キャシーちゃんと取引ができるようになってから、数日が経った。
僕らは相変わらず、町をもっとよくするための仕事にかかりっきりだ。
「よいしょ、よっこらしょっと!」
今日は森の奥から掘り出した追加の魔晶石と、それの整理。
使い道はもっぱらカルの発明品だけど、もしもお金がたくさん必要になった時には、キャシーちゃんに売る予定。
いくらになるかは分からないのに、僕やカル、ミトは「きっとお家をたくさん買えるくらいだ」なんてのんきにはしゃいじゃってるよ。
「レーム、魔晶石を奥の倉庫に運んでくれ!」
『ゴオオウ!』
どれだけ重い荷物だって、クリスタルゴーレムならどかどか運んでくれる。
「あそこの休憩所も、この調子なら明後日には完成しそうですぜ!」
「ありがちょー!」
ライカンスロープの皆が、日除けのある休憩所をトントンと組み立ててくれる。
どれもこれも、町にあれば便利だと、僕とカルが提案したものばかりだ。
そしてそのカルだけど、今は僕やミト、ローヴェインと一緒に、町の集会所で一つの大きな紙を囲んで話し合いをしてた。
紙面にでかでかと描かれているのは、カルが発明した様々なアイテム。
「……とまあ、これが町を守る発明品の設計と建設プランだ」
それは全部、このユーア=フォウスの守るアイデアだ。
特に一番大きく描かれた巨大な伝統みたいな発明品は、相当な規模のものだよ。
「町を発明品で囲むとは、ずいぶん大きく出たな」
「発明品ってほどじゃないさ。ユーリのお絵かきと俺達の力技で柵を作って、そいつに魔物が嫌がるような光をぶつける装置を取り付けるんだ」
「まもにょ、ぴかぴか、いやがりゅ!」
あくまで印象の問題だけど、魔物は明るい光を嫌がると思ってる。
そうじゃなきゃ、洞穴のような暗闇や、うっそうとした森に棲んでるはずがないもの。
「俺さ、魔物が最初から近寄らないような柵を作りたいと思ったんだ! でっかい壁じゃあ城下町みたいな閉塞感が出てくるし、外からの見栄えもいいはずだぜ!」
「スタンピードの対策としては、難しそうだがな」
「そもそも、スタンピードがなんであるかを知っていても、どのような現象かはあまり知りませんね。ローヴェインさん、簡単に説明してもらえますか?」
ミトが問うと、ローヴェインは少し困り顔で話し始めた。
「簡潔に言えば、魔物同士の共鳴現象だ。一匹の魔物から暴力的な衝動が発せられると、波打つように伝播し、他の魔物に伝わり、増幅する。そしてその感覚が限界に達した時、魔物が暴れ出す……これがスタンピードだ」
話だけを聞くとそうでもないけど、実際に体験するとその恐怖は段違いだよ、きっと。
だって、ある日何の前触れもなく、山ほどの魔物が群れを成して襲い掛かってきて、しかも武器も何も通用せずに、住処が蹂躙されてゆくんだ。
建物も、路も、建築物も、時には人も――何の関係もなく、潰されてゆく。
ローヴェインが見た時の恐怖と怒りは、どれほどのものだっただろうか。
「衝動そのものの原因も、収まる条件も一切不明の災厄ってわけか」
もはや獣害と呼ぶよりは天才と呼んだ方が近いそれを、カルの発明品が止められるかはさっぱりだ。
だけども、だからと言って諦めるのは、カルじゃない。
「もちろん、スタンピードはどうにもできねえと思うぜ。だけど、それが何もしねえ理由にはならねえだろ?」
「……ああ、その通りだ。ユーリぽよの体調に支障をきたさない程度に、作業を進めよう」
「「ぽよ」」
……ローヴェイン、今度は僕をユーリぽよって呼んだ?
そういえば、彼女のボディタッチがやけに多くなってるような、いや、変な意味じゃなく。
「すまない、私が頭の中でそう呼んでいたのが、口をついて出たようだ。以後、気を付ける」
「兄さん、ローヴェインさんって……」
「やっぱり、そういう奴なんじゃねえかな。いや、人のヘキを指摘する気はねえけどさ」
カルとミトがひそひそと話をしてるけど、多分ローヴェインには全部聞こえてるよ。
隣にいる僕に聞こえてるんだもの、オオカミのおっきな耳にはバレちゃうよ。
ここはひとまず、話をカルにがっつり逸らしてもらおう。
「じゃ、当面の町作りの方針は魔物対策ってことで。ローヴェインの子分にも――」
うん、ナイスチョイス。
とりあえずミトが僕を抱きかかえながら、それぞれが作業を始めようとした。
「た、た、大変だーっ!」
でも、そうはならなかった。
ローヴェインの子分、ライカンスロープがどたどたと、僕らのところに駆けてきたんだ。
「ったく、ここにいると大変なことばかり起きるな、はははっ」
「どうした、お前達?」
カルはからからと笑い、ローヴェインはいつものクールな顔で子分に問いかける。
「アネゴ、大変だ!」
「水路に引いてる水が、どろどろに濁っちまってるんだ!」
「何だと?」
ローヴェインだけじゃなく、僕ら皆の顔が険しくなった。
水路の水が汚れるどころか、どろどろになるなんて、昨日はちっともそんなことはなかったんだ。
今日、ちょっと目を離したすきにそんな事態になってるなんて、絶対に予想してないトラブルが起きた証拠だよ。
「そりゃまずいぜ! 水路の水は、町に欠かせないんだからよ!」
「まずは様子を見に行きましょう、兄さん!」
「だな! 行くぜ、ユーリ、皆!」
「ん!」
僕らはライカンスロープに案内してもらい、一番広い水路に向かう。
そこにはいつもの綺麗な水じゃなく、気味が悪いほど濁った水が流れてた。
油断して口に運べば、間違いなく病気になっちゃいそうな水だ。
「……驚いたな、本当に水が濁ってやがる……」
うえっ、と顔を離したカルと違い、ローヴェインは静かに顔を近づける。
「ふむ。どうやら毒ではないようだ」
「分かるのか、ローヴェイン?」
「毒ならその匂いがする。これはただ単に濁り、水の質が悪くなっているだけだ。もっとも、それだけでもかなりユーア=フォウスにとっては悪影響だがな」
仮に毒ではないとしても、こんな水を使っていれば、町の皆が病気になっちゃう。
水路がダメになってるなら、ヘタをすれば井戸の水だっておかしくなっているかもしれないし、その間水が使えないのは大問題だ。
「畑仕事だけじゃなく、景観も悪くなってしまいますね」
『ゴオゥ……』
次第に水の臭気は強くなり、たまたま近くにいたレームも後ずさってしまうほどだ。
「れーむ、いやなにおいだって」
「ゴーレムでも嫌がるんだ、俺達にとってもきつい臭いだぜ。ユーリ、水を鑑定できるか?」
「やっちぇみりゅ」
僕がじっと水を見つめると、文字がふわふわと浮かび上がってきた。
『水(汚染):汚れた水。飲用には向かない。
精霊ウンディーネが管理している水だが、放置されるとこの状態になる』
ウンディーネといえば、ファンタジー世界だと水の力を司る精霊だ。
もしかすると、彼女が水路や川につながるどこかにいるのかもしれないね。
「うんぢーねって、しぇーれーが、よくないみちゃい」
「ウンディーネか。なるほど、確かに水源をたどればウンディーネの住む湖に着くかもしれないな。行ってみる価値はあるだろう」
「森の奥の湖となると、少し距離がありますね」
「ユーリはレームの肩に乗って、行くとするか!」
カルが言うと、レームは誰に命令されずとも、僕を持ち上げて肩に乗せてくれた。
……ローヴェインがちょっぴり残念そうな顔をしてるのが、気になったけど。
「よろちくにぇ、れーむ!」
『ゴォウ♪』
レームがずしん、ずしんと町の外に歩いていくと、カル達がついてくる。
これから目指すのは、川のずっと根源――森の中にある(と思う)、湖だ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
僕らが歩き始めて、森の中に入ってずっと歩いていると、本当に湖はあった。
といっても、森の中の湖は神秘的で、いつでも澄んだ水が湧き上がり続けているようなイメージだったけど、今はそんな綺麗なものじゃない。
「……思ってたより、ずっと汚ねえな……」
カルがつぶやいた通り、湖はもはや絵の具を投げ捨てたように濁り切っていた。
子供のころ、筆を何度も洗った後に染まった水と同じような色だ。
「泥というよりも、ヘドロと言った方がいいかもしれませんね」
「おまけにこの臭いだ。はっきり言って、ライカンスロープ族にはきつすぎるぞ」
確かにローヴェインは、あからさまに鼻を隠して、嫌悪感を露にしてる。
人間よりずっと鼻の利くライカンスロープにとっては、ここにいるのもつらいだろうし、早めに問題を解決してあげないと。
「ねえ、ありぇ!」
そう思っていた僕の視界――湖の端に、女性のような姿が見えた。
こんな湖の中で上半身だけを出しているなんて、どう考えても普通の人間じゃない。
「間違いねえ、水の精霊ウンディーネだ!」
言うが早いか、カルがウンディーネと思しきそれに向かって走り出した。
「おーい、おおーい!」
そして大きく手を振って声をかけると、僕らの声に気づいたのか、彼女が振り向いた。
ウンディーネって、どんな雰囲気の精霊なのかな。
きっと澄んだ水のように美人で、愛らしくて、神秘的な感覚を身に纏っていて――。
「――何よ、うるさいわね」
――いなかった!
振り返ったウンディーネの顔は、泥パックを何重にも重ねたような見た目だったんだ!
「「ぎゃああああああっ!?」」
僕ら全員がびっくりして跳び上がったのも、ごめんね、今回だけは許してほしい!
だって、こんなの誰だって止そうなんてしてなかったもの!
「精霊の顔を見て、なんて声を上げてるのよ! 失礼ね!」
じゃぶじゃぶと水を掻き分けてやってくるウンディーネの姿も、ちょっと怖い。
湖を守る精霊というより、どっちかというと半魚人の様相だ。
「し、失礼っていうか、そんな怖い顔をしてりゃ誰だって悲鳴を上げるだろ!」
「正直なところ、ウンディーネは麗しい女性の顔をしていると聞いていましたので……こんなにけばけばしい見た目だとは、思ってもみませんでした……」
「あんたはあんたで、失礼なくせに礼儀正しいわよね……!」
「ごめんにぇ、うんぢーねさん」
僕が皆の代わりに謝ると、ウンディーネは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「エルフに、人間族のチビに、オオカミ女がそろって何の用?」
こういうシチュエーションで、大人として交渉の場に立つのはローヴェインだ。
「精霊ウンディーネ。貴女が管理している湖から、汚れた水が流れ込んでいる。それについての相談と、どうしてこうなってしまったのかを聞きに来たんだ」
「原因なら、あいつらよ」
ウンディーネが親指でさしたのは、湖の反対側にたむろしているスライム。
「スライム……?」
ただし、ただのスライムじゃない。
遠目に見ても分かるくらいどろどろで、ぐちゃぐちゃで、汚くて、近づくのをためらってしまうくらいには臭そうなスライムだ。
あんなのが湖で集まっていればどうなるかなんて、嫌でも想像がついてしまう。
「最近、あたしの湖にやって来た魔物のスライムよ。最初は害を加えなかったし、こっちも放っておいたんだけど、しばらくしたらどこかからヘドロを食べてきたのよ」
ばしゃん、と水を揺らして、ウンディーネが怒った。
「そしたらあっというまに、他のスライムもヘドロを蓄えて……冗談みたいに増え始めて、気づけばこのありさまよ! あたしの力も、これじゃあ処理しきれないわ!」
こっちから見ても、確かにスライムの数は相当多い気がする。
ウンディーネの力がどれほどかはともかく、あれはきっと、彼女の処理できる数を超えちゃってるんだろうね。
「スライムの中でヘドロが増えるなんて、あり得るのかよ!?」
「聞いたことがある。スライム族は体の中で液体や半固体を増やすため、ドルイド族や一部のエルフ族に重宝されていると……お前達は知らなかったのか?」
「一部のエルフ族、ですね。僕らが学ぶ薬学は、まったく違うものです」
「俺はそもそも、薬だとか伝統の勉強もしなかったけどな! えっへん!」
「自慢することじゃないでしょう、兄さん」
胸を張るカルと、彼にツッコむミト。
そんな二人を見て、面倒くさそうにウンディーネがため息をついた。
「おまけにあのスライム、触れると臭いが移るのよ。で、私も対処を諦めたってわけ」
「あんたは、このままでいいのかよ?」
「いいわけないでしょ。でも対処しようがないってのも、事実よ」
彼女は半ば諦めてるけど、僕らはそうはいかない。
ユーア=フォウスのためっていうのもあるけど、こんな状況は放っておけないよ。
「じゃあ、ぼくらのでばん!」
「だな! ウンディーネ、俺達がこの湖を綺麗にしてやるよ!」
僕とカルがそう言うと、ウンディーネはじっとりとした視線で僕らを見つめる。
「あんた達が? スキルも何もなさそうな見た目しといて、何ができるのかしら?」
「ぼく、しゅごいの、ちゅくれるよ!」
「まあまあ、とりあえずユーリの提案を聞いてみろって」
いまいち信用がないのか、ウンディーネはぶくぶくと顔の半分を水の下に沈める。
まあ、もしも僕が彼女と同じ立場でも、いきなりやって来たヘンな集団がヘドロをどうにかするなんて言ったって、信用してくれるわけがないよね。
だからこそ、僕のお絵かきスキルの力を見せてあげないと。
「ユーリ君、何を作るのですか?」
「おっきな、しょうじき!」
僕がこれから作るのは、掃除機。
「……正直?」
ノーノー、ソウジキ。
スライムをぎゅんぎゅんと吸い込む掃除機なんだけど、言葉と常識の差のせいで、皆にはちっとも違う意味に伝わっちゃったみたい。
「しょ・う・じ・き! ぎゅぎゅんって、いっぱい、しゅいこむ!」
訂正しても、伝わったかは怪しい。
でも、少なくともローヴェインには意図が伝わったみたいで、うんうんと頷いてくれる。
「何を描くつもりかは知らないが、要するにスライムを吸い込む装置を作り出そうとしているらしい。カル、アイデアを貸してやれるか?」
「もちろんだぜ!」
カルも親指を立てて賛同してくれたし、こっちの作戦は問題なさそう。
もっとも、この大きな湖を完全に綺麗にするには、もう少し必要なものがある。
「しょれから、えーと……」
僕が頭の中でほしいものを念じると、ローヴェインを助けた時の軟膏のように、必要なアイテムとそれを作る素材が文字として浮かび上がった。
『除染薬:水や空気の汚れ、毒を取り除ける。調合で作成可能。
必要素材:ファブの実、エリエアロエ、シュシュ草、スクラビンの花びら
すべての素材が湖の周辺で回収できる』
そう、次に必要なのは除染用の薬。
「きちゃないの、なくしゅ、おくしゅり!」
今度ははっきりと告げると、皆にもイイ感じに伝わった。
「素材はきっと、ユーリ君が分かっているはずです。僕と彼で探しますので、兄さんはアイデアを練っておいてください」
「おう、今イイ感じのアイデアがびりびり来てるからよっ!」
「ローヴェインさん、ユーア=フォウスから兄さんの調合用アイテムを持ってきてもらえますか? 少し距離があるので、大変かとは思いますが……」
「私を甘く見るな。すぐに取ってくる」
ローヴェインが湖を離れていくのを見届けながら、僕とミト、レームは歩き出す。
「れーむは、ぼくをのせちぇって!」
『ゴウウ!』
「じゃあ、いっちぇくりゅね!」
笑顔のカルと気だるそうなウンディーネに手を振って、僕らは森の中へと踏み込んだ。
湖の近くの森は、ユーア=フォウスの周辺の森と違って明るくて、メルヘンな世界観の物語に出てきそうな雰囲気だ。
少なくとも、魔物なんかはちっとも出てこなさそうだよ。
「みと、ありぇ!」
そのうちすぐに、青色の花が木の根元に生えているのが見つかった。
僕の鑑定スキルが、あれが調合に必要な素材だと教えてくれてる。
「スクラビンの花ですね。では、あそこにあるのがファブの実ですか」
ミトが次に指さした、地面に転がっているクルミのような実。
鑑定してみれば、なるほど確かにファブの実だね。
「しっちぇりゅの?」
「エルフ族の里にいた頃は、薬の勉強も少しはしていましたから。ユーリ君ほどではありませんが、何が必要かを教えてくれれば、探すのは簡単ですよ」
「じゃあ、えりえあろえ、しゅしゅそう!」
「エリエアロエだけは、ちょっと奥まったところにありそうです。でも、難しくないですよ」
「よし、これで全部ですね。湖に戻るとしましょうか」
「ん!」
『ゴアォ!』
それから素材を探すのは、ちっとも大変じゃなかった。
ローヴェインを助けるときの軟膏よりもずっと楽で、魔物はやっぱり出てこない。
もしかすると、ミトとレームが怖くて、出てこなかっただけかもしれないけどね。
そしてエリエアロエ、シュシュ草も集めてポケットに詰めた僕らは、湖に戻ってきた。
「ただいま戻りました、兄さん、ウンディーネさん」
「おー、帰ってきたか! こっちも、発明品のアイデアがまとまったところだぜ!」
カルが地面に描いたものを、僕らは覗き込む。
「見ろよ、これ! 地面に描いてみたんだがよ、こうやって真ん中の装置に、太い管からスライムを吸い出して収納するんだ! で、後ろのふたを開いて、地面にポイだ!」
やっぱり、カルは天才かもしれないと僕は驚いた。
だってほとんど掃除機が何かを伝えられてもいないのに、カルが地面に描いてたのは、間違いなく現代の掃除機そっくりの発明品だったからだ。
「しゅごい! かる、しょう……そうじき!」
「よーし、俺とユーリの考えは一緒だったみたいだ! さっそく頼むぜ、ユーリ!」
カルがアイデアを出してくれたなら、後は僕が、神様の羽ペンを使うだけだ!
「うん! ここを、こうこうこう!」
ペンで空に向かって発明品の外見を描いてみせると、それは現実に現れた。
「な、何ですかこれは……!?」
驚くミトとレーム、ウンディーネの前に現れたのは、四角形にホースがくっついたような、不思議な装置だ。
でも、僕のお絵かきスキルで作ったんだから、性能は保証されてるよ。
「俺とユーリの新しい発明品、『ぐんぐん吸い込むクン』だぜ! このレバーを引けば、中の魔晶石の力で、スライムが吸い込まれていくんだ!」
鉄かプラスチックか、奇妙な素材でできた発明品の四角形を、カルがバンバンと叩く。
「そんでもって、吸い込まれたスライムは箱ごと地面に捨てちまえばオールオッケー!」
「不思議な装置ね。でも、ガラクタなんかで、スライムとヘドロをどうこうできるわけ?」
「ヘドロはともかく、スライムはこいつで解決するぜ!」
カルはレームに『ぐんぐん吸い込むクン』を運ばせて、スライムのそばまで持ってくる。
改めて近くに来ると、鼻が曲がっちゃいそうなくらい臭い。
こんなのはさっさと吸い込んで、地面に埋めちゃおう。
「よしよし、スライムが逃げる前に、レバーを引いて、と……」
カルも僕と同じ考えを持ってくれたようで、有無を言わさずレバーを引こうとした。
ところが、レバーがちっとも動かない。
カルが情けをかけているんじゃなく、両足を箱に押し付けて力を込めているのに、うんともすんとも言わないんだ。
「ふん、ぐ、ぎぎぎ……ダメだ、全然レバーが下りねえーっ!」
「どいてください、僕がやってみます……む、ぬぬぬ……!」
しかも、力自慢のミトが一緒になって引っ張っても、レバーは動じない。
「僕でもダメだなんて、どんな硬さのレバーなんですか!?」
「どうしたもんかな……って、こっちにはレームがいるじゃねえか」
「れーむ、おにぇがい!」
こういう時は、ミトやローヴェインよりも怪力のクリスタルゴーレムに頼らなきゃね。
『ゴオオオオオオ!』
レームが雄叫びを上げながらレバーを掴むと、あっという間にそれは動いた。
「よし、うごいちゃ!」
僕が言うよりもずっと早く、掃除機型の発明品がすごい勢いでスライムを吸い込んだ。
ものすごい吸引力で、ぎゅんぎゅんとスライムがチューブの中へと消えて行くさまを見て、ウンディーネはちょっぴり引いているみたい。
「あわわ、スライムがどんどん吸い込まれていくわ……!」
「中の魔晶石のエネルギーで、汚い物質が増えることはないぜ! ま、原理としては、スライムを氷属性エネルギーで仮死状態にしてるんだけどよ!」
カルが説明している間に、スライムは一匹残らず箱の中に消え去った。
向こうに抵抗する気力はないのか、箱の中から魔物が騒ぐ音は聞こえない。
「で、箱を土の中に埋めちまえば、スライムはいつかぽっくりってわけだ」
『ゴウ、ゴウウ』
レームが『ぐんぐん吸い込むクン』を地面に埋めてしまうと、今度こそすっかり、スライムは湖の中から消え去ってしまった。
かわいそうだけど、これで地面の上に出てくることはないだろうね。
「やったぜ、とりあえずスライムの問題は解決だ! で、後はヘドロだな」
一仕事やり切ったと言いたげに額の汗をぬぐうカル。
するとそこに、灰色の尻尾をなびかせて、ローヴェインが走ってきた。
「待たせた。カル、お前の調合道具を取ってきたぞ」
「ローヴェインさん!? 予想よりもずっと速いですね!?」
「ライカンスロープ族の全力疾走を、甘く見ない方がいい。もっとも、足への負担を考慮しなければ、これよりずっと速く走れるがな」
彼女が背中からおろしてきたのは、もう何度もユーア=フォウスを助けそうな(でもいつか爆発しそうな)『まぜまぜ調合クン』。
名前はつい最近、カルと僕が一緒になってつけたんだ。
「ここにミトとユーリが集めてきた素材を入れて、と……調合スイッチ、オン!」
すべての素材を入れて、カルがボタンを押す。
ごうん、ごうんと古い洗濯機のような音を立てて調合が始まるさまを見て、ウンディーネだけじゃなく、ローヴェインもどこか心配そうだ。
「ね、ねえ? すごい音が鳴ってるけど、失敗じゃないの?」
「どうかな! 失敗したら、ものすげえ音を立てて爆発するからすぐに分かるぜ!」
「……私の時に失敗しないでよかったと、つくづく思わされるよ」
はあ、とため息をつきながらウルフカットを撫でつけるローヴェイン。
しばらく中身をかき混ぜていた発明品は、皆が見つめる中、動きを止めた。
「――できたぞ! 爆発してないし、薬が完成した証拠だ!」
やった、と皆が喜ぶ中、僕はすかさずお絵かきスキルでガラス製の瓶を描く。
これは祝杯を上げるためじゃない――調合用の釜の中にある、紫色の液体を有効活用するのに必要なんだ。
「ユーリが描いてくれた瓶に詰めて、と……じゃあ、こいつを湖にぶん投げて、真ん中から広がるように綺麗にしていくぞ!」
僕、カル、ミト、ローヴェインとレームが、それぞれ瓶を掴む。
「「いっせーのーでっ!」」
そしてそれを、一気に湖に投げつけた。
ぼちゃん、ぼちゃんと音を立てて瓶が湖に落ちてゆくと、その中心からどろどろに汚れた水が、飲み水にもなりそうなほど澄んだ水へと変わってゆく。
ずっと昔にテレビで見たグレート・バリア・リーフだっけ。
あれよりも綺麗で、湖の奥底まで見えるほどなんだ。
「す、すごいわ……あたしの湖の汚れが、みるみるうちに取れてるわ……!」
気づけば、ウンディーネの顔のけばけばしい泥パックも剥がれて、元のハリウッドヒロインも顔負けの麗しい顔が露になる。
水色の髪を揺らすさまは、紛れもなく湖を守護する精霊そのものだ。
「残りはあたしの力でも……えいっ!」
そして彼女が手をかざすと、ついに湖から汚れは取り除かれた。
それこそウンディーネの体が半分ほど透けて、向こうの景色が見えるくらいに。
「こんなに綺麗な水は、初めて見ました!」
「これがあたし、ウンディーネの本来の力よ。そしてここが、水の精霊によって清められた湖、この辺りじゃこれ以上に綺麗な水なんてないわ!」
ふん、と自慢げに鼻を鳴らすウンディーネ。
とはいえ綺麗になったのは湖だけで、スライムが跳ねまわっていたせいですっかり汚れてしまった地面や、残ったヘドロも掃除しないといけない。
「あとは周りに残った汚れを、皆で掃除だ!」
そこはまあ、人手も多いし、地道に片づけて行こう。
お絵かきスキルで作った木箱と木製のスコップで、僕らは少しずつヘドロを取り除く。
「うんしょ、よいちょ」
僕は僕専用のスコップを使って掃除するけど、やっぱり一歳児の体だと何かと不便だ。
皆と同じように掃除をしてるはずなのに、歩き方がだんだんおぼつかなくなってくる。
「ユーリ、その背丈では掃除もひと苦労だろう。どうだ、私が担いでやろう」
困ったなあ、と思っていると、ローヴェインが僕を持ち上げてくれた。
「わあ! ろーべいん、ありがちょ!」
「ふふ、礼を言われるほどのことではない。それに、こちらの方が私にとっても都合がいい」
「ちゅごー?」
「気にせず、掃除を続けてくれ……ああ、ユーリ吸いは抑えられんな……」
あ、やっぱり善意だけで助けてくれたわけじゃないんだね。
ローヴェインの鼻が僕の後頭部に当たって、呼吸の音がはっきりと聞こえる。
うう、匂いを嗅がれる花や小動物の気持ちが、ちょっと分かったよ。
「兄さん、やっぱりローヴェインさんをユーリ君から遠ざけるべきではないですか」
「あれはあれで、実害はないからなあ。ユーリも、嫌そうな顔はしてないだろ?」
「僕がユーリ君の立場なら、泣いて逃げてますよ」
ミトの気持ちは嬉しいけど、僕は逃げる気にはなれないかも。
ローヴェインがショックが受けそうだし、まあ、僕も悪い気はしてないから。
それに気のせいかな――ローヴェインは僕の匂いを嗅いでいると、いつもより断然作業の速度が速くなってるように思えるしね。
「ゴミは集まったな! 後はレームが掘ってくれた地面に、ゴミを埋めてと……」
とにもかくにも、ヘドロはしっかり集められた。
それを木箱に詰め込んで、湖から離れた場所にレームが埋めてくれた。
もうどこにも、ヘドロもスライムも、汚れも残っちゃいない。
「「お掃除、かんりょーっ!」」
これですっかり、湖は綺麗になったんだ!
「どうだ、ウンディーネ! 俺達のおかげで、前よりずっと綺麗になっただろ?」
カルがウンディーネの水に触れながら言うと、彼女も笑顔で応えてくれる。
「あんた達には、本当に感謝してるわ。どうやら町に水路を引いてるみたいだけど、そこに流れる水の質は、今後絶対に保証してあげる」
「また汚れたら、今度はあの装置で湖の水を吸い上げてやるぜ」
「勘弁しなさいよ。ここから水がなくなったら、生きていけないもの」
わいわいと皆が成果にはしゃぐ中、ウンディーネがふと、僕を見つめた。
「ああ、あと、ユーリとか言ったっけ? ちょうどいいわ、あんたにこれをあげる」
ぱちゃん、と彼女が水の中から取り出したのは、青い宝石のペンダント。
ウンディーネはそれを、僕の首にかけてくれた。
「にゃに、こりぇ?」
「あたしの力が込められたペンダントよ。いつか必ず、秘めた魔力があんたを助けてくれるわ。どんな効果をもたらすかは、作ったあたしにもさっぱりだけどね」
「何が起きるか分からないものを、ユーリに持たせて大丈夫なのか?」
ローヴェインが耳を倒して、首を傾げる。
疑問を浮かべるローヴェインとは対照的に、ミトはウンディーネを信用してるみたい。
「精霊からの贈り物は総じて魂の加護であると、かつての長が話していました。困ったときにトラブルを解決してくれる力を生み出したり、摩訶不思議な力を授けてくれたり……とにかく、悪いものではないはずですよ」
「エルフ族のお前がそう言うなら、信じよう」
ローヴェインも、ふむ、と納得した時、ウンディーネが不思議そうに言った。
「……エルフ、そう、思い出したわ」
どうやら、記憶の底からエルフに関する事柄を引っ張り出したみたい。
「ん?」
「あんた達エルフ族だったわよね? ヘラヘラしてるけど、心配じゃないの?」
「心配って、何が?」
「湖のトラブルなら、もう解決しましたよ」
カルとミトがそう答えると、ウンディーネは首を横に振った。
「何がって――エルフ族の里が危ないって、他の精霊が言ってたわよ?」
そして、告げた。
カルが育った故郷に、危機が迫っている。
あるいは、もう迫っていたと。
――手遅れにも、近いと。
「――え」
僕らの誰もが、呆気にとられた。
特にエルフ族の二人の碧色の目が、大きく見開く。
そしてミトは動揺しているままなのに対し、カルはウンディーネに掴みかかった。
「さ、里が危ないって、何があったんだよ! 教えろよ、ウンディーネ!」
もっとも、ウンディーネは水だから、腕が突き抜けるばかりだ。
それでも構わず、カルは必死に彼女を掴んで話を聞き出そうとする。
自慢の服が濡れるのも、今のカルはちっとも気にしていない。
「し、知らないわよ! あたしが聞いたのは、風の精霊シルフィードが、エルフの里から嫌な空気が流れてたって言ってたことだけよ!」
急に飛びつかれそうになったウンディーネも必死だけど、カルはもっと必死だ。
「じゃあそのシルフィードってのを連れて来い! 全部説明させろよ、オイ!」
「ちょっと、やめなさいってば!」
その鬼気迫る形相は、いつものカルじゃない。
あの元気で快活で、大らかに皆を迎え入れたカルが、乱暴な手段を取るなんて。
「いやがっちぇるよ、かる!」
「兄さん、よしなよ!」
ミトが無理矢理カルをウンディーネから引き離すと、その矛先は弟に向いた。
「お前は心配じゃないのかよ、ミト!」
「心配に、決まって、いるでしょうッ!」
だけど、ミトが碧色の目を見開いて一喝すると、カルの怒りが次第に収まっていった。
ローヴェインが僕を後ろから抱きかかえてくれなかったら、きっと震えが今でも止まっていなかったに違いないよ。
だって、兄弟の間でこんなに怒鳴り合うなんて、見たことなかったんだから。
「でもここでウンディーネさんを問い詰めても、どうにもできません! 本当に気になるなら、僕達が確かめに行くしかないじゃないですか!」
「本当にって、どういう意味だよ」
少しだけ間をおいて、ミトはカルに、試すように言った。
「……フェムさんに会いに行く勇気が、兄さんにあるのかと聞いているんです」
「…………」
無言だった。
カルは普段のように金髪を掻き回すこともせず、うつむいて返事もしなかった。
「僕は今すぐにでも、エルフの里に戻って様子を確かめたい。ですが、僕一人で行っても何の意味もないんです。兄さん、貴方にその意志がありますか?」
「……俺は……」
しばらく、カルは何も言わなかった。
言わないというよりも、言えなかったのかもしれない。
どうにも苦しくて、その姿を見ている僕も、心臓をきゅっと締め付けられた気分だ。
「……町に帰る。悪りい、装置はレームに持って帰らせてくれ」
そのうちカルは踵を返して、一人でユーア=フォウスの方角へと歩き出した。
「兄さん!」
「今日は発明のことだけ考えてたいんだ、俺の部屋には誰も入らないでくれよな」
ミトが引き留めても、カルは振り返りすらしなかった。
ともすれば自分勝手にも見える様子に、ローヴェインはさすがに顔をしかめた。
「カルはどうした? なぜ、エルフの里に帰りたがらないんだ?」
彼女に問いかけられ、ミトはわずかに返答をためらった。
でも、僕にちらりと目配せして、意を決したみたいだ。
「ちょっとだけ、でも深い事情があるんです。ユーリ君、兄さんがエルフ族の長ともめて、里から出て行ったのは以前にお話ししましたよね?」
「う、うん」
もうすっかり姿の見えなくなったカルの、歩いて行った方角を見つめて、ミトが言った。
「……そのエルフ族の長、フェムという女性が、兄さんの幼馴染なんです」
そして僕らは、カルがずっと隠していた秘密をミトから聞いた。
どうして彼が、ユーア=フォウスという、誰も拒まない町を作ったのか。
どうして発明品に執着して、自分を認めさせようとするのか。
僕はすべてを知ったうえで――カルと話さなきゃいけないと、強く思った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日の夜。
すっかり住民が寝静まったユーア=フォウスの中で一つだけ、まだ明かりがついたままの部屋があった。
僕らが暮らす家の奥、カルの部屋だ。
いつもなら大いびきをかいて爆睡しているカルの部屋を、僕とミトはこっそりドアを開けて見つめていた。
カルはテーブルに向かって紙に何かを書いては、ぐしゃぐしゃにそれをまとめて床に投げ捨てて、また何かを書き続けている。
発明のアイデアを練っているようだけど、そうじゃないのは分かる。
きっと頭の中には、エルフの里のことばかりが渦巻いているんだ。
そんなカルを放っておけるほど、僕もミトも冷たい人間とエルフじゃないよ。
「――兄さん、いいですか?」
ミトが声をかけても、カルは振り向かなかった。
「んだよ、ミト。俺は発明のアイデアを練るので忙しいんだ、明日にしてくれ」
そんな彼を見て、僕はミトにドアを開けてもらい、よちよちと部屋に入った。
「かる……」
じっと彼の背中を見つめる僕の後ろで、ミトのため息が聞こえた。
「ユーリ君が心配そうにしているのに、放っておけるようなエルフではないですよね。もしも兄さんがそんなエルフなら、僕は心底軽蔑しますよ」
そこまで言われてやっと、カルは椅子を動かして僕らの方を向いた。
いつもの陽気さはすっかり消え失せて、どこか思いつめたような面持ちだ。
「兄さん。本当は発明のアイデアなんて考えていないんでしょう?」
「んなわけねえだろ、発明家ってのはいつでも頭を捻って考えてるもんだ」
「じゃあ、どうして紙が真っ白なままなんですか?」
はあ、とカルがため息をついた。
「それはだな、天才だって行き詰まることが……」
「五十歳のころから同じで、兄さんは嘘が下手ですね」
すっかり嘘を看破されたカルは、金色の髪をぐしゃぐしゃと掻いた。
そして、テーブルを指で軽く叩きながら言った。
「……ミトの予想通りだよ。俺はさっきからずっと、エルフの里とフェムのことを考えてた」
カルの口から出てきたのは、ウンディーネの湖で聞いた、カルの幼馴染の名前だ。
「ふぇむ……かるの、おしゃななじみ?」
「なんでそれを知ってんだ?」
「僕が事情を話しました。といっても、ごく一部ですが」
カルの顔が、さっきよりわずかに険しくなった。
「兄さんの口から、ユーリ君に話してあげてください。いくら一歳程度といっても、彼には兄さんの話を理解するだけの知能があります」
ミトはそれだけ告げて、話さなくなった。
もしもカルが話そうとしないなら、きっとミトは兄と我慢比べをして、彼が口を開くまで黙り続けているつもりだろうね。
それを察したカルも、黙っているつもりは毛頭ないみたいだった。
「……俺さ、自分の意志で里を出たんじゃない。追い出されたんだ」
「そりぇは、だいたいさっちてたよ」
「んだとこの!」
言うが早いか、カルはツッコんだ僕のほっぺを掴んでむにむにしてきた。
しかも、今日のむにむにはいつもより力強くて、ずっと時間も長い。
「むにゅああ~」
むにむにむにむに。
「今日の俺はピリピリしてんだ、いつもの倍はむにむにしてやる!」
「もにゅああ~」
むにむにむにむにむにむにむにむに。
「兄さんばかりズルいですね。今日は僕も、話の前にほっぺを触らせてもらいましょう」
「んああ~」
おまけにミトも、むにむに。
今回はほっぺどころか、僕の黒髪までもしゃもしゃと弄られる始末だ。
結局、すっかり三分ほどは触られ続けた僕のほっぺは、すっかり温かくなってた。
気づくと、カルのぶすっとした顔も、いつもの調子に戻ったみたい。
「よっしゃ、満足だ。気分も落ち着いたし、話してやるとするか」
ふう、と頬杖をついて、カルは窓の外を眺めながら昔話を語り始めた。
「……今の里長の名前はフェム。フェム=エズ=ミグラっつって、相当な堅物だ。俺とは真逆で、エルフ族の伝統を守って、外からの文化をシャットアウトする偏屈女だよ」
兄の説明を聞いて、弟のミトが「ですが」と言葉を挟んだ。
「長としての実力は確かでした。弓に優れ、勤勉で……集落の老人にも好かれていました」
「ケッ。ただのいい子ちゃんってだけだっつーの」
カルが腕を組んで、口を尖らせてそっぽを向く。
きっとカルにとっては、優等生がいるって言うのはいい気分じゃなかったんだろうね。
「俺はずっと、外の文化をエルフ族に取り入れたかった。俺の発明じゃなくても、俺やミトが着てるような服だけでも一族の文化に加えれば、きっともっと、エルフ族は良くなる……でも、そのたびにフェムとぶつかり合って、発明品だって何度も捨てられた」
「どうちて?」
「エルフ族というのは、文化や技術を成長させるのではなく、過去の遺産を大事にするものなんです。むしろ、先進的な存在はあまり好まれないのですよ」
なるほど、カルとミトが初めて会った時、ファンタジーっぽい服装をしていたのはこの世界の常識じゃないんだね。
そんなのくそったれだ、なんてカルはつぶやきつつ、椅子から立ち上がって手を広げた。
「で、ある日……フェムがキレて、俺を追放するか、俺自身の意志で出ていくかを迫ってきやがった。もちろん、俺は自分の足で里を出たってわけだ!」
「自慢するようなことじゃありませんよ、兄さん」
「いいんだよ、別にいいんだ。ユーア=フォウスを作るって夢が、少し早まっただけだぜ」
はん、とカルが鼻を鳴らすも、それが本心じゃないのは僕にもミトにも分かってるよ。
「ミトを一緒に来させたのは、ちょっと悪いと思ってる。それに、ぶっちゃけると、エルフ族の里が危ないって聞いて、心配してないわけがねえ」
むしろこっちの方が本心だって、もっと理解できてる。
その場で地団太を踏んでる、あと一歩踏み出せない足を前に進ませてあげたい。
「……でも、どうにもなあ……ん?」
だから僕は、カルのズボンのすそを掴んだ。
そして顔を上げて、モヤモヤしているカルの目をしっかりと見つめて言った。
「かる。いかないと、こーかいしゅるよ」
その瞬間、カルの瞳に僕が映った。
家の外からフクロウが鳴く声すら聞こえるほどの静けさを、最初に破ったのはカルだ。
「……分かってるさ。俺、エルフ族の里に行くよ」
やった。
カルは自分の殻を破って、エルフ族の里に行くって言ってくれた。
だったら、僕ら以外の人がここに入ってきてもいいよね。
「その言葉を待っていたぞ、カル」
「ローヴェイン!」
ドアの隙間からひょっこりと顔と耳を出したのは、ローヴェインだ。
僕は実を言うと、彼女がここに来ていたのは知っていた――知らないのは、彼女がいると事情を話しづらいかもしれなかったカルとミト。
ちょっとだけ騙した気持ちになるけど、今回ばかりは仕方ないね。
「いつから聞いていたんですか、ローヴェインさん?」
「フェムの名前を聞いたあたりからだ」
部屋に入ってきたローヴェインの顔つきとまなざしは、いつもよりずっと真剣だ。
「カル。住処を失った者として忠告させてもらう。危険だと言われているうちに行動しておかなければ、お前が目にするのは滅んだあとの集落だけだぞ」
ローヴェインの経験も詰まった言葉に対して、カルは「けっ」と答えた。
「分かってるっての。ユーリとミトのおかげで、うじうじした気持ちは吹っ飛んだよ」
「……ならいい」
小さく頷いたローヴェインと僕、ミトに、カルは自身の拳をぶつけてから言った。
「皆、少しの間ユーア=フォウスを空ける。ついてきてくれるか?」
「当然ですよ」
「承知した」
「うん!」
「じゃ、行くとするか、エルフの里に!」
こうして、カルと共にエルフ族の里に行くことが決まった。
もっともカルを説得する以外にも、もう一つ問題はある。
「……といっても、あそこまではかなりの距離があるぜ。歩いていくには、いくらレームを連れて行っても、相当な日数がかかるぞ」
――そう考えているのは、カルだけなんだけどね。
「そのことなら、僕とユーリ君が解決していますよ」
僕らのもとには、お金になる魔晶石がいっぱいある。
そして魔晶石がお金になるなら、そのお金で物を買わせてくれる人がいる。
しかもいろんな商品を持っていて、きっと『エルフの里まで爆速で連れて行ってくれる乗り物』も売っている人を、僕らは一人だけ知ってるじゃないか。
「……まさか!」
「ええ、そのまさか、です」
僕とミトは顔を見合わせて、歯を見せて笑った。
「おかいもの、しなきゃね!」
すべてを察したカルもローヴェインも、一緒に笑ってくれた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌日の昼間から、僕らは早くもエルフの里へと出発していた。
今回はレームをお留守番させたし、地上の道をてくてくと歩いちゃいない。
どうしてかって?
「わーっ! はやーいっ!」
僕らは今、天翔ける魔物――ペガサスの馬車に乗ってるんだ!
真っ白な翼を翻して飛ぶ馬が曳いてくれる馬車に乗って、空を旅してるんだよ!
そんなの、窓から顔を出して声を出さないわけがないよね!
「たまげたな、空を飛ぶペガサスの馬車なんて……」
「私も初めて見たな。ミト、どうしてキャシーがペガサスを飼っていると知っていたんだ?」
「いいえ、僕も賭けてみただけですよ」
驚くカルとローヴェインに対して、事情を知るミトがにっこりと微笑んだ。
そう、この馬車はキャシーちゃんからミトが借りてくれたんだ。
山ほどの魔晶石を渡すって書いた手紙と引き換えだったけど、普通の馬車なら何日もかかるところを、ペガサスの馬車なら半日とかからずにエルフの里まで行けるってさ。
そしたらその日のうちに、ペガサスの馬車がひとりでにやってきてくれたんだ。
キャシーちゃんはよっぽどのことがないと、こっちには来てくれないみたい。
「キャシーさんなら、きっと高速で国を移動する手段を持っていると思ったんです。まあ、数日借りるだけでも、相当なお金を取られましたが、必要経費ですね」
「きゃしーちゃん、しびあ」
ドレイクを送って数時間ほどでやって来たキャシーちゃんがペガサスと一緒に送ってきた手紙に記された言葉は、あまりに迫真だったから忘れられない。
『魔晶石はペガサスに載せとけニャ。レンタル期間は五日間だから、それまでにユーア=フォウスに戻ってこないと、延滞料金をもらうから覚悟するニャよ』
延滞料金は日の計算かな、それとも時間ごとに取られるのかな。
いや、今はエルフの里のことを考えるのが最優先だね。
「ペガサスなら片道でも半日だってかからねえし、集落でトラブルが起きても、きっと五日間には間に合うさ」
なのにカルは、エルフの里でトラブルが起きるかもしれないなんて言うんだから。
僕としちゃ、どうしても気になっちゃうよ。
「にゃにか、おきりゅの?」
「ユーリは心配しなくたっていいさ。最悪の事態だって、俺があいつらにグルグル巻きにされて、谷底に蹴落とされるだけだからよ」
カルはけらけらと笑ってくれるけど、笑い事じゃない。
エルフの里に着くやいなや、大事な人がひどい目に遭うなんて想像したくないよ。
「ひ、ひえ……」
「ユーリ君を怖がらせたら、フェムさんが何かする前に、僕が兄さんを叩き落としますよ」
「ご、ごめんってば……あっ!」
ミトがカルに忠告した時、二人同時に窓の外を指さした。
「僕も見つけましたよ、兄さん」
「あそこだ! あの森の奥が、俺の故郷だ!」
うっそうとした森の中心部――どこか分からないほど、延々と同じ景色が続いていそうな森の真ん中を、二人は凝視してる。
鼻のみならず、眼も良いはずのローヴェインでも、ちょっぴり場所を掴みかねてるみたい。
「指さしてもどこか分からないほど、深い森の奥だな。エルフ族の集落は探しても見つからないと言われているが、あながち嘘ではなさそうだ」
「あそこにはまだ、人間も他の種族も来たことはないぜ」
どっかりと馬車の椅子にもたれかかるカルに、ミトがくすりと笑った。
「……兄さんにとって、まだあそこは故郷なんですね」
「んだよ、悪りいか?」
「いいえ、その逆です。兄さんの故郷がどこにもないなんて返事を聞かずに済んで、ほっとしました……むしろ、嬉しいくらいですよ」
「何があったって、俺が生まれたところはあの辺鄙な集落だっつーの」
安心した調子で、ミトは馬車の全面の小窓を開いて、ペガサスのお尻を叩いた。
「ペガサスをこの辺りで下ろしましょう。逃げてはいけませんよ」
どうやら無人のペガサスを降ろすときの指示みたいで、森の中でも数少ない、拓けた場所にペガサスは舞い降りた。
同時に馬車も、少しの衝撃と共に地面に着いた。
鳥がバサバサと飛んでいく中、僕らはペガサスの馬車から下りてゆく。
ペガサスはエルフの里への道をすっかり覚えているほど頭が良くて、キャシーちゃん曰く独りでに逃げないほど従順らしい。
その証拠に、僕が前脚を撫でても、ペガサスはブルルと鳴くだけだ。
ただ、問題なのはペガサスの鳴き声以外、森の中では何の音もしないことだね。
「……何の気配もねえな」
しかもカルですら、この状況はおかしいと思えるほど静かみたい。
「皆さん、僕らからはぐれないようにしてくださいね。エルフ族の集落に行くには、エルフしか知らない道を進まないといけないんです」
ミトの忠告に従って、僕らは森の中を歩き出した。
僕はてっきり、森の中では魔物の恐ろしい大歓迎を受けると思っていたし、そうじゃないならエルフの冷たい目線にさらされると思ってた。
でも、森で僕らを待っていたのはそのどちらでもないし、どれでもない。
異様なほど茂った木々の隙間を通り抜けるように歩いていく僕らは、ただただ無音の中を、ミトについて歩いていくばかりだ。
「はぐれちゃら、どーなるの?」
途中からローヴェインにおんぶされながら、僕はミトに問いかける。
「森の中で迷ってしまいます。エルフ族が運よく見つけてくれれば森の外に放り出してくれますが、そうでないなら……まあ、聞かない方がいいですよ」
そんな風に話されて、僕は続きを聞きたくなくなった。
きっと、森の中で朽ちて、植物の栄養だなんて言われれば、怖くて黙っちゃうよ。
「あるいは、信じられない物量で押しかけてきたら、里に到着するだろうな」
「それこそ、あり得ない話ですよ。人間族だって他の亜人だって、暇じゃないんです」
ローヴェインの背中でゾッとしていると、とうとうカルが足を止めた。
ミトも、ローヴェインも、さっきまでの雑談の空気はどこへやら、完全に何かを警戒している雰囲気だ。
僕みたいな転生者には分からない何か……嫌な気配を感じ取ってるのかもしれない。
「つーか……おかしいだろ。ここまで来ておいて、何の反応もないって普通じゃねえよ」
「ああ、普通じゃない。お前達、警戒しろ」
鼻をひくひくと動かしたローヴェインの、黄色い瞳が細くなった。
「私の鼻が匂いを嗅ぎつけた――強い、血の匂いだ」
「血……!?」
それを聞いた途端、長い髪を揺らし、カルが駆け出した。
いつものはしゃいだ様子じゃない、目を血走らせてすごい顔で走り出したんだ。
「兄さん!」
「待て、カル! 先行するのは危険だ!」
「危険だなんて、血の匂いがするって聞いてからじゃそんなの、言ってられねえよ!」
ミトやローヴェインが追いかけても、カルは話も聞きやしない。
「かる!」
僕の声なんて、当然届いちゃいない。
カルの長くて大きい耳は、もう他のエルフの声を聞こうとするのに必死だ。
「フェム、皆、どこにいるんだ! 無礼者のカルが帰ってきたぞ、さっさと――」
そして彼は、やっと他の拓けた場所にたどり着いた時、足を止めた。
やっと追いついた僕やミト、ローヴェイン、そしてカルが足を踏み入れたのは確かに、エルフ族の里に違いないんだ。
「――嘘、だろ」
家が、集会所が、何もかもが壊れてなければ。
血で汚れて、何かにめちゃくちゃに踏み荒らされてなきゃ、ここは間違いなく、カルの知るエルフ族の里だったんだ。
「おいおいおいおいおいおい、ふざけんなよ、冗談だろ、ありえねえよ!」
半狂乱になったカルは、乱暴に声を荒げながら、どかどかと里の中心部へと歩いていく。
でも、当然のごとく声は返ってこないし、エルフの気配もない。
「フェム! 皆! 老人ども! 厄介者が帰ってきたぜ、説教しやがれっ!」
「落ち着いてください、兄さん!」
「こんな状況で落ち着いてられるか! 俺達の集落が、ずっと暮らしてきた場所がこんなになっちまって、見ろ、血までついてるんだぞ!」
里の残骸を蹴飛ばしてまでエルフを探す姿は、いつものカルじゃない。
少なくとも、僕らの知ってるカルは、こんな鬼のような形相なんてしたことないのに。
「か、かる……」
僕がどうにかなだめようとすると、カルはぎろりと僕を睨んだ。
まるで憎い敵でも睨むかのようなカルの態度に、僕は思わずたじろいだ。
唇が震えて、思わず涙が零れてしまいそうな、恐ろしい顔だ。
「何だよ、ユーリまでぶッ」
そしてそう思った瞬間、彼は思い切り顔を殴られた。
カルが転ぶくらいの勢いで殴ったのは、僕を片手でおぶったままのローヴェインだ。
ぼきり、と指の骨を鳴らすローヴェインのパンチをもろに受けたからか、カルの顔からは、さっきまでの怒気がすっかり消え失せてた。
「ユーリに荒い態度で接するな。頭を冷やせ、大バカ者」
「……ご、ごめん……」
ちょっぴりうめいてから、カルは謝ったけど、僕は怒ってなんかいない。
「かる……みんにゃ、どこにいっちゃの?」
「どこって、分からねえよ。集落は皆の居場所だから、引っ越すだなんて……」
よろよろと立ち上がるカルのそばで、ミトがはっと何かに気づいた。
「いいえ、あります! エルフ族の秘密の集会所が!」
「そうだ……あるじゃねえか! フェムや前の長が話し合いをしてた場所が!」
ミトの声を聞いて、ほとんど間髪入れず僕らはカルについて走り出した。
ただ、さっきと違うのは、カルがちょっと腫れた頬をさすりながら、申し訳なさそうな目で僕をちらりと見たことだ。
「どこかに逃げてるかもって、教えようとしてくれたんだな……ありがとな、ユーリ。お前を怒鳴りつけたりなんかして、本当にごめんな」
「きにしにゃいで!」
カルの心境は、僕らにもすごく分かる。
なんだかんだ言ってもエルフの里はカルの帰る場所の一つで、それがめちゃくちゃに破壊されてたなら、狼狽して当然だ。
むしろ僕は、ローヴェインに殴られて腫れた、カルの顔の方が心配だよ。
ユーア=フォウスに帰ったら、周りの薬草で湿布を作ってあげないと。
「皆さん、集会所はこっちです! 急ぎましょう!」
「血の匂いがずっと濃くなっている……おそらく、この先に誰かがいるぞ」
「頼む、頼むから無事でいてくれよ……!」
三者三葉の想いを秘めて走り続ける中、またもカルが足を止めた。
「――フェム!」
彼の足元に――エルフ族の女性が横たわってたからだ。
しかもどうやら、彼女が今の族長のフェムみたいだ。
トライバル柄の民族衣装にスカート、草履と大きな緑の宝石の指輪、頬のペイント。
そしてカルと同じ長い耳と、彼と同じ色の三つ編みにした長い髪が、エルフ族の証だ。
「なあ、おい、フェム! 返事しろよ、生きてんのかよ、バカ野郎!」
「フェムさん、返事をしてください! 僕です、ミトです!」
フェムと呼ばれた女性は、カルに揺らされて少しだけ青い目を開いた。
「……う……」
でも、すぐに目を閉じてしまった。
それ以上カルの言葉にも揺さぶりにも応じなかったけど、ローヴェインの背中におぶってもらった僕ですら、確かに彼女の呼吸の音は聞こえる。
つまり彼女、フェムはまだ死んでいない。
「良かった……生きてた、フェムは生きてる……!」
ほっと一安心するカルを置いて、ミトは少し離れた、小さな木の小屋へと入ってゆく。
「兄さん、避難所に皆さんもいます! ですが……」
どうやらあそこがエルフの避難所みたいだけど、こっちも誰かの手によって、ここまでする必要はないだろうってくらい破壊しつくされていた。
「うぅ……」
「ぐ、ぐ……」
そして中にいたはずのエルフ族は、誰も彼もが手痛いケガを負っている。
こんなことが平然とできるなんて、仮に人間だとしたら、その人はもう人じゃない――モンスターそのものだよ。
「ほとんどがケガ人か。しかもかなり酷くやられている者もいるようだ」
見えない、まだ過程しかできていない敵に対して義憤に駆られていると、ミトがエルフ族のケガ人に声をかけ始めた。
「皆さん、何があったんですか!」
「……く……ぐう……」
返ってくるのは言葉じゃなくて、うめき声ばかりだ。
「離せないほどに痛めつけられるなんて……エルフ族は戦う力もあるのに、誰がここまで酷い目に遭わせたんですか……!」
「疑問よりも先に、今は命を優先すべきだろう」
ローヴェインの提案に、ミトが強く頷いた。
「ええ、ひとまず治療をしながらでも、ここを離れないと! もしもエルフの集落をこんな風にした何かが近くにいるなら、逃げるべきです!」
「でも、これだけの人数を運ぶには、ペガサスじゃ足りねえぞ!」
確かにペガサスは早いけど、二十人を超えるエルフ族の住民を運んでユーア=フォウスに戻るには、馬車が小さすぎる。
かといって何度も往復するほど、エルフ族に時間の余裕はないかもしれない。
「どうすりゃいいんだ……」
「もんだいにゃいよ、かる!」
だったら僕のお絵かきスキルで、乗せる場所を増やせばいい!
「ぺがしゃしゅに、こりぇ、はこばせよう!」
僕が空中に描いたのは、大きな橇。
これを馬車の後ろからペガサスに曳かせて、さらに来た時みたいにすごい速さで高所を飛んでいなければ、きっと落ちることもないと思う。
「橇か、ひらめいたな! 高く飛ばずに、低空飛行させれば、橇を引いても地面に落とす心配はないはずだ!」
僕らはさっそく橇をペガサスにつないで、ケガ人をそこに乗せていく。
今にも途絶えてしまいそうな息を聞いていると不安だったけど、ローヴェインが僕を撫でてくれると、不思議とその恐れも消えていった。
「はいやッ!」
そして全員を載せた馬車と橇は、カルがペガサスのお尻を叩くと、ふわりと浮いた。
木々がお尻をかすめない程度の高さで、ペガサスは静かに飛んで行く。
まるで馬車と橇も魔法にかけられたかのように、ふわふわと浮いたままついてくるし、ぐらぐらと揺れてフェムさんや皆を落とすような様子もない。
この調子なら、ユーア=フォウスにも無事に到着できるはず。
「お願いだ、死なないでくれ……誰も死んでほしくないんだよ……!」
ただ、カルはずっと指を組んだまま、普段は信じていない神様に祈っていた。
ミトもローヴェインも、彼をただ静かに見守るばかり。
「かる……」
僕は描ける声も見つからず、カルの手の上に、手のひらを重ねた。
馬車の翔ける音と、カルの心臓の音がいやに早く聞こえた。
僕らは相変わらず、町をもっとよくするための仕事にかかりっきりだ。
「よいしょ、よっこらしょっと!」
今日は森の奥から掘り出した追加の魔晶石と、それの整理。
使い道はもっぱらカルの発明品だけど、もしもお金がたくさん必要になった時には、キャシーちゃんに売る予定。
いくらになるかは分からないのに、僕やカル、ミトは「きっとお家をたくさん買えるくらいだ」なんてのんきにはしゃいじゃってるよ。
「レーム、魔晶石を奥の倉庫に運んでくれ!」
『ゴオオウ!』
どれだけ重い荷物だって、クリスタルゴーレムならどかどか運んでくれる。
「あそこの休憩所も、この調子なら明後日には完成しそうですぜ!」
「ありがちょー!」
ライカンスロープの皆が、日除けのある休憩所をトントンと組み立ててくれる。
どれもこれも、町にあれば便利だと、僕とカルが提案したものばかりだ。
そしてそのカルだけど、今は僕やミト、ローヴェインと一緒に、町の集会所で一つの大きな紙を囲んで話し合いをしてた。
紙面にでかでかと描かれているのは、カルが発明した様々なアイテム。
「……とまあ、これが町を守る発明品の設計と建設プランだ」
それは全部、このユーア=フォウスの守るアイデアだ。
特に一番大きく描かれた巨大な伝統みたいな発明品は、相当な規模のものだよ。
「町を発明品で囲むとは、ずいぶん大きく出たな」
「発明品ってほどじゃないさ。ユーリのお絵かきと俺達の力技で柵を作って、そいつに魔物が嫌がるような光をぶつける装置を取り付けるんだ」
「まもにょ、ぴかぴか、いやがりゅ!」
あくまで印象の問題だけど、魔物は明るい光を嫌がると思ってる。
そうじゃなきゃ、洞穴のような暗闇や、うっそうとした森に棲んでるはずがないもの。
「俺さ、魔物が最初から近寄らないような柵を作りたいと思ったんだ! でっかい壁じゃあ城下町みたいな閉塞感が出てくるし、外からの見栄えもいいはずだぜ!」
「スタンピードの対策としては、難しそうだがな」
「そもそも、スタンピードがなんであるかを知っていても、どのような現象かはあまり知りませんね。ローヴェインさん、簡単に説明してもらえますか?」
ミトが問うと、ローヴェインは少し困り顔で話し始めた。
「簡潔に言えば、魔物同士の共鳴現象だ。一匹の魔物から暴力的な衝動が発せられると、波打つように伝播し、他の魔物に伝わり、増幅する。そしてその感覚が限界に達した時、魔物が暴れ出す……これがスタンピードだ」
話だけを聞くとそうでもないけど、実際に体験するとその恐怖は段違いだよ、きっと。
だって、ある日何の前触れもなく、山ほどの魔物が群れを成して襲い掛かってきて、しかも武器も何も通用せずに、住処が蹂躙されてゆくんだ。
建物も、路も、建築物も、時には人も――何の関係もなく、潰されてゆく。
ローヴェインが見た時の恐怖と怒りは、どれほどのものだっただろうか。
「衝動そのものの原因も、収まる条件も一切不明の災厄ってわけか」
もはや獣害と呼ぶよりは天才と呼んだ方が近いそれを、カルの発明品が止められるかはさっぱりだ。
だけども、だからと言って諦めるのは、カルじゃない。
「もちろん、スタンピードはどうにもできねえと思うぜ。だけど、それが何もしねえ理由にはならねえだろ?」
「……ああ、その通りだ。ユーリぽよの体調に支障をきたさない程度に、作業を進めよう」
「「ぽよ」」
……ローヴェイン、今度は僕をユーリぽよって呼んだ?
そういえば、彼女のボディタッチがやけに多くなってるような、いや、変な意味じゃなく。
「すまない、私が頭の中でそう呼んでいたのが、口をついて出たようだ。以後、気を付ける」
「兄さん、ローヴェインさんって……」
「やっぱり、そういう奴なんじゃねえかな。いや、人のヘキを指摘する気はねえけどさ」
カルとミトがひそひそと話をしてるけど、多分ローヴェインには全部聞こえてるよ。
隣にいる僕に聞こえてるんだもの、オオカミのおっきな耳にはバレちゃうよ。
ここはひとまず、話をカルにがっつり逸らしてもらおう。
「じゃ、当面の町作りの方針は魔物対策ってことで。ローヴェインの子分にも――」
うん、ナイスチョイス。
とりあえずミトが僕を抱きかかえながら、それぞれが作業を始めようとした。
「た、た、大変だーっ!」
でも、そうはならなかった。
ローヴェインの子分、ライカンスロープがどたどたと、僕らのところに駆けてきたんだ。
「ったく、ここにいると大変なことばかり起きるな、はははっ」
「どうした、お前達?」
カルはからからと笑い、ローヴェインはいつものクールな顔で子分に問いかける。
「アネゴ、大変だ!」
「水路に引いてる水が、どろどろに濁っちまってるんだ!」
「何だと?」
ローヴェインだけじゃなく、僕ら皆の顔が険しくなった。
水路の水が汚れるどころか、どろどろになるなんて、昨日はちっともそんなことはなかったんだ。
今日、ちょっと目を離したすきにそんな事態になってるなんて、絶対に予想してないトラブルが起きた証拠だよ。
「そりゃまずいぜ! 水路の水は、町に欠かせないんだからよ!」
「まずは様子を見に行きましょう、兄さん!」
「だな! 行くぜ、ユーリ、皆!」
「ん!」
僕らはライカンスロープに案内してもらい、一番広い水路に向かう。
そこにはいつもの綺麗な水じゃなく、気味が悪いほど濁った水が流れてた。
油断して口に運べば、間違いなく病気になっちゃいそうな水だ。
「……驚いたな、本当に水が濁ってやがる……」
うえっ、と顔を離したカルと違い、ローヴェインは静かに顔を近づける。
「ふむ。どうやら毒ではないようだ」
「分かるのか、ローヴェイン?」
「毒ならその匂いがする。これはただ単に濁り、水の質が悪くなっているだけだ。もっとも、それだけでもかなりユーア=フォウスにとっては悪影響だがな」
仮に毒ではないとしても、こんな水を使っていれば、町の皆が病気になっちゃう。
水路がダメになってるなら、ヘタをすれば井戸の水だっておかしくなっているかもしれないし、その間水が使えないのは大問題だ。
「畑仕事だけじゃなく、景観も悪くなってしまいますね」
『ゴオゥ……』
次第に水の臭気は強くなり、たまたま近くにいたレームも後ずさってしまうほどだ。
「れーむ、いやなにおいだって」
「ゴーレムでも嫌がるんだ、俺達にとってもきつい臭いだぜ。ユーリ、水を鑑定できるか?」
「やっちぇみりゅ」
僕がじっと水を見つめると、文字がふわふわと浮かび上がってきた。
『水(汚染):汚れた水。飲用には向かない。
精霊ウンディーネが管理している水だが、放置されるとこの状態になる』
ウンディーネといえば、ファンタジー世界だと水の力を司る精霊だ。
もしかすると、彼女が水路や川につながるどこかにいるのかもしれないね。
「うんぢーねって、しぇーれーが、よくないみちゃい」
「ウンディーネか。なるほど、確かに水源をたどればウンディーネの住む湖に着くかもしれないな。行ってみる価値はあるだろう」
「森の奥の湖となると、少し距離がありますね」
「ユーリはレームの肩に乗って、行くとするか!」
カルが言うと、レームは誰に命令されずとも、僕を持ち上げて肩に乗せてくれた。
……ローヴェインがちょっぴり残念そうな顔をしてるのが、気になったけど。
「よろちくにぇ、れーむ!」
『ゴォウ♪』
レームがずしん、ずしんと町の外に歩いていくと、カル達がついてくる。
これから目指すのは、川のずっと根源――森の中にある(と思う)、湖だ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
僕らが歩き始めて、森の中に入ってずっと歩いていると、本当に湖はあった。
といっても、森の中の湖は神秘的で、いつでも澄んだ水が湧き上がり続けているようなイメージだったけど、今はそんな綺麗なものじゃない。
「……思ってたより、ずっと汚ねえな……」
カルがつぶやいた通り、湖はもはや絵の具を投げ捨てたように濁り切っていた。
子供のころ、筆を何度も洗った後に染まった水と同じような色だ。
「泥というよりも、ヘドロと言った方がいいかもしれませんね」
「おまけにこの臭いだ。はっきり言って、ライカンスロープ族にはきつすぎるぞ」
確かにローヴェインは、あからさまに鼻を隠して、嫌悪感を露にしてる。
人間よりずっと鼻の利くライカンスロープにとっては、ここにいるのもつらいだろうし、早めに問題を解決してあげないと。
「ねえ、ありぇ!」
そう思っていた僕の視界――湖の端に、女性のような姿が見えた。
こんな湖の中で上半身だけを出しているなんて、どう考えても普通の人間じゃない。
「間違いねえ、水の精霊ウンディーネだ!」
言うが早いか、カルがウンディーネと思しきそれに向かって走り出した。
「おーい、おおーい!」
そして大きく手を振って声をかけると、僕らの声に気づいたのか、彼女が振り向いた。
ウンディーネって、どんな雰囲気の精霊なのかな。
きっと澄んだ水のように美人で、愛らしくて、神秘的な感覚を身に纏っていて――。
「――何よ、うるさいわね」
――いなかった!
振り返ったウンディーネの顔は、泥パックを何重にも重ねたような見た目だったんだ!
「「ぎゃああああああっ!?」」
僕ら全員がびっくりして跳び上がったのも、ごめんね、今回だけは許してほしい!
だって、こんなの誰だって止そうなんてしてなかったもの!
「精霊の顔を見て、なんて声を上げてるのよ! 失礼ね!」
じゃぶじゃぶと水を掻き分けてやってくるウンディーネの姿も、ちょっと怖い。
湖を守る精霊というより、どっちかというと半魚人の様相だ。
「し、失礼っていうか、そんな怖い顔をしてりゃ誰だって悲鳴を上げるだろ!」
「正直なところ、ウンディーネは麗しい女性の顔をしていると聞いていましたので……こんなにけばけばしい見た目だとは、思ってもみませんでした……」
「あんたはあんたで、失礼なくせに礼儀正しいわよね……!」
「ごめんにぇ、うんぢーねさん」
僕が皆の代わりに謝ると、ウンディーネは鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「エルフに、人間族のチビに、オオカミ女がそろって何の用?」
こういうシチュエーションで、大人として交渉の場に立つのはローヴェインだ。
「精霊ウンディーネ。貴女が管理している湖から、汚れた水が流れ込んでいる。それについての相談と、どうしてこうなってしまったのかを聞きに来たんだ」
「原因なら、あいつらよ」
ウンディーネが親指でさしたのは、湖の反対側にたむろしているスライム。
「スライム……?」
ただし、ただのスライムじゃない。
遠目に見ても分かるくらいどろどろで、ぐちゃぐちゃで、汚くて、近づくのをためらってしまうくらいには臭そうなスライムだ。
あんなのが湖で集まっていればどうなるかなんて、嫌でも想像がついてしまう。
「最近、あたしの湖にやって来た魔物のスライムよ。最初は害を加えなかったし、こっちも放っておいたんだけど、しばらくしたらどこかからヘドロを食べてきたのよ」
ばしゃん、と水を揺らして、ウンディーネが怒った。
「そしたらあっというまに、他のスライムもヘドロを蓄えて……冗談みたいに増え始めて、気づけばこのありさまよ! あたしの力も、これじゃあ処理しきれないわ!」
こっちから見ても、確かにスライムの数は相当多い気がする。
ウンディーネの力がどれほどかはともかく、あれはきっと、彼女の処理できる数を超えちゃってるんだろうね。
「スライムの中でヘドロが増えるなんて、あり得るのかよ!?」
「聞いたことがある。スライム族は体の中で液体や半固体を増やすため、ドルイド族や一部のエルフ族に重宝されていると……お前達は知らなかったのか?」
「一部のエルフ族、ですね。僕らが学ぶ薬学は、まったく違うものです」
「俺はそもそも、薬だとか伝統の勉強もしなかったけどな! えっへん!」
「自慢することじゃないでしょう、兄さん」
胸を張るカルと、彼にツッコむミト。
そんな二人を見て、面倒くさそうにウンディーネがため息をついた。
「おまけにあのスライム、触れると臭いが移るのよ。で、私も対処を諦めたってわけ」
「あんたは、このままでいいのかよ?」
「いいわけないでしょ。でも対処しようがないってのも、事実よ」
彼女は半ば諦めてるけど、僕らはそうはいかない。
ユーア=フォウスのためっていうのもあるけど、こんな状況は放っておけないよ。
「じゃあ、ぼくらのでばん!」
「だな! ウンディーネ、俺達がこの湖を綺麗にしてやるよ!」
僕とカルがそう言うと、ウンディーネはじっとりとした視線で僕らを見つめる。
「あんた達が? スキルも何もなさそうな見た目しといて、何ができるのかしら?」
「ぼく、しゅごいの、ちゅくれるよ!」
「まあまあ、とりあえずユーリの提案を聞いてみろって」
いまいち信用がないのか、ウンディーネはぶくぶくと顔の半分を水の下に沈める。
まあ、もしも僕が彼女と同じ立場でも、いきなりやって来たヘンな集団がヘドロをどうにかするなんて言ったって、信用してくれるわけがないよね。
だからこそ、僕のお絵かきスキルの力を見せてあげないと。
「ユーリ君、何を作るのですか?」
「おっきな、しょうじき!」
僕がこれから作るのは、掃除機。
「……正直?」
ノーノー、ソウジキ。
スライムをぎゅんぎゅんと吸い込む掃除機なんだけど、言葉と常識の差のせいで、皆にはちっとも違う意味に伝わっちゃったみたい。
「しょ・う・じ・き! ぎゅぎゅんって、いっぱい、しゅいこむ!」
訂正しても、伝わったかは怪しい。
でも、少なくともローヴェインには意図が伝わったみたいで、うんうんと頷いてくれる。
「何を描くつもりかは知らないが、要するにスライムを吸い込む装置を作り出そうとしているらしい。カル、アイデアを貸してやれるか?」
「もちろんだぜ!」
カルも親指を立てて賛同してくれたし、こっちの作戦は問題なさそう。
もっとも、この大きな湖を完全に綺麗にするには、もう少し必要なものがある。
「しょれから、えーと……」
僕が頭の中でほしいものを念じると、ローヴェインを助けた時の軟膏のように、必要なアイテムとそれを作る素材が文字として浮かび上がった。
『除染薬:水や空気の汚れ、毒を取り除ける。調合で作成可能。
必要素材:ファブの実、エリエアロエ、シュシュ草、スクラビンの花びら
すべての素材が湖の周辺で回収できる』
そう、次に必要なのは除染用の薬。
「きちゃないの、なくしゅ、おくしゅり!」
今度ははっきりと告げると、皆にもイイ感じに伝わった。
「素材はきっと、ユーリ君が分かっているはずです。僕と彼で探しますので、兄さんはアイデアを練っておいてください」
「おう、今イイ感じのアイデアがびりびり来てるからよっ!」
「ローヴェインさん、ユーア=フォウスから兄さんの調合用アイテムを持ってきてもらえますか? 少し距離があるので、大変かとは思いますが……」
「私を甘く見るな。すぐに取ってくる」
ローヴェインが湖を離れていくのを見届けながら、僕とミト、レームは歩き出す。
「れーむは、ぼくをのせちぇって!」
『ゴウウ!』
「じゃあ、いっちぇくりゅね!」
笑顔のカルと気だるそうなウンディーネに手を振って、僕らは森の中へと踏み込んだ。
湖の近くの森は、ユーア=フォウスの周辺の森と違って明るくて、メルヘンな世界観の物語に出てきそうな雰囲気だ。
少なくとも、魔物なんかはちっとも出てこなさそうだよ。
「みと、ありぇ!」
そのうちすぐに、青色の花が木の根元に生えているのが見つかった。
僕の鑑定スキルが、あれが調合に必要な素材だと教えてくれてる。
「スクラビンの花ですね。では、あそこにあるのがファブの実ですか」
ミトが次に指さした、地面に転がっているクルミのような実。
鑑定してみれば、なるほど確かにファブの実だね。
「しっちぇりゅの?」
「エルフ族の里にいた頃は、薬の勉強も少しはしていましたから。ユーリ君ほどではありませんが、何が必要かを教えてくれれば、探すのは簡単ですよ」
「じゃあ、えりえあろえ、しゅしゅそう!」
「エリエアロエだけは、ちょっと奥まったところにありそうです。でも、難しくないですよ」
「よし、これで全部ですね。湖に戻るとしましょうか」
「ん!」
『ゴアォ!』
それから素材を探すのは、ちっとも大変じゃなかった。
ローヴェインを助けるときの軟膏よりもずっと楽で、魔物はやっぱり出てこない。
もしかすると、ミトとレームが怖くて、出てこなかっただけかもしれないけどね。
そしてエリエアロエ、シュシュ草も集めてポケットに詰めた僕らは、湖に戻ってきた。
「ただいま戻りました、兄さん、ウンディーネさん」
「おー、帰ってきたか! こっちも、発明品のアイデアがまとまったところだぜ!」
カルが地面に描いたものを、僕らは覗き込む。
「見ろよ、これ! 地面に描いてみたんだがよ、こうやって真ん中の装置に、太い管からスライムを吸い出して収納するんだ! で、後ろのふたを開いて、地面にポイだ!」
やっぱり、カルは天才かもしれないと僕は驚いた。
だってほとんど掃除機が何かを伝えられてもいないのに、カルが地面に描いてたのは、間違いなく現代の掃除機そっくりの発明品だったからだ。
「しゅごい! かる、しょう……そうじき!」
「よーし、俺とユーリの考えは一緒だったみたいだ! さっそく頼むぜ、ユーリ!」
カルがアイデアを出してくれたなら、後は僕が、神様の羽ペンを使うだけだ!
「うん! ここを、こうこうこう!」
ペンで空に向かって発明品の外見を描いてみせると、それは現実に現れた。
「な、何ですかこれは……!?」
驚くミトとレーム、ウンディーネの前に現れたのは、四角形にホースがくっついたような、不思議な装置だ。
でも、僕のお絵かきスキルで作ったんだから、性能は保証されてるよ。
「俺とユーリの新しい発明品、『ぐんぐん吸い込むクン』だぜ! このレバーを引けば、中の魔晶石の力で、スライムが吸い込まれていくんだ!」
鉄かプラスチックか、奇妙な素材でできた発明品の四角形を、カルがバンバンと叩く。
「そんでもって、吸い込まれたスライムは箱ごと地面に捨てちまえばオールオッケー!」
「不思議な装置ね。でも、ガラクタなんかで、スライムとヘドロをどうこうできるわけ?」
「ヘドロはともかく、スライムはこいつで解決するぜ!」
カルはレームに『ぐんぐん吸い込むクン』を運ばせて、スライムのそばまで持ってくる。
改めて近くに来ると、鼻が曲がっちゃいそうなくらい臭い。
こんなのはさっさと吸い込んで、地面に埋めちゃおう。
「よしよし、スライムが逃げる前に、レバーを引いて、と……」
カルも僕と同じ考えを持ってくれたようで、有無を言わさずレバーを引こうとした。
ところが、レバーがちっとも動かない。
カルが情けをかけているんじゃなく、両足を箱に押し付けて力を込めているのに、うんともすんとも言わないんだ。
「ふん、ぐ、ぎぎぎ……ダメだ、全然レバーが下りねえーっ!」
「どいてください、僕がやってみます……む、ぬぬぬ……!」
しかも、力自慢のミトが一緒になって引っ張っても、レバーは動じない。
「僕でもダメだなんて、どんな硬さのレバーなんですか!?」
「どうしたもんかな……って、こっちにはレームがいるじゃねえか」
「れーむ、おにぇがい!」
こういう時は、ミトやローヴェインよりも怪力のクリスタルゴーレムに頼らなきゃね。
『ゴオオオオオオ!』
レームが雄叫びを上げながらレバーを掴むと、あっという間にそれは動いた。
「よし、うごいちゃ!」
僕が言うよりもずっと早く、掃除機型の発明品がすごい勢いでスライムを吸い込んだ。
ものすごい吸引力で、ぎゅんぎゅんとスライムがチューブの中へと消えて行くさまを見て、ウンディーネはちょっぴり引いているみたい。
「あわわ、スライムがどんどん吸い込まれていくわ……!」
「中の魔晶石のエネルギーで、汚い物質が増えることはないぜ! ま、原理としては、スライムを氷属性エネルギーで仮死状態にしてるんだけどよ!」
カルが説明している間に、スライムは一匹残らず箱の中に消え去った。
向こうに抵抗する気力はないのか、箱の中から魔物が騒ぐ音は聞こえない。
「で、箱を土の中に埋めちまえば、スライムはいつかぽっくりってわけだ」
『ゴウ、ゴウウ』
レームが『ぐんぐん吸い込むクン』を地面に埋めてしまうと、今度こそすっかり、スライムは湖の中から消え去ってしまった。
かわいそうだけど、これで地面の上に出てくることはないだろうね。
「やったぜ、とりあえずスライムの問題は解決だ! で、後はヘドロだな」
一仕事やり切ったと言いたげに額の汗をぬぐうカル。
するとそこに、灰色の尻尾をなびかせて、ローヴェインが走ってきた。
「待たせた。カル、お前の調合道具を取ってきたぞ」
「ローヴェインさん!? 予想よりもずっと速いですね!?」
「ライカンスロープ族の全力疾走を、甘く見ない方がいい。もっとも、足への負担を考慮しなければ、これよりずっと速く走れるがな」
彼女が背中からおろしてきたのは、もう何度もユーア=フォウスを助けそうな(でもいつか爆発しそうな)『まぜまぜ調合クン』。
名前はつい最近、カルと僕が一緒になってつけたんだ。
「ここにミトとユーリが集めてきた素材を入れて、と……調合スイッチ、オン!」
すべての素材を入れて、カルがボタンを押す。
ごうん、ごうんと古い洗濯機のような音を立てて調合が始まるさまを見て、ウンディーネだけじゃなく、ローヴェインもどこか心配そうだ。
「ね、ねえ? すごい音が鳴ってるけど、失敗じゃないの?」
「どうかな! 失敗したら、ものすげえ音を立てて爆発するからすぐに分かるぜ!」
「……私の時に失敗しないでよかったと、つくづく思わされるよ」
はあ、とため息をつきながらウルフカットを撫でつけるローヴェイン。
しばらく中身をかき混ぜていた発明品は、皆が見つめる中、動きを止めた。
「――できたぞ! 爆発してないし、薬が完成した証拠だ!」
やった、と皆が喜ぶ中、僕はすかさずお絵かきスキルでガラス製の瓶を描く。
これは祝杯を上げるためじゃない――調合用の釜の中にある、紫色の液体を有効活用するのに必要なんだ。
「ユーリが描いてくれた瓶に詰めて、と……じゃあ、こいつを湖にぶん投げて、真ん中から広がるように綺麗にしていくぞ!」
僕、カル、ミト、ローヴェインとレームが、それぞれ瓶を掴む。
「「いっせーのーでっ!」」
そしてそれを、一気に湖に投げつけた。
ぼちゃん、ぼちゃんと音を立てて瓶が湖に落ちてゆくと、その中心からどろどろに汚れた水が、飲み水にもなりそうなほど澄んだ水へと変わってゆく。
ずっと昔にテレビで見たグレート・バリア・リーフだっけ。
あれよりも綺麗で、湖の奥底まで見えるほどなんだ。
「す、すごいわ……あたしの湖の汚れが、みるみるうちに取れてるわ……!」
気づけば、ウンディーネの顔のけばけばしい泥パックも剥がれて、元のハリウッドヒロインも顔負けの麗しい顔が露になる。
水色の髪を揺らすさまは、紛れもなく湖を守護する精霊そのものだ。
「残りはあたしの力でも……えいっ!」
そして彼女が手をかざすと、ついに湖から汚れは取り除かれた。
それこそウンディーネの体が半分ほど透けて、向こうの景色が見えるくらいに。
「こんなに綺麗な水は、初めて見ました!」
「これがあたし、ウンディーネの本来の力よ。そしてここが、水の精霊によって清められた湖、この辺りじゃこれ以上に綺麗な水なんてないわ!」
ふん、と自慢げに鼻を鳴らすウンディーネ。
とはいえ綺麗になったのは湖だけで、スライムが跳ねまわっていたせいですっかり汚れてしまった地面や、残ったヘドロも掃除しないといけない。
「あとは周りに残った汚れを、皆で掃除だ!」
そこはまあ、人手も多いし、地道に片づけて行こう。
お絵かきスキルで作った木箱と木製のスコップで、僕らは少しずつヘドロを取り除く。
「うんしょ、よいちょ」
僕は僕専用のスコップを使って掃除するけど、やっぱり一歳児の体だと何かと不便だ。
皆と同じように掃除をしてるはずなのに、歩き方がだんだんおぼつかなくなってくる。
「ユーリ、その背丈では掃除もひと苦労だろう。どうだ、私が担いでやろう」
困ったなあ、と思っていると、ローヴェインが僕を持ち上げてくれた。
「わあ! ろーべいん、ありがちょ!」
「ふふ、礼を言われるほどのことではない。それに、こちらの方が私にとっても都合がいい」
「ちゅごー?」
「気にせず、掃除を続けてくれ……ああ、ユーリ吸いは抑えられんな……」
あ、やっぱり善意だけで助けてくれたわけじゃないんだね。
ローヴェインの鼻が僕の後頭部に当たって、呼吸の音がはっきりと聞こえる。
うう、匂いを嗅がれる花や小動物の気持ちが、ちょっと分かったよ。
「兄さん、やっぱりローヴェインさんをユーリ君から遠ざけるべきではないですか」
「あれはあれで、実害はないからなあ。ユーリも、嫌そうな顔はしてないだろ?」
「僕がユーリ君の立場なら、泣いて逃げてますよ」
ミトの気持ちは嬉しいけど、僕は逃げる気にはなれないかも。
ローヴェインがショックが受けそうだし、まあ、僕も悪い気はしてないから。
それに気のせいかな――ローヴェインは僕の匂いを嗅いでいると、いつもより断然作業の速度が速くなってるように思えるしね。
「ゴミは集まったな! 後はレームが掘ってくれた地面に、ゴミを埋めてと……」
とにもかくにも、ヘドロはしっかり集められた。
それを木箱に詰め込んで、湖から離れた場所にレームが埋めてくれた。
もうどこにも、ヘドロもスライムも、汚れも残っちゃいない。
「「お掃除、かんりょーっ!」」
これですっかり、湖は綺麗になったんだ!
「どうだ、ウンディーネ! 俺達のおかげで、前よりずっと綺麗になっただろ?」
カルがウンディーネの水に触れながら言うと、彼女も笑顔で応えてくれる。
「あんた達には、本当に感謝してるわ。どうやら町に水路を引いてるみたいだけど、そこに流れる水の質は、今後絶対に保証してあげる」
「また汚れたら、今度はあの装置で湖の水を吸い上げてやるぜ」
「勘弁しなさいよ。ここから水がなくなったら、生きていけないもの」
わいわいと皆が成果にはしゃぐ中、ウンディーネがふと、僕を見つめた。
「ああ、あと、ユーリとか言ったっけ? ちょうどいいわ、あんたにこれをあげる」
ぱちゃん、と彼女が水の中から取り出したのは、青い宝石のペンダント。
ウンディーネはそれを、僕の首にかけてくれた。
「にゃに、こりぇ?」
「あたしの力が込められたペンダントよ。いつか必ず、秘めた魔力があんたを助けてくれるわ。どんな効果をもたらすかは、作ったあたしにもさっぱりだけどね」
「何が起きるか分からないものを、ユーリに持たせて大丈夫なのか?」
ローヴェインが耳を倒して、首を傾げる。
疑問を浮かべるローヴェインとは対照的に、ミトはウンディーネを信用してるみたい。
「精霊からの贈り物は総じて魂の加護であると、かつての長が話していました。困ったときにトラブルを解決してくれる力を生み出したり、摩訶不思議な力を授けてくれたり……とにかく、悪いものではないはずですよ」
「エルフ族のお前がそう言うなら、信じよう」
ローヴェインも、ふむ、と納得した時、ウンディーネが不思議そうに言った。
「……エルフ、そう、思い出したわ」
どうやら、記憶の底からエルフに関する事柄を引っ張り出したみたい。
「ん?」
「あんた達エルフ族だったわよね? ヘラヘラしてるけど、心配じゃないの?」
「心配って、何が?」
「湖のトラブルなら、もう解決しましたよ」
カルとミトがそう答えると、ウンディーネは首を横に振った。
「何がって――エルフ族の里が危ないって、他の精霊が言ってたわよ?」
そして、告げた。
カルが育った故郷に、危機が迫っている。
あるいは、もう迫っていたと。
――手遅れにも、近いと。
「――え」
僕らの誰もが、呆気にとられた。
特にエルフ族の二人の碧色の目が、大きく見開く。
そしてミトは動揺しているままなのに対し、カルはウンディーネに掴みかかった。
「さ、里が危ないって、何があったんだよ! 教えろよ、ウンディーネ!」
もっとも、ウンディーネは水だから、腕が突き抜けるばかりだ。
それでも構わず、カルは必死に彼女を掴んで話を聞き出そうとする。
自慢の服が濡れるのも、今のカルはちっとも気にしていない。
「し、知らないわよ! あたしが聞いたのは、風の精霊シルフィードが、エルフの里から嫌な空気が流れてたって言ってたことだけよ!」
急に飛びつかれそうになったウンディーネも必死だけど、カルはもっと必死だ。
「じゃあそのシルフィードってのを連れて来い! 全部説明させろよ、オイ!」
「ちょっと、やめなさいってば!」
その鬼気迫る形相は、いつものカルじゃない。
あの元気で快活で、大らかに皆を迎え入れたカルが、乱暴な手段を取るなんて。
「いやがっちぇるよ、かる!」
「兄さん、よしなよ!」
ミトが無理矢理カルをウンディーネから引き離すと、その矛先は弟に向いた。
「お前は心配じゃないのかよ、ミト!」
「心配に、決まって、いるでしょうッ!」
だけど、ミトが碧色の目を見開いて一喝すると、カルの怒りが次第に収まっていった。
ローヴェインが僕を後ろから抱きかかえてくれなかったら、きっと震えが今でも止まっていなかったに違いないよ。
だって、兄弟の間でこんなに怒鳴り合うなんて、見たことなかったんだから。
「でもここでウンディーネさんを問い詰めても、どうにもできません! 本当に気になるなら、僕達が確かめに行くしかないじゃないですか!」
「本当にって、どういう意味だよ」
少しだけ間をおいて、ミトはカルに、試すように言った。
「……フェムさんに会いに行く勇気が、兄さんにあるのかと聞いているんです」
「…………」
無言だった。
カルは普段のように金髪を掻き回すこともせず、うつむいて返事もしなかった。
「僕は今すぐにでも、エルフの里に戻って様子を確かめたい。ですが、僕一人で行っても何の意味もないんです。兄さん、貴方にその意志がありますか?」
「……俺は……」
しばらく、カルは何も言わなかった。
言わないというよりも、言えなかったのかもしれない。
どうにも苦しくて、その姿を見ている僕も、心臓をきゅっと締め付けられた気分だ。
「……町に帰る。悪りい、装置はレームに持って帰らせてくれ」
そのうちカルは踵を返して、一人でユーア=フォウスの方角へと歩き出した。
「兄さん!」
「今日は発明のことだけ考えてたいんだ、俺の部屋には誰も入らないでくれよな」
ミトが引き留めても、カルは振り返りすらしなかった。
ともすれば自分勝手にも見える様子に、ローヴェインはさすがに顔をしかめた。
「カルはどうした? なぜ、エルフの里に帰りたがらないんだ?」
彼女に問いかけられ、ミトはわずかに返答をためらった。
でも、僕にちらりと目配せして、意を決したみたいだ。
「ちょっとだけ、でも深い事情があるんです。ユーリ君、兄さんがエルフ族の長ともめて、里から出て行ったのは以前にお話ししましたよね?」
「う、うん」
もうすっかり姿の見えなくなったカルの、歩いて行った方角を見つめて、ミトが言った。
「……そのエルフ族の長、フェムという女性が、兄さんの幼馴染なんです」
そして僕らは、カルがずっと隠していた秘密をミトから聞いた。
どうして彼が、ユーア=フォウスという、誰も拒まない町を作ったのか。
どうして発明品に執着して、自分を認めさせようとするのか。
僕はすべてを知ったうえで――カルと話さなきゃいけないと、強く思った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日の夜。
すっかり住民が寝静まったユーア=フォウスの中で一つだけ、まだ明かりがついたままの部屋があった。
僕らが暮らす家の奥、カルの部屋だ。
いつもなら大いびきをかいて爆睡しているカルの部屋を、僕とミトはこっそりドアを開けて見つめていた。
カルはテーブルに向かって紙に何かを書いては、ぐしゃぐしゃにそれをまとめて床に投げ捨てて、また何かを書き続けている。
発明のアイデアを練っているようだけど、そうじゃないのは分かる。
きっと頭の中には、エルフの里のことばかりが渦巻いているんだ。
そんなカルを放っておけるほど、僕もミトも冷たい人間とエルフじゃないよ。
「――兄さん、いいですか?」
ミトが声をかけても、カルは振り向かなかった。
「んだよ、ミト。俺は発明のアイデアを練るので忙しいんだ、明日にしてくれ」
そんな彼を見て、僕はミトにドアを開けてもらい、よちよちと部屋に入った。
「かる……」
じっと彼の背中を見つめる僕の後ろで、ミトのため息が聞こえた。
「ユーリ君が心配そうにしているのに、放っておけるようなエルフではないですよね。もしも兄さんがそんなエルフなら、僕は心底軽蔑しますよ」
そこまで言われてやっと、カルは椅子を動かして僕らの方を向いた。
いつもの陽気さはすっかり消え失せて、どこか思いつめたような面持ちだ。
「兄さん。本当は発明のアイデアなんて考えていないんでしょう?」
「んなわけねえだろ、発明家ってのはいつでも頭を捻って考えてるもんだ」
「じゃあ、どうして紙が真っ白なままなんですか?」
はあ、とカルがため息をついた。
「それはだな、天才だって行き詰まることが……」
「五十歳のころから同じで、兄さんは嘘が下手ですね」
すっかり嘘を看破されたカルは、金色の髪をぐしゃぐしゃと掻いた。
そして、テーブルを指で軽く叩きながら言った。
「……ミトの予想通りだよ。俺はさっきからずっと、エルフの里とフェムのことを考えてた」
カルの口から出てきたのは、ウンディーネの湖で聞いた、カルの幼馴染の名前だ。
「ふぇむ……かるの、おしゃななじみ?」
「なんでそれを知ってんだ?」
「僕が事情を話しました。といっても、ごく一部ですが」
カルの顔が、さっきよりわずかに険しくなった。
「兄さんの口から、ユーリ君に話してあげてください。いくら一歳程度といっても、彼には兄さんの話を理解するだけの知能があります」
ミトはそれだけ告げて、話さなくなった。
もしもカルが話そうとしないなら、きっとミトは兄と我慢比べをして、彼が口を開くまで黙り続けているつもりだろうね。
それを察したカルも、黙っているつもりは毛頭ないみたいだった。
「……俺さ、自分の意志で里を出たんじゃない。追い出されたんだ」
「そりぇは、だいたいさっちてたよ」
「んだとこの!」
言うが早いか、カルはツッコんだ僕のほっぺを掴んでむにむにしてきた。
しかも、今日のむにむにはいつもより力強くて、ずっと時間も長い。
「むにゅああ~」
むにむにむにむに。
「今日の俺はピリピリしてんだ、いつもの倍はむにむにしてやる!」
「もにゅああ~」
むにむにむにむにむにむにむにむに。
「兄さんばかりズルいですね。今日は僕も、話の前にほっぺを触らせてもらいましょう」
「んああ~」
おまけにミトも、むにむに。
今回はほっぺどころか、僕の黒髪までもしゃもしゃと弄られる始末だ。
結局、すっかり三分ほどは触られ続けた僕のほっぺは、すっかり温かくなってた。
気づくと、カルのぶすっとした顔も、いつもの調子に戻ったみたい。
「よっしゃ、満足だ。気分も落ち着いたし、話してやるとするか」
ふう、と頬杖をついて、カルは窓の外を眺めながら昔話を語り始めた。
「……今の里長の名前はフェム。フェム=エズ=ミグラっつって、相当な堅物だ。俺とは真逆で、エルフ族の伝統を守って、外からの文化をシャットアウトする偏屈女だよ」
兄の説明を聞いて、弟のミトが「ですが」と言葉を挟んだ。
「長としての実力は確かでした。弓に優れ、勤勉で……集落の老人にも好かれていました」
「ケッ。ただのいい子ちゃんってだけだっつーの」
カルが腕を組んで、口を尖らせてそっぽを向く。
きっとカルにとっては、優等生がいるって言うのはいい気分じゃなかったんだろうね。
「俺はずっと、外の文化をエルフ族に取り入れたかった。俺の発明じゃなくても、俺やミトが着てるような服だけでも一族の文化に加えれば、きっともっと、エルフ族は良くなる……でも、そのたびにフェムとぶつかり合って、発明品だって何度も捨てられた」
「どうちて?」
「エルフ族というのは、文化や技術を成長させるのではなく、過去の遺産を大事にするものなんです。むしろ、先進的な存在はあまり好まれないのですよ」
なるほど、カルとミトが初めて会った時、ファンタジーっぽい服装をしていたのはこの世界の常識じゃないんだね。
そんなのくそったれだ、なんてカルはつぶやきつつ、椅子から立ち上がって手を広げた。
「で、ある日……フェムがキレて、俺を追放するか、俺自身の意志で出ていくかを迫ってきやがった。もちろん、俺は自分の足で里を出たってわけだ!」
「自慢するようなことじゃありませんよ、兄さん」
「いいんだよ、別にいいんだ。ユーア=フォウスを作るって夢が、少し早まっただけだぜ」
はん、とカルが鼻を鳴らすも、それが本心じゃないのは僕にもミトにも分かってるよ。
「ミトを一緒に来させたのは、ちょっと悪いと思ってる。それに、ぶっちゃけると、エルフ族の里が危ないって聞いて、心配してないわけがねえ」
むしろこっちの方が本心だって、もっと理解できてる。
その場で地団太を踏んでる、あと一歩踏み出せない足を前に進ませてあげたい。
「……でも、どうにもなあ……ん?」
だから僕は、カルのズボンのすそを掴んだ。
そして顔を上げて、モヤモヤしているカルの目をしっかりと見つめて言った。
「かる。いかないと、こーかいしゅるよ」
その瞬間、カルの瞳に僕が映った。
家の外からフクロウが鳴く声すら聞こえるほどの静けさを、最初に破ったのはカルだ。
「……分かってるさ。俺、エルフ族の里に行くよ」
やった。
カルは自分の殻を破って、エルフ族の里に行くって言ってくれた。
だったら、僕ら以外の人がここに入ってきてもいいよね。
「その言葉を待っていたぞ、カル」
「ローヴェイン!」
ドアの隙間からひょっこりと顔と耳を出したのは、ローヴェインだ。
僕は実を言うと、彼女がここに来ていたのは知っていた――知らないのは、彼女がいると事情を話しづらいかもしれなかったカルとミト。
ちょっとだけ騙した気持ちになるけど、今回ばかりは仕方ないね。
「いつから聞いていたんですか、ローヴェインさん?」
「フェムの名前を聞いたあたりからだ」
部屋に入ってきたローヴェインの顔つきとまなざしは、いつもよりずっと真剣だ。
「カル。住処を失った者として忠告させてもらう。危険だと言われているうちに行動しておかなければ、お前が目にするのは滅んだあとの集落だけだぞ」
ローヴェインの経験も詰まった言葉に対して、カルは「けっ」と答えた。
「分かってるっての。ユーリとミトのおかげで、うじうじした気持ちは吹っ飛んだよ」
「……ならいい」
小さく頷いたローヴェインと僕、ミトに、カルは自身の拳をぶつけてから言った。
「皆、少しの間ユーア=フォウスを空ける。ついてきてくれるか?」
「当然ですよ」
「承知した」
「うん!」
「じゃ、行くとするか、エルフの里に!」
こうして、カルと共にエルフ族の里に行くことが決まった。
もっともカルを説得する以外にも、もう一つ問題はある。
「……といっても、あそこまではかなりの距離があるぜ。歩いていくには、いくらレームを連れて行っても、相当な日数がかかるぞ」
――そう考えているのは、カルだけなんだけどね。
「そのことなら、僕とユーリ君が解決していますよ」
僕らのもとには、お金になる魔晶石がいっぱいある。
そして魔晶石がお金になるなら、そのお金で物を買わせてくれる人がいる。
しかもいろんな商品を持っていて、きっと『エルフの里まで爆速で連れて行ってくれる乗り物』も売っている人を、僕らは一人だけ知ってるじゃないか。
「……まさか!」
「ええ、そのまさか、です」
僕とミトは顔を見合わせて、歯を見せて笑った。
「おかいもの、しなきゃね!」
すべてを察したカルもローヴェインも、一緒に笑ってくれた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌日の昼間から、僕らは早くもエルフの里へと出発していた。
今回はレームをお留守番させたし、地上の道をてくてくと歩いちゃいない。
どうしてかって?
「わーっ! はやーいっ!」
僕らは今、天翔ける魔物――ペガサスの馬車に乗ってるんだ!
真っ白な翼を翻して飛ぶ馬が曳いてくれる馬車に乗って、空を旅してるんだよ!
そんなの、窓から顔を出して声を出さないわけがないよね!
「たまげたな、空を飛ぶペガサスの馬車なんて……」
「私も初めて見たな。ミト、どうしてキャシーがペガサスを飼っていると知っていたんだ?」
「いいえ、僕も賭けてみただけですよ」
驚くカルとローヴェインに対して、事情を知るミトがにっこりと微笑んだ。
そう、この馬車はキャシーちゃんからミトが借りてくれたんだ。
山ほどの魔晶石を渡すって書いた手紙と引き換えだったけど、普通の馬車なら何日もかかるところを、ペガサスの馬車なら半日とかからずにエルフの里まで行けるってさ。
そしたらその日のうちに、ペガサスの馬車がひとりでにやってきてくれたんだ。
キャシーちゃんはよっぽどのことがないと、こっちには来てくれないみたい。
「キャシーさんなら、きっと高速で国を移動する手段を持っていると思ったんです。まあ、数日借りるだけでも、相当なお金を取られましたが、必要経費ですね」
「きゃしーちゃん、しびあ」
ドレイクを送って数時間ほどでやって来たキャシーちゃんがペガサスと一緒に送ってきた手紙に記された言葉は、あまりに迫真だったから忘れられない。
『魔晶石はペガサスに載せとけニャ。レンタル期間は五日間だから、それまでにユーア=フォウスに戻ってこないと、延滞料金をもらうから覚悟するニャよ』
延滞料金は日の計算かな、それとも時間ごとに取られるのかな。
いや、今はエルフの里のことを考えるのが最優先だね。
「ペガサスなら片道でも半日だってかからねえし、集落でトラブルが起きても、きっと五日間には間に合うさ」
なのにカルは、エルフの里でトラブルが起きるかもしれないなんて言うんだから。
僕としちゃ、どうしても気になっちゃうよ。
「にゃにか、おきりゅの?」
「ユーリは心配しなくたっていいさ。最悪の事態だって、俺があいつらにグルグル巻きにされて、谷底に蹴落とされるだけだからよ」
カルはけらけらと笑ってくれるけど、笑い事じゃない。
エルフの里に着くやいなや、大事な人がひどい目に遭うなんて想像したくないよ。
「ひ、ひえ……」
「ユーリ君を怖がらせたら、フェムさんが何かする前に、僕が兄さんを叩き落としますよ」
「ご、ごめんってば……あっ!」
ミトがカルに忠告した時、二人同時に窓の外を指さした。
「僕も見つけましたよ、兄さん」
「あそこだ! あの森の奥が、俺の故郷だ!」
うっそうとした森の中心部――どこか分からないほど、延々と同じ景色が続いていそうな森の真ん中を、二人は凝視してる。
鼻のみならず、眼も良いはずのローヴェインでも、ちょっぴり場所を掴みかねてるみたい。
「指さしてもどこか分からないほど、深い森の奥だな。エルフ族の集落は探しても見つからないと言われているが、あながち嘘ではなさそうだ」
「あそこにはまだ、人間も他の種族も来たことはないぜ」
どっかりと馬車の椅子にもたれかかるカルに、ミトがくすりと笑った。
「……兄さんにとって、まだあそこは故郷なんですね」
「んだよ、悪りいか?」
「いいえ、その逆です。兄さんの故郷がどこにもないなんて返事を聞かずに済んで、ほっとしました……むしろ、嬉しいくらいですよ」
「何があったって、俺が生まれたところはあの辺鄙な集落だっつーの」
安心した調子で、ミトは馬車の全面の小窓を開いて、ペガサスのお尻を叩いた。
「ペガサスをこの辺りで下ろしましょう。逃げてはいけませんよ」
どうやら無人のペガサスを降ろすときの指示みたいで、森の中でも数少ない、拓けた場所にペガサスは舞い降りた。
同時に馬車も、少しの衝撃と共に地面に着いた。
鳥がバサバサと飛んでいく中、僕らはペガサスの馬車から下りてゆく。
ペガサスはエルフの里への道をすっかり覚えているほど頭が良くて、キャシーちゃん曰く独りでに逃げないほど従順らしい。
その証拠に、僕が前脚を撫でても、ペガサスはブルルと鳴くだけだ。
ただ、問題なのはペガサスの鳴き声以外、森の中では何の音もしないことだね。
「……何の気配もねえな」
しかもカルですら、この状況はおかしいと思えるほど静かみたい。
「皆さん、僕らからはぐれないようにしてくださいね。エルフ族の集落に行くには、エルフしか知らない道を進まないといけないんです」
ミトの忠告に従って、僕らは森の中を歩き出した。
僕はてっきり、森の中では魔物の恐ろしい大歓迎を受けると思っていたし、そうじゃないならエルフの冷たい目線にさらされると思ってた。
でも、森で僕らを待っていたのはそのどちらでもないし、どれでもない。
異様なほど茂った木々の隙間を通り抜けるように歩いていく僕らは、ただただ無音の中を、ミトについて歩いていくばかりだ。
「はぐれちゃら、どーなるの?」
途中からローヴェインにおんぶされながら、僕はミトに問いかける。
「森の中で迷ってしまいます。エルフ族が運よく見つけてくれれば森の外に放り出してくれますが、そうでないなら……まあ、聞かない方がいいですよ」
そんな風に話されて、僕は続きを聞きたくなくなった。
きっと、森の中で朽ちて、植物の栄養だなんて言われれば、怖くて黙っちゃうよ。
「あるいは、信じられない物量で押しかけてきたら、里に到着するだろうな」
「それこそ、あり得ない話ですよ。人間族だって他の亜人だって、暇じゃないんです」
ローヴェインの背中でゾッとしていると、とうとうカルが足を止めた。
ミトも、ローヴェインも、さっきまでの雑談の空気はどこへやら、完全に何かを警戒している雰囲気だ。
僕みたいな転生者には分からない何か……嫌な気配を感じ取ってるのかもしれない。
「つーか……おかしいだろ。ここまで来ておいて、何の反応もないって普通じゃねえよ」
「ああ、普通じゃない。お前達、警戒しろ」
鼻をひくひくと動かしたローヴェインの、黄色い瞳が細くなった。
「私の鼻が匂いを嗅ぎつけた――強い、血の匂いだ」
「血……!?」
それを聞いた途端、長い髪を揺らし、カルが駆け出した。
いつものはしゃいだ様子じゃない、目を血走らせてすごい顔で走り出したんだ。
「兄さん!」
「待て、カル! 先行するのは危険だ!」
「危険だなんて、血の匂いがするって聞いてからじゃそんなの、言ってられねえよ!」
ミトやローヴェインが追いかけても、カルは話も聞きやしない。
「かる!」
僕の声なんて、当然届いちゃいない。
カルの長くて大きい耳は、もう他のエルフの声を聞こうとするのに必死だ。
「フェム、皆、どこにいるんだ! 無礼者のカルが帰ってきたぞ、さっさと――」
そして彼は、やっと他の拓けた場所にたどり着いた時、足を止めた。
やっと追いついた僕やミト、ローヴェイン、そしてカルが足を踏み入れたのは確かに、エルフ族の里に違いないんだ。
「――嘘、だろ」
家が、集会所が、何もかもが壊れてなければ。
血で汚れて、何かにめちゃくちゃに踏み荒らされてなきゃ、ここは間違いなく、カルの知るエルフ族の里だったんだ。
「おいおいおいおいおいおい、ふざけんなよ、冗談だろ、ありえねえよ!」
半狂乱になったカルは、乱暴に声を荒げながら、どかどかと里の中心部へと歩いていく。
でも、当然のごとく声は返ってこないし、エルフの気配もない。
「フェム! 皆! 老人ども! 厄介者が帰ってきたぜ、説教しやがれっ!」
「落ち着いてください、兄さん!」
「こんな状況で落ち着いてられるか! 俺達の集落が、ずっと暮らしてきた場所がこんなになっちまって、見ろ、血までついてるんだぞ!」
里の残骸を蹴飛ばしてまでエルフを探す姿は、いつものカルじゃない。
少なくとも、僕らの知ってるカルは、こんな鬼のような形相なんてしたことないのに。
「か、かる……」
僕がどうにかなだめようとすると、カルはぎろりと僕を睨んだ。
まるで憎い敵でも睨むかのようなカルの態度に、僕は思わずたじろいだ。
唇が震えて、思わず涙が零れてしまいそうな、恐ろしい顔だ。
「何だよ、ユーリまでぶッ」
そしてそう思った瞬間、彼は思い切り顔を殴られた。
カルが転ぶくらいの勢いで殴ったのは、僕を片手でおぶったままのローヴェインだ。
ぼきり、と指の骨を鳴らすローヴェインのパンチをもろに受けたからか、カルの顔からは、さっきまでの怒気がすっかり消え失せてた。
「ユーリに荒い態度で接するな。頭を冷やせ、大バカ者」
「……ご、ごめん……」
ちょっぴりうめいてから、カルは謝ったけど、僕は怒ってなんかいない。
「かる……みんにゃ、どこにいっちゃの?」
「どこって、分からねえよ。集落は皆の居場所だから、引っ越すだなんて……」
よろよろと立ち上がるカルのそばで、ミトがはっと何かに気づいた。
「いいえ、あります! エルフ族の秘密の集会所が!」
「そうだ……あるじゃねえか! フェムや前の長が話し合いをしてた場所が!」
ミトの声を聞いて、ほとんど間髪入れず僕らはカルについて走り出した。
ただ、さっきと違うのは、カルがちょっと腫れた頬をさすりながら、申し訳なさそうな目で僕をちらりと見たことだ。
「どこかに逃げてるかもって、教えようとしてくれたんだな……ありがとな、ユーリ。お前を怒鳴りつけたりなんかして、本当にごめんな」
「きにしにゃいで!」
カルの心境は、僕らにもすごく分かる。
なんだかんだ言ってもエルフの里はカルの帰る場所の一つで、それがめちゃくちゃに破壊されてたなら、狼狽して当然だ。
むしろ僕は、ローヴェインに殴られて腫れた、カルの顔の方が心配だよ。
ユーア=フォウスに帰ったら、周りの薬草で湿布を作ってあげないと。
「皆さん、集会所はこっちです! 急ぎましょう!」
「血の匂いがずっと濃くなっている……おそらく、この先に誰かがいるぞ」
「頼む、頼むから無事でいてくれよ……!」
三者三葉の想いを秘めて走り続ける中、またもカルが足を止めた。
「――フェム!」
彼の足元に――エルフ族の女性が横たわってたからだ。
しかもどうやら、彼女が今の族長のフェムみたいだ。
トライバル柄の民族衣装にスカート、草履と大きな緑の宝石の指輪、頬のペイント。
そしてカルと同じ長い耳と、彼と同じ色の三つ編みにした長い髪が、エルフ族の証だ。
「なあ、おい、フェム! 返事しろよ、生きてんのかよ、バカ野郎!」
「フェムさん、返事をしてください! 僕です、ミトです!」
フェムと呼ばれた女性は、カルに揺らされて少しだけ青い目を開いた。
「……う……」
でも、すぐに目を閉じてしまった。
それ以上カルの言葉にも揺さぶりにも応じなかったけど、ローヴェインの背中におぶってもらった僕ですら、確かに彼女の呼吸の音は聞こえる。
つまり彼女、フェムはまだ死んでいない。
「良かった……生きてた、フェムは生きてる……!」
ほっと一安心するカルを置いて、ミトは少し離れた、小さな木の小屋へと入ってゆく。
「兄さん、避難所に皆さんもいます! ですが……」
どうやらあそこがエルフの避難所みたいだけど、こっちも誰かの手によって、ここまでする必要はないだろうってくらい破壊しつくされていた。
「うぅ……」
「ぐ、ぐ……」
そして中にいたはずのエルフ族は、誰も彼もが手痛いケガを負っている。
こんなことが平然とできるなんて、仮に人間だとしたら、その人はもう人じゃない――モンスターそのものだよ。
「ほとんどがケガ人か。しかもかなり酷くやられている者もいるようだ」
見えない、まだ過程しかできていない敵に対して義憤に駆られていると、ミトがエルフ族のケガ人に声をかけ始めた。
「皆さん、何があったんですか!」
「……く……ぐう……」
返ってくるのは言葉じゃなくて、うめき声ばかりだ。
「離せないほどに痛めつけられるなんて……エルフ族は戦う力もあるのに、誰がここまで酷い目に遭わせたんですか……!」
「疑問よりも先に、今は命を優先すべきだろう」
ローヴェインの提案に、ミトが強く頷いた。
「ええ、ひとまず治療をしながらでも、ここを離れないと! もしもエルフの集落をこんな風にした何かが近くにいるなら、逃げるべきです!」
「でも、これだけの人数を運ぶには、ペガサスじゃ足りねえぞ!」
確かにペガサスは早いけど、二十人を超えるエルフ族の住民を運んでユーア=フォウスに戻るには、馬車が小さすぎる。
かといって何度も往復するほど、エルフ族に時間の余裕はないかもしれない。
「どうすりゃいいんだ……」
「もんだいにゃいよ、かる!」
だったら僕のお絵かきスキルで、乗せる場所を増やせばいい!
「ぺがしゃしゅに、こりぇ、はこばせよう!」
僕が空中に描いたのは、大きな橇。
これを馬車の後ろからペガサスに曳かせて、さらに来た時みたいにすごい速さで高所を飛んでいなければ、きっと落ちることもないと思う。
「橇か、ひらめいたな! 高く飛ばずに、低空飛行させれば、橇を引いても地面に落とす心配はないはずだ!」
僕らはさっそく橇をペガサスにつないで、ケガ人をそこに乗せていく。
今にも途絶えてしまいそうな息を聞いていると不安だったけど、ローヴェインが僕を撫でてくれると、不思議とその恐れも消えていった。
「はいやッ!」
そして全員を載せた馬車と橇は、カルがペガサスのお尻を叩くと、ふわりと浮いた。
木々がお尻をかすめない程度の高さで、ペガサスは静かに飛んで行く。
まるで馬車と橇も魔法にかけられたかのように、ふわふわと浮いたままついてくるし、ぐらぐらと揺れてフェムさんや皆を落とすような様子もない。
この調子なら、ユーア=フォウスにも無事に到着できるはず。
「お願いだ、死なないでくれ……誰も死んでほしくないんだよ……!」
ただ、カルはずっと指を組んだまま、普段は信じていない神様に祈っていた。
ミトもローヴェインも、彼をただ静かに見守るばかり。
「かる……」
僕は描ける声も見つからず、カルの手の上に、手のひらを重ねた。
馬車の翔ける音と、カルの心臓の音がいやに早く聞こえた。



