オリアネッタはエグラントの目をまっすぐ見つめ、うっすらと微笑んだ。
「はい。修道院長……エグラント様……」
 白いレースのヴェールが黒い石の床に落ちる。オリアネッタはエグラントの目をのぞき込んだまま、両手で白いケープを外し、見習い修道女用の黒いワンピースを脱いでいく。彼女の肌が露わになると、エグラントの視線はそちらに落ちる。しかしオリアネッタはエグラントの目を見つめたまま、決して視線を外さなかった。
 エグラントは鏡の前の黒い椅子にオリアネッタを座らせると、彼女の手首を肘掛けに黒いリボンで拘束する。この場に充満する魔力の影響か、不思議なことに、黒い椅子には埃も塵も見当たらない。リボンを結び終えたエグラントは、オリアネッタの手の甲に焼きついたままの刻印を指でなぞるように軽く撫でた。そのまま指を腕から肩へ、鎖骨をなぞりながら首へと移動させる。オリアネッタは小さくうめき、身じろぎした。エグラントの指が、何かの紋様を描くようにオリアネッタの肌をなぞる。彼の指が触れた場所が燃えるように熱くなる。エグラントは囁くように何かの呪文を唱えた。オリアネッタが初めて耳にする呪文だった。熱を帯びた肌に、疼くような痛みが走る。異変に気づいたオリアネッタが自分の体に視線を落とすと、赤く光る刻印が全身に刻み込まれていた。
「これは……」
「サクリファイス・マーク……魔族の血脈を象徴する紋様だよ」
 鋭い悲鳴を漏らしながらオリアネッタの体が跳ねた。赤く光る刻印から血が溢れ出す。白い肌を伝い落ちる赤い鮮血は、床に流れ落ちる前に揮発して空気に溶けていく。
「魔王の血に流れる魔力を抽出するための術だ。安心したまえ、死に至ることはない。多少の痛みはあるだろうが、君なら耐えられるだろう」
 エグラントは楽しげに、そして冷ややかに言った。多少、では済まない痛みが肌を突き抜け、オリアネッタは耐えきれず全身をのけぞらせた。見開いた視界一面に黒水晶の鏡が迫る。鏡には現実の光景と、この場に存在しないはずの男が映っている。
 端整な顔立ちの、若く精悍な男だった。黒い髪に青い瞳。その表情にかすかな翳りが見えるのは、彼が何かを奪われた復讐者だからなのか。彼の携えている剣には見覚えがある。《聖者の間》の天井のステンドグラスに描かれた初代勇者エリウスの持っている剣によく似ている。つまり勇者の証、ルミナスブレイド。この場に満ちる人ならざる魔力が囁きとなり、彼の名をオリアネッタに教える。──ベリアス・アルカント。
(やっぱりこの人が……勇者ベリアス……)
 オリアネッタの胸の奥が鈍く軋むように痛んだ。たとえ彼がこの場にいても、彼の好意は得られない。わたしは魔王オルディミールの娘だから、敵意を向けられることこそあれ、愛されることはない。こんな目に遭っていても助けてはくれないだろう。サクリファイス・マークの術が彼女の深部に浸透し、刻印から流れ出す血の量が多くなる。しかしそんなことはどうでも良かった。現実の体の傷の痛みが胸の奥の見えない痛みを忘れさせてくれるなら、血などいくら流れても構わない。恋に落ちた瞬間にオリアネッタは失恋していた。たとえ彼が生きていても、魔王の娘が彼に愛されることはない。それでも彼女はベリアスから視線を外すことができずにいた。
『……この男をどう思う?』
 嘲るような囁きが、無数のざわめきの中から聞こえた。
 鏡に映るベリアスの姿が変化する。
 生彩に満ちた肌は死人のように青くなり、瞳の奥には黄昏のような暗い光が宿っている。剣も鎧も黒く染まり、その背後には死者の軍勢。面差しは暗く陰鬱だが、それでも生前の精悍さは持ち合わせていた。アンデッドと化した彼の前には、ルミナスブレイドを構えた男が立っている。かつての勇者ベリアスは、魔王でもなく魔族でもなく、人間の勇者と対峙していた。