それは、目の前のノリの効いた白衣の医者が説明するまでもなかった。あばらの骨の辺りにある一番大きなものを指さして、医者は言う。
「肺に五センチ以上の腫瘍の影があります。肺がんです。他の臓器に転移がいくつか見られます」
「ふーん」
でも、わたしの口からは生返事しか出てこなかった。
「それで、あとどれくらい生きるの」
少し医者が沈黙するも、ゆっくりと口を開く。
「……正確な数字は詳しく検査しなければ分かりませんが、渉(あゆむ)さんの場合、五十パーセントの同じ病気の患者さんが亡くなるまでの期間は約一年だと考えられます」
「つまり、わたしはあと余命一年ってこと?」
医者は返事をしない。つまりは、そういうことだ。
その後も、医者は淡々と説明を続けた。いろいろと説明していたけれど、わたしには半分も理解出来なかった。代わりにお父さんが聞いている。
分かったことはわたしが残り一年の命で、四段階あるステージのうち四つ目の肺がんだってこと。詳しい説明を聞くことはお父さんに任せて、わたしはもう放課後の時間だなとぼんやりと考えていた。
最近、せきが酷く出て止まらなかった。
ドラッグストアの風邪薬を飲んでいれば大丈夫だろうと、一週間ほど飲み続けていたけれど全く効果なし。
それで見かねたお父さんが学校を休んで、病院に行きなさいと言ったのだ。
最初は堂々と学校サボれてラッキー、すぐに終わらせて買い物に行こうぐらいに思っていた。だけど、近所の病院で診察とレントゲンを撮られると状況が一変。すぐに大きな総合病院に行きなさいと言われ、親まですぐに呼ぶように言われて――
ただでさえ退屈な病院に延々と拘束されて、結果がこれ。
笑えない冗談だ。
別にわたしは聖人とは言わないけれど、凶悪事件を起こすような人間ではない。
こういうのって、何かバチが当たるような人間がかかる病気なんじゃないかと思う。全く心当たりがないわけじゃないけれど、死ななきゃいけないほど酷いことはしていない。
だって、余命一年って――
わたしは黙って荷物を取って、診察室を出て行った。
「待ちなさい、渉。説明、聞いていなかっただろ」
早足でお父さんが追いかけて来て、わたしは足を止める。誰もいない消毒液くさい廊下はいくらお父さんが声を潜めても、どこまでも響いていくような気がした。
「何も明日、すぐに入院しなければならない訳じゃない。渉も今日は動揺しているだろう。一緒に家に帰ってゆっくりしよう」
「……うん」
お父さんはわたしの為に仕事を放って駆けつけてくれた。
その上、娘の病気の説明を医者から聞かされた。そんなお父さんに、これ以上心労をかけるのも気の毒なきがした。
病院の一階の広々とした総合受付で、二人並んで椅子に座って会計を待つ。わたしの番号が表示されると、お父さんが立ち上がって会計の受付に向かった。
そういえば、友達からメッセージが来ているかもしれない。
わたしは鞄からスマホを取り出す。
検査の間、全くスマホに触ることが出来なかった。案の定、通知がたくさん溜まっている。ほとんどが、学校を休んでどうしたのか尋ねるものだ。
わたしはすぐに返事を打たないで、しばらく考え込む。
さすがに肺がんになってしまったと言えるはずがない。出来れば学校のみんなには最後の最後まで黙っていたかった。知ってしまったら、いくらわたしが何ともないと言っても、態度が変わるに決まっている。
病院に来ていることも、黙っていることにした。ただの風邪と言ってもいいけれど、余計なことを言ってうっかりボロが出るのも困る。
「だるくて、サボっただけっと」
わたしがグループにそう送ると、すぐにポコポコと返事がある。
ほとんどが、だったら来なよとか、今日の授業だるかったから自分もサボればよかったとか。全く疑っている様子はない。日頃の人柄がなせる技だ。
次々に来るメッセージを目で追いながら笑っていると、後ろから視線が向けられているような気がした。
スマホから目を離して、周りを見る。
すると、おばさん二人組がこちらを遠慮なく見ていることに気づいた。
「ねえ、あの子。見て」
「本当、派手な子」
一応声を潜めているつもりかもしれないけれど、数メートル離れた場所にいるわたしにもよく聞こえる。
どうして、おばさんたちの嫌味を含んだ声ってよく聞こえるのだろう。
わたしの髪は金色でショートボブ。耳にはリングのピアスもしているし、爪には小さな石をあしらったキラキラネイルもしている。つけまつげを付けたアイメイクは毎日抜かりがない。ブレザーの制服を少し着崩していた。
大概の人はこんなわたしを見て、ギャルだと言う。
「今日、平日でしょ。まだ授業がある時間じゃない。学生が病院なんかに何の用かしら」
「あれじゃない。ほら、産婦人科の」
どうやら大きな総合病院にギャルがいると、妊娠トラブルだと思われるらしい。確かに同じ学校で、そういうことがあったという噂もある。
でも、わたしは違う。見た目だけで判断して好き勝手に言われるのは、ものすごく腹が立った。
ちょうど、お父さんが会計を済ませたようだ。わたしは立ち上がった。おばさんたちの向こう側にいるお父さんの方へ歩いていく。
すれ違いざま、わたしは言いたい放題言っていたおばさんたちに言ってやった。
「わたし、たった今がんだって言われたばっかなんだよね。ギャルだって余命宣告されるみたい。残念ながら」
おばさんたちは噂話をしていた表情のまま固まって、何も言ってこない。
ふんと鼻を鳴らして、わたしはお父さんの元に向かった。
病院を出るときは晴れていたのに、電車に乗って駅を出るとパラパラと小雨が降って来ていた。それでもお父さんとわたしは、急ぐことなく家までの道を黙々と歩く。
ふと立ち止まって、何でもないように心掛けてつぶやいた。
「あ。から揚げ食べたい」
小さなから揚げ専門店。ちょうど夕飯時なので、三人ほど店の前に並んでいた。店の表にまで揚げたての匂いが香ってくる。よだれが自然と口の中にあふれて来た。
「そういえば、渉はお昼を食べたのか?」
「コンビニのおにぎり一個食べただけ」
わたしはお父さんに断ることもなく列に並ぶ。お父さんも特に何を言うでもなく、一緒に並んだ。五分ほどで順番が来て、五個入りのからあげを頼む。
お金はお父さんが払ってくれた。家に持って帰るように、追加で注文しているお父さんを後ろに爪楊枝で刺してかじりつく。揚げたばかりで、肉汁がじゅうっと出て来た。
「はふ、はふはふ。おいしぃ」
口の中が火傷しそうだけれど、これぐらい熱々の方が美味しい。
「……こうしていると、とても病気だとは思えないな」
から揚げを入れたビニール袋を提げたお父さんがしんみりとつぶやいた。確かに自覚症状は咳ぐらいしかなく、食欲もいつものように湧く。
わたしだってほとんど自覚がないぐらいだから、傍目には全く分からないだろう。
「あ!」
あと半分はあったから揚げが爪楊枝からポトリと地面に落ちてしまった。
「もー、落ちちゃったじゃん!」
完全にわたしのかじり方が悪かったせいだけど、何となくお父さんに当たってしまう。
「ごめん、ごめん。お父さんが変なことを言ったせいだ。……変なことを」
それを皮切りにお父さんは嗚咽を堪えながら、顔を押さえる。泣いているところを見るなんて、お母さんが事故で死んだとき以来だ。
辺りは暗いし声も小さいから、通行する人も気にしている様子はなかった。わたしは残っていたから揚げに蓋をして、視線をそらす。
「なんで、お父さんが謝るのさ」
「お父さんがもっと早く気づいていれば良かったんだ。おばあちゃんはがんで亡くなったから、気をつけるべきだったのに」
おばあちゃんとは、父方でなく母方の祖母のことだ。そのおばあちゃんも肺がんだった。亡くなったのは五十代で、お父さんとお母さんが結婚してすぐの頃。
だから、わたしはおばあちゃんのことを写真とお話でしか知らない。
でも、おばあちゃんががんだったから、わたしも同じ病気になるなんて分かるはずがない。なるにしても、こんなに早いとは思わないし、気を付けようもないと思う。
それでもお父さんは自分を責め続ける。
「もっと早く見つけていたら。もうステージ四……。気づかなかった父さんが悪いんだ」
「何言ってんの! 別に誰のせいでもないし。お父さんに分かっていたら、そんなのエスパーだよ」
「でも……」
お父さんは目頭を押さえて俯いてしまう。この調子だと家に帰っても、同じことを繰り返しそうだ。病院で疲れているのに不毛な家族会議がこれから繰り広げられると思うと、とても一緒にあの家に帰る気にはならなかった。
「わたし、これからおじいちゃんの家に行く」
「渉……」
おじいちゃんとは、やっぱり母方の祖父のことだ。おばあちゃんが死んでから近所の家に一人で暮らしている。
「疲れているから。あ、病気のこと、あの人たちには言わないでね」
いつかはバレるだろうけれど、今日じゃなくていい。
「だけど」
「お父さんも、とりあえず落ち着いた方がいいでしょ。別に今日明日にも、わたしが居なくなるわけじゃないんだし」
それを聞くとお父さんは眼を潤ませたまま、ギュッと口を引き結んだ。
「じゃあ、おやすみー」
「渉!」
わたしが手を振って歩いていこうとすると、少し強い声で呼び止められた。振り返ると、苦く痛いものを吐き出すようにお父さんが言う。
「治療。するよな、渉」
「……考えとく」
医者の説明はよく聞いていなかったけれど、がんの治療にはお金はかかるし、とても辛いことは簡単に想像出来る。だから、本当はしたくない。
けれど、お父さんのすがるような眼を見たら答えは曖昧になってしまった。
お父さんと別れてから五分ほど歩くと、少し古びた門構えのおじいちゃんの家に着いた。
スマホを見ると、ちょうど七時五分前。
たぶん、おじいちゃんはご飯の支度をしている最中だろう。
「おじいちゃーん。渉、来たよー」
玄関の引き戸を開けて、遠慮なく中に入る。
外灯は点いていなかったが、奥の居間からは光が漏れ出ている。バラエティ番組のわざとらしい笑い声も聞こえて来た。
居間のすりガラスの引き戸が開いて、おじいちゃんが出て来る。
「渉ちゃん、また来たんか。今日はえらく早い時間だな」
風呂上がりだったのかおじいちゃんは股引姿だ。わたしはローファーを脱いで勝手知ったる我が家とばかりに上がり込む。
「うん。一人暮らしのおじいちゃんが心配でさ」
「そんなこと言って、家に帰りたくないだけなのは知っているぞ」
「おじいちゃんの家の方がいいんだもん。仕方ないじゃん」
居間にいくとコタツがあり、さっそく座って足を突っ込む。コタツの上にはミカンが籠に盛られていた。つい、手が伸びる。
「渉ちゃん、夕飯は食べたのか?」
「から揚げ食べたよ。おじいちゃんも一緒に食べよ」
わたしは持っていたから揚げを、おじいちゃんに差し出した。
「これだけじゃ足らんだろ。待ってなさい。ご飯とみそ汁があるから」
居間のすぐ後ろの台所からは味噌の香りがする。
「いいのー? おじいちゃんの晩御飯じゃないの?」
「朝ごはんの分を多めに作っていたから、大丈夫だよ。また、朝に作るしな。渉ちゃん、今日は泊まって行くんだろう?」
「うん!」
おじいちゃんはわたしが突然来ても、家に帰らない理由を聞いたり、追い出したりはしない。だから、今日も安心して逃げ込めた。
ミカンを剥いてひと房ずつ口に放り込む。スマホを開くと、新しくメッセージが来ていた。
わたしの彼氏の陽介からだ。サボりなら自分も誘えと送られてきている。
すぐに「分かった! 次は陽介と学校サボる!」と返信した。
「なんだ、渉ちゃん。ニヤニヤして。また彼氏か?」
「うん!」
わたしはおじいちゃんに向けて満面の笑みを浮かべる。おじいちゃんはというと、どこか呆れたような顔でご飯とみそ汁をコタツのテーブルの上に並べた。
陽介のことはまだお父さんにも言っていない。でも、おじいちゃんには話して写真も見せている。自慢することを我慢できなかったのだ。
「カッコいいでしょ」
「何度も見た」
またスマホの写真を見せて自慢する。けれど、おじいちゃんはもう見飽きたとばかりに視線をそらした。そこには鼻筋が通った茶髪のイケメンが私と一緒に写っている。
おじいちゃんはそう言うけれど、わたしには何度見てもずっと見つめていたいと思う。
もちろん、実物の方が何百倍もカッコいいけれど。
「ほら、渉ちゃん。ご飯が冷めてしまうぞ」
まだ写真を見てニマニマしているわたしに、おじいちゃんは箸を渡してくる。
「はーい。いただきまーす」
から揚げがわたしの皿に三つ、おじいちゃんの皿には二つ。揚げたてからは少し冷めてしまったけれど、白米と食べるとまた美味しい。
「おいしいな。渉ちゃん、ありがとうな」
おじいちゃんも美味しそうに食べていた。
ご飯を食べ終わると、お風呂に入る。着替えも置いているからトレーナーとジャージに着替えて、おじいちゃんにおやすみなさいを言って二階に上がった。
階段を上がって、すぐ右の部屋はお母さんの部屋だ。
そっとドアを開けて電気を付ける。
この部屋は、お母さんが大学に進学するまで使っていたらしい。淡いピンクのカーテンに、小花柄のベッドシーツ。ベッドの脇にはうさぎのぬいぐるみも置いてある。
他の小物を見ても、可愛らしいものばかりだ。ここに入るといつもお母さんらしいなと思う。わたしがよく使うからと、おじいちゃんがこまめに掃除している。
まるで、今もここで暮らしているみたいだ。
お母さんはわたしが小学三年生のときに交通事故で亡くなった。可愛いものが好きで、毎日わたしを可愛い髪型にしてくれたし、可愛い服を着せていた。
家に帰るといつもひまわりみたいな笑顔で迎えてくれたお母さん。
わたしも、お父さんも、そんなお母さんが大好きだった。
まさか、こんなに早くわたしの方がお母さんのところに行くことになるなんて――
「こういうのって美人薄命って言うんだっけ。ははっ、違うか」
ベッドに仰向けに転がり、指を折って数えてみる。
あと余命一年ということは、大体高校を卒業するまでぐらいは生きているということだ。
いまは高校二年生の三月。
一年ぐらいは治療をしなくても普通に生活できるだろう。たぶん。
だから、一応高校卒業の単位ぐらいは取れるだろう。たぶん。
勉強する必要なんてない気がするけれど、学校には行きたい。あと一年とはいえ、学校の友達と同じ女子高生でいたい。授業とか全然聞いていないし、学校に行くのも面倒だけど、同じ空気からひとりだけ追い出されるのは嫌だ。
それに陽介と付き合いだしてから、まだ一月も経っていなかった。
二週間ほど前のバレンタインの朝。
わたしは登校してきた陽介に、みんなが見ている教室でバレンタインチョコを差し出した。朝一番にそんなことをしたのは、誰にも先を越されたくなかったからだ。
チョコはもちろん本命。古典的な告白だけど、わたしと付き合ってという言葉も添えた。
成功率は、せいぜい二割だと思っていた。
宮野陽介は、とにかくモテる。
高校に入ってからの歴代の彼女はみんな美人だった。わたしは陽介の元カノたちに比べると美人じゃないというか、普通というか。メイクで可愛くはしているけれど、やっぱりナチュラル美人とはどこか違う。
それでも陽介はいつもの人好きのする笑顔で、いいよ、付き合おうかって言ってくれた。
わたしはすごくはしゃいで、友達の美玖(みく)に抱き着いた。クラスの子たちも祝福してくれる。
その中には、自分も陽介に告白しようとしていた子もいただろう。
でも、妬みは一切なかった。なぜなら陽介は付き合いだすのも紙風船のように気軽なら、別れるのもあっという間だからだ。
美人の元カノたちですら三か月と持たないのだから、たまたまタイミングよく告白したわたしなんて、一か月もしない内に振られると思われているんじゃないかな。
もちろん、わたしの方は出来る限り長く付き合いたいとは思っている。
――でも、ちょうど良かったのかもしれない。
「仮にがんばって長く付き合って別れても、陽介ならすぐに新しい彼女が出来るよね。わたしが居なくなる頃には、綺麗さっぱり忘れられているかも。それまでは、わたしも楽しく過ごそうっと」
病人扱いされることなんて、全く望んでいない。執着のない陽介だから、気兼ねなく付き合える。その後は忘れてもらった方がよっぽど良かった。
わたしは今が楽しければ、それでいいんだ。
朝になると、おじいちゃんが作ってくれたおにぎりを食べる。わたしが好きなおかかのおにぎりだ。
「ところで、渉ちゃん。じいちゃんに何か話しだったんじゃないか?」
「え。なんで?」
少しだけドキッとする。
病気のことをまだ話すつもりはないけれど、おばあちゃんを同じがんで亡くしているおじいちゃんなら何か感じ取ったのではないかと思った。
「昨日、来たのは七時頃だっただろ。いつもはもっと遅い時間になるじゃないか。遊んで遅くなって、家に帰りづらいからって」
なんだ。別に病気のことが分かったわけじゃないみたい。
わたしは出来るだけカラッと笑って言う。
「別に理由なんてないよ! ひとりで暮らすおじいちゃんのことが気になっただけ。まあ、家に帰りたくないってのもあるけどさ」
すると、おじいちゃんが小さくため息をつく。
「もう一年も経つのに」
「何年経っても一緒だから。あー。でも家に一回帰んないと、ちゃんとメイク出来ないんだよね」
メイク道具は持ち歩いているけれど、最低限のものだけだ。学校に行く気合を入れるためには一度家に帰らないといけない。時計を見ると、もう七時半を回っている。
わたしは残っていたおにぎりを口いっぱいに頬張った。
「じゃあ、おじいちゃんごちそうさま! 行ってきます!」
鞄を掴んで、おじいちゃんの家を慌ただしく出た。
わたしが普段住む家。
ひとりになったおじいちゃんを心配して、お母さんが生きている頃に建てた家だ。おじいちゃんの家から歩いて三分と、いつでも駆けつけられる距離にある。
渡辺と書かれた表札の横の門を入り、鍵を鞄から出した。鍵穴に差して回すが、手ごたえはない。鍵はかかっていなかった。
わたしは音を立てないように、そろそろと玄関を開ける。だれもいないことを確認すると、身体を忍び込ませるように入った。キッチンの方から食器を洗う水の音がする。ちょうど良かったと思いながら、靴を脱いで階段を上がった。
「渉ちゃん?」
あと少しで自分の部屋に行けたのに、心の中で舌打ちした。足を止めて振り返ると、一人の中年女性が立っている。
息を殺してまで慎重に歩いていたのに、目ざとい女だ。階段の下にいるから仕方ないけれど、いかにも心配していますというような上目づかいにいら立った。
「昨日はおじいちゃんのところに行っていたの?」
お父さんにそう聞いているはずなのに、わざわざわたしにそう尋ねて来る。
彼女はわたしの継母だ。お父さんは一年前、取引先の事務員として働いていた彼女と再婚した。はっきり言って意味不明。
最初、紹介されたときのことはよく覚えていない。
単にひとり親として子育てする者同士で、仲良くしているだけだと思っていた。恋人だなんて微塵も思わなかったし、わたしも二人が結婚すると言うまでは優しくて、いいおばちゃんだと思っていた。
頬がふっくらしていて、身体もぽっちゃりしている。細身だったお母さんとは正反対。おまけにお父さんより四歳も年上だ。お母さんはお父さんと同じ年で、もっと若々しい。
二人が結婚すると聞いても、最初は冗談だとばかり思っていた。でも、書類の上でだけど、本当に結婚して、同じ家に住むようになった。
そうなると、笑顔を向けられても白々しく感じるばかりだ。
大体、図々しいにもほどがある。ここはお母さんの家だ。
お母さんが料理していたキッチンも、お母さんが選んだ趣味のいい家具も、お母さんが使っていたから素敵に見えたのだ。
あんなおばさんが使っていたら途端に輝きは失ってしまう。
「あんたには関係ないでしょ」
「あ……」
わたしは背中を向けて、遠慮なく音を立てて階段を上がる。さすがに追いかけては来ない。
けれど、わたしは再び足を止めた。
階段を登り切ったところで、これまた嫌な顔に道を塞がれていたのだ。
「……邪魔なんですけど」
下から睨みつけると、上から腕を組んだ彼女に威圧的に見下ろされる。
「あんた、ダサいよ」
「は?」
ダサい奴にダサいと言われた。真っ黒な髪を二つ結びにして、分厚い眼鏡をかけている。切り揃えられた前髪はいかにも冴えない雰囲気をさらに際立てていた。それなりに可愛いはずの中学のセーラー服が芋くさく見える。
彼女は継母の娘、聖。つまり、一応わたしの義理の妹だ。中学二年生で、わたしも通っていた学校に行っている。
「お父さんを取られたことがそんなに嫌なの? お母さんに嫌がらせして、ちっとも家に帰って来ないじゃない。最後に食卓でご飯食べたのはいつか覚えている?」
「さぁ?」
早口でまくし立てられたけれど、わたしは緩慢に答えた。
「覚えてなんかいないでしょうね。大体、昨日もおじいちゃんの家に行ったなんて、嘘なんでしょ。夜遅くまで遊んでいたに決まっているんだから」
確かにおじいちゃんの家に行くと嘘をついて、友達と遊んでいることはよくある。だけど、いつもじゃないし、それ以上にこうやって上から決めつけられるのは嫌いだ。
「嘘じゃないけど? 疑うなら、あんたが直接おじいちゃんに聞きに行ってみたら?」
そう言うとさらにギロリと睨まれる。
「そんなこと出来るわけないでしょ! とにかく、お母さんをいじめるとかダサいから止めてよね!」
ダサい義理の妹は、ドスドスと重そうな音を立てて階段を降りて行った。
すごく無駄な時間を過ごしてしまった。わたしは自分の部屋に入って急いでメイクをする。少し遅くなったので、駆け足で家を出た。電車で十分、歩いて五分の場所にあるのが、わたしが通う高校だ。
「おはよー」
わたしは教室に入ると、いつものように三、四人で固まって話している友達のところに向かう。
「渉、おはよー」
「なんだ。元気そうじゃん」
「本当にサボりだったんだ」
「まあねー」
みんな、わたしが嘘をついているとは全く思っていないようだ。クラスの子も、たまに授業をサボっているし、そう珍しいことでもないからだろう。
わたしが通う高校は、かなり自由な校風だ。
わたしみたいに金髪でも注意されなし、ほとんどの子が髪を染めている。ピアスもしているし、アクセサリーもワンポイントぐらいなら厳しく言われない。クラスの女子たちは程度の差はあるけれど、メイクをしていない子はいなかった。
まあ、自由だからっていうわけじゃないけれど、私立で偏差値も低い。そのせいで、他の高校の生徒からはチャラ高と言われている。
「渉ぅー、おはよー!」
席に荷物を置くと、友人の美玖(みく)が近づいて来た。美玖は長い髪をウェーブさせた、瞳がナチュラルに大きな女の子だ。
「今日さ。新作コスメが出るじゃん。買い物付き合ってよ」
「いいよ。わたしも新しいネイル買おうと思っていたんだ」
わたしはすぐに頷く。だけど、その頭を後ろからホールドされた。
「ダメ。渉は今日、オレとデートすんの」
すぐ耳元でする少し低い声にドキッと心臓が跳ねる。
「陽介」
少し顔を後ろに傾けると、整った陽介の顔がすぐ横にあった。
息がかかるぐらい近くて、さらにドキドキする。背が高くて、着崩したブレザーの制服が似合っていて、いつ見てもカッコいい。
「えー。わたしが先に渉を誘ったのに」
美玖が口を尖らせる。
「ごめんな。こいつには昨日、一人でサボった罰を与えなくてはならない。オレを誘わなかった罰だ」
「ちぇー。じゃあ、別のやつ誘おう」
「ごめん、美玖」
美玖が去ると、わたしと陽介は向かい合う。ずっと肩に陽介の二の腕が乗っているから、距離が近い。
「えっと、昨日はごめんね。陽介にも何も言わずにサボって。ちょっとだけ熱っぽくて、家でずっと寝ていたからさ」
口元を袖で隠して、目線を少しそらす。罪悪感はないけれど、嘘を見破られないかちょっとだけ気になった。
「確かに渉、このところよく咳してたもんな。でも、渉がオレにも何も言わないから、もう振られたのかってからかわれたんだぞ」
「ははっ。わたしから付き合ってって言ったのに、それはないよ」
わたしが笑うと陽介は鼻と鼻がくっつくぐらい近づいてくる。そうすると、わたしは視線をそらせなくなった。
「どっちからでも、オレはもう渉の彼氏なんだから何でも言うんだぞ」
ちょっとだけ胸がツキンと痛む。
――何でもなんて、言えるわけがない。
「うん! ありがとう、陽介」
それでも、わたしは笑顔で頷いた。陽介がちゃんとわたしを彼女扱いしてくれて、気遣ってくれたのが嬉しかったのだ。

