苦痛にもがくオリアネッタの様子にエグラントは満足感を覚えた。
最近のオリアネッタはどうもよろしくない。やけに素直で、媚びるような言動が多い。敗者が勝者に媚びるのは当然、誰が真の勝者なのかを理解したのだろうとうっかり思いそうになったが、魔王の娘だと知って合点が行った。つまり、悪辣な魔族が聖職者を誘惑していたに過ぎなかったのだ──エグラントはそう結論づけた。危うく騙されるところだった。この娘には躾が必要だ。自分の立場というものを思い知らせた方がいい。オリアネッタの手首を掴む手に、エグラントはいっそう力を込めた。
彼女の白い手の甲には、焼き付いたような刻印が黒々と刻み込まれている。人間ならば、起こり得ないこと。並の魔族でも同様だろう。しかし彼女の魔王の血、生まれながらの高い魔力があり得ざる刻印となって黒い光を放っている。その色が黒を極めたとき、眼前を遮る巨大な石の扉が動き出した。
「よし。《影の誓約》が成立した」
エグラントは不敵に笑い、その場にくず折れそうになるオリアネッタを片腕で支えた。
本来ならばエグラントには地下祭壇の扉を開くことはできない。《儀式の門》と呼ばれる巨大な石の扉には、聖者ルヴァニアによる強力な封印が施されている。扉を開くには《聖なる誓約》を行わねばならない。その誓約は形式だけの口約束などではなく、誓約者の魂を覗き見て、関与するほどの強制力を持つ。『ルヴァニアの教えを正しく理解し、修道院の許可を得た者が』『己の中から虚偽を排し、己の欺瞞を退けること』『《深淵の欠片》の力を己の欲望のために求めないことを誓う』……これらについて虚偽の誓約を行えば、誓約者の体に激痛が走り、最悪の場合は死に至る。欺瞞を抱え、《深淵の欠片》の力を私利私欲のために求めるエグラントには、扉を開くことはできないはずだった。
しかしエグラントは《儀式の門》を開いた。ルヴァニアの施した封印魔術の内容を、オリアネッタの強力な魔力で強引に書き換えた。《深淵の欠片》の影響を受けた者が《儀式の門》の前に立つと、扉は自動的に開く。《ルヴァニア記》最終章にそう記されているし、ハロウ・マルモンもそのように語っていた。深淵の力、強大な魔力で封印を無効化できるのなら、魔王の血に秘められた魔力でもできるかもしれない。そのように考えて、エグラントは実行した。ハロウ・マルモンの言葉を思い出す。「聖者ルヴァニアの施した聖なる封印などと呼ばれているが、一個人の私感による魔術的な呪いに過ぎぬ。呪いは恐れるものではく、己がために利用するもの。欺瞞など、私欲など、恥じる必要などどこにもない。深淵を知ることでしか、人は深淵に抗えぬのだからな」──ああ、そうだ。そうだとも。そして俺はやってやった。
開いた石の扉の向こうは、聖堂のような場所だった。天井は高く、青白い光がどこからともなく射している。壁際には、古代の魔術で灯された消えることのない炎。しかしここは聖堂ではない。中央に設えられた祭壇の上に浮かぶ黒い石が異様な空気を放っている。石造りの床には祭壇を囲むように魔法陣が彫り込まれ、その周囲には淡い光の柱が立っている。柱から伸びた白銀の鎖が黒い石に巻き付いているが、石はひび割れ、鎖は綻び、いつかは石が完全に割れるのではないかと思われた。聖堂ならばステンドグラスがあるはずの正面の壁には、黒い水晶でできた巨大な鏡が嵌まっている。
「……修道院長様、もう大丈夫です。一人で歩けます」
オリアネッタはそう言って、エグラントの腕から逃れようとした。
「いや、慣れるまで私のそばにいたまえ。ここは危険だ。《深淵の欠片》が封印されているのだからな」
そう言ってオリアネッタを抱き寄せ、エグラントは地下祭壇に足を踏み入れる。
しかし実際は、誰かにそばにいてほしいのはエグラントの方だった。
エグラントはこの地下祭壇が嫌いだった。《儀式の門》を開いたのは今回が始めてたが、《聖なる誓約》をおこなった高位の聖職者に随伴する形で訪れたことは何度もある。地下祭壇に入ると、誰かに見られているような不穏な気配に神経がざわめく。囁くような声が聞こえてくるが、いったい何を言っているのかまったく聞き取ることができず、現実の声か、幻聴か、空耳なのかも分からない。
「修道院長様、あの人は誰?」
オリアネッタはエグラントを見上げ、黒水晶の鏡を指さした。
二人の背後で石の扉が重い音を立てて閉じる。
エグラントは平静を装って、しかし内心では怯えながらおそるおそる前を見る。鏡には誰も映っていない。彼は肩をすくめて笑い、オリアネッタに答えた。
「あの鏡には歴代勇者の姿が映ると言われている。誰にでも見えるわけではないがね。君は小さな頃から人には見えないものが見えた。思えば魔王の血の影響で生まれつき魔力が高かったのだろうね」
エグラントは少しだけ嘘をついた。鏡に映るのは歴代勇者の姿ではない。《深淵の欠片》の影響を受けた勇者の姿だった。そしてそれこそエグラントがこの場を恐れる理由だった。彼は鏡にベリアスの姿が映ることを恐れていた。実際のベリアスは深淵などとは無縁の男で、英雄のままこの世を去った。そんな彼が黒水晶の鏡に映るはずがない。しかし夜、悪夢の中でエグラントは幾度となく地下祭壇の鏡に映るベリアスを目にしている。エグラントは夢の中でもベリアスの影に追われていた。
エグラントの傍らで、オリアネッタは物憂げに笑う。
「そう。じゃあ、あの人がベリアスなのかも知れないのね。あの人、話に聞くベリアスにそっくりだもの」
そんなことがあるはずがない。エグラントの背筋が凍り付く。そうだ、ただの偶然だ。黒髪碧眼の男など、街に行けばいくらでもいる。深淵に触れた勇者の中にベリアスのような容姿の者がいたとしてもおかしくはない。勇者養成機関でも聖職者たちが言っていた。『次の勇者はベリアスだろうな』『剣の腕といい、容姿といい、人格といい、彼は人々の望む勇者そのものだ』──
エグラントはオリアネッタの腕を乱暴に掴んだ。オリアネッが苦痛にうめくが、エグラントはそれを無視し、足早に歩いた。己をせき立てるものが恐怖なのか興奮なのか、自分でもよく分からない。いや、理解する必要はない。祭壇の上に浮かぶ石が脈打つように蠢いた。鎖の動く音がして、壁全体に血脈のような淡い光が走った。エグラントはオリアネッタを鏡の前に連れて行くと、有無を言わせぬ口調で命じた。
「服を脱げ」
最近のオリアネッタはどうもよろしくない。やけに素直で、媚びるような言動が多い。敗者が勝者に媚びるのは当然、誰が真の勝者なのかを理解したのだろうとうっかり思いそうになったが、魔王の娘だと知って合点が行った。つまり、悪辣な魔族が聖職者を誘惑していたに過ぎなかったのだ──エグラントはそう結論づけた。危うく騙されるところだった。この娘には躾が必要だ。自分の立場というものを思い知らせた方がいい。オリアネッタの手首を掴む手に、エグラントはいっそう力を込めた。
彼女の白い手の甲には、焼き付いたような刻印が黒々と刻み込まれている。人間ならば、起こり得ないこと。並の魔族でも同様だろう。しかし彼女の魔王の血、生まれながらの高い魔力があり得ざる刻印となって黒い光を放っている。その色が黒を極めたとき、眼前を遮る巨大な石の扉が動き出した。
「よし。《影の誓約》が成立した」
エグラントは不敵に笑い、その場にくず折れそうになるオリアネッタを片腕で支えた。
本来ならばエグラントには地下祭壇の扉を開くことはできない。《儀式の門》と呼ばれる巨大な石の扉には、聖者ルヴァニアによる強力な封印が施されている。扉を開くには《聖なる誓約》を行わねばならない。その誓約は形式だけの口約束などではなく、誓約者の魂を覗き見て、関与するほどの強制力を持つ。『ルヴァニアの教えを正しく理解し、修道院の許可を得た者が』『己の中から虚偽を排し、己の欺瞞を退けること』『《深淵の欠片》の力を己の欲望のために求めないことを誓う』……これらについて虚偽の誓約を行えば、誓約者の体に激痛が走り、最悪の場合は死に至る。欺瞞を抱え、《深淵の欠片》の力を私利私欲のために求めるエグラントには、扉を開くことはできないはずだった。
しかしエグラントは《儀式の門》を開いた。ルヴァニアの施した封印魔術の内容を、オリアネッタの強力な魔力で強引に書き換えた。《深淵の欠片》の影響を受けた者が《儀式の門》の前に立つと、扉は自動的に開く。《ルヴァニア記》最終章にそう記されているし、ハロウ・マルモンもそのように語っていた。深淵の力、強大な魔力で封印を無効化できるのなら、魔王の血に秘められた魔力でもできるかもしれない。そのように考えて、エグラントは実行した。ハロウ・マルモンの言葉を思い出す。「聖者ルヴァニアの施した聖なる封印などと呼ばれているが、一個人の私感による魔術的な呪いに過ぎぬ。呪いは恐れるものではく、己がために利用するもの。欺瞞など、私欲など、恥じる必要などどこにもない。深淵を知ることでしか、人は深淵に抗えぬのだからな」──ああ、そうだ。そうだとも。そして俺はやってやった。
開いた石の扉の向こうは、聖堂のような場所だった。天井は高く、青白い光がどこからともなく射している。壁際には、古代の魔術で灯された消えることのない炎。しかしここは聖堂ではない。中央に設えられた祭壇の上に浮かぶ黒い石が異様な空気を放っている。石造りの床には祭壇を囲むように魔法陣が彫り込まれ、その周囲には淡い光の柱が立っている。柱から伸びた白銀の鎖が黒い石に巻き付いているが、石はひび割れ、鎖は綻び、いつかは石が完全に割れるのではないかと思われた。聖堂ならばステンドグラスがあるはずの正面の壁には、黒い水晶でできた巨大な鏡が嵌まっている。
「……修道院長様、もう大丈夫です。一人で歩けます」
オリアネッタはそう言って、エグラントの腕から逃れようとした。
「いや、慣れるまで私のそばにいたまえ。ここは危険だ。《深淵の欠片》が封印されているのだからな」
そう言ってオリアネッタを抱き寄せ、エグラントは地下祭壇に足を踏み入れる。
しかし実際は、誰かにそばにいてほしいのはエグラントの方だった。
エグラントはこの地下祭壇が嫌いだった。《儀式の門》を開いたのは今回が始めてたが、《聖なる誓約》をおこなった高位の聖職者に随伴する形で訪れたことは何度もある。地下祭壇に入ると、誰かに見られているような不穏な気配に神経がざわめく。囁くような声が聞こえてくるが、いったい何を言っているのかまったく聞き取ることができず、現実の声か、幻聴か、空耳なのかも分からない。
「修道院長様、あの人は誰?」
オリアネッタはエグラントを見上げ、黒水晶の鏡を指さした。
二人の背後で石の扉が重い音を立てて閉じる。
エグラントは平静を装って、しかし内心では怯えながらおそるおそる前を見る。鏡には誰も映っていない。彼は肩をすくめて笑い、オリアネッタに答えた。
「あの鏡には歴代勇者の姿が映ると言われている。誰にでも見えるわけではないがね。君は小さな頃から人には見えないものが見えた。思えば魔王の血の影響で生まれつき魔力が高かったのだろうね」
エグラントは少しだけ嘘をついた。鏡に映るのは歴代勇者の姿ではない。《深淵の欠片》の影響を受けた勇者の姿だった。そしてそれこそエグラントがこの場を恐れる理由だった。彼は鏡にベリアスの姿が映ることを恐れていた。実際のベリアスは深淵などとは無縁の男で、英雄のままこの世を去った。そんな彼が黒水晶の鏡に映るはずがない。しかし夜、悪夢の中でエグラントは幾度となく地下祭壇の鏡に映るベリアスを目にしている。エグラントは夢の中でもベリアスの影に追われていた。
エグラントの傍らで、オリアネッタは物憂げに笑う。
「そう。じゃあ、あの人がベリアスなのかも知れないのね。あの人、話に聞くベリアスにそっくりだもの」
そんなことがあるはずがない。エグラントの背筋が凍り付く。そうだ、ただの偶然だ。黒髪碧眼の男など、街に行けばいくらでもいる。深淵に触れた勇者の中にベリアスのような容姿の者がいたとしてもおかしくはない。勇者養成機関でも聖職者たちが言っていた。『次の勇者はベリアスだろうな』『剣の腕といい、容姿といい、人格といい、彼は人々の望む勇者そのものだ』──
エグラントはオリアネッタの腕を乱暴に掴んだ。オリアネッが苦痛にうめくが、エグラントはそれを無視し、足早に歩いた。己をせき立てるものが恐怖なのか興奮なのか、自分でもよく分からない。いや、理解する必要はない。祭壇の上に浮かぶ石が脈打つように蠢いた。鎖の動く音がして、壁全体に血脈のような淡い光が走った。エグラントはオリアネッタを鏡の前に連れて行くと、有無を言わせぬ口調で命じた。
「服を脱げ」

