きっと皆持ってる〝あれ〟。
6年目、思春期の頃から積み上げてきた、私の〝あれ〟を跡形もなく消し去った男と出会った。



「うわ、元野球部っぽ。」

辺りが花の匂いを放ち始める3月の夜。
ベッドに転がりながら自身に届けられた興味をぼんやり見る。
前の恋愛から半年ほど経って心の穴も埋まり始めていた私は、新しい恋愛へ歩こうとしていた。
大学は同性ばっかり。そもそも、既存の知り合いベースだと『いつも通り』に拘って、ちゃんと『私』になれない。
だから、0から関係を始められるマッチングアプリに賭けていた。

好きなタイプは特に無いけど、好みでないタイプは持ち合わせている。

清潔感がない。
ボソボソ喋る。
食べ方が汚い。

そして、元野球部。
野球を真剣にやっていた方に対しては大変申し訳ないと思っている。
それでも、中学生の頃、野球部の男子から、変身ロボットのような肩幅を持つ私につけられたあだ名と、元野球部の人と経験のある数多の友人からの証言によって良い印象を抱いてなかった。
「服も、あと雰囲気もちょっとなあ。」
彼からのいいねに私は左スワイプをした。

「おっ。1個上かあ。」
右にスワイプ。
こっちの彼は元野球部の彼とは正反対だった。
髪型、服装、顔の系統、プロフィールの雰囲気。なんとなく、ふいに意識を惹かれた。
彼とは、その日のうちに初めてお互いの声を聞いた。
この日から彼と名無しの関係が始まった。

彼の声は少し掠れていて、落ち着いた余裕のある声だった。
基本、ゴソゴソという物音と共に私の話を半分だけ耳に入れる。
学生にありがちな暇電。特に会話が盛り上がることもなく数時間。
それでも、男女特有のあの甘ったるい雰囲気だけは保たれたまま。
彼の寝息を聞いて、私も眠りに落ちる。
『女の子』になっている自分に完全に酔っていた。



「まだかあ。」
朝起きてすぐに送ったメッセージはまだ読まれていない。彼と電話をするようになってから2週間が経っていた。
いつもなら自動返信のようなメッセージが秒で返ってくるのに。もう、辺りは茜色に染まり始めている。
「誰か話せる人~、、、。」
メッセージアプリは沈黙が続いていた。
「探そ。」
2週間ぶりにマッチングアプリを開く。
渾身の宣材写真が溢れる中、お洒落な唐揚げが目に止まった。
「これ、自分で作ったんかな。」お皿はいかにも自宅のものという感じだった。
用意されている2枚目の画像を見る。
「あれ、この顔。」
2週間前に見たあの、あの彼だった。
ログイン中の文字が目に飛び込んだ。
今の私にとって、くだらない私自身の偏見よりも、「誰かと話したい」、という欲求の方がはるかに勝っていた。
2週間前にもらったいいねにありがとうを返した。

彼は1個上だった。名無しの関係の彼と同じ年だった。
働いてるみたいで、決まった時間にしか返信はない。
メッセージはいつも、長文制作マシーンの私が返すメッセージ以上の長文。
私が一度でも話したことは何でも覚えていた。
そしてやっぱり、小学生の頃からずっと野球をやっていた、元野球部だった。



「えっ。がち?」
アプリにありがちな同時並行を始めて2週間。嘘のような事実が電波を通じて私の耳に入った。
「僕、いいねもメッセージも一人としかしてないよ。いいねも初期ポイントからマイナス1で余ったまんま。」
私はあの元野球部の彼と電話をする仲になっていた。
「いや、流石にそれは嘘でしょ?笑 バレバレすぎるって笑」
流石に今思いついたアピールポイントにしか見えない。
「いや、ほんとなんだけど。こんな嘘つけるほど頭良くないよ!スマホ見せてもいいくらい。」
いや、そもそも私にそこまでの魅力を感じられると思えない。こんな、偏見で人を判断する人間に。
「あ、え、いや、そこまでしなくてもいいけど...。ん~ほんとかあ?」
「まあ、ゆくゆく信じてもらえれば、いいので!」
「う、うん。」
心臓が、少し、ほんの少しだけ跳ねた気がした。

「またね~。」
「またね!おやすみ。」
スマホを耳から離す。
直後、聞き慣れた通知音が鳴った。
『今日もありがとう!さっき言ってたプリン買ってみた!
 これ知らんかったの21年損してたわ笑 教えてくれてありがとう!おやすみ!』
電話を終えると毎回律儀に送られてくる、元野球部の彼からのメッセージだった。

「ほんと、なのかなあ。」
頭の中で彼の言っていた言葉がこだましていた。
『~♪』
再び、聞き慣れた通知音。
「何してた?」
聞き慣れた、掠れた声。
名無しの関係を続けてる彼だった。
彼からの電話はいつも彼のペースでかかってきた。
「友達と電話。そっちは何してたの?」
「....。ん~いろいろ。」
いかにも濁された気がした。
「あ、前言ってたあのジュース飲んだよ!絶妙だね確かに笑」
静寂をつくらないよう、必死に切り出す私。
「......そんな話したっけか笑」
会話を続けるつもりのない返答が冷たく、私の耳に刺さった。
一時間前の元野球部の彼との電話との差が心臓に刺さる。
「この間一緒に行った居酒屋さん、友達に教えたらめっちゃ喜んでた!ありがとね!」
「お~なら良かった。」
1ラリーしか続かない。1日の終わりに目眩がしそうなくらい頭を動かせて、会話の種を見つけようとするも、あの反応を前にすると上手く出てこない。どうしよう。
「.....。そういえば、1杯であんなんになっちゃうんだねえ。覚えてる?」甘ったるい彼の声で静寂が切り裂かれた。
「ん~覚えてないかなあ。」テンプレートをそのまま返す。
自分に酔った会話のキャッチボールが始まった。
1時間後、耳元で彼の寝息が聞こえ始めた。
起こさないように、そっと通話を切った。

冷ややかさを含んだ弥生の夜風に頭がひんやりと醒めていく。

「はあ。」
1ヶ月もすると自分に酔うのも少々疲れ始めていた。
彼と話すと、毎回あの雰囲気を持ち出される。まあでも当たり前といえば当たり前か。元はといえば私もその雰囲気に乗っていたんだから。それでも、1ヶ月もすると、あの『いつもの』ではなくて、普通に『私』として他愛もない話をしたかったり。そんな傲慢な欲望がふつふつと胸の中に湧き始めていた。男と女ではなく、人と人として心地良い時間を共有したい。私以外の誰かの匂いを感じさせないような、お互い一対一でちゃんと関わりあえるような。

「なんか、疲れたなあ。」

口をついて出た自分の言葉に本音が隠されていることに気づいた。
私は、その夜のうちにメッセージを送った。




「もう六年だよ。小学校生活を終えちゃう年数だよ。」
並んで隣を歩く彼に言った。
「ねー。早いよね。他の奴とも電話してたらしいし~、何より元野球部だったけど(笑)」
「それはごめんって。(笑)」
赤くなった私の手をきゅっと握って彼は頬をニッと上げた。
薬指に嵌めた誓いが月光に照らされてキラキラと光った。




6年前に出会ったやばい男。それは、思春期の頃から少しずつ積み上げた私の最低な偏見を、跡形もなく消し去った男、元野球部の今の旦那だった。