十二月半ば。朝に降りた霜が昼に解けたことでグラウンドが水浸しになり、野球部はこの日、校舎内でトレーニングをしていた。
「色々な人からうるさいと苦情が来ています。校舎内で活動する際はもう少し声を抑えてお静かにお願いします」
大きな掛け声を出しながら階段を昇り降りする野球部員たちに対し、他の部活動や図書室で勉強している人たちから苦情が来ていたため、生徒会長として私が直々に注意をしに来たのだ。部長の甘利君は階段を昇って上の階にいるようで、一階には私と一年生数人しかいない。
甘利君の言っていた通り、しばらくすると甘利君が遠距離恋愛中の彼女に会いに行っていただけという話に落ち着き、完全に話題としては沈静化していた。
そのため甘利君の威厳もそのまま、生徒会のみんなは怖がって野球部への連絡や対応は私がすべて一人で請け負っている。話してみると全然そんなことはないし、昨日だってクリスマスにお勧めのスイーツの情報を交換し合ったというのに。
「どうした?」
一年生が昇ってこないことを不審に思った甘利君が怪訝な表情で階段を降りてくる。
私を視界に入れてもたじろぐことはなく堂々と近づいてくる彼は、昨日の夜にブッシュ・ド・ノエルの美味しいお店を紹介してくれた。最寄駅から百五十キロメートルは離れている上にクリスマスイブの日は平日だったため、さすがに遠征は無理と判断し取り寄せ予約をしたがぎりぎり間に合った。
「実は……」
一年生部員が私から注意を受けたことを甘利君に説明する。
「配慮が足りなくて申し訳ない。以後気をつけます」
丁寧な口調で四十五度ほど頭を下げる彼は、私が教えたお店のシュトーレンを予約しており、イブに学校が終わったあと取りに行くらしい。学校から五キロほどしか離れていないので知り合いに遭遇する可能性もあるのではないかと尋ねたが、その時は彼女のためと誤魔化すつもりのようだ。
「ふ、ふふっ……分かってくれればいいです。では頑張ってください」
昨日の夜に電話した時の楽しそうな雰囲気とのギャップについ吹き出してしまった。野球部員たちにおかしな目で見られないうちにその場を足早に立ち去る。実は耳も良い私には野球部員たちの会話が聞こえてくる。
「頑張ってくださいだってよ。ああいう一見冷たそうな人に応援されるとちょっと嬉しいよな」
「でも会長、笑ってたよな」
「甘利さんに頭を下げさせることが快感になってるって噂は本当だったんだ」
「おい、余計なことを言ってないで練習再開だ」
「あ、はい! すみません!」
「返事は静かに」
生徒会長として野球部部長として私たちの生活は今まで通りの平穏そのものだった。
クリスマスイブは学校の終業式が午前中で終わる。午後は苺と杏とカラオケでささやかなパーティーをして、夜には甘利君おすすめのブッシュ・ド・ノエルを頂き、甘利君と電話で感想の交換会をした。年末年始は家族旅行と称してとても日帰りできそうもないところにある有名スイーツ店まで連れて行ってもらい、それ以外の日は苺や杏とたくさん遊んだ。
来年の今頃は受験生だからこんなに好き放題はできない、と遊びに遊んで、食べに食べて、冬休みは終わった。スイーツを食べるたびに甘利君のことが脳裏に浮かんだ。
三学期初日、苺と杏と一緒に登校すると何やら二年生のフロア全体が騒がしい。また誰かに彼女か彼氏でもできたか、クリスマスを経ての不純異性交遊的な話題か、いずれにしても生徒会の仕事が増える事案だけは勘弁して欲しい。
そう思いながら自分の教室まで歩いていると、廊下を行きかう人たちから必ず視線を向けられる。生徒会長として人から見られることにはなれていたがそれとは違う好奇の目だ。予感を押し殺しながら教室に入ると、案の定教室内のすべての視線が私に向けられる。
その中の一人の男子生徒がスマホを片手に私のもとに駆け寄ってくる。
「甘利の彼女って、会長だったの?」
駆け寄ってきたのは隣のクラスの大栗君。私に見せているスマホの画面には、私と甘利君が『セ・デリシュー・シャテーニュ』で撮ったカップル限定パフェとのスリーショット写真が映っていた。
「冬休みに家族で姉ちゃんのバイト先に遊びに行ってさ、そこで見つけちゃったんだよ。ね、この写真会長だよな? 私服だけど間違いない」
大栗君は私の隣にいた苺と杏にも写真を見せる。二人とも「あー」という否定とは言えない反応をする。
そんなわけないでしょう? あなたのお姉さんが働いているお店は県外だと聞いていますが、仮にこれが私と甘利君だったとしてどうしてわざわざ遠く離れたお店に行くんですか? 近場でいいでしょう? 私ならこんな効率の悪いことはしません。これは他人の空似で、私ではありませんよ。
なんて氷結の女王モードで言えたら誤魔化すこともできたかもしれない。それができないのは、懐かしい写真を見てつい頬を緩ませてしまったからだ。
「結?」
写真を見たまま思い出に浸り、何も話さない私を心配して杏が顔を覗き込む。
「そういうのやめなよ。本人たちが公言してないのに、趣味悪い」
苺が私をかばって大栗君に文句を言う。
教室や廊下が何かの到来を察知したかのようにざわめく。
「お、甘利が来たぞ」
誰かが言うと、みんなの視線は教室の前を通りかかった甘利君へ向けられる。その視線に気がついた甘利君が私たちの教室を覗くが、まだ何が起こっているのか分からずきょとんとしている。
「甘利、会長と付き合ってるのは本当か?」
大栗君がスマホを片手に甘利君に近づく。甘利君は大栗君のスマホの画面と私の顔を交互に見て、小さく息を吐いた。やがてその視線はまっすぐ私に向けられる。とても真剣で何かを決意したような、情熱的な目だ。
教室内の全員が甘利君の口から放たれる言葉を待ち、息を呑んだ。一瞬が永遠にも感じられて、何かを期待する自分に気がつく。もしも甘利君がそのまま認めたら、嫌じゃない。
「大栗、お姉さんに伝えておいてくれ。この写真を撮った時の俺たちは付き合っていないのにカップル限定の商品を注文してしまった。申し訳ないって」
甘利君はそれだけ言うとその場を離れ自分の教室へと歩いて行ってしまった。
「お、おい。それだけかよ。この写真の時って、今はどうなんだよ?」
その背中を何名かの野次馬と一緒に大栗君が追いかける。その声に甘利君は振り返らず、何も答えない。引きとめるために大栗君の手が甘利君の方の上に置かれると、甘利君は足を止めてその手をねじりあげた。悲痛な声を出しながら大栗君は涙目になる。それを見ていた野次馬たちも甘利君がの迫力に押され、恐れおののく。
「もうすぐ朝のホームルームの時間ですよ。早く自分の教室に入って席に着いてください」
喧騒の中でも私の声はよく通る。私が冷静にいつもの生徒会長然として呼び掛けるとざわめきは消え、皆どこか釈然をしない表情のまま席に着き始めた。
甘利君は大栗君の質問に対し、肯定も否定もしなかった。ただ烈火の王としての威厳だけでこの場を乗り切ってしまった。だから私も氷結の女王として振る舞うことを選んだ。私が期待していた何かは起きなかったが、現状維持とはなった。普通の生徒会長や部長だったらこうはいかなかっただろう。作り上げられたイメージのある私たちだからこその芸当だ。
だがあくまでこの場を乗り切れたにすぎず、休み時間毎にクラスメイト達が詳細を尋ねてくる。甘利君があれ以上何も答えないと決めた以上、私の答えも無言だ。答えは甘利君と一緒に考えなければならない。
昼休み、スマホをいじっている暇もないくらい周りを取り囲まれていたので甘利君にメッセージを送れていないし、甘利君からも何も届いていない。だが、甘利君が答える前に私に向けた視線は、きっときちんと話をしようという合図だったと確信している。甘利君があんな中途半端な答えで終わるような人間ではないことは、これまでの交流の中でとっくに分かっている。
付きまとう群衆を振りほどき、生徒会室に一人立てこもってしばらくすると出入り口の扉を優しく丁寧に、けれども力強くノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
「失礼します」
生徒会室に入ってきた甘利君は、私が座っている椅子の正面に自分用の椅子が用意されていることに気がつき、バキバキと音をたてないようにゆっくりと腰かけた。
「ばれてしまったな。どうしたものか」
開口一番、本題から入る。
「このまま何も答えない、は無理だよな」
思い浮かんでいる選択肢はいくつかある。
まずはこのまま沈黙を守ること。私と甘利君の関係はこのままでいられるし、スイーツ大好きという秘密も知られることはない。だが色々な憶測が浮かび上がるだろうし、校内でも目立つ存在の私たちの疑惑だから、騒ぎはなかなか収まらないだろう。
次に、偶然その場で出会い、どうしてもカップル限定パフェが食べたかったという真実を話すこと。私と甘利君の関係はこのままだが、スイーツ大好き人間であることは知られてしまう。私はともかく甘利君の方は烈火の王としての威厳が失われる可能性がある。
実はいとことかはとことか嘘をつき、共通の親戚の家に遊びに行って近くに美味しそうなお店があったから行ってみたと言うこと。色々収まるがこの嘘は簡単にばれそうだ。
来年の文化祭はお菓子をテーマにするのでその取材のために行ったとすること。写真を撮ったのは少しでも経費を削減するため。甘利君を連れて行ったのは野球部の規則違反の罰として、さらにスイーツとは無縁そうな人でも楽しめるか確かめるため。いい線いっているが、来年の文化祭が非常に面倒臭くなりそうなので却下。
色々考えた末、私としては私のスイーツ爆食い趣味は最悪ばれてもいいという結論に至った。恥ずかしいけれど、そうすれば解決できそうな案が一つだけある。騒ぎを収め、甘利君の威厳も守れる。そして私にとっても恥ずかしさを上回るくらい幸せなこと。
「甘利君」
「糖塚さん」
悩みぬいて決意した私と、同じく思索にふけていた甘利君が互いの名前を呼ぶのはほぼ同時だった。甘利君は珍しく緊張した面持ちをしている。
「さ、先にどうぞ」
「あ、ああ、ありがとう。えっと、実は俺、十月に大栗から店に行ったことを言われた時から今回の件は近いうちにバレるって予感していたんだ。大栗がお姉さんと仲が良くて、家族でよくお姉さんの所に遊びに行っているって知っていたから」
「え、そうなの? でもなんかそこまで焦ったりしているようには見えなかったけど」
「その時にはもう決めていたんだ」
「決めるって、何を?」
「バレたらちゃんと言おうって。バレるまでは心の準備期間って考えていた」
改めて甘利君にまっすぐに見つめられる。瞳はかすかに揺れていて、いつもの威厳がある姿というよりは幾分か年相応の男の子らしさが見える。
「あの日、家に帰ったあとずっとドキドキしていた。その日は共通の趣味を持って秘密を共有できる仲間ができたからだと思っていたけど、次の日に練習を見に来てくれた糖塚さんを見つけた時、すごく嬉しかった。なんでだろうって考えた時……」
「ま、待って」
椅子から立ち上がって両手で甘利君を制する。深呼吸をして気持ちを整え、この先を聞く準備をした。
「続きをどうぞ」
甘利君も大きく深呼吸する。
不思議な感覚だ。照れくさくてむず痒くて、早く続きを聞きたいのに、この瞬間が永遠になればいいとも思う。
「練習のあと気がついた。俺、糖塚さんのことを好きになっていたんだ」
それはまるでとても美味しいスイーツを食べた時のようで、緩む頬ととろけそうになる気持ちをなんとか持ちこたえさせる。もっと食べたい、もっと聞きたい。
「えっと、私のどの辺が好き?」
それは後にしてさっさと自分の気持ちを言えよ、と心の中で自分で自分にツッコむ。だがこの強欲さは今に始まったことではないので仕方がない。
「仕事熱心なところとか、冷たいように見えるけどみんなのことをよく見てよく考えてくれているところとか、もちろん生徒会長じゃない時の素の性格とか顔や声も好きだ。でも一番好きだと思ったのはスイーツを美味しそうに食べるところ。とても幸せそうで、可愛くて、見ている俺も幸せになった」
恥ずかしそうに顔を赤くしているくせにすらすらと言い切った。
聞かなければよかった。これでは甘利君のことを好きになりすぎてしまう。
甘利君が「ごほん」と咳払いをして仕切り直す。
私の気持ちはもう止まらない。
「今回の件を収めるために、俺から二つ提案があるんだ。どちらかを選んでもらえたらって思う。一つは俺が誰にも見られないように糖塚さんを遠くの店に呼び出して告白したけど振られたことにする。写真は最後の思い出に撮ってもらったとすればいい。もう一つは――」
「本当に付き合う」
このまま甘利君にしゃべらせていたら嬉しくてどうにかなってしまいそうなので主導権を奪うことにした。
言葉を奪われた衝撃に甘利君の目が見開かれる。
「私も甘利君のことが好き。チームのために一生懸命なところも、本当はスイーツが好きなところも、私のことをちゃんと見てくれてるところも全部」
「え、あ、あの」
私の返答は予期していなかったものだったのか、甘利君は慌てふためいている。普段はものすごく大人っぽいのにこんな風に時折見せる年相応の面も好きだ。
甘利君の手を取ると、彼も椅子から立ち上がった。目を合わせたそうで合わせられない彼をじっと見つめてやる。見下ろされているはずなのに全く威圧感がない。
「私がスイーツ大好きだから甘利君を誘ったことにしよう」
「でも……」
「いいの。私の方はたいした実害はないし、野球部が頑張ってるところをもっと見たいし。代わりに色んなお店に付き合ってよ。気になるお店いっぱいあるんだけど、親に遠すぎて一人じゃ駄目だって言われてるところもあるから。だから……」
しっかりと目が合うまで待つ。このわずかな時間でさえも愛おしい。
「私の彼氏になってください」
そう言った瞬間、おろおろとしていた甘利君の表情は真剣なものに変わる。
「うん。必ず幸せにする」
決めるところをきっちり決めるそういうところ、本当に好きだ。
そして昼休みの終わり際、自分の教室に戻った甘利君は大栗君やその他大勢の生徒に宣言したらしい。
「俺は糖塚さんと付き合っている」
たったそれだけで隣の教室から歓声が沸き上がり、その波は私の教室にもすぐに到達する。私に色々訊こうとしていた人たちもその知らせを聞いて満足そうに祝福して去っていった。
結局みんなが知りたかったのは私と甘利君の関係だけで、どうしてわざわざ県外の洋菓子屋さんで会っていたのかを知りたい人はほとんどいなかったようだ。つまり私のスイーツ狂は特に明かすことはなく、烈火の王と氷結の女王が交際しているという事実が認知されただけで今回の一件は幕を閉じた。
ちなみに苺と杏は生徒会室に行く私の後ろをこっそりつけてきており、私と甘利君の会話を生徒会室の扉の外でこっそり聞いていたらしい。甘利君の声はあまり聞こえなかったようだが、私の声は人々の喧騒だけでなく、扉さえも貫通するらしく筒抜けだったようだ。
「さー学校も終わったし今日は生徒会の仕事もないし、美味しいスイーツでも食べながら詳しいことを聞かせてもらおうかなー」
「お祝いに私と杏のおごりだから好きな物頼んでよ。どこ行く? クレープ? ケーキ?」
放課後、苺と杏に両腕を掴まれながら昇降口を出てグラウンドの脇を通り校門へ向かう。
二人にはちゃんと話してやろうか。そしておごりをいいことに爆食いしてやろう。
そんなことを考えながら野球部が練習開始の準備をしているグラウンドを見て自分の彼氏を探すと、遠くの方で用具を運んでいるのが見えた。手でも振ってやろうかと思ったが、両腕を掴まれているので視線だけ向けてやる。
目が合った、気がする。彼も手を振ったり声を出したりはしない。部活のときは部活に集中、それこそ私が好きになった彼なのだから。
「あ、会長、お疲れ様です!」
「お疲れ様です!」
「お疲れ様です!」
フェンスをはさんで近くにいた一年生と思われる野球部員が私に気がつくと急に背筋を伸ばし、はきはきとした声で挨拶をしてきた。今までそんなことされたことはない。いじりやおふざけの空気は全く感じられず、敬愛する烈火の王の彼女として丁重に扱おうとしてくれているのだろう。
「氷結の女王じゃなくて王妃だもんね」
苺がにやにやしながら呟く。
王妃、良い響きだ。
「無駄口叩いていないで早く練習の準備を進めたらどうですか? 部長がせっかく効率よく練習しようといろいろ工夫しているんです。その頑張りを無駄にしないでください」
一年生部員たちは何故だか嬉しそうに笑いながら深く礼をして、準備に戻っていった。
「色々な人からうるさいと苦情が来ています。校舎内で活動する際はもう少し声を抑えてお静かにお願いします」
大きな掛け声を出しながら階段を昇り降りする野球部員たちに対し、他の部活動や図書室で勉強している人たちから苦情が来ていたため、生徒会長として私が直々に注意をしに来たのだ。部長の甘利君は階段を昇って上の階にいるようで、一階には私と一年生数人しかいない。
甘利君の言っていた通り、しばらくすると甘利君が遠距離恋愛中の彼女に会いに行っていただけという話に落ち着き、完全に話題としては沈静化していた。
そのため甘利君の威厳もそのまま、生徒会のみんなは怖がって野球部への連絡や対応は私がすべて一人で請け負っている。話してみると全然そんなことはないし、昨日だってクリスマスにお勧めのスイーツの情報を交換し合ったというのに。
「どうした?」
一年生が昇ってこないことを不審に思った甘利君が怪訝な表情で階段を降りてくる。
私を視界に入れてもたじろぐことはなく堂々と近づいてくる彼は、昨日の夜にブッシュ・ド・ノエルの美味しいお店を紹介してくれた。最寄駅から百五十キロメートルは離れている上にクリスマスイブの日は平日だったため、さすがに遠征は無理と判断し取り寄せ予約をしたがぎりぎり間に合った。
「実は……」
一年生部員が私から注意を受けたことを甘利君に説明する。
「配慮が足りなくて申し訳ない。以後気をつけます」
丁寧な口調で四十五度ほど頭を下げる彼は、私が教えたお店のシュトーレンを予約しており、イブに学校が終わったあと取りに行くらしい。学校から五キロほどしか離れていないので知り合いに遭遇する可能性もあるのではないかと尋ねたが、その時は彼女のためと誤魔化すつもりのようだ。
「ふ、ふふっ……分かってくれればいいです。では頑張ってください」
昨日の夜に電話した時の楽しそうな雰囲気とのギャップについ吹き出してしまった。野球部員たちにおかしな目で見られないうちにその場を足早に立ち去る。実は耳も良い私には野球部員たちの会話が聞こえてくる。
「頑張ってくださいだってよ。ああいう一見冷たそうな人に応援されるとちょっと嬉しいよな」
「でも会長、笑ってたよな」
「甘利さんに頭を下げさせることが快感になってるって噂は本当だったんだ」
「おい、余計なことを言ってないで練習再開だ」
「あ、はい! すみません!」
「返事は静かに」
生徒会長として野球部部長として私たちの生活は今まで通りの平穏そのものだった。
クリスマスイブは学校の終業式が午前中で終わる。午後は苺と杏とカラオケでささやかなパーティーをして、夜には甘利君おすすめのブッシュ・ド・ノエルを頂き、甘利君と電話で感想の交換会をした。年末年始は家族旅行と称してとても日帰りできそうもないところにある有名スイーツ店まで連れて行ってもらい、それ以外の日は苺や杏とたくさん遊んだ。
来年の今頃は受験生だからこんなに好き放題はできない、と遊びに遊んで、食べに食べて、冬休みは終わった。スイーツを食べるたびに甘利君のことが脳裏に浮かんだ。
三学期初日、苺と杏と一緒に登校すると何やら二年生のフロア全体が騒がしい。また誰かに彼女か彼氏でもできたか、クリスマスを経ての不純異性交遊的な話題か、いずれにしても生徒会の仕事が増える事案だけは勘弁して欲しい。
そう思いながら自分の教室まで歩いていると、廊下を行きかう人たちから必ず視線を向けられる。生徒会長として人から見られることにはなれていたがそれとは違う好奇の目だ。予感を押し殺しながら教室に入ると、案の定教室内のすべての視線が私に向けられる。
その中の一人の男子生徒がスマホを片手に私のもとに駆け寄ってくる。
「甘利の彼女って、会長だったの?」
駆け寄ってきたのは隣のクラスの大栗君。私に見せているスマホの画面には、私と甘利君が『セ・デリシュー・シャテーニュ』で撮ったカップル限定パフェとのスリーショット写真が映っていた。
「冬休みに家族で姉ちゃんのバイト先に遊びに行ってさ、そこで見つけちゃったんだよ。ね、この写真会長だよな? 私服だけど間違いない」
大栗君は私の隣にいた苺と杏にも写真を見せる。二人とも「あー」という否定とは言えない反応をする。
そんなわけないでしょう? あなたのお姉さんが働いているお店は県外だと聞いていますが、仮にこれが私と甘利君だったとしてどうしてわざわざ遠く離れたお店に行くんですか? 近場でいいでしょう? 私ならこんな効率の悪いことはしません。これは他人の空似で、私ではありませんよ。
なんて氷結の女王モードで言えたら誤魔化すこともできたかもしれない。それができないのは、懐かしい写真を見てつい頬を緩ませてしまったからだ。
「結?」
写真を見たまま思い出に浸り、何も話さない私を心配して杏が顔を覗き込む。
「そういうのやめなよ。本人たちが公言してないのに、趣味悪い」
苺が私をかばって大栗君に文句を言う。
教室や廊下が何かの到来を察知したかのようにざわめく。
「お、甘利が来たぞ」
誰かが言うと、みんなの視線は教室の前を通りかかった甘利君へ向けられる。その視線に気がついた甘利君が私たちの教室を覗くが、まだ何が起こっているのか分からずきょとんとしている。
「甘利、会長と付き合ってるのは本当か?」
大栗君がスマホを片手に甘利君に近づく。甘利君は大栗君のスマホの画面と私の顔を交互に見て、小さく息を吐いた。やがてその視線はまっすぐ私に向けられる。とても真剣で何かを決意したような、情熱的な目だ。
教室内の全員が甘利君の口から放たれる言葉を待ち、息を呑んだ。一瞬が永遠にも感じられて、何かを期待する自分に気がつく。もしも甘利君がそのまま認めたら、嫌じゃない。
「大栗、お姉さんに伝えておいてくれ。この写真を撮った時の俺たちは付き合っていないのにカップル限定の商品を注文してしまった。申し訳ないって」
甘利君はそれだけ言うとその場を離れ自分の教室へと歩いて行ってしまった。
「お、おい。それだけかよ。この写真の時って、今はどうなんだよ?」
その背中を何名かの野次馬と一緒に大栗君が追いかける。その声に甘利君は振り返らず、何も答えない。引きとめるために大栗君の手が甘利君の方の上に置かれると、甘利君は足を止めてその手をねじりあげた。悲痛な声を出しながら大栗君は涙目になる。それを見ていた野次馬たちも甘利君がの迫力に押され、恐れおののく。
「もうすぐ朝のホームルームの時間ですよ。早く自分の教室に入って席に着いてください」
喧騒の中でも私の声はよく通る。私が冷静にいつもの生徒会長然として呼び掛けるとざわめきは消え、皆どこか釈然をしない表情のまま席に着き始めた。
甘利君は大栗君の質問に対し、肯定も否定もしなかった。ただ烈火の王としての威厳だけでこの場を乗り切ってしまった。だから私も氷結の女王として振る舞うことを選んだ。私が期待していた何かは起きなかったが、現状維持とはなった。普通の生徒会長や部長だったらこうはいかなかっただろう。作り上げられたイメージのある私たちだからこその芸当だ。
だがあくまでこの場を乗り切れたにすぎず、休み時間毎にクラスメイト達が詳細を尋ねてくる。甘利君があれ以上何も答えないと決めた以上、私の答えも無言だ。答えは甘利君と一緒に考えなければならない。
昼休み、スマホをいじっている暇もないくらい周りを取り囲まれていたので甘利君にメッセージを送れていないし、甘利君からも何も届いていない。だが、甘利君が答える前に私に向けた視線は、きっときちんと話をしようという合図だったと確信している。甘利君があんな中途半端な答えで終わるような人間ではないことは、これまでの交流の中でとっくに分かっている。
付きまとう群衆を振りほどき、生徒会室に一人立てこもってしばらくすると出入り口の扉を優しく丁寧に、けれども力強くノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
「失礼します」
生徒会室に入ってきた甘利君は、私が座っている椅子の正面に自分用の椅子が用意されていることに気がつき、バキバキと音をたてないようにゆっくりと腰かけた。
「ばれてしまったな。どうしたものか」
開口一番、本題から入る。
「このまま何も答えない、は無理だよな」
思い浮かんでいる選択肢はいくつかある。
まずはこのまま沈黙を守ること。私と甘利君の関係はこのままでいられるし、スイーツ大好きという秘密も知られることはない。だが色々な憶測が浮かび上がるだろうし、校内でも目立つ存在の私たちの疑惑だから、騒ぎはなかなか収まらないだろう。
次に、偶然その場で出会い、どうしてもカップル限定パフェが食べたかったという真実を話すこと。私と甘利君の関係はこのままだが、スイーツ大好き人間であることは知られてしまう。私はともかく甘利君の方は烈火の王としての威厳が失われる可能性がある。
実はいとことかはとことか嘘をつき、共通の親戚の家に遊びに行って近くに美味しそうなお店があったから行ってみたと言うこと。色々収まるがこの嘘は簡単にばれそうだ。
来年の文化祭はお菓子をテーマにするのでその取材のために行ったとすること。写真を撮ったのは少しでも経費を削減するため。甘利君を連れて行ったのは野球部の規則違反の罰として、さらにスイーツとは無縁そうな人でも楽しめるか確かめるため。いい線いっているが、来年の文化祭が非常に面倒臭くなりそうなので却下。
色々考えた末、私としては私のスイーツ爆食い趣味は最悪ばれてもいいという結論に至った。恥ずかしいけれど、そうすれば解決できそうな案が一つだけある。騒ぎを収め、甘利君の威厳も守れる。そして私にとっても恥ずかしさを上回るくらい幸せなこと。
「甘利君」
「糖塚さん」
悩みぬいて決意した私と、同じく思索にふけていた甘利君が互いの名前を呼ぶのはほぼ同時だった。甘利君は珍しく緊張した面持ちをしている。
「さ、先にどうぞ」
「あ、ああ、ありがとう。えっと、実は俺、十月に大栗から店に行ったことを言われた時から今回の件は近いうちにバレるって予感していたんだ。大栗がお姉さんと仲が良くて、家族でよくお姉さんの所に遊びに行っているって知っていたから」
「え、そうなの? でもなんかそこまで焦ったりしているようには見えなかったけど」
「その時にはもう決めていたんだ」
「決めるって、何を?」
「バレたらちゃんと言おうって。バレるまでは心の準備期間って考えていた」
改めて甘利君にまっすぐに見つめられる。瞳はかすかに揺れていて、いつもの威厳がある姿というよりは幾分か年相応の男の子らしさが見える。
「あの日、家に帰ったあとずっとドキドキしていた。その日は共通の趣味を持って秘密を共有できる仲間ができたからだと思っていたけど、次の日に練習を見に来てくれた糖塚さんを見つけた時、すごく嬉しかった。なんでだろうって考えた時……」
「ま、待って」
椅子から立ち上がって両手で甘利君を制する。深呼吸をして気持ちを整え、この先を聞く準備をした。
「続きをどうぞ」
甘利君も大きく深呼吸する。
不思議な感覚だ。照れくさくてむず痒くて、早く続きを聞きたいのに、この瞬間が永遠になればいいとも思う。
「練習のあと気がついた。俺、糖塚さんのことを好きになっていたんだ」
それはまるでとても美味しいスイーツを食べた時のようで、緩む頬ととろけそうになる気持ちをなんとか持ちこたえさせる。もっと食べたい、もっと聞きたい。
「えっと、私のどの辺が好き?」
それは後にしてさっさと自分の気持ちを言えよ、と心の中で自分で自分にツッコむ。だがこの強欲さは今に始まったことではないので仕方がない。
「仕事熱心なところとか、冷たいように見えるけどみんなのことをよく見てよく考えてくれているところとか、もちろん生徒会長じゃない時の素の性格とか顔や声も好きだ。でも一番好きだと思ったのはスイーツを美味しそうに食べるところ。とても幸せそうで、可愛くて、見ている俺も幸せになった」
恥ずかしそうに顔を赤くしているくせにすらすらと言い切った。
聞かなければよかった。これでは甘利君のことを好きになりすぎてしまう。
甘利君が「ごほん」と咳払いをして仕切り直す。
私の気持ちはもう止まらない。
「今回の件を収めるために、俺から二つ提案があるんだ。どちらかを選んでもらえたらって思う。一つは俺が誰にも見られないように糖塚さんを遠くの店に呼び出して告白したけど振られたことにする。写真は最後の思い出に撮ってもらったとすればいい。もう一つは――」
「本当に付き合う」
このまま甘利君にしゃべらせていたら嬉しくてどうにかなってしまいそうなので主導権を奪うことにした。
言葉を奪われた衝撃に甘利君の目が見開かれる。
「私も甘利君のことが好き。チームのために一生懸命なところも、本当はスイーツが好きなところも、私のことをちゃんと見てくれてるところも全部」
「え、あ、あの」
私の返答は予期していなかったものだったのか、甘利君は慌てふためいている。普段はものすごく大人っぽいのにこんな風に時折見せる年相応の面も好きだ。
甘利君の手を取ると、彼も椅子から立ち上がった。目を合わせたそうで合わせられない彼をじっと見つめてやる。見下ろされているはずなのに全く威圧感がない。
「私がスイーツ大好きだから甘利君を誘ったことにしよう」
「でも……」
「いいの。私の方はたいした実害はないし、野球部が頑張ってるところをもっと見たいし。代わりに色んなお店に付き合ってよ。気になるお店いっぱいあるんだけど、親に遠すぎて一人じゃ駄目だって言われてるところもあるから。だから……」
しっかりと目が合うまで待つ。このわずかな時間でさえも愛おしい。
「私の彼氏になってください」
そう言った瞬間、おろおろとしていた甘利君の表情は真剣なものに変わる。
「うん。必ず幸せにする」
決めるところをきっちり決めるそういうところ、本当に好きだ。
そして昼休みの終わり際、自分の教室に戻った甘利君は大栗君やその他大勢の生徒に宣言したらしい。
「俺は糖塚さんと付き合っている」
たったそれだけで隣の教室から歓声が沸き上がり、その波は私の教室にもすぐに到達する。私に色々訊こうとしていた人たちもその知らせを聞いて満足そうに祝福して去っていった。
結局みんなが知りたかったのは私と甘利君の関係だけで、どうしてわざわざ県外の洋菓子屋さんで会っていたのかを知りたい人はほとんどいなかったようだ。つまり私のスイーツ狂は特に明かすことはなく、烈火の王と氷結の女王が交際しているという事実が認知されただけで今回の一件は幕を閉じた。
ちなみに苺と杏は生徒会室に行く私の後ろをこっそりつけてきており、私と甘利君の会話を生徒会室の扉の外でこっそり聞いていたらしい。甘利君の声はあまり聞こえなかったようだが、私の声は人々の喧騒だけでなく、扉さえも貫通するらしく筒抜けだったようだ。
「さー学校も終わったし今日は生徒会の仕事もないし、美味しいスイーツでも食べながら詳しいことを聞かせてもらおうかなー」
「お祝いに私と杏のおごりだから好きな物頼んでよ。どこ行く? クレープ? ケーキ?」
放課後、苺と杏に両腕を掴まれながら昇降口を出てグラウンドの脇を通り校門へ向かう。
二人にはちゃんと話してやろうか。そしておごりをいいことに爆食いしてやろう。
そんなことを考えながら野球部が練習開始の準備をしているグラウンドを見て自分の彼氏を探すと、遠くの方で用具を運んでいるのが見えた。手でも振ってやろうかと思ったが、両腕を掴まれているので視線だけ向けてやる。
目が合った、気がする。彼も手を振ったり声を出したりはしない。部活のときは部活に集中、それこそ私が好きになった彼なのだから。
「あ、会長、お疲れ様です!」
「お疲れ様です!」
「お疲れ様です!」
フェンスをはさんで近くにいた一年生と思われる野球部員が私に気がつくと急に背筋を伸ばし、はきはきとした声で挨拶をしてきた。今までそんなことされたことはない。いじりやおふざけの空気は全く感じられず、敬愛する烈火の王の彼女として丁重に扱おうとしてくれているのだろう。
「氷結の女王じゃなくて王妃だもんね」
苺がにやにやしながら呟く。
王妃、良い響きだ。
「無駄口叩いていないで早く練習の準備を進めたらどうですか? 部長がせっかく効率よく練習しようといろいろ工夫しているんです。その頑張りを無駄にしないでください」
一年生部員たちは何故だか嬉しそうに笑いながら深く礼をして、準備に戻っていった。

