☆冬の始まりの凛とした空気よりも、君は透明だった。


 白夜の中、君と手を繋いで、ずっと青白い世界を歩き続ける夢を見た。
 私も君も素直になれなれない奇妙な夢だった。
 
 なんで君の気持ちがわかるんだろうと思ったら、君の気持ちを知ることができる設定になっていた。だから、私は立ち止まり、君の表情を見たあと、そっと君の胸に右手を当てた。すると、君の気持ちが簡単にダウンロードされていく感覚がした。

「この世界から消えないでほしい」
 そう確かに聞こえた。

「ありがとう」
 こんなに私のことを思ってくれているなら、お礼をしないとねと思い、私は素直にその言葉を口に出すと、君は小さく頷いた。まだ、私の右手は君の胸に当てたままだ。少しだけ筋肉質な君は男子そのものだった。170センチくらいの平均的な身長に、長めの黒髪はセンターパートで中性的な印象だ。
 色白で、鼻筋がすっと通っていて、くっきりとした二重の君は透明感100%だった。

『もし、こっちが世界から消えたら、忘れてね』
 忘れないよ。
 私も口に出さずに、思いをそのまま君に伝えてみた。

「いいんだよ。人は過去を振り返るものじゃないんだから」
「忘れられないよ」
 今度は小さな声で口に出してみた。
『一瞬だけでも君と過ごせてよかったと思ってるよ。だから、忘れて。氷が溶けたあとの水たまりみたいにね。だからね、』

 君の微笑んだ表情を見たあと、私は夢から現実に戻った。
 
 現実の私は机に突っ伏して寝てしまったみたいだ。顔を上げ、机に組んでいた両腕をあげ裏返すと、両手には無数の縦線ができ、赤くなっていた。押し潰され、開きっぱなしの数学の問題集がLEDのスタンドライトの光で白さを増していた。

「寝てる暇なんてないのに」
 そう言っても、私の独り言に答えてくれるような人なんて存在しない。憧れの高校を目指しているんだから、もっと頑張らないと――。
 カーテンをしていない、窓を見ると、真っ黒な世界で無数の白い粒が舞っているのが見えた。

 そして、さっきの夢のことをふと思い出した。
 さっき話した男の子は一体、誰だったんだろう――。

 あんなに親しそうだったのに、私は夢で見た君のことがわからなかった。
 夢で見た君はきっと他人で、知りあったことなんてないと思う――。

 右手を頬に当てると、頬が涙で濡れていた。だから、私は気がついた。
『君が大切だってことを伝えたいんだ』と。




 僕は図書室のドアの鍵を開け、そして、ドアを左側にスライドさせると、いつものように古くなった紙とインクの匂いがした。そして、入ってすぐ右側にある電気のスイッチをすべて押し、スイッチの隣に壁付けされているエアコンのスイッチを押した。
 上靴を脱ぎ、カウンターまで行き、パソコンを起動させた。
 きっと10年くらい取り替えていないであろうノートパソコンはハードディスクをガチャガチャさせながら、起動し始めた。

 キャスター付きの事務椅子に座り、バッグからiPhoneを取り出し、Spotifyを開き、そして、ラバー・ソウルをタップした。カーペットを足でこすると、靴下越しに潰れきったカーペットのザラザラした感触がした。

 どうせまだ誰も来ないだろうから、昼休みに毒された耳を直そう――。
 イン・マイ・ライフをタップして、iPhoneをカウンターテーブルの上に置いた。そうしてしまうと、古臭いゆったりとしたテンポのロックで空間はあっという間に穏やかな雰囲気になった。

「おつかれー」
 聞き慣れた女子の声がした。おつかれと僕がそう返すと、いつもの愛嬌のある微笑みでこっちに向かって手を振ってくれた。思ったより早く来た、小田切涼葉(おだぎりすずは)に僕は少しだけ動揺して、iPhoneから流れ続けている音楽を切りそこねてしまった。
 僕は動揺しているときほど、冷静さを装う癖があって、それが仇になったような気がした。

「日比谷(ひびや)くんって、変わったの聴いてるね」
「悪い。すぐに切るよ」
「いや、そういう意味じゃなくて。ビートルズでしょ」
 涼葉はカウンターの中に入り、バッグを壁側に置き、そして僕の隣にある事務椅子に座った。僕はそう言われて、また、中学校のときの嫌なことを思い出してしまった。だから、iPhoneを手に取り、音楽を止めた。

「あー、もう。切らなくていいのに」
「こんなの聴くのなんて、ダサいだろ」
「そうだね」
 涼葉はそう言ったあと、ふっと、弱く笑った。
 ほら、やっぱりきた。
 余計なことをしなければよかったと僕は一瞬で後悔した。
 
 涼葉の髪は、お団子でまとめられていて、小ぶりで色白な耳が目立っている。横から見ても、すっとしたこぶりな鼻と、目尻がくっきりとしているのが印象的に思える。
 その雰囲気だけ見たら、明るそうで、1軍女子みたいな雰囲気だ。それなのに、月、水、金曜日、週3日、彼女は図書室の当番をしている。
 そんな同級生の横にいれるのは不思議な気分だった。

 涼葉はこんなに柔らかい雰囲気なのに、いろんなところから聞いた話だとスクールカーストの中で1軍じゃないらしい。
 というか、去年からずっと図書室の当番で会う仲の僕たちは、ただ、無数の価値観を話して、割り当てられた時間を消費している仲に過ぎない。

「古臭いけど、いいものは普遍的だよね」
「そうだね」
 どっちだよ、それ。
 古臭いけど、普遍的だよねって。

 ただ、僕はビートルズで心が落ち着くんだ。今どきの高校生でそんなことするやつなんて希少種だってことくらい自分でも自覚している。きっと、60年代に生きていたら、日本公演を絶対観に行ってたと思うし、解散に衝撃を受け、レットイットビーを泣きながら聴いていたと思う。
 そして、ジョン・レノンがこの世から去ったとき、大きな失望を抱いてたと思う。

「あ、なんか、いまのやり取り、夢で見たことあるんだけど」
「適当なことで話逸らすなよ」
 中学校のときにビートルズが好きだと仲がいいと思っていた友達に言ったら、手痛い目にあったことをまた思い出した。
 そして、ダサいとか、おじいちゃんだとか、センスないとか、さんざんバカにされて、それに腹が立って、取っ組みあいの喧嘩をしておおごとにしてしまったこともあった。

 それ以来、僕は友達だと思っていた人たちから、異分子だと認定され、外され、そしてクラスで孤立した。
 だから、それ以来、素直に自分が好きなことを言うのをやめてしまった。

 そんな手痛いことが中学生のときにあったから、高校に入ってから僕はできるだけ、厄介なことに巻き込まれないように心がけるようにしている。
 自分の気持ちを抑えて、周りの顔色を伺い、空気を読んで、世間がいいというものをいいということにした。

 相手が涼葉だからって、油断していた。涼葉にしてみても、やっぱりダサいものはダサいんだ。

「ちょっと日比谷くん、怒らないでよ。自分からダサいって言ったくせに」
「いいよ、そんなことはもう。それより、今日も誰も来ない3時間、どうやって時間潰す?」
 ここ最近はずっと二人でオセロをやっていたけど、さすがに飽きてきた。だからといって、図書室のカウンターにあるのは、オセロとトランプだけで、あとは古臭く、見飽きた蔵書しかなかった。
 
「――じゃあ、小説読んでくれない?」
「小説?」
「私が書いた小説」
 涼葉はにっこりと微笑んだあと、椅子から立ち上がり、そしてバッグの方へ向かった。






 ノートには2つの小説が書かれていた。ノートに筆圧の薄いシャーペンで綴られた話は、たしかに小説のように感じた。
 というより、本当にそれは小説で、よくそんなのが書けるなって思った。それも、恥ずかしげもなく、人にそういう文章を見せるんだって思うと、不思議な気持ちだった。

「どう? 面白いでしょ?」
 そして、この自信たっぷりな様子も不思議でたまらなかった。

「そうだね。2つともいいと思うよ。等身大の恋愛もの」
「え、それだけ?」とまるで何かを問い詰めるような勢いで涼葉は僕のことを覗き込んできた。
 別に僕は恋愛小説なんて好きじゃない。だから、あまりそういう恋愛ものを読んできたことがなかったから、良し悪しなんてよくわからなかった。
 だけど、好きな感じの文章だなって思った。

「いや、すごくいいよ。それに単純に書くのがすごいなって。しかも、手書きだし」
「いいでしょ。今どき手書きの小説読める人なんて珍しいと思うよ」
「それ、自分で言うことかよ」と返すと、どうしてかわからないけど、涼葉はにやけていた。
 僕も小説”もどき”なら、何度か書いたことはあった。一番最初に書いたのは、中学2年の夏休み前だった。そのときは、僕も涼葉と同じようにノートに書いた。だけど、それはすべての間違いだった。だから、それ以降は、iPhoneで書くことにした。
 iPhoneで書いてみたけど、400文字くらい打ち込んだところで、自分の文章の拙さに絶望して、書くのを辞めた。そして、そのことを忘れた頃にもう一度、同じように書いてみては、また自分の文章に絶望して、書くのを辞めた。

「自分の言葉をこれだけ長い文章にして、それをしっかりと矛盾なく作れるのはすごいと思ったよ」
「――ありがとう。やっぱり、いいこと言ってくれるね」
「えっ」
「ううん。やっぱ、日比谷くんに読んでもらってよかった」
 彼女がそう理由はよくわからない。だけど、屈託のない笑顔だけが眩しく感じた。







 18時を過ぎ、僕と涼葉は片付けをしたあと、図書室の鍵を締め、顧問の机の上に鍵を置き、そして、学校を出た。
 9月の空はすでに薄暗くなっていて、夏がだんだん遠ざかっているのを感じた。山の上にある学校から、いつものように駅まで続く、坂を二人、横並びで下っている。
 
「ねえ、日比谷くん」
「なに?」
「私ね、いつか、こんな日が来るんじゃないかって思ってたんだ」
 唐突に始まったその話の、その文脈じゃ、こんな日の”こんな”の意味がいまいちよくわからなかった。だけど、今日、普段と違った点はたった一つしかない。涼葉が僕に恋愛小説を読ませたということだ。

「プロじゃない人の小説、初めて読んだ」
「あ、それ、皮肉でしょ。聴いてた音楽のこと聞いたから、拗ねちゃったの?」
「違うよ。僕も書こうとして何回も挫折してるから、すごいなって思ったんだよ」
「えっ、書いたことあるんだ。気になるなぁ」
「だけど、僕は全部書けなかった。だから、小田切さんはさ、難しいことやってるなって思ったんだよ」
「ちょっと、嬉しいんだけど」
 さっきから、ずっと喜んでばっかりじゃんか。もし、僕じゃなかったらうぬぼれてるなって言われるくらいだ。そもそも、恥ずかしいって感覚を彼女は持っていないのか。

「やっぱり小説家とか、目指してるの?」
「ううん。これはね、自分のために書いてるの」
「自分のため?」
 どういうことだろうと思い、思わず涼葉を見て、僕はそう返した。左側にいる涼葉は僕と目をあわせて、そのあとまた意味ありそうな雰囲気で微笑んだ。
 藍色の空は段々と、黒になり始め、下り坂を等間隔に照らす白色のLEDライトが目立ち始めた。

「そう。自分がこの世界に存在していることを自分の言葉で残したら、かっこいいかなって」
「急に中二病みたいなこと言うんだな」
「小説書いてること自体、中二病こじらせてるみたいなもんでしょ。だからいいの」
「謎理論だな。それじゃあ、全部の物書きが中二病ってことになるじゃん」
「だから、日比谷くんも中二病だよ」
「えっ、なんでだよ」
「だって、小説書いたことあるんでしょ」
「あの400文字の小説で中二病にされるなら、識字できる全世界の人が中二病になるだろ」
「細かいことはいいの」
「ふーん」
 いつものようにくだらない話が進む。涼葉といると、いつもこんなどうでもいい話ばかり広がっていく。くだらなくて、デタラメで、そして、ものすごく単純な話なのに、楽しくなるのはなんでだろう――。

「だからね、日比谷くんにはしばらくの間、私がこの世界に存在している証拠を読んでもらうからね。私、日比谷くんのために、たくさん小説書くからね」
「待ってないけどな」
「ちょっと、ひどいんだけど」
 そのあとすぐ、僕は涼葉に背中を弱く叩かれた。




「ねえ、また今日も読んでほしいんだけどいい?」
「もう、書いてきたの?」
「すごいでしょ。昨日、一気に書いたんだよ」
 一昨日も見た青い大学ノートを右手で持ち、わざとらしく見せつけるように、涼葉はそれを左右に小刻みに振っていた。これがドームツアーの観客席で暗転の中、ネオン色に光るペンライトだったら、きれいなんだろうなってふと思った。

 月曜日、涼葉の小説を読んだばかりで、まだ2日しか経っていない。
 体育会系とスクールカースト一軍の登録者が多いこの学校では図書室なんて空気みたいなものだった。だから、蔵書なんて僕たちが生まれるとっくの昔に止まってしまったようなラインナップだし、夏休みや冬休み前にわざわざこの図書室の本を借りようとするのは本当にごく一部の、もの好きの陰キャだけだった。

 運動部の多くが全国大会常連だし、文化部も吹奏楽部と演劇部が異様に強く、たまに全国大会に出てしまうくらいだから、いろんなジャンルのガチ勢が多くて、この学校の図書室の本を読む暇なんてないんだと思う。
 そんな古い本を読んでいる暇があるんだったら、部活をしっかりやり、推薦で大学に入るために日々を頑張ったほうがいいに決まっている。もし、僕もなにか、得意なことの部活があったら、そうしていると思う。

「すごいね。その文才、文芸部に入ったほうが使えるんじゃない」
「わかってないなぁ、日比谷くん」
 涼葉はノートを小刻みに振るのをやめたあと、僕のことをじっと見つめてきた。じっと見つめてくる涼葉はやっぱり、ぱっと見の印象は、一軍女子の雰囲気だった。
 そんな涼葉が貴重な時間をなんでこの図書室で過ごしているんだろう――。
 ほかの部活をやったり、バイトして、遊ぶお金を作って、友達と遊んだらいいのに。

「これは私のために書いてるの。だから、人様に読ませるものじゃないの」
「おいおい、僕は人じゃないのかよ」
「あ、そうなるね」
「ひどいな、それ」
 そう返すと、なんかよくわからなくて、ウケるんだけど。と言って、涼葉はゲラゲラ笑い始めた。自分の生きた証なんて、必要なのかな。

 ”自分がこの世界に存在していることを自分の言葉で残したら、かっこいいかなって。”
 昨日聞いたその言葉が頭の中に響いた。

「はやく読ませてよ」
「やったー。日比谷くんには特別だからね」
 そして、涼葉は手に持っていた、ノートを開き、手渡してきたから、僕はノートを受け取った。





「面白かったよ」
「でしょ? 私、すごいでしょ」
 自分ですごいと思うなら、小説家にでもなればいいのに。iPadか、MacBookでも買ってもらって、ワードで書けよ。今どき手書きでノートって、ものすごく個性的すぎるよ。

「はいはい、すごいね」
「あー、なにそれ。めっちゃあしらってるじゃん」
「自信あるなら、もっと世の中に公表しろよ。なんで僕だけに読ませるんだよ」
「いいじゃん。私は、日比谷くんに読んでほしいから」
 なにも疑いもなく、そう元気よく言う涼葉は一体、何をめざしているのか、僕にはよくわからなかった。

「よくわからないよ」
「えっ、なにが?」
「『』のところ」
「あー、気づいちゃった? そのほうが印象に残るかなって思って」
 大事なところそうな文を『』で括る小説なんて珍しいなって思った。僕の数少ない読書経験のなかでも、そんな小説は読んだことがなかった。

「参考書で大事なところが太字になってるやつと同じってこと?」
「そう、察しがいいね。そのほうがわかりやすいし、伝わりやすいじゃん」
「へぇ」 
 僕は予想したとおりの涼葉の返答に興味が持てなくて、空返事をしてしまった。

「興味なさそうじゃん」
「だけど、面白かったよ」
 僕は続けてそう言うと、涼葉は嬉しそうに、にっこりと微笑んだ。




 18時を過ぎ、いつものように図書室を締め、鍵を職員室に返した。
 そして、いつものように駅まで涼葉と歩いている。
 
 今日は珍しく、お互いに無言のままだった。落ち込んだとか、喧嘩したとか、特にそんなことは全くなかったと思うけど、涼葉は珍しく、黙ったまま、ただ歩いているからきっとそんな気分なんだろうなと思って、僕も黙ることにした。
 深いオレンジ色に染まったモコモコした雲は立体的に見え、その雲の下の世界はすでに藍色で夜が始まろうとしていた。そんな空を眺めながら、のんびりいつもの下り坂を下っていると、脳内でルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズが流れ始めていた。

 別に歌詞は夕暮れとリンクなんてしてない。ただ、スカイの部分だけが、微かにかすっているだけだ。
 チェンバロの心細い響きと、シンプルなベースライン、そして、ロックオルガンの和音で、レトロフューチャーのように自由に想像したデタラメな未来予想図みたいな雰囲気が好きだった。

「ねえ」
 急に小さな声で涼葉はそう言った。僕はそんな、か弱い涼葉の声を聞いて思わず立ち止まってしまった。
「えっ」
 涼葉は間抜けな声をだして、振り向いた。そのあとすぐ、僕と涼葉の隣をEV車がキーンとしたモーター音を出しながら、ゆっくりと通り過ぎて行った。一瞬、僕と涼葉は、LEDのヘッドライトで照らされた。
 それで僕はわかった。涼葉の頬が濡れていることに。

「公園寄ろう」
 僕がそう言うと、涼葉は小さく頷いた。


 

 公園の自販機で缶のカフェオレを2本買った。そして、1本を涼葉に渡すと、小さな声でありがとうと返してくれた。

 すでに公園は夜になり始めていて、街灯の心細い明かりが並木道に沿って照らされていた。深くなり、もうすぐ緑の頃を終えようとしている木々が、風で弱く揺れていた。僕と涼葉はその道をなぞるように進み、そして、噴水の前にあるベンチに座った。
 座ってすぐ、弱い風が吹いた。まだ夏の余韻を残したままの微温い風で涼葉の後れ毛が揺れた。一体、なんて話かけたらいいかなって少しだけ考えたあと、僕はこう言うことにした。

「とりあえず、飲もう」
 そう言うと、涼葉は小さく頷いてくれたから、少しだけ安心した。そして、お互いに缶を開けて、無言のまま、お互いの缶をあわせて乾杯した。一口カフェオレを飲むと予想した通りの甘ったるさが口の中に一気に広がった。

「ごめんね。別に泣くつもりなんてなかったのに」
 涼葉はぼそっとした声でそう言ったあと、カフェオレをもう一口飲んだ。

「いいよ。誰だって、泣きたいときはあるよ」
「ありがとう。優しいね」
「よく言われる。小学校の卒アルのアンケートでもそう書かれたことある」
「昔からなんだね」
「昔から地味認定されてるんだよ」
「それはそうだと思う」
 僕の自虐で少しだけ涼葉が笑ってくれたから、たまにはそんなことを言ってみるのも悪くなかったなと思った。もう一度、涼葉の横顔を見ると、涙が乾いたあとが頬に残っていた。
 僕はため息を吐いたあと、空を見上げた。
 すでに空は夜になっていて、都会の明るさに負けずに一等星がいくつか白く輝いていた。左側には低い位置に、三日月が浮かんでいた。
 数日後には新月になりそうな、そんな細さだった。

「たまにね、全部に絶望しちゃうときがあるんだ。こんな日々を送っていても意味ないじゃんって」
「そうなんだ。誰でもあるよ。そういうこと」
「――だよね。誰でもあるんだろうね」
 涼葉を肯定したつもりだったけど、肯定することができなかったみたいで、もう少し考えて何かを言えばよかったと僕は思った。

「いや、嘘」
「えっ、嘘なの?」
「誰でもあるわけじゃないよ。絶望することって」
「嘘つきじゃん」
 涼葉はそう言って、ふふっと笑った。だって、そう言わないと、さっき、励ますことが出来なかった分を挽回できないじゃん。なにか補足しなければ、きっと、涼葉は僕に対して失望してしまうかもしれない。だから、僕はさらに話を続けることにした。 

「みんなゲラゲラ笑いながら、過ごしてるんだよ。図書室に引きこもったり、小説読んだり、書いたりなんてする人なんて、ごく一部だってことだよ」
「日比谷くんって、たまによくわからないこと言うよね。そのよくわからなさが面白いけど」
「小田切さんだって、よくわからないよ」
「だったら、私と日比谷くんって似た者同士だね」
「――かもな」
 急に顔が熱くなるのを感じ、僕は思わず、涼葉から視線をそらしてしまった。
 本当に似た者同士なのかもしれない。

「――だけど、もう似た者じゃないのかもね」
 さっきと真逆なことを言われて、僕はもう一度、隣に座っている涼葉に視線を戻した。涼葉はまっすぐ前を向いたまま、目を細めていた。きっと涼葉の視線の先には、僅かな蛍光灯で照らされた噴水が見えているはずだ。

「嘘つきじゃん」
 僕は冗談にしたくて、そう返してしまった。本当ならもっと気の利いたことを言えたらよかったんだろうけど、情けないけど、思いつかなかった。

「昔のことを思い出しただけだよ」
「昔?」
 僕と涼葉が出会ったのは高校生になってからだから、涼葉と昔を共有したことなんてない。
「たまにね、思い出すと胸が苦しくなるんだ。昔のことを思い出すと」
「苦い思い出ってこと?」
「うん――。なんて言えばいいんだろう」
「いいよ、ゆっくりで」
 そう返すと、涼葉は黙ったまま、上を向いた。そして、数秒間、そうしたあと、また視線を僕に戻した。

「――細かい失敗を思い出しちゃうの。なんでもっと、上手く立ち回れなかったんだろうってね」
「トラウマを受け入れられないってこと?」
「そう。そういう気持ちを整理するために小説を書いているのかもしれないね。だから、今、やりたいことはただ、小説を書くことだけだから、付き合ってほしいな」
「いいよ。いくらでも読んでやるよ」
「ありがとう」
 涼葉は弱く微笑んだあと、カフェオレをもう一口飲んだ。


 

 反対方向の電車が先に到着した。
 すでに彼女はいつものような調子を取り戻していたように、また明日ね。と言ったから、じゃあね。と返した。僕がそう言っている間に、涼葉は電車に乗り込み、開いているドアの前に立った。そして、すぐに電車のドアが閉まり、僕は涼葉と切り離された気持ちになった。
 その間もじっと、涼葉は僕のことを見つめてきていた。
 電車が動き出すと、涼葉は胸元近くの高さで右手を小さく手を振ったから、僕もあまり考えもせずに右手を上げて、小さく振った。

 涼葉が乗り込んだ電車が発車してしまうと、ホームは急に静かになった。
 電車は走り去った方を見ると、ゆるくカーブしたホームに沿って、屋根に付いている蛍光灯の白い明かりが緩い角度で右側に孤を描いていた。レールの先は闇で、電車の窓から漏れている明かりと、テールランプ、そして信号機の赤色が闇の中で光っていた。小さい頃、球場でプロ野球を観たとき、ワンナウトのまま、急に調子を崩して、3ランホームランを打たれ、マウンドでうなだれたピッチャーのことを思い出した。

 数人しかいないこのホームが寂しくみえ、急に取り残された気持ちになった。
 だから、ベンチに座り、バッグからAirPodsを取り出し、両耳につけた。そして、iPhoneを取り出し、Spotifyを開き、ダブル・ファンタジーをタップした。
 そして、その中からWomanをさらにタップすると聞き慣れたゆったりとしたイントロが流れ始めた。

 ため息を吐いたあと、別に意識なんてしなくてもすぐに涼葉のことを考え始めていた。
 なんで泣いていたのか、結局わからなかった。公園を出たあと、結局、なにもなかったかのようにいつもの明るさで、ずっとくだらない話をした。
 
 だけど、僕にはわかったよ。
 涼葉はなにかを隠していることを。

 だけど、僕はあれ以上、どうすればよかったんだろう――。
 



「はやくね?」
「今ね、書きたい気持ちが抑えられないんだ」
 カウンターの中で僕の隣に座る涼葉は得意げにそう言った。昨日は図書室の当番じゃなかった。だから、あんなことがあったのにまるでそんなことなんてなかったかのように、いつも通り涼葉と会うことはなかった。
 今日が金曜日で、涼葉が泣いたのが水曜日だったけど、1日、あいだを挟んだような感じはあまりしなかった。

「また2日で書き上げたんだ」
「すごいでしょ。日比谷くん、私、やっぱり天才だと思う」
「はいはい。それよりも読ませろよ。天才ちゃん」
 そう僕が言い終わる前に、涼葉は開いたノートを僕に手渡してきたから、僕はそれを受け取り、いつもの丸字っぽい癖のある文字を読み始めた。






「ねえ、日比谷くん」
「なに?」
「もし、人が死んじゃうまでの残りの日数を見ることができるようになったらどうする?」
 水曜日と同じように僕と涼葉は成り行きで、そのまま、公園までやってきていた。そして、この前と同じ、噴水が見えるベンチに座り、いつものように終わりが見えない話をしていた。すでに夕日のオレンジは深く、薄くなっていて、世界は優しい秋の寂しさに包まれていた。

「小説みたいじゃん」
「私は自称天才小説家だからね。日比谷くんの前だけでは」 
「今、自分のこと天才って言ったよ。そう思ってるなら、もっと外に出しなよ。ネットとかでさ」
「いいの。これは自己満足で私の記録を残しているんだけだから」
「ふーん」
 僕がそう返すと、冷たい人だねと、笑いながら涼葉はそう言った。そのあと、少しだけ冷たい風が吹き、涼葉の後れ髪が揺れた。

「それでどうするの? 日比谷くんだったら」
「それ、答えないとダメ?」
「ダメに決まってるじゃん」
「意味わかんねーだけど」
「いいじゃん、意味わからなくても。答えて、重要なことだから」
 一体、なにに対して重要なんだろう。涼葉はいたずらを仕掛けているときみたいに無邪気そうな表情をしていた。この質問に意図があって、その意図の先にいたずらが仕掛けられているとして、その目的が明かされ、僕がその質問に簡単に騙されていたら、涼葉のことを天才だって思うかもしれない。

「人が死んじゃうまでの残り日数を見ることができたら、その人に優しくするかな。なにも伝えず、知らせず、運命なんだから、受け入れるしかないんだし」
「――そっか」
 静かに涼葉がそう言ったから、きっと、僕は涼葉が求めていた回答をしなかったんだなって思った。涼葉は視線をあげて、何かを考えているようだった。
 もっと、ドラマティックなことでも言えばよかったのかな。その人が死なないように寿命まで助ける努力をするとか。

「じゃあ、質問を変えるね。もし、もうすぐ死ぬのが、私だったらどうする」
 え、めっちゃ中二病こじらせてる質問じゃん。とすぐに言いたくなったけど、僕に視線を戻してそう言った涼葉の表情は思った以上に真剣だったから、そう返すことを僕はためらってしまった。

「つまり、涼葉の余命の日数が見えて、それが僅かだったらってこと?」
「そう、その通り。頭いいね」
「なんか、バカにしてない?」
「だって、話をまとめようとしたじゃん。さあ、答えて」
 女王みたいな迫り方だなって、ふと思った。思春期をこじらせた女王が、スペードのジャックみたいなイエスマンの召使に自分が望んだ答えを言わせようとしているみたいだ。

 そして、ふと思った。
 もし、今、涼葉がいなくなったら、心に穴が空いたような喪失感で僕は苦しくて溺れてしまうかもしれないって。

「どんな死因でも、最後まで一緒にいたいな。1秒でも長く。そして、次の小説ができるのを待つよ」
 そう言い終わると、冷たい風がまた吹いた。この風が吹くたびに木々は色づき始めるようなそんな夏を忘れさせる冷たい風だった。僕と涼葉はじっと見つめたままだった。くっきりとして、色素が薄い大きな瞳に吸い込まれそうなくらい、涼葉には透明感があった。

 涼葉を見つめながら、もう一度、僕は自分が言ったことを考えた。
 少し冷静に考えると、これって、もしかして告白していることになっているかもしれないと思った。 
 
「ねえ」
「――なに?」
「もっと、はっきりしたいな」
「はっきり?」
「――関係性」
 静かな声で涼葉はそう言った。急に心臓が忙しくなってきたから、僕は浅く息を吸って、深く吐いた。
 関係性をはっきりさせたいってことは、やっぱりこう言うのって、男から言うのが、ベストなのかもしれない。だけど、ドキドキする。

 急に訪れた人生で初めて、誰かに好意を伝える機会。
 僕の勇気ですべてが変わるなら、僕は自分に素直になろう。
 僕は涼葉のことが好きだったんだ。
 
「涼葉。君と一緒に――」
「あっ、ちょっとまって」と言ったあと、すぐに涼葉は咳き込んだ。何度か、苦しそうに咳き込んだあと、もう一度、僕のほうを見てきた。目元は少し潤んでいた。

「大丈夫?」
「ごめん、緊張したかも。むせただけだから、大丈夫」
「めっちゃ涙目じゃん」
「たまに息苦しくなるんだよね。本当にたまにね。いいよ、続けて」
「なんか余計、緊張するな」
 僕がそう言うと、涼葉は、だよね、ムードぶち壊したわと言って、弱く笑った。




「面白かったよ」
「ありがとう」
 青色の中にペンで描いた無数の白いコスモスが咲くワンピースをまとった涼葉を目の前にしていると、いまだにドキドキしてしまう。金曜日に告白して、土曜日にデートをして、それでも満たされずに、日曜日になり、今日は午前中から駅ビルに入っているスタバで涼葉と話している。
 一人がけのソファに座り、沈み込んでいる涼葉は満足そうな表情をしていた。右手でプラスチックカップを手に取り、中に入っている期間限定の焼きいもをモチーフにしたフラペチーノを一口飲んだ。

「2日に1本ペースって、凄すぎでしょ」
「ねえ、日比谷くん。すごいでしょ。私、樋口一葉の生まれ変わりだから」
「たけくらべ、大つごもり、5千円札」
「なにそれ。変な返し」
 僕のことを冷たくあしらったのに満足したのか、涼葉は紙ストローを咥えて、もう一口フラペチーノを飲んだ。僕はノートを閉じて、テーブルの上にノートを置いた。ただ、相変わらず『』の意味はわからなかった。

「あーあ、何気ないこういうやりとりがずっと続けばいいのに」
「なに言ってるんだよ、日比谷さん」
「てかさ、いい加減、名前で呼んでよ」
「いやいや、小田切さんだって、まだ名前呼びしなかった癖に」
「日比谷奏哉(そうや)くん」
「フルネームじゃん」
「じゃあ、呼んでよ。私の名前」
「……す、涼葉」
 ただ、名前を呼ぶだけなのに胸は告白した時と同じくらい、激しく音を立て始めた。
 
「たどたどしいな」
「奏哉……岬くん」
「最果てかよ」
「ねえ、いつかさ、宗谷岬で年越ししてみよう」
「いやだよ。寒いの苦手だから」
「あそこでね、マイナス10℃の中でみんなでテント張って、年越すんだって」
「へえ。なんでそんなことするんだろう」
「ドキュメント72時間観れば、わかるよ。奏哉くんも感動すると思う」
「いや、その感動具合を今、教えてくれよ」
 いやだ、教えなーい。と涼葉はそう言って、またフラペチーノを一口飲んだ。散々、人の名前で遊んだ癖に身勝手だなと思いながら、プラスチックカップを手に取り、僕も涼葉と同じように紙ストローを咥え、フラペチーノを口に含んだ。

 


 サイゼリヤで夕飯を食べ、結局、今日は10時間くらい、涼葉といたけど、駅で涼葉と別れると、さっきまでの楽しさの反動で簡単に寂しくなった。そんなことを思いながら電車に乗っていると、涼葉から《寂しいからもう少し話したい》とメッセージが来たから、単細胞な僕はそのメッセージで同じ気持ちだったんだと嬉しくなった。

 電車を降りたあと、すぐに通話をするとさっきまでと、まったく同じテンションの涼葉の声が耳元で聞こえた。そして、またくだらない話の続きをして、僕と涼葉はそれぞれの家に着いた。



 寝る準備を一通り終わらせて、机の上に置きっぱなしだったiPhoneを手に取り、真っ暗な画面をタップして、待ち受けにすると、涼葉からの新着メッセージがあると通知されていた。
 僕はベッドに寝転んだあと、その通知をタップして、LINEの涼葉とのトークを開くと、こう書かれていた。

《ギリギリまで話したいな》
 一瞬、明日学校だしとか、いろんな現実的なことが頭の中に浮かんだけど、たまに寝不足になってもいいんじゃないかなって気持ちに負けて、僕はまた通話ボタンを押した。

「もしもし」
「ねえ。奏哉くん」
「なに?」
「私、今、どんなパジャマ着てると思う?」
「全身、ピカチュウになるパジャマ」
「ドンキに売ってるやつ?」
「そう。似合うと思うよ」
「適当すぎでしょ」
「正解は?」
「男の子だから、ピンクのフリフリパジャマだと思うでしょ?」
「すごい決めつけじゃん」
「じゃあ、今、見せてあげる。耳から離して」
 僕はそれで察して、iPhoneを耳元から離した。そして、画面を見ると、一瞬、グレーの丸がクルクル回ったあと、涼葉の顔と首元に広がるグレーのTシャツが映った。

「どう?」
「似合うよ」
「嘘つき。なんでも良いって言うもんじゃないよ」
「じゃあ、付き合いたてで部屋着なんか見せるなよ」
「いいの。少しでも私の事実を奏哉くんに見てもらいたかったの」
「変なのって言いたいけど、涼葉らしいかも」
「奏哉くんの白いTシャツ姿、見慣れなくて新鮮だね」
「やっぱ、変なの」
 僕はそう言ったあと、ビデオ通話をオフにした。

「ちょっと、不貞腐れないでよ。格好よかったよ」
「嘘つき」
「あー、バレちゃった。あ、また夢で見たことあるやり取りなんだけどじゃん、これ。まあいいや。嘘がバレるくらいがちょうどいいかも」
「なんだよそれ」と返すと、スピーカー越しで涼葉はくすくすと笑った。そして、そのあと、涼葉が咳き込む音がした。

「大丈夫?」
「ごめん。いつものやつ」
「気をつけろよ」と僕が言っている途中で、涼葉はまた咳き込み、そして、その咳が落ち着いたころに、うんと少し苦しそうな声がした。だから、僕は涼葉が落ち着くまで、少しだけ黙ることにした。
「ねえ」
「なに?」
 あ、もう大丈夫なんだ。
 
「私、もう眠いけど、無理やり通話してるんだ。だから、寝落ちしたら通話切ってね」
「えっ、どうして?」僕はわざと意地悪なことを聞くことにした。
「いくら好きでもいびきは聞かれたくないよ」
「じゃあ、聞いてあげる」
「いやだよ。約束だよ?」
「いいよ。約束する」
「寝る前に言っておくね。奏哉くんのこと、自分のこと晒して、わからなくなるくらい好きになったよ。――おやすみ」
「なんだよそれ」と返すと、数秒間だけ、マイクが涼葉の部屋の空気の音を拾っているノイズだけが聞こえた。

「――涼葉?」
 僕がそう聞いてみても、向こうの世界からは空気のノイズが聞こえるだけだった。だから、僕は諦めて、通話を切ろうとした。
 
「私のこと、好き?」
 不意に飛び込んできた涼葉の声に僕は少しだけ驚いた。だけど、僕は素直にこう伝えることにした。
 
「――好きだよ」
 そう伝えても、向こうの世界からの答えはなかった。聞こえる音はまたノイズだけになり、そして、寝息のようなそっとしたリズムが聞こえたから、僕は涼葉に言われたことを守って、通話を切った。




 いつものように図書室の鍵を取りに職員室に行くと、顧問から涼葉が休みであることを告げられた。昨日の夜まで話していて、今日、休んだんだと少し驚いてしまって、顧問に理由を聞いたら、あれを見ろと言って、顧問が指をさした。その方を見ると壁には備え付けのホワイトボードがあった。
 2年の病欠の欄に涼葉の名前が書いてあった。
 
 ドアの鍵を開け、図書室に入った。そして、電気をつけ、カウンターへ向かい、いつもの事務椅子に座った。グラウンドから聞こえる運動部の掛け声だけが図書室の中で小さく響いていた。

「窓を突き破るくらいの声出して、なにになるんだろう」
 僕がぼそっと言った愚痴は、図書室の中には響かず、そして、そんなことを優しく返してくれる人なんて存在しなかった。とりあえず、バッグからiPhoneを取り出し、《サボるなよ 大丈夫?》って涼葉にメッセージを送ったけど、すぐに既読はつかなかった。

 右手にiPhoneを握ったまま、数分間、涼葉とのトーク画面をじっと見ていたけど、既読がつかなかった。だから、僕はカウンターテーブルにiPhoneを置いたあと、古いノートパソコンの電源ボタンを押した。
 静かな図書室の中で、パソコンがハードディスクを派手に読み込む音が響いた。



☆ 
 ホームで電車を待っている間、もう一度、涼葉とのトークを開いたけど、既読がつかなかった。2日連続のデートのことや、昨日、寝る直前まで涼葉と話したことを思い出した。
 思い出す要素、すべてにおいて、涼葉に未読スルーされる要素なんてないように思えた。ため息を吐いたあと、iPhoneをバッグに戻した。
 そして、気持ちを紛らわせるために涼葉が住んでいる街の方へ続く、レールを見た。4本のレールは沈みかけた夕日が黄色くキラキラと反射していた。




 火曜日になっても、既読がつかず、そして、水曜日になり、一人、図書室で退屈な時間を過ごし、そして、木曜日になってしまった。

 目覚めて、すぐにベッドの横においているiPhoneを手に取り、メッセージが来ていないか確認した。だけど、今日も涼葉からのメッセージはなかった。そして、僕は半分、諦めながら涼葉とのトークを開いた。
 すると、僕の間抜けなメッセージの横に既読が表示されていた。
 そして、そのあとすぐにメッセージが届いた。

 《連絡できなくてごめんなさい 入院しました だけど、大丈夫、小説書けるくらい回復してるから安心して》

 僕は嬉しくなった。だから、こう返すことにした。

《今から、会いに行くから、病院教えて》
 そのあとすぐ、学校の電話番号を検索し、学校に電話をかけ、頭痛と腹痛と悪心の仮病を伝えた。
 



「バカでしょ」
「バカかもね」
 病院の大きな吹き抜けのロビーにある、小さくて丸いガラステーブルを挟んで向き合うように僕と涼葉は座って話始めた。

 あのあと、メッセージで病院のURLを涼葉から送ってもらった。そして、病院に着いたのを伝えると、涼葉は入院用の紺色のパジャマ姿のまま、この吹き抜けの広場にやってきた。僕から見て左側は3階分くらいの高さがガラス張りになっていて、ガラスの先は四角い庭園になっていていて、庭園を囲むように病院の建物がコの字に見えた。
 そして、右側は通路になっていて、その先には、院内出店の小さなローソンや会計、そして、カフェが見えていた。

「大丈夫なのかよ」
「それよりも、これ先に読んでよ」
 そう言って、涼葉は微笑みながら、手に持っていたノートを僕に差し出してきた。だから、僕はノートを素直に受け取った。小説を読んだあと、じっくり話を聞けばいいだけだ。
 涼葉の顔色は黄色っぽくなっていて、いい顔色ではなかった。




「具合悪いのに、よく書けたな」
「私、才能あるから」
 いつもなら、だったらその才能を世に出せって強く言い返していたところだけど、涼葉の血色の悪い顔を見ていたら、そんな気になんてなれなかった。

「面白かったよ」
「――ありがとう」
 涼葉は静かにそう僕に返してくれた。左側の背の高いガラス窓から、午前中の白くて爽やかな光が差し込んでいて、今、座っている場所が少しだけ暑く感じた。もうすぐ10月になるのに、ここだけ夏が戻ったようなジリジリした暑さに感じた。
 
「ただ、心配だよ」
「――実はね、大丈夫じゃないんだ。私」
 涼葉の声は静かすぎて、嘘を嘘と言えるような雰囲気ではないように感じた。というか、きっと、大丈夫じゃないのは本当なんだと思う。
 
 ”自分がこの世界に存在していることを自分の言葉で残したら、かっこいいかなって。”
 
 そう言っていたことを思い出した。まだ2週間も経っていないあの言葉がすべてを語っていたのかもしれないと突然、頭の中で結びつき、そして、まだなにも起きていないのに、嫌な気持ちで息が詰まりそうな感覚がした。

「まさか――」
「そう。そのまさか。余命宣告では1年前に死んでる予定だった」
 その瞬間、A Day in the Lifeが流れ始めた。静かで夢の中みたいな穏やかな曲と、アラームで起こされ、慌ただしい日常が始まる曲が1曲になった世界で、その穏やかな世界が終わるとき、オーケストラのストリングスが徐々に大きくなり、不気味さを作る。
 そして、不気味さで夢から現実に戻る。
 この不気味なストリングスのところだけが、何度も脳内で再生されているように感じた。

「私、1年前には死ぬはずの診断だっただよ」
「待って。もう、余命宣告は受けてたってこと?」
「珍しく察しが悪いね。そうだよ。もう、中学生のときに余命宣告されてたんだ。だから、今、こうして奏哉くんが私と話してること自体、奇跡なんだよ」
 僕は次に涼葉にかける言葉が思いつかなかった。そして、少し前のやりとりをまた思い出した。

 ”もし、人が死んじゃうまでの残りの日数を見ることができるようになったらどうする?”
 ”じゃあ、質問を変えるね。もし、もうすぐ死ぬのが、私だったらどうする”

「あの話、全部、涼葉のことだった」
「気づいちゃった?」
 いつものようにおどけて、そう返す涼葉のあどけない表情はいつも通りだけど、そんな表情、黄色い顔してじゃ、似合わないよ。

「あのとき、言ってくれたこと嬉しかったよ。だから、今日、言うことに決めたんだ」
「なあ」
「なに?」
「カフェインは飲んでも大丈夫なの?」
「ふふっ、なにも脈絡ないじゃん」
「ちょっと待ってて」
 僕はそう言いながら、立ち上がり、カフェの方へ向かった。




 なんとなく、身体を冷やしちゃいけないと思い、ホットのカフェラテを2つカフェで買って、ペンギンみたいな間抜けな歩き方をしながら、涼葉がいるテーブルへ戻った。
 遠くから涼葉を見ると、ノートを広げて、何かを書いているようだった。

 ゆっくり慎重に歩き、ようやっと涼葉の元へ辿り着き、カフェオレが入った紙コップを涼葉の前に置くと、ありがとうと小さな声でそう言いながら、ペンでノートに何かを書き続けていた。
 僕が椅子に座っても、その作業が終わる気配がなかったから、僕はバッグからAirPodsと、iPhoneを取り出した。そして、AirPodsを耳につけた。

「ねえ」
 涼葉は急に書くのをやめて、顔を上げた。
「なに?」
「片耳で聞かせてよ」
「えっ。ダサい曲しか入ってないよ」
「いいの。ビートルズの明るい曲聴きたい気分なの」
 弱く微笑んだ涼葉は左手をこちらに差し出してきたから、僕は左耳のAirPodをとり、そして、涼葉に手渡した。

「なに聴きたいの?」
「そんなのわからないよ。私、ヘルプしか知らないもん」
「わかった。じゃあ、とびっきりダサい曲かけてやる」
 僕はiPhoneでSpotifyを開いて、抱きしめたいを流した。すると、涼葉ふっと鼻で笑ったあと、再び何かをノートに書き始めた。

 


「できたー」
「おつかれ」
 僕がそう返すと、涼葉はペンを机の上に置き、両手を組んだあと、両腕をあげて身体を伸ばした。

 テーブルに置いたiPhoneをタップして待ち受けを表示させると、涼葉がノートに何かを書き始めてから、2時間が経っていた。その間に僕はずっとニュースフィードを見たり、SNSを見ていた。
 その行為は涼葉と比べて、あまりにも無駄に思えた。涼葉の時間は限られているのに。

「ねえ、奏哉くん」
「なに?」
「どんな話、書いたと思う?」
「恋愛小説に決まってるだろ」
「わからないよ。急にミステリーとか書いたらどうする?」
「ノートを閉じて、ビートルズを聴くことに戻る」
「酷いなぁ」
「嘘だよ。どんな小説でも読むよ。涼葉の小説だったら」
「ありがとう。じゃあ読んでね」
 そう言って、涼葉は開きっぱなしだったノートを僕の方に向けて、差し出してきたから、僕は両手でノートを手元に寄せた。





「いいね」
「ありがとう」
 僕はいつものように涼葉を褒めると、涼葉はいつものように嬉しそうな表情をしていた。僕は紙カップを手に取り、残ったままだったカフェオレを飲みきった。カフェオレからは熱が消え、ミルクが溶けきり甘ったるくなっていた。

「やっぱり面白い話書くね」
「そうでしょ。だって、私――」
「天才だから」と僕は涼葉が言いそうなことを先回りして、口に出すと、ちょっと、私のセリフ取らないでよ。と少しいじけたように涼葉はそう返してきた。そして、僕の手元に置いたままだったノートをすっと自分のほうへ取り、そして、ノートを閉じた。
 涼葉は、さっきより気持ち、顔色がいいように見えた。こんないつもの調子の涼葉を見ていると、余命宣告から1年以上経っている彼女が消えるわけがないと思った。

 僕は涼葉が小説を書いている間のこの2時間、ずっと彼女の命について考えていた。本当に彼女が言う通り、人があと何日生きれるのかを数字で見ることができたらいいのにと思った。さっき、涼葉は余命宣告をもうとっくに過ぎたって言っていた。
 新たな余命宣告はされているんだろうか。
 それとも、もう、余命宣告した頃から時は過ぎたから、予断はできない状態で、いつ死んでもおかしくないとか、そんなこと言われているんだろうか。
 そんなことを涼葉に聞くなんて、残酷すぎるから聞きたくない。
 だから、僕は自分を強く保つしかない。
 ただ、僕が不意に聞いた残酷な事実をしっかりと受け入ればいいんだ。 
 
「ねえ、奏哉くん」
「なに?」
「――そんな寂しい顔しないでよ」
「してないよ。ただ、腹減ってきたなって思っただけだよ」
「嘘つき」と涼葉はしっかりと通る、真剣そうな低い声でそう言った。
 その一言で、一瞬で時が凍ったみたいに思えた。そんなに考えていたことが表情に出ちゃってたかな。それだったら、涼葉に謝らないと――。

「ねえ」
「なに?」
「奏哉くんは優しいよね。優しいけど、奏哉くんの気持ちが見えないし、わからないよ。いつも、相手のことばかり考えているんだろうけど、たまに奏哉くんはどこにいるんだろうって思うことがあって、寂しい」
 どうして寂しいんだろう。だって、僕はただ涼葉のことが好きだから、涼葉が一番いいと思うことをしようとしているだけなのに。

「――寂しい思いさせてるなら、謝るよ」
「いや、謝らなくていいよ。謝らなくちゃならないのは私だから。――本当は余命宣告受けて、それが過ぎていること告白受けてからすぐに言おうと思ったんだ。だけど、それがすごく嫌だったの」
「――どうして」
「どうしてって、バカじゃないの。そんなことも察しがつかないの? 優しい癖に。片思いだと思ってた男の子にようやっと告白されて嬉しかったからに決まってるじゃん」
 そのまま、涼葉は下を向いてしまった。僕はすっと息を吐いた。ガラス窓から3階分の吹き抜けに差し込む日差しはいつの間にか、午前の黄色さから、昼過ぎの白さに変わっていた。

 そっか、僕にしてみたら始まったばかりのつもりだったけど、彼女にしてみたら、遅すぎる始まりだったんだ。涼葉とは最初からやけに話が合うし、どうしてこんなに楽しいんだろうとしか思ってなかった。だけど、それが彼女にしてみれば、あまりにも遅すぎたんだ。
 僕がそんなことを考えているうちに、涼葉は余命宣告まで残りわずかで、僕が知らないうちに余命宣告より先の誰にもわからない世界を彼女は一人ぼっちで生きていたんだ――。

「――これからはひとりじゃないよ」
 僕がそう言うと、涼葉は顔を上げて、じっと見つめてきた。いつもの吸い込まれそうな瞳が神秘的でミステリアスな雰囲気を感じる。

「これからはひとりじゃないし、余命なんて関係ない。だって、今、余命を越して涼葉は生きているじゃん。僕はただ、その事実だけでいいし、すぐに死ぬなんて思わないよ」
 思ったことを言い終わると、ちょうど院内放送のチャイムが流れ、誰かが誰かを呼び出していた。僕はあの日、涼葉にされた質問の返しを思い出した。

「ねえ。もし、私の寿命が残り30日を切ってたらどうする?」
「涼葉と最後まで一緒にいたい。1秒でも長く。そして、次の小説ができるのを待つよ」
「――ありがとう。また新しいの書くね」
 涼葉は寂しそうな目をしたまま微笑んだ。その姿をみて、僕は胸の奥からじわっと締め付けられる感覚がして、すべてが嫌になった。
 



 木曜日は憂鬱のままぼんやり過ごし、そして、金曜日になった。
 放課後になり、僕はいつも通り職員室に行った。そして、顧問に用事があるから図書室を開けないと伝えた。

 職員室を出たあと、バッグからiPhoneを取り出し、涼葉にLINEを送るとOKのスタンプが返ってきた。



 病院に着き、水曜日に座った吹き抜けの広場へ行くと、水曜日と同じテーブル席に紺色のパジャマを着た涼葉が座っていた。いつものノートを開き、何かを読んでいるように見えた。
もしかしたら、また新しい小説を書いたのかも知れない。僕はそんな彼女を見ながら、一歩ずつ彼女の方へ近づき、そして、手が届くくらいの場所までたどり着いた。
 
「なに書いたの?」
 そう言いながら、椅子を引き座った。涼葉は顔を上げたあと、
「遅いよ。たった今書き終わったところ」
 涼葉はそう言って、ノートを閉じたあと、微笑んでくれた。

「なに書いてたんだよ」
「今回は内緒」
「なんだよ。いつもならすぐに見せてくれるのに」
「ねえ、いい知らせあるんだけど」と涼葉は僕の話題をさえぎって、いきなり右手の人差し指を僕の方に指してきた。
「悪い知らせは?」
「明日、退院できます」
 人差し指を僕の前でぐるぐるさせたあと、涼葉は満足そうな表情をして、指を引っ込めた。

「お、マジで。おめでとう」
「ありがとう。このまま居ても手の打ちようがないからいいんだって」
 涼葉は微笑みながら、いつもの調子でさらっとそんなことを言うから、胸の奥から、つらい気持ちが込み上げてくる感覚がした。だから、僕はその内側を悟られないように、その言葉がなかったかのように話を続けることにした。

「月曜日から、また一緒に図書室で話せそうだな」
「ううん、日曜日から一緒にいたい。本当は土曜日から一緒にいたいけどね」
「えっ、大丈夫なのかよ」
「大丈夫に決まってるでしょ」という無駄に元気そうな涼葉の声が辺りに響いたけど、その大丈夫の主成分は失望がほとんどのように感じた。

「わかった。またどこかで話そうぜ」
「私、夏の名残が終わる前に海に行きたいな」
 涼葉はそう言ったあと、念を押すように、ねえ、いいでしょ? と聞いてきた。そのあとすぐ、お団子にまとめていない肩までかかった髪先が空調の風で揺れた。




 通話を始めてから、光が強い部屋のシーリングライトを消した。
 机に置いてあるライトグリーンのデスクスタンドの電球色が心細く、部屋のなかを柔らかく照らしている。ベッドに寝転がりながら、涼葉の優しい声を聞き、いつものようにお互いにくだらないことばかりを話していた。
 話は尽きることはなく、たまに時計の針を見ると、あっという間に進んでいた。

「ねえ、奏哉くん」
「なに?」
「日曜日になったね」 
 土曜日は、涼葉との3時間くらいLINEでの通話で簡単に終わってしまった。こうして話しているだけだと、涼葉が簡単にこの世界からいなくなってしまうなんて思えなかった。

「そうだね」
「今日もね、小説書いたんだ。すごいでしょ」
「すごすぎる。小説書いてて疲れないの?」
「全然、疲れない。むしろ、毎日ベッドで横になってたときのほうが疲れたわ。――私、もっと早く書き始めてたらよかったかも」
 よかったかも。ともう一度、僕の頭の中で涼葉の声が響いた。それは秋が終わりを告げて、真夜中に初雪がそっと降り始めたみたいな寂しさだった。

「うーん、思いついたときに始めるのがベストなんじゃない?」
「もっと、はやく始めてたら、小説書くのが生きがいになってたかも」
「――今からでも遅くないと思うよ」
 僕は適切な言葉を選んだつもりだったけど、言ったあと、冷静になると、やっぱり適切じゃないように思えた。
「――そうだよね。小説家、目指そうかな」
「いいと思うよ。高校生でもデビューしてる人、たくさんいるらしいし」
 普通だったら、こんな他愛のない漠然とした将来の夢の話をすることは、普通に感じると思う。だけど、涼葉とこんな話をすると、すべて空虚に思えた。

「だよね。長い小説でも書いてみようかな」
「――読みたいな。涼葉の長い小説」
「わかった。じゃあ、長い夢みたいな小説書くね」
「待ってるよ」
「まかせて。天才だから」
 さっきよりも涼葉の声が弾んでいるような気がして、僕は少しだけほっとした。




 待ち合わせ時間より3分早く着いた。僕はバッグからiPhoneを取り出した。
 そして、iPhoneをタップし、LINEを起動したあと、涼葉にメッセージを送った。駅の入口の前で立っていると、駅に向かって来るいろんな人が目につく。先週より少しだけ柔らかい黄色になった日の光がバスロータリーを照らしていて、コの字の端には2台のバスが止まっていた。
 
「おまたせ」
 左側から聞き慣れた声がしたから、その方を向くと涼葉が小さく手を振って、こっちに駆け寄ってきた。黒の袖のないワンピース、ワンピースの内側に長袖の白くて柔らかそうなニットを着ていた。その姿は大人っぽく、落ち着いた雰囲気に見えた。
 
「袖なしのワンピース、大人っぽくていいね」
「いいでしょ、黒のキャミワンピ。なんとなく黒の気分だったんだ」
 そう言って、涼葉は柔らかく微笑んだ。今日はいつものように色白の顔をしていて、僕はほっとした。たぶん、退院してから調子がよくなったんだ。病院で見ていた涼葉と比べて、僕は根拠なんてないことに安心した。

「秋の海に似合いそう」
「海に行く前にスタバに行こう。小説読んでよ」
 いいよと僕が答えると、涼葉は僕の左手を繋いだ。それで一気に心拍数があがったけど、涼葉はそんな僕のことなんて構わない様子で、僕を引っ張るように駅ビルの中にあるスタバの方へ歩き始めた。





「これが昨日、書いたやつ?」
「そう。面白かったでしょ」
 ひとりがけのソファに沈みこんでいた涼葉はそう言いながら、テーブルの方に身を乗り出した。そして、紙カップを手に取り、ホットの抹茶ティーラテを一口飲んだ。僕はテーブルにノートを置いたあと、僕も涼葉と同じようにプラスチックカップを手に取り、アイスのドリップコーヒーを一口飲んだ。
 
「今回もよかったよ」
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいよ。本当にいつもありがとう」
「なんだよ、急に」
 縁起でもない。と続けて言いそうになったけど、直前になって気づき、言うのをやめた。今は嫌なことなんて忘れて、今を楽しむことに集中しよう――。

「本当にそう思ってるからだよ」
「次も待ってるよ」
 僕はそう言ったあと、さっき思ったことを誤魔化そうと思い、ストローをもう一度咥え、アイスコーヒーを飲んだ。

「――ねえ、これで最後にしようと思ってるんだ」
「えっ、だって昨日――」
「うん、昨日言ったでしょ。次は長い夢みたいな小説書くって」
「そうじゃん。なのに、なんで最後なんだよ」
 僕がそう返すと涼葉はじっと、僕のことを見つめてきた。いつものように透明感がある瞳にまた今日も僕は吸い込まれそうな気分になった。

「――さすがに手書きはキツかなって思って」
「えっ?」
「手書きは最後にしようと思ったんだ」
「なんだよ、それ。びっくりした」と言うと、涼葉は、ふふっと弱く笑った。騙されたー。と僕は心の声をそのまま口に出したあと、手に持ったままのカップを口元に寄せて、ストローを咥え、さらにアイスコーヒーを飲んだ。

「だから、このノート、一回預けてもいい?」
「え、なんで。意味わからないじゃん」
「いいでしょ。私、しばらく長い小説、iPadで書くことにしたから。親にそれ言ったら、昨日、キーボード買ってくれたんだ」
「ちゃっかりしてるな」
「でしょ。私、本気で目指すから。応援して」
 誇らしげな表情をしながら、涼葉は紙カップを手に取り、そしてまた、抹茶ラテを一口飲んだ。

「応援はもちろんするよ。てか、めっちゃ楽しみだし。だけど、ノート預かるのは意味わかんない」
「なぞの抵抗じゃん、それ。うーんとねぇ。私、長い小説書いてる間、奏哉くん、読むものなくなるでしょ。すると、退屈じゃん。だから、退屈しのぎに貸してあげるの」
 カップを置いたあと、再び涼葉は僕のことをじっと見つめてきた。
「なんかそれ、僕がすごい暇人みたいじゃん」
「とにかく、長い小説が完成するまで預かってほしいの。私がこの世界に存在していることを残したいから」
 じっと見つめられたまま、そう言われて僕は次に言い返す言葉なんて思いつくはずもなかった。

「――いいよ。長い小説完成させるまで預かるよ」
 そう返すと涼葉はニコッとした表情を浮かべた。
「ありがとう。――愛してるよ。マイダーリン」
 急にそんなこと言われたから、僕は思わず鼻から息を抜くように、ふっと笑ってしまった。




 スタバを出て、学校と反対方向の切符を買い、ホームで数分電車を待ち、そして、電車に乗った。日曜日の11時台の電車は比較的空いていて、僕と涼葉は青いロングシートの端に横並びで座ることができた。
 5駅先の終点で、その終着駅の先に僕たちの目的地がある。
 
「疲れてない? 大丈夫?」
「大丈夫だって。私のこと、病人扱いしないで」
「別に病人じゃなくたって、聞くよ」
「まだ、スタバ行って、電車乗って、1時間ちょっとしか経ってないのに?」
「ごめんなさい」
「なんか、それ嫌だなぁ。私が脅したみたいじゃん。謝らないで。そんなことより、ビートルズ聴きたいな」
 そう言われて、僕は思わず左側に座る涼葉を見た。涼葉はニヤニヤした表情を浮かべていた。今日はお団子ではなく、青いレースのシュシュで髪は一本にまとめられていた。隣に座っていると、そのシュシュが視線に入り、思わず意識してしまう。

「ダサかったんじゃないのかよ」
「気にし過ぎだよ。奏哉くんは。別にいいじゃん、好きな人の好きな音楽を聴きたいって思うのは自然なことでしょ」
 そう言われて、僕ははっとした。
「――あわせなくていいよ」
「違うよ。私は奏哉くんが好きなものを好きになりたいだけなんだよ。だから、聴かせて。テンションあがる曲」
 バッグからAirPodsと、iPhoneを取り出した。そして、ケースからAirPodsの片方を取り出し、それを涼葉に渡した。涼葉は優しい表情を浮かべながら、ありがとうと言ってくれた。
 だから、僕はiPhoneでSpotifyを起動し、She Loves Youを選んだ。曲をタップしてすぐにアップテンポの軽いドラムが流れてすぐに、ジョン・レノンとポール・マッカートニーのダブルボーカルで歌い始めた。
 
「これ、聴いたことある」
「初期の代表曲だよ」
「そうなんだ。ヘルプくらいしか、わからないからなんか、新鮮かも」
「でしょ」
「古臭いけどね。ねえ、どうしてビートルズのことが好きになったの?」
「おじいちゃんレコードコレクターで小さいとき、よく聴かせてくれたんだ。ビートルズもそうだし、ボブ・ディランとか、ドアーズとか、ビーチボーイズとか、レッド・ツェッペリンとか、色々聴いて好きになったんだ」
「そうなんだ。ボブ・ディランしか名前わからない」
「だよね。曲聴けば、聴いたことはあると思うよ。レジェンドばっかりだから」
「へえ。その中でもビートルズなんだ」
「うん。ポール・マッカートニーもいいけど、なぜかわからないけど、ジョン・レノンが手掛けた曲のほうが好きなんだ」
 そのことをおじいちゃんに言ったら、奏哉はジョン派かと言って笑ってくれたのを思い出した。おじいちゃんは自分の部屋に大量のレコードを残したまま4年前に旅立ってしまった。

「へえ。イマジンだっけ。よくものまねされる方だよね? メガネの」
「そうだよ。切なくて変わった曲が多いんだ。この曲もレノンが作ったって言われてる」
「へえ。――悪くないね」
「でしょ」
 僕がそんなことを言っている間に電車は1つ目の駅に到着し、惰性で僕の肩が涼葉の肩に触れた。




 終点に着いたあと、そこからバスに乗った。後ろから2番目の左側の席に横並びで座った。バスも空いていて、車内には僕と涼葉以外に、数人しか乗っていなかった。そして、バスは動きだした。小さなロータリーを出て、右折し、丘の上にある駅から、バスは岬に向かって下っていく。
 下り坂の先には深い青色の海が広がっていて、水平線は白くキラキラしていた。バスの中でもお互いの片耳にAirPodsをつけて、ビートルズを聴き流していた。
 


 30分くらいでバスは岬の前のバス停に着いた。バスはそこで終点みたいで、客は僕と涼葉しか残っていなかった。
 バスを降りると、涼葉はまたいつものように咳き込み始めた。

「大丈夫?」
「病人扱いしないで」
 まだ整わない声で涼葉はそう言ったあと、僕の背中を軽く叩いてきた。
「咳してたら、心配するよ」
「優しいね。ありがとう」
「落ち着いた?」
 そう言って、僕は右手を差し出すと、涼葉は左手を出して、そして僕の手を繋いだ。

「だけどね、優しくしないで。もういろんなところがダメで弱ってるんだから」
「そんなこと言うなよ。――いこうぜ」
 ゆっくりと歩き始めると、涼葉はやる気のないピクミンみたいにゆっくりと歩き始めた。




 岬の展望台に着いた。岬の先端には白くて、古そうな灯台が立っていた。そして、手前の広場には、スチールの棒のハートの形のモニュメントがあった。ハートが浮いていて、ハートの先には白い灯台が見えていた。
 ハートの下の尖っているところは地面に埋まっていて、地面から45度くらいの角度で左右に伸びたスチールはそれぞれ空中で半円を描いている。その半円と半円が繋がり、ハートの頭になっていた。

「こんなのあったんだね」
 そう言って、涼葉は僕の手を離し、僕の数歩先まで出た。そして、左側のスチールに触れた。ハートのモニュメントはお昼の太陽の光を反射して、所々、白く見えた。
 僕は思わず立ち止まり、バッグからiPhoneを取り出し、カメラを起動し、画面越しに涼葉を見た。それに気づいた涼葉は、スチールに左手を置いたまま、右手でピースサインをして微笑んだから、その瞬間をデータ化した。iPhoneの画面越しで見る世界は、空には薄くて白い霞がかかっていて、海が白くキラキラ日差しを反射していた。そして、白い灯台は秋の弱くなった日差しでも存在感を出していた。
  
「青が似合うよ」
「変なこと言わないでよ。しかも、また、夢で見たことあるし」
「なんだよそれ。僕はただ、素直にそう思っただけだよ」
「変なの。奏哉こそ、小説書けそうだよね」
「中二病こじらせてたとき書いてた」
「やっぱりそうだよね。今度、小説書いてよ」
「嫌だよ。自分の文章、下手なの知ってるから」
「いいじゃん。それでも読みたいな」 
 涼葉はそう言いながら、黒のバッグからiPhoneを取り出した。そして、すぐにシャッター音がした。

「どこ撮ってるんだよ」
「いいじゃん。山側の奏哉くん。ビートルズが好きすぎて世間から逆行している奏哉くん」
「そんなことより、ふたりで写真撮ろうぜ」
 僕は涼葉の方へ歩いた。そして、涼葉の隣に着いたから、涼葉の肩に左手を回し、そして、僕の方に抱き寄せた。涼葉の髪からほのかにバニラの香りがした。僕はその匂いを感じながら、iPhoneのカメラ設定をインカメラにして、涼葉と僕のふたりだけしかいない世界を保存した。

「――ねえ」
「なに?」
「もっと近づきたいな」
「――いいよ」
 右手にiPhoneを握ったまま、僕は両腕で涼葉を抱きしめた。弱い風の音と、打ち寄せる波の音が世界の80%の音量を締めているように思えた。左肩が涼葉の首元に当たっていて、微かに涼葉の脈を感じた。

 


「潮風にあたれば元気になるんだって」
「これで元気になれるね」
「奏哉くんもね」
 灯台の横にあるベンチに座り、涼葉と横並びでぼんやりと午後の海を眺めていた。岬の岩肌に時折、強い波が打ち寄せ、灰色の岩が白くなっているのが見える。その先には深い青色が広がっていて、そのさらに先は、キラキラと太陽の光を反射して眩しかった。

「ねえ、奏哉くん」
「なに?」
「私、自分が書いた小説の登場人物みたいに達観できなよ」
「達観?」
 その意外な言葉を聞き、僕は思わずそう聞き返してしまった。涼葉を見ると、涼葉はただ前を向いたまま、海を眺めていた。弱い風で涼葉の前髪が微かに揺れた。

「まだまだ、やりたいこと、いっぱいあるなって――」
「――できるよ」
 そう言ってみたものの、どこか頼りない返しになってしまったような気がする。

「なんで、私、身体弱く生まれてきたんだろう」
「――余命宣告だって打ち破ったじゃん。これから先もきっと大丈夫だよ。奇跡の連続が起きる気がする」
「ふふっ。奇跡ね。やっぱり優しいよね」
「ううん。これは優しさじゃないよ。僕の本心だよ」
 もう一度、弱い風が吹き、涼葉の前髪がまた揺れた。膝に置いたままの涼葉の左手の上に僕の右手を重ねた。涼葉の手は冷たかった。

「あー、なんでだろう」
 その小さな声がなぜか、大きく虚しく辺りに響いたような気がした。泣きたいのかもしれないと思い、涼葉をもう一度、見ると涼葉は前を見たままだった。
 目元は濡れてなかった。
 涼葉はただ、寂しそうな表情をしていた。




 サイゼリヤでディナーを食べ終え、ピザが入っていた大皿を店員が持っていったあと、ほとんどの時間を、こうして手を繋いでいた。話している時は人目なんて気にしないで、ずっとテーブルの上で手を繋いでいた。
 オレンジ色が窓から差し込む電車に乗り、地元に戻ったあと、その足で入った店内は比較的空いていたはずだったのに、いつの間にか、多くの人たちでテーブルが埋まっていた。左側の窓を見ると、世界は闇に包まれていて、駅前通りを走る車がLEDの優しくない白色のベッドライトをつけながら、何台も店の前を通り過ぎていった。
 さっき岬で見た寂しそうな表情なんて何もなかったかのように、いつものくだらないをしていた。

「長い夢の小説のこと、ネタバレしてもいい? 今、思いついた」
「今、思いついたんだ。すごいね」
「すごいでしょ。話していい?」
「いいよ。聞きたい」
 そう返すと、涼葉は口角を弱く上げて、満足そうな表情を見せた。

「書き出しなんだけど――。あ、ちょっとまって。一回、ノート返してもらってもいい?」
「わかった。書いたほうが早いってことか」
「そう。そういうこと」
 僕は涼葉から、手を離し、バッグからノートを取り出して、渡した。涼葉はノートを開いたあと、バッグからペンケースを取り出し、その中から、シャーペンと消しゴムを取り出した。そして、すっと息を吐いたあと、何かを書き始めた。
 どんな書き出しなんだろうと、思いながら、僕はグラスを手に取り、コーラを一口飲んだ。そして、グラスをテーブルに戻した。その間にもノートの一段目は文字で埋まっていった。

「できた」
 涼葉はノートを僕のほうに向けてきたから、僕はノートを手元に寄せて読み始めた。ノートにはこう書かれていた。

〈切なさの音符が旋律上で暴走する。長い夢の中で迷子になった私は君に、また会えるの? と聞き忘れてしまった。起きてその後悔が強くて、私は自分自身の人生が思うように上手くいかないなって、ため息を吐いた。
 また会える日を楽しみにしてるよ。どんなことがあってもまた一緒になりたい。
 私の寂しさは胸で青色に溶けて、そして切なさは胸の中で生き続けていた。〉

「雰囲気ある」
「でしょ。それでね、夢で会った男の子と白い灯台のある岬で、運命の再会をするんだ」
「今日行った、岬の灯台?」
「そう。そういうところ。それで、夢の中でまた会えるのって聞き忘れてしまったって、急に男の子に話しかけられて、そこから一気に恋が実っていくの」
 僕は開いたままのノートを涼葉のほうに戻した。すると、涼葉はノートを受け取り、手元に寄せた。

「それで、そのさきは?」
「焦らないでよ。それで、色々あって上手くいくんだけど、男の子には、重大な秘密があるの」
「なんだよ。もったいぶって」
「なんだと思う?」
 そう聞かれて、少しだけ考えてみたけど、その男の子の秘密なんて思いつかなかった。

「わからないや」
「その男の子は死神なの」
「え、じゃあ、死神に口説かれてる話ってこと?」
「そう。それで、その死神は元々、死神じゃなくて、普通の男の子だったんだけど、ある日、行方不明になって、死神に任命されちゃったんだ。だけど、男の子は死神として、誰のことも今まで殺めたことはなかったの」
「そしてどうなるの?」
「男の子は偉い死神から、女の子を殺めるように言われるけど、それが出来ないでいるの。だから、夢の中で女の子を口説いた。だけど、それが奇跡の出会いだった。実は女の子は自分でも自覚していないだけで、巫女の才能があって、神社で死神から殺める力を失わさせる効力を持っていて、男の子から無事、その死神の能力を失わさせて、よかったねっていうハッピーエンドな話」
 そう一気に言い終わったあと、涼葉はカップを手に取り、ジャスミンティーを一口飲んだ。そして、テーブルにカップを置いた涼葉はものすごく満足そうな表情をしていた。
 さっき、言ったことだけで、小説を書き切ったみたいな、そんな雰囲気に見えた。

「思ったより壮大」
「でしょ。大作になる予感しかしないでしょ。あ、これ画像にしなきゃ」
 涼葉はバッグからiPhoneを取り出し、それをノートに向けた。そして、シャッター音がしたあと、iPhoneをバッグのなかに戻した。

「やっぱり、ノート持って返ったほうがいいんじゃない?」
「違うの。奏哉くんの暇を埋めてあげるの。私の小説で」
「やっぱり、暇人扱いじゃん」
「ううん。奏哉くんの時間を少しでも私で埋めたい独占欲だよ」
 そんな、間接的な告白で僕は少しだけ恥ずかしくなった。そんな僕のことなんて構う様子なんてなさそうに、涼葉はノートを閉じ、そしてノートをまた差し出してきた。だから、僕はノートを受け取り、自分のバッグにいれた。

「あーあ、いつまでもこんな時間が続けばいいのに」
 ポツリとそう言ったことが、すべての本音だと僕は思い、ただ、胸が締め付けられるように苦しくなった。




 家に帰ってから、1時間くらい涼葉と通話をした。そして、明日が来なければいいのにと、涼葉は何度も言っていた。
 そして、月曜日に会うことを約束して、月曜日になる1時間前に通話を切った。

 月曜日になり、いつも通り退屈な学校生活をこなした。涼葉と過ごした昨日が夢みたいに思え、一日中ぼんやりとしていた。放課後になり、図書室でお団子ヘアの涼葉とまたいろんな話をした。そして、火曜日は図書室で会わずにイオンのフードコートで話をして、適度な時間に帰り、夜、少しだけ通話をした。
 そうして、図書室で会う日、図書室で会わない日はこうやって過ごし、土曜、日曜のどちらか1日は外でデートをした。
 そして、本当に平和なまま、9月に入院していたことなんて忘れたまま、涼葉が退院してから、2週間が経ち、10月になった。




 月曜日。

 僕はいつものように職員室に図書室の鍵を取りに行った。涼葉は来てますかと、顧問に聞くと、顧問が壁に備え付けのホワイトボードを指した。
 ホワイトボードの2年の病欠欄には、涼葉の名前はなかった。

 ドアの鍵を開けて、図書室に入ろうとしたとき、
「おつかれー。ダーリン」と後ろから声がした。だから、僕は後ろを振り返ると、制服姿の涼葉が胸元くらいの高さで、右手を小さく振っていてた。涼葉を見ると、いつもよりも色白く見えた。色白を越して、すこし青みがかっているようにも見えた。唇もルージュを塗ったみたいに淡い紫に見えた。
 日曜日は会わず、土曜日にスタバで少しだけ話した。そのあと、具合が悪いと言ったから、帰ることになり、日曜日はメッセージだけのやり取りだけで終わっていた。

「大丈夫?」
「大丈夫。さすがに学校はサボらないよ」
「いや、顔色悪い」
「いいよ。具合悪くなったら、帰るから少しでも一緒にいたい」
 僕はもう一度、強く止めようと言おうと思った。だけど、いつになく真剣そうに、なにかを訴えかけてくる、そんな涼葉の表情で言い出せなかった。


 
 カウンターにいつものように横並びで座っているけど、やっぱり、涼葉は具合悪そうに見えた。座っているのもキツそうな雰囲気だ。
「床に座ろうぜ」
「え、でも、カウンターから人、いなくなっちゃうじゃん」
「こうすればいいんだよ」
 僕は立ち上がり、カウンターを出て、図書室のドアを締め、鍵をかけた。そして、ドアの窓についている〈閉館中〉の札をつけた。

「嘘つきじゃん」
 ふふっと、弱々しい涼葉の笑い声が響いた。
「蔵書整理日。どうせ、だれも来ないよ。みんな部活か、バイトだ」
「だよね。ごくわずかの利用者の陰キャに優しくないね」
「いいんだよ。ほら、椅子に座るのやめようぜ」
 そう言うと、涼葉はゆっくり立ち上がり、そして、カウンターの中の壁側まで歩き、壁に寄りかかってカーペットに座った。蛍光灯の明かりの下で見る涼葉の顔色はやっぱり青白かった。僕はカウンターに戻り、涼葉の隣に座った。

「――もうダメかも」
 僕が座ってすぐ、そんなこと言うから、本当に身体がきついんだと感じた。
「そんなこと言うなよ。まだ、長い夢の小説、できてないだろ」
「これでも、毎日書いてるんだよ」
「だから、完成させないと」
「ねえ。もし完成できなかったら奏哉くんが引き継いで書いてね」
「――なに言ってるんだよ」
 僕はそれしか返す言葉がでなかった。そのあと、すぐ涼葉はいつものように何度か咳をした。だから、僕は涼葉の背中をさすった。

「ずっと、優しいままだったね。奏哉くんの印象、ずっと変わらなかったなぁ」
「そういう冗談はやめろよ」
「いいじゃん。弱ってるときなんだから、少しは本当に思ってること話しても」
 そう言ったあと、また弱々しく、へへっと涼葉は笑った。エアコンの送風の音と、時計の秒針だけが静かに響いていて、ここの中が無菌室や水槽の中のように感じた。ずっと、涼葉とふたりでこの中で暮らしたら一体、どんな生活になるんだろうと、どうでもいいことを僕は考えた。

「ねえ、ビートルズ流してよ」
「いいよ」
 僕は一歩先くらいに置いてある自分のバッグに手を伸ばし、バッグを手繰り寄せた。そして、バッグからiPhoneを取り出し、Spotifyを開き、一番最初に表示された〈ザ・ビートルズ・アンソロジー2〉をタップした。
 不安定で繊細な聞き慣れたReal Love のイントロが流れ始めた。
 
「いい曲だね」
「でしょ。ビートルズ最後の曲」
「レットイットビーじゃないの?」
「ジョン・レノンが死んだあとにデモテープをもらって、残りの三人で作ったんだ。だから、これが最後の曲」
「本当に好きなんだね。もっと自信持ってもいいと思うよ」
「ありがとう。そうする」
 そう言うと、涼葉は微笑んでくれた。

「ねえ。ひとつだけお願いがあるんだけどいい?」
「いいよ」
「ただ、抱きしめて」
「――いいよ」
 隣に座っている涼葉の背中に左手を回すと、涼葉は僕に寄りかかってきて、僕の胸の中にきた。髪からほのかにバニラの香りがした。そのまま右手も涼葉の背中に回し、涼葉のことを抱き寄せた。涼葉も両手を僕の背中に回し、僕と涼葉はただ、密着した。
 黙ったまま、僕の左肩に頭を乗せていて、このまま時が止まってしまえばいいのにって強く思った。だけど、Real Loveは流れ続けているし、時計の秒針は一秒一秒をしっかりと刻んていたし、エアコンもしっかりと外の風を図書室に送り込んでいた。

「――やり残したこと、いっぱいあるなぁ」
「大丈夫。まだ涼葉は生きてるだろ」
「今はね。――私、たまにデジャブ見るんだ。今もそうだよ」
「じゃあ、今まで言ってたのも、本当に夢で見てたんだ」
「なに言ってるの。私は本当のことだから、素直に言ったのに」
「なんか、小説書いてる延長みたいなものかと思ってた」
「変なの」と言って、涼葉は弱く笑った。今まで一度も、そんな経験をしたことがないから、本当にそんなことがあるんだと、よくわからないけど、僕は納得してしまった。

「デジャブってどんな感じなの?」
「なぜか一言だけ、印象に残ってたりするの。ほとんどは一瞬見た光景とか、一言とかだけなんだけどね」
「へえ。そうなんだ」
「だけどね、今回のデジャブはね。ちゃんとオチがあるんだよ」
「オチ?」
「――ここで死んじゃうの」
 涼葉の声が震えていた。本当に怖い夢だったんだと思うけど、まだ何も起きてないよ。って言おうと思ったけど、そんなこと言わずにただ、両腕に力を入れて、涼葉をしっかり抱きしめた。

「――私、死にたくない」
「大丈夫だよ。涼葉」
 お互いに二人しか聞こえないような小さい声でそうやり取りをした。いつの間にかReal Loveは終わっていて、Yes It IsがiPhoneから流れていて、僕と涼葉だけを置いて、穏やかでのほほんとした空気になっていた。そして、涼葉はそっと、僕の背中から両腕を離し、僕から離れ、抱きしめる前と同じように、壁に寄りかかった。

「もっと、奏哉くんとたくさん楽しいことして、ずっと一緒にいたかったな」
「変わらないよ。今も、この先も」
「――だけど、もう、十分自分がこの世界に存在していることを自分の言葉で残した気がする。あとはお願いね」
 涼葉は左手で胸をさすり始め、鈍い表情をしていた。

「ダメだ。痛むんだろ」
 僕が立ち上がると、涼葉は僕の左腕を掴んだ。だから、僕はもう一度、涼葉の前に座った。
「……行かないで」
「ダメだよ。助け呼ばないと」
「ふふっ。このシーンも夢で見たな。やっぱり、私、今日で最後かもね」
「やめろよ! もっと、楽しいことたくさんしよう。そして、ずっと一緒にいよう」
 涼葉は微笑んでいた。だけど、いつの間にか、頬は濡れていて何粒も、涙が蛍光灯で輝いているのが見えた。

「……奏哉くん。愛してます。一緒にいてくれてありがとう」
 そのあと、左腕を掴まれていていた力が急に弱まった。そして、涼葉を見ると、涼葉は目をつぶっていた。

「――この世界から消えないでほしい」
 僕はそう呟いたあと、再び立ち上がった。
 



 涼葉は火曜日に亡くなった。
 その火曜日から、僕の心は何者かに鷲掴みにされて、そしてきれいに抜き取られたように空っぽだった。なにも考えられない日々が続き、それは涼葉の葬儀の日も同じだった。

 葬儀が終わり、僕は駅のホームで電車を待っていた。夜のホームには数人がポツポツと立っているだけで寂しかった。本当は家まで我慢しようと思ったけど、僕は我慢できなくなり、涼葉の母から受け取った青い花柄の封筒をバッグから取り出した。
 ベンチに座り、両手に持った封筒をじっくりと見た。

『奏哉くんへ』

 いつも、ノートで見慣れた丸っこい字でそう書かれていた。
「遺書ってことか」
 そうぼそっと呟いてみたけど、僕の隣で、笑ってくれる人なんて、もう存在しなかった。封筒を開けて、手紙を取り出した。そして、手紙を開くと、ノートと同じように見慣れた字がたくさん並んでいた。

『奏哉くんへ

 これを書いているのは、土曜日に具合が悪くなったからだよ。
 お医者さんから、この症状があると危険だって症状がとうとう出ちゃったんだ。
 だから、口では言えない、大事なことを伝えるね。

 まず、なんで奏哉くんのことが好きになったかを言いたいんだ。
 中学3年の受験生だったとき、うたた寝をしたとき、変な夢をみたの。
 男の子に「この世界から消えないでほしい」って言う夢だったんだ。
 
 そのことをノートの小説で〈冬の始まりの凛とした空気よりも、君は透明だった。〉にしたんだ。
 あの小説で書いたことがそのまま夢で起きた感じだったんだよ。
 それでその小説を奏哉くんに見せたら、奏哉くんがいいねって言ってくれたから、
 嬉しかった。
 
 それでね、その夢に出てきた男の子がまさに奏哉くんだったの。
 図書局に入って、奏哉くんのこと見たとき、奇跡だと思ったよ。
 そして、運命なんじゃないかってことも。
 だから、同じ曜日に入るようにしたの。

 だけど、高校合格したあとすぐに余命1年って宣告を受けてたから、
 本当は今すぐに付き合いたかったけど、
 1年後に死ぬのわかってて、そんなことするって、
 ものすごくつらいことだと思うから、やめちゃったんだ。

 だけど、宣告された時期も過ぎて、
 死期を逃した私は残り時間に縛れずに残りを生きようと思ったんだ。

 だから、小説を書き始めたし、
 自分と向き合うことができた気がするんだ。
 ある意味、長く生きるとか、そう言うことは諦めて、
 開き直ることにしたの。

 そんな中、奏哉くんが告白してくれたんだ。
 嬉しい反面、身体弱いこと言わないといけないとも思った。
 だけど、なかなか言い出せなかった。

 だって、楽しいんだもん。

 もっと、生きたいって、余命宣告受けて、
 その時期を越して、せっかく開き直ってたところだったのに。

 そして、私の小説を読んで、褒めてくれたのは毎回、すごく嬉しかったよ。
 だから、その気になって、長編小説書こうとしたのにさ。

 無理だったから、約束通り引き継いでね。
 これが私からの本当の最後のお願い。
 ただ、無理はしないでね。
 何十年でも完成するのを待ってるし、
 完成できなくても、奏哉くんのこと、とがめないから安心して。 

 小説はクラウドの中に入ってます。
 クラウドのIDとパスワード、別の紙に書いたから、よろしくね。

 最後に人に愛されることを知れた私は幸せ者でした。
 ありがとう、愛してます。
 
 PS ノートの最後から2つ前のページをみてください。
 


                            お空へ行った涼葉より』




 電車を降りたあと、僕はホームを走り、改札を抜け、外に出た。少しでも早く家に帰りたくて、シャッターが閉まり、すずらん街灯で薄暗い見慣れた商店街を走り抜けた。10月の夜の空気はすでに秋に満たされていて、少しだけ冷たかった。そして、商店街を抜け、住宅街に入ったとき、息が切れてしまい立ち止まってしまった。

 何度か大きく、息を吸い込むとやっぱり僕だけが生きているんだと、つらくなった。涼葉が咳き込んでいたことをふと思い出した。
 息が少しだけ整い、空を見上げた。深い藍色の空には、今日は月は浮かんでいなかった。その代わりにいくつかの一等星がまたたいているのが見えた。こんなにじっくりと夜空を見上げたのは、いつ以来だろう。
 涼葉が隣にいれば、こんなくだらないこと言っても、受け止めてくれてたんだろうな――。
 つらい波が胸のなかで何度も打ちつけ、喉の奥が熱くなりそうになった。

「泣くにはまだ早いだろ」とぼそっと言いながら、頬はすでにいくつもの粒で濡れた感触がした。




 部屋につき、机の下に置いてある椅子を引き、座った。そして、机に置きっぱなしの青いノートを手に取り、涼葉に言われたとおり、ノートの最後から2つ前のページを開いた。そこにはこう書いてあった。

〈9、すべての『』を繋げた君へ。〉
〈書いた小説の順に『』を拾ってね。私から奏哉くんへの最後のお願いだよ〉

 その文章の下に〈『〉が書かれていて、ページの一番下に〈』〉が書かれていた。そして、その間にそれぞれ数字が書かれていた。

『1→
 4→
 5→
 3→
 6→
 2→
 7→
 8→        』


「そういう意味だったんだ――」
 僕はノートの一番最初のページを開き、ひとつずつ涼葉がこの世界に残した小説を読み始めた。




『1→
『もし、こっちが世界から消えたら、忘れてね。』
『一瞬だけでも君と過ごせてよかったと思ってるよ。だから、忘れて。氷が溶けたあとの水たまりみたいにね。だからね、』『君が大切だってことを伝えたいんだ』
 
 4→
『身体には何本もの線が繋がれていて、それらの線は心電図の機械にまとめられていた』
『あのとき、ものすごく失望していたんだ』
『こんな自分の運命を受け入れることができなかったんだ』
『だけど、あれのおかげで、君の優しさに触れることができたし、初めて愛しいと思える人と出会えました』

 5→
『そのとき、』『見た夢の中でね』

『少しでも長く君と一緒にいて、話がしたいなって思った』
『私だって知りたいよ』『君のこと』
『なぜか自然に君にいろんなこと話してることに気がついたんだ。なんでだろうって思ったけど、たぶん、これが相性なんだろうなって思ったんだよ』
『私なりに考えた結果だよ』

 3→
『たまに予知夢、みるときがあるんだ』
『この前ね、』『死ぬ夢、みちゃったんだ』
『ふわふわしたような、嫌な気持ちは消えなかったよ』
『瑞々しかった過去の出来事になりつつあるのが少しだけ寂しく感じたから、そのまま伝えようと思ったんだ』

 6→
『夢で見た光景、そのまんまだったから』
『だから、告白されて嬉しかったよ』
『君のことがずっと好きだったから』

 2→
『孤独を好むタイプな』『君のことが好きだよ』
『なにかをインストールされるような、そんな気持ちにふわふわしていた気持ちが固まり始めていることにふと気がついてしまったよ』

 7→
『もっと自由に青春を過ごしてみたかったな』
『ずっと一緒に生きていたい』
『ずっと一緒に生きたい』
『あーあ、ずっと一緒に生きていたかったな。もし、私が先にいなくなっても忘れないでね』

 8→
『これじゃあ、つたなすぎて、気持ちを伝えられないから、あとで手紙で伝えるね』
『ただ、ひとつだけ』
『私が言いたいことは、』
『生きている証が君によって、続いたら、すごくいいなって思ったんだ』

『重いお願いになるけど、受けてくれたら嬉しいな』
『最後にひとつだけ伝えるね』
『君のことが好きだった』

『やっぱり、想いを伝えるのって、手紙みたいに上手くいかないね。言ってること、ぐちゃぐちゃじゃん』

『奏』『哉』『くん』『自分らしく強く生きてね』

                                        』
 


 この怪文書を完成させてしまうと、僕は涼葉に強くお願いされているように感じた。本当に長い夢の小説を完成させたかったんだと思う。だけど、それができなかったんだ。
 
「いいよ。自分らしく生きてやる」
 ぼそっと、そう言いながら、失った事実が、青く、深く、胸に押し寄せてくる感覚がしたから、息を思いっきり吐いた。
 吐いた息はすでに熱くて、その熱を感じている間にまた頬は簡単に濡れてしまった。






 僕は小説が書けるようになるために勉強を重ねた。そして、文学部に合格し、僕は上京した。この街で涼葉と過ごした思い出は少しずつ、遠のいていくのは、ものすごく寂しく感じた。
 だけど、僕は涼葉が残した残りの言葉を紡ぎたかった。

 あれから2年が経ち、僕は19歳になった。
 その間に何度も、涼葉が残した小説を読み直し、そして、涼葉が中途半端に残したままの長い夢の小説をどうやって完成させようかこの2年、ずっと悩み続けていた。

 そして、月曜日。
 真夜中、僕はローテーブルの上に置いたMacBookのキーボードを叩いていた。
 耳につけたAirPodsからは、ストロベリー・フィールズ・フォーエバーが心地よく流れていた。
 
〈「僕は君に出会えたことが奇跡だったし、君が本当に必要だったんだ。だから、ありがとう。もし、僕がこっちが世界から消えたら、忘れてね」
「忘れるわけないでしょ。私は絶対、忘れないよ」
 気がつくと黄色と白が交じる朝日で8時間の藍色は水色に変わっていた。と一緒に溶け始めた死神を私はただ、抑えられない涙を我慢できずに、ただ見つめているだけだった。〉

 日曜日から5分過ぎて、涼葉が残した長い夢の小説を僕は完成させた。

「すべての『』を繋げた君へ。」
 僕は小説のタイトルをぼそっと言ったあと、マグカップに入っているカフェラテを一口飲んだ。