何度も消して汚れた自分のテキストを隠した。
「先生、そんな言い方ないと思います」
やわらかい、低い声がそっと割って入った。見上げると、河埜が、静かに岡を見下ろしていた。
「いくら先生でも、性格まで悪く言う権利はないです。その上、こんな風に詰められたら、解けるものも解けないですよ」
落ち着いた芯のある声で、河埜は言った。
思わず、風花の目から涙がこぼれでた。抑えようとして、嗚咽が漏れる。
こんな風に、誰かに――まして男子に、やさしい言葉をかけてもらったことなんて、一度もなかった。
岡は顔を真っ赤にした。ばん、と机を叩く。
「えらそうに、なんだその言い方は!俺はこいつのためを思って」
「ためを思うなら、ひどいこと言ってもいいんですか?俺はそう思いません」
岡が河埜をにらみつける。しかし、河埜は揺らがなかった。まっすぐ見返す。岡は気圧され、たじろいだ。しかし、河埜を見上げて、指をさした。
「そんなに言うなら、お前がこいつに教えてみろ!勝手ばかりして、少しは人のためということを覚えるんだな!」
固まったのは風花だった。やり玉にあげられ、おろおろする。どうしよう、自分のせいで河埜まで――しかし、河埜はやっぱり動じなかった。静かに見下ろす。
「わかりました」
「はっ?」
「彼女さえいいなら、俺が教えます」
河埜の言葉に、風花も、岡も――職員室中が、固まった。河埜は、風花をじっと見た。売り言葉に買い言葉とは思えない、ゆったりした様子だった。
「いいかな?」
「え、あ」
こんな時にそぐわないほど、穏やかな声。風花は、思わず、頷いていた。岡はそれを見て、わなわなと震えた。
「どいつもこいつも!好きにしろ!」
そう言って、足音荒く、去って行ってしまった。まずいことを言ったかもしれない、と身を小さくしていると、河埜が「ごめんね」と言った。虚をつかれて、見上げる。河埜が少し身をかがめて、こちらを見下ろしていた。
「勝手に、巻き込んじゃったね」
「あ、は、いえ」
申し訳なさそうに言われて、あわてて首を横に振った。こんな風に、丁寧に接されたことがなくて、動揺する。けど、何とか言いたいことを返そうと口を開く。
「あの、ありがとう……」
見上げると、河埜はにこっと笑った。笑うと澄んだ目元に、年相応の空気が出る。
「これからよろしくね。名前聞いてもいい?」
「あ、はいっえっと……生田風花です」
「生田さん?俺は河埜碧志」
自分の名前って、こんなに優しい響きになるんだ。と、風花はひどく感心した。河埜はそれから、風花に、クラスを聞いた。風花は慌てながらも問いを返す。すっかり動転していて、聞かれるままに返事をした。
「じゃあ、放課後に」
「は、はいっ」
そう言って別れてようやく、「えっ!」と、ようやく状況を飲みこみ、叫んだ。
もしかして、河埜くん、本当に教えてくれるの?



