聖堂を後にした二人は、修道院を囲む長い石造りの回廊を歩き、修道士や修道女の生活区画へと移動する。
食堂や宿舎を横切ると、作業場が現れた。その一角にある写本室では、修道者たちが黙々と何かを書き写している。彼らは《ルヴァニア記》の写本を制作していた。ルヴァニアの遺した手記は、聖者の教えを記した聖書としても、勇者エリウスの時代の歴史書としても、エルフ直伝の治癒術の指南書としても、世に広く知られている。《ルヴァニア記》の写本制作は修道士や修道女の精神鍛錬であると同時に、完成した写本は修道院や教会の収入源となっていた。
「貴方もここで聖なる言葉を綴っているの?」
女司祭の問いに、オリアネッタは礼儀正しく「はい」と答えた。再び女司祭が問う。
「《ルヴァニア記》の原本を読んだことはあるかしら」
「原本……?」
「聖者ルヴァニア直筆の、《ルヴァニア記》の原本よ。この修道院のどこかに保管されていたと聞いたわ。古いものだから、もう残っていないのかも知れない。かつては修道院長にのみ、閲覧権限があったとことだけれど。その様子では、エグラントからは何も聞いていないのかしら……」
女司祭の声が宙に溶ける。問いではなく確認、ただの独り言のようだ。
しかしオリアネッタは彼女の言葉に強い違和感を覚えた。何故、彼女はエグラントの名前を知っているのだろう。エグラントは彼女に対して一度も名乗らなかったのに。《聖者の間》でも、彼女はエグラントをフルネームで呼んでいた。何かがおかしいような気がする。でも、とオリアネッタはすぐに考え直す。修道院長の名前くらい、外部の人でも知っている。《ラザリスの門》の最高指導者の付き人ともなれば尚更のこと。事前に修道院長の名前を調べているのだろう。そう自分を納得させて、陽の当たる中庭へと女司祭を案内する。
中庭は小さな庭園になっており、花や薬草が整然と植わっている。植物の世話をしていた修道士や修道女は、オリアネッタの姿に気づくと一斉に立ち上がり、深々と礼をした。いつも通りの光景だった。しかし今のオリアネッタは、彼らの敬意が自分自身に向けられたものではないことを知っている。これはベリアスに対するものだ。ベリアスはここにはいないから、この敬意も明日には失われているだろう。
「……ここから出たいなら、《ルヴァニア記》の原本と《深淵の欠片》を探しなさい」
オリアネッタの腕に手を添えて、女司祭が囁いた。
「《深淵の欠片》……? それは何なの……?」
「わたしからは説明できない。だけど手にすることができればその正体も理解できるわ。《深淵の欠片》はこの修道院のどこかに隠されている……いいえ、封印されているはずよ。この建物の下の方……おそらくは《聖者の間》の下に……」
オリアネッタの背筋に悪寒が走る。見慣れたはずの日常の光景の意味が変わる。ルヴァニアの遺した聖杖に祈りを捧げる修道士や修道女。何故、彼らは聖堂ではなく杖に向かって祈るのか。彼女は直感的に理解した。あの祈りは《深淵の欠片》を封印するためのもの。そうしなければならない理由をルヴァニアは書き残していた。だけど《ルヴァニア記》の写本には、そのような記述はない。オリアネッタは女司祭に小声で尋ねた。
「《ルヴァニア記》の原本は、写本とは違うの……?」
「ええ。写本には、最終章が入っていない」
「貴方は最終章の内容を知っているのね。そこには何が書かれているの?」
「初代勇者エリウスの復活の真相を知る者の言葉。教会が人々に知られたくない真実よ」
「つまり……勇者エリウスの復活は、神の奇跡ではなくて……」
先ほど《灯火の祭壇》で女司祭が漏らした言葉が明確な意味を伴ってオリアネッタの脳裏に蘇る。
──復活とは本当に、祝福すべきことなのかしら……。
──復活を遂げた勇者によって人々は救われた。だけど勇者にとって復活が幸せなことだったとは限らないわ。
教会が人々に知らしめまいとしていること。エルフの聖者がその死後も封印したいと望んだもの。それが《深淵の欠片》の力。初代勇者エリウスの復活の奇跡を成したもの。
「……それ以上は言っては駄目よ。異端者として抹殺されるわ」
そう囁いた女司祭の声は、氷のように冷たかった。
食堂や宿舎を横切ると、作業場が現れた。その一角にある写本室では、修道者たちが黙々と何かを書き写している。彼らは《ルヴァニア記》の写本を制作していた。ルヴァニアの遺した手記は、聖者の教えを記した聖書としても、勇者エリウスの時代の歴史書としても、エルフ直伝の治癒術の指南書としても、世に広く知られている。《ルヴァニア記》の写本制作は修道士や修道女の精神鍛錬であると同時に、完成した写本は修道院や教会の収入源となっていた。
「貴方もここで聖なる言葉を綴っているの?」
女司祭の問いに、オリアネッタは礼儀正しく「はい」と答えた。再び女司祭が問う。
「《ルヴァニア記》の原本を読んだことはあるかしら」
「原本……?」
「聖者ルヴァニア直筆の、《ルヴァニア記》の原本よ。この修道院のどこかに保管されていたと聞いたわ。古いものだから、もう残っていないのかも知れない。かつては修道院長にのみ、閲覧権限があったとことだけれど。その様子では、エグラントからは何も聞いていないのかしら……」
女司祭の声が宙に溶ける。問いではなく確認、ただの独り言のようだ。
しかしオリアネッタは彼女の言葉に強い違和感を覚えた。何故、彼女はエグラントの名前を知っているのだろう。エグラントは彼女に対して一度も名乗らなかったのに。《聖者の間》でも、彼女はエグラントをフルネームで呼んでいた。何かがおかしいような気がする。でも、とオリアネッタはすぐに考え直す。修道院長の名前くらい、外部の人でも知っている。《ラザリスの門》の最高指導者の付き人ともなれば尚更のこと。事前に修道院長の名前を調べているのだろう。そう自分を納得させて、陽の当たる中庭へと女司祭を案内する。
中庭は小さな庭園になっており、花や薬草が整然と植わっている。植物の世話をしていた修道士や修道女は、オリアネッタの姿に気づくと一斉に立ち上がり、深々と礼をした。いつも通りの光景だった。しかし今のオリアネッタは、彼らの敬意が自分自身に向けられたものではないことを知っている。これはベリアスに対するものだ。ベリアスはここにはいないから、この敬意も明日には失われているだろう。
「……ここから出たいなら、《ルヴァニア記》の原本と《深淵の欠片》を探しなさい」
オリアネッタの腕に手を添えて、女司祭が囁いた。
「《深淵の欠片》……? それは何なの……?」
「わたしからは説明できない。だけど手にすることができればその正体も理解できるわ。《深淵の欠片》はこの修道院のどこかに隠されている……いいえ、封印されているはずよ。この建物の下の方……おそらくは《聖者の間》の下に……」
オリアネッタの背筋に悪寒が走る。見慣れたはずの日常の光景の意味が変わる。ルヴァニアの遺した聖杖に祈りを捧げる修道士や修道女。何故、彼らは聖堂ではなく杖に向かって祈るのか。彼女は直感的に理解した。あの祈りは《深淵の欠片》を封印するためのもの。そうしなければならない理由をルヴァニアは書き残していた。だけど《ルヴァニア記》の写本には、そのような記述はない。オリアネッタは女司祭に小声で尋ねた。
「《ルヴァニア記》の原本は、写本とは違うの……?」
「ええ。写本には、最終章が入っていない」
「貴方は最終章の内容を知っているのね。そこには何が書かれているの?」
「初代勇者エリウスの復活の真相を知る者の言葉。教会が人々に知られたくない真実よ」
「つまり……勇者エリウスの復活は、神の奇跡ではなくて……」
先ほど《灯火の祭壇》で女司祭が漏らした言葉が明確な意味を伴ってオリアネッタの脳裏に蘇る。
──復活とは本当に、祝福すべきことなのかしら……。
──復活を遂げた勇者によって人々は救われた。だけど勇者にとって復活が幸せなことだったとは限らないわ。
教会が人々に知らしめまいとしていること。エルフの聖者がその死後も封印したいと望んだもの。それが《深淵の欠片》の力。初代勇者エリウスの復活の奇跡を成したもの。
「……それ以上は言っては駄目よ。異端者として抹殺されるわ」
そう囁いた女司祭の声は、氷のように冷たかった。

