「おい、話聞いてんのか?」
 千尋に、教科書で頭をはたかれて、奥歯をかみしめる。家は家で、何も安らげない。
 落ち込むことさえできない。少しでも落ち込んだ顔を見せようものなら、
「わかった、いじめだろ。お前、人をイラつかせる天才だもんな」
 とにやにや言ってくるのだ。我が物顔で、ベッドにもたれられて、死ぬほど苦痛だった。
 河埜のことを考えると、気持ちが安らぐ。さわやかな風が、心に吹きぬけるみたいに。でも、余計に、千尋が、部屋にいつもいることが苦痛で仕方なくなった。
 なんでこの人、毎日のようにくるの?ただでさえ、辛い気持ちなのに、もう勘弁してほしかった。
「あの」
「は?」
「もう、ここに来ないでほしいの」

 時が止まった。千尋は、一瞬驚いた顔をして、それから嘲笑った。
「なに、いきなり。お前に拒否権なんてないんだけど?」
「ここは、私の部屋、だよ。権利ある」
「ねえよ。ひとつもない」
 かっと頭が熱くなった。なんで、こんなに埒が明かないんだろう。
「な、なんでそこまで、私にこだわってくるの?もう、ほっといて!」
 そう叫んだ瞬間――千尋の目が、怖くなった。
 男の人がすごむと怖い――咄嗟に身をすくめた。それを見て、千尋は、ふんと鼻を鳴らした。
「気持ち悪い勘違いしてんなよ。親孝行の一環に決まってんだろ。あと小遣い稼ぎ」
 ペンを弄びながら、千尋は言った。
「お前に気があるとでも思ってた?馬鹿すぎるだろ」
 ペンで、風花の前髪をすくった。身をすくめて、後ずさりする。
「あ、あと娯楽かな。お前ができもしないことを、ばたばたもがいてるの見るの、面白いからさ」
 そういって、また、眉間をペンのノック部分で突いてきた。風花は、嫌悪に、身震いした。体がわなわな震える。私はオモチャじゃない、そう言ってやりたいのに、言葉がつっかえて、涙が出てくる。
「わ、」
「負け犬の意見なんて、皆聞かねえよ」
 鞄を背負って、千尋は、帰っていった。しっかり母に告げ口をすることも、忘れずに。


「なんてこと言ったのよ!」
 母は当然、怒った。顔を真っ赤にして、風花を玄関に向かい、急き立てる。
「はやく謝ってきなさい!」
「行かないよ」
「――馬鹿言うんじゃないのっ!」
 風花は、身を突っ張らせて、耐える。母は、風花の背を、力いっぱい叩いた。
「ふざけてないで、行きなさい!」
 よろけて、たたらを踏む。肩越しに振り返ると、母は怒りに満ちた顔で、叫んでいた。
「私がどれだけ、あんたのために気を回してると思ってるの?一時の感情でふいにするんじゃないわよっ!」
「一時じゃ――」
「何⁉」
 すごい目で睨まれて、身を小さくする。喉から声が出なくなった。下手なことを言うと、無茶苦茶に攻撃される、それがわかった。黙り込んでいると、脇にあった机を叩いた。
「何なの⁉はっきりしなさいよ!」
 身を小さくしていると、母の怒りは増した。
「言いたいことも言えないで、あんたどうやって生きてくのよ⁉本当に、いつもそうよね⁉」
 涙がこぼれそうになるのを、必死に耐えた。母は目ざとく気づいて、「泣けなんて言ってないわよ!」と怒鳴る。
「いつもそうね、あんた、ぐずぐずして、察してばっかりして!だから、いろいろ考えてあげてるのに、感謝もしないで、勝手ばかりして!」
 机を乱打しながら、母は詰めてくる。目をぎゅっと閉じて、唇をかみしめた。知らず、にぎりしめた拳が、わなわな震えている。
「なにもできないくせに!なにかしてから、もの言いなさいっ!」
 何とか言ったらどうなの!
 丸めた背の中で、ぐらぐら、何かが沸騰していた。何か言おうとして、言葉が出なかった。ひどい、うるさい、ひどい。
「風花!」
 気が付いたら、風花は。家を飛び出していた。