チャイムが鳴って朝のホームルームが始まっても、心臓は収まってくれない。
 たった二週間前に付き合いだしたのだから、慣れないのも仕方がなかった。陽介はとにかくスキンシップが多い。
 それはわたしに限らず、元カノたちと付き合っていたときもそうだったし、クラスの男子たちとはよく肩を組んでいる。元々そういう奴なのだ。
 わたしも中学のときと、高一のときに彼氏がいたから、陽介は三人目の彼氏。
だけど、元カレたちとは、それほどベタベタした関係じゃなかったから、陽介の一つ一つの動きに緊張する。
確実に二人きりになれる陽介の家に行きたいと言ったら、もっとイチャイチャ出来るだろう。わたしには時間があまりないんだし、何でも早い方がいい。
 とにかく、わたしの頭の中は陽介でいっぱいだ。
そうこうしているうちに教壇ではホームルームがもう終わっていて、一時間目の先生が授業を始めている。黒板には数字が並んでいるけれど、何も頭に入ってこない。授業の内容は右の耳から左の耳に、全く脳を経由せずに流れていく。
 でも、たぶんわたしだけじゃないはずだ。みんな、退屈そうに窓の外を眺めたり、あくびをしたり。先生も特別おしゃべりでもしてなければ注意しない。
 と、思ったけれど――
「山崎! 山崎!」
 先生が声を張り上げて、名前を連呼する。
「は、はい!」

 一人の男子生徒がガタガタと椅子を鳴らして立ち上がった。
 セットもしていないだろう黒髪。ピアスもしていなくて、制服も上のボタンまで全部留めている。いかにもガリ勉な黒縁メガネをしていた。
 山崎はこの学校では、とても珍しいタイプだ。ほとんどの生徒が真面目に授業を聞いていない中、彼だけが勉強をしに学校に来ている。
 いつも教科書どころか参考書を開き、机にかじりついていた。社交性の乏しい彼は男子とすら、ほとんど話さない。もちろんテストの順位は毎回一番上に名前が書かれている。体育以外は何でも出来た。
 小耳にはさんだ話によると、ほとんどの生徒が専門学校か就職を選ぶ中、山崎は大学に進学するらしい。それも国公立の難関大学。
 そんな人がそもそもどうしてこの学校に通っているのかとは思うけれど、クラスの人間には割と重宝されていた。数学や英語が当たるときに、ノートを見せてもらうためだ。
 山崎も特にごねることもなく、すぐに返してくれるならと渡してくれる。わたしも何回かお世話になった。
 とにかく自分には真面目な山崎。そんな山崎が授業中に注意されるなんて、初めてのことだろう。
「この問題を解きなさい」
 集中していなかった罰とばかりに、先生は黒板に書かれた数式を指す。
 山崎は立ち上がって、ノートも見ずにスラスラと解いて見せた。先生は「うん、正解だな」と小さくつぶやいた。
「もう三年だからな。よそ見するなよ」
 山崎が厳しくされることを望んでいるのか、有名大学進学に対する期待が高いのかは分からない。でも、他の生徒にはわざわざ言わない言葉だった。
 はい、すみませんと山崎は軽く頭を下げる。黒板の檀上から戻って来るときに、ふとこちらを見た。わたしと目が合う。あまりに正面から見つめ合ったので、バチッと音がしたような錯覚がした。けれど、山崎はすぐに視線をそらす。
 なんだろう。わたしの方を見ていたのかな。でも、きっと偶々だろう。でも、それは決して偶然なんかじゃなかったんだ。

 午前最後の授業、四時間目は体育だった。風邪気味ってことで休んでも良かったけれど、他の場所に一人でポツンと座っているのも寂しかったから出席した。
 体育館で適当にチーム分けされて、バレーの試合をする。
 わたしは元々運動が得意じゃないし、適当に返せない振りをして流す。周りもあんまりやる気がなかったから、すぐに負けてしまった。あとは試合を見ながら、おしゃべりをしている内に体育の授業も終わる。
 さほど汗もかいていない体操服を更衣室で着替えて教室に戻ってきた。お昼ご飯は陽介と食べると決まっている。
 しかし、荷物を置きに自分の席に戻ると、机の上に四角く折りたたんだノートの切れ端が置かれていた。
「なにこれ」
 渡辺さんへと書かれている。手に取って広げて見ると、その内容に思わず目を見開いた。
『あなたの秘密を知っています。一人で体育館の裏に来てください』
 少し角ばった文字で書かれている。紙を握る手に汗がじんわり滲んだ。
 わたしの秘密――
 このタイミングで秘密というと、病気のことしか心当たりはない。
 でも、昨日の今日だ。いくらなんでもバレるのが早すぎる。
「渉、どうした? 昼飯にしようぜ」
「わっ!」
 わたしは思わずパンッと音を立てて紙を二つに閉じた。
 横を見ると、陽介が不思議そうに首を傾げている。購買部で買って来た焼きそばパンやコロッケパン、メロンパンを両手で抱えていた。
「え、あ、えっと……」
 明らかに挙動不審なわたしに陽介はいぶかしむ。
「なにを見ていたんだ?」
「あ! だめ!」
 陽介が覗き込もうとしたので、思わず後ろ手に隠す。余計に陽介が眉をひそめた。
「オレに見られちゃまずいもの?」
「い、いや、その……。これ、告白の呼び出しっぽくて」
 とっさに思い付いた言い訳は苦しいものだった。でも他に適当な理由は思いつかない。
「告白? 渉はオレと付き合っているのに?」
「う、うん。わたしたちが付き合いだしたこと知らないのかも。だから、すぐに断って戻って来るね!」
 陽介の返事も待たずに、教室を飛び出した。向かうのは、もちろん体育館の裏だ。そこは、いつも人気(ひとけ)がない。
 秘密を知っているだなんて、何を脅すつもりなのだろうか。
 ぜぇぜぇ言いながら体育館の裏にたどり着くと、まだ体操服姿のひょろりとした身体つきの人物が一人で立っていた。
「山崎!?」
 そこにいたのは、間違いなくガリ勉の山崎だ。
「あ、渡辺さん。来てくれたんだ。走らなくても良かったのに」
 脅すように呼び出したくせに、気遣った言い方に腹が立つ。
「うるさい! 何よ、これ! あんたでしょ! わたしの机にこんなのを置いたのは!」
 握りしめていたノートの切れ端を広げて、山崎に見せつける。山崎は怒られているというのに、悪びれた様子もなくケロッとした顔で言う。
「ごめん、急にこんなことをして。だけど、僕は渡辺さんの力になりたいと思ったんだ」
「は??」
 わたしは思わず口を大きく開けたまま固まる。
 何を言っているのだろう、こいつは――
 力になりたい? 多少勉強が出来るからって、ただの高校生の山崎に何が出来るって言うの?
 そもそも、どうして病気のことを知っているのか。担任の先生にだって、継母たちにだって、陽介にすら言っていない。
 いや、その前に山崎の言っている秘密が本当に病気のことか確かめないと――
「わたしの秘密って、なんのこと?」
 腕を胸の前で組んで、殺気を込めて山崎を睨みつける。
「……昨日、渡辺さん病院にいたよね」
 山崎の言葉に背中に緊張が走るのを感じた。
 当てずっぽうに言っているわけではない。わたしみたいに遠目でも目立つやつを見間違うはずもなかった。
「なに? 山崎、昨日病院に行ったの? というか、あんたも学校休んだんだ。誰もそんなこと言ってなかったけど、存在感なさすぎじゃない?」
 否定するのも不自然なので、話題を少しでもズラそうとする。
「うん。偶々、同じ病院で入院していた父さんが退院したからさ」
 山崎はわたしの揺さぶりには動じず、真剣な、でも震えるような声で続けた。
「それで手続きとかが終わって、帰るときに病院のロビーで聞いたんだ。渡辺さんががんで、余命宣告されたって……」
「病院のロビーで? ああ」
 やっと納得がいった。あのおしゃべりなおばさんたちに言ってやったことを、どこかで山崎も聞いていたのだ。それならいくらでも誤魔化しようがある。
「あはははッ!」
 わたしは、ちょっとわざとらしいぐらいお腹を抱えて笑う。途端に山崎がキョトンとした表情をした。
「渡辺さん?」
「あんた、あんなの信じてんの? がんなんて、あの嫌味なおばさんたちを黙らせるための嘘に決まってるじゃん!」
 山崎は口を開けたまま、「でも」とつぶやく。これ以上、何かを言う前にわたしは畳みかけた。
「確かに病院に行ったけど、ただの風邪。うちのお父さんが心配症で大きなとこに行きなさいって言われたから。だから、山崎の勘違い。お分かり?」
「でも、渡辺さん」
「それに例えわたしが何かの病気だとしても、山崎には全く関係ないでしょ」
「そんなことはないよ!」
 山崎は辺りに人がいたら振り返るような声で言い張った。ほとんど接点なんてないのに、なんでわたしに関わって来ようとするのだろう。
 大体、わたしが病気だからって、何をしてくれると言うんだ。
「とにかく秘密も何も、全部山崎の勘違い。話は終わり。じゃーね」
「でも……」
 わたしが背を向けても、山崎は後ろでごにょごにょ言っている。
 ある意味、バレたのが山崎で良かったと思った。あいつが誰かに病気のことを話しても、クラスメイトの誰も信じはしないだろう。

 放課後になると、わたしは心を弾ませて陽介の元に行く。
「遊びに行こう、陽介!」
「おう!」
 二人で手をつないで、教室のドアに向かった。途中で自分の席に座っている山崎がこっちを見ていることに気づく。何か言いたげな視線だ。
 だけど、話す必要なんて一ミリもない。陽介の顔を下から覗き込んで言う。
「わたし、買い物したいな」
「いいよ。駅前の方に行こうか」
 学校を出たわたしと陽介は電車に乗り、この辺りでは一番大きな駅に向かった。
 電車の中でも、駅ビルの中に入っても、わたしと陽介は指を絡めて歩く。道を行く人たちがすれ違うと、みんなが振り返った。
 みんな、陽介を見ているのだ。顔がいいのはもちろん、普通の学生とはどこか雰囲気が違う。尖ったところがほとんどない。実際、怒ったところなんて見たことがないし、歩いているだけで柔らかい雰囲気が伝わるのだろう。
 陽介がちょっと笑って、わたしに話しかけるだけで中年のおばさんも頬を染めてこっちを見ていた。そんな陽介の大きな手に包まれているだけで、どんなにぶしつけな視線を向けられても最高の気分だ。
「どっちの色がいいと思う?」
 コスメを取り揃えている店で、二つのネイルのビンを陽介に見せた。どちらも新色でパステルな水色と柔らかいオレンジ色だ。
「んー」
 陽介は顔を近づけて見比べる。
「こっちだな。オレの渉のイメージに近いから」
 指をさしたのはオレンジのビンだ。
「ふーん。じゃあ、どっちも買おうっと」
「じゃあ、聞くなよー」
 笑ってわたしの頬を軽くつまむ陽介。確かにどっちも買うけれど、きっと陽介がわたしっぽいと言っていたオレンジ色の爪をしていることが多くなるだろう。
 でも、それは気づいてくれるまで内緒だ。
 ネイルを買ったあとも、二人で買いもしないのにショップで服を見て回る。アクセサリーも透明なショーケースに置かれていて、華奢な指輪も飾ってあった。銀色の星があしらわれたシンプルなものだ。思わずジッと見てしまう。
「指輪欲しい?」
「う、ううん。こっちのネックレスを見ていたの。ほら、猫の。可愛くない?」
 わたしは指輪じゃなくて、隣に飾られているネックレスを指さした。
「渉に似合いそうじゃん。買ってやるよ。この前バイト代入ったし」
「やった! 陽介大好き!」
 すみませんと、陽介が店員を呼ぶ。わたしはこっそり横目で指輪を見た。ネックレスも可愛いけれど、本当はこっちの方がわたしの好みだ。
 だけど、指輪は特別なものだと思う。自分で買ったこともないし、過去の恋人にも貰ったことはない。他のアクセサリーに比べて、指輪はなんだか拘束力が強い気がする。
 もちろん貰った方だけじゃなく、あげた方も縛られる。
 陽介はそういうの全然気にしないのかな。
 ネックレスを手に会計をしている陽介の横顔を見る。陽介の欲しいと聞いたときの声は、指輪を買うのに抵抗はない気がした。もしかしたら、元カノたちにはプレゼントしていたのかも。気にしないタイプだから、別れたらすぐに次に行けるのだろう。
 ――わたしには無理かな。いろんな意味で。
「ほら、付けてやるよ」
 陽介の手には、購入したばかりのシャラリとした鎖のネックレス。値札を外してもらったようだ。わたしが背中を向けると、横向きの猫のペンダントトップが胸の前に来る。
「どう? 似合う?」
 わたしは笑って、陽介を振り返った。
「うん。よく似合う。じゃあ、行くか」
 わたしたちは、また手をつないで歩き出す。
 少し動くたびに微かにネックレスが揺れた。指輪ほどきつく縛られるわけじゃない。わたしたちには、これぐらいの関係が心地よいのかもしれない。
 エスカレーターで一階上に昇ると、陽介がふと足を止めた。
「そうだ。本を見に行っていいか?」
「いいけど。陽介、本なんて読むの?」
 丸一年同じクラスで過ごしたけれど、本どころか教科書を読んでいる姿を見たことがない。それは、わたしも同じだけれど。
「本っていうか漫画。いま追いかけている漫画が単行本出ているはずなんだ」
 陽介はよく教室で友人たちと少年漫画の話をしている。アニメ化もして、わたしも名前を知っているぐらい有名なやつだ。わたしたちは書店の方へと向かう。
「オレ、すぐに買ってくるから、適当に時間つぶしていてよ」
「うん」
 陽介は心持ちウキウキしながら、漫画のコーナーに向かった。わたしはその間に雑誌でも見ようかと移動する。すると、あるものが目に入った。
 そこには書店員がおすすめの小説を紹介している棚が置かれている。文庫本が平積みにされて並んでいて、いたって普通の書店での光景だ。
 だけど、わたしは不快感に眉間にしわを寄せた。並んでいるうちの一冊を手に取る。
 そこには『三百六十五日後に死ぬ彼女。』とタイトルが書かれていた。表紙には透明感のあふれる絵で、黒髪の女の子が涙を浮かべつつ微笑んでいる。
「何これ」
 すぐそばには切ない物語を集めてみましたと、手作り感のあるポップが置かれていた。
 見ているだけで、むかむかと胃から生温かい液体がこみあげて来るようだ。気に入らないところはたくさんある。
まずタイトルの時点で、あまりに直接的すぎた。内容を想像しやすそうにしているのだろうけれど、もっと湾曲な言い方はなかったのだろうか。裏のあらすじを読んでみると、予想通り孤独な少年が病に侵された少女と出会う話だった。
 もう一度、ひっくり返して表紙を見る。ヒロインの少女はいかにも清純そうで、いかにも儚いイメージの女の子だ。守ってあげたくなるような可愛げのある女の子。
 わたしとはまるで正反対だ。
「こんなの……」
 本を持つ手に力がこもり、表紙の女の子の顔がわずかに歪む。
 ――こんなもの幻想だ。
 医者は間違いなくわたしに言った。病は人を選ばない。
 でも、この本の女の子は、いかにも病に選ばれたような気がする。若くして病に選ばれる人間は、儚くなくてはならない。清純でなくてはならない。
 多くの人が居抱くであろう、身勝手な偶像を体現しているような気がした。
 でも、現実にはわたしみたいな人間だって病に侵される。例えギャルでも、継母や連れ子と上手くいってなくても、彼氏と付き合い始めたばかりでも。
 わたしがどこの誰でも、何も関係ない――
「どうした、渉?」
「わっ!」
 突然肩にあごを乗せられて、思わず大きな声を出してしまう。あまりに意識が飛び過ぎていた。
「びっくりしたー」
 あごの主は当然陽介だ。背の低いわたしの肩にあごなんて乗せているから、かなり背中を丸めている。そのまま、視線をわたしの手元に落した。
「なに? 小説なんて読むの、渉」
「え。あ、ああ。うん。たまにはね……」
 本当はたまにも読まない。
 でも、どうしてこの本を手にしているか聞かれたら、すごく返事に困る。
「その本、面白そう?」
「う、うん。ちょっと手に取っただけだけど。えっと、買って来るね!」
 これ以上話を長引かせてボロが出ない内に、わたしは別に欲しくもない文庫本を買いにレジに向かった。

 陽介とフードコートでハンバーガーを食べて、お腹を満たす。
「ねえねぇ、このあと陽介の家に行ってもいい?」
 わたしはポテトをつまみながら尋ねた。
 時間は夜の七時。普通なら親がいる時間帯だけど、陽介の両親は仕事が忙しく、不在のことが多い。彼女になってからは行ったことはなかったけれど、クラスの友達十人ぐらいでパーティをしたことは数回あった。
「おう。いいぞ」
 陽介は快く頷いてくれる。
「やった」
 小さく拳を握って可愛らしく言ってみる。
 やっぱり軽いなと思ったり、元カノたちともそうしていたのかなとか思ったりするけれど、今夜はずっと一緒にいられると思うと心が弾む。
 数駅分電車に揺られて、陽介の家にやって来た。相変わらず大きなマンションだ。
 たぶん、住んでいる人たちはみんなお金持ちなのだろう。駐車場に並んでいる車も高級車ばかりだ。陽介は慣れた様子でオートロックを解除して、マンションに入っていく。
「お邪魔しまーす」
 陽介の家に入っても、やっぱり誰もいなかった。
 電気も付いていないので、陽介がスイッチを押しながら奥に向かう。
 シンプルな家具が置かれている広いリビング。冷えた空気のせいか、二人だけだからか、どこかもの寂しさを感じた。
 暖房をすぐに付けるけれど、すぐには暖まらない。
「コーヒーにする? 紅茶にする? ココアもあったはずだけど」
 わたしが身を縮ませているのを見てか、陽介がキッチンに向かう。
「あ。わたし淹れるよ」
「いいから座っていて。渉は甘いもの好きだから、ココアにしような」
 相変わらず陽介は優しい。イケメンで、家が金持ちで、その上気が利く。
 これでモテないはずがない。歴代の彼女たちは何が不満で別れて来たのだろう。わたしなら、もし別れを切り出されても絶対に別れない。
 ――もちろん、病気がなければの話だけれど。
 電気ポットですぐにお湯が沸き、陽介がソファに座っているわたしの所にマグカップを持って来た。
「お待たせ。マシュマロもあったから浮かべておいた」
「わぁ、ありがとう」
 マグカップを受け取って口に運ぶ。温かくて甘くて、ほっとする味だ。
「どうする。映画でも観る?」
 隣に座った陽介がテーブルのリモコンを手にする。ソファの前にはかなり大きなテレビが置かれていた。
「うん。何があるかな」
 映画配信サービスなので選び放題だ。陽介とこれは見たとか、これは面白かったとか話しながら、結局二人とも観ていない昔の評判のいいSF映画にすることにした。
 オープニングが終わって、主人公の少年が登場したときだ。
「陽介。誰か来ているのか?」
 後ろから声がして、思わずビクッと身体が跳ねた。ゆっくり振り向くと、男の人が立っている。上下黒いスエット姿で、癖のある黒髪をアシンメトリーにセットしていた。
 上から見下ろされているせいか、少し怖い。
「だ、だれ?」
「お前こそ誰だよ」
 不機嫌そうな声で言い、わたしをジッと睨みつけて来る。
「あ。アニキ……」
「え、陽介のお兄さん?」
 確かに目元が陽介に似ている気がした。
 陽介の家族なら、ここに居ることにも納得だ。いつ来ても他の家族とは会ったことは無かったけれど、陽介のお兄さんなら大学生だろう。
「え、えっと、お邪魔しています」
 こういうとき、どうしていいか分からない。とにかく立ち上がって頭を下げた。
 しかし、陽介のお兄さんは、はーっ……と長いため息をつく。
「……お前、もう高二の三月だぞ。勉強しなくていいのかよ。大体、前に見た子と違うけど」
 わたしは頭を上げても、どうしていいか分からない。オロオロと陽介とお兄さんを交互に見るばかりだ。
「前にアニキが会った子は別れたし、二股じゃないから。それよりアニキ、何しに帰って来たんだよ。大学は?」
 陽介が立ち上がって、わたしを少し後ろに退けてくれる。陽介の声はいつもになく焦っているように感じた。
「なんだよ。どうして自分の家に帰って来るのに、お前の許可がいるんだよ。入学式のスーツが届いたから、取りに来たんだよ」
 入学式ということは、四月から大学生なのだろう。でも、その割にはこの家で会うことがなかった。ずっと部屋に籠っていたのだろうか。
「大体、二股じゃなければいいって訳じゃないだろ」
 明らかにわたしを見る目は、嫌悪感をにじませている。別に悪いことはしていないのに。
 陽介のお兄さんは棘のある口調で続けた。
「親のいない家に彼女を連れ込んでイチャつくとか、もうすぐ高三になる奴がすることじゃないはずだけど」
 やけに陽介が高三であることを気にしている。もしかして、陽介は受験をするつもりなのだろうか。うちの高校は卒業したら大概が就職するか、専門学校に行く。
 ただ、進学する人もいない訳ではない。聞いたことはないけれど、こんなお金持ちの家庭なら大学に進学することを望まれていても不思議ではない。
「……その話は、また父さんと母さんがいるときでいいだろ」
 陽介は後頭部をかきながら言う。だけど、はぐらかすような態度が気に入らなかったらしい。陽介のお兄さんはギッと殺気のこもった眼で陽介を睨みつけた。
「いいわけないだろうがッ! お前は昔からそうだ!」
 陽介と似た声で叫ぶものだから、わたしは肩が跳ねるほど驚いた。
「オレが一浪したのに、なんでお前が現役で合格できると思っているんだ!」
「いや……」
「大学行かないとか言うつもりじゃないだろうな! あんな偏差値の低い高校に行ったからって、就職なんて親父が許すわけがないだろ!」
 お兄さんは陽介の胸倉を掴んで責め立てる。陽介は気まずそうにこちらを見た。
「アニキ、彼女がいる前で……」
「そうだよな! 高卒で就職するわけないもんな! 彼女って言ってもどうせ、頭の悪いギャルじゃないか! お前はいつもそうだ! どうせ、この子も飽きたら捨てるんだろ!? お前は昔からなんでも要領良くて、いいところだけをかっさらっていく、そんな奴だッ!」
 いろいろ言われているけれど、迫力のある声にわたしはどうすることも出来ない。さすがに殴りかかっては来ないけれど、お兄さんはまだまだ何か言いそうな雰囲気だ。
「渉。ごめんだけど、今日はもう帰った方がいいかも」
 陽介は困ったように言うけれど、お兄さんはこちらを凄い剣幕で睨んでくる。
 わたしは分かったとも言えず、ただ頷き、鞄を持って玄関に向かった。
「明日、学校で埋め合わせするから!」
 陽介の声と同時にお兄さんの怒鳴り声も響いて来る。あの状態のお兄さんと陽介を二人だけにして大丈夫だろうか。でも、わたしが居ても何もできない。
 ほんの少し後ろ髪を引かれながら、わたしは玄関ドアを潜った。

 わたしは駅のホームで、これから遊べる友人を探そうとスマホを取り出す。
 ロックを解除すると、お父さんからメッセージが来ていた。家でゆっくりご飯を食べないかと書いてある。送られて来た時間は七時過ぎだ。陽介と過ごしていて気づかなかった。
 でも、わたしは「ごめん、もうご飯食べたから」と返信する。
 あの継母と義理の妹がくつろぐ、窮屈な家でゆっくりなんて過ごせるわけがない。
 陽介はお兄さんとの不仲を知られたことを気にしているかもしれない。けれど、何も問題ない家庭なんて実は珍しいことなんじゃないかな。
 わたしも家のことを知られたくはないし。
 気を取り直して、スマホを操作する。ちょうど、クラスメイトたちがカラオケをしているようだ。わたしも行ってもいいかと聞くと、陽介に振られたのかとからかわれる。
 とりあえず、うるせぇ! と返信をした。直接会ったら、家族が帰ってきたと話せばいい。
 ふと、陽介のお兄さんの言っていた言葉が思い出された。
「……わたしも、飽きたら捨てられるのかな」
 小さくつぶやいた言葉は、人が少ないホームのせいか予想より大きく聞こえた。わたしは嫌な思考を振り払うために頭を振る。
 陽介と元カノたちの態度を見ていると、捨てられたという感じはしない。
 別れた後も仲良くとは言わないけれど、普通に接している。陽介が飽きて捨てたのなら、もっと恨みを買っていそうだ。
 だから、わたしも大丈夫なはず。そもそも、陽介はそんなことをする人間じゃない。
「それに、わたしの方が……」
 今後の病気の状態によっては、わたしの方から別れを言わないといけなくなるかもしれない。――いや、実際はどうなるかは分からないけれど。
 それでも、どう考えても一年後も付き合っている姿は想像出来なかった。
 なるようになるしかないのだから、考えても仕方がない。とにかく、今はカラオケに行こう。そう思って、ホームに入って来た電車に乗り込んだ。
 陽介と買い物をした駅に着いた。カラオケ店を目指して、多く人が行き交う通りを歩く。
 看板が見えたところで、突然後ろから腕を引かれた。びっくりして、わたしは勢いよく振り返る。
「あんた。こんな時間に、こんなところで何やってんの」
 一瞬、補導員かと思った。けれど、紺色のセーラー服が目に入る。
「……いや、それはこっちのセリフ」
 街のネオンに照らされているのは、義理の妹だ。いつものように一直線の前髪に、分厚い眼鏡、黒髪はなんの変哲もない二つ結び。まるで夜の街とは不釣り合いの姿だ。わたしはともかく、義理の妹が夜に街を一人で出歩く姿など見たことなかった。
「わたしは塾の帰りだから」
 自分には非はないけれど、あんたに非があるでしょと言わんばかりの口調にムッとする。
「ふーん。塾なんて行ってんだ。いいご身分じゃない」
 義理の妹は中学二年生だ。まだ受験生でもないのに、塾に通うなんてちょっと母親に過保護にされ過ぎじゃないだろうか。
 そのことに気づいたのか、義理の妹はわたしの視線から顔をそらす。
「わたしのことより、あんたこんな時間まで遊んでいたんでしょ。帰りなさいよ。また、お母さんが心配してずっと起きているじゃない」
 夜通し起きて待っているとか、いい母親のポーズとしか思えない。
「あっちが勝手にしているんでしょ。勝手にさせておけば。じゃあ、わたし、行くから」
 わたしは義理の妹の手を振り払って、カラオケ店の方へ行こうとする。けれど、義理の妹はグッと掴んで離さなかった。
「ちょっと、離してよ」
 同じ身長ぐらいだけど、わたしは上から見下ろすように睨みつける。
けれど、義理の妹は意に介さず手の力を全く緩めない。
「帰りなさいよ」
「嫌だって」
 しばらく、わたしと義理の妹は押し問答をする。
 学生二人が道の真ん中でそんなことをしていると目立つようだ。通り過ぎる人たちの視線が痛い。そのうちお節介な人が介入して来てもおかしくないだろう。しかも、わたしの方が非力だから、だんだんと引きずられてしまう。
「どうしたの?」
 嫌な想像通り、大人が話しかけて来た。
「別に何でもありませんから……」
 一応笑顔を作って振り向いたけれど、すぐに顔を歪める。そこに立っていたのはコートを羽織った継母だった。
 どうして義理の妹だけじゃなくて、継母までこんな所にいるのか。
「待たせてごめん、お母さん。遊んでいる渉ちゃんを見つけたから連れて帰ろうと思って」
 義理の妹はわたしのことをあんたと呼んでいたのに、継母の前では渉ちゃんと呼ぶ。変わり身の早さに鳥肌が立った。
 仲良く家族ごっこなんて、ごめんだ。そんなのわたし抜きでやって欲しい。
「友達と約束してんの。離してよ」
「約束って……。こんな時間に遊ぶなんて、絶対ろくでもない友達じゃない!」
「はぁ!?」
 ろくでもないなんて、会ったこともないのによく言えたものだ。それとも、わたしのことを暗にけなしているのかもしれない。
 どちらにしろ、これで一緒に帰るなんて選択肢は完全に消えた。
「話になんない。もう行く。あんたと違って、わたしは勉強が友達じゃないから」
 わたしの言葉を聞くと、義理の妹はグッと唇をかみしめる。泣くのを堪えているように感じた。
 もしかしたら、友達のことを気にしているのかもしれない。
 引っ越してくるのに中学を転校したから、上手く友達を作れていないのかも。一年経っても、家に学校の友達を招くことはなかったし、休日に遊びに行っているとも聞かない。わたしやお父さんに気を使っているとしてもだ。
 ちょっと可哀想なことを言ってしまったかも。けれど、先にわたしの友達を侮辱したのはあっちだ。
「……じゃあ、行くから」
 今度こそ、手を振りほどいて歩いて行こうとする。
「待って、渉ちゃん。お父さんが今夜、わたしたちに大事な話があるって」
「え?」
 継母の言うことに、わたしは足を止める。お父さんから連絡が来たけれど、そんなことは書いていなかった。
「お父さんが話?」
「そう。だから、一緒に帰りましょう」
「……」
 大事な話って、絶対にわたしの病気のことだ。それ以外に思い当たらない。
 この二人には黙っていてって、言ったのに――。
「……分かった。帰る」
 やっと義理の妹の手が離れた。友達のことを言われたのが堪えたのか、うつむき加減で、わたしとは視線を合わそうとはしない。
歩いていく二人の後をついて行くと、駐車場に軽自動車が停められていた。
 塾で遅くなるからと、継母が義理の妹を迎えに来ているのだろう。やっぱり、過保護だ。

 運転は当然継母が、助手席には義理の妹、わたしは後部座席に座った。
 ここから家までは二十分ほどかかる。車の中は無言だ。ラジオだけが、くだらないジョークを飛ばしていた。
 流れていく窓の外の闇を眺めながら、ぼんやりと考える。
 病気の話を聞いたら、二人はどんな反応をするだろうか。わたしの眼の前では一応神妙な顔をしているだろうが、きっと内心ほくそ笑むだろう。
 わたしみたいな家で不協和音を奏でる唯一の人物が居なくなるから。
「おかえり。お! 渉も一緒だったか。ちょうど良かった」
 家に帰りつくと、お父さんが紺色のエプロン姿で出てきた。食卓を見ると鍋が用意されている。
「寄せ鍋を作ったから、みんなで食べよう」
「……わたし、ハンバーガー食べたからお腹いっぱい」
「じゃあ、渉にはお茶でも用意するよ。座って」
 お父さんが急須でお茶を淹れている間に、わたしは神妙な表情でテーブルにつく。わたしの目の前に、義理の妹が、その隣に継母が座った。わたしの前にお茶の入った湯飲みを置いて、お父さんも隣に座る。
「じゃあ、ご飯の前に父さんから、みんなに話があります」
 いよいよか。お父さんがそう言うと、継母も義理の妹も姿勢を正した。いかにも真面目な仕草だと思いながら、わたしはお茶をすする。
「もうすぐ父さんと茜さんが結婚して、一年になります」
 茜さんとは継母の名前だ。前置きが長くなりそうだと思う。
「父さんは今までは自然と家族になって行けばいいと、無理強いはして来ませんでした。だけど、このままでは難しいかなと思っています。だから、これからはなるべく四人全員で夜ご飯を食べるようにして、休日には家族で出かけるように――」
「はあッ!?」
 あまりに的外れなフレーズの連発に、わたしは思わず声を上げた。
「なんでそんな話になったの、お父さん!」
 隣のお父さんに詰め寄る。
「いや、だって、せっかく家族になったんだから、みんなで過ごした方がいいし、それに……」
 困った顔で、チラチラと二人の顔を見るお父さん。
 なるほどと魂胆が分かった。お父さんはわたしから口止めされた手前、病気のことは二人に言えない。だけど家に中々帰ってこない、わたしもどうにかしたい。
 家族の時間を増やそうというのは、お父さんの苦肉の策だ。
「……別にみんなで出かけたいとは思わないけれど、確かに渉ちゃんは夜遊びしすぎだと思う」
 突然口を出した義理の妹を睨む。
「別にお父さんはわたしの話なんてしてないじゃない」
「でも、夜ご飯を一緒に食べないのは渉ちゃんだし、休日も遊びに出たっきり帰ってこないのは渉ちゃんじゃない」
「わたしだけが悪いって言うの」
「別に悪いとか悪くないとかじゃなくて、ただ居ないのはひとりだけって……」
「もういい!」
 結局、わたしの意見なんて誰も聞かない。
「わたしは家族ごっこなんてしている暇ないから!!」
 ガタガタと大きな椅子の音を立てて立ち上がる。
「渉……」
 お父さんが引き留めようと手を伸ばしてきたけれど、腕を振り上げて避けた。本当なら鍋をひっくり返してやりたいぐらいだったけれど、そのままダイニングを出て行く。
 部屋のドアをバタンと閉めると、さすがに誰も追いかけては来なかった。
 ベッドにダイブして、枕に顔をうずめる。
 ――いつもこうだ。
 お父さんは病気になったわたしのことを考えているのかもしれない。
 けれど、いつも自分勝手に考えを押し付けているだけなことに気づいていない。今回もそうだし、再婚を決めたときもそうだ。自分が正しいから、わたしも喜ぶと思っている。
 どうして、お母さんの場所に勝手に居座る人たちと仲良く出来ると思っているのか。わたしには、ずっと理解できない。
 コンコンとドアがノックされる音がする。
 今はお父さんと話をしたい気分じゃないし、他の二人はもってのほか。わたしは返事をせずに、足音が去るのをジッと待つ。
「渉ちゃん」
 この声は継母だ。余計に息を殺した。
「聖がごめんね。渉ちゃんを責めるようなことを言って」
 本当に悪いと思っているのだろうか。どうして本人に謝らせないのか。
「でも、お父さんも渉ちゃんのことを心配していると思うの」
……そんなの言われなくても分かっている。
「ほら、わたしたちが来てから、渉ちゃんとお父さんが過ごす時間も減ったでしょ。……わたしたちのことはいいから、お父さんと過ごす時間を増やしてあげてね。お願いね」
 階段を降りて行く足音が聞こえたので、枕から顔を上げて身を起こす。
 悔しいけれど継母の言う通りだ。
 わたしが余命一年だと知っているのはお父さんだけ。きっとお父さん自身も、わたしと過ごす時間を増やしたいから提案したのだろう。
 だけど、残り少ない時間を居心地の悪い場所で過ごしたくない。そう思うのは自然なことなのに――
「……お風呂入ろ」
 着替えを持って部屋を出る。すると、ちょうど義理の妹とかち合った。
 一瞬だけ目が合ったけれど、二人とも無言ですれ違う。
 ほらね。簡単にこの関係が変わるわけない。

 次の日の朝。一緒にご飯を食べようと思ったけれど、お父さんは早朝出勤をしていて一階に降りたときにはもういなかった。
「渉ちゃん、朝ご飯の卵は目玉焼きがいい? スクランブルがいい?」
 継母がジャーからご飯を盛りながら言う。
「……いい。要らない」
「ちょっと、お母さんがせっかく」
 テーブルで目玉焼きを食べている義理の妹が文句を言おうとするけれど、わたしはさっさと背中を向けて玄関に向かった。
 まさかお父さん抜きで仲良く食卓を囲むはずがない。それなら、コンビニでパンでも買った方がましだ。わたしは学校最寄りの駅に着くと、近くのコンビニに入る。紙パックのオレンジジュースとウインナーが挟んでいるパンを買った。
 お腹が空いていて、学校に行くまで待てなかった。コンビニを出たところで袋を開ける。大きな口でかぶりついた。ウインナーにはマスタードがたっぷりかかっていて、ピリリとしていて美味い。ジュースを飲んで、もう一口食べようとしたときだ。
「渡辺さん?」
 あぐりと口を開けたまま、視線だけを声のした方に向ける。そこには制服のネクタイをきっちり締めている山崎が立っていた。
秘密を知っていると言われたことを思い出し、思い切り顔をしかめる。正直言って、朝から見たくない顔だ。
「なに?」
「えっと、おはよう」
 わたしは返事をせずにパンに再びかぶりつく。
 無視をされているのに、めげずに山崎は話しかけて来た。
「それ、朝ご飯? もっと栄養バランスがいい物を食べた方がいいんじゃない? 渡辺さん、これからが大変なんだし」
 無視をしているのに山崎は近づいてくる。大変とはもちろん闘病のことだろう。上手く誤魔化したと思ったのに、昨日の嘘を信じていない。
 私は残り三分の一になったパンを全部口に押し込んで、少ない咀嚼で無理やり飲み込む。
「あのさ。わたし、陽介と付き合っているんだよね」
「ああ。宮野くん。うん、知っているよ」
 山崎はそれがどうしたとばかりに平然と言う。
「だから、もし仮にわたしが病気だとしても、力になるっていうのは彼氏の陽介の役目だと思うんだよね」
 言いながら自分でそれはないなと思う。
 何年も付き合っている恋人ならまだしも、陽介はついこの間付き合いだしたばかりだ。それに新しい彼女に困らない陽介はそういう面倒なことを嫌うだろう。
「でも、宮野くんは渡辺さんの秘密を知らないんじゃない? きっと、渡辺さんは言えないよね」
 少しだけ目を開いて動揺してしまう。
 山崎の言う通りだった。言えば陽介はすぐに離れて行く。
 だから、言わないし、言えない――。
 図星を指されて、わたしは山崎を下から睨みつけた。
「だから何? 自分が支えになるって? 医者でも何でもない、あんたが? 何をしてくれるっていうのさ」
「それは……」
 言いよどむ山崎にやっぱりねと思った。
「つまりあんたは、わたしが病気で心も弱っているだろうから、誰でもいいから頼りたいんじゃないかと思っている。例え頭がいいだけのダサい自分でも、わたしみたいな尻軽そうなギャルならなびいてくれるんじゃないかって」
「そんなことは……」
 山崎は気迫に押されるように、語尾を小さくする。
「馬鹿にしないでよ。金輪際、わたしに近づかないで」
 わたしはゴミ箱にゴミを乱暴に放り込んで、大股で学校に向かった。
 本当に馬鹿にしている。あれじゃ、まるで分かりやすい他人の悲しみに群がって来るハイエナのようだ。
 病気になったからって、悲しんでなんかやるもんか。