――ぴちょん、と頬にしずくが落ちた。
 雨なのか、涙なのかは分からない。
 うすぼんやりとしか開かない瞳と、思い通りに動かせない手足。
 どこか狭苦しいところに押し込められた僕にとって、唯一まともに動かせるのは、ここはどこだろうとか考える意識だけだ。
 もしかすると、転生というのは赤ん坊から生まれ変わるんだろうか。
 大人としての意識があるまま、僕は赤ちゃんにでもなったんだろうか。
 そんな風に考えているうち、曇り空だけの視界の端から、誰かが僕の顔を覗き込んだ。
 女性だ。
 ひどく痩せこけていて、体の水分をすべて出してしまったのではないかと思うほど憔悴していて、目元は何十回も擦ったかのように赤く腫れている。

「……ごめんね、■■■……もう……ダメなの……」

 彼女は僕の額に、軽くキスをしてくれた。
 その時、やっと分かった。
 僕の頬に落ちたしずくは、きっとこの人の涙なのだと。

「いつかきっと……■■■、私も……」
「行くぞ……あいつらが……」

 次いで男の人の声が聞こえて、女性は顔を離した。
 まだ何かを言いたげだったけど、もう何も話せない。
 僕の口も、手足も、すっかり疲れ果ててしまったかのように動けない。
 できることは、自分の意識とは裏腹に、体だけが拒否反応のように涙を流して叫ぶのを、ただただ心の中から見つめることだけだ。
 何かができるはずなのに、体が言うことを聞かない。
 まるで、肉体そのものが借り物であるかのように。
 まだ慣れていない入れ物の中に詰められて、自由が利かないかのように。

「ごめんなさい……■■■……本当に、ごめんなさい……」

 女性の声はやがて遠くなり、何も聞こえなくなった。
 そうしてやっと、僕は自分がゆりかごの中にいるのと、少しずつ雨が降り出しているのに気づいた。
 もしかして僕は、捨てられたんじゃないか。
 自分の顔も、何者であるかも、どんな世界かも知らずに捨てられて、ただ朽ちていくだけなんじゃないか。
 そんな恐ろしい空想を感じ取ったように、僕はゆりかごの中で一層泣き喚いた。
 動けないほどの体の大きさじゃないのに、恐れでちっとも手足が動かない。
 こんなの嫌だ。
 外に出たい、動きたい、せめて何でもいいから何かをしたい。
 でも、僕の願いは何一つ叶わず、雨は少しずつ勢いを増していくばかり。
 本当に死んじゃうかもしれない。
 誰の役にも立てないまま死ぬなんて、神様、あんまりじゃないか。
 僕はいったい――何のために生まれ変わったの?
 小さな、小さな疑問に誰も答えてくれるはずがない。
 そのうち諦めるように、僕は静かに目を閉じた。
 疲れか、あるいは諦めか。
 もう、どちらでもよかった――。

 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 がたん、ごとん、と小気味の良いリズムが体を揺らす。
 暗い闇の世界から、さんさんと照る光が、僕を現実世界へと引き戻してくれる。
 ちょっとだけ動くようになった手足をわずかにばたつかせながら、僕は目を閉じた。
 できればもう、雨と暗闇は見たくないと思っていた僕の目の前に広がっているのは、さっきまでの光景が信じられないほどの青い空と、白い雲だ。
 何があったんだろう、どうして僕はまだ仰向けのままだろう。
 四方を囲む木の板と、離れたところに見える馬からして、僕は馬車に乗せられているんだろうけど、それはまたなぜなんだろう。
 こてん、と首を傾げていると、また別の誰かが顔をのぞかせた。

「――あ、目が覚めたみたいですね」

 知らない人――いいや、人じゃない?
 見た目はかなり人間っぽいのに、どこか違うところが多いんだ。
 金色のショートヘアと緑色のしゅっとした瞳、整った顔立ちに爽やかな色合いのシャツとズボンと、僕の目から見える範囲の情報なら、確かに人間だ。
 でも、彼の異様に長い――人間の耳を二つ並べたよりも長い耳は、そうじゃない。
 もしかすると、ここは異世界だって言っていたし、ファンタジーのようなエルフやドワーフ、恐ろしいデビルやデーモン、もしくは天使様がいたっておかしくないかも。

「おお、やっと起きたか! よく寝るちびっ子だな!」

 思案を巡らせているうち、今度は別のエルフ(暫定)が声をかけてきた。
 ひょいっと身を乗り出してきた彼は、先の青年よりずっと快活で活発な雰囲気だ。
 髪と目の色は同じだけど、髪型はゴムか何かでまとめるほど長い。
眉は太めで、もう一人よりもごつめのジャケットとズボン、ブーツを着用し、腰にはポシェットのようなものをつけてる。
冒険家と学者肌の勉強家、みたいな印象があるね。
さて、僕もいろいろと声をかけられたんだし、お返事のひとつでもしておかないと。
うんうん、と頭の中で唸ったのち、赤ん坊と思しき僕は、喉の奥から声を出した。

「……だりぇ」

 自分でもずっこけるような、舌足らずの声だ。
 みっともないかもしれないけど、今はこれが精いっぱいだろうな。
 まったく、転生して間もない僕の姿はどんななのか、見てみたい気持ちでいっぱいだよ。

「おいおい、珍しい人間族の子供だぜ。てっきりぐずって、泣くと思ったぞ」

 エルフっぽい兄弟が顔を見合わせてから、優しそうな方が言った。

「僕達は悪い人じゃありませんよ。ユーリ、君を道で拾ったんです」
「ゆう、り?」
「そう、ユーリ。君と一緒に拾った布に刺繍されていた名前です。君のものかは分かりませんが、名前がないと何かと不便ですからね」

 侑李――僕の前世での名前と一緒の呼び方なのは、神様なりのサプライズかな?
 驚くっていうなら、もうこっちに来て何度も驚かされているけど。

「はい、ユーリ君。見たことないかもしれないですけど、これが君ですよ」

 ひとりのエルフがそばに置いていた麻袋の中から手鏡を取り出して、僕にかざした。
 そしてやっと、僕は僕自身がどうなっているのかを理解した。
 短めの黒髪、健康的な肌の色、目の色は青、眉毛も髪と同じ黒色。
 だけど何より目立つのは、ちっちゃなちっちゃな、子供みたいな体。
 短い指に、もちもちのほっぺに、まん丸の目に、やっぱりもちもちの足とお腹。
 自分のことだからちょっぴり言いづらいけれど――なかなか可愛い。
 ちなみに今僕は大きなかごに入れられているけど、自分を包んでいるおくるみも、そのかご自体も、なかなか値の張るものだというのが豪華さから察せる。
 やっぱり――僕は今、人間の赤ん坊だ。
 といっても〇歳ってほどじゃなく、一歳とほんの少しって感じかな。
 今は手足も動かせるし、その気になればよちよちと歩くこともできる気がするんだ。

「おっと、俺らの名前を言ってなかったな、こりゃうっかりだ!」

 僕が自分自身の姿を見つめていると、快活そうなエルフが額を叩いて言った。

「俺はカル、そっちは弟のミト。俺達二人とも、エルフ族だぜ」
「といっても、まだ人間族とエルフ族の違いなんて難しいかもしれないですね」

 なるほど、やっぱり二人はエルフなんだ。
 ということは、ここはゲームや漫画の中で見たファンタジーの世界に違いない。
 ついでにエルフといえば、森の奥に住んでて、皆が美人かイケメンかのどっちかで、博識で魔法を操れる種族だ。
 ということは、この世界には魔法があるのかな?

「わかりゅ」

 ひとまず返事をしてみると、カルとミトが緑色の目を丸くして驚いた。

「「分かる!?」」
「えるふ、ながいき。みみ、ながくて、もり、すんでりゅ」

 ミトを見ながら話すと、彼はあっけにとられた顔のまま、カルの肩を叩く。

「驚きました……兄さん、この子はすごく頭がいいですよ」

 冷静に分析するミトの隣で、カルはすっかり目を輝かせてる。

「じゃあ、ドワーフ族はどうだ? 竜人族は? ライカンスロープ族は!?」
「こら、兄さん。矢継ぎ早に聞いたら、ユーリ君が怖がるじゃないですか」

 どんどん聞かれるけど、質問はそう難しくない。
 どういうわけか、僕の頭の中には信じられないほどの情報が入ってるんだ。
 種族について、国について、土地について、この世界について――自分が知りえるはずがない異世界についてかなりの量の情報が、頭の中に入ってる。
 アカシックレコードのようにすべてを知っているわけでも、すべてを処理して、なおかつ理解しているわけでもない。
 だとしても、カルの質問について返事をするくらいは、難しくはないよ。

「どわーふ、ちっちゃくて、おひげ。りゅーじん、どりゃごん。りゃいかん……しゅろーぷ、おおかみ。みーんな、やまにすんでりゅ」
「……たまげた」

 そしてどうやら、僕の答えは正解だったみたい。
 二人は今度こそびっくりして、関心のため息を漏らした。
 当たり前のことをしてここまで驚かれるのは、ちょっぴり複雑で、なんだか楽しいな。
 もしかすると、この知識は神様からの贈り物のかも。

「こんなにかわいくて賢いってのに、ユーリを捨てた親はとんだ薄情者――」

 ところが、カルが何かを言おうとした途端、ミトの顔色が変わった。

「兄さん!」
「痛だッ!」

 ほとんど反射的に、ミトがカルの頭にげんこつを食らわせた。
 頭をさすってひんひんとうめくカルの前で、ミトが腕を組んで威圧する。

「その話は、二度とユーリ君の前でしないでくださいね」
「ご、ごめんなユーリ。でもミト、お前の力で小突くと頭が揺れるんだよ」
「揺れるくらいの強さで叩きましたから。お仕置きです」

 そうか、僕はどうやら捨てられたみたいだ。
 どこの誰か知らないし、今はカルとミトに拾われたから気にしてはいないけど、二人にとってはデリケートな話題になってるみたい。
 逆に言えば、それくらい気を遣われていて、心配してもらえている証拠だ。
 たまたま拾っただけの子供にここまでしてくれるなんて、二人はきっと優しい――。

「心配しなくていいですよ、ユーリ君。いつかきっと、君の本当のお父さんとお母さんに会えるよう、僕らが手助けしますからね」

 あ、ミトが何か言ってるけど、ちょっとまずいかもしれない。
 大人の僕なら律することができる生理的現象が、どうにも止められそうにない。
 赤ちゃん、子供ってのは普段――。

「……う」
「「う?」」

 ああ、ダメだ、限界だ。
 そんな思考がよぎるのと同時に、股の方があったかくなって、不快感が体の上と下にどっと流れ込んできた。

「う、うぅ~……」

 そして耐え切れず、僕は泣いてしまった。
 情けない話だけど、一歳の赤ちゃんなんだから仕方ないと思ってください、ホントに。

「あらら、もよおしちゃったんですね。待ってください、おしめを変えますから」

 するとミトが、僕のおしめをテキパキと変えてくれた。
 手つきはすっかり慣れた様子で、嫌な顔一つしない。
 もしも彼が僕の前世の世界にいたなら、きっと育児もできるイケメンってテレビや雑誌で特集されて、たちまち女子にモテモテになってたに違いないな。

「ミト、お前、そういうこともできるんだな」
「里じゃあよく、子供の世話を頼まれてましたよ」

 ミトは汚れてしまったおしめを脇にどけて、カルをじろりと見つめる。

「もっとも、もうエルフ族の子供のおしめを変える機会なんてありませんけど」
「うっ……そ、そんな目で見るなって!」

 どうやらカルには、ミトに頭が上がらない理由みたいなのがあるみたい。
 前世の僕よりも年下の彼らに、異世界じゃあどんな理由があるんだろう。
 そう思っているうち、下半身がもこもこしたものに包まれて、別で用意していたらしいズボンを履かされて、気分も妙にすっきりした。
 赤ん坊が泣き病む理由が、ちょっぴり分かったかも?
 だって、おくるみからサスペンダーパンツとシャツを着せられると、なんだか新しい自分になった気持ちにだってなれるんだから。

「はい、お待たせしました。ユーリ君のそばに、必要なものが全部あったのが幸いでしたね」
「そりゃそうだ。俺達、自分の荷物以外は何も持ってきてねえからなぁ」

 僕が置いて行かれた状況と共に、大きなカバンを両手に持ち、カルがけらけらと笑う。
 どうやら僕とこのエルフの兄弟は、少し似た状況に置かれてるのかもしれない――親や家族とは一緒にいない、なんてさみしい状況だけど。

「……いえで?」
「はははっ! 家出とは言ってくれるなちびっ子め、このこの!」

 カルは笑いながら、僕のほっぺたを両手のひらでむにむにといじくりまわす。

「ぬあぁ~」

 間抜けな声を出してしまう僕を見て、ミトも笑った。

「まあ、間違ってはいませんよね。兄さんは、エルフの里を追い出されたんですから」
「おっと、それは違うぞミト」

 ぽん、と僕の頬から手を離したカルが、ちっちっち、っと指を振った。

「俺はな、自分の意志で里を出たんだ――理想の町を作るために!」

 理想の町。
 ただの町じゃない、理想の町って何だろう。

「りそーの、まち?」
「おうとも、よく聞いてくれたなユーリ!」
「兄さんが話し始めたんでしょう」

 馬車の上でカルが立ち上がり、天に向かって指を突きつけて叫んだ。

「俺とミトは、これからアドガルド大帝国の中でも、いや大陸の中でも一番デカい町を作るんだよ! どんな種族も、人も拒まない、理想の町だ!」

 カルの理想を聞いて、僕はただでさえ丸い目を一層丸くした。
 ファンタジーに出てくるような種族が、人間が、あるいはドラゴンやエルフ――誰もかれもが一緒に暮らす、おとぎ話のような町。
 前世のどの政治家も、どの思想家も成し遂げられなかった世界。
 それはいったい、どれほどの偉業なんだろうか。

「……しゅごい」

 僕のキラキラ光る目に、カルの笑顔が映る。

「だろだろ!? この俺、カル様にかかりゃあ、ひと月でデカい町の完成だ!」

 一方、ミトはどうやら、兄の話を冗談半分くらいに受け止めてるみたいだね。

「はいはい。ユーリ君、兄さんの話を真に受けてはいけませんよー」
「何だよ、お前だって理想の町が楽しみでついてきたんだろ?」
「半分はそうですね。残りの半分は、兄さんが心配だから世話役としてついてきたんです。ひとりじゃあ家事も、交渉も、生活だって難しいでしょう?」
「ぐぬぬ……確かにミトには感謝してる! でも、俺は天才だから仕方ないな!」

 ついでにカルは、たいそうな自信家の上に、色んなことをミトに任せっきりにしちゃってるようでもある。
 奔放な兄の世話をする弟なんて、苦労がうかがい知れるね。

「むむーっ」
「そうですね。ユーリ君にも、僕の苦労が分かってもらえると嬉しいです」

 僕が口を尖らせると、ミトが頭を撫でてくれた。
 カルは気にも留めずに、どっかりと馬車に座り込む。

「これから行くところは、商人から全財産はたいて買った土地だ。聞くところじゃあ、木々に囲まれてのどかで、魔物の危険もないサイコーの土地なんだとよ!」

 魔物――もう、名前だけで嫌な予感しかしない。
 いいや、正確に言えば、僕の頭の中にはそれがなんであるかの情報が入ってる。

「まも、の」

 首を傾げはしたけど、僕はもう答えを知ってる。

「魔物っていうのは、とっても怖いバケモノです。安心してください、僕と兄さんがいれば、ユーリ君を怖がらせるようなものは近づけさせませんよ」

 ミトの言う通り、魔物は人間や亜人との共存ができない、凶暴な怪物の総称だ。
 人間を襲い、家畜を食らい、時には村や町を襲って支配までしてのける、前世だと空想の中でしか存在しなかったとんでもないバケモノ。
 そんなのをやっつけると豪語するミトは、赤ん坊の僕には頼もしい。
 ついでに――カルはいつか、そんな魔物とも暮らせる町を作るつもりなのかな?

「みと、やさしい!」
「優しいなんて……僕はただ、できることをするだけですよ」

 ミトの頬に赤みがさす。
 中性的な顔立ちは、その高い背がなければ、女の子にすら見えてくる。

「それにしても、もうじき町の予定地が見えてくるはずなんだがなあ……」

 籠の中からミトに持ち上げられて、彼の膝に座らされているうち、カルがぼやいた。
 確かに、この馬車はどこに向かっているのかな。
 さっきは全財産をはたいて買った土地に向かってると言ったけれど、このあたりは草木がてきとうに茂るばかりの、文字通り何もない場所だ。
 強いて言うなら、ちょっと離れたところに森が見えるくらいかな。
 だったらもう少し目的地までに時間はかかるんじゃないかと思っていると、不意に馬車がぴたりと止まった。
 障害物にぶつかった様子じゃない――目的を終えたような停まり方だ。

「おい、御者さんよ? どうして止まったんだ?」

 カルが身を乗り出して御者さんに声をかけると、彼はぶっきらぼうな返事をした。

「ここが目的地だよ。あんたらが止めてくれって言った場所だ」
「「……え?」」
「俺が案内するのはここまでだよ。じゃ、あとは頑張りな」

 ぽい、ぽい、ぽーい。
 御者さんは僕とカル、ミト、荷物を全部地面におろすと、さっさと行ってしまった。
 残された僕らはただ、『サイコーの土地』を見つめるばかり。

「頑張りなって……」
「言われましても……」
「うむー……」

 僕らは顔を見合わせ、無言ののち、カルが天を仰いだ。

「――こんな何もないところで、どうしろってんだよぉ~っ!」

 そして自分たちの身に降りかかった最大の問題を嘆き、空に吼えた。
 カルの言う通り、木々に囲まれてのどかなんてのは物は言いようで、目の前には驚くほど何もない空間しかない。
 バタバタとカルが走り回って、騒ぎ回っても何もない。
 そう、本当に――本当に、なぁ~んにもないんだ。

「森や木どころか、草の一本も生えてねえ! のどかっていうか、どっちかというと何もない原っぱ! しかもこんなに拓けてちゃあ、魔物の格好の餌食じゃねえか!」
「近くに川も見えませんし、森が近くにあるくらいが救いですね……」

 ひどい顔でうろたえるカルを、ミトにだっこしてもらいながら、僕は見ていた。
 ミトならまだしも、破天荒で突拍子もない行動をとりそうなカルだったらありえなくもない商談の様子が、頭の中に浮かんでくる。
 僕の予想だと、きっとカルは――。

「かる、おはなし、きーちゃの?」
「へ?」
「しょーに、おはなし。ほんもの、みちゃの?」

 カルは、土地を売ってくれた商人から話だけを聞いたんじゃないかな。
 どんな土地なのか、どんなところにあるのかなんて聞いてなくて、持っているお金で買えたから即決で決めてしまったに違いない。
 商人が悪人か、もしくは詐欺師かも知らないで、ハンコを押してしまったに違いないよ。

「なるほど……兄さん、その商人と一度でも、ここに来たことがないんですね?」

 ミトが問うと、緑色の目をそらしてカルは少し戸惑った顔でそっぽを向いた。

「……だ、だってよ、期間限定とか今だけとかって言うからよ……」
「……要するに騙されたんですね」

 ミトに言われて、カルがげんなりとうなだれた。
 自分の夢の第一歩が目の前で打ち砕かれたんだから、無理もない。
 でも、土地を買った時点で夢の第一歩は盛大につまずいていたのだけれど。

「どぉ~したもんかなあ……」
「どうしたもこうしたも、こんなところを一から開拓して町にするなんて、無理な話です。僕も一緒に行きますから、里に戻って、長に謝りましょう」

 ミトの提案に対して、カルは顔をしわくちゃにしながら、首を横に振った。

「ぜってぇ~にヤダ! あいつになんか、死んでも頭を下げてやるもんかよ!」
「ここにいても、飢え死にするだけですよ」
「だったらここからはとっととおさらばして、次の町の予定地を探して……」
「一文無しの兄さんの話を、聞いてくれる人がいると思いますか?」
「……ちくしょう」

 とうとうしゃがみこんだカルの肩を、ミトが叩く。

「夢を抱いていれば、いつかは叶います。今回はそうじゃなかったって、それだけですよ」

 ミトは兄を慰めてはいるけど、彼自身もガッカリして、悔しくて、これからどうすればいいのか分からないと思っているのが、背中越しに伝わってくる。
 そんな二人を見ていると、僕にも何かできないかと思えてくる。

「…………」

 だって、僕は生まれ変わったってお助けバカだもの。
 死の間際まで人を助けて、誰かの笑顔を見届けてきた人間が、たかだか一歳児になったくらいで心根まで変わりはしない。
 何かしてあげたい、どうにかして暗くよどんだ二人の顔に笑顔を取り戻したい。
 ミトの背中にくっついてることしかできないはずはないんだ、何かができるはずなんだ。
 僕は、神様にだって認められるお助けバカなんだから!

「かる、みと……!」

 そう強く願い、ぎゅっとちっちゃな拳を握り締めた時だった。

「……!」

 ふと、手のひらにふんわりとした温かさを感じた。
 何が起きたのかって思いながら手を開くと、そこには羽ペンがあった――七色にきらめく羽を携えた、それ以外はごくごく普通のペンだ。
 だけれど、今の僕にとっては違う。
 このペンは間違いなく、転生する直前に神様が渡してくれた、あのペンなんだ。

『転生した時に使える、便利なアイテムよ。いつか、誰かのために力になりたいと強く願ったとき、このペンが必ずあなたを助けてくれるわ』

 神様はあの時、使い方を教えてくれなかった。
 でも、僕には必要ない。

「こりぇ……なにする、か……わかりゅ……」

 なぜなら、目の前にふわふわと浮かぶ文字が、この羽ペンに何ができるかを教えてくれるんだ。
 読んだことも、見たこともない文字でも、僕は全部読んで、理解できる。

『お絵かきスキル
ランク:EX+++
能力:想像力ひとつで、なんでもできる。真価を発揮するのは、誰かと一緒にいるとき』

文字は不思議なことに、カルとミトには見えてないみたい。
だったら、僕がこの状況を打破できるよ、って教えてあげないと!

「みと! ぼくのこちょ、しゃしゃえてて!」

 僕が声を上げると、ミトが驚いた顔でこっちを見つめる。

「支えるって……こう、ですか?」
「うんっ!」

 腰を支えるように両手で持ってくれて、地面に足をつけてくれたミト。
 一歳の体は立ち上がるのも簡単だけど、これからやることを考えると、うっかりすってんころりと転んじゃうかもしれないんだよね。

「かる、かる!」

 振り返ったカルの顔は、相変わらずどんよりしてる。

「どうしたんだ、ユーリ? もよおしてきたなら、ミトに……」
「みちぇちぇ! こりぇ、みちぇ!」
「これって、ただのペン? ちびっ子がペンなんて持ってたら危ないだろ、俺に――」

 すっと手を伸ばしてきたカルの前で、僕はペンを振った。
 いいや、振ったんじゃない――空中に、絵を描いた。
 直線、曲線、くるくるとペン先を回して細く、太く、三角形に四角形。
 図形同士をくっつけて、最後にちょちょいと付け足して、完成した『それ』。
 僕は光り輝く線で描かれたそれに向かって、ペン先で軽くつついた。
 すると、平面だった絵がふわふわと飛んで行って、何倍にも大きくなって、立体になって、色がつき、ポンポンポンと膨らんだ。

「――嘘、だろ」

 そうして、呆然とするカルとミトの前で、重さが付与され、どしんと地面に着地した。
 三角形の屋根にガラス製の窓、レンガの壁に木のドア。
 エルフ族の二人があんぐりと口を開く中、僕はぷよぷよのほっぺでにっと笑った。

「家が……建った……!」

 僕の予想通り――イラストにした家が、現実のものになったからね!
 もう間違いない、神様がくれた羽ペンは、絵に描いたものを何でも現実に出してしまう、とんでもないアイテムなんだ!
 どや顔をかます僕を連れて、二人はおずおずと家のドアに手をかけ、開く。

「そ、外側だけだろ? 中身まではさすがに――中もきれいよ、奥さんっ!」
「誰が奥さんですか」

 ソファーにカーペットに家具まで完備されたお家を見て、はしゃぐカルとツッコむミト。
 でも、共通しているのはさっきまでの絶望が吹っ飛んで、新しい希望が沸き上がった、僕が人を助けた時に見られる笑顔だ。
 これが見れるなら、僕は前世から何度だって、なんだってやってきたんだよ。
 もちろん、笑顔を見たいからって理由が、人助けの理由じゃないんだけど。

「おいおいおいおい、すげえなユーリ! どうなってんだよ、そのペンが、お前がこの家を作ったのか!? そんなスキルも権能も、聞いたことねえぞ!」

 でも、カルが僕の体をがくがくと揺するのはノーサンキューだね。
 というか、一歳児の頭を揺らすのって危ないんじゃないかな。

「むむむっ」
「兄さん、乱暴しちゃだめですよっ!」

 口をへの字にした僕を見て、ミトがカルの耳を引っ張った。

「痛だだだだだだだだ!?」

 エルフ族特有の長い耳を指でつまみあげられて、カルが涙目になる。

「まったくもう、好奇心が暴走するのは悪い癖です」
「し、仕方ねえだろ、俺は発明家なんだから……」

 ミトは片手でカルの耳をつまんだまま、もう片方の手で僕をソファーに座らせてくれた。

「ユーリ君、君がどんな力を使ったのか、僕らに説明してくれませんか?」
「ぺん、かみしゃまのぺん。にゃんでもかける、ぽんって、でてくりゅ。でも、いっぱい、ゆーり、ねみゅくなるよ」

 僕がペンを二人に見せると、ミトは思わずカルの耳から手を離した。
 そしてまるで、黄金や宝石でも見るかのように、顔を近づけてしげしげと眺めた。

「……描くだけで何でも出てくるペン、ですか……すごいスキルですね……」
「すきる?」
「この世界には、たまに特殊な能力を持つ者がいるんです。魔法とか、呪術とか……そういった人が使う力を、スキルと呼ぶんですよ」
「そんなもんを使いこなせるなんて、ユーリ、お前ってやっぱすごいやつだ!」

 スキル、魔法なんてのは、前世じゃあゲームやマンガの中でしか聞いたことがない。
 火を操る魔法、ケガを治すスキルはファンタジー作品ならいくらでも見かけたけれど、まさかこっちの世界だと現実のものとして存在するなんて。
 いつかどこかで、僕以外のスキルを見られたら、とっても嬉しいな。

「でさ、他にどんなもんが描けるんだ? 頼むよ、見せてくれ~っ!」

 カルに持ち上げられた僕は、そのまま外へと連れ出される。

「兄さん、話聞いてました? 使いすぎると、眠くなるって……」

 心配してくれるミトの気持ちは嬉しいけど、まだまだ僕の体力は有り余ってる気がする。
 だから、二人をもっとびっくりさせるのも難しくないよ。

「えいっ」

 すいすいすーい、と二本の線を横に引く。
 あとは僕がイメージさえすれば、たちまち家の前に白い石で整備された道ができた。
 ずっとずっと向こうまで続く道じゃないけど、確かに舗装された道だ。

「……道ができた……!?」

 しっかりした家と、まともに作ろうとすれば何日もかかる道。
 そんなのが一瞬で出来上がったんだから、カルとミトのテンションは最高潮だね。

「本当にすごいですよ、ユーリ君!」
「お前がいれば、町ができる! ユーリ、マジで、俺達……」

 二人に抱きしめられた僕も、一緒にはしゃぎ回って踊りたい気分だった。

「ふわぁ」

 でも、そうはいかなかった。
 急にふわふわした感覚が、僕を静かに揺らし始めたんだ。

「「あれ?」」

 この感覚には覚えがある。
 前世で幼い頃、ずっとずうっと遊び続けていて、夕方になるとまぶたがすとーんと落ちてくるときのあの感覚にそっくり。
 要するに、力をたくさん使って眠くなった時のアレだね。
 お絵かきスキルと違って、説明しなくたって誰にでも分かるアタリマエ。
 たくさん遊んだら、たくさん眠たくなるってだけ。

「ねむ、ねみゅ……」
「あちゃあ、そういえば眠くなるんだっけか」

 持ってきたかごの中に僕を入れて、カルとミトが話し合う。

「これだけすごい力を見せてくれたんです。ユーリ君が眠ってる間に、僕らもできることをしてみましょう」
「だな。畑の作り方くらいは、あらかじめ勉強してきてたしよ!」
「エルフの里みたいに、勝手に生えてくると思ってた頃に比べれば成長ですね」
「う、うるせーやい!」

 下唇を突き出してミトにそう言ってから、カルはかごを覗き込む。

「ユーリ、目が覚めたらびっくりするぜ。なんせ――」

 カルの笑顔は、今まで見てきた誰の笑顔よりも元気で、力強くて、自信に溢れていて。
 後ろのミトの瞳は、見ているだけで安心するほどの優しさに溢れていて。
 ああ、きっと、こっちの世界に親兄弟がいるなら、この二人がいい。

「俺とミト、そしてお前の町が、ちょっぴり豪華になってるんだからさ」
「楽しみにしててくださいね、ユーリ君」

 そんな思いを胸に抱きながら、僕は静かに眠りの世界にいざなわれた。

『どう? 面白い未来が、待っていそうでしょう?』

 神様のいたずらっぽい声が、聞こえた気がした。
 ああ、まったくその通りだよ。
 僕の新しい人生は――想像よりもずっと、もっと、楽しくなりそうだ。