余命一年と言われたギャルの話


 次の日の朝。
 顔を洗う前にダイニングで朝ごはんを食べているお父さんを見かけたけれど、何も言わずに通り過ぎた。他に人が居る所で話したくない。
 けれど、直接話さなければならないことだと思う。
 きっと嫌だってスマホでメッセージを送っても、お父さんは揺らがないに違いない。部屋で着替えて、一階に降りるとお父さんはもういなかった。継母はいつも邪険にされるのに朝のお決まりのように聞いてくる。
「渉ちゃん、卵は何がいい?」
「……食欲ないから、野菜ジュースでいい」
 外で食べる気力もないから、勝手に冷蔵庫を漁ってパックのジュースを取り出す。ぼんやりとテレビを見ながら、ストローでちびちびと飲んだ。
「おはよー。……渉ちゃん、どうしたの?」
「ほら、昨日お父さんと色々あったから。きっと上手くお話出来なくて落ち込んでいるのよ」
「ふーん」
 継母と義理の妹のお門違いの会話にも、怒ろうという元気もなかった。ジュースを飲み終わったので、鞄を持って学校に向かう。
 お父さん。本当にわたしを無理やり病院に押し込むつもりなのかな。
 わたしは歩きながら性懲りもなく、そんなことを考えていた。学校についても、ぼんやりとクラスメイトとあいさつを交わす。自分の席に鞄を置いたときだ。
「あーゆむッ!」
「わっ!」
 いきなり後ろから抱き着かれた。
「陽介? おはよう」
 振り返るまでもなく、こんなことをするのは陽介しかいない。
「あれ、渉どうかした? なんか元気なくないか?」
 簡単に見抜かれてギクリとする。ちゃんといつも通りメイクをしたつもりでも、目の腫れが完全には引いていなかった。
「昨日遅くまで映画見ていて、あんまり眠れなかったんだ」
 なんとか笑って口から出まかせをつく。
「へー。そんな寝不足になるぐらい面白かったんだ。なに見たんだ?」
「えっと……」
 わたしは動かない頭を必死に動かして、以前観た映画を何でもいいから思い出そうとする。けれど、焦れば焦るほど出てこない。
「ちょっと、タイトルど忘れしちゃったんだけど」
「おはよー、渉。何か担任が呼んでいたよ。職員室に来てってー」
 わたしたちの所に来たのは、登校してきた美玖だ。正直、陽介との会話を中断されてホッとした。
「え。何だろ?」
「渉、何か悪さしたのか?」
「試験が悪すぎて、留年とか?」
 ニヤニヤしながら陽介と美玖が茶化してくる。
「そんな訳ないし! ちょっと行ってくる!」
「オレも行こうか?」
「大丈夫。すぐ戻って来るから」
 いつもなら陽介も一緒に来てと言っているだろう。
 けれど、嫌な予感がした。わたしは一人で職員室に向かう。
 職員室に入って担任を探す。向こうが先にわたしに気づいたようで、奥の窓際の席で、ふくよかな中年の担任が手招きしていた。
「話って、なんですか」
 あいさつも、そこそこに話を切り出す。
「うん。渡辺、今朝お父さんから電話があってな」
 嫌な予感が当たった。間違いなく病気のことだ。
 担任は少し声のトーンを落として、深刻な口ぶりで言う。
「三月いっぱいで、休学しますとのことだった」
「休学……」
 その響きにくちびるが震えた。病気のことには間違いなかったけれど、お父さんは一足飛びに話を付けている。
「残り一か月もないけれど、ちゃんと授業を受けるんだぞ。あと、体育の先生には見学できるように話しておくから」
 担任はもちろん事情を知っているけれど、あえて口には出さなかった。憐みを帯びている目に、わたしは小さな声でハイと返事だけしか出来なかった。
 それからも色々言われたけれど、担任の言葉は頭に入ってこない。
 職員室を出てぼーっとしながら歩くと、行き交う生徒たちの騒ぎ声も耳鳴りがしているように聞こえた。
「わ――、ん?」
 どうしよう。どうしようもないけれど、どうしたらいい?
 学校を休むと言っても、再び学校に戻って来ることはないだろう。だって、その頃にはもうみんな卒業している。わたしだって――
でも、お父さんが学校に行かせないって判断したら、当然もう通えない。お父さんだって何も意地悪でやっているわけじゃないことは分かっている、でも。
 もう少しだけ、女子高生でいたい。生きている間だけでいいから。
 こんなこと一つ、思い通りにならないなんて――

「渡辺さんッ!」
 いきなりグイッと腕を引かれた。振り返ると山崎がわたしの腕を掴んでいる。
「危なかったよ。階段、見えていないの?」
「あ……」
 足元を見ると、あと五センチぐらい先に階段がある。山崎が止めてくれなければ、足を踏み外して転げ落ちているところだった。
「ありがと」
「大丈夫? 顔色悪いけど……」
 山崎は腕を離して、顔を覗き込んでくる。
「ははっ! そんなに変な顔してる? まあ、たったいま死刑宣告されたとこだもんね」
 空元気で笑って見せたけれど、どう見ても引きつっているだろう。
「え? しけ……」
「山崎も分かっていたでしょ。どうせ、そのうちわたしが消えてなくなるって。思ったより早かったみたい。笑っちゃうよね!」
 言わなくていいのに、余計なことが口をついてスルスルと出て来る。
 お父さんや担任の前だと何も言えなかったくせに。事情を知っているからか、どこか下に見ているせいか、山崎の顔を見ると堰を切ったように感情が漏れ出た。
「えっと、ちょっとここじゃあれだから場所を変えようか」
 山崎はチラチラと周りを見る。確かに普通に人が歩いていて何を聞かれてもおかしくない。わたしも人に聞かれるのは嫌なので口を閉じた。
 わたしと山崎は食堂に移動した。朝のホームルーム直前の時間なので、全く人がいない。
「はい」
 山崎が自販機で紙パックのオレンジジュースを買ってくれた。
「落ち着いた?」
「……別に。最初から落ち着いているし。山崎、サボっていいの?」
「ああ。ホームルームぐらい、うん。全然、平気だよ」
 ストローを刺して、ジュースを吸い込む。酸味の効いた甘みが脳に染みていく。高ぶっていた気持ちが、少しずつなだらかになっていく気がする。
 ふと、テーブルに置かれた山崎の指が震えていることに気づいた。わたしが見ていることに気づくと、山崎は見えないようにテーブルの下に隠す。
「はは……。僕の方が落ち着いた方がいいみたいだ」
 ぎこちない笑みは本当に無理をしているようだ。わたしが少しおかしなことを言ったからだろうか。
「さっきのは嘘じゃないんだよね。その……、もうすぐ渡辺さんが居なくなるって」
「まあね。三月いっぱいで休学だって。お父さんがいよいよ病院に入院させるって。……お父さんの方が正しいって、分かってはいるんだけどね」
「やっぱり、がん?」
「うん。肺がん。……信じてなかったの? だって、あんた。わざわざ、やりたいことリストって……」
 あんな行動をしていたから、てっきり嘘が見破られたと思っていた。
「あ、えっと。ごめん。半信半疑だったっていうか。あれを渡辺さんと作りたいっていうのが、そもそもやりたいことだったから。えっと、その、青春っぽいし。……ごめん」
「別に、謝る必要はないけどね」
 そもそもやりたいなんて、わたしには無かった。それが分かっただけでも、良かったのかも。
「学校で知っているのは、担任と山崎だけだから。誰にも言わないでよ。たぶん学校辞める直前ぐらいに言うから」
「……宮野くんには?」
 山崎は遠慮がちに聞いた。わたしは少し目を細める。
「陽介にも辞める前に言うよ」
 学校を辞める前に、陽介ときっぱりと別れなければならない。あまり直前に別れると、陽介も気を使ってしまう。別れてから出来るだけ期間を開けた方がいいだろう。
 それならもう本当に時間がない。そもそも別れた後に、わたしが入院したと話が広まったら陽介が学校に居づらくなってしまうかも。
 わたしはない頭を一生懸命ひねる。
「そうだ。何なら病気で休むんじゃなくて、転校したことにならないかな。ほら。元気が取り柄のはずのわたしが病気で居なくなったら、なんか空気悪くなると思うんだよね。学校がお通夜みたいになったら嫌じゃん。だから、円満に転校したことにしてさ。なんなら、海外にでも行ったことにして、本当にやりたいこと出来たーって」
 わたしがつらつらと思ったことを並べ立てると、山崎はぽかんとした顔で見ている。
「……なにバカなことを言っているんだって、顔しているけど?」
 わたしはストローをくわえて、山崎をねめつける。山崎は慌てて手を振った。
「い、いや! そんなこと思ってないよ。ただ、渡辺さんは自分が大変なのに残った方のことを考えているんだなって思って」
「なに。悪い? まあ、実際。病気の実感はあんまりないしね。学校辞めるって言っても、すごく嫌だけど、それもまだ現実味湧かないし。だから、あんまり波風立てたくないじゃん」
「でも渡辺さんや僕がいくら秘密にしても、どこかで誰かが必ず気づいてしまうと思うんだ。そうなると、もっと雰囲気悪くなると思う」
「……そっか」
 確かに本当のことを後から知った方が後味も悪いかもしれない。
「渡辺さんは学校が好きなんだね」
 山崎は微笑みながら言う。
「……別に好きって言うか」
 学校というより、女子高生の自分が好きなのだろう。
「でも、女子高生じゃないわたしなんかに価値なんてないし」
「そうかな」
 山崎は違うとでも言いたげな顔をしている。
 でも、わたしは山崎みたいに勉強が出来るわけでもない。美玖のように絵を描くことが上手いわけでもない。陽介のように誰でも隔てなく優しいわけでもない。
 それでも、ただ制服を着て友達と笑っているだけで、何でも出来る気がした。
 ある意味、まやかしの万能感。
 別にさ。手が届かないものに、手を伸ばしたわけじゃない。
 みんなが持っている、まだ持っていられたはずのものなのに――
「やりたいこと、やろう」
 山崎の声に顔を上げる。
「宮野くんや聖ちゃんと一緒にさ。三月中はまだ自由に動けるんだよね」
「……そうだけど」
「ぼ、僕が! 渡辺さんがやりたいことを全部叶えるよ!」
 立ち上がって宣言する山崎。勢い余り過ぎて眼鏡がズレるので、サッと元に戻す。
 あまりの勢いに思わず何度も瞬きしてしまった。きっと何とか元気付けようとしてくれているのだろう。別にやりたいことはない。だけど、真剣な山崎の顔を見ているとそうとは言えなかった。それに陽介と一緒という点に惹かれた。
 きっと二人だけで会うと、わたしは不自然な態度を取ってしまうだろう。本当はもう少し恋人気分を味わいたかったけれど、そうとも言っていられなかった。それなら、四人で過ごして少しずつ距離を取って行くのがいいのかもしれない。
「まあ、そうだね。普通にリストを進めようか」
「ッ! うんッ!」
 空回りをしているけれど、何だかんだ山崎っていい奴だな。もっと早く話していても良かったのかもしれない。

 昼休みになると、陽介と中庭のベンチでご飯を食べる。
「珍しいな、渉。食欲ない?」
 わたしは購買部で買って来たおにぎりを一口かじっただけだ。
「ううん。ちょっと考え事していただけ!」
 わたしは慌てて、もう一口無理やり頬張った。
「ああ。朝、先生に言われたっていう進路のこと? 調べものをするから、しばらく一緒に過ごせないんだっけ? なんで、渉だけ言われたんだろうな」
 進路の調べものなんて、朝に担任に呼ばれたことを誤魔化すための苦し紛れの嘘だ。
「あー、うん。進路調査で適当に書いていたせいかも」
「へー、オレも結構適当だったけど」
「まあ、いいじゃん! 進路のことはさ! それより、美玖がさ!」
 わたしが話をそらそうとしたときだ。
「渡辺さん! 宮野くん!」
 振り返ると、山崎がスマホを掲げて走ってきている。いいタイミングだ。
「どうしたの、山崎。何かいいことあった?」
「いや、いいことっていうかさ。今日の放課後、ここに行かない?」
 スマホで見せて来た画像にわたしは眼を輝かせる。
「うわっ! 美味しそう!」
 イチゴのシロップと生クリームがたっぷり乗ったパンケーキだ。
「新しく出来たカフェみたいなんだ。行くでしょ?」
「行く行く!」
 思わずその場でぴょんぴょん跳ねてしまう。昨日もパフェ食べたじゃんとか脳裏をかすめたのは徹底的に無視だ。食欲なくても、可愛いものにはテンションが上がる。
「早速だな、山崎。オレも行くけど、このパンケーキは甘すぎだな」
「甘くないメニューもあるみたいだよ。じゃあ、聖ちゃんも呼んでっと」
「あー……、あの子のやりたいことだもんね」
 まさか三人だけで行くわけにもいかない。山崎はすぐにスマホでメッセージを送る。
「返事ないな。まあ、放課後までには気づくよね」
 放課後。三人で学校から向かうと、待ち合わせの駅前に義理の妹はやって来た。
「はあ、はあ……。遅くなってごめんなさい。放課後までスマホの電源切っていて……」
 わたしたちに必死に言い訳をしながら頭を下げる。
「そんなに待ってないから、ちょっと息を整えようか」
 気遣うように陽介が義理の妹の背中をさする。
「ねー。早く行こうよ」
 わたしは待ちきれないと、少し先に歩いて指をさす。
 だけど、山崎が笑顔で反対方向を示した。
「渡辺さん、そっちじゃなくてこっち」
「ははっ。渉は地図読めないからな」
「すごく大胆に間違えたよね」
 からかう男子二人に口を尖らせて、Uターンする。
 駅から山崎のナビでカフェに向かった。
「ねぇ、渉ちゃん。……いいの? わたしが一緒で。彼氏と、……二人じゃなくていいの?」
 隣に来た義理の妹が恐る恐る聞いて来る。
「ああ」
 一瞬、何のことを言われたのかと思ったけれど、昨日わたしがお父さんとケンカしたことを気にしているのだろう。
 その原因は義理の妹と無理やり食事に行かされたことだ。でもあれは食事に行ったこと自体よりも、裏でこそこそ画策されたことに怒っていた。
 それに昨日と今じゃ状況が違う。あまり陽介と二人だけで過ごすわけにはいかない。
「まあ、あんたが言いだしたことなんだから、居ないわけにはいかないでしょ」
 とはいえ、それを説明するには病気のことも言わないといけないので当たり障りのないことを言っておいた。
 少し歩いてやって来たのは、奥まったところにある隠れ家的なカフェだ。
 わたしじゃなくても迷うだろう。そんな場所にあるにも関わらず、人気があるようで数人店の前に並んでいる。
「陽介、何食べる? わたしはもちろんイチゴのパンケーキ!」
 店員の人に配られたメニューを見ながら尋ねた。
「そうだな。ティラミスがそんなに甘くないって書いてあるから、それにしようかな」
 陽介は甘さ控えめと書かれたティラミスを指さす。それも美味しそうだ。
「一口ちょうだいね!」
「ははっ、いいぞー」
「聖ちゃんは何が食べたい?」
「えっと……」
 義理の妹は山崎が見せて来るメニューに目をさ迷わせる。
「……わたしも、ティラミスで」
「え、本当? でも、ここってパンケーキが一番美味しいみたいだよ? 僕はチョコバナナのパンケーキにしようと思っているんだけど」
「甘いもの苦手で……。あ! でも、こういうオシャレなカフェとか来たことなかったんで、呼んでもらえて嬉しいです」
 山崎が「そっか……」と微妙な顔でつぶやく。失敗したと思っているのだろう。
 義理の妹が食べたかった美味しいものとは違うかもしれないけれど、それはわたし以外の三人で行ってもらうしかない。どうしても行きたかったらの話だけど。
 そうこうしているうちに、順番が回って来た。店内に入ると、外見通りオシャレでナチュラルな内装で、店員さんも大人でオシャレな雰囲気の人が働いている。
 ちょっとわたしみたいな少し派手めなギャルは浮いているけれど、美味しいパンケーキが食べられれば問題なし。
 わたしたちはそれぞれ食べようと思っていたメニューを注文する。

「やばい! この可愛さやばい!」
 わたしはやはり目の前に来たパンケーキに興奮を抑えられない。スマホで写真をたくさん撮る。
「渡辺さんが楽しそうでよかったよ。昨日のイチゴパフェ、美味しそうに食べていたからさ」
 あれ? と思った。
 美味しいものを食べに行くという、やりたいことは義理の妹の願望だ。
 でも、山崎は聖と言うより、わたしを喜ばせるためにこの店を選んだみたいに聞こえた。義理の妹へのリサーチはしていないようだし、昨日のわたしの様子を見て同じイチゴのメニューがあるところを選んだのだろう。
 もしかして、山崎なりにわたしを元気づけようとしてくれているのかもしれない。学校を休学するのが嫌だと落ち込んでいる姿を見たから。
「それじゃ、ありがたく。いただきまーす!」
 それなら、美味しくいただかなければ罰が当たるというものだ。
 ゆっくりと生地にナイフを入れる。ひと口大に切って、生クリームとイチゴのソースをたっぷり付けた。フワフワの食感に甘酸っぱさとクリーミーな甘さが口いっぱいに広がる。
「美味しーッ! これ神じゃん!」
「そんなに美味いの? 味見させて」
 わたしは同じようにひと口大にソースをたっぷりつけて、陽介の前に差し出す。大きな口を開けて、陽介はかぶりついた。
「おー。ちょっと甘過ぎるけど、うまいな!」
「でしょー。陽介もパンケーキにすればよかったのに。あ! ティラミスちょうだい!」
 わたしと陽介が食べさせ合っていると、横から視線を感じる。
「……なに?」
 義理の妹と山崎が食べもしないで、こっちをジッと見ていた。
「いや、だって。二人で来ているならまだしも、わたしたちも一緒なのに……」
 義理の妹は顔を伏せて、フォークでティラミスをつんつんしている。
「しょうがないじゃん。お互いの食べたいんだし」
「い、いや! 渡辺さんがやりたいことをやればいいと思うよ! うん!」
 山崎がやりたいことと言うから、今まで夢の中にいるような感覚だったのに、突然現実に引き戻された。
 イチャイチャしている場合じゃない。さすがに今日は無理だけど、わたしは陽介に別れてって言わないといけないんだから。
 わたしはもう一度、夢の中に行くために甘いパンケーキを頬張る。
そうこうしている内に、隣に新しい客が案内されて来た。
「へー、店内も良い感じー」
 隣の席に座ったのは中学生二人組だ。よく知る黒いセーラー服、わたしが卒業した中学であり、義理の妹が着ている制服でもある。こんな所まで来るなんて珍しい。
「え。やばくない?」
「すごいカッコいい」
 二人の女子中学生は、陽介を見てソワソワと目線を投げて来た。よくある光景に、わたしは反応しないで食べ進める。
「あれ? え、一緒にいるのって……」
「渡辺じゃん」
 義理の妹の肩が震えて、フォークが食器に当たる音が響いた。どうやら、知っている子たちのようだ。けれど、仲が良いとはまるで思えない。
 現に義理の妹の表情は硬く、女子中学生の二人はニヤニヤと笑いながら話しかけ始めた。
「おーい、渡辺さん無視ですかー」
「なんだー。仲のいい友達いるんじゃない」
「いつも、ぼっちなのにねー」
「チャラ高の人と仲いいなんて、意外ー」
 チャラ高と笑われるにしても、居心地が悪かった。だけど、義理の妹が反応しない以上、わたしたちも口を出しづらい。
「ていうか、渡辺、パンケーキ食べてないじゃん」
「本当だ。わざわざ遊んでもらっているのに、空気読めなさすぎじゃない?」
「ねー。だから、友達一人も居ないんだよねー」
 友達が一人も居ない? 本当に一人も?
わたしはつい義理の妹の顔を見る。すると、義理の妹は俯いて震えていた。堪えているのだろう。あまりの顔の赤さに涙が出ていないことが不思議なくらいだ。
「今日だってさー」
「なあ、そこの人たち」
 さすがに黙って居られないと陽介が口を出そうとした。
「ダサ」
 ガシャンとわざと音を立てて、ナイフとフォークを皿に置く。一気にわたしに注目が集まった。
「こんな素敵な場所にわざわざ口汚いこと言いに来たわけ? この子が気に入らないにしても、黙ってパンケーキ食ってなよ」
 わたしは目力を込めて女子中学生たちを睨みつける。睨みが効いたようで二人はたじろいだ。でも、それも一瞬のことだ。
「な、なに? チャラ高のギャルが説教とか」
「やだー。おばさん、こわーい」
 全く話にならない。
「時間の無駄だから早く食べて出よう」
「え、あ! うん!」
 陽介と義理の妹はほとんど食べ終えていたから、わたしと山崎は黙々とフォークを動かす。その間も隣で何か言っていたけれど注文したパンケーキが来たら、そっちに夢中になっていた。わたしたちが店を出て行くときも気づいていない様子だった。

「で?」
 わたしを先頭にずんずんと進んで、駅近くにある公園の真ん中にやって来たときに振り返った。
「で?」
 山崎が首を捻る。義理の妹は終始うつむいていた。
「なんで黙っていたの」
 わたしが正面から見つめると、義理の妹は視線を横に逸らせる。
「……なんでって。何を言い返しても無駄だって、渉ちゃんだって言っていたでしょ」
 もじもじと手遊びしながら答えた。でも腑抜けた答えでは、こっちは納得しない。
「そりゃ、わたしが何言っても無駄だけど。あれだけ馬鹿にされて、何であんたまでずっと黙ってんのかって聞いているの。少しぐらい言い返さないと、どんどんつけあがっているじゃない! それとも何? 弱みでも握られて、暴力でも振るわれてんの!?」
「そういう訳じゃないけど……」
 わたしがどれだけ声を張っても、しぼんだ声しか返ってこない。本当に毎日のようにわたしと言い争っている奴と同じ人間とは思えなかった。
 陽介も見ている。いつもと違うわたしに少し驚いている様子だ。野蛮な女だって嫌われるかも。……別にそれでもいい。
 今はそれよりも沸々と湧き上がる感情をとにかく相手にぶつけたかった。
「ま、まあ、渡辺さん。聖ちゃんだって、出来ることならどうにかしたいって思っていると」
「うるさい! あんた、邪魔!」
 間に割って入って来ようとする山崎を押しのける。
「大体ね! 友達が一人も居ない!? どう考えたって、あんたに原因があるでしょうが!」
「お、おい、渉」
 陽介も止めに入るけれど、わたしは止まらない。
 だって、わたしは知っている。
 義理の妹は確かに空気が読めなかったり、愛想が無かったりするけれど、誰とも仲良くなれないような人間ではない。現に陽介や山崎とは少しは打ち解けている様子だし、以前はわたしとも一緒に遊んでいた。
「別にあんたの周りの世界なんて知らないけれど、あんなのばっかりじゃないでしょ!? あんな奴ら、あんたじゃなくても常に見下す人間を探してんの。でも、あんたは周りの人間なんて、全員こんなもんだって勝手に大ざっぱにくくって。一人ひとりを全然見ていない! だから、ずっと一人なんでしょッ!」
「……ッ! それは、だって……!」
 顔を上げるけれど、言い返してこない。
 もしかしたら、同じような嫌がらせを繰り返されて心が冷えて固まってしまっているのかもしれない。そうした方が楽だから。
 ――わたしも、そうだった。
 中学一年生の終わり頃、わたしは学校で孤立していたのだ。
 クラスで何かトラブルを起こしたわけではない。ただ、不良の上級生から目を付けられたのだ。お前の目つきが生意気だという、単純明快な理由だった。
 確かにわたしの眼はつり目気味で、何とも思っていないのに怒っているのかと聞かれることもある。いまはメイクでカバーしているけれど、中学時代はそうはいかなかった。
 しかも、気も強い。思わず言い返してしまって、完全にロックオン。
 廊下ですれ違えば確実に罵声を浴び去られて、教室に居てもわざわざ絡みに来ていた。人気のない所に連れていかれることも、よくあった。
 そうしていると、自然とわたしの周りからは人が居なくなる。今まで仲良くしていた子たちも離れて行って、わたしは独りになった。正直もう人間なんて二度と信じない、全員敵だとまで思っていた。
 でも、ある日一冊のノートを拾う。
 名前も書いていないので中をパラパラとめくると、鉛筆で絵が描かれていた。女の子や動物の可愛らしいイラストに、わたしはついじっくりと魅入ってしまう。
 そうしていると、ノートは自分のものだと言って来る人がいた。
 それが美玖だ。わたしは渡すときに「すごいね、可愛いね」とつい言っていた。言いながら、きっと何も無かったように避けられるだろうと予想していた。わたしが接するとそういう態度ばかり取られていたから。
 だけど美玖は眼を輝かせて、「本当? 嬉しい」と笑ってくれたのだ。それを見て、なんだ全然敵じゃないじゃんって分かったんだ。
 それから絶対に大丈夫なときだけ、美玖やクラスメイトに話しかけるようにした。笑顔でわたしは敵じゃないって知らせるように。
少しずつだけど、こわばっていた態度は優しくなっていった。
 絡んでくる上級生たちが卒業するまではぎこちない関係は続いたけれど、あのとき美玖の笑顔を見なければ、ひねくれたままだったかもしれない。
 義理の妹はあのときのわたしと同じような道を辿ろうとしている。関係ないと言えば関係ないけれど、昔の自分を見ているようで異様に苛立ったのだ。
「だって……」
「だってなによッ! ちょっとくらい戦ってみなさいよ!」
 わたしは義理の妹の襟元に掴みかかった。
「お、おい!」「ぼっ、暴力は!」
 陽介と山崎が羽交い締めにして止める。
「だって、渉ちゃん……。わたしのこと嫌いになったじゃない」
「え?」
 わたしは手を引っ込めた。義理の妹はこちらをジッと見つめたまま、ボロボロと涙を流している。
「渉ちゃんがわたしのこと嫌いになって、それがショックで、どうしたらいいか分からなくて、それで学校でも明るく振舞うとかできなくなって」
「な、なに。わたしのせいだって言うの?」
 戸惑うわたしにこの日初めて、義理の妹は声を荒げる。
「だって! お母さんたちが再婚する前までは、仲良くしてくれていたじゃないッ!」
「再婚? どういう……」「いいから」
 山崎が口を挟もうとするところを陽介が止めている。
 義理の妹は泣いたまま、言葉を続ける。
「前の渉ちゃんは派手な見た目だけど、いつもニコニコしていて、つまんないわたしとも仲良くしてくれて」
「そりゃ、昔は」
「分かっている……。お母さんがお父さんと仕事の関係者だから、わたしにも気を使っていたんだって。でも、それでも……。渉ちゃんはわたしの憧れだったの……」
 確かに再婚する前、義理の妹はわたしに会うたびに嬉しそうにしていた。言葉とか態度とかには出さないけれど、何かとわたしの隣に来たがって、よく話しかけてくる。
 そのときは本当に妹になるとは思わなかったから、わたしも妹が出来たみたいで嬉しかった。何でも話を聞いたり、ひとつ結びにばかりしていたから髪をアレンジして遊んだりしていた。
「でも、でも……。再婚した途端に、渉ちゃんがお母さんに攻撃するようになって、だからわたしが守んなくちゃって。だって、わたしにはそれまでずっとお母さんだけだったから……。大事な、お母さんだから」
 ――わたしだって、お母さんが大切だから。
 くちびるにまで出かかった言葉を、すんでのところで飲み込んだ。
 いま、初めて彼女が必死に母親を守っていることに気づいたからだ。もちろん知ってはいたけれど、わたしに対する対抗心やもっと口先だけのものかと思っていた。
 でも本当はそれより、もっと深いものかもしれない。
 それに彼女の母親は現実に居て、わたしには居ないんだ。もしかしたらわたしが守っているのは、本当のお母さんじゃなくて、わたしの心の中に居るお母さんなのかもしれない。だから守っているのはお母さんじゃなくて、――わたし自身。
 そう思うと、わたしの眼の端からも涙が流れて来る。
「なん、だよ……」
 似ているのに、決定的に違う。そんな彼女はわたしの変化に気づかずに、ボロボロと涙を流している。
「でも、学校でずっとあんなんで、友達も居なくて、ずっとひとりで、もう消えて無くなりたい……」
「聖ちゃん」
 わたしは再び間に入って来た山崎を押しのける。
「聞いてなかったのかよ。あんたは昔のわたしに会えたんだからさ、そういう人間が他にもいるに決まっているじゃん。バカ聖」
「渉ちゃん……」
 わたしはいつの間にか、泣きじゃくる義理の妹の頭を抱いていた。約一年ぶりに名前を呼ぶ。わたしが傍にいるからとは言えなかった。