余命一年と言われたギャルの話


 陽介と山崎と駅で分かれて、真っ直ぐ家に帰る。
「お帰りなさい。あら? 今日も一緒だったの?」
 玄関まで出てきた継母の茜さんは、わたしたちを見て少し嬉しそうにした。
「ただいま、お母さん」
「……ただいま。ちょっとリビングで二人に話、いい?」
 わたしがそう尋ねると驚ていたけれど、茜さんは「じゃあ、お茶を用意するわね」と言って先に入っていく。
 自分の部屋に荷物を置いて、リビングに行くとテーブルの上にお茶が並べられていた。全員が揃うと、わたしは頭を下げる。
「今まで、ごめんなさい」
「渉ちゃ……」
「冷たい態度を取ったり、せっかくご飯を用意してもらったのに食べなかったり。本当にこれまでのわたしは二人に酷いことしてきたと思っています」
 顔を上げると、聖は眼を見開いている。でも、茜さんは穏やかな顔で口を開いた。
「いいのよ、渉ちゃん」
「いや、よくは」
「渉ちゃんがお母さんを大事にしていることは、知っているし。わたしは、ほら。お父さんと恋愛して結婚したわけじゃないから。そこが分かっちゃったのかなって思っていたの」
「え?」
 予想外の言葉に、わたしだけではなく、隣の聖も驚いている様子だ。
「わたしも驚いたんだけどね。お父さんのプロポーズ? 最初、渉ちゃんのお母さんになってくれないかって言われたの。きっと、いい母娘になれる。だから、結婚して欲しいって。普通、逆よね」
「お、お父さん」
 なんだが眩暈がするような思いだ。そんなロマンの欠片もないようなプロポーズをしていたなんて。
「でもね。渉ちゃんに実際に会って、四人で過ごすようになって。もしかしたら、こんな家族の形もありなんじゃないかって思えたの。渉ちゃんは家族を大切にするいい子だし、お父さんも聖を渉ちゃんと同じように娘として可愛がってくれる」
 茜さんは自身の胸に手を当てる。
「だから、わたしは四人で家族として生きていくために結婚したの。そりゃ、すぐに家族になれればいいんだけど、元は他人でしょ。すぐには無理でも、いつかはって思っていたから……だから。いいのよ、渉ちゃん」
 わたしは、やっと理解した。
 茜さんはわたしの帰りが遅くなると心配するけれど、何度嫌な態度を取られても同じように笑顔で話しかけてきた。わたしとは、まるで覚悟が違ったんだ。
 再婚するときに決めたことを貫いている。すごく芯の強い女性だった。
 ――そんな女性(ひと)なら、お父さんのことをお願い出来る。
「茜さん、ありがとうございます。勝手なことを言っていると思うんですけど、お父さんのこと、よろしくお願いします。たまに嫌いになるけど、大好きなお父さんなんです」
 わたしが再び深々と頭を下げると、聖が不思議そうに声をかけてきた。
「渉ちゃん?」
「わたし、がんなんです」
 声が震える。でも、最後まで言わないと。
「医者に残り一年しか生きられないって言われていて……、だから」
 顔を上げると聖が大粒の涙を流していて、茜さんは変わらずに穏やかに笑っていた。
「ごめんね。わたし、知っていたの。渉ちゃんが病院に行った夜に、お父さんが話してくれて」
「そう……。そうなんですね」
 よく考えたら誰かに相談しなければ、冷静でいられるはずがなかった。口止めをしたのに勝手に話したことを前なら怒っていただろうけれど、いまはそれで良かったと思っている。
 ただ茜さんは落ち着いているけれど、聖はそういうわけにはいかなかった。
「え、嘘……? 嘘だよね、渉ちゃん! わたしたちをからかって遊んでいるだけなんでしょ!?」
「嘘じゃないって分かっているから、聖も泣いているんでしょ?」
「ッ! でも、だって……」
 聖は眼鏡を外して涙でぐしゃぐしゃの顔をこする。わたしは再び茜さんに向き直った。
「だから、茜さん。お父さんのこと、よろしくお願いします」
「もちろん。と、言いたいところだけどね」
「え」
「今はお父さんのことより、渉ちゃんのことよね。わたしたちが出来る限り支えるから、一緒に頑張りましょう」
 茜さんは横に座って、わたしの手を握る。
「でも……」
「お父さんも、わたしも、聖だって一年後もその先もずっと渉ちゃんとは家族で居たいから」
 ずっと穏やかだった渉さんの眼に強い意志が見えて、涙も浮かんでいる。
「わたしも! もっと渉ちゃんと一緒に過ごしたいから!」
 聖も抱き着いて来た。二人の体温がジンと染みる。
 ――なんだ。
 この二人ってこんなに温かかったんだ。もっと早く思い出していれば良かった。勝手に決めつけていたのは、わたしの方なのかもしれない。

 午後七時が過ぎると、お父さんが帰って来た。
「ただいまー。おっ……」
「茜さん、プレート用意したよ」
「ありがとう、渉ちゃん」
「お母さん、お皿これでいい?」
 わたしと聖と茜さんは三人でバタバタと夕飯の準備をしている。
「なんだ? なんだ? 今日はパーティか?」
 浮かれたお父さんが近づいて来て、食材を取りに行こうとしていたわたしの進路を塞いだ。
「お父さん邪魔!」
「ほら、鞄を置いて手を洗って来て下さい」
 茜さんにそう言われると、お父さんは駆け足で洗面所へ向かう。戻って来たときには全てのセッティングが整っていた。テーブルの中央にはホットプレートが出されていて、肉と野菜が盛られた皿が置かれている。
 お父さんがわざとらしく咳払いをした。
「じゃあ、お父さんから一言……」
「いただきまーす。早く食べよー」
「渉ちゃん、焼肉のたれ取って」
 わたしと聖がスルーすると、お父さんは頭を垂れて落ち込む。
「嘘だよ、嘘! ちょっとからかっただけだってば! ほら、わたしたちのことが気になるんでしょ」
 わたしは隣に座るお父さんを揺さぶった。
「いや、いいんだ。渉が家族と仲良くしていれば、理由なんて何でもいい。聖ちゃん、茜さんありがとう。渉も思うこともあっただろうけれど、久しぶりに家で笑っている姿を見られて嬉しいよ。たくさん我慢させて、ごめんな」
 お父さんは涙ぐんで笑う。
「我慢なんて、そんなにしていないけどさ。……でも、学校には休学の連絡する前に相談して欲しかった」
これだけはひとこと言っておきたかった。
「ごめんな、渉。お父さん、いつも先走ってばかりで。でも、お母さんが亡くなったときに約束したんだ。お父さん、渉の為なら何でもするって」
 そんなことを言われたら、なおさらお父さんのことを怒ることなんて出来ない。茜さんがさっと声をかける。
「お話はそれぐらいにして、ごはん食べましょう」
「じゃあ、わたし焼いていくね」
「肉をたくさん焼いて」
 わたしと聖が我先にと肉や野菜をプレートに乗せていく。
「渉」
 お父さんが呼ぶので振り返ると、お父さんは和やかな顔で言う。
「治療、がんばろうな」
「……うん。がんばるよ」
 口ではそう言う、けれど。
 きっとこの家族は近い将来三人だけになってしまうんだろうな。
 わたしは、そう思ってしまった。

 焼肉を食べ終わると、みんなで片づけをして自分の部屋に戻る。バタンとドアを閉めると、わたしはその場にずり落ちるようい座り込んだ。
「はぁ……、疲れた」
 朝からたくさんのことがあった。夕飯の前には疲労を感じていて、でも一人だけ部屋に戻ることは出来ない。心配させたくなかった。この家族を大事にしたいと思ったから。
 どうしてこれまで大事にしてこなかったんだろう。理由は分かってはいるはずなのに、そう思って気持ちが沈んでしまう。
「どうして、……病気になったんだろう」
 これも、いくら自問しても答えがない問いだ。そのときスマホの通知音が鳴る。食事の間、スマホはベッドの上に置いてきていた。
 スマホを開くと、山崎からメッセージが来ている。
『渡辺さん、あれから大丈夫だった?』
 聖と二人で帰ることを断りはしたものの、公園で別れたときはろくに説明もしなかった。
『今日はごめん』『うん』『大丈夫』
 ベッドに座って、とりあえず返信してから、なんと説明しようかと考える。
 でも、すごく面倒だ。いちいち長文を打ち込むより口で説明した方が早い。そう思って通話のボタンをタップする。山崎が電話に出なければ、また明日学校で話せばいい。そう、軽い気持ちでした電話だった。
「もっ、もしもし!?」
 四コール目ぐらいで、慌てた声で山崎が電話に出る。ドン、ガシャガシャと何かが落ちる音がしていた。
「大丈夫? すごい音がしたけど」
「あ、ああ。腰を机に打ち付けて、それで机の上の物が落ちたんだ。山積みにしていたから、……ははっ。えっと、それで渡辺さんが僕に電話して来るなんて、どうかしたの? また、聖ちゃんとケンカした?」
 心底心配しているという声だ。もう少し早く連絡すれば良かった。
「ううん。聖とは仲直りしたし、義理のお母さんとも打ち解けた。あ、えっと、そもそも聖は親戚じゃなくて、義理の妹なんだけど。わたしのお父さん、一年前に再婚して」
「ああ。そうなんだってね」
 すんなりと受け入れた山崎に、わたしは「え? 知っていたの?」と疑問を口にする。
「宮野くんは知っていたみたいだよ。渡辺さんの態度で分かったって」
「陽介が……」
 上手く誤魔化したつもりだった。でも陽介は人のことをよく見ているから、気づいたのだろう。その上で口を出さずに一緒にいてくれたのだ。
「それで、……さっき初めて病気や余命のことを聖にも話したよ」
「えッ! 聖ちゃん知らなかったの!?」
 驚くのも無理はない。家族だったら、当然知っていると思うだろう。
「そっか……。うん。でも、渡辺さんの家族が一つにまとまったことはいいことだと思う」
「そう、かな?」
 わたしは自信なく答えた。それが伝わったのだろう。山崎が気づかわし気に聞いてくる。
「何か気になることがあるの?」
「だって、わたし余命一年のがんだよ?」
「……うん」
「まだ想像つかないけれど、治療だって大変だろうし、学校にも行けなくて辛い思いをすることが増えると思う。何より、また元のように元気になるとは思えない。……だから、治るか分かんない治療をするより、家で家族とのんびり過ごしたり、学校に行ったりした方がいいんじゃないかって。……お金もかかるわけだし」
 どうして、こんなことまで話しているのだろう。もしかしたら、大切なものが増えて弱気になっているのかもしれない。
 ずっと大事にしたいものがあるのに、どうしようもない未来が待っている。
「だ、大丈夫だよ! 治療だってさ! 前より良くなっているって聞くよ? 最初から諦めていちゃダメだと思う!」
 ぎこちない励ましをする山崎。言葉自体より、その必死さに少しだけ笑みがこぼれる。
「……うん。そうだよね。ちゃんと治療するよ。変なこと話して、ごめん」
「ううん! 何でも話してくれた方が嬉しいよ! 僕に出来ることなら何でもするから、何でも言ってよ、渡辺さん!」
「ありがとう、山崎」
 素直にお礼が出て来る。もしかしたら、感謝を伝えられるうちに言っておいた方がいいのかもしれない。
 山崎と電話をした後、陽介にも話しておいた方がいいかと思ってスマホを操作する。
 けれど、チャットの画面で指を止めた。
「どう話せばいいんだろう……」
 陽介は聖が義理の妹だと言うことは知っている。再婚で家族と上手くいっていなかったことも知っているだろう。普通なら家族みんな上手くいったと言えばいい。
 でも、病気のことは当然話せない。
 山崎と話したときのことのように、うっかり口が滑って弱音を吐いてしまったらどうしよう。チャットでも油断したら出てしまうかも。一度縋り付いてしまったら、堰を切ったように止まらなくなるかもしれない。
「やっぱりダメだ」
 わたしはスマホをベッドの上に置く。
 そもそも、陽介とはなるべく距離を置くようにしなきゃいけないんだ。明日直接話すことにして、もう寝ることにした。

 次の日。わたしは少しだけ緊張した面持ちで登校してきた。陽介に余計なことを言わないように注意しなければならない。
「おはよう、美玖」
「おはよう、渉。ねえ、山崎が変なことしているよ」
「山崎が?」
 美玖はニヤニヤした顔で教室の奥を指さした。
 一つの机を囲んでクラスメイトたちが集まっている。その中心はにこやかに笑っている山崎だ。珍しい、というかこんな光景一度も見たことがない。
「あいつ、何しているの?」
「インタビューだってー」
「インタビュー?」
 わたしは人だかりの方へと近づいていく。すると、笑い声を交えた会話が聞こえて来た。
「それで、そのとき渉めちゃくちゃ慌ててさー」
「へー。渡辺さんらしいね」
「ちょ、ちょっと!」
 自分の名前が出て来て、小走りで駆け寄った。
「あ。渡辺さん、おはよう」
「おはようじゃないよ! なに人を集めてわたしの話をしているわけ?」
「それはもちろん小説のためにインタビューをするためだよ!」
 山崎は机の上のノートを開いて見せて来た。そこにはわたしのエピソードが箇条書きにもういくつも書かれている。
「わたしの取材じゃないの?」
「もちろん渡辺さんの話も聞くよ。でも、周りの人たちにも話を聞かなきゃ。大丈夫。楽しい話を聞かせてって言っているから」
 そう言う山崎の方が楽しそうだ。
「それならいいけど……」
 わたしは別に構わないけれど、そもそも山崎は堂々と小説の取材なんて言っていいのだろうか。小説を書く人なんて周りにいなかったから分からないけれど、恥ずかしいだろうから普通は隠れて書いていそうなものなのに。
「何やっているんだ?」
 登校してきた陽介も様子を見にやって来た。
「宮野くん、おはよう! いま、みんなに渡辺さんの話を聞かせてもらっているんだ。あとで宮野くんにも聞いていい?」
「まぁ、構わないけど。渉、昨日は大丈夫だったか?」
 陽介はわたしを振り向いて聞いて来る。
「う、うん。聖とも、義理のお母さんとも」
「そっか。じゃあ、山崎話は昼休みでいい?」
 言い終わる前に陽介は山崎の方に向き直った。いつもよりあっさりとした態度に何だか違和感を覚える。わたしが陽介に話しかける前に、山崎が次々と言葉を連ねた。
「いいよ! それと遊園地に行く日、今週の日曜日にしない?」
「随分、急だなー」
 きっとわたしに気を使って早めに行こうとしているのだろう。
「ごめん。わたし、次の日曜日は家族で買い物に行く約束しているんだ」
 買いに行くのは、わたしが入院するときに必要なものだ。
「そっか。それならしょうがないや。その次の日曜日は大丈夫?」
「うん」
「俺も大丈夫だ」
 わたしと陽介は揃って頷く。
「なになに? 何の話?」
 だけど、思った通り美玖が気になったようだ。
「来週の日曜日に陽介や山崎と遊園地に行くんだ」
「何それ! ズルい!! わたしも行く!」
 思った通り、美玖も話に乗って来た。それだけではない。周りのクラスメイトたちも、次々に自分もと手を挙げる。そりゃ、こんなにクラスメイトたちに囲まれている所で話したらこうなるだろう。
「じゃあ、クラスで行ける人みんなで行こうか。高校二年生の思い出作りってことで」
 意外にも山崎がそう提案した。もしかしたら、最初からこうするつもりだったのかもしれない。
 聖も一緒だけどいいのかなと思いつつ、遊園地に行くだけなんだから楽しければいいかとすぐに考え直した。
「渡辺さん、僕に任せてよ! 完璧な効率でアトラクションを回れる攻略プランを考えるからさ!」
 遊園地は必ず行列するから言っているのだろう。
「いや、そんなに無理する必要ないよ。聖も一緒だからゆっくり回ろう」
 アトラクションに乗るだけが遊園地の楽しみ方ではないはずだ。
「そっか。うん、渡辺さんがそう言うなら」
 山崎もすんなり頷いてくれる。
「渉と山崎。二人とも、すっかり打ち解けたみたいだな! 良かったな!」
 何が良かったのか分からないけれど、陽介はわたしたちを見て笑っていた。

 何かの弾みで口が滑ってしまわないように、わたしはなるべく陽介とは距離を取って接するようにした。二人でご飯を食べるときは、山崎や美玖を呼ぶようにする。
 土日はバイトを入れたらしく、陽介の方から遊べないと言って来た。
 残りの時間が少ない分、もう少しそばにいて彼女気分を味わいたい。でも、そうも言っていられない。
 わたしはこのまま距離を取りつつ、遊園地の帰りに別れ話を切り出すことを決めた。
「振るって言っても、理由は何にしよう……」
 夕食後、わたしは部屋で仰向けにベッドに寝転んでいた。
 振るにしても、あまり陽介を傷つけたくない。でも、付き合い始めてからまだ一か月ほど。もしかしたら、元カノと比べても圧倒的に少ないかも。これで傷つけないなんて、相当な理由が必要だ。
 馬鹿正直に病気を理由にしたら気を使わせてしまうかも。
 以前山崎にも言った、本当にやりたいことを見つけたからという理由がいいかもしれない。それなら、恋愛抜きで集中するためにという多少強引だけど明るい理由で別れられる。いずれ陽介も病気のことを知ったとしても、これはいい手のような気がした。
 出来るだけ目標は高い方がいいだろう。そして、わたしからかけ離れた、例えば弁護士になりたいとか、そんなことをいきなり言えば怪しまれてしまう。
「わたしらしい、やりたいこと……、やりたいことー??」
 全然思いつかない。
 わたしらしさのヒントを探して、部屋の中を見回す。
 壁際には机とメイク道具が置かれている棚。中央にあるローテブルの下には、白いファーのマットが敷かれている。
 メイクアップアーティストとか……?
 人の顔まで綺麗にしたいとは思えないけれど、海外に修行に行くことも有り得ると思う。嘘としては、ちょうどいいかも。
「あ……、やりたいことといえば」
 わたしはベッドから立ち上がって、机に近づく。教科書やノートが並べられているが、それが勉強机として機能することはほとんどない。教科書の隣にある文庫本の背表紙を指で引いて取り出す。
「これ、結局読んでないな」
 この前買った小説をやっと思い出した。表紙には『三百六十五日後に死ぬ彼女。』と書かれ、わたしが握りつぶしたせいでしわが出来ている。
 正直、いまでもあまり印象は良くない。
「でも、せっかく買ったんだし……」
 わたしはベッドに座って、ページを開いた。
 三時間後――。
「うっ……、うう……」
 よろよろとしながら、部屋から出る。
「わっ! どうしたの、渉ちゃん」
 湯上りの聖が階段を上がって来たところにぶつかりそうになった。わたしはゾンビのように揺れ動いて聖に抱き着く。
「ひじりー! これ、めっちゃいいんですけど!」
「え? ああ、小説?」
 わたしは両手で本を持って、こくこくと頷く。小説の印象は最悪で別に面白くもないのだろう。でも、読めば読むほどその考えを次々と覆していった。
 表紙の女の子は守りたくなるような女の子という印象とは違い、庇護されて大人しくされるような存在じゃなかった。架空の病気らしいが、明るくてちょっとしたトラブルメーカー。大人しいタイプの主人公の男の子を振り回していく様子が楽しくて、いつの間にか引き込まれていた。
 こんなに時間が経つのが分からないぐらい小説にのめり込んだのは初めてかもしれない。
「聖も読んでよー。ラストすごい感動しちゃうからー」
「それなら、わたし読んだよ。持っているし」
「えッ!! うそッ! なんで言ってくれないの!?」
 聖が持っているなら、借りればよかった。数百円とはいえ、なんだか損をした気分になる。
「だって、買ったの結構前だもん。でもそれ読みやすくて、結構話も深いよね。同じような本なら他にも持っているよ」
 わたしは聖の部屋に一緒に入った。聖の部屋には本棚がいくつも置かれていて、本もずらずらと並んでいる。聖のおすすめの物をいくつか借りた。すぐには読まずに入院中に読むつもりだ。
「感想聞かせてくれたら、また渉ちゃんが好きそうな本を持って行くよ」
「うん。ありがとう」
 なぜか聖はわたしよりも嬉しそうだった。

 次の日曜日は、家族で入院に必要なものを買い物に行って食事もする。
 わたしが好きなものでいいと言うので焼肉と答えた。だけど、この前も食べたからと中華料理を食べる。でも、お肉がゴロゴロ入っている酢豚が美味しかった。
 帰りにみんなでおじいちゃんの家にも寄る。四人でお土産を渡したら、すごく喜んでいた。わたしが新しい家族と打ち解けたことを心の底から祝ってくれた。
 けれど、言わないわけにもいかなくて、病気のことを話す。
「渉ちゃん、じいちゃんが付いているからな」
 涙ながらに手を握って言うおじいちゃんに、わたしは頷くことしか出来なかった。しわくちゃの細い指はわたしが握り返したらいけないと思えるほど震えている。
 帰りに聖と茜さんにたまにおじいちゃんの様子を見に行って欲しいとお願いすると快く引き受けてくれた。お父さんも気にかけるから渉は安心していいと言ってくれる。
 大事な人を守ってくれる家族が頼もしかった。
 休日が終わると一日だけ学校を休んで、病院でまた検査を受ける。最初話にあがったときは聞いていなかったけれど、予定通り四月に手術をすることが決まった。その後、薬での治療が始まるらしい。
「手術、か……」
 わたしは教室の窓際で空から落ちて来る雫を眺めながらつぶやく。
「ん? どうかしたの、渉」
「あ。ううん、何でもないよ」
 そう?と、美玖は首を捻った。聞かれるところだった。
 でも、美玖には他の人よりも先に話をしておいた方がいいかもしれない。中学からの親友が病気だと知ったらどう思うだろう。考えるだけでも、胸が痛い。
「あのさ、美……」
「あ! もう部活の時間だ! 渉、また明日ね!」
 美玖は鞄を持って教室を出て行く。わたしはふぅと一息ついた。
「どうしたの、渡辺さん。何か考えごと?」
 声を掛けられた方を向くと、山崎がノートを持って立っている。
「ううん。じゃあ、始めようか」
 わたしは窓際の席の椅子を引いて座った。山崎もその前に座る。ノートを開いて、眼鏡の真ん中を指で押し上げた。クラスには、まだまばらに人が残っている。
 さわさわと声が耳をかすめる中、山崎は姿勢を正して言う。
「えっと……、それではインタビューを開始します」
「あはっ、何それ」
 別に録音しているわけでもないのに山崎が律儀に言うのがおかしかった。
 約束していた、わたしへのインタビュー。クラスメイトから色々と話を聞いて、わたしに聞きたいことをまとめたからと昼休みに言われたのだ。
「渡辺さんと一番仲がいいのは井川さんですね」
「そうだね」
 井川というのは美玖の苗字だ。わたしが美玖と一番仲がいいのは誰の眼からも明らかだろう。
「井川さんとは中学のときからの付き合いですね。一番印象深いなと思うエピソードを教えてもらえますか?」
「仲の印象のあるエピソード……」
 わたしは腕を組んで考えた。そりゃ、美玖とはたくさんの思い出がある。
 でも、一番というと、すぐには――。
「あ! 中学の卒業旅行で京都に行ったんだけど、自由行動でお寺に行ったんだけど、わたしと美玖だけグループからはぐれちゃって」
 あのときのことを思い出して、思わず笑みが浮かぶ。
「お寺の中を延々と歩いて、それでもどこを歩いているか分からなくて。スマホの充電も切れちゃって、二人でお迎えが来るまで何時間も待っていたの。大体、京都のお寺って広すぎだから! あのときは悟りが開いて尼さんにでも何でもなれると思ったなー。いまでは笑い話だけどね」
 目の前の山崎が口を押えて、はははっと笑う。
「二人の尼さん姿を想像しちゃったよ」
「えー?」
「でも、井川さんは言っていたよ。お寺で迷ったのは渡辺さんが食べ物に釣られて、単独行動をしようとしたからだって」
「え! 嘘! はぐれたのは、すぐに追いつけるはずだったのに、美玖がお土産に釣られてお店に入ったからだから!」
 ここだけは譲れない点だ。山崎は笑みを浮かべたまま頷く。
「井川さんも一番に修学旅行の話をしていたよ。本当に二人は仲がいいんだね」
「……まあね」
「じゃあ、次は――」
 その後も山崎のインタビューは続いた。わたしが答える度に山崎は少し大げさなぐらい反応する。
 いつの間にか、教室には二人だけになっていた。
「ちょっと待って、山崎。もしかして、わたしの失敗集でも作るつもり?」
 わたしは思わず額を手で押さえる。
「ははっ。印象に残っていることを教えてもらっているからね。渡辺さんも結構おっちょこちょいだし……」
 山崎は苦笑いをして、指で頬を掻いた。確かに身に覚えがあることばかりだけど、みんなももっと格好のつくことを言ってくれればいいのに。
「もっと真面目なことを聞いて!」
「分かった。そうだな、……病気の方はどう?」
 山崎が気づかわし気な表情をする。
 本当はこれが一番聞きたかったことなのかもしれない。
「うん。咳は出るけど、すごく身体が重いとかはないよ。んで、四月になったら手術することになった」
 わたしは変わらない口調で話したけれど、山崎は「そっか……」と声のトーンを落とした。
「入院したら全部向こうに任せるしかないんだし。まあ、ダメでも天国からのお迎えを待つだけって感じ?」
「何言っているの、渡辺さん。ダメだなんて……」
「だってさ。風邪や骨折じゃないんだし。一応、そういうことも」
 自虐的なことを言っている自覚はあるけれど止まらない。だって、もしもを考えておかないと、もしもそうなったときすごくガッカリしそうだ。
「ダメだよ。渡辺さん」
 山崎はもげそうなぐらいブンブンと頭を振る。
「渡辺さんはこの先もずっと生きて、やりたいことをやるんだ」
 それから山崎の長い話が始まった。