その後も俊介との間に不協和音は消えないままだったが、バンド自体の音楽活動は順調に進んだ。
 レコード会社のプロデューサーがオレたちをSNSで見つけてくれて、その後、オレたちは『マザー』のシングルCDを初めてデジタルリリースした。
 ダウンロード数は、名古屋を中心に8,000回に達し、地方のラジオや雑誌、テレビにも取り上げられた。確実に時代はオレたちのバンドと、音楽性を後押ししてくれているのを実感する。

 少しずつ俺たちの人気が上がっていくのを、ツキカは心から喜んでくれた。
 しかし順調に進む音楽活動とは裏腹に俊介のオレに対する態度は、日に日に悪くなっていった。メンバー3人で演奏する時は、ユウスケがいるので、オレと俊介の対立を上手く中和してくれる。しかし、俊介とオレは2人きりになると会話すらしない。
 ツキカはメンバーの関係が悪化するのを避けようと、俊介のいる場には来なくなった。それでもメンバー内の険悪なムードは収まらない。
 そして遂に俊介の嫉妬は、暴走することとなる。

「ヤスシ、あんた中学生の女の子に手を出したのかい?」
 2月の末、いつものようにバンドの練習が終わって家に着くなり、玄関で母がオレに怒鳴った。オレは何で母がツキカのことを知っているのか不可解だった。というのも、家族にツキカのことは秘密にしてきたからだ。

「は?」
 オレは白を切って靴を脱き、ダイニング・キッチン・ルームに入って、冷蔵庫を空ける。
 食卓で貴文はテレビを見ながら、黙々と夕食のハンバーグを食べている。親父はまだ仕事中でいない。オレはコップに牛乳を注ぎ、一気に飲んだ。母はまだオレに文句を言いたいらしく、怖い表情で傍に付きまとう。

「さっき、俊介君から電話があったのよ。中学生の弱みにつけ込んで、キスをさせてるって」
 俊介が、オレを裏切った。そして母もオレを信じられずに、密告を鵜呑みにしている。

「オレは人の道に背くことは何一つしていない! その子は教会にいて、ボランティア活動をしているオレのよき理解者だ」
「嘘おっしゃい! 女みたいなメイクをするかと思えば、今度は中学生の女の子をナンパかい? それじゃただの犯罪者だよ。お母さんは恥ずかしい! 世間の目だってあるのよ!」

 貴文は食卓の前で繰り広げられているオレと母の口論を無視して、ただ箸を進めていた。
「息子のオレが信じられないのか?」
「信じたいけど、先にいつも裏切るのはヤスシの方でしょ? 警察にご厄介になる前になんとかしたいのよ!」
 母は完全に誤解している。ここまでいくと何を言っても溝が深まるばかりだが、ツキカまで悪者になっているのが許せなかった。

「その子とその子がいる教会のお陰でオレは前向きになった。今じゃオレは一緒に、募金活動をしたりボランティアで市内の清掃活動にも参加しているんだ。オレは変わったよ、その子のお陰で。そんな変化を、親なのに知らないだろ?」
「黙りなさい! ヤスシが騙されているんじゃないの?」

「今度、オレたちはCDデビューだってできそうなんだ。どうして成果を出そうとしているオレを認めようとしないんだ! そんなにオレが嫌いか?」
 母は急に黙った。

「兄貴は間違っているよ」
 貴文は、飄々とした表情でオレに反旗を翻した。
「何だと?」
 弟の生意気な態度をオレは威喝した。
「だってそうだろ。誰が見たって、中学生の女の子と一緒にいたら怪しむよ」
「だから何もないって言ってるだろ!」
「例え何もなくったって、疑われるようなことをしているから悪いんじゃん」
「お前に何が分かる!」

 頭の良い貴文の冷静な意見が、さらにオレを苛立たせる。知識が豊富で頭でっかちの貴文には、生身の人間の痛みが分からない。世の中にこれが正しいなんて言うマニュアルはないのだ。

 オレは貴文の胸倉を掴んで殴りかかろうとした。
「止めなさい」
 母は、止めに入り貴文を守ろうとする。これが一番辛かった。なぜ貴文を大切にするのだ? またオレが悪者扱いか?

「貴文に暴力を奮わないで! この子には将来があるのよ」
 母の非情な言葉にオレは、口惜しくて涙を流した。こんな屈辱はない。オレは料理の並んだテーブルを蹴り飛ばし、ギター一本だけを抱えて家を飛び出した。

 もう俊介も家族も信じられない。2月後半の夜はまだ寒い。空から月が、オレの呪いと呼応してシルバーの不気味な光を街中に投げ掛けた。

 この街がオレを陥れようとする。世間体、近所の目、家族の疑い……、考えれば考える程、殺意しか生まれない。
 オレはただ、前向きに生きたいだけなのに。あるがままの自分で、音楽に熱中したいだけなのに。何がいけないんだ? どうしてツキカまでも悪者にしてしまうのだ?

 無意識のうちに、足はツキカのいる教会に向かっていた。他に行く宛てなどない。

 教会の入り口に着くと、夜遅いので門が閉まっている。門の横にあるブザーを鳴らして、オレはアラン神父に救いを求めた。
 神父はガウン姿で門に来ると、通りをきょろきょろ見渡してから門を開けて、素早くオレを教会内の事務所に招き入れた。
「さ、早く!」
 周囲に警戒するアランの様子から、この教会にも不穏な何かがあったことが窺えた。

 教会の中にあるわずか六畳程の小さな事務所には、狭いスペースに無理矢理テーブルと椅子が詰め込んである。奥には机とパソコンがあって、ここでアランは普段、事務作業を行っていた。机の上には聖書やら、書類やらが山盛りになっている。
 アランとオレはこの足を組むのも困難な狭いスペースにある長椅子に腰掛けた。

「実は、今日、児童相談所がこの教会を立ち入り調査をしました。あなたが児童へのわいせつ行為をしていると誰かが密告したようです」
 鎮痛の面持ちで、アランはオレに切り出した。密告という言葉ですぐに俊介の顔が思い浮かんだ。
「そんな……」
 オレは頭が真っ白になった。

「心ない人がいるものです。児童相談所は、今日からヤスシ君をここの敷地内へ入れないように、厳重注意をして行きました」
「ツキカはどうなったんですか?」
 ツキカが心配で仕方がなかった。オレのせいでツキカにまで被害が及ぶのが苦しい。

「児童相談所の職員は、ツキカに色々事情聴取をしましたが、あの子はあなたの潔白を訴えました。しかしヤスシ君はツキカに、ほとぼりが冷めるまで、会えません」
 事務所に絶望の重い空気が充満した。

 もうオレに居場所がない。心の拠り所だったツキカにも会えず、この協会にも来られないのなら、もう生きていかれない。
 アランはオレの両手を握り、目をじっと見た。

「我慢です。神は時に試練を与えます。いつかあなたのピュアな精神が認められるまで、我慢するしかないんです」
「これは、バンドのメンバーの嫌がらせです。オレはそいつを捕まえて、力づくで潔白を証明してみせますよ」
 オレは今からでも俊介の家に殴り込みに行こうと考えていた。しかし、突然アランは厳しい目でオレを睨んだ。

「駄目です。それは愚かな行為です。憎しみは憎しみしか生みません。いつか許し合える時が来ます。それまで堪えるのです」
 アランは声を荒げて、オレの憎悪の深さを警告した。

 許すだと。そんなのは無理だ。
 オレは憎しみで自分が破裂しそうだった。しかし、迷える人々の魂を鎮めてきたアランに強く言われると、怒りを抑えるしかない。

「約束ですよ。ツキカから手紙を預かっています。あなたに会えないから、渡して欲しいと言っていました。ツキカのためにも、ヤスシ君は冷静になるべきです」
 真っ白な封筒には住所は書かれず、ヤスシへと横書きで宛名だけ記されている。

「迷惑ばかり掛けてすいません」
 最後にアランに、深く頭を下げてお詫びをすると、アランは優しい笑顔で笑った。
「気にすることない。あなたのハートが綺麗なのは、私がちゃーんと知ってるよ」
 アランがそう言ってくれると、オレの心は少しばかり落ち着いた。世間には、残虐な人もいれば、こんな良心的な人がいる。

 封筒からツキカの手紙を取り出した。

〈ヤスシへ。どんなことがあっても、人を憎んじゃダメだよ。争いはいいことを何も生み出さないんだから。ヤスシには音楽がある。私は希望にみちあふれた未来を切りひらこうとしているヤスシが好き。もっとヤスシの歌を聞きたい。私は大丈夫。しばらく会えないけど、私はいつもヤスシを応援してる。約束して、誰も憎まず、音楽だけに情熱を注ぐって。ツキカ〉

 手紙には、精一杯のオレへの願いが綴られていた。こんな健気にオレを心配してくれているツキカに対して、何もしてやれないのが悲しい。

 手紙を何度も読み返しては、ツキカに会いたくて、会いたくて胸が張り裂けそうだった。