お店の駐輪場に置いていた自転車を押しながら、甘利君は私をお店の最寄りのバス停まで送ってくれた。もともと寡黙な甘利君だが、写真を撮ってからはさらに口数が減っており、駅に向かうバスが来ると「約束は守るよ」という言葉を残して彼は自転車に乗って去って行った。
自宅に帰り着き、自室のベッドに寝ころんでスマホを取り出す。「これからも美味しいスイーツの情報を交換しよう」という体で半ば無理やり交換した甘利君の連絡先を見つめると、今まで感じたことのない感情が胸の中に渦巻いているのが自覚できた。もやに囲まれてその感情の正体は自分でも知ることができない。氷結の女王的には氷に囲われてと言った方がそれっぽいだろうか。
氷のように冷たい私のことは学校のみんなが知っている。しっかり者で頼りになる私は生徒会のみんなが知っているし、それ以外の生徒も多くが知っている。怠惰で面倒くさがりでうっかり者の私のことは家族と苺と杏が知っている。スイーツのためならなりふり構わない私のことは家族が知っている。甘利君には全部知られた。
何もなかったことにする約束だ。月曜日からは今まで通り、私は氷結の女王として生徒会長を、甘利君は烈火の王として部長を、ただそれぞれの務めを果たすだけ。変わったのはスイーツ好きの秘密を守りつつ、情報交換をするということ。それだけだ。
それなのに、翌日の私は野球部が練習している学校のグラウンドに足を運んでいた。昨日の夜はお母さんが使わなくなったランニングマシンで、日課となっている英語のリスニング用音声を聞きながらの一時間ランニングをしても心の氷は解けない。気分を変えたくて外に出ると自然に足が学校に向かっていた。
「来週の練習試合は夏の大会でうちと同じベスト4だった学校だ。新チームになってからは初めての試合、来年も今年と同等以上の結果を出せるかの大事な試金石になる。公式戦のつもりで勝ちに行くぞ」
グラウンドの周りを囲む巨大なフェンスの支柱の陰に隠れて野球部の様子を窺うと、ホームベースのあたりで円になってミーティングをしている野球部員たちの真ん中で甘利君が声を張り上げている。
守備練習が始まると、甘利君は人一倍声を出して周りを鼓舞していた。そして自身もあの巨体にキャッチャーの防具をつけているとは思えない俊敏な動きで走り、跳び、投げている。そのプレー一つ一つで部員たちが沸く。掛け声一つで士気が高揚している。日本代表の試合を野球好きのお父さんの解説付きで見た程度の知識しかない私でも、彼の存在がチームの要であり、起爆剤であることは明白だった。
三時間ほどの練習、そしてストレッチと片付けなどを含めてきっかり三時間半。規則通りの時間で野球部の活動は終了した。
「日曜も部活の視察なんて会長はさすがだな」
「金曜に塩尻が言ってたけど、野球部は目をつけられてるらしいな」
「こえー。怒られないように早く片付けして帰ろうぜ」
「でもちょっとだけ冷たい目で罵られたい気持ちもあるっす」
すぐそばのテニスコートで練習を終えようとしていた男子テニス部員たちの声が聞こえる。そういえば今日誰かに姿を見られたらということを考えていなかったが、普段の氷結の女王としての振る舞いのおかげでいいように解釈してもらえたようだ。変な一年生もいるようだが。
結局分かったのは、野球部での甘利君はまさに王という呼び名がふさわしいほどに、威厳があってみんなから慕われていて、男らしくて、カッコいいということだけだった。
月曜朝の始業前、金曜日に倉庫整理を任せたお礼を言いに隣のクラスの桃井さんのもとを訪れた。甘利君も桃井さんと同じクラスなので少し緊張したが今はいないようだ。
「桃井ちゃん、金曜はありがとね。倉庫の方、全部やってもらっちゃって」
「いやいやーいいよ。部長たちと話しつける方が私にはきついし、全然平気。会長もお疲れ様だね」
「そう言ってもらえるとありがたいよ。ところで……」
桃井さんの席がある教室の後方にいた私は教室の前方に目を向ける。教室に入った時から男子生徒たちが群がって何やら盛り上がっていた。
「あれは何の盛り上がりか分かる?」
ただ盛り上がっているだけなら良いが、生徒会長として余計なトラブルの芽は摘んでおかなければならない。得体の知れないものは確認する癖がついてしまっている。面倒くさいことは起きる前に対処したい。
「あーあれはね。甘利君に彼女がいるんじゃないかって男子たちが騒いで質問攻めにしてるの。あの集まりの真ん中が甘利君の席」
「は?」
甘利君、彼女。思考がフリーズしてしまった。
「会長?」
「はっ」
桃井さんに体を揺らされて目が覚める。
一昨日のことがばれた? 知り合いがお店にいた? いや、隣の県で百キロ以上も離れているんだからそんな偶然ありえない。そもそも学校関係者なら私のことも知っているはずだから私に質問責めの波がこないのはおかしい。ということは私の件とはまた別の件か。それはそれでもやっとする。
「えっと、桃井ちゃんはどこまで知ってるの?」
「んー、男子たちの話が聞こえてきた程度しか知らないんだけど、うちのクラスに大栗君って人がいるでしょ? 二つ上のお姉さんが去年うちを卒業して今は大学生なんだけど、一昨日の土曜日にバイト先の洋菓子屋さんに甘利君らしき人が女の子と一緒に来たって言ってたらしいよ。さすが甘利君だよね。二つ上の先輩にも名前と顔が知られてるなんて」
大栗。あのにこにこしていて写真を撮ってくれた店員さんか。去年は三年生ということは有名人の甘利君のことは知っていても当時は一般生徒会役員だった私のことは知らないだろう。
「ま、まあ去年から有名だったしね。そっかそっか、わざわざ遠くのお店でデートなんて、遠距離恋愛で会いに行ってるのかな」
「え、そうなの? どこのお店かなんて聞いてないけど。てっきりこの辺のお店かと思ってた」
「あ、いや、その、大栗さんって県外の大学に進学してるはずだからそうかなって思って。わざわざ地元に帰ってきてバイトはしないでしょ? 私、生徒会長だから卒業生の進路とか詳しいんだよね」
「へえーさすが会長。そんなことまで頭に入れてるんだ」
そんなわけない。桃井さんが細かいことを気にしない性格で助かった。
「ま、まあね。それで、相手の子はどんな子とかの情報はあるの?」
「んーと、彼女がめっちゃ食べてたってことと、二人とも付き合いたてなのかまだまだぎこちなくて可愛いカップルだったことくらい、かな。スイーツ好きの彼女に合わせて甘利君も立派だよね。スポーツやってる人ってあんまりそういうの食べなさそうだし」
「そっかー、そうだねー」
そういう解釈なら甘利君の威厳には傷はつかない。不幸中の幸いと言ったところだが、もしも相手が私だったとばれてしまった場合いったいどう説明するべきか。いや、どんな説明をしたところで弁明にはならない。カップル限定メニューを注文している以上、言い逃れはできない。証言も証拠も存在するのだから、嘘をついてもばれてしまう。うかつすぎた。
私は己の食に対する強欲さを呪った。
「甘利君は何て言ってるの?」
「男子たちは相手の子について訊いてるみたいだけど答えてないんじゃないかな。まあそもそも甘利君の声は周りの男子がうるさくて聞こえてこないけど」
「そっか……」
「気になるの?」
「え? いや、まあ、有名人だしね」
「生徒会室に呼び出して訊いちゃう? 真相を解明しないと学校の秩序が乱れる、とか不純異性交遊の疑い、とか適当な理由つけて」
「それはさすがに……」
理由はともかく、甘利君とは直接話をして今後の対応を確認しておかなければならないだろう。私は甘利君のスマホに昼休みに落ち合う旨のメッセージを送り、烈火の王の色恋沙汰に燃え上がる教室をあとにした。
昼休み、いつも一緒にお昼を食べていた苺と杏には適当に言い訳をして生徒会室へ向かう。私は職員室で鍵を借りる手間があったため、甘利君の方が先に着いていた。一昨日の少し気が緩んだ表情とも、昨日の熱い表情とも違って落ち着きのあるとても大人っぽい表情をしながら、廊下の壁に貼られた掲示物を眺めている。私に気がつくと少し申し訳なさそうに会釈をしたので、私も会釈を返しながら生徒会室の鍵を開けて中に入った。
その直後、甘利君は会釈を通り過ぎて大きく頭を下げた。
「ごめん、騒ぎになってしまって」
朝は甘利君のクラスだけだった噂は昼休みまでに隣の私のクラスどころか二年生全体にまで広まっている。だがそれは甘利君の責任ではない。
「そんな、謝らないでよ。甘利君のクラスの子から聞いたけど、卒業生がバイトしていたなんてどうしようもないし、しょうがないよ。むしろ私がパフェを食べたいなんて言ったから甘利君に彼女がいるみたいな話になっちゃって……ごめん。パフェ食べたさに暴走しちゃったというか、誰かと一緒に目いっぱい食べたのは初めてで、楽しくて」
私もしばらくの間頭を下げた。こういう思慮の浅い部分や欲に忠実な部分を見てお母さんは私のことを心配しているのかと自覚する。
私たちはバキバキと変な音のするパイプ椅子に腰を下ろして詳しい話をすることにした。甘利君が座っても耐えているあたり、まだまだ交換するには早い。音に驚いて自分のお尻の下のパイプ椅子を心配そうに観察する甘利君が少し可愛い。
内容はほぼ桃井さんから聞いた通り。相手が私であることは誰にも知られていないようだが、一緒にいた子が彼女であることは認めざるを得なかったようだ。
「もちろん一緒にいたのが糖塚さんであることは言っていない。だからこの件は俺が何も話さずにいればそのうちみんな飽きて終わる話だと思う。だから安心して今まで通りでいよう」
「今まで通り……」
「生徒会長と部長としてそれぞれ頑張って、お互いの立場上たまに話をする。あ、でも、スイーツの情報交換だけはこっそりしてもらえるとお互いのためになるんじゃないかって思う」
そうだ。私もそう考えていた。でも、今こうやって甘利君を前にするとそれがとてももったいないように思える。
「でも甘利君はいいの? 彼女がいるとか、う、嘘ついて。周りから嫉妬されたり、幻滅されたりしない?」
「王なら彼女の一人くらいいないと逆に示しがつかないよ」
「何それ、変なの」
「冗談だよ」
「冗談って、そんなこと言うキャラじゃなかったでしょ」
甘利君は控えめに笑みをこぼしている。私の質問の答えにはなっていないが、心配するなという意味だろう。王らしい寛大な心と懐の広さに私もつられて笑ってしまった。
金曜日、同じ場所で受けていた威圧感が今日は安心感へと変わっている。話がついてしまった以上この場を離れるのが自然だが足が重たい。
「そうだ、この件とは関係ないけど一つ訊いてもいい?」
名残惜しくも生徒会室を出ようとした私を甘利君が呼び止める。不思議と心が跳ねて、すぐさま甘利君の方に振り返った。
「昨日、野球部の練習を見に来ていたよね」
「え? 気づいてたの?」
「そりゃあ始めから終わりまでずっと見ていたし。部のみんなは『時間を守ってるか監視に来たんだ』なんて言っていたけど、やっぱりそうだった?」
「いや、その、偶然近くを通りかかったら練習してたから……」
「制服で?」
我ながら苦しい言い訳だった。休日に学校以外へ出かけるときに制服を着る文化はうちの学校にはないし、仮に通りかかったからと言っても三時間以上見ているのはおかしい。そもそも練習を見に行った本当の理由は甘利君のことを考えたときに抱くよく分からない気持ちの正体を確かめるためであり、そんなことを正直に話すわけにはいかない。監視と言っておけばよかった。
「そ、それより正直なところどう思ってるの? 部活の時間が制限されて、違反すると注意されたりすることについて」
話題を変えて練習を見ていた理由をごまかすためでもあり、本当に訊いてみたいことでもあった。生徒会長として決められた規則通りに各部活動に通達や注意をしているものの、部活動をやっている生徒の反応が正直良くないことはひしひしと伝わってきている。氷の仮面を被っていなければ、苺や杏が一緒にいてくれなければ、へこたれてしまいそうなほどに。
「正直なところか。それはもっと練習したいと思っているよ。部活をやっている人は基本的にその競技とか活動が好きでやっているわけだし、どの部もそれぞれ目標がある。目標を達成するためには時間が足りない」
「じゃあどうして金曜日は簡単に引き下がったの?」
「俺がよく自主練してるのは偶然見ることはありえるけど、他の部員が一緒にやったり、監督が見てくれたりとかはそこまでの頻度ではないから一度や二度練習を見た程度では気がつかないはずなんだ」
確かに見ていた。二年生になってすぐ、どうせ選挙は候補者一人の信任投票になるからということで私は生徒会長に内々定した。この年から部活動の活動時間が平日二時間、休日三時間、平日休日それぞれ一日以上の休養日を設けることが学校の規則として定められており、前生徒会長とともに部活動の活動実態の調査を行っていた。
「七月に糖塚さんが生徒会長になってすぐ、部活の活動時間が三十分増えた。監督は新しい生徒会長が校長や教頭と交渉してくれたって言っていた。頑張っている部活があるからもう少しやらせてあげてはどうですかって、いつもの冷静な感じだけど少し熱がこもっていたって言っていたな」
規則に従順な私の気まぐれだ。一人で頑張り続ける甘利君や甘利君に呼応して頑張り始めた野球部員を見て、もう少しやらせてあげてもいいのではないかと思っただけだ。今年から始まった規則で試行段階だったため、悪影響があればすぐに元に戻すという条件付きで活動時間の三十分延長が認められた。私が直談判したことは先生たちと生徒会役員しか知らない。
「たいしたことじゃないよ」
「とても恥ずかしいことで、申し訳ないことなんだけど、この前の金曜までそのことをちゃんと考えていなかった。糖塚さんのこと、決まりに厳しい冷たい人だと思っていた。でもあの時、糖塚さんの言葉を聞いて糖塚さんが野球部の練習を何度も見に来ることと、活動時間が糖塚さんのおかげで伸びたことが繋がったんだ。勝手に、俺たちの活動を見て交渉してくれたのかなって思って、だとしたら校長や教頭と交渉してくれた糖塚さんを無下にはできないって思った」
「だからすぐに引き下がったんだ……」
「うん。だからごめん。自主練だって学校でやるなら部の活動だって分かっていたけど、自分に都合よく解釈していた。これからはもっと練習を工夫して、時間内に良い練習ができるようにするよ」
「謝ることじゃないよ。私だって生徒会長っていう立場があるからうるさく言ってるだけだし」
「そうか、そうだったね……うん、こっちの方がいいな」
「え、何が?」
グラウンドでは見ることができない甘利君の優しい視線が私を包む。そして少しだけ照れくさそうに言った。
「ありがとう。活動時間を伸ばしてくれて。俺たち生徒のことを見てくれて、考えてくれて。他のみんなにはなかなか伝わらないかもしれないけど、俺は糖塚さんのこと、最高の生徒会長だと思ってる」
人をまとめる才能のない私が生徒会長として務めを果たすには規則に従順である必要があった。うっかり者で怠け者で欲望に忠実な私に、「規則から外れてイレギュラーなことをした際にそれに対応する力がないことが分かっていたからだ。
締め付けは厳しくなって、自由を欲する人たちから疎まれることも仕方がないと思っていた。注意したときに謝られることはあっても、身内と言ってもいい苺や杏が労ってくれるくらいで、生徒会長の私が褒められることは今までなかった。
声だけは褒められて、なんとなく人前で話すのが得意になって、なんとなくリーダーをやることが増えて、生徒会長にまでなって、才能のなさを知って、どうにか隙の無い生徒会長像を作り上げて、なんとかこなしてきた。それがすべて報われたような気がした。
だから私は涙を一筋流した。甘利君の優しくて穏やかで熱い火によって私の感情を覆っていた氷が溶かされたのだ。
「大丈夫、嬉し泣きだから」
これ以上甘利君に優しい言葉をかけられたらどうにかなってしまいそうだったので先手を打った。
「なら、よかった……」
「そろそろ戻ろうよ。お昼食べる時間なくなっちゃう」
「そう、だな」
それでも私の様子を心配している甘利君をよそに生徒会室の扉を開けて廊下へ出る。昼休みの喧騒も甘利君の話題で持ちきりだ。彼の注目度の高さは本物。
「糖塚さん、実はまだ言っておきたいことがあって」
背中にかけられたその声に振り返る寸前、廊下の窓に期待に満ちた自分の顔が見えた。
「な、何?」
「金曜日にすぐに引き下がった理由、もう一つあるんだ。実は、土曜は部のみんなで学校で自主練をする予定だったんだけど、最近甘いもの食べに行っていないなって思ってて。糖塚さんの注意を受け入れれば土曜は自主練ができなくなって、スイーツ遠征に行けるって考えたんだ」
「ふ……っふふ。ははっ、何それ。大好きすぎでしょ」
「それはお互い様だろう。あの時の糖塚さんの食べっぷりは見事だった」
期待とは違った。でも、冗談なのか本気なのか分からないその言葉に私は笑顔になり、それにつられて甘利君も笑顔になった。笑うと日焼けした顔に白い歯が映える。
「まあ確かに、好きだけどさ……」
「……俺もだよ」
笑顔のまま生徒会室から廊下へ出ようとした甘利君だが、その境界を越えた瞬間にいつもの真顔に戻った。
「それでは、失礼します」
甘利君は先ほどまでの少し浮ついていた声とは裏腹に低く重い声であいさつをしながら頭を下げる。廊下にいる他の生徒たちには、また野球部の部長が生徒会長に呼び出されて注意を受けていたのだと思われるだろう。私と甘利君自身のイメージを守るための気遣いに感心する。私は思いっきり廊下で笑顔を見せてしまっていたというのに。
「甘利の奴また生徒会に呼び出されたのか」
「会長途中で笑ってたよな。笑いながら注意するとかやばいな」
「烈火の王なんて全然怖くないんだろうな。さすがは氷結の女王」
「あの笑顔で攻められたい感はある」
廊下にいた生徒たちの声を聞くに問題はないだろう。問題発言はあったが問題はない。
私は段々と小さくなっていく甘利君の背中が見えなくなるまで彼を見つめ続けていた。よく分からなかった気持ちの正体は掴めたような気がする。
自宅に帰り着き、自室のベッドに寝ころんでスマホを取り出す。「これからも美味しいスイーツの情報を交換しよう」という体で半ば無理やり交換した甘利君の連絡先を見つめると、今まで感じたことのない感情が胸の中に渦巻いているのが自覚できた。もやに囲まれてその感情の正体は自分でも知ることができない。氷結の女王的には氷に囲われてと言った方がそれっぽいだろうか。
氷のように冷たい私のことは学校のみんなが知っている。しっかり者で頼りになる私は生徒会のみんなが知っているし、それ以外の生徒も多くが知っている。怠惰で面倒くさがりでうっかり者の私のことは家族と苺と杏が知っている。スイーツのためならなりふり構わない私のことは家族が知っている。甘利君には全部知られた。
何もなかったことにする約束だ。月曜日からは今まで通り、私は氷結の女王として生徒会長を、甘利君は烈火の王として部長を、ただそれぞれの務めを果たすだけ。変わったのはスイーツ好きの秘密を守りつつ、情報交換をするということ。それだけだ。
それなのに、翌日の私は野球部が練習している学校のグラウンドに足を運んでいた。昨日の夜はお母さんが使わなくなったランニングマシンで、日課となっている英語のリスニング用音声を聞きながらの一時間ランニングをしても心の氷は解けない。気分を変えたくて外に出ると自然に足が学校に向かっていた。
「来週の練習試合は夏の大会でうちと同じベスト4だった学校だ。新チームになってからは初めての試合、来年も今年と同等以上の結果を出せるかの大事な試金石になる。公式戦のつもりで勝ちに行くぞ」
グラウンドの周りを囲む巨大なフェンスの支柱の陰に隠れて野球部の様子を窺うと、ホームベースのあたりで円になってミーティングをしている野球部員たちの真ん中で甘利君が声を張り上げている。
守備練習が始まると、甘利君は人一倍声を出して周りを鼓舞していた。そして自身もあの巨体にキャッチャーの防具をつけているとは思えない俊敏な動きで走り、跳び、投げている。そのプレー一つ一つで部員たちが沸く。掛け声一つで士気が高揚している。日本代表の試合を野球好きのお父さんの解説付きで見た程度の知識しかない私でも、彼の存在がチームの要であり、起爆剤であることは明白だった。
三時間ほどの練習、そしてストレッチと片付けなどを含めてきっかり三時間半。規則通りの時間で野球部の活動は終了した。
「日曜も部活の視察なんて会長はさすがだな」
「金曜に塩尻が言ってたけど、野球部は目をつけられてるらしいな」
「こえー。怒られないように早く片付けして帰ろうぜ」
「でもちょっとだけ冷たい目で罵られたい気持ちもあるっす」
すぐそばのテニスコートで練習を終えようとしていた男子テニス部員たちの声が聞こえる。そういえば今日誰かに姿を見られたらということを考えていなかったが、普段の氷結の女王としての振る舞いのおかげでいいように解釈してもらえたようだ。変な一年生もいるようだが。
結局分かったのは、野球部での甘利君はまさに王という呼び名がふさわしいほどに、威厳があってみんなから慕われていて、男らしくて、カッコいいということだけだった。
月曜朝の始業前、金曜日に倉庫整理を任せたお礼を言いに隣のクラスの桃井さんのもとを訪れた。甘利君も桃井さんと同じクラスなので少し緊張したが今はいないようだ。
「桃井ちゃん、金曜はありがとね。倉庫の方、全部やってもらっちゃって」
「いやいやーいいよ。部長たちと話しつける方が私にはきついし、全然平気。会長もお疲れ様だね」
「そう言ってもらえるとありがたいよ。ところで……」
桃井さんの席がある教室の後方にいた私は教室の前方に目を向ける。教室に入った時から男子生徒たちが群がって何やら盛り上がっていた。
「あれは何の盛り上がりか分かる?」
ただ盛り上がっているだけなら良いが、生徒会長として余計なトラブルの芽は摘んでおかなければならない。得体の知れないものは確認する癖がついてしまっている。面倒くさいことは起きる前に対処したい。
「あーあれはね。甘利君に彼女がいるんじゃないかって男子たちが騒いで質問攻めにしてるの。あの集まりの真ん中が甘利君の席」
「は?」
甘利君、彼女。思考がフリーズしてしまった。
「会長?」
「はっ」
桃井さんに体を揺らされて目が覚める。
一昨日のことがばれた? 知り合いがお店にいた? いや、隣の県で百キロ以上も離れているんだからそんな偶然ありえない。そもそも学校関係者なら私のことも知っているはずだから私に質問責めの波がこないのはおかしい。ということは私の件とはまた別の件か。それはそれでもやっとする。
「えっと、桃井ちゃんはどこまで知ってるの?」
「んー、男子たちの話が聞こえてきた程度しか知らないんだけど、うちのクラスに大栗君って人がいるでしょ? 二つ上のお姉さんが去年うちを卒業して今は大学生なんだけど、一昨日の土曜日にバイト先の洋菓子屋さんに甘利君らしき人が女の子と一緒に来たって言ってたらしいよ。さすが甘利君だよね。二つ上の先輩にも名前と顔が知られてるなんて」
大栗。あのにこにこしていて写真を撮ってくれた店員さんか。去年は三年生ということは有名人の甘利君のことは知っていても当時は一般生徒会役員だった私のことは知らないだろう。
「ま、まあ去年から有名だったしね。そっかそっか、わざわざ遠くのお店でデートなんて、遠距離恋愛で会いに行ってるのかな」
「え、そうなの? どこのお店かなんて聞いてないけど。てっきりこの辺のお店かと思ってた」
「あ、いや、その、大栗さんって県外の大学に進学してるはずだからそうかなって思って。わざわざ地元に帰ってきてバイトはしないでしょ? 私、生徒会長だから卒業生の進路とか詳しいんだよね」
「へえーさすが会長。そんなことまで頭に入れてるんだ」
そんなわけない。桃井さんが細かいことを気にしない性格で助かった。
「ま、まあね。それで、相手の子はどんな子とかの情報はあるの?」
「んーと、彼女がめっちゃ食べてたってことと、二人とも付き合いたてなのかまだまだぎこちなくて可愛いカップルだったことくらい、かな。スイーツ好きの彼女に合わせて甘利君も立派だよね。スポーツやってる人ってあんまりそういうの食べなさそうだし」
「そっかー、そうだねー」
そういう解釈なら甘利君の威厳には傷はつかない。不幸中の幸いと言ったところだが、もしも相手が私だったとばれてしまった場合いったいどう説明するべきか。いや、どんな説明をしたところで弁明にはならない。カップル限定メニューを注文している以上、言い逃れはできない。証言も証拠も存在するのだから、嘘をついてもばれてしまう。うかつすぎた。
私は己の食に対する強欲さを呪った。
「甘利君は何て言ってるの?」
「男子たちは相手の子について訊いてるみたいだけど答えてないんじゃないかな。まあそもそも甘利君の声は周りの男子がうるさくて聞こえてこないけど」
「そっか……」
「気になるの?」
「え? いや、まあ、有名人だしね」
「生徒会室に呼び出して訊いちゃう? 真相を解明しないと学校の秩序が乱れる、とか不純異性交遊の疑い、とか適当な理由つけて」
「それはさすがに……」
理由はともかく、甘利君とは直接話をして今後の対応を確認しておかなければならないだろう。私は甘利君のスマホに昼休みに落ち合う旨のメッセージを送り、烈火の王の色恋沙汰に燃え上がる教室をあとにした。
昼休み、いつも一緒にお昼を食べていた苺と杏には適当に言い訳をして生徒会室へ向かう。私は職員室で鍵を借りる手間があったため、甘利君の方が先に着いていた。一昨日の少し気が緩んだ表情とも、昨日の熱い表情とも違って落ち着きのあるとても大人っぽい表情をしながら、廊下の壁に貼られた掲示物を眺めている。私に気がつくと少し申し訳なさそうに会釈をしたので、私も会釈を返しながら生徒会室の鍵を開けて中に入った。
その直後、甘利君は会釈を通り過ぎて大きく頭を下げた。
「ごめん、騒ぎになってしまって」
朝は甘利君のクラスだけだった噂は昼休みまでに隣の私のクラスどころか二年生全体にまで広まっている。だがそれは甘利君の責任ではない。
「そんな、謝らないでよ。甘利君のクラスの子から聞いたけど、卒業生がバイトしていたなんてどうしようもないし、しょうがないよ。むしろ私がパフェを食べたいなんて言ったから甘利君に彼女がいるみたいな話になっちゃって……ごめん。パフェ食べたさに暴走しちゃったというか、誰かと一緒に目いっぱい食べたのは初めてで、楽しくて」
私もしばらくの間頭を下げた。こういう思慮の浅い部分や欲に忠実な部分を見てお母さんは私のことを心配しているのかと自覚する。
私たちはバキバキと変な音のするパイプ椅子に腰を下ろして詳しい話をすることにした。甘利君が座っても耐えているあたり、まだまだ交換するには早い。音に驚いて自分のお尻の下のパイプ椅子を心配そうに観察する甘利君が少し可愛い。
内容はほぼ桃井さんから聞いた通り。相手が私であることは誰にも知られていないようだが、一緒にいた子が彼女であることは認めざるを得なかったようだ。
「もちろん一緒にいたのが糖塚さんであることは言っていない。だからこの件は俺が何も話さずにいればそのうちみんな飽きて終わる話だと思う。だから安心して今まで通りでいよう」
「今まで通り……」
「生徒会長と部長としてそれぞれ頑張って、お互いの立場上たまに話をする。あ、でも、スイーツの情報交換だけはこっそりしてもらえるとお互いのためになるんじゃないかって思う」
そうだ。私もそう考えていた。でも、今こうやって甘利君を前にするとそれがとてももったいないように思える。
「でも甘利君はいいの? 彼女がいるとか、う、嘘ついて。周りから嫉妬されたり、幻滅されたりしない?」
「王なら彼女の一人くらいいないと逆に示しがつかないよ」
「何それ、変なの」
「冗談だよ」
「冗談って、そんなこと言うキャラじゃなかったでしょ」
甘利君は控えめに笑みをこぼしている。私の質問の答えにはなっていないが、心配するなという意味だろう。王らしい寛大な心と懐の広さに私もつられて笑ってしまった。
金曜日、同じ場所で受けていた威圧感が今日は安心感へと変わっている。話がついてしまった以上この場を離れるのが自然だが足が重たい。
「そうだ、この件とは関係ないけど一つ訊いてもいい?」
名残惜しくも生徒会室を出ようとした私を甘利君が呼び止める。不思議と心が跳ねて、すぐさま甘利君の方に振り返った。
「昨日、野球部の練習を見に来ていたよね」
「え? 気づいてたの?」
「そりゃあ始めから終わりまでずっと見ていたし。部のみんなは『時間を守ってるか監視に来たんだ』なんて言っていたけど、やっぱりそうだった?」
「いや、その、偶然近くを通りかかったら練習してたから……」
「制服で?」
我ながら苦しい言い訳だった。休日に学校以外へ出かけるときに制服を着る文化はうちの学校にはないし、仮に通りかかったからと言っても三時間以上見ているのはおかしい。そもそも練習を見に行った本当の理由は甘利君のことを考えたときに抱くよく分からない気持ちの正体を確かめるためであり、そんなことを正直に話すわけにはいかない。監視と言っておけばよかった。
「そ、それより正直なところどう思ってるの? 部活の時間が制限されて、違反すると注意されたりすることについて」
話題を変えて練習を見ていた理由をごまかすためでもあり、本当に訊いてみたいことでもあった。生徒会長として決められた規則通りに各部活動に通達や注意をしているものの、部活動をやっている生徒の反応が正直良くないことはひしひしと伝わってきている。氷の仮面を被っていなければ、苺や杏が一緒にいてくれなければ、へこたれてしまいそうなほどに。
「正直なところか。それはもっと練習したいと思っているよ。部活をやっている人は基本的にその競技とか活動が好きでやっているわけだし、どの部もそれぞれ目標がある。目標を達成するためには時間が足りない」
「じゃあどうして金曜日は簡単に引き下がったの?」
「俺がよく自主練してるのは偶然見ることはありえるけど、他の部員が一緒にやったり、監督が見てくれたりとかはそこまでの頻度ではないから一度や二度練習を見た程度では気がつかないはずなんだ」
確かに見ていた。二年生になってすぐ、どうせ選挙は候補者一人の信任投票になるからということで私は生徒会長に内々定した。この年から部活動の活動時間が平日二時間、休日三時間、平日休日それぞれ一日以上の休養日を設けることが学校の規則として定められており、前生徒会長とともに部活動の活動実態の調査を行っていた。
「七月に糖塚さんが生徒会長になってすぐ、部活の活動時間が三十分増えた。監督は新しい生徒会長が校長や教頭と交渉してくれたって言っていた。頑張っている部活があるからもう少しやらせてあげてはどうですかって、いつもの冷静な感じだけど少し熱がこもっていたって言っていたな」
規則に従順な私の気まぐれだ。一人で頑張り続ける甘利君や甘利君に呼応して頑張り始めた野球部員を見て、もう少しやらせてあげてもいいのではないかと思っただけだ。今年から始まった規則で試行段階だったため、悪影響があればすぐに元に戻すという条件付きで活動時間の三十分延長が認められた。私が直談判したことは先生たちと生徒会役員しか知らない。
「たいしたことじゃないよ」
「とても恥ずかしいことで、申し訳ないことなんだけど、この前の金曜までそのことをちゃんと考えていなかった。糖塚さんのこと、決まりに厳しい冷たい人だと思っていた。でもあの時、糖塚さんの言葉を聞いて糖塚さんが野球部の練習を何度も見に来ることと、活動時間が糖塚さんのおかげで伸びたことが繋がったんだ。勝手に、俺たちの活動を見て交渉してくれたのかなって思って、だとしたら校長や教頭と交渉してくれた糖塚さんを無下にはできないって思った」
「だからすぐに引き下がったんだ……」
「うん。だからごめん。自主練だって学校でやるなら部の活動だって分かっていたけど、自分に都合よく解釈していた。これからはもっと練習を工夫して、時間内に良い練習ができるようにするよ」
「謝ることじゃないよ。私だって生徒会長っていう立場があるからうるさく言ってるだけだし」
「そうか、そうだったね……うん、こっちの方がいいな」
「え、何が?」
グラウンドでは見ることができない甘利君の優しい視線が私を包む。そして少しだけ照れくさそうに言った。
「ありがとう。活動時間を伸ばしてくれて。俺たち生徒のことを見てくれて、考えてくれて。他のみんなにはなかなか伝わらないかもしれないけど、俺は糖塚さんのこと、最高の生徒会長だと思ってる」
人をまとめる才能のない私が生徒会長として務めを果たすには規則に従順である必要があった。うっかり者で怠け者で欲望に忠実な私に、「規則から外れてイレギュラーなことをした際にそれに対応する力がないことが分かっていたからだ。
締め付けは厳しくなって、自由を欲する人たちから疎まれることも仕方がないと思っていた。注意したときに謝られることはあっても、身内と言ってもいい苺や杏が労ってくれるくらいで、生徒会長の私が褒められることは今までなかった。
声だけは褒められて、なんとなく人前で話すのが得意になって、なんとなくリーダーをやることが増えて、生徒会長にまでなって、才能のなさを知って、どうにか隙の無い生徒会長像を作り上げて、なんとかこなしてきた。それがすべて報われたような気がした。
だから私は涙を一筋流した。甘利君の優しくて穏やかで熱い火によって私の感情を覆っていた氷が溶かされたのだ。
「大丈夫、嬉し泣きだから」
これ以上甘利君に優しい言葉をかけられたらどうにかなってしまいそうだったので先手を打った。
「なら、よかった……」
「そろそろ戻ろうよ。お昼食べる時間なくなっちゃう」
「そう、だな」
それでも私の様子を心配している甘利君をよそに生徒会室の扉を開けて廊下へ出る。昼休みの喧騒も甘利君の話題で持ちきりだ。彼の注目度の高さは本物。
「糖塚さん、実はまだ言っておきたいことがあって」
背中にかけられたその声に振り返る寸前、廊下の窓に期待に満ちた自分の顔が見えた。
「な、何?」
「金曜日にすぐに引き下がった理由、もう一つあるんだ。実は、土曜は部のみんなで学校で自主練をする予定だったんだけど、最近甘いもの食べに行っていないなって思ってて。糖塚さんの注意を受け入れれば土曜は自主練ができなくなって、スイーツ遠征に行けるって考えたんだ」
「ふ……っふふ。ははっ、何それ。大好きすぎでしょ」
「それはお互い様だろう。あの時の糖塚さんの食べっぷりは見事だった」
期待とは違った。でも、冗談なのか本気なのか分からないその言葉に私は笑顔になり、それにつられて甘利君も笑顔になった。笑うと日焼けした顔に白い歯が映える。
「まあ確かに、好きだけどさ……」
「……俺もだよ」
笑顔のまま生徒会室から廊下へ出ようとした甘利君だが、その境界を越えた瞬間にいつもの真顔に戻った。
「それでは、失礼します」
甘利君は先ほどまでの少し浮ついていた声とは裏腹に低く重い声であいさつをしながら頭を下げる。廊下にいる他の生徒たちには、また野球部の部長が生徒会長に呼び出されて注意を受けていたのだと思われるだろう。私と甘利君自身のイメージを守るための気遣いに感心する。私は思いっきり廊下で笑顔を見せてしまっていたというのに。
「甘利の奴また生徒会に呼び出されたのか」
「会長途中で笑ってたよな。笑いながら注意するとかやばいな」
「烈火の王なんて全然怖くないんだろうな。さすがは氷結の女王」
「あの笑顔で攻められたい感はある」
廊下にいた生徒たちの声を聞くに問題はないだろう。問題発言はあったが問題はない。
私は段々と小さくなっていく甘利君の背中が見えなくなるまで彼を見つめ続けていた。よく分からなかった気持ちの正体は掴めたような気がする。

