最近、渉の様子がおかしい。
 そう最初に感じたのは、いつだっただろう。
 はじめて聖と出会ったときには、もうどこかよそよそしさを感じていた。でも、それは渉に限ったことじゃない。今まで付き合って来た子たちは、みんなそうだった。
 もしかしたら渉は兄貴に会ったから、これまでより早いのかもしれない。
 そう思った。
 アニキの言うことはめちゃくちゃで、ムカつく。
でも、アニキが言っていた「要領が良くて、いいところを横取りしていく」そう思われることは、子供の頃からよくあった。
 うちの両親はどちらかと言うと、放任主義だ。小学生の頃から留守がちで、高校生になった今では家もずっと空けていることも少なくない。
 三つ年上のアニキはそれが都合よいと取ったようで、小学生の頃から友人を呼んでゲームをしたり、暴れたり。とにかく好き勝手していた。
 それとは真逆に小学生のオレは、勉強や習い事をがんばっていた。
 それはもちろん、留守がちな両親に褒めて欲しかったからだ。クラス委員をやったり、運動会のリレーのアンカーもやったりした。気持ちを汲み取るというよりも、人の顔色をうかがって行動していたかもしれない。そういうつもりはなかったけれど、クラスの人気を集めることになった。
 それを面白く思わないやつからは、「天才はいいよな」と言われることもある。オレは水面の下で結構もがいていたのだけど。ケンカをするのも苦手だったので、特に突っかかったりはせず流していた。
 少し窮屈な子供時代だったかもしれない。それでもアニキも小学生のうちは大した問題もなかった。問題が起きたのは、アニキが中二、オレが小六のときだ。
 小学生では遊ぶときもあったが、アニキが中学生になったらそれも全く無くなった。外で悪い連中とつるむようになったのだ。
 夜遊びするだけなら良かった。両親も良い顔はしないけれど、強くも言わない。だけど、中二の冬、集団暴力事件を起こしたのだ。
 被害者の命に別状はなかった。けれど、数週間入院するような怪我で、警察に補導された。いつもの学校でのちょっとした呼び出しとは違い、両親は仕事を休んで駆けつける。警察から身柄を引き取るのはもちろん、三日三晩アニキと付きっ切りで向き合った。
 両親の会話を聞いている限り、アニキの心配をしているというよりも、世間体というものを気にしているようだった。
 それでもアニキも反抗はしたけれど、悪い不良と言われる連中とは縁を切る。高校受験も危うかったけれど、なんとか合格することが出来た。
 その間、あれだけ仕事中心だった両親もアニキが中学のときは頻繁に家にいた。家族団らんの食事には、もちろんオレも呼ばれる。けれど、アニキとは違い、オレは大丈夫だという安心感からか積極的に関わって来ない。
 せいぜい、アニキを更生させるための装置ぐらいにしか扱われなかった。
 もっと子供だったなら駄々をこねていたかもしれないが、中学生になっていたオレはなんだ、こんなものかと思った。
 がんばっていた勉強も習い事も全て辞めた。部活が楽しい振りをしていれば、両親も何も言わない。家ではアニキが突っかかるのが面倒だったので、なるべく荒立てないように気を付けていたぐらいだ。
 学校でも着かず離れずの距離で人を見て、欲しがっているだろう言葉を与える。そうしていたら、ほとんどのことが円滑に進んでいく。
 気づいたら頭の軽い八方美人。そういう人間になっていた。

 優等生キャラからチャラいキャラに変わっても、周りは特別驚くことはなかった。中学生というと、周りも変化が激しい時期だったからかもしれない。小学校からの友人も特に気にはしていなかった。
 だけど中二の夏が過ぎた頃から、よく女子に告白されるようになった。
「宮野くんだよね? わたし、あなたのことがずっと気になっていて……」
「えっと、……ごめん」
 最初は断っていた。告白してくるのは他校の子やよく知らない子ばかりだったからだ。それでも、異性への興味はもちろんあった。
「この子、陽介と話をしてみたいってさ。せっかくなら付き合っちゃえば?」
結局周りの友人の勧めにより、紹介された子と付き合うことになる。中三だった。
 はじめて付き合った子は他校の同級生で、黒くて真っ直ぐな髪が印象的な清楚系の女の子だ。紹介されたときに初めて会ったけれど、向こうはオレのことを知っていた。友人に色々と話を聞いて、気になる存在になっていたらしい。
 その子とは六か月付き合った。今のオレから考えると驚異的な長さだ。
 とにかく大事にしようと、こまめに連絡を入れる。朝起きて、おはよう。夜寝るときは、おやすみ。今考えるとしつこいほど、どうでもいいことまで報告していた。
「昨日、同じクラスの奴がさ」
「オレ、グリーンピースが食えないんだけどさ」
 違う学校だしお互いよく知らない。だから自分を知ってもらおうと、頑張り過ぎていたのだ。彼女の話をもっと聞いていれば良かったのかもしれない。結局、そんなつもりはなかったのに「自分のことばかりだね」と言われて別れた。
 今思えば彼女がそう言ったのも理解できる。だけど、そのときは頭に血が上ってしまった。
 これまでオレは自分のことを優先して来なかった。親の為、アニキの為、クラスメイトの為。為になったかどうかはともかく、自分以外の人為に動いてきたんだ。
 だから、自分のことばかりと言われるのは心外だった。
「彼女と別れたんだよね? わたしたち結構気が合うし、付き合っちゃう?」
 すぐに新しい彼女を作ったのは、完全に彼女への当てつけだ。
 もう中三の終わり頃だったけれど、受験も関係ない。成績は落ちていたが、親もとやかく言わないのでそれに見合った高校に行けば良かった。
 だけど、違う高校に行った新しい彼女は、同じ高校の男子にあっさり心変わりした。付き合って三か月ほど。別れたいというメッセージが来たので、理由を聞くと教えてくれた。
 彼女も申し訳なく思っているようだったし、彼女の心を繋ぎとめることも出来ないと思われるのは嫌なので誰にも理由は話さなかった。
 だけど、そのせいでオレが誰かと付き合っても、すぐに彼女を捨てるような奴なんじゃないかと噂されるようになる。それ自体は気にする必要はないと思っていた。
 でも通っている高校もギャルっぽい子が多いので、そういう軽い付き合いだけを求めてくる子が多くなった。
 それでも良かった。結局、前の彼女も前の前の彼女とも深い仲にはならなかった。たくさん付き合っていれば、オレのことを見てくれる子がいるはずだ。
 次に付き合った子は美人で、多くの男子が憧れるような子だった。今度は自分の話ばかりしないで、相手の話を聞いて、少しの変化も見逃さないように。大事に、大事にしていたつもりだ。
「陽介くんって思ったより刺激がないよね」
 あっさりと振られてしまった。顔は好みだけど、中身はつまらない。
 そう言われた気がした。確かにそうかもしれない。どう思われているかは知らないが、オレは本当に普通の高校生だ。
 それでも他の子と付き合う。誰かきっと普通のオレでいいって言ってくれると信じていた。だけど、上手くは行くことはなかった。
 軽い調子で告白されて、軽い調子で付き合い始める。誰かと二人で過ごすことは楽しい。相手からの好意も感じる。だけど、この子もいつ陽介は付き合ってみるとつまらないと言いだすかもしれない。心変わりするかもしれない。そんな考えが頭をよぎるようになる。
 だから、なるべく相手が好きそうなものを話題にするようにした。刺激が足りないと言われそうで、スキンシップが多くなる。
 それでも少しでも退屈そうな顔が増えてくると、相手から言われる前にこちらから別れを持ち出すようになった。
 どれだけ彼女から好きだと言われても、信じることが出来なくなっていたのだ。
 別れの理由は適当に誤魔化した。それでも、相手は納得する。
「あー……、やっぱ陽介ってそんな感じなんだね」
 最初からオレへのイメージはそんな感じだったのだ。
 とはいえ、一年以上続けていると流石に虚しくなってくる。
 高二の一月に二か月半付き合った彼女と別れていた。もうすぐ高三だからフラフラと不特定の彼女を作るより、友人たちともっと遊んだ方がいい。
 だから、バレンタインに渉に告白されたときは断ろうと思っていた。
「渉、えっと……」
 でも、渉がチョコレートの箱を持っている手が目に入った。
 指の先、綺麗に磨かれた爪は鮮やかなエメラルド。いつだったか、放課後に教室で二人、少しだけ一緒に過ごしたあの日と同じ色だ。
「うん。いいよ、付き合おうか」
 気づいたら、頭を縦に振っていた。なんで頷いたかは、よく分かっていない。でも、これで最後にすればいいだろう。
 いつものように、あまり深くない付き合いが始まった。

 渉との付き合いは、普通に楽しかった。それまで、他の奴らと混じって遊んでいたからだろう。でも、少しずつ違和感を覚えるようになる。
 ふとしたときに、見たことのない遠くを見るような顔をしていた。何か悩みがあるのかもしれない。不躾に突っ込まないで気にしないようにしていた方が、渉にもいいと思った。
 だけど聖と会うようになってから、同じクラスの山崎と渉がよく話しているのを目にするようになる。
 山崎は中学のときから同じ学校だ。
 正直、勉強が出来る奴だったから同じ高校に進学すると知ったときには驚いた。
 同じクラスになったときも、それほど多く関わったわけではない。人と関わることを煩わしいと思うタイプなのだと思う。たまに話しかけられても動揺するわけでもなく、普通に一言二言返すことはしていたから。
 そんな山崎が変わった。四人でファミレスに行ったのを契機に、山崎はよくオレや渉に話しかけて来るようになる。明らかにそれまでの山崎とは違う。
 でも、どちらかというと良く変わったので、クラスメイトたちも受け入れているようだ。
 変わったのは山崎だけではない。山崎と接する度に渉もどこか変わっていく。
 オレに対する態度と違う。聖に対して怒っていたときも感じた。どこか渉の素の部分を見せているような気がした。
 オレの勘は当たっていたようで、オレと渉の二人だけになることも無くなったし、何かを約束することも無くなった。
 決定的だったのは、放課後教室で山崎と二人だけで話しているところを見たときだ。最初は山崎の小説のインタビューを受けているのだと思った。
 でも、それにしては二人は真剣な顔をしている。渉が悩んでいることを相談しているのかもしれないと思った。山崎になら真面目な相談も出来るのか、オレでは頼りないのかと少しだけ苛立った。
 どちらにしても、オレから心が離れて山崎の方に向かっている。
「なんだよ。やっぱり渉も、そういうことかよ」
 まだ一月も経っていないことには驚いたけれど、それも仕方がない。やっぱり渉の為にも離れて行った方がいいのだ。
 そのうち別れを切り出されるだろう。それとも、このまま自然消滅するかもしれない。その方が可能性も高そうだ。
 少なくとも三年になる頃には、クラスも離れるかもしれないし、関わりもなくなるだろう。
 釈然としないこともあるが、大っぴらに別れたと言わなくていいのは気が楽だ。
 とにかく高校生の間は、恋愛ごとをもうしない。それだけだ。

 そう、思っていた。
 それでも、視線は渉を追っていた。美玖と楽しく笑っていると、オレも心が軽くなるし、元気がないとどうしたのだろうと思った。
渉は以前よりコロコロと表情を変える。それを、ぼんやりと見つめることが多くなった。
「どうした、陽介。最近、よそ見多くない?」
「い、いや。別に。ほ、ほら、ゴミ付いているぜ」
 渉を目で追っていることに気づかれないように、慌てて取り繕う。
 ホワイトデーはお返しをしないつもりだった。だけど、見つけてしまう。
「これ、渉にあげたネックレスの猫に似ているな」
 黒猫がデザインされた缶は見た途端に、渉を思い起こさせた。そして、気づいたらそれを持ってレジに向かっている。
 これはお返しをしないのが変だから買うんだと自分に言い聞かせた。
 遊園地に行くことも遠慮した方がいいかとも思った。
 だけど、山崎や聖だけでなく、クラスの行ける奴は全員行くと言う。そこまですると返って渉に気まずい思いをさせてしまうかもしれない。だから行くことにした。
「まずい。着ていく服考えてなかった」
 渉とは放課後にしか会ったことがない。だから、私服を一度も見せたことがないことに出発前になって気づいた。別にデートじゃないんだから、どんな服でもいい気がする。
 それでも、なるべく春らしい服を選んだ。
「陽介遅いぞ」
「わりぃ、わりぃ! 遅くなった! ちょっと寝坊して朝飯買っていてさ」
 朝飯を買ったのは本当だけど、何も見ずに適当にパンをレジに持って行っただけだ。渉がこっちを見ていたので、パッと視線を逸らす。本当に電車が出発寸前だったので、せっかくセットした髪が乱れていた。少しだけ整えて、横目で渉の方を見る。
 渉の私服を見たのは初めてだ。可愛い服を着ているけれど、足が出ていて寒くないかと思ってしまう。あと、山崎が渉の足を見ている気がする。
 一応、ちゃんと別れていないのに、どうして彼氏でもない山崎にそんな無防備な笑顔を向けているのだろうとムカついて来る。
 だけど、オレは渉と揉めずに別れるって決めている。だから、今日も別々に過ごす。
 きっと、今日で別れたということになるんだろうなとぼんやりと思った。
 遊園地に着くと、みんなで記念撮影をして好きな場所に散っていく。
 ジェットコースターに友人二人と並んでいると、後ろに渉たちも並んでいた。楽しそうに話している。どう見ても、嫌がる美玖と聖を渉が引っ張ってきているように見えた。
 聖は大丈夫だろうか。ナーバスになっている聖と美玖に渉が強引な屁理屈で説得しているのが聞こえて来た。渉らしいといえば、渉らしい。思わず笑いがこみあげて来てニヤついてしまう。
 そう思って口元を押さえていると、渉と目が合った。
 とっさに視線をそらしてしまう。
 しまった。感じが悪い。軽く手でも振れば良かったと思ったときには後の祭りだ。もう一度見たときには、こちらを向いてはいなかった。
 それに渉もせっかくの遊園地なのに、少し元気がないように見えた。でも、近くには山崎も美玖もいる。隣には聖もいた。ちゃんと仲のいい姉妹に見える。それを見て安心出来た。
 きっとオレのことなんて、すぐに忘れて行くだろう。
 ジェットコースターに乗って降りてくると、オレたちのグループはもう一度乗ろうと並び直す。
「陽介。渉たちと一緒じゃなくて良かったのか?」
「え?」
 隣に並ぶ友人に言われて振り返る。そんなに向こうが良さそうに見えたのだろうか。
「いや。だって、遊園地だって陽介たちが行こうって決めたんだろ? それに陽介、渉のこと気にしているみたいだし」
「……そんなに気にしているように見えるか?」
 友人は頷く。
「そっか……。でも、渉は山崎の方がいいみたいだし。あんまり粘着質な男は嫌じゃん?」
「渉が山崎の方が? いや、そんな感じには見えないけど、渉って陽介が好きなの丸わかりだったし」
 丸わかりとは予想外の言葉だった。渉に告白されるまで、好意を寄せられているとは思わなかったからだ。もちろん嫌われているとも思っていなかったけれど、もしかしたらオレは人の気持ちに鈍いのかもしれない。
 これまで付き合っていた彼女たちを思い浮かべると、思い当たる節がたくさんある。
 とはいえ、渉がオレから離れたがっている。これは間違いなかった。
 ジェットコースターにもう一度乗ると、他のアトラクションを回る。空中ブランコやフリーフォールなど、男子だけなので絶叫系で攻めていた。
「あーッ! 陽介たち、発見!」
 昼食を取り、次へと向かっている途中でクラスの女子二人に見つかった。すぐにオレの腕に自分の腕を絡ませてくる。
「写真撮ろうー」
 腕を伸ばしてスマホを構えるので嫌な顔も出来ず、とりあえず笑う。でも写真を撮り終わってスマホを下ろしても、オレの腕は拘束されたままだ。
「ねえねえ、わたしたちと回ろうよー」
 言いながら身体を押し付けて来た。
「あー……」
「いいけどさ。ほら、オレ渉と付き合っているし、あんまベタベタされると困るっていうか」
「えー? でも、渉と回ってないじゃん」
「渉とはちょっとケンカしているだけだから」
 こんな嘘はすぐにバレるし、渉に悪い。けれど、彼女たちを遠ざけるためには噓も方便だ。こんなに引っ付いて来られると、他の友人たちも居心地が悪いはずだ。
 そういえば、渉はそういうとこ気を付けていたなと思い出した。
 しょうがないなと渋々だけど離れてくれた。仕方なく彼女たちと友人たちとで、アトラクションを回りだす。友人たちは女子がいた方が嬉しそうだ。
 だけど、バイキングに乗ったあとだ。辺りが妙に騒がしかった。
「何かあったのかな?」
 オレだけじゃなく、友人たちも乗る前とは雰囲気が違うと思ったらしい。周りを気にしつつ歩いていると、立ち止まっている人から会話が聞こえてくる。
「ここで女の子が倒れたんだって」
「金髪の子らしいね」
 心臓が凍り付いたような気がした。
 ――まさか、違う。だって、何で渉が倒れるんだよ。さっきまで元気そうだったじゃん。だからきっと、別の金髪の子に違いない。
 だけど、オレの考えを否定するように涙声の友人が言う。
「なぁ……。渉が倒れて、いま救急車で運ばれようとしているって……」
 振り返ると、友人がスマホを凝視していた。オレもすぐにスマホでグループチャットを開く。知らせているのは山崎だ。ほんの一分前に送信されている。グループチャットには次々に、どういうことかというメッセージが届くが返事はない。
 おそらく返信するどころじゃないのだろう。
「……ッ!」
「あ! 陽介!」
 オレはスマホを握りしめて走り出した。ここで倒れて救急車で運ばれるなら、入り口に運ばれているはずだ。じっとしていることなんて出来なかった。

 遊園地の入り口の広場に行くと人だかりが出来ていた。救急車は見えない。遠くでサイレンが鳴っている音が聞こえた。
「渉、どうしたの?!」
「どこか怪我したの!?」
 オレだけでなく、クラスメイトたちが次々と集まってきている。みんなに詰め寄られているのは山崎だ。
「渡辺さんは近くの病院に運ばれるらしい。聖ちゃん、渡辺さんの妹が一緒に乗っていったから、落ち着いたら連絡があるはずだ。あと、怪我とかじゃなくて……、その……」
 言いよどんでいる山崎の横で美玖が泣いている。泣き腫らしていて、目元が真っ赤だ。尋常じゃない様子に胸が騒めく。
「あ、あゆ、渉は」
 嗚咽を漏らしながら何とか説明しようとしている。美玖が顔を上げると、オレと真っ直ぐ目が合った。
「陽介……!」
 美玖がオレを睨みながら、駆け寄って来る。迫って来る美玖に胸倉を掴まれた。泣き顔のまま美玖が叫ぶ。
「あんたのせいじゃん! 渉は陽介を探しに行って倒れたんだッ!」
 何のことか分からず、オレは無言で瞬きをするしかない。
オレを探して……?
「ま、待って、井川さん! 宮野くんのせいじゃないよ! 元は無責任に後押しした僕が……!」
 間に山崎が入って来て、美玖を無理やり引きはがす。それでも美玖は叫ぶのを止めない。
「渉は病気なのに走ったりしたからッ!」
 ――渉が病気?
 冗談じゃない。渉は朝まで元気に笑っていただろ?
でも嘘じゃない。美玖の取り乱す様子を見たら、そんなこととても言えない。
「何とか言いなさいよッ! 陽介!」
 再び美玖が飛び掛かって来ようとする。その腕を山崎が必死に押さえていた。
「井川さん! 宮野くんも知らなかったんだ! それは渡辺さんがそうして欲しかったからで!」
「そんなん知ってるし! でも渉が許しても、わたしは許さないから! 渉が離れて行ったら、あっさり理由も聞かずに自分も引き下がっちゃってさッ! まだ付き合い始めてすぐだったのに! そもそも向き合うつもりが無いんなら、最初からわたしの親友と付き合うなッ!!」
 確かに軽い気持ちで付き合い始めた。渉がオレを見ていないと思ったら、すぐに離れようとした。それなのに山崎と一緒にいる渉を見て嫉妬して。
 自分を守るために、渉の為だと言い訳して離れた。
 美玖の言う通りだ。簡単に離れて行くなら、最初から付き合っちゃいけなかった。
「ごめん……。そう、だよな」
「う、ふっ、ふぐぅう」
 オレが謝ると、美玖は泣きながらその場にしゃがみ込んでしまう。
「……山崎」
 オレは山崎の方を見る。
「渉の側に行ってくれよ。タクシーに乗ればすぐだろ」
「……え?」
「親が後から来るかもしれないけれど、聖一人だと渉も不安だろ? だから」
「いやッ! そうじゃないよ! 行くなら宮野くんだろ!?」
 山崎は何を言っているんだという様子だけれど、オレは首を横に振る。
「オレには渉の側にいる資格はない。山崎が行くべきだ。これまでも渉のことを引っ張っていただろ?」
 いつ山崎が渉の病気のことを知ったかは知らない。でも、四人でファミレスに行ったときには知っていただろう。
 今思えばやりたいことリストは、渉の為に作っていたのだ。
 やり方は不器用だけど、渉を勇気づけようとしていたに違いない。離れていったオレなんかより、病気の不安から連れ出すことが出来るはずだ。
「山崎の方がオレなんかより、ずっと頼り甲斐がある」
 例え渉がオレを探していたとしても、これが答えだ。
 病気の渉の側にいるのは頼れる人間がいい。山崎もそれを望んでいるし、渉だってすぐにそれで良かったと思うに違いない。
「……僕も、さ。渡辺さんには頼り甲斐がある男が必要だと思っていたよ?」
 山崎はオレから視線を外す。
「でも、この二週間ぐらい渡辺さんとよく話す内に分かったんだ。渡辺さんは遠くに宝物を探しに行きたいんじゃなくて、今持っているものを両手で包んで大事にしたい子なんだって。だから、側にいるのに頼りになるとか必要なくて……」
 確かに渉から無理なお願いとか聞いたことがない。いつでも手の届く範囲に好きなものや大事なものを並べて慈しんでいる。
 ――オレがすごいなと言ったネイルとか。
「心当たりあるって顔しているよ。……本当のところ渡辺さんの気持ちは分からない。でも、渡辺さんが好きなのは、選んだのは宮野くんだ。だから、――行くよね?」
 真正面から山崎が見つめて来る。
 間違いなくオレが行かなければ自分が行くという目をしていた。
「……ッ! 行ってくる!」
 自分自身が本当に渉のことが好きかも分からない。病気だと聞いて同情しているのかもしれない。でも、今行かなければ後悔する。 オレはタクシー乗り場に走った。

 タクシーに乗って十五分ほどで病院に着いた。受付で渉のことを聞くと、二階の部屋に運ばれたと言う。走らない程度に早足で階段を駆け上った。
「わっ!」
「あ! すみませ……」
 廊下に出たところで誰かと鉢合わせた。
「あ、陽介さん」
「聖か。渉は?」
 取り乱している様子はない。少しだけホッと息をつく。
「渉ちゃんなら奥の病室で休んでいます。……過呼吸だったみたいで。処置を受けたので、今は落ち着いています」
「過呼吸」
 つまり渉が倒れたのは病気のせいではなかった。だけど、過呼吸は緊張や不安でなると聞いたことがある。オレを探していただけで、そんなことになるのだろうか。
「渉ちゃんの病気のこと聞きましたか?」
「いや」
 聖は俯いて口を開かない。
「……そんなに悪いのか?」
「わたしからは話せません。渉ちゃんも話すなら自分で話したいと思うので。わたしは談話室でお母さんに電話してきます。陽介さん。何を話すつもりか知りませんが、渉ちゃんのこと傷つけたりしたら、わたしが許しませんから」
 聖はきつくオレを睨んできた。美玖といい、すっかり渉の周りの女性から嫌われてしまった。
「ああ。分かった」
 聖と別れて病室に向かう。二つベッドが並んでいたけれど、一方は空いていて、もう一方はカーテンが閉じられていた。
 近づいていくと中から渉の声がした。
「聖? もう電話終わったの?」
「渉、オレ。陽介」
 少しだけ「あっ」と息を飲む音がする。出来るだけ落ち着いた声を出すようにして尋ねた。
「カーテン、開けていい?」
「ちょっと待って。……うん、いいよ」
 ゆっくりとカーテンを開けると、渉は上半身を起こして髪を撫でつけていた。
「起きて大丈夫か?」
「うん。……えっと救急車とか大げさだったけど、ただの過呼吸だったし。もう、落ち着いているから」
 そんなことはないだろと言おうとしたが寸前で止めた。渉を蝕む病気からしたら、過呼吸は『ただの』なのかもしれない。
 オレは黙ったまま、ベッドの横にある丸イスに座る。
「聞いているかもしれないけど、わたし肺がんなんだ。余命とかも一年ぐらいだって。……陽介のこと巻き込みたくなくて。だから、さ」
 渉が小さく笑う。どう見ても無理していた。
「渉が倒れて美玖に言われた。簡単に離れるなら、最初から付き合うなって。その通りだと思った。だから……」
 ダメだ。これじゃ美玖に言われたから、渉の側にいようとしているみたいだ。
 そう伝わったかは分からないが、渉は手の平を見せて横に振る。
「あ! 責任とか感じなくていいよ。うん。ほら、たまたま病気が分かったときに陽介と付き合っていただけっていうか」
 思った通り、渉はオレから離れようとする。――それじゃダメなんだ。
「……オレ。アニキに会ったから知っていると思うけど、渉の家みたいに家族が仲いいって訳じゃなくてさ。親からの愛情ってやつを感じたことがほとんどなかった」
 いきなり家族の話をし始めたオレに渉は眼を瞬かせた。オレ自身も何を言いだしたんだって感じだけど、渉には聞いて欲しい。
 逃げ出さないように、ベッドの上に置かれている手をそっと握った。少しうつむきながら、話していく。
「彼女がコロコロ変わったけど、そこでもそういうの感じなかった。たぶん彼女たちが悪いって訳じゃなくて、オレがちゃんと受け止められるような人間じゃなかったんだ」
「そんなこと……」
「だけど渉はオレのこと大事にしていたんだって、やっと気づいた。……遅くなったけど。だから」
 顔を上げると、渉は口元を押さえて涙を流していた。
「違う、違うのッ……!」
 嗚咽を漏らしながら言う渉。
「渉、あんまり興奮しちゃ」
「病気で迷惑かけるから遠ざけようとしているのなんて、かっこつけているだけだから!」
「かっこ?」
 よく分からないけれど、とにかく渉を落ち着かせないといけない。少し近づいて、背中を撫でる。
「……かっこつけるのが悪いのか?」
「だ、だって、陽介の前じゃいつも可愛くいたいもん。今だってメイクも髪もめちゃくちゃで最悪」
 すごく健気な言葉で、それだけで渉って可愛いなと思う。
「治療とかしたら、わたしのままじゃ居られないのは確実で……。でも、それでも陽介のこと好きだから、気持ちだけは伝えないとって、陽介のこと探していたの。でも」
「……でも?」
「走っていたら息が苦しくなったの」
 渉は胸の辺りを空いている手で握りしめる。
「走ったら息が切れるのなんて当然だけど、すごく怖かった。もしかしたら、わたしの肺がちゃんと呼吸していないんじゃないかって……」
 それでパニックになって過呼吸になった。とても苦しかっただろう。背中を撫でる手をもっと優しくした。
「怖かったな」
「……初めて本当に死んじゃうんじゃないかって思った。陽介に好きって言えば良かったって。――でも、こんなの重すぎるよ。本当は可愛いままでいたい。陽介には良いとこだけ見て欲しい。だけど、まだ治療もしていないのにあんなに取り乱してさ。絶対、嫌なとこ見せるに決まっているし! でも、山崎はそれだけ陽介が好きだってことだって言うし!」
 ハァハァと息を荒くした渉をオレは黙って見つめる。また一筋涙が頬を伝う。
「ごめん。ぐちゃぐちゃで……」
 オレは立ち上がった。そのままゆっくりと腕を伸ばして、渉の身体を包み込む。
「でも、オレ分かったんだ。渉ほどオレを大事にしてくれる人って居ないんじゃないかって」
「……聞いてた? わたし、自分の為に離れたんだよ? これからも側にいたら八つ当たりすると思うし」
「自分の良いとこだけ見せるのなんて、どんな恋人同士だって無理だろ」
「でもッ!」
「付き合っている期間なんて、ほんの少しだし、渉のことだって深く知らないかもしれない。でも、間違いなくオレは渉のことが好きなんだよ。だから、ここに来たんだ」
 腕の中の渉の身体が震えた。
「渉はオレのことが好きで、オレは渉のことが好き。一緒にいる理由ってそれ以上にいる?」
 身体を少し離して、渉の顔を見る。その金色に輝く前髪を後ろに撫でつけて、潤んだ瞳を現わせた。
「オレを渉のものにして、離さないでよ」
「ッ! うん……!」
 再び抱きしめた渉の身体はすごく暖かかった。