セオドリック・アイゼンリートは部下の一人も伴わず、単身でミーシャの牢を訪れた。癖のある黒髪を肩下まで伸ばした、三十代の男だった。謹厳な印象だが、どこか狡猾そうにも見える。
ミーシャの牢の床石には、魔術を封じる魔法陣が刻まれ、淡い光を発している。その中央でミーシャは拘束されていた。天井からつり下がる枷を両手にはめられて、同じ体勢のまま何日も監禁されているが、不思議と疲労や身体の不調は感じない。足下の魔法陣には、魔術を封じるだけでなく、囚人の健康を維持する効果もあるのかも知れない。
セオドリックは牢の鍵を開け、ゆっくりと、しかし確かな足取りでミーシャに近づいた。そして剣を抜き、切っ先をミーシャの顎の下にあてがい、強引に自分の方を向かせる。
「貴様が救国の聖女か……」
ミーシャは答えなかった。無言でセオドリックを睨みつける。
「ヴァルディスの王セレスタンは貴様を手放した。異教徒の女など抱えていては真なる神の加護を得られぬと気づいたのだろうな。よほど我が国セリオンの属国になりたいと見える。立派な心がけだ」
セオドリックはせせら笑う。明らかな挑発だった。しかしミーシャは怒りを抑えられなかった。
「いい加減なことを言わないで。セレスタンはそんな王じゃないわ」
「……そうだろうな。本来なら王妃になるのは君のはずだった。スパイからそう報告を受けている」
セオドリックに乗せられたことに気づき、ミーシャは押し黙った。
「私はセリオン教国聖騎士団総長セオドリック・アイゼンリート。君への尋問を一任されている」
セオドリックはミーシャから剣を離し、言葉を続ける。
「ダリオ・マルケシス司教から嘆願書が届いているよ。君を助命するように、とのことだ」
ミーシャは最初、それが誰なのか分からなかった。しかしすぐに、魔獣に襲われていた一家の父親がカタリーナに「ダリオ殿」と呼ばれていたことを思い出した。助かった。ミーシャが希望を抱きかけたとき、セオドリックが「しかし」と続けた。
「私は子供を助けたことを理由に君を助命するつもりはない。人命救助を善行と考えてはいないのでね。誰かに命を救われた者が将来、悪行を成す場合もある。無差別的に人命を尊重する行為は、悪しき可能性を容認し、育むことでもあるのだよ」
ミーシャは絶句した。彼女の率いた反乱軍には、旧ヴァルディス王国の騎士やヴェルサリヤ帝国を裏切った騎士も大勢いたが、このようなことを口にする者はいなかった。聖騎士団長という肩書きからは、想像もできない非情な考え。しかしそれがセリオン教国を支えているのだろう。ミーシャは遅まきながら、恐ろしい敵地に囚われてしまったことを実感した。
ミーシャの視線から非難を感じ取ったのか、セオドリックは弁明した。
「……あぁ、今のは一般論だ。マルケシス司教の子供を侮辱する意図はない。ただ、情けをかけたばかりに破滅するという事例は枚挙に暇がない。倫理的、道徳的に正しいことが必ずしも善であるとは限らないと言っているのだよ」
「正しいことを正しいと信じられないなんて、貴方は何のために騎士になったの」
言ってから、ミーシャは自分の問いのおかしさに気づいた。正しさのみを拠り所にすれば、アリシアのようになるのではないか。正義や民衆を盾にするアリシアの在り方が、模範的な騎士のものとは到底思えない。その点を踏まえると、セオドリックの言い分にも一理あるのではないかと思えてくる。
一方のセオドリックは、どこか呆れたような顔をしてからミーシャに答えた。
「己の主義信条を馬鹿正直に話すとでも思っているのか。少なくとも弱者を守るためではない、とだけは答えておくがね」
セオドリックは剣を納め、ミーシャに向き直った。
「とはいえ……、子供を助けたことを理由に助命するつもりはないと言ったが、異端の魔女として処刑するつもりもない。君の指揮する反乱軍は非常に規律正しく、略奪などを行う者もほとんどいなかったと聞く。君のことを、神の遣わした聖女だと心から信じていたのだろう。そのような指導者を異端の魔女として処刑すれば、ヴァルディスの民はどのように受け止めるか。刑死した殉教者は崇拝の対象になる。君の信仰しているエリシス教の開祖のようにね。千年先まで名の残る伝説の聖女を異教徒に与えてやるわけにはいくまい」
セオドリックは冷笑し、ミーシャの枷に手をかけた。
ミーシャの牢の床石には、魔術を封じる魔法陣が刻まれ、淡い光を発している。その中央でミーシャは拘束されていた。天井からつり下がる枷を両手にはめられて、同じ体勢のまま何日も監禁されているが、不思議と疲労や身体の不調は感じない。足下の魔法陣には、魔術を封じるだけでなく、囚人の健康を維持する効果もあるのかも知れない。
セオドリックは牢の鍵を開け、ゆっくりと、しかし確かな足取りでミーシャに近づいた。そして剣を抜き、切っ先をミーシャの顎の下にあてがい、強引に自分の方を向かせる。
「貴様が救国の聖女か……」
ミーシャは答えなかった。無言でセオドリックを睨みつける。
「ヴァルディスの王セレスタンは貴様を手放した。異教徒の女など抱えていては真なる神の加護を得られぬと気づいたのだろうな。よほど我が国セリオンの属国になりたいと見える。立派な心がけだ」
セオドリックはせせら笑う。明らかな挑発だった。しかしミーシャは怒りを抑えられなかった。
「いい加減なことを言わないで。セレスタンはそんな王じゃないわ」
「……そうだろうな。本来なら王妃になるのは君のはずだった。スパイからそう報告を受けている」
セオドリックに乗せられたことに気づき、ミーシャは押し黙った。
「私はセリオン教国聖騎士団総長セオドリック・アイゼンリート。君への尋問を一任されている」
セオドリックはミーシャから剣を離し、言葉を続ける。
「ダリオ・マルケシス司教から嘆願書が届いているよ。君を助命するように、とのことだ」
ミーシャは最初、それが誰なのか分からなかった。しかしすぐに、魔獣に襲われていた一家の父親がカタリーナに「ダリオ殿」と呼ばれていたことを思い出した。助かった。ミーシャが希望を抱きかけたとき、セオドリックが「しかし」と続けた。
「私は子供を助けたことを理由に君を助命するつもりはない。人命救助を善行と考えてはいないのでね。誰かに命を救われた者が将来、悪行を成す場合もある。無差別的に人命を尊重する行為は、悪しき可能性を容認し、育むことでもあるのだよ」
ミーシャは絶句した。彼女の率いた反乱軍には、旧ヴァルディス王国の騎士やヴェルサリヤ帝国を裏切った騎士も大勢いたが、このようなことを口にする者はいなかった。聖騎士団長という肩書きからは、想像もできない非情な考え。しかしそれがセリオン教国を支えているのだろう。ミーシャは遅まきながら、恐ろしい敵地に囚われてしまったことを実感した。
ミーシャの視線から非難を感じ取ったのか、セオドリックは弁明した。
「……あぁ、今のは一般論だ。マルケシス司教の子供を侮辱する意図はない。ただ、情けをかけたばかりに破滅するという事例は枚挙に暇がない。倫理的、道徳的に正しいことが必ずしも善であるとは限らないと言っているのだよ」
「正しいことを正しいと信じられないなんて、貴方は何のために騎士になったの」
言ってから、ミーシャは自分の問いのおかしさに気づいた。正しさのみを拠り所にすれば、アリシアのようになるのではないか。正義や民衆を盾にするアリシアの在り方が、模範的な騎士のものとは到底思えない。その点を踏まえると、セオドリックの言い分にも一理あるのではないかと思えてくる。
一方のセオドリックは、どこか呆れたような顔をしてからミーシャに答えた。
「己の主義信条を馬鹿正直に話すとでも思っているのか。少なくとも弱者を守るためではない、とだけは答えておくがね」
セオドリックは剣を納め、ミーシャに向き直った。
「とはいえ……、子供を助けたことを理由に助命するつもりはないと言ったが、異端の魔女として処刑するつもりもない。君の指揮する反乱軍は非常に規律正しく、略奪などを行う者もほとんどいなかったと聞く。君のことを、神の遣わした聖女だと心から信じていたのだろう。そのような指導者を異端の魔女として処刑すれば、ヴァルディスの民はどのように受け止めるか。刑死した殉教者は崇拝の対象になる。君の信仰しているエリシス教の開祖のようにね。千年先まで名の残る伝説の聖女を異教徒に与えてやるわけにはいくまい」
セオドリックは冷笑し、ミーシャの枷に手をかけた。

