僕は子供の頃から、積極的な性格ではなかった。
幼稚園の頃も外で遊ぶよりも、部屋の中で絵本を読んでいる方が好きな子だった。だけど、僕が通っていた幼稚園は何故かそういうのを良くないことだととらえていたみたいだ。
「ほら、お外で遊んだ方が楽しいよー」
「こっちで泥だんご作ろう!」
先生たちは外で遊ぼうと部屋を追い出してくるし、外に出たら出たで汚い手で飛び掛かってくる子がいた。別に潔癖症ではないけれど、そう言う子は絵本も汚い手のままで触るから嫌だった。
どんどん幼稚園に行くのは嫌になったし、小学生になっても程度の差はあれ、荒っぽい子はたくさんいる。
僕は何かと絡んでくることに、すごく迷惑していた。だから、周りで騒いでいる子たちを馬鹿っぽい子、つまりちょっと見下していたんだ。
出来るだけ一人の世界を築こうと休み時間でも、本を読んだり、勉強したり。いつの間にか好きだから読書をしているというより、一人になりたいから、他人と関わりたくないからそうしていたんだ。
「山崎くん。読書もいいけれど、みんな外でドッヂボールするみたいだよ」
「ほら、ちょうど人数偶数じゃないしさ」
最初は先生や気に掛けて来る子たちもいた。けれど、大概の人たちが将来のために勉強する必要があるんだって言ったら、そっとしておいてくれた。本当はなりたい職業なんて、何も無かったのにさ。
どんどん人との距離が長くなっていく。僕はそれでよかったし、他の子たちもほとんど気にしない。近寄って来たら来たで、素っ気ない態度を取れば勝手に離れて行くからね。
それでも話しかけて来たのは、宮野くんぐらいだった。
「なあ! 山崎はコロッケパンと焼きそばパンどっちが好き?」
僕と宮野くんは同じ中学出身なんだ。中学二年生のときは同じクラスで、僕が勉強していても遠慮なく話しかけて来た。
「へー、川田さんはあそこのパン屋通ってんだ」
正直わざわざ気を使うな思っていたけれど、宮野くんはクラスの誰にも同じようにしていた。宮野くんは相手が誰だろうと、みんな同じように接する。
それが彼の普通みたいだ。
中学三年生になっても、僕は誰とも深く関わらないようにしたし、周りも次第に受験に本腰を入れるようになっていく。学年でいつも一番をキープしていた僕は、焦る必要もなかった。
――だからじゃないけれど、僕は驕っていたんだ。
高校受験では、県内で一番の公立の進学校を志望していた。当然受かると思っていたから、滑り止めなんて必要ない。
でも、さすがにそれでは親が納得しないから、一応日程に被らない適当な私立の高校だけを受験しておいた。
本命の公立高校の受験日。判定も良かったし、先生も太鼓判を押してくれていた。だから、落ち着いて校舎に入る。最後の最後まで単語帳を見ている子たちに反して、リラックスさえしていたら受かると思っていた。
だけど僕はとんでもないミスを犯す。受験開始直前に消しゴムを家に忘れてきたことに気づいたんだ。
それぐらい誰か友達か周りの子に頼んで、予備のものを借りるか、消しゴムを切って分けてもらえばいいと思うだろ。なんなら、試験官に断って近くのコンビニに買いに行ってもよかった。
でも、僕は頭が真っ白で全く思いつかなかったし、誰かに相談することすら出来なかった。今なら誰かに話さえすれば解決した問題だったって分かるんだけどね。
もちろん、消しゴムは無くても問題は解ける。
けれど、間違えてはいけないと思えば思うほど焦ってケアレスミスをしてしまう。集中なんて出来やしない。最後の教科は問題を解くことさえ放棄していた。
もちろん結果は見るまでもなく、不合格だ。それで唯一受かったのが、この学校ってわけだよ。
渡辺さんは僕の長い話に「へー」とか「そんな感じ」「大変だったじゃん」と、聞いているのだか聞いていないのだか微妙な反応をしてきた。
「それから渡辺さんも知っての通り、どこにいても勉強ばかりしていた。大学受験は絶対に失敗しないって思いながらね」
「でも、最近になって小説書こうって思ったわけでしょ? 元々良くは知らないけどさ。性格も急に変わった感じだし。なんかきっかけでもあったの?」
渡辺さんが何気なく聞いて来る。当然の疑問だ。自分だって、ほんのひと月前とはまるで性格が違う。
これを話すのは少しだけ勇気がいる。それでも、渡辺さんには聞いて欲しい。
「少し前に倒れたんだ」
「え?」
「父さんが職場で、……突然倒れたんだ」
目の前で、ごくりと息を飲む音が聞こえた。
父さんが倒れたとスマホにメッセージが入っていることに気づいたのは、もう放課後だった。
「父さんッ!」
急いで学校を出て病院に向かい、病室に駆け込む。病室ではベッドに寝ている父さんの横に母さんが座っていた。口元に指を立てて、しーっとたしなめる。
「……父さん、大丈夫?」
物音を立てないように近づくと、父さんは静かに寝息を立てている。目立った処置は点滴ぐらいだ。やっと詰めていた息を吐くことが出来た。
「お父さん、仕事ですごく無理していたみたい。去年の事業の失敗でそれを取り戻そうと会社の人たちでがんばっていたから」
「そうだったんだ……」
最近、暗い表情をしていることが多かった。でも、会社のことは家では全く口にしないから、うまく行っていると勝手に思っていたのだ。
「父さん、少しは僕にも話してくれて良かったのに」
「う……」
「父さん!」
そっとしておかないといけないのに、父さんが動いたら思わず揺り動かしてしまった。
「あ、ああ……。ここは?」
「病院よ。あなた職場で倒れちゃったのよ。会社の人が救急車を呼んでくれたわ」
「そうか。早く戻らないと」
「え! ダメだよ! 安静にしていないと!」
僕は上半身を起こした父さんを押さえようとする。父さんはやはり弱っていて、僕が肩を押すとゆっくりと倒れて行った。
「……すまんな。心配をかけた」
とりあえず病室を出て行く気はなくなったようなので、ほっと息をつく。
「何か飲み物、買ってきましょうか」
「ああ。頼む」
母さんは僕にも何が飲みたいか聞いて病室を出て行った。手持ち無沙汰になった僕は、とりあえず母さんが座っていた椅子に座る。
「えっと、他に欲しいものはある?」
「……すまないな。放課後、友達と約束があったりしたんじゃないか?」
「いや、うん。今日は大丈夫」
やっぱり友達がいないことは問題だとは思っている。親には心配かけまいと、僕の学校での様子は誤魔化していた。休日や放課後はたまに友達と遊ぶふりをして出かけていたんだ。
「そうか。受験が終わって落ち込んでいる姿を見て、心配していたけれどこれでよかったと思っているんだ」
「え?」
僕は父さんのとんでも発言に思わず目を瞬かせた。
「すごく真面目な子に育って嬉しいけれど、中学の頃は勉強、勉強で、中々友達と遊ぶ暇もなかっただろう。だから、父さん高校生活を満喫しているようで嬉しいんだ」
父さん、ごめん全部演技なんだ。――とは、とても言える雰囲気ではない。
「学生時代の友人は大切にすべきだ。父さんもいま大変だけど、高校や大学のときの友人に相談に乗ってもらって、随分気持ちを軽くしてもらっている。……いきなり倒れておいて説得力ないかもしれないけどな」
だから父さんは会社のことを僕に何も言わなかったのだ。ちゃんと家庭とは別の場所で相談できる場所がある。それはきっと心強いことだろう。
僕は胸がツキンと痛んだ。僕にはそんな場所は全くない。
だから、高校受験をあんな形で失敗したのだと、このとき始めて気づいたんだ。
「いいお父さんじゃん」
目の前で頬杖をついている渡辺さんは優しく微笑む。金色の綺麗な髪が夕陽に照らされて、いつもより輝いていた。
真正面からそんな顔を見ると、意識せずとも頬が熱くなる。目をそらしつつ、僕は誤魔化すように咳払いをした。
「それで気づいたことはいいんだけど、僕は何から始めればいいか全く分からなかった」
「なんで? クラスの誰かでも誘って遊びに行けばいいじゃん」
つい、ハハ……と乾いた笑いが出る。そんなに簡単に誘えるなら、とっくに僕は陽キャにジョブチェンジしているだろう。
「僕は、ほら。筋金入りの一匹狼だから、自分から誘ったり、話しかけたりする方法が全然分からなかったんだよね」
「ふーん?」
全く自分とは関係ないと思っている様子が面白い。きっと、そういうことで悩んだりすること自体が不思議なのだろう。
けれど、きっかけは渡辺さんだった。
「三月の始め。僕と渡辺さん。一緒に日直だったことを覚えている?」
「ああ。何かあったような。でも、別になんてことなかったでしょ?」
それはそうだと思う。あの日のことは渡辺さんにとっては何でもないことだ。でも、僕は一瞬一瞬を鮮明に覚えている。
「父さんが倒れてから、僕は悩んでいた。だから、放課後にゴミを捨てに行くとき。渡辺さんに尋ねたんだ。どうすれば、いろんなことが上手くいくと思うって。すごく遠回りな質問だよね。でも、友達の作り方を聞くことなんて恥ずかしくて出来なかったからさ」
「まぁ、そうかもね。わたし、何て答えた?」
僕はそのときのことを思い出し、自然とはにかんでしまう。
「好きにすればって」
渡辺さんは自分が言ったことなのに、身を起こして驚いたような表情をする。
「そんな投げやりな」
「僕もそう言ったら、どうせ何やっても上手く行くか、行かないかなんて分かんないじゃん、って。……僕は本当にその通りだと思った。勉強は必要だけど好きなことじゃない。だから、上手くいかなかったからすごく後悔しているんだ」
きっと勉強だけじゃなくて好きなこともやっていたら、失敗してもしょうがないと思えただろう。
「それでも好きなことは簡単には思いつかなくて。渡辺さんの病気のことを偶然聞いて、勝手だけど、渡辺さんの為になることをしようと思った。だから、一緒にやりたいことをしたいと思ったんだ!」
つい言葉に力が入ってしまった。呆れられているかもしれない。
でも、渡辺さんを見ると眼を細めて笑っている。
僕のことを認めてくれていると感じた。
「だから、僕は大事なことに気づかせてくれた渡辺さんが好きなんだ」
「え?」
「あ!」
思わずこぼれた言葉。口を押えても、後の祭りだ。
「えっと、だから渡辺さんにはいつも明るく笑っていて欲しくて……」
「ああ。そうだよね。みんな、明るくて軽いわたしが好きだよね。山崎には随分暗いとこを見せたし、心配させたかも」
上手く誤魔化せたようで、少しほっとする。
「でも、……ありがと」
渡辺さんは少し切なく笑った。
――振られちゃったな。
当然だ。渡辺さんは宮野くんと付き合っているし、その宮野くんとも病気だからと距離を取ろうとしている。本当なら支えて欲しいだろうけれど、二人は付き合い始めたばかりだし、遠慮してしまうのも分かる気がした。さらに付き合いの浅い僕が側にいても……。
それでも何もしない訳にはいかない。
僕はぐっと気合を入れ直して顔を上げる。
「さっきの話の続きだけど、病気のこと諦めちゃダメだ」
渡辺さんの瞳が揺れる。
「別に諦めてなんか……。入院もちゃんとするんだし」
「渡辺さんは優しいから、それは周りを安心させるために言っているよね」
渡辺さんの眉間にしわが薄っすらと浮かび上がる。ダンッと目の前の机が拳で叩かれた。思わずビクッと肩が跳ねる。さっきとは打って変わって、渡辺さんは濃いマスカラで縁どられたきつい目つきで僕を睨んできた。
「だから何? 結局、結果は一緒じゃん」
ひるんじゃダメだ。
「一緒じゃないよ。きっと、渡辺さんの言う結果はさっき言っていたことも含まれているでしょ」
僕も負けないように目に力を入れた。
「本当のことじゃん。誤魔化してもしょうがないでしょ」
「でも、やっぱりそういうことばかり考えていると身体にも影響すると思うんだ。僕も色々調べた。肺がんステージ三の患者の十年生存率は大体十パーセントぐらいらしい」
「十パー……」
渡辺さんの表情は読めない。多いと思っているのか、少ないと思っているのか。
「でも、ここで重要なのはこの数字自体じゃないと僕は思っている」
「どういうこと?」
「十パーセントというのも、昔よりもずいぶん増えているらしいんだ。つまり、時間が経って新しい薬が出来て助かる人が増えているってことだよ」
渡辺さんの瞳が瞬いた。僕はさらに力を込めて言う。
「僕も素人だから確かなことは言えないけれど……。抗がん剤の副作用も昔よりましになったらしいし、何より渡辺さんは若い。だから、きっと諦めなければいい結果がついてくる可能性はどんどん上がる」
――僕に出来ることなら何でもする。渡辺さんが絶対に諦めないために。
「しんどいかもしれない。諦めたくなるかもしれない。でも、時間が経てば経つほど、医療は進んでいくんだ。だから、諦めないでよ。渡辺さん」
渡辺さんは何も言わなかった。しばらく無言で向き合ったまま、時が過ぎる。
「帰ろっか」
ただ、それだけ言って渡辺さんは立ち上がった。いつも強気でいる渡辺さんの背中はほんの少し弱々しく見える。
きっと、僕の言葉は届かなかった。それでも、僕は諦めたりはしない。
そして、僕と渡辺さんは気づかなかった。僕たちが話している様子を教室の外から、宮野くんが見ていたことに――

