静まり返ったフロアにカタカタと私のパソコンのキーを打ち込む音が虚しく響く。
何で私がこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。
今日は絶対に早く帰りたかったのに、と脳内で愚痴をこぼす。
手を休め、机の空いているスペースに右頬をペタッとくっつけてため息を吐いた。
今日は会社近くの河川敷で花火大会がある日だ。
毎年、うちの会社周辺の道路は混むし公共交通機関は人であふれている、と去年そのことを教えてもらった。
だけど、それを聞いたのが花火大会当日だった。
その日の仕事が終わり、私は人混みを逆走して駅まで歩き、そこから電車に乗って家に帰った。
人と何度ぶつかったかなんて覚えていない。
帰るだけでヘトヘトになったのは初めてで、こんな経験は二度としたくないと思えるほど。
そして、"花火大会の日は絶対に残業しない!”と心に刻んだ。
そんなことが去年あったので、今年は例の教訓を生かそうといつも以上に時間を気にして仕事をしていたんだ。
夕方になり、会社前の歩道にはチラホラと浴衣を着た集団が歩いている姿が見えた。
間違いなく今年も混むから定時の十七時半には帰りたかった。
いや、帰るつもりで仕事も早く終わらせれるように頑張っていた。
はずなのに……。
「大島、悪いけど取引先の住所入力をやり直してくれ」
定時間近、悪魔の声が聞こえた。
***
「真琴、手伝ってあげたいけど今日は子供と約束してるから」
ごめんね、とすまなそうに言う高木さん。
高木さんは既婚者で可愛い一人息子の和哉くんがいる。
今日は家族で花火大会に行くという話を前々から聞いていた。
「いえ、大丈夫ですよ。和哉くん、花火楽しみにしてるんですよね。だから早く帰ってあげてください」
「ありがとう。じゃあ、お先にね」
高木さんはフロアを後にした。
その後ろ姿を見送っていると、どこからか視線を感じる。
「あの~、私は用事があって……」
一年後輩の馬場さんが私をチラチラ見ていた。
さっきの視線は彼女だったのか。
「大丈夫、最初から馬場さんに手伝ってもらおうとか考えてないから」
「ホントですか?よかったぁ。今日は一度家に帰って浴衣を着てのデートだから定時には帰りたかったんです」
私の嫌味もさらっとスルーし、鼻歌交じりで片付けを始めた。
このリア充め!
私だって用事はないけど、定時で帰りたかったのにと心の中で文句を垂れる。
「それにしても災難でしたね。大島さんだって予定があったかもしれないのに、林チーフもひどいですよね。私、前から思ってたんですけど絶対、林チーフは彼女いませんよ!顔はカッコいいけど口は悪いし性格も歪んでますもんね。大島さんもそう思いません?」
馬場さんは同意を求めてきた。
どうせ私はデートする相手なんていないよ!っていうか、彼女の口から出た言葉は完全に林チーフの悪口なんだけど。
「えっ、いや……」
返答に困っていると、
「俺がなんだって?」
私の背後から聞こえてきた声に殺気を感じ、心臓がドキリと跳ねた。
これはまずいでしょ。
「ヒッ……」
変な声を出し青ざめた顔の馬場さんはバッグを手に後ずさりする。
「は、林チーフ……お、お疲れさまです。お先に失礼しますっ」
動揺しまくりの馬場さんが勢いよく頭を下げ一目散に帰っていく。
嘘でしょ、残された私はどうしたら……。
「大島、無駄口をたたく余裕があるんだな。で、俺がなんだって?」
ジロリと目を細めて聞いてくる。
「えっ、それは私が言った訳じゃ……」
馬場さんのせいでとばっちりだ。
林チーフだって私が言ってないことは分かってるくせに意地の悪いことを言う。
絶対に私が焦っている姿を見て楽しんでいるんだろう。
それだから性格が歪んでるとか馬場さんに言われるんだ。
「まぁいい。早く帰りたいなら、さっさと手を動かせよ」
「はい」
帰り間際に林チーフが頼まなきゃ早く帰れたんですけどね!
とは、口が裂けても言えない。
ため息を吐きパソコン入力を始めた。
***
ふと気付いた時には、みんな早々と仕事を終わらせて帰っていて、残業しているのは私と林チーフだけになっていた。
花火大会か……。
あ~、艶々光る真っ赤なリンゴ飴が食べたいなぁと机に右頬を付けたまま目を閉じる。
花火大会やクリスマスとかそういうイベントがあるたびに彼氏が欲しいなと思ってしまう。
大島真琴、二十三歳。
私にだってそれなりに彼氏はいた。
大学時代、年下と付き合っていたけど、私が去年就職してからすれ違いが続き向こうが浮気しあっけなく別れて以来、刺激も何もない寂しい生活。
そんな私にも気になるというか憧れている人はいる。
林チーフこと、林政孝、二十九歳、独身。
学生時代は野球をやっていたらしく、髪が長いのは嫌みたいで黒髪の短髪だ。
目は切れ長で鼻筋の通った高い鼻。
ワイシャツを捲った時に見えた腕の筋肉に目が釘付けになった。
スーツの下に隠された身体はどうなっているんだろうと邪なことを考えたこともあったのはここだけの話。
とにかく、何かと目で追ってしまう存在だ。
「何サボってんだ」
「ヒャッ!」
突然の言葉と同時に、無防備な左頬に何か冷たくて固い感触がありバッと身体を起こす。
そんな私の慌てた姿を見てフッと口元に笑みを浮かべた林チーフは、「差し入れ」と言って缶コーヒーを机に置いた。
さっきの冷たいものの正体は缶コーヒーだったのか。
もっと普通に渡してくれてもよかったんだけど。
「ありがとうございます」
机の上に置かれた缶コーヒーは微糖だった。
「それでよかったんだろ?」
林チーフはプシュッと無糖の缶コーヒーを開けながら言う。
「はい」
コーヒーは飲むけど無糖は苦くて飲めない。
前に間違えて無糖のコーヒーを飲んだ時、あまりにも苦くてシロップを二つ入れたのを林チーフは覚えてくれていたんだ。
こういう細かな気遣いをしてくれるのも、いいなと思う要因の一つなんだよね。
プルトップを開け、喉に流し込むとほんのりとした苦みが口の中に広がった。
「あとどれくらいかかるんだ?」
私のパソコン画面を覗き込み聞いてくる。
「残り三枚分です」
取引先の住所の書かれている紙をパラパラとめくる。
私がやっていたのは、新規取引先の住所入力と住所表記の変更があった取引先の住所訂正。
面倒だけどこれをやっておかないと今後、仕事に差し支える。
だけど、それをやるのがどうして今日だったのか?という疑問は残るけど。
「そうか、終わったら教えてくれ」
林チーフはそう言うと自分の席に戻っていく。
コーヒーをもう一口飲んで気合いを入れ直した。
***
ようやく全てを入力し終わり、最終チェックも済みほっと息を吐く。
時計を見ると二十時前。
伸びをして首をポキポキと鳴らした。
もう、お腹が空きすぎて倒れそうだ。
そんなことを考えながらフロアを見回すと林チーフの姿がない。
「あれ?」
静かなフロアに私の声が響く。
「何があれ?なんだ」
不意に聞こえた声に心臓が跳ねた。
もう、急に声をかけるのはビックリするからやめて欲しい。
「は、林チーフ……、帰ったのかと思いました」
フロアの入り口からゆっくりと歩いてくる林チーフ。
ホント、不意打ちは心臓に悪い。
「何を言ってるんだ。お前が残ってるのに先に帰る訳ないだろ」
呆れたように言う。
ですよね……、よく見ると林チーフの鞄が机の脇に置いてあるし。
「それはそうと、出来たのか?」
「はい、チェックも終わりました」
「そうか、ご苦労さん」
その言葉を聞き、パソコンの電源を落とし片付け始めた。
やっと帰れる。
バッグを手に立ち上がると、ちょうど林チーフも帰り支度をしていて、バチッと目が合うと口角をゆるりとあげた。
「大島、頑張ったご褒美、やるよ」
「えっ?」
「いいから黙ってついてこい」
そう言うと林チーフはフロアを出ていく。
「あ、ちょっと待ってください」
早足に後を追った。
ガチャリ、と鍵を開け林チーフは屋上に入っていく。
「あの……入ってもいいんですか?」
初めて上がった屋上に、入っていいものか不安になりキョロキョロと周りを見ながら言う。
「いいに決まってるだろ。さっさと来い」
手招きされ、戸惑いつつも呼ばれるままに足を踏み入れた。
夜になったとはいえ、夏の風は生ぬるい。
うちの会社は築三十五年の五階建てのコンクリート打ちっぱなしのビル。
お世辞にも綺麗とは言えない。
周りにはマンションは建っているけどそれなりに見晴らしはいいかも。
夜の空を見上げると星が瞬いている。
きっと、明日も晴れそうだな。
「そろそろか……」
林チーフは腕時計を見ながら呟く。
「そろそろって何かあるんですか?」
「お前、何かってそりゃ……」
ドォーン、
林チーフの言葉を遮るように大きな音と共に大輪の花火が夜空に咲いた。
「あ、花火……」
さっきまで花火大会のことばかり考えていたのに、すっかり忘れていた。
そっか、林チーフの言う“ご褒美”は花火のことだったのか。
「やっぱり、ここはよく見えるな」
そう言って笑った顔を見た瞬間、胸が高鳴った。
自分でも頬が一気に熱を帯びていくのが分かる。
普段の林チーフは、口の端を少し上げた意地の悪い笑い方をする。
だからこんな笑顔を向けられるのは初めてだから、どうしていいか分からなくなる。
顔の赤さに気付かれないよう、俯き気味に話しかけた。
「あの、林チーフは毎年ここで花火を見てるんですか?」
「いや、この場所で見るのは初めてだ」
「そうなんですか。じゃあ他の社員の人もここで見れるのは知ってるんですかね?」
「さぁ。他の社員が知ってるのかどうかは分からない。ただ俺は、会社の向かいの建物の隙間から花火が見えてたから、屋上からの方がよく見えるんじゃないかと思って今日は鍵を借りてたんだ。お前と……………」
小さく呟いた最後の方の言葉は、花火の音にかき消された。
***
「そうだ、これやるよ」
そう言って手に持っていたビニール袋を私に差し出してくる。
受け取った袋の中身は真っ赤なリンゴ飴と人気キャラの形をしたベビーカステラだった。
「えっ、私にですか?」
「ああ。ちょっと気分転換に外に出た時に売ってたから」
要らないなら返せよ、とフイとそっぽを向いたまま手を出してくる。
林チーフが私のために買ってきてくれたんだと思うと自然と頬が緩んだ。
し・か・も!
こんな可愛いキャラのカステラをどんな顔して買ったんだろう?
それがすごく気になったりして。
「ありがとうございます。私、リンゴ飴とベビーカステラ大好きなんです」
夜店で買うものといえばこれでしょ、というくらい私のお気に入りツートップだ。
子供のころからお祭りとかあった時はいつも買っていた。
「ん、そうか」
私の言葉に林チーフは口角を微かに上げて笑う。
こんなやり取りをしている間も夜空に赤や青、緑やオレンジなど色鮮やかな花火が地響きのような音と共に次から次へと打ち上がっていた。
チラリと隣の林チーフに目をやる。
真っ直ぐに夜空を見上げているその横顔に思わず息をのんだ。
やっぱり格好いいな。
つい、見惚れてしまう。
そんな私の視線に気付いたのか、軽く眉根を寄せた。
「なんだ?」
「えっと、花火……綺麗ですね」
じっと見ていたのを誤魔化すように夜空に視線を向けると「そうだな」と言って林チーフも再び夜空を見上げた。
しばらくしてピタッと花火が上がるのが止まる。
次の花火の打ち上げの準備をしているんだろうか、そんなことを考えていると林チーフが口を開いた。
「そろそろいい時間だし、降りるか。最後まで見てもいいけど腹、減ってるだろ」
「はい」
そこは素直に返事した。
お腹が空きすぎて今すぐにでもベビーカステラを食べたい気分だったからだ。
屋上の鍵を閉め、エレベーターに乗り込み一階まで降りる。
そして、会社を出ると林チーフが私の方に振り返り一言。
「大島、飯、食いに行くぞ」
「へっ……」
目を見開いたまま、思考回路が一時ストップする。
今のは聞き間違いだろうか。
都合のいい夢でも見てるのかな。
林チーフが私を食事に誘ってくれるなんて予想外で驚いた。
「そのアホ面は何だよ。まさか嫌とか言うんじゃないだろうな」
私の表情から何かを読み取ったのか、林チーフが眉間にシワを寄せる。
「そんなことは言いませんけど……」
「なら、早く来いよ」
一瞬、ホッとした表情を見せたあと、スタスタと会社裏の社員専用の駐車場に歩いていく。
ねぇ、林チーフ。
少しは期待してもいいですか?
今日、素敵な笑顔を見せてくれたこと、食事に誘ってくれたこと。
それと、花火にかき消されたあの言葉……。
『お前と一緒に花火が見たかったんだ』
取りあえず、食事が済んだら私の気持ちを伝えてみようかな。
これから何かが始まりそうな予感を胸に、林チーフのあとを小走りで追った。
END.
何で私がこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。
今日は絶対に早く帰りたかったのに、と脳内で愚痴をこぼす。
手を休め、机の空いているスペースに右頬をペタッとくっつけてため息を吐いた。
今日は会社近くの河川敷で花火大会がある日だ。
毎年、うちの会社周辺の道路は混むし公共交通機関は人であふれている、と去年そのことを教えてもらった。
だけど、それを聞いたのが花火大会当日だった。
その日の仕事が終わり、私は人混みを逆走して駅まで歩き、そこから電車に乗って家に帰った。
人と何度ぶつかったかなんて覚えていない。
帰るだけでヘトヘトになったのは初めてで、こんな経験は二度としたくないと思えるほど。
そして、"花火大会の日は絶対に残業しない!”と心に刻んだ。
そんなことが去年あったので、今年は例の教訓を生かそうといつも以上に時間を気にして仕事をしていたんだ。
夕方になり、会社前の歩道にはチラホラと浴衣を着た集団が歩いている姿が見えた。
間違いなく今年も混むから定時の十七時半には帰りたかった。
いや、帰るつもりで仕事も早く終わらせれるように頑張っていた。
はずなのに……。
「大島、悪いけど取引先の住所入力をやり直してくれ」
定時間近、悪魔の声が聞こえた。
***
「真琴、手伝ってあげたいけど今日は子供と約束してるから」
ごめんね、とすまなそうに言う高木さん。
高木さんは既婚者で可愛い一人息子の和哉くんがいる。
今日は家族で花火大会に行くという話を前々から聞いていた。
「いえ、大丈夫ですよ。和哉くん、花火楽しみにしてるんですよね。だから早く帰ってあげてください」
「ありがとう。じゃあ、お先にね」
高木さんはフロアを後にした。
その後ろ姿を見送っていると、どこからか視線を感じる。
「あの~、私は用事があって……」
一年後輩の馬場さんが私をチラチラ見ていた。
さっきの視線は彼女だったのか。
「大丈夫、最初から馬場さんに手伝ってもらおうとか考えてないから」
「ホントですか?よかったぁ。今日は一度家に帰って浴衣を着てのデートだから定時には帰りたかったんです」
私の嫌味もさらっとスルーし、鼻歌交じりで片付けを始めた。
このリア充め!
私だって用事はないけど、定時で帰りたかったのにと心の中で文句を垂れる。
「それにしても災難でしたね。大島さんだって予定があったかもしれないのに、林チーフもひどいですよね。私、前から思ってたんですけど絶対、林チーフは彼女いませんよ!顔はカッコいいけど口は悪いし性格も歪んでますもんね。大島さんもそう思いません?」
馬場さんは同意を求めてきた。
どうせ私はデートする相手なんていないよ!っていうか、彼女の口から出た言葉は完全に林チーフの悪口なんだけど。
「えっ、いや……」
返答に困っていると、
「俺がなんだって?」
私の背後から聞こえてきた声に殺気を感じ、心臓がドキリと跳ねた。
これはまずいでしょ。
「ヒッ……」
変な声を出し青ざめた顔の馬場さんはバッグを手に後ずさりする。
「は、林チーフ……お、お疲れさまです。お先に失礼しますっ」
動揺しまくりの馬場さんが勢いよく頭を下げ一目散に帰っていく。
嘘でしょ、残された私はどうしたら……。
「大島、無駄口をたたく余裕があるんだな。で、俺がなんだって?」
ジロリと目を細めて聞いてくる。
「えっ、それは私が言った訳じゃ……」
馬場さんのせいでとばっちりだ。
林チーフだって私が言ってないことは分かってるくせに意地の悪いことを言う。
絶対に私が焦っている姿を見て楽しんでいるんだろう。
それだから性格が歪んでるとか馬場さんに言われるんだ。
「まぁいい。早く帰りたいなら、さっさと手を動かせよ」
「はい」
帰り間際に林チーフが頼まなきゃ早く帰れたんですけどね!
とは、口が裂けても言えない。
ため息を吐きパソコン入力を始めた。
***
ふと気付いた時には、みんな早々と仕事を終わらせて帰っていて、残業しているのは私と林チーフだけになっていた。
花火大会か……。
あ~、艶々光る真っ赤なリンゴ飴が食べたいなぁと机に右頬を付けたまま目を閉じる。
花火大会やクリスマスとかそういうイベントがあるたびに彼氏が欲しいなと思ってしまう。
大島真琴、二十三歳。
私にだってそれなりに彼氏はいた。
大学時代、年下と付き合っていたけど、私が去年就職してからすれ違いが続き向こうが浮気しあっけなく別れて以来、刺激も何もない寂しい生活。
そんな私にも気になるというか憧れている人はいる。
林チーフこと、林政孝、二十九歳、独身。
学生時代は野球をやっていたらしく、髪が長いのは嫌みたいで黒髪の短髪だ。
目は切れ長で鼻筋の通った高い鼻。
ワイシャツを捲った時に見えた腕の筋肉に目が釘付けになった。
スーツの下に隠された身体はどうなっているんだろうと邪なことを考えたこともあったのはここだけの話。
とにかく、何かと目で追ってしまう存在だ。
「何サボってんだ」
「ヒャッ!」
突然の言葉と同時に、無防備な左頬に何か冷たくて固い感触がありバッと身体を起こす。
そんな私の慌てた姿を見てフッと口元に笑みを浮かべた林チーフは、「差し入れ」と言って缶コーヒーを机に置いた。
さっきの冷たいものの正体は缶コーヒーだったのか。
もっと普通に渡してくれてもよかったんだけど。
「ありがとうございます」
机の上に置かれた缶コーヒーは微糖だった。
「それでよかったんだろ?」
林チーフはプシュッと無糖の缶コーヒーを開けながら言う。
「はい」
コーヒーは飲むけど無糖は苦くて飲めない。
前に間違えて無糖のコーヒーを飲んだ時、あまりにも苦くてシロップを二つ入れたのを林チーフは覚えてくれていたんだ。
こういう細かな気遣いをしてくれるのも、いいなと思う要因の一つなんだよね。
プルトップを開け、喉に流し込むとほんのりとした苦みが口の中に広がった。
「あとどれくらいかかるんだ?」
私のパソコン画面を覗き込み聞いてくる。
「残り三枚分です」
取引先の住所の書かれている紙をパラパラとめくる。
私がやっていたのは、新規取引先の住所入力と住所表記の変更があった取引先の住所訂正。
面倒だけどこれをやっておかないと今後、仕事に差し支える。
だけど、それをやるのがどうして今日だったのか?という疑問は残るけど。
「そうか、終わったら教えてくれ」
林チーフはそう言うと自分の席に戻っていく。
コーヒーをもう一口飲んで気合いを入れ直した。
***
ようやく全てを入力し終わり、最終チェックも済みほっと息を吐く。
時計を見ると二十時前。
伸びをして首をポキポキと鳴らした。
もう、お腹が空きすぎて倒れそうだ。
そんなことを考えながらフロアを見回すと林チーフの姿がない。
「あれ?」
静かなフロアに私の声が響く。
「何があれ?なんだ」
不意に聞こえた声に心臓が跳ねた。
もう、急に声をかけるのはビックリするからやめて欲しい。
「は、林チーフ……、帰ったのかと思いました」
フロアの入り口からゆっくりと歩いてくる林チーフ。
ホント、不意打ちは心臓に悪い。
「何を言ってるんだ。お前が残ってるのに先に帰る訳ないだろ」
呆れたように言う。
ですよね……、よく見ると林チーフの鞄が机の脇に置いてあるし。
「それはそうと、出来たのか?」
「はい、チェックも終わりました」
「そうか、ご苦労さん」
その言葉を聞き、パソコンの電源を落とし片付け始めた。
やっと帰れる。
バッグを手に立ち上がると、ちょうど林チーフも帰り支度をしていて、バチッと目が合うと口角をゆるりとあげた。
「大島、頑張ったご褒美、やるよ」
「えっ?」
「いいから黙ってついてこい」
そう言うと林チーフはフロアを出ていく。
「あ、ちょっと待ってください」
早足に後を追った。
ガチャリ、と鍵を開け林チーフは屋上に入っていく。
「あの……入ってもいいんですか?」
初めて上がった屋上に、入っていいものか不安になりキョロキョロと周りを見ながら言う。
「いいに決まってるだろ。さっさと来い」
手招きされ、戸惑いつつも呼ばれるままに足を踏み入れた。
夜になったとはいえ、夏の風は生ぬるい。
うちの会社は築三十五年の五階建てのコンクリート打ちっぱなしのビル。
お世辞にも綺麗とは言えない。
周りにはマンションは建っているけどそれなりに見晴らしはいいかも。
夜の空を見上げると星が瞬いている。
きっと、明日も晴れそうだな。
「そろそろか……」
林チーフは腕時計を見ながら呟く。
「そろそろって何かあるんですか?」
「お前、何かってそりゃ……」
ドォーン、
林チーフの言葉を遮るように大きな音と共に大輪の花火が夜空に咲いた。
「あ、花火……」
さっきまで花火大会のことばかり考えていたのに、すっかり忘れていた。
そっか、林チーフの言う“ご褒美”は花火のことだったのか。
「やっぱり、ここはよく見えるな」
そう言って笑った顔を見た瞬間、胸が高鳴った。
自分でも頬が一気に熱を帯びていくのが分かる。
普段の林チーフは、口の端を少し上げた意地の悪い笑い方をする。
だからこんな笑顔を向けられるのは初めてだから、どうしていいか分からなくなる。
顔の赤さに気付かれないよう、俯き気味に話しかけた。
「あの、林チーフは毎年ここで花火を見てるんですか?」
「いや、この場所で見るのは初めてだ」
「そうなんですか。じゃあ他の社員の人もここで見れるのは知ってるんですかね?」
「さぁ。他の社員が知ってるのかどうかは分からない。ただ俺は、会社の向かいの建物の隙間から花火が見えてたから、屋上からの方がよく見えるんじゃないかと思って今日は鍵を借りてたんだ。お前と……………」
小さく呟いた最後の方の言葉は、花火の音にかき消された。
***
「そうだ、これやるよ」
そう言って手に持っていたビニール袋を私に差し出してくる。
受け取った袋の中身は真っ赤なリンゴ飴と人気キャラの形をしたベビーカステラだった。
「えっ、私にですか?」
「ああ。ちょっと気分転換に外に出た時に売ってたから」
要らないなら返せよ、とフイとそっぽを向いたまま手を出してくる。
林チーフが私のために買ってきてくれたんだと思うと自然と頬が緩んだ。
し・か・も!
こんな可愛いキャラのカステラをどんな顔して買ったんだろう?
それがすごく気になったりして。
「ありがとうございます。私、リンゴ飴とベビーカステラ大好きなんです」
夜店で買うものといえばこれでしょ、というくらい私のお気に入りツートップだ。
子供のころからお祭りとかあった時はいつも買っていた。
「ん、そうか」
私の言葉に林チーフは口角を微かに上げて笑う。
こんなやり取りをしている間も夜空に赤や青、緑やオレンジなど色鮮やかな花火が地響きのような音と共に次から次へと打ち上がっていた。
チラリと隣の林チーフに目をやる。
真っ直ぐに夜空を見上げているその横顔に思わず息をのんだ。
やっぱり格好いいな。
つい、見惚れてしまう。
そんな私の視線に気付いたのか、軽く眉根を寄せた。
「なんだ?」
「えっと、花火……綺麗ですね」
じっと見ていたのを誤魔化すように夜空に視線を向けると「そうだな」と言って林チーフも再び夜空を見上げた。
しばらくしてピタッと花火が上がるのが止まる。
次の花火の打ち上げの準備をしているんだろうか、そんなことを考えていると林チーフが口を開いた。
「そろそろいい時間だし、降りるか。最後まで見てもいいけど腹、減ってるだろ」
「はい」
そこは素直に返事した。
お腹が空きすぎて今すぐにでもベビーカステラを食べたい気分だったからだ。
屋上の鍵を閉め、エレベーターに乗り込み一階まで降りる。
そして、会社を出ると林チーフが私の方に振り返り一言。
「大島、飯、食いに行くぞ」
「へっ……」
目を見開いたまま、思考回路が一時ストップする。
今のは聞き間違いだろうか。
都合のいい夢でも見てるのかな。
林チーフが私を食事に誘ってくれるなんて予想外で驚いた。
「そのアホ面は何だよ。まさか嫌とか言うんじゃないだろうな」
私の表情から何かを読み取ったのか、林チーフが眉間にシワを寄せる。
「そんなことは言いませんけど……」
「なら、早く来いよ」
一瞬、ホッとした表情を見せたあと、スタスタと会社裏の社員専用の駐車場に歩いていく。
ねぇ、林チーフ。
少しは期待してもいいですか?
今日、素敵な笑顔を見せてくれたこと、食事に誘ってくれたこと。
それと、花火にかき消されたあの言葉……。
『お前と一緒に花火が見たかったんだ』
取りあえず、食事が済んだら私の気持ちを伝えてみようかな。
これから何かが始まりそうな予感を胸に、林チーフのあとを小走りで追った。
END.

