自転車に乗って教会に向かうと、途中で小雨が降り出した。空には、どんよりとした厚い灰色の雲が覆う。オレは折り畳み傘を鞄から取り出し、傘を差しながら自転車を運転する。
 日曜日の朝は、大通りに全然車が通らない。無人のまちにたった一人取り残されたような不思議な感覚になる。

 西側にそびえる鈴鹿山脈の藤原岳を見ると、雲の切れ間から太陽が覗いていた。あの山頂に昔、母と登ったことがある。
〈ヤスシ、お前はどんな大人になるんだろうね? お母さんは、それだけが楽しみなんだから〉
 昔の母の言葉を思い出すと、虚しさで胸が張り裂けそうだ。

 オレが間違っているのか?
 雨の滴が道路の水たまりに落ち、悲しみの波紋を広げる。
 ツキカは親がいないというのに、自分を卑下せずに前向きに生きている。どうしてあんなに強くいられるのか、オレには理解できない。

 逆らうもの全てを排除し、安息な毎日を見つけ出したい。反抗心を高ぶらせ、雨に潤った孤独の街を、全力で過ぎ去っていく。
 そして、やっと教会の桐林館が見えた。
 教会の敷地内に自転車を止める。外国人や日本人数人が歩いて次々と中へ入っていくのが見えた。素行のよさそうな信者たちの、幸せそうな横顔を見ると、本当にオレはここに来てよかったのか、と疑問に思う。

 知らない場所に踏み込むのは、やっぱり度胸がいる。身震いがしたが、勇気を振り絞って教会の中へ入った。
 教会には4、5人が座れる長いテーブルと椅子が左右対になって並んでいる。参拝者は少ない。全部で20人前後だろうか。
 テーブルは空きのスペースが目立っている。テーブルとテーブルの間にある中央のスペースは、結婚式でバージン・ロードとして使われる通路だ。テレビで見たことがある。
 オレは一番後ろのテーブルに着席し、ツキカを探した。
 神父もまだ来ていない。司会台の右手にはオルガンがあり、奏者が座っている。その対面、司会台の左手には讃美歌を歌う子どもたちが2列になって並んでいた。

「あ、ヤスシ!」
 讃美歌隊の中から大きな声がした。オレはすぐにツキカだと分かった。
 ツキカは讃美歌隊の列を抜け出して、オレの所に駆け寄って来る。そしてこんな神聖な場所だというのに、ツキカは大胆にもオレに抱きついた。
「来ないかと思ってた。嬉しい」
 ツキカはオレの耳元で呟いた。人肌の温かさを感じると、これだけで生きていることに意味があるように思える。
「なあ、ツキカ。神様の前で抱き合うのは、ちょっとまずいんじゃないか」
 神父さんが見たらきっと怒るだろう。
「これは海外の人なら誰でもするハグだよ。別にいいじゃない。それより、何で今日は髪が黒いの?」
「だって、ふしだらな恰好でここへ来たら天罰が下るかなって思ってさ」
「ふふ、いつもどおりでいいのに」
「オレがいつもどおりだったら、神父さんが怒るぞ」
「大丈夫だって。ダディーは見かけだけで人を判断しないから」
「ダディー?」
「ここにいる子どもは皆、神父をそう呼ぶの」

 静かであるべき場所でオレとツキカが大きな声で無駄話をしていると、そのダディーが入って来た。白髪で髭を生やし、背の高い太った外国人だ。入ってくるなり笑顔でオレとツキカに近づいて来た。
「ようこそ。こちらは初めてですね?」
 神父は日本語が上手かった。オレは頭を下げる。
「ダディー、この人がヤスシ」
「オウ、この前聞いた人だね。私はアランです」
 神父は、上から下までオレを舐めるように見て笑った。
「ロックン・ローラーじゃないのですか? これじゃファンキーじゃないですよ」
「へ?」
 神父はまた笑った。随分大らかで型破りな性格のようだ。
 普通だったら、中学生のツキカをたぶらかしている、と怒られるシチュエーションなのだが。ツキカと同様、神父もちょっと変わっている。

「よろしい。今日はよく来てくださいました。ヤスシさんは世間に抗うかのような、いい目をしています」
「そうですか?」
「いいことです」
「本当に、いいことですか?」
「はい。欲を言えば、もう少し自分らしいロックなファッションの方がいいかな」
「本気ですか?」
 オレは神父の言っているのが冗談だと思った。世間の真っ当な大人たちとは、反対のことを言うからだ。
「本気に決まってんじゃん」
 ツキカが横から口出した。ツキカも神父と同じように、ニヤニヤ笑っている。
「いいですか、あるがままの自分を偽ってはいけません。人は時に過ちを犯します。しかし本当のあなたは、愛を求めている。そして人々の心を鎮めようとしている。これは尊いことです。だからロックに生きなさい。そして人を信じ、ラブ・ソングを歌いなさい」
「ラブ・ソングですか? は……い」
「では、一緒に祈りましょう。ツキカ、お前も列に戻りなさい」
「はーい」

 神父に促され、ツキカはオレに小さく手を振って讃美歌隊の列に戻って行った。神父が教会正面の一番前にある司会台につくと、参拝者が一同に立ち上がり、讃美歌を歌う。そして聖書を講義し出した。
〈あるがままの自分〉
 オレは、神父が言った言葉が頭の中から離れなかった。オレを否定するのではなく、肯定した。こんな大人が世間にいる、ということが驚きだった。
 ミサは2時間程で終わった。中身や内容などオレには分からないが、不思議と穏やかな気持ちになれた。参拝者は帰って行く。児童養護施設の子どもたちらしき讃美歌隊のメンバーも教会から出て行ったが、ツキカだけはまたオレの所に駆け寄って来た。
「どうだった?」
 ワクワクした顔で、オレに感想を聞いてくる。
 シスター姿のツキカは、また魅力的だ。
「どうって?」
「悪くないでしょ、この教会」
「うん。神父さんは、不思議な人だな」
「そう? マトモな大人だと思うけど」
「マトモ過ぎて、びっくりだよ。世間の大人はあんないい人ばかりじゃないんだ」
「そうなの?」
 ツキカの純粋さが、痛い。オレはツキカの細い澄んだこの目を絶対に汚したくないと思えた。
「ねえ、ダディーが言ってたみたいに、ラブ・ソング、つくってよ」
「ラブ・ソングは……難しいよ」

「ねえ、外に出よう!」
 ツキカはオレの手を引いて、教会の外へ連れ出し、児童養護施設の裏側にある誰もいない武道場に招いた。そして、周りを見て人が誰も見ていないことを確認すると、……。

 ウソだろ!
 ツキカはオレにキスをしてきた。本気か?
 ツキカの唇は柔らかい。
 ツキカは自分の気持ちに真っ直ぐ過ぎて、オレは戸惑うことばかりだ。

「ね、今の気持ちを歌にして。ヤスシは一人じゃない。私がいる。私を想うラブ・ソング、聴きたいの」
 ツキカが甘えた声で、そっと言う。
「やってみるよ。ツキカが傍にいてくれるんだったら、何でもできるような気がする」
「本当? 好きだよ、タケシ」
 そして再び神様を冒涜するかのようなキスをした。
 それまでは、いつか誰かに裏切られるのではないか、と怯え、バンドのメンバーにさえ警戒していた。しかし、ツキカは裏切らないという絶対的な安心感をくれる。人が人を想う、愛というものを信じてみようと素直に思えた。