ベリアスを守りたくて勇者になったはずなのに。
そんな思いが胸の奥にまとわりついて離れない。自責の念に苛まれることはもう、なくなった。苦痛を感じるような場所は、磨耗して削げ落ちた。今はただ、自分自身の根幹が深淵に引きずり込まれる様子を他人事のように感じるのみ。
(ベリアスはもう、新たな《深淵の欠片》を手に入れたのかしら……)
ベリアスがラゼク=ヴォルスと共に《虚ろの古城》に旅立って、半月になるだろうか。ベリアスは彼女を連れて行かなかった。二人の恋人関係は、とうの昔に破綻した。《深淵の欠片》によって二人の心は離れたが、《深淵の欠片》によって新たな利害の一致による強固な結びつきが生まれた。元々は一つだったものが元に戻ろうとするかのように、《深淵の欠片》は別の欠片を求め、引き合わせようとする。
「ルシエラ、浮かない顔をしているな」
「ハロウ様……」
ルシエラ・アルカントが顔を上げると、ハロウ・マルモンがワイングラスを傾けていた。彼の肉体は失われ、魔力で体のようなものを保っている状態だと言われているが、どういう仕組みか彼はしばしば飲食を嗜んだ。今日の彼は上機嫌で、《夜の実》のような南瓜の仮面も普段より楽しげな顔をしている。
二人は辺境の村エルシェムの修道院に滞在していた。
客間にはハロウとルシエラの二人しかおらず、ルシエラは仮面を外していた。彼女の容姿は十九歳の時からまったく変わっていない。しかしその内面は別人のように変わったと、ルシエラ自身は思っている。
「昨今の復誕祭は、以前とは違って見えます」
「ほう、どういう意味かな?」
「……人々の笑顔がとても遠く感じます」
ルシエラは椅子に腰掛けたまま、目を伏せて答えた。己の内心を率直に話すことはできなかった。他人に話せることは、外堀だけだ。
ハロウは身を屈め、枯れ枝のような指でルシエラの長い髪を撫でた。彼の声はいつもより優しく、穏やかだった。
「それはおまえが真の勇者になりつつある証だよ。おまえはもはや『人々と共に生きる者』ではない。『人々を導く者』だ。ルシエラ、おまえは私の最高傑作だ。真の勇者が人々と共に笑う必要はない。彼らの未来を照らす存在であれば、それでいいのだよ」
ルシエラはハロウの言葉を黙って聞いていた。何か言えば感情が溢れ出すような気がして怖くて、ルシエラはただ無感情を装った。彼女はハロウの手による人造勇者だった。ベリアスを危険な戦いに赴かせるわけにはいかない、その一心でルシエラは《ラザリスの門》の実験体となった。……ベリアスは今、どこにいるのだろう。彼は無事なのだろうか。不死身の彼が死ぬことはない。しかしそれでも、自分の選んだ道がベリアスを守ることに繋がっているとは、到底思えなかった。
ハロウはルシエラの背に手を添え、椅子から立たせた。
「さあ、行こう。祭りが終わればまた、新たな試練が始まる。おまえは《影の再生》の鍵となるのだからね」
「……はい」
ルシエラは仮面を付け、《再生の贈り手》のローブを羽織る。
エルシェムの村は《ラザリスの門》の開祖セリアンナが最後に身を寄せた場所だと言われている。《聖光教会》の影響の強い地域にありながら、《ラザリスの門》の信奉者が密かに活動している土地で、この村の復誕祭の光景は独特だった。家々の軒先には、黒い燭台に灯された蝋燭が吊されている。黒を基調とした《再生の卵》の傍らには、深紅のローブのセリアンナの人形。エルシェムは《聖光教会》の認める『聖なる巡礼地』として知られているが、そこはかとなく異端の気配を漂わせる村だった。
広場に設えられた祭壇の上で、巨大な炎が燃えている。
その周囲では《ラザリスの門》の信徒が独特の祈りを捧げている。
広場に集う子供たちに《再生の卵》を手渡すルシエラをハロウが楽しげに眺めている。
子供たちはセリアンナの人形を抱えている。人形になったセリアンナの姿は、長く癖のない黒髪の、碧眼の少女だった。憂いのある顔立ちが、ベリアスに似ているような気がする。
(ベリアスとの間に子供がいれば、こんな感じだったのかしら……)
そんなことを思った瞬間、ルシエラは己の素顔を隠す仮面に感謝した。
そんな思いが胸の奥にまとわりついて離れない。自責の念に苛まれることはもう、なくなった。苦痛を感じるような場所は、磨耗して削げ落ちた。今はただ、自分自身の根幹が深淵に引きずり込まれる様子を他人事のように感じるのみ。
(ベリアスはもう、新たな《深淵の欠片》を手に入れたのかしら……)
ベリアスがラゼク=ヴォルスと共に《虚ろの古城》に旅立って、半月になるだろうか。ベリアスは彼女を連れて行かなかった。二人の恋人関係は、とうの昔に破綻した。《深淵の欠片》によって二人の心は離れたが、《深淵の欠片》によって新たな利害の一致による強固な結びつきが生まれた。元々は一つだったものが元に戻ろうとするかのように、《深淵の欠片》は別の欠片を求め、引き合わせようとする。
「ルシエラ、浮かない顔をしているな」
「ハロウ様……」
ルシエラ・アルカントが顔を上げると、ハロウ・マルモンがワイングラスを傾けていた。彼の肉体は失われ、魔力で体のようなものを保っている状態だと言われているが、どういう仕組みか彼はしばしば飲食を嗜んだ。今日の彼は上機嫌で、《夜の実》のような南瓜の仮面も普段より楽しげな顔をしている。
二人は辺境の村エルシェムの修道院に滞在していた。
客間にはハロウとルシエラの二人しかおらず、ルシエラは仮面を外していた。彼女の容姿は十九歳の時からまったく変わっていない。しかしその内面は別人のように変わったと、ルシエラ自身は思っている。
「昨今の復誕祭は、以前とは違って見えます」
「ほう、どういう意味かな?」
「……人々の笑顔がとても遠く感じます」
ルシエラは椅子に腰掛けたまま、目を伏せて答えた。己の内心を率直に話すことはできなかった。他人に話せることは、外堀だけだ。
ハロウは身を屈め、枯れ枝のような指でルシエラの長い髪を撫でた。彼の声はいつもより優しく、穏やかだった。
「それはおまえが真の勇者になりつつある証だよ。おまえはもはや『人々と共に生きる者』ではない。『人々を導く者』だ。ルシエラ、おまえは私の最高傑作だ。真の勇者が人々と共に笑う必要はない。彼らの未来を照らす存在であれば、それでいいのだよ」
ルシエラはハロウの言葉を黙って聞いていた。何か言えば感情が溢れ出すような気がして怖くて、ルシエラはただ無感情を装った。彼女はハロウの手による人造勇者だった。ベリアスを危険な戦いに赴かせるわけにはいかない、その一心でルシエラは《ラザリスの門》の実験体となった。……ベリアスは今、どこにいるのだろう。彼は無事なのだろうか。不死身の彼が死ぬことはない。しかしそれでも、自分の選んだ道がベリアスを守ることに繋がっているとは、到底思えなかった。
ハロウはルシエラの背に手を添え、椅子から立たせた。
「さあ、行こう。祭りが終わればまた、新たな試練が始まる。おまえは《影の再生》の鍵となるのだからね」
「……はい」
ルシエラは仮面を付け、《再生の贈り手》のローブを羽織る。
エルシェムの村は《ラザリスの門》の開祖セリアンナが最後に身を寄せた場所だと言われている。《聖光教会》の影響の強い地域にありながら、《ラザリスの門》の信奉者が密かに活動している土地で、この村の復誕祭の光景は独特だった。家々の軒先には、黒い燭台に灯された蝋燭が吊されている。黒を基調とした《再生の卵》の傍らには、深紅のローブのセリアンナの人形。エルシェムは《聖光教会》の認める『聖なる巡礼地』として知られているが、そこはかとなく異端の気配を漂わせる村だった。
広場に設えられた祭壇の上で、巨大な炎が燃えている。
その周囲では《ラザリスの門》の信徒が独特の祈りを捧げている。
広場に集う子供たちに《再生の卵》を手渡すルシエラをハロウが楽しげに眺めている。
子供たちはセリアンナの人形を抱えている。人形になったセリアンナの姿は、長く癖のない黒髪の、碧眼の少女だった。憂いのある顔立ちが、ベリアスに似ているような気がする。
(ベリアスとの間に子供がいれば、こんな感じだったのかしら……)
そんなことを思った瞬間、ルシエラは己の素顔を隠す仮面に感謝した。

