山崎の気持ちは痛いほど伝わって来た。
 きっと山崎は小説を書かない。本当は小説の方が手段で、わたしやみんなと話をすることが目的だったんだ。
言っていたことも理解出来た。
 それでも、わたしの心はその言葉を拒絶していた。
 わたしはきっと未来が怖いのだ。がんばっても失敗するのが怖い。一度も失敗出来ない。実際に病気と戦うのは一人きり。
 目の前の手術や治療のことを考えるだけで、こんなにも不安になる。
 それに、もし奇跡的に上手くいって、わたしも普通に生活できるようになるとしたら。
 そう考えるだけで、知らない森の奥に迷い込んだような気分になった。きっと、わたしが生活できるようになる頃には、この学校には友達も誰もいない。もちろん最強の女子高生なんかでもない。仮に何とか卒業出来ても、大した肩書にはならないだろう。
 そもそも、わたしにはやりたいことなんてないし、将来のことなんて想像出来ない。元々、存在しないんだから、唐突に出来るわけがなかった。
 こんなんだから、いろいろ山崎に見破られるんだ。

 木曜日はホワイトデーだった。わたしと陽介が付き合い始めて、ちょうど一か月だ。
「渉、これバレンタインのお返し」
 昼休み、陽介は教室の片隅でお菓子の箱を渡してきた。美味しいと評判の店の物で、たぶん中身はクッキーだ。
「ありがとう、陽介。あ、わたし購買部にノートを買いに行かないといけなんだ」
 わたしはお菓子の箱を持ったまま、教室を出て行く。ノートを買いに行くなんて、もちろん嘘だ。陽介も以前なら一緒に行こうかと言う所を何も言わずに見送っていた。
 わたしと陽介は着実に離れていっている。距離的にも、心的にも。
 何だかぎゅうっと胸が痛んで、階段の踊り場でしゃがみ込んだ。
 わたしは離れないといけないから、出来るだけ近づかないようにしている。
 でも、陽介も同じようにするとは思わなかった。陽介は察することが上手いから、もしかしたらわたしの様子から、何となくそうした方がいいと思ったのかもしれない。
 それとも他に気になる子が出来て、わたしとは別れたいと思ったのかも。そう思うとずんと尚更胸が重くなる。
 でも、その方がわたしにとっても、陽介にとってもいいんだ。
 わたしは重くなった気持ちを散らすためにブンブンと首を振った。付き合う期間が短い陽介も、一か月とちょっとなんて新記録に違いない。それでも付き合っていたことには違いないし、間違いなく一緒に過ごしていた時間は心地よいものだった。
 よし、と気合を入れて立ち上がる。大丈夫。上手くいっている。
 わたしはフェードアウトしていくけれど、きっと陽介の中でも悪くないものだったって思ってくれるはずだ。
 家に帰って、夕食を食べて部屋でのんびりしていたらドアをノックする音がする。
「渉ちゃん。お父さんがわたしたちにって、ケーキ買って来てくれたよ」
 聖がひょっこりと顔を出した。
 わたしは小さいチョコだけどお父さんにバレンタインに渡していたし、聖と茜さんも渡していたことを知っている。きっとホワイトデーのお返しだろう。
「うん。いま降りるよ。あ、そうだ」
 わたしは鞄の中から箱を取り出す。
「これ陽介から貰ったんだよね。みんなで食べよう」
 聖はポカンとした顔でわたしのことを見ていた。けれど、すぐにわたしの肩を掴む。
「渉ちゃん。わたし下からケーキとお茶を持ってくるから、部屋で待っていて!」
「う、うん」
聖は慌てた様子で、お盆にケーキと紅茶の入ったティーカップを持ってきた。それをテーブルに並べていく。
「渉ちゃん。今日どうしてホワイトデーなのに陽介さんとデートしてこなかったの? 今日、六時ぐらいには帰って来ていたよね?」
 紅茶に口を付けていると、聖が身を乗り出して聞いて来た。
「どうしてって、陽介にはお返しのクッキーもらったし」
「でも! 陽介さんと渉ちゃんはバレンタインに付き合い始めたんでしょ!? 付き合い始めて一か月の特別な日じゃない! それなのに……」
 聖が言いたいことはよく分かる。普通の恋人同士でも、ホワイトデーは特別だ。放課後、カップルで帰る人たちも多くいた。わたしと陽介のようにバレンタインに付き合い始めたなら、特別なことをするのが普通だろう。
「うーん……。わたしたち、今微妙な関係だからかな」
「微妙な関係って?」
 誤魔化しても仕方ないので、チョコレートケーキにフォークを入れながら素直に白状する。
「ほら。わたし病気だから、そろそろ別れた方がいいかなって。だから、なるべく距離取っていたら、陽介も察したみたい」
「うそ……」
 聖は絶句している。
「そんな、この世の終わりみたいな表情しなくても。これは自然なことだよ」
「だって、わたし……、あんな優しい人が、渉ちゃんの側にいてくれて、良かったって、すごく、思っていたのに……」
 心底落ち込んでいる聖にわたしは少し申し訳なくなってくる。わたしが頼ることが出来る人が少ない分だけ、家族への負担が多くなってしまうだろう。
「ごめん、聖。ほら、陽介とは付き合いは浅いし、あんまり巻き込みたくないんだ。聖たちには重荷に感じちゃうだろうけど」
「そんなの! 全然、重くないよ!」
 聖が大きな声を出すので、わたしは驚いてしまう。
「わたしは病気とか抜きで、二人が仲良く笑っているのが好きだったの。渉ちゃん、言っていたじゃない。陽介さんといる渉ちゃんは一番可愛い自分だって。それ聞いてわたし、本当に陽介さんが好きなんだって思った。そばで見ていて恥ずかしいこともあったけれど、渉ちゃんが本当に好きな人と一緒にいて、すごく嬉しかったの……、なのに……」
 聖の瞳からはポロポロと涙が落ちていく。
 ――そっか、わたしって本当に陽介のこと好きだったんだ。
 聖が泣く様子を見て何となくそう思った。聖が見て来たわたしたちなんて、ほんの一瞬だ。それでも、わたしは幸せそうに見えたんだ。
 人に伝わるほどの幸福感なんて、どれだけ陽介しか見ていなかったんだよ。
「うん。ごめんね、聖。相談もしないで勝手に決めて」
 わたしの為に泣いてくれる聖に肩を寄せた。
「でも、聖がいてくれて良かった」
 じんわりと目の端に涙が溜まる。ぎゅっと目をつぶって、流さずに堪えた。

 ホワイトデーが終ると、日曜日はすぐにやって来た。日曜日はクラスのみんなと聖とで遊園地に行く日だ。
「あ! 渉! こっち、こっち!」
 美玖がわたしを見つけると手をあげた。集合場所の駅の改札の前には、クラスメイトたちが既に集まってきている。
「……いいのかな。本当にわたしも一緒で」
 いつもは二つ結びをしている髪をお団子にした聖が横で不安そうにつぶやく。確かに高校生ばかりの中に、一人だけ中学生が混じるのはわたしでも物怖じしそうだ。
「大丈夫だって。みんなで遊園地に行くって言っても、ずっと団体行動なわけじゃないし。いつもわたしが隣にいるしさ。じゃあ、みんなに紹介していくよー」
 わたしは聖を連れて、みんなの所へ。一年前にお父さんが再婚して出来た義理の妹だと紹介する。
「この前ちょっとだけ会ったよね。わたしは美玖。どうりで渉がウチにばっか来ると思った。渉って、ほら。変なところで意地っ張りでしょ? 側にいるこっちが、大変だよねー」
 邪魔にならないようにか、いつもは下ろしている長いゆるふわの髪をポニーテールにしている美玖が言う。
「美玖にそんなに迷惑かけてないし!」
「えー? そうかなー」
 じゃれていると、聖がクスリと笑う。
「渉ちゃんの親友って感じだね」
 わたしと美玖は顔を見合わせた。聖の緊張は解けたようだ。
「おはよう。みんな、早いね! ……渡辺さん、足寒くない?」
「えー?」
 やって来た山崎が一番に足のことを指摘する。厚手のジャケットを羽織っているけれど、足はデニムのショートパンツでタイツも何も履いていない。今日は三月にしては暖かいらしいから大丈夫かなって思ったんだけど。
「だって、スカートだと絶叫系とか乗れないじゃん」
「いや、でもそれなら聖ちゃんみたいに長いズボンで……」
「なになに、山崎ー」
 なおも文句を付けて来る山崎の肩に美玖の手が乗る。
「渉の生足がそんなに気になるの? ドキドキしちゃう?」
 一拍おいて、山崎の顔が耳まで赤くなった。
「え!? いや、僕は寒くないかと思って!」
「あれー? 別にいやらしい目で見ていたなんて、わたしは言ってないけどなー」
「いや、その、い、井川さんッ」
 いじってくる美玖に山崎はたじたじだ。その様子を見て周りのクラスメイトたちも笑っている。少し前までは想像出来なかった光景だ。
 でも、あれ? と思う。
「どうしたの、渉ちゃん」
 キョロキョロしていたら、聖に気づかれた。
「ううん。何でもない」
 集合時間を過ぎたのに陽介が来ていない。陽介は意外と時間に正確で、約束の時間に遅れて来ることなんてほとんどなかった。
「そろそろホーム行こうー」
 電車の時間は決まっているから、みんな移動していく。もちろん学校行事ではないから、点呼なんて面倒なことはしない。
 どうしたのだろう。急に予定でも入ったのだろうか。それとも、来る途中で事故にでも……。いつ、誰に、何があってもおかしくないことは、身をもって知っている。
「ね、ねえ!」
 電車に乗る直前にわたしは誰にでもなく声を上げた。そのときだ。
「良かった! 間に合った!」
 後ろから聞き慣れた声がする。振り向くと陽介が階段を駆け下りて来ていた。いつもはきっちりセットされている茶色い髪が少し乱れている。
「陽介遅いぞ。もう電車来るとこじゃん」
 男子が声を掛けた。
「わりぃ、わりぃ! 遅くなった! ちょっと寝坊して朝飯買っていてさ」
 陽介はコンビニの袋をぶら提げていた。
 なんだ、寝坊しただけか。わたしはほっと息を吐く。
「渉ちゃん……、大丈夫?」
 隣にいる聖が気づかわし気に声をかけて来た。
「あー……、気にしているのバレた? でも、大丈夫! せっかくだから今日は楽しむことだけ考えよう!」
 入院する前の最後の遠出になるだろう。出来るだけ聖たちに気を使わせないようにしないと。そう思いながら、ホームに入って来た電車に乗り込んだ。

 わいわい、がやがや。
 みんなで楽しく会話をしながら電車に揺られる。
 日曜日の朝だからか、他の乗客は少ない。駅に着いたら遊園地のシャトルバスに乗り換えた。ほぼクラス全員だから、一度には乗れなくて、半分ぐらいずつに分かれる。陽介は前のバスに、わたし達三人は後のバスに乗った。
 そして、集合した駅から一時間後――
「あ! 見えて来たよ!」
 バスの窓の外を美玖が指さす。良く晴れた青い空の下、山間からにゅっと伸びている白いレールがある。山の影に隠れて遊園地の全貌は見えない。それだけジェットコースターの到達点は、他のアトラクションと比べて高いということだ。
 もうすぐ乗れるという高揚感でワクワクしてくる。
「やっぱりジェットコースターには三回は乗りたいかな!」
「えーッ! 三回とか絶対無理! というか、一回でも無理!」
「わ、わたしも絶叫系は……」
 聖と美玖は結託して、「だよねー、三回とか渉おかしいよねー」と言っている。この様子だと一回は無理やり連れて行けるかもしれないけれど、二度、三度目は抵抗されそうだ。
 いくらジェットコースターに乗りたくても、一人では乗りたくない。
 うーんとどうしようかと唸っていると、つり革に掴まっている山崎が話しかけてくる。
「渡辺さん。僕で良かったら、ジェットコースター何回でも付き合うよ」
「え! 本当!?」
「ほら、渡辺さん。小学生のときに身長制限で乗れなくてガッカリしたって言っていたじゃない。今度はガッカリしないようにさ」
「やった!」
 これだけ自信持って何度でもって言うなら、十回ぐらい乗っても平気だよね。どうやら満足いくまで遊園地を楽しめそうだ。
 バスが遊園地に着くと、前のバスに乗っていたクラスメイトたちが待っていた。遊園地のキャラの着ぐるみと写真を撮っている。
 誰かが大きな声で言う。
「ねー! みんなで写真撮ろう!」
 大きなモニュメントの前で集まって、遊園地のキャストの人に写真を撮ってもらう。
 その後は、バラバラといくつかのグループに分かれてアトラクションに向かいだした。やっぱり、わたしたちと陽介は別で、男子三人で回るようだ。
「わたしたちも行こ!」
 少しだけ陽介に気を取られたけれど、わたしは三人に声をかける。聖が嬉しそうに「うん!」と返事をした。思えば聖と遠出したことも、再婚前に数えるほどしかない。今日はめいいっぱい楽しむことにする。
「じゃあ、まずはジェットコースター!」
「えっ……」
 バラバラに散っていったはずなのに、大体みんなジェットコースターに集まった。まずは最初に乗っておこうと思うのは、みんな同じのようだ。
「わたし、苦手だって言うのにー」
「大丈夫かな……。吐いたりしないかな……」
 わたしがせっかくここまで来たのだから一回は乗ろうと、半ば強引に連れて来た美玖と聖は非常にナーバスだ。
「さすがに吐かないって! なんなら目をつぶって、爽快感だけ味わえばいいじゃん!」
 そう言って励ましていると、少し前の方に並んでいる陽介と目が合った。すぐに目をそらされて、チクリと胸が痛む。
 きっと一緒に来た聖のことを気にしているのだろう。陽介は優しいから。
「早く順番来ないかなー」
 少しだけ無理に笑う。
 ジェットコースターの行列はやっぱり長くて、じりじりとしか進まない。結局三十分ぐらい並んだけれど、おしゃべりしていたから体感的にはもっと短く感じた。
「どうぞー。レバーは自動で降りてきまーす」
 本当は一番前が良かったけれど、順番で真ん中辺りに乗り込む。また山崎と乗るときに先頭に乗れればいいな。
 わたしたちが乗ったコースターがレールの高いところに、ゆっくり、ゆっくりと登っていく。怖さよりも断然ワクワクの方が勝っていた。隣の聖は肩のレバーを握って、固く目をつぶっているけれど。
 頂上まで来たけれど、中々落ちないなと思った次の瞬間だ。ふわっと宇宙に投げ出されたような浮遊感を感じて、地面に迫っていく。
「きゃあああッ!」
 わたしは笑顔で両手を上げた。そのまま、猛スピードで振り回されて一回転。正確な時間は分からないけれど、ものの二、三分ぐらいだろうか。すぐに乗り込んだ場所に帰って来た。
「楽しかったー!」
 出口から出て来て、空に向かって大きく伸びをする。この日常では絶対に味わえない振り回される感覚が好きなのだ。
「はー……。最初は怖かったけど、気づくとあっという間だったねー」
「わたしも目を閉じていたら意外と平気でした」
 渋っていた美玖と聖も足取り確かに余裕な表情をしている。それを見て、わたしは瞳を輝かせた。
「じゃあ、このままもう一回行く!?」
「「絶対、嫌」」
 声をそろえて言わなくても……。でも、山崎なら何回でも付き合ってくれる。
「ねー、山崎は――」
「う……、うぷ……」
 笑顔で振り返ると、山崎は壁に手をついて俯いていた。
「ご、ごめん。思ったより速くて……、うっ」
「「えー……」」
 思わずわたしと美玖の口から失望が漏れ出た。あれだけ何度でも一緒に乗ると豪語していたのに、この体たらく。この絶叫系の弱さ。
 聖だけが「大丈夫ですか」と駆け寄って、背中をさすった。
「仕方ないなぁ。これだけ絶叫系がダメなメンバーで、一回でも乗ったからよしとするか」
「いや、渡辺さんがまだ乗りたいなら」
「そんな真っ青な顔した奴と乗っても楽しくないからッ!」
 山崎は「ごめん」とこぼして、肩を落とした。その肩を美玖がバシッと叩く。
「ほらほら! そんな顔していたら、雰囲気悪くなるじゃん! 今日は渉を楽しませるために来たんでしょ?」
「え……」
 美玖の何気ない言葉にわたしたち三人は眼を瞬かせた。その表情を見て、今度は美玖の方が首を捻る。
「だって、絶叫系苦手でも渉が乗るなら何回でもーってことは、渉を楽しませたいってことでしょ?」
「あ、うん。そうだよ。だって、ほら。渡辺さんは小説の主人公だし! やっぱり、主人公が楽しむことが小説の最重要要素だからね!」
 山崎がわたしの顔色を見ながら無理やり誤魔化した。もしかしたら、知っているんじゃないかと一瞬思ってしまった。
 ――結局、まだ美玖に病気のことは話していない。
「そうだよ、山崎。今日はとにかく楽しい顔だけすること! 絶叫系じゃなくても、楽しい乗り物いっぱいあるしさ! ほらほら!」
 少しだけ無理に元気を出す。わたしは山崎の後ろに回って、グイグイと背中を押した。
「わ、分かったよ。だけど、押さないで。まだ、足元がふわふわしていて……うっ」
 わたしたちは近くの自動販売機で飲み物を買って、小休憩してから本格的に遊園地を楽しみ始めた。

 まだ本調子じゃない山崎のことを考えて、次はメリーゴーランドに乗る。乗った木馬が上下するだけで喜ぶほど子供じゃないけれど、中々映えた写真を撮ることが出来て意外と満足度は高い。
 コーヒーカップでは、わたしと山崎、美玖と聖に別れて乗った。聖はすっかり美玖と打ち解けている。
 さすがわたしの妹と親友だ。通じるところがあるのかもしれない。
 だけど、わたしと乗った山崎はそんなに回転させていないのに、また酔ってふらふらになっていた。
 他にも二つ、三つとアトラクションを楽しんだ。
 時間を見ると、ちょうど十二時前なのでお昼ごはんを食べることにする。遊園地の真ん中辺りにあるフードコートだ。屋外だから少し肌寒いけれど、お昼時ということで賑わっている。
「買ってきたよー。はい。渉のカレーに、聖ちゃんのホットドッグ」
 美玖はわたしと聖の前に、それぞれ頼んだものを置いていく。わたしと聖が席を取っておいて、山崎と美玖が買いに行ってくれたのだ。
「ほらほら、山崎。渉の隣に座りなよ!」
「う、うん……」
 何故か美玖が山崎を強引にわたしの隣に座らせた。まあ、誰が隣でもいいんだけどね。
「それじゃ、いただきまーす」
「あ! 食べる前にみんなで写真撮ろう!」
 顔を寄せ合って、美玖が腕を伸ばして写真を撮る。山崎と聖は少し表情が硬いけれど、いい写真が撮れた。
「じゃあ、クラスのグループに送るよー」
 スマホを操作しながら言う美玖の言葉で思いだす。遊ぶことに夢中だったけれど、クラスのグループチャットには続々と写真が送られて来ているようだった。
「一緒に見よう、聖」
 わたしはスマホを聖にも見えるように傾ける。聖も少し身体を寄せて来た。ほとんど写真ばかりで、スタンプもコメントもない。指でなぞりながら、グループに投稿された写真を見ていく。
「あ! 窪田たち、ゴーカート乗ってる! わたしたちも後で行こう!」
 美玖が羨ましそうに見ているのは、男子二人が赤と青のカートに乗ってレースをしている写真だ。二人は遊びとは思えないほど、本気の顔をしている。次の写真を見ると、二人でぶつかって動けなくなっていた。思わず聖と一緒に「あははっ」と笑う。
「あれ? 浅倉さんたち、変わったもの食べているね」
 山崎が首を捻る。浅倉の写真を見ると、大きな口を開けてスティック状のお菓子を食べようとしていた。よく遊園地や映画館に売っているやつだ。
「チュロスだね。カリカリで美味しいよ。ソフトクリームも売っているみたい」
「ここも後で行こうね、渉ちゃん」
 みんな、楽しそうにしている。ただのわたしの思い付きだったけれど、あのとき遊園地に行きたいって言ってよかった。
「他には、……あ」
 わたしは思わず指を止めた。
 そこには陽介がジェットコースターの行列で、クラスの積極的な女子に腕を掴まれて写っている。
「どうしたの、渡辺さん」
「げっ……」
 わたしと聖が固まっていると、山崎と美玖もわたしのスマホを覗き込んできた。慌てて指を動かして、他の写真に変えた。
「あ、あはははっ。みんな、すごく楽しんでいるみたいだね!」
「渉ちゃん、無理して笑わなくても」
「無理? 無理なんてしてないよ? ほら、それよりご飯食べよう。わたしのカレー冷めちゃう」
 わたしはプラスチックのスプーンを口に運ぶ。カレーはまだ冷めていかったけれど、少しだけ甘すぎた。もっとピリリと、わたしの眼を覚まさせて欲しい。
 陽介が他の子と写っていても、何一つショックに思う必要はない。なるべくわたしのことを忘れて欲しいんだから、むしろ歓迎すべきことだ。
「ほら、みんなも食べて!」
 わたしがそう言うと、三人も食事に手を付け始める。
「えっと、渡辺さん。他に食べたいものある?」
 山崎がハンバーガーを食べながら聞いて来た。指折り数えて考えてみる。
「そうだなー。やっぱりソフトクリーム食べたいかな。あとチュロスでしょ。あ! この遊園地限定の中華まんが売っているってSNSで見たよ!」
「渉ちゃん、食べすぎだよ」
 クスクスと笑う聖。少しだけ暗くなっていた雰囲気が和らいだ気がする。
「渉!」
 わたしがカレーを食べ終わったとほぼ同時に、突然美玖が立ち上がった。
「え。どうしたの、美玖?」
「聖ちゃん、山崎、ごめん。これから渉とわたしで観覧車乗って来るね。渉ッ! 行くよ!」
 美玖はわたしの腕を強引に引いて、立ち上がらせる。
「え、ちょ、ちょっと待って」
 グイグイと美玖に引っ張られていく。振り返ると聖と山崎は少し驚いている様子だけれど、追いかけて来る様子はない。
「美玖、観覧車って……」
「わたしと渉。二人だけで話した方がいいと思って!」
 ――話した方がいい。
 ドキッと心臓が跳ねた。まだ、美玖には病気のことは話していない。

 わたしと美玖は、ほとんど待たずに赤い観覧車に乗り込んだ。
「一周するのに十五分だって。思ったよりすぐだね。じゃあ、さっそく本題に入るよ、渉」
 美玖はドアが閉められた途端に、少し早口で言う。わたしは苦笑しつつ、美玖の向かい側に腰を下ろした。
「渉、やっぱり陽介とは合わなかった感じ?」
 美玖は直球で聞いて来る。これが美玖以外だったら、「やっぱりって何だよー」と茶化して返すかもしれない。
 でも、美玖はわたしが以前陽介のことをどう思っていたかよく知っている。
 わたしが少し返答に困っていると、美玖は「やっぱりね」と勝手に納得してつぶやく。
「いくら褒めてくれたって言っても、陽介があんだけ浮気性だと嫌になると思うよ」
「えっと、そんなことはないけど……」
「だって、渉とは微妙な感じだけど、別れてはいないんでしょ? それなのに、もうあんなにベタベタしているじゃん! 本当、信じらんない! 渉! あんな奴気に掛ける必要ないよッ!」
 美玖はクラスメイトとしては陽介と仲良くはしているけれど、わたしが陽介に告白すると言ったときには良い顔をしなかった。
 ただ美玖だけでなく、わたしも好きになる前は陽介のことをあまり良く思っていなかった。というより、美玖より毛嫌いしていたかもしれない。
 陽介はカッコいいし誰にでも優しいから、よくモテたのも分かる。けれど、それと同時に嫌いだと言う子も少なからずいた。
 陽介はとにかく彼女がコロコロとよく変わる。季節の変わり目には隣にいる子は必ず違ったし、高一の夏が終わるころには学校全体にそのチャラさは周知されていた。入学式のときにはカッコいいと騒いでいた子も、陰であいつ感じ悪いと言っていることも耳にすることも。
 わたしは子供のときからお父さんとお母さんのような恋愛をしたいと思っていた。二人は高校の同級生で、同じ電車通学。お互い気づいていたけれど、目を合わせるのにも照れて話すことが出来ず、卒業式の日にやっと話しかけることが出来たという純愛だ。
 わたしは中学のときから彼氏はいたし、これほど奥ゆかしくない。
 それでも、やっぱり陽介ほど気持ちが移ろいやすいというのは、話に聞いていて気持ちのよいものではなかった。
 だから、高二になったときのクラス替えで陽介と一緒になって、ちょっと嫌だなと思った。だからなるべく近づかないようにしていた。
 女の子たちが常に陽介のそばに居て、陽介も軽い調子で受け答えしている。そのうち、その中の一人と付き合って、三か月ほどしてあっさりと別れた。そしてまた違う子と付き合う。その繰り返し。
 もちろん教室にいるときは表情にも出さなかったけれど、美玖と二人のときだけ「あれってどうなの」と関係もないのに愚痴っていた。
 転機があったのは夏休みに入る少し前だ。
 その日の放課後、美玖と遊びに行く約束をしていた。でも、学校を出る前に美玖が部活の先生に呼び出される。戻って来るまで、わたしは教室の片隅で暇を持て余していた。
「あれ? 渉、一人で何しているんだ?」
 声を掛けられて顔を上げると、教室の前のドアで陽介がこちらを見ていた。
「美玖が呼び出されたから待っているだけ」
 面倒だなと思いつつも答える。
「あ! オレもなんだ! オレも補講の坂本待ってんだ」
「いや、美玖は補講じゃないし……」
 話している間に、窓際に立っていたわたしの所にまで歩いてきた陽介。もしかして、一緒に待つつもりなのだろうか。と、ちょっと眉をひそめる。
「あ。ガム食べる?」
「ああ、うん」
 わたしは差し出された板ガムを受け取る。気を使われた気がした。
 こいつ、嫌な奴ではないんだよな。浮気性が過ぎるってだけで。
 そんなことを思いながら、マスカット味のガムを噛み締める。黙って噛んでいると、横から何か言いたげな視線を感じた。
「えっと、……なに?」
 わたしをじっくりと見つめて来る陽介に少し苛立っている視線で返す。
「渉ってさ。金髪、しかもショートが似合うと思うんだよね」
「は?」
 なんの脈絡もなく、いきなり何を言いだすのだろう。
 このときのわたしは髪色を明るくはしていたけれど、金髪というほど明るくはない。それに長く伸ばしていて、念入りにトリートメントして気を使っていた。金髪なんかにしたら痛んでしまうじゃないか。
「いや、しないけど。でも、……金髪似合う? なんでそう思ったの?」
 髪の先をつまんで理由を聞いてみる。
「だってさ。渉、いつも爪も綺麗にしているじゃん?」
「爪?」
 なんで髪の話からネイルの話に飛ぶのだろう。思わず手を広げて自分の爪を見てみる。
 高一の頃はメイクに念を入れていたけれど、高二になってからは爪にもこだわりを持つようになった。綺麗に磨くことはもちろん、この日のネイルも夏らしいエメラルドグリーンの海をイメージして塗っている。ただ一色で塗るだけじゃなくて、グラデーションにしたり、ネイルストーンも使ったりしてキラキラにしていた。
 その指を陽介が覗き込むようにして、そっと掴む。
「今日とかもすげーもん」
「これぐらい普通だよ。みんなも爪に気合入れてるって」
「でも、毎日こんなに凝ったのしているの渉だけだと思うけど? もっと自慢していいって!」
 すぐ近くで陽介がニッカリと笑う。その真っ直ぐな笑顔に頬が熱くなる。
「……ありがと」
 つい横を向いて誤魔化した。
 確かに良く出来たと思う日でも、自慢することはほとんどない。授業中に指先を見て、自己満足でニヤニヤするだけだ。
 それを褒められるなんて。嬉しいと思うと同時にどこか気恥ずかしい。
「ていうか、金髪関係なくない?」
「ああ。そうそう、それでさ。爪が綺麗だけど、髪も綺麗じゃん。せっかく爪が綺麗でも、大体の人は髪に目が行っちゃうと思うんだよね。だから、髪を短くして爪に目が行くようにした方がいいんじゃないかってさ!」
「……でも、それなら短くするだけでいいじゃん」
「せっかく短いのなら、より可愛い方がいいじゃん。この前、街で金髪ショートの人とすれ違ったんだけど、その人より渉の方が似合うと思って! 渉、小顔だしさ」
「ふーん」
 結局、金髪が似合うと思ったのは陽介の感性だったようだ。
「なッ!」
 また陽介は天真爛漫に大きな笑顔を見せた。
「考えてみる」
 わたしは陽介に掴まれていた指を抜き取る。平静な顔をしていたけれど、心臓はドキドキとうるさかった。
 このとき、陽介という人間を理解した気がする。
 陽介は無邪気に相手を褒める。上っ面じゃなくて、ちゃんと人を見て、その人が大事にしていることを見抜くのだ。
 その上、優しくて、明るくて、笑顔が可愛くて――。
 近くにいれば好きにならないはずがない。こうやって、女の子たちは虜になる。
 わたしは、次の休みには美容室に行き、髪を金色のショートにする。いきなりのことに家族はもちろん、美玖も驚いていた。ドキドキしながら学校に行くと、陽介は「な! 似合うっていっただろ?」と軽い調子で褒めて去っていく。
 ――あいつは気が多い、止めておけ。
 そう脳が言うけれど、気持ちは止まらない。
 美玖にも呆れられるほど、百八十度真っ逆さま。完全に恋に落されていた。
 放っておいたら、周りにたくさん人が集まるから、たまにしか陽介はわたしに話しかけてこない。絶対に自分から行かないといけなかったんだ。


 美玖は少し興奮気味に話す。
「だからさ! あんな浮気性のことなんて、さっさと忘れちゃいなよ! ほら、ちょうどいいって訳じゃないけど、山崎ってさ! どう見ても渉のことが好きじゃん!?」
 やっぱり傍目から見ても、そう思うんだ。少し前に告白のようなことをされて、誤魔化したけれど……。思わず、はははと乾いた笑いを浮かべる。
 美玖の力説は続く。
「確かにちょっと見た目はダサいけど、頭はいいし。何より渉のことに一生懸命だし! そこはポイント高いと思うんだ。さっき、山崎にもっと頑張れって後押ししておいたし! さすがに陽介みたいにはならないだろうけど、見た目はこっちで整えればいいんだしさ!」
「あー。そっか彼女が服とかどうにかすれば、山崎も案外モテるかもね」
 わたしは山崎の私服を思い浮かべて、つい頷く。よくあるチェックのシャツにダウンジャケットとモテない理系の大学生みたいな雰囲気だった。髪もちゃんとセットされていない。もっと小綺麗にすれば、見直す女子はたくさんいるだろう。
「でも、ごめん。美玖」
「確かに渉、すっごく陽介のことがんばっていたから、諦めきれないかもしれないけどさ。わたしも、これ以上は黙っていられないっていうか」
「美玖、そうじゃないんだ。ごめんね、美玖。黙っていて、……ごめん」
「……なんでそんなに謝るの、渉」
 様子がおかしいと思ったのだろう。美玖の興奮が冷めていくのを肌で感じる。
「実はね――」
 わたしはゆっくりと病気のことを話した。
「うそ、だよね。……渉」
 美玖の身体は小さく震えている。目にも薄っすら涙が溜まっていた。
「わたしが美玖にこんな質の悪い嘘つくわけないじゃん」
 安心させるように少し笑ったけれど、逆効果だったみたいで、わっと美玖は泣き出してしまう。
「そんな! だって渉、まだ高校生じゃん!?」
「年は関係ないんだって」
「でもッ! せっかく……!」
 嗚咽を漏らしながら美玖は言葉にならない音を吐き出す。わたしは「ごめんね」と言って背中をさすることしか出来ない。
そうしていたら、少しずつ美玖の呼吸も落ち着いてきた。
「……ごめん、渉。取り乱して、渉の方が辛いのに……」
「ううん。なんか持つべきものは美玖だなって思った」
「なにそれ!」
 顔を見合わせて少しだけ笑う。
「四月から入院するからさ。暇だろうから、話し相手になってよね?」
「もちろん。……聖ちゃんはもちろん知っているよね。山崎も?」
「うん。なんか速攻バレちゃった。みんなにはギリギリまで黙っていようって思っていたのにさ」
「そっか。あのさ、……ううん。何でもない」
 美玖は何を言おうとしたのか、何となく分かった。
――きっと陽介のことだ。ふと窓の外を見ると、地面が近づいて来ていた。
「あ。もう観覧車終わりみたい。結局、景色全然見なかったね」
「後で、また乗ろう。みんなで」
 わたしと美玖は観覧車を降りる。聖と山崎のところに戻ろうとする。
「渡辺さん、井川さん」
 観覧車の出口で山崎と聖が待っていた。二人とも美玖の顔を見て、少し驚いていたけれど、すぐに笑みを浮かべる。
「渉ちゃん、お話出来た?」
「うん」
 きっと何を話してきたかなんて、二人には分かっているだろう。
「あーあ、すっかりメイク崩れちゃった! ちょっとトイレ行って直してくるから、聖ちゃん付き合って!」
「あ、はい」
 美玖は聖を引き連れて行く。残されたわたしと山崎は、観覧車の柵にもたれかかった。
「……美玖に病気のこと話したよ」
「そっか。うん。……井川さんには話しておいた方がいいと僕も思うよ」
 しばらく二人とも黙って、目の前を行き交う人たちを見つめる。
 キャラクターの風船を持った子供たちが駆けて行く。恋人つなぎをしているカップル。大きな口を開けて、カラフルな綿あめを食べている女の子たち。
 みんな、晴れやかな笑顔で過ごしている。遊園地に遊びに来ているのだから、ああやって笑っているのが自然なことだ。
「やっぱりさ。こんな話をしたら、美玖も泣いちゃうよね」
 話すべきだったけれど、目の前の平和な光景を見ていたら少しだけ後悔してしまう。もう少し、後でも良かったんじゃないかって。
「……宮野くんには話さないの?」
「……。」
 山崎がわたしを見つめて来るけれど、振り向かずに沈黙を貫いた。
「さっき気づいたんだ。渡辺さんには宮野くんが必要だと思う」
「……なんで?」
「遠ざけようとしているけれど、渡辺さんはやっぱり宮野くんのことが好きだろ?」
 わたしは山崎の方に顔を向ける。
「……だから何? わたしだって人間だから好きな人が自分に巻き込まれて不幸になるのを喜ぶわけがないんだけど?」
 キッと睨みつけるけれど、山崎は怯むというより驚いたような表情をした。
「不幸になるとは限らないじゃないか」
 あまりにも予想外みたいなことを言われて、一気に頭に血が上る。
「何言ってんの!! わたしは普通じゃなくなったんだよ!?」
 思わず大きな声を出してしまった。通り過ぎて行った人が一瞬振り返った。
「……渡辺さんは普通だよ。病気になったからって本質は変わらない。嬉しいことがあったら全身で喜ぶし、好き嫌いははっきり言う。可愛いものや甘いスイーツが好き。そういう、普通の女の子だ。でも、今は前よりも遠慮している気がする」
「遠慮なんてしていないし!」
「宮野くんの為だって言ったってさ。そんなの、宮野くんは――」
 その後の言葉は聞きたくない。そう思ったら思わず口が滑る。
「陽介の為に遠ざけるって何だかんだ言っても、自分の為だからッ!」
 本当は陽介の為を思っているなんて嘘だ。
 もちろん不幸にはなって欲しくない。
 だけど、それ以上にずっと陽介に好かれている自信がない。たぶん、なかなか実感の湧かない病気によってもたらされる死よりも――
 わたしはもうすぐ女子高生じゃなくなる。普通の人間どころか、わたしはわたしのままで居られない。
 髪は金髪じゃなくなるし、病院で満足なメイクは出来る? 陽介が褒めてくれたネイルだって、ボロボロになっちゃうかも。それって、ほとんどわたしじゃない。
 今なら全部病気のせいにして離れられるんだ。まだ可愛いままのわたしが記憶に残ったまま、消えることが出来る。
「陽介から嫌われてしまうかもしれない未来なんて来なくていい! わたしはッ! わたしはッ……」
 美玖と話していたときも我慢していたのに涙が出て来てしまう。
「……渡辺さんはもっとわがままになっていい」
「は?! だからわたしの為に!」
「宮野くんのことがすごく好きだから泣くほど怖いんだ。そんなに好きなら、どんな理屈をこねても離れる理由なんて並べるだけ無駄だよ。本当にこのまま離れてしまったら、きっといつか後悔する。渡辺さん言っていただろ。上手く行くか行かないかなんて分かんないんだから、好きなことをすればって」
「そう、だけど」
 山崎のひんやりした手がわたしの手を包む。
「宮野くんに病気のことを話そう。そして、ずっと側にいて欲しいって言うんだ」
「でも」
「きっと渡辺さんが側にいたら、ほとんどの人は幸せだよ。だから宮野くんを縛ったっていい。もし、離れて行っても絶対に僕がいる。聖ちゃんや井川さんもいる。家族も一緒だろ? だから、大丈夫。行くんだ」
 縛ってもいい? 陽介は束縛を一番嫌がりそうなのに?
 山崎は手を離して、ポケットからスマホを取り出した。
「今、宮野くんはバイキングに並んでいるみたいだ。ほら、渡辺さん」
「えっ、い、いま?」
 グイグイと背中を押してくる山崎を振り返る。真顔で「うん」と頷かれた。
「当たって砕けろ、だ」
 何がわたしを突き動かしたのだろう。
 強引な山崎の理論。家族がいる安心感。わたしの為に怒ってくれる親友。
 それとも、――やっぱり陽介が好きだと実感しちゃったから?
 まだ心は迷っていた。でも、気づいたら足が一歩、二歩と踏み出していて。
 わたしは、体育の授業でもしないような大股で走っていた。

 人並を一人で縫っていく。遊園地でこんなに真剣に走っている人間なんて、わたししかいない。
 コーヒーカップのあとに整えたはずの髪はぐしゃぐしゃ。メイクだって、さっき泣いたせいで崩れているだろう。そもそも必死に走るなんて、全然わたしじゃない。
 それでも、足が気持ちに追いつかなくて遅いぐらいだ。
「あ、あれ? バイキングってどこ??」
 肩で息をしながら立ち止まる。すぐに陽介の元に向かいたかった。けれど、振り子のように大きくスイングするバイキングの船に向かっていたはずなのにどこにも見当たらない。
 確かに見えていたはずなのに……。
「あ!」
 バイキングは見つからなかったけれど、案内板を見つけることが出来た。一直線に駆け寄って、目的の場所を探す。
「ハァハァ……。えっと、観覧車からこう来て、現在地がここで。バイキングがここだから……」
 どうやら近くにあるお化け屋敷の裏のようだ。お化け屋敷は大きな建物なので、影に隠れてしまったらしい。
「行かないと……」
 一歩踏み出そうとする。
 でも、途端にくらっと軽い立ち眩みがした。それだけじゃない。
「あれ? 何か……」
 案内板を見るのに止まっていたのに、あまり息が整っていない気がする。呼吸がのどの入り口ばかりを行ったり来たりするだけに感じる。うまく息が肺に入っていかない?
 ううん。気のせいだ。
 それより早く陽介のところに行かないと。そう思って足を動かす。だけど、さっきより足が前に出ない。何だか身体がおかしい。ドキドキと心臓の音がうるさい。
 そうしている内に、ハッハッと、犬のような息が出始めた。
「な、なんで……?」
 ゾッと背筋が凍る。わたしの肺、ちゃんと機能している?
「……もう少し、だから」
 それでも腕を振って走り始める。
「あッ!!」
 上手く動かせなかった足が絡まった。前のめりに転んでしまう。
 ドキドキしすぎて胸が痛い。やっぱり上手く息が出来ない。目の前がグルグルと回る気がする。周りの音も聞こえない。苦しい。
 ――もしかしたら、このまま死んじゃう? 
 一気に怖くなった。このとき初めて命が危うくなっていることを感じた。
「もう少し、なのに……」
 こんなことなら、陽介に始めから話をしていればよかった。それで離れて行くなら、それで良かったんだ。
 告白、付き合ってとしかいわなかったな。
 陽介に好きだって、もっとちゃんと伝えていればよかった。
 きっと、それだけで良かったんだ――