凍てつく寒さなんて感じない。

 私は真冬の札幌でお気に入りの黄色のコートを脱いでいる。そして、そのコートは血に染まっている――。
 
志度(しど)!」

 彼の名前を何度も口にするけど、彼は反応しない。彼の顔はすでに青白くなり始めている。周りの人に救い出され、雪の上に寝かせられた彼は血まみれだった。降り積もった雪が簡単に赤くなる。
 止血するものはない。救急車のサイレンが遠くから聴こえる。
 私は制服のまま、雪の上にひざまずいている。黒タイツ越しに冷たさを感じるけど、そんなのどうでもいい。
 彼が雪のように消えなければいい――。
 もしかしたら、彼の命はすでに溶け始めているのかもしれない。
 早く。
 誰か、早く彼を救って――。
 息を吐くと大粒の涙が両目から溢れた。
  






「最高だね。おめでとう」
「ありがとう」
 桜子はノンカフェインコーヒーが入ったカップを手に取り、一口飲んだ。カフェの二階席のフロワーは全体的に空いている。窓側のこの席からは広々とした片側二車線の道路と、大通公園が見えている。大通公園を挟んで向かい側にはオフィスビルが几帳面に並んでいて、街は雨で灰色に見えた。

「でもさ、まだ、実感わかない」
「そうなんだ。そういうものなのかな」
「そうかも。本当は二人でゆっくり結婚生活を楽しみたかったけどさ、そうはいかないみたい」 
「だけどさ、絶対、楽しくなるよね。子供いるとさ。それなりに大変なことも多いと思うけど、思い出がたくさんできるのが約束されてるよ」
「そうかもね」
 私はカフェオレが入ったマグカップを手に取り、一口飲んだ。マグカップを唇から離すと、カフェオレが一滴、すっと、カップの下の方まで流れた。左手で紙ナプキンを取り、拭った。
 
「仕事はどうするの?」
「辞めようかなって思ってる。今の状態でも結構仕事キツいしさ、両立なんて無理だよ」
「育休明けにでも仕事は再開できるんでしょ?」
「そうだけどさ、無理だって。担任やってるのだって結構キツイしさ。高校生相手だから、小中よりはマシだと思うけど、私はこの仕事、子育てしながらやっていける自信ないわ」
「珍しく弱気だね」
 私はカフェラテをもう一口飲んだ。ふと、桜子は私の何歩も先のことを話しているんだなって思った。
「慎重派だから。私。わかるでしょ」
「昔からね」
 カップを持ったまま、私は外の景色をぼんやりと眺めた。雨足が強くなり、ガラスに大粒の水滴がたくさんつき始めている。大通公園を歩いている人たちは色とりどりの傘を差して、どこかへ向かっているのが見えた。

「育児が仕事みたいにがむしゃらに頑張ればなんとかやり過ごせることなら強気だけど、わからないよね。育児って。無理、無理」
「そうだよね。――子育てか」
 私は手に持ったままのマグカップをテーブルに置いた。思ったより、勢いがついて、少し鈍い音がした。
「――それよりもさ、日奈子はどうなの。最近は」
 桜子は椅子に座り直しながら、そう言った。

「うーん。普通かな。今度、函館行こうって、旅行に誘われた」
「お、いいねぇ。ラッキーピエロとか、海鮮丼でお腹はち切れそう」
「どんな感想だよ。それ。ラッキーピエロのチャイニーズチキンバーガーは一日目に食べたいって彼におねだりした」
「さすが日奈子。貪欲だねぇ」
「でしょ。彼と函館満喫して、仕事のストレスすっとばしてくるわ」
「いいねぇ」 
 桜子はいつものように嬉しそうな声でそう言った。
 
「もう、折り合いはついてそうで安心したよ」
「うーん。それがまだ、わからないんだ。自分でも」
「そうなんだ」
「時々、今でも思い出しちゃうんだ。なぜかわからないけど。――志度のこと思い出すとなんか、すごく志度に悪い気がするんだ」
「――だけど、もういいと思うよ。日奈子。もう、随分前のことだし」
「――そうだよね」
 私がそう言うと、少しの間、静かになったような気がした。外の雨は相変わらず、強く降っていて、帰るときに濡れないかふと心配になった。 
「私はさ、日奈子にも幸せになってほしいの。本当に」
「ありがとう。でも、まだわからない」
 マグカップを手に取ったあと、私は桜子に微笑んだ。






 バスタブに浸かっている。火照った身体を見ると私の身体はとても貧相だ。子供のように細い腕。痩せ型の見本を絵に描いたような貧相な身体だ。
 桜子が妊娠したことを思い出した。周りは当たり前のように幸せになっていく。そんなの当たり前だ。生きている限り、幸せを追い求めないと幸せは簡単に掴むことなんてできない。
 桜子は当たり前のように自分で幸せを作っているに過ぎないんだ。

 私はすでにあらゆることがある時点から止まってしまった。あと5年で30歳になるけど、私にとって大切なものはほとんど何もない。それは砂浜で自分の名前を木の枝で描き、名前が波でさらわれるのを待っているようなものだ。
 仕事に追われ、2年が過ぎようとしていた。大学を卒業し、新卒採用で大型書店に入社した。毎日クタクタになりながらシフト通り出勤し、1日10時間は当たり前のように働いた。
 
 できるだけ体調を崩したくなかったから、私は自炊を頑張った。夜ご飯は栄養バランスがとれるしっかりしたものを作るように心がけ、そのおかずを次の日の昼のお弁当にするようにした。
 その甲斐あって、料理はそれなりに得意になった。仕事でこんなに疲れているのに私は不眠症だ。ひどい時は睡眠薬も効かず、1時間の睡眠で仕事に行くこともあった。
 

 私だけ置いていかれているような気持ちになった。頭の中を空っぽにすることを努力したけど、今日はなぜか上手くいかない。つらい思いがどんどん大きくなり、胸が熱くなるのを感じた。私はよくわからなくなり、ただ、辛くて涙が止まらくなった。



 風呂から上がり、切りたてのショートボブをドライヤーで適当に乾かした。1週間前に髪は切ったばかりで、髪はとても軽く、スルスルと指の間を抜けていった。

 志度が死んだ日を思い出した。志度は交通事故で死んだ。何もかも凍りつき、凛とした朝、死んだ。
 志度は学校に行く前に私との待ち合わせ場所で立って待っていた。それは下手くそなビリヤードみたいだった。夜中に降った雪が氷の上に薄くつもっていて、その日の歩道はとてもツルツルしていた。何人かが雪の下にある氷に足を取られ、滑って尻もちをついた跡がいくつもあった。
 それは車道も同じだった。片側2車線の比較的大きな車道も歩道と同じように白い氷の上に雪が薄く降りつもっていた。対向車に急ブレーキがかかった。
 そして、大きくスリップし、反対車線にはみだした。それを避けようとした乗用車が歩道の方へハンドルを切り、大きくスリップした。その先に志度がいた。
 それだけのことだ。

 私はその光景を目の前で眺めていた。車が志度を引いたあとの静けさ、白い雪に赤い志度の血が流れていた。私は立ち尽くした。
 そして、志度の元に駆け寄り、横たわっている志度の前に跪いた。志度の後頭部から血がどんどん流れていた。止血しないとと誰かが言っていた。誰かが119番に電話しているようなやり取りが聞こえた。私は着ていた黄色のダッフルコートを脱ぎ、志度の頭にあてた。それしか止血する方法が思いつかなかった。コートは血を吸ってくれず、黄色い布に血の池が出来上がっていた。

 何度も志度の名前を言ったけど、志度から私の名前は当たり前のように返って来なかった。







「結婚しよう」
 優(ゆう)にそう言われて私は一気にドキッとした。心拍数は急激にあがり、破裂しそうだ――。

 函館山の夜景はイルカの尾から胴体へつながる曲線美のように輝いている。展望デッキは平日だからか、人はまばらで、私と優だけの空間に感じる。
 夏休みが始まる前の7月の夜なのに、時折、弱くて冷たい海風が7部袖のワンピース越しに冷たく感じた。
 風が吹くたびに優の前髪が弱く揺れていた。ツーブロックでトップに束感があるショートヘアは爽やかに見えた。両耳にリング・ピアスを付けている優は仕事のときよりも若く見える。
 大きな黒い瞳でこうやって見つめられるとだんだん照れくさくなる。私と釣り合わないくらい、顔が整っている。小さくて筋が通った鼻に小ぶりの唇。こうしていると緊張するくらい優は美形だ。 
 私は左手の薬指に通された指輪を見る。シルバーの指輪は小ぶりのダイヤモンドがキラキラと展望デッキのわずかな照明を反射していた。
 優は私の方を見たまま、ずっと返事を待っている。

 ――答えはひとつしかない。
 私が頷くと優はありがとうと言って、私を抱きしめた。



 函館山を降りて、ベイエリアにあるラッキーピエロに入って、夜ご飯を食べることにした。
 店内はアメリカンな雰囲気で、深い緑色で塗られた壁が妙に落ち着いた。

「付き合って1年でこんな感じになると思わなかったな」
「うん。私も」
 そう、優とは、1年前に付き合い始めたばかりだった。優という存在は私にとってみれば、ようやく前を向きはじめるきっかけをくれた人なのかもしれない。
 話だって、いつも弾み、実際、ふたりでいるときは楽しい。このまま結婚できたらいいなって思ってた。だから、私のなかでも、結婚の心の準備はできていた。
 
 私と優はチャイニーズチキンバーガーを食べていた。私は数年ぶりの函館旅行をすっかり楽しんでいた。1年ぶりくらいに3連休を取ることができた。店長には嫌味をたくさん言われたけど、そんなのどうでもよかった。

「日奈子はさ、可愛いし、おしとやかだから、どこかミステリアスに感じるんだよ」
「え、それって褒められてるの? 私」
「うん、めっちゃ褒めてるよ。そういうところが好きだし、これからもずっと見ていたいと思ったんだ」
 優は得意げにそう言った。優は出版取次の営業でうちのお店の担当だった。週に2、3度、店舗に顔を出し、話しているうちに優からご飯に誘われて、その流れで付き合うことになった。
 実際、出版社と書店、そしてその間に挟まっている本の問屋さんの仕事は大変そうだし、大型書店に務めていて、専門書担当の私はたびたび、優に助けを求めたりした。
 私の無茶振りにも優は丁寧に対応してくれて、そして、どんな問題も笑顔でスマートに解決してくれた。そんな献身的な優に私の心は動かされた。

「最初、仕事で関わるようになってから、俺は簡単に一目惚れしちゃったよ」
「もう。それ、何回も聞いてるよ」
「ごめん、ごめん。つい、何回も言いたくなっちゃうくらい好きだってことだよ」
 優はそう言ったあと、微笑んだ。

「ねえ。どうして、こんなにドジでダメな私のこと気にかけてくれるの?」
「確かにひなちゃんはちょっと、ドジなところあるよ。だけど、それがいいんだよ。俺にしてみたら、それがすごい落ち着くし、理想的なタイプなんだ」
「へぇ。変わってるね」
「ひなちゃんは面白いこというなぁ。変わってないよ。ひなちゃんとこうしていると、なぜか俺は自然体でリラックスして話すことができるんだよね。不思議と」
 優はそう言ったあと、チャイニーズチキンバーガーを一口食べた。
「だってさ、プロポーズするなら、普通こんな場所でご飯済ませないでしょ。だけど、ひなちゃんとなら、どんなところもファンタジックになるような気がする」
「だって、それは優が私に合わせてくれたんでしょ。私がどうしても1日目の夜はラッキーピエロでご飯食べたいって言ったから」
「そう、そういうの言ってくれるからいいんだよ。わかりやすいし、素直。そういうところが好きだよ」
 優にそう言われて、私は少しだけ顔が熱くなるのを感じた。

「あ、顔、赤くなってるよ」
「優がべた褒めするからでしょ」
 私がそう言うと、優は笑った。やっぱり、優のこういうところは好きだ。常に私のいいところを惜しみもなく褒めてくれる。だけど、それが私にとって見たら時折、本当なのかなと思ってしまうこともある。

「だから、ひなちゃんといると絶対に楽しいことしか起きないと思うんだ」
「そっか。――あんまり期待しないほうがいいかもよ」
「え、どうして?」
「だって、まだ同棲だってしてないし、住み始めてからお互いの本性がわかるわけでしょ」
「あ、そう考えると、俺もヤバいな」
「でしょ? 私はきっと優が思っている以上につまらない人間かもしれないよ。それでもいいの?」
「良いも悪いも、もうすでにひなちゃんにプロポーズしちゃったんだから、覚悟はできてるよ。こんなひなちゃんと出会えたのは奇跡なんだから、ひなちゃんのこと全部受け入れるよ」
 優はそう言ったあと、また微笑んだ。

「――ありがとう」
「そして、社会人になって同い年で、こうやって逢えたのも奇跡だよ」
「そうだね」
 窓から見える夜の函館の海は穏やかで静かそうだった。ふと、志度と小樽に行ったことを思い出した。優は私のことを理解してくれようと努力してくれている。

 だけど――。

 志度のように息がピッタリ合って、話さなくてもお互いに通じ合うようなそんな感覚を優に感じたことはなかった。だけど、志度はもういない。私は前を向くしかないんだ――。
 鼻の奥がずんと重くなった感覚と一緒に右目から涙が流れた感覚がした。そのあと、すぐに両目から涙が流れ始めた。

「え、大丈夫?」
 優は少し驚いていた。 
「ごめんね。――昔のこと思い出して、つらくなった。優の所為じゃないよ」
 そう言ったあとも、涙は止まらず、私はバッグからティッシュを取り出して、目に当てた。

 なんなんだろう。この感じ。

 志度が私の結婚を邪魔してるのかな。なんて、死んだ人の所為にしてみたけど、そんなわけがなかった。

「大丈夫だよ。ひなちゃん。俺たちは今を生きてるんだから」
 何が大丈夫なんだろう? 優は何も知らないでしょ。私のことなんて。そんな優しい声で適当なこと言わないでよ。――傷つくから。
「――ごめんね。もう、大丈夫だから」
 あーあ。私はなんで嘘をついているんだろう。全然、大丈夫じゃない。
「そっか。無理しないでね」
「――ありがとう」
 こういう優しいところが好きだけど、たまに表面的に感じてしまう。きっと深い訳を聞かないことが良いことだと優は思っているんだろうけど、そうじゃないときのほうが私にしてみたら多い。

 私は大きくため息を吐いた。
 ――気持ちを切り替えなくちゃ。
 
「美味しいね。チャイニーズチキンバーガー」
 私はそう言って、優に微笑んだ。








 二泊三日の函館旅行は順調に進んでいく。五稜郭公園のタワーから、星の形をしたお堀を見たり、ベイエリアや朝一で海鮮ものを食べたりした。
 そして、今、八幡坂を優と一緒にゆっくり歩きながら下っている。今日も空は雲ひとつなく、ジリジリとして暑かった。
 このエリアは明治時代にいろんな国の領事館や教会が建てられた場所で、洋風建築の建物が異国みたいな雰囲気を作っている。
 八幡坂は片側一車線なのに車が4台並んで走れそうな広々とした道だ。ガス燈の形をしたレトロな街灯と、街路樹が交互に立っていて、坂の下まで一直線に続いていた。
 その道の先には函館の港の湾とその奥に広がる山が広がっている。奥の山と八幡坂沿いにある建物で、港の海はまるで、湖のように見える。
 なんとなく、手を繋がないまま優と一緒に坂道を下っていた。
 
「ねえ、ひなちゃん」
「なに?」
「プロポーズ、オッケーしてくれてありがとう」
「ううん。――こっちこそ、ありがとう」
「家族になっても、こういう思い出たくさんつくろうね」
「うん。そうだね」
 私は上を向いた。そして、何度か目をパチパチと閉じたり、開いたりした。
 こうやって、優と旅行をするのは楽しい。
 だけど、親密な感じってこんな感じだったっけ――。恋愛が久しぶりすぎて、こんなにぼやけた感覚なのかな。

 ――なにかが満たされない。

「ねえ。優」
「なに?」
「私と暮らし始めて、もし、イメージと違ったらどうする?」
「なに言ってるんだよ。ひなちゃん。イメージと違うわけないよ」
「ううん。多かれ少なかれそういうところはあるでしょ? きっと、優が付き合ってた前の人とも、そういうところあったでしょ」
「それはそうだけどさ。――ほら、前の人とは明らかに違うんだよ。ひなちゃんは。料理もできるし、おしゃれだし、それに知的でキュートだし。仮にイメージと違うところがあっても、ずっと見てられるよ」
 優は微笑んだあと、右手を差し出してきた。だから、私は左手で優の手を繋いだ。優の手は汗ばんでいた。
「ただ、ひなちゃんは心配性すぎるところがあるよな。仕事もその傾向が強い気がする。新しいことに慎重になりすぎるんだよ。ひなちゃんは。そして、考えすぎる。一昨日みたいにね」
 私はそれを聞いて、少しだけムッとした。一昨日泣いたのは違うのに。勝手に決めつけないでよ――。
  
「そうだね。優の言う通りかも」
「でしょ。だから、ひなちゃんが思っている以上に二人とも上手くいくよ」
「どうかな。――やってみないとわからないよ。それに私の会社、そこそこブラックなの知ってるでしょ」 
「嫌だったら、やめちゃえばいいよ。俺が養うから。ひなちゃんのこと」
「そっか」
 寿退社ってやつだね。優。私は毎日、優の帰りを美味しい料理を作って待っている。それもいいかもしれない。だけど、趣味がバスボムしかない私は日中の誰もいない間、いったい、何をすればいいんだろう――。

「たぶん、引っ越して二人暮らし始めたら、優が引くくらい、私の荷物すくないと思うよ」
「え、そんなにミニマリストなの?」
「うん。意識してるわけじゃないんだけど、本当に私って趣味がないの」
「え、だけど、バスボムよく買ってるって言ってたじゃん」
「そうだけど、あれもコレクションじゃなくて、消費してなくなるものだから、カラーボックスひとつ分の量しかないの。それ以外は服だって、この会社の今の給料じゃ、大したもの買えないから、本当に何着かしか持ってないし」
「あれでしょ。読書はするでしょ。書店員なんだから」
「残念だけど、本買うだけの余裕もないから、本もそんなにない」
「そっか。そしたら、俺が養ってやるよ。好きなもの好きなだけとは言えないけど、今よりは好きなもの買えるようにするよ」
 優はそう言って微笑んだ。
 いや、優。そうじゃないんだよ。私はあるときから、なぜか興味が持てなくなったんだよ。楽しいことに。
「本当の私がわかっても幻滅しないでね」
「なに言ってるんだよ。ひなちゃん。全部、愛してるよ」
 私は優に何も答えることなく、この話題は終わった。



 市電に乗り、函館駅に着いた。そして、札幌行きのJRに乗った。
 列車はゆっくりと函館駅を発車した。14時を過ぎたばかりの車内は比較的混んでいて、至るところから楽しそうな話し声で、ざわざわとしていた。
 優は私を窓側に座らせた。私は右手で頬杖をつき、流れる景色を眺めていた。札幌まで3時間半もかかる。家に着くのはきっと19時前くらいだろう。明日は朝番で8時には職場に着いていなければならない。そう思うとさっきまでの楽しかった気持ちは吹き飛び、憂鬱になった。

「ねえ、ひなちゃん」
「なに?」
 渋い声の男性の声で車内放送が流れている。札幌まで10以上もある停車駅の名前が放送されていた。
 
「すごく楽しかったね」
「うん。――ありがとう」
「いいえ。ひなちゃんもありがとう」
 優は右手を私の左手にそっと乗せた。そして、指の間に指をからませた。

「ねえ。優」
「なに?」
「夢から醒めたように私のこと、幻滅しても知らないよ」
「なんだよ。変なの。そうなるわけないじゃん。ひなちゃん」
「私って、すごく変わってると思うし、面白みもないと思うの」
「そういう、ひなちゃんがすでに面白いよ」
 頬杖をやめて、優を見ると優はそっと微笑んだ。――別に面白いこと言ってないんだよ。優。

「きっと、変だと思ってるのひなちゃんだけだよ。もっと自分に自信持ってよ。プロポーズした俺も変になっちゃうからさ」
「そうだね。優は私を選んだ時点で十分、変人だね」
「やっぱり、面白いや。ひなちゃん」
 私はこのやり取りが釈然としなかった。だから、もう一度、頬杖をつき、窓の外を眺めた。列車はゆっくりと減速し、五稜郭駅に着いた。
 


 



 家に着いたのは19時すぎだった。列車の中でも眠ることが出来なかった。こんなに疲れているのに、二泊三日の間の平均睡眠時間はきっと4時間くらいだ。
 外着のワンピースのまま、ベッドに寝転んだ。白色のシーリングライトは今日も丸く、眩しかった。

「楽しかった」
 ぼそっと言ったけど、何もおこらなかった。左手を上げて薬指についているリングを眺める。ライトに反射して、ダイヤはキラキラしている。
 優はあのやり取りのあと、札幌までしっかりと眠っていた。結局、優はこの旅行中に私が不眠症であることに気が付かなかった。

 きっと、これで正解なんだ。悪いのは私自身だ。なんで、いまさら志度と比べてしまうのだろう――。
 あのときは高校生で大人になった今と比べるような恋愛を志度とはしていない。だけど、志度のほうが私のこと見てくれていたような気がする。

 大きくため息を吐いたあと、私は起き上がり、靴下を脱ぎ始めた。






 一週間、働いた。
 別になにもない一週間だった。職場で優と会って、休憩時間を合わせて、パン屋のカフェコーナーでお昼ごはんを一緒に食べた。
 いつもと変わらない一週間だった。いつものようにクタクタに疲れ切って、帰ってきても、気持ちは何も満たされる気配はなかった。
 プロポーズされたら普通は幸せいっぱいのはずなのに――。
 なんで私だけ、こんなんなんだろう。

 ――志度。君の所為だよ。







 一日中、寝転がっていたら、あっという間で、簡単に休日が終わろうとしている。 

 志度が死んでから、私には何も無くなってしまった。
 しばらくの間、誰になにを言われても温度を感じることができなくなった。
 志度が死んだのは高校2年生のときだった。

 クリスマス前でみんな、浮かれている時期だった。志度は私と学校に行くのに私のことを待っていた。いつもの待ち合わせ場所で私を待っていただけだった。そして、そこにたまたま車が志度の方へ突っ込んできた。
 志度は私を待っていて死んだという事実を受け入れることが出来なかった。しかも、その日、私は寝坊して、いつもより10分も遅れてしまった。だから、志度は私が寝坊しなければ、あんな場所にいるはずなかった。なのに、私がその状況を作ってしまったんだ。もし、私が寝坊しなければ、志度は生きていたのかもしれない。私が志度を殺してしまったのかもしれないと今でも思っている。
 そのまま、急かされるように3年生になり、何もない夏を過ごし、それなりに勉強して、札幌のそれなりの大学に進学した。その間も志度は高校2年生のまま、なにも変わらなかった。

「もし」なんて存在しないことに散々悩まされた。
 結局、志度との思い出は夢だったんだ。志度のことを考えるたびに頭の中でぐるぐると思考が回る。よく、死んだ人はずっと自分の胸の中で生きるって言うけど、それは嘘だ。
 生きてるわけではないし、死んだという事実だけが残る。胸の中で志度が生きているなら、私はとっくにこんなモヤモヤした気持ちなんてなくなっているはずだ。だけど、そんな状況には絶対にならない。だって、私の胸の中で志度は生きていないから。

 志度が死んでから私はなにもしないことを心がけるようになった。
 そうして、私はどんどん自分を削ぎ落としていった。やっぱり、優には悪いけど、私、志度が死んだあのときから、私の人生は終わってしまったのかもしれない。

 ――別にもう、死んだって後悔ないかも。

 優にこんなこと言ったら、なんて言ってくれるんだろう。もしかしたら、相談に乗ったつもりで、自分の話しかしないのかもしれない。
 






 仕事なのに、一睡も出来ずに朝を迎えてしまった。志度が死んですでに10年近く月日は流れていた。生活するために書店員になり、よくわからない医学書や理工書をせっせと棚に並べて、疲れるだけの日々だ。
 だけど、仕事は行かなくちゃ。
 ベッドから起き上がった。身体はずっしりと重たく感じた。今日も大量に入荷してくる本をせっせと、陳列しなくちゃいけないんだよ。私は。だから頑張って――。



 アパートを出て、歩き始めた。
 朝から日差しが強く感じた。今日もきっと暑くなりそうだ。私はiPhoneをいじりながら、ゆっくりと歩いていた。iPhoneがバイブレーションし、LINEの通知が来た。
『今日も一緒にお昼食べよう。そっち行く予定だから』
 優からだ。
『いいよ。お昼のとき、声かけるね』
 私は返信しながら、いつもの路地を歩いていた。昨日、死んでもいいやって思ったけど、なぜか優は私のことを必要としてくれている。

 ――なんでだろう。
 右側から鈍い衝撃を受け、私は左側へ飛んだ。





10


 志度が微笑んでいる。
「バカだな。日奈子」
「なんで、そんなにバカって言うの」
「だって、可愛いのにドジだからだよ」

 制服の志度はそう言って、私の手を繋いだ。学校からの帰り道だ。坂道はオレンジ色に照らされていて、オレンジ色の丸いミラーには私と志度が丸くなって写っていた。

「気をつけろよ」








 目覚めた。久々にしっかりと眠ったような気がする。
 ガヤガヤとしている。そして、消毒の匂いがツンとする。左腕をみると点滴がされていた。

「ひなちゃん」
 優の声だ。

「――優」
 どうして、優がここにいるんだろう。
「よかった。ひなちゃん。どうなったかわかる?」

 優が優しい声でそう言った。私は首をゆっくりと横に振った。振ると、左側の側頭がズキッと痛んだ。
「ひなちゃん、家の前で事故にあったんだ。車に轢かれたんだって。それで、頭打って、今、ここにいる。一通り検査したけど、脳には異常ないって。気絶してるけど、頭を少しだけ切っただけだって」
 優は淡々と状況を説明してくれた。へえ。私、事故に遭ったんだ。

「ものすごく心配したよ。ひなちゃん」
「優。ごめんね」
「ううん。そういうことじゃないよ。俺が言いたいのは、大事に至らなくてよかったってことだよ」
 優はそう言ったあと、微笑んだ。優は青いワイシャツの上に青と白のストライプのネクタイをしていた。
「仕事、抜け出してきたんでしょ。ごめん」
「そんな、仕事なんてどうでもいいよ。それより、お医者さん、呼んでくるね」
「待って」
 私がそう言うと、優は立ち上がろうとしていたのを一旦、止めて、また、椅子に座り直した。

「どうして、来てくれたの?」
「そんなの当たり前じゃん。心配だったからだよ。――生きててよかった。ほら、じっとしてて、ひなちゃん」
 優はまた、立ち上がり、私の頭を撫でたあと、どこかへ行った。



 結局、私は病院に一泊二日することになった。
 念のためにもう一回、検査することになった。優は仕事に戻った。救急隊の人が私のiPhoneを操作して、優に連絡をしてくれたらしい。
 一通り、検査が終わり、私は看護師に許可を貰って、電話室に入った。私のiPhoneの画面にはヒビが入っていた。
 職場に連絡すると優から聞いてると店長に言われた。そして、付き合ってたんだとか、余計なことを散々言われたあと、明後日から大丈夫だったら、来て欲しいって言われた。大丈夫? とかそういう言葉もなかった。

 あんまりだと思いながら、私は適当に返事をして、電話を切った。



 
11


 退院して、家に帰ってきた。当たり前だけど、家はなにも変わっていなかった。
『退院したよ』
 LINEで優にそうメッセージを送るとすぐに優から返信が来た。
『よかった。おめでとう!』 
 私は落ち込んだままだから、そんな気分になれないまま『ありがとう』とだけ返信した。





12



 iPhoneを見ると3時間、時が進んでいた。いつもよりも少しだけ多く眠れたけど、身体は重くずっしりしていた。 
 ベッドから身体を起こす気力がわかなかった。だから、私は職場に電話をし、まだ、身体が痛むから仕事は厳しいということにして仕事を行くのをやめた。本当はもう、二度と職場になんか行きたくない。なんでこんなしんどいことずっとやり続けているのか全くわからなかった。

『気をつけろよ』
 気絶しているときに志度が言ってたことを、ふと思い出した。気をつけてたよ。私だって。
『ドジだからだよ』
 大きなお世話だよ。自分は私のことかばって死んだのに。
 大きなため息を吐いたあと、ふと占いの看板を思い出した。

 占いとしか書かれていないシンプルな看板になぜか引き込まれる雰囲気があった。早番のときは残業してヘトヘトで寄ることができず、遅番のときも残業し、占いのお店の前を通る時には、すでにお店は営業を終えていた。 
 もしかしたら、占いなら、この辛い気持ち、現実を変えることができるかもしれない――。
 と言うよりも、少しは私の気持ちが一時的に晴れてくれたら、それだけで十分だ。どうせ、この現状は変わらないし、つらい日々は続く。だけど、なぜか、今日、行くしかないような気がした。





13


 占いのお店に行ったのは夕方だった。
 お店の前はしんとしていた。扉を押すとベルが弱く鳴った。内装はいたってシンプルな作りだ。きっと前のテナントは事務所だったのだろうと簡単に想像がつくような白い壁と白い天井だ。
 おしゃれなお店らしい雰囲気を出すために間接照明がいくつも設けられていて、電球色が店内の色になっていた。奥にパーテーションで仕切られたブースがある。パーテーションと入口のスペースには棚が設けられていて、パワーストーンが陳列されていた。
 
 「いらっしゃいませ。今日は相談でしょうか」

 どこかの青い民族衣装を着たおばさんが出てきた。民族衣装は胸元が開いていて、半袖だった。半袖から出ている二の腕はたるんでいた。おばさんの髪は胸元までかかり、ウェーブがかかっていた。カラーはダークブラウンだ。両目がぱっちりとしていて、二重であることがすぐにわかった。
 丸顔で、二重。きっと、若いときはかわいい顔立ちだったのだろうと簡単に想像できた。

「占ってほしいんですけど」
「わかりました。どうぞこちらへ」
 おばさんがブースの方を振り向き、民族衣装の裾がひらひらと青い弧を描いた。ここで私はようやく民族衣装の名前を思い出した。サリーだ。
 ブースは思ったよりこじんまりしていた。お互いに席についた後、おばさんは慣れたように占いの説明と自分の経歴の説明をし始めた。
 インド占星術やタロット占いを合せたことをやっていて、誕生日と星の座標を元に運勢を占うらしい。それと合せて、タロットカードを引き、今後どうすればいいのかアドバイスをしてくれるらしい。
 おばさんの説明が終わり、私は生年月日をおばさんに教えた。生まれた時間、出生時間はわかる?と聞かれ、わからないと答えた。
 少し待っててくださいとおばさんが言った後、一旦、ブースから出ていった。キーボードで何かを打ち込む音しか室内に音はなかった。その後、何かをプリントアウトした音がして、おばさんが帰ってきた。
「頭の包帯。大丈夫?」とおばさんは心配そうな声でそう言った。

「こないだ事故に遭ったんです」
「えー。大変だねぇ。それは。お大事にしてね」
「ありがとうございます」
 頭に包帯を巻いているだけで、こんなに心配されるんだと、ふと思った。
「それで、今日はどんなことを相談されたいのですか」
「恋愛運、見てほしいです。あと、今の職場が合っているかどうか」
「わかりました。これはあなたの天体配置図です。あなたが生まれた日の星の配置ね。特にあなたの気質に影響している惑星はこの丸の中に点がついてるマーク。これ、太陽なんだけど、太陽の場所がここ、双子座にあるでしょ。これがよく、テレビの星座占いでやっている星座の位置なんだよね」
「はい」
 私は天体配置図をじっと眺めた。

 図は12等分されたケーキにみえた。星と星をつなぐように赤い線が三角形を作っていた。その赤い三角形に重なるように青い線が重なっていた。
「あとは難しいことだから、話、進めながら説明するね。この図を元に過去と未来の天体配置を計算した図を見たんだけれど、17歳の時、なにか大きな別れみたいなことあったでしょ。この歳だから失恋かな」
「はい、失恋しました」
「やっぱり、そうなんだ。それも結構、そのときに人生観が変わるような失恋だと思うんだけど」
「――死んじゃったんです。彼が」と私はそう言ったあと、胸を締め付ける感覚がした。 
「それはお気の毒に。辛かったね」
「――辛いです。――今でも思い出すと辛いです」

 視界が潤み始め、胸が重く痛くなってきた。涙が一粒、右の頬を伝った。すぐに別の涙が左の頬も伝った後、涙が止まらなくなった。

「すみません」

 締まった喉で私はそう言った。
「いいの。いきなり辛いこと思い出させてしまったね」
 おばさんは立ち上がり、ティッシュを取ってきて、箱ごと渡してくれた。
「――すみません」
 そう言って、私はティッシュ箱を受け取り、テーブルに箱を置いた。そのあと、2枚のティッシュをとり、鼻を噛んだ。






「落ち着いた? あなたのためにも続けるね」

 おばさんは私にそう言った。私は頷いた。そして、鼻をすすった。涙が止まる気配は一向になかった。

「まず、今までの人生観が17歳のときに変わってしまっているの。180度ね。これから先の運勢見ても、その影響は一生続くと思うよ。だから、これってもう、受け入れるしかなさそうなの」
「――受け入れること、まだ時間かかりますか」
「わからない。それはあなた次第よ。だけど、受け入れていくとこの先、運気が好転していくことは確かだと思う。今、タロット引くからちょっとまってね」
 そう言って、おばさんはテーブルに置いてあったタロットカードを取り出し、カードをテーブルに広げ、カードを混ぜた。そのあと広がったカードを集め、慣れた手付きでカードを切り始めた。そして、カードを5枚並べたあと、カードをじっくり見ていた。
「これね、あなたがどうすれば受け入れられるかを出してみたの。このカード見てほしいんだけど、このカード、世界って言ってね、何事もうまくいくって意味があるの」
 おばさんはそう言ったあと、裸の女が浮遊している絵柄のカードを私に見せた。私は一体、なにが上手くいくのかよくわからなかった。
 
「すごい、いいカードなの。このカード出た時は本当に上手くいくよ。ただね、ここに運命の輪ってカードがあるんだけど、これの絵柄が逆を向いているでしょ?気持ちの整理がつかないと、チャンスを逃したりするよって忠告されてるね。他の3枚も忠告の意味といい意味でうまくいくようになるって励ましてくれているね」
 おばさんがそう言ったあと、また沈黙が流れた。私はいまいち、うまくいく実感がわかなかった。

「天体配置図でもこれから先、あなたの未来は悪くはないみたい。恋愛も新しい出会いが30歳くらいでありそうなんだよね。仕事も今は忙しいけど、来年の6月頃には一旦落ち着くか、環境の変化がありそうなんだよね。今、お仕事はなにされてるの?」
「本屋で働いてます」
「そうなんだ。たぶん、あなたってセンスとか、感覚が敏感だと思うんだよね。そういう星の配置しているから。だから、今の仕事、辛いなって思うときって、単純作業とか、センスを活かせる状況じゃないときだと思うの」
「今の仕事は医学書とか専門書扱ってる担当なので、結構キツいです。本当は向いてないのかもしれない」
「いや、本屋は向いているとは思う。ただ、環境だと思うの。例えば今、すごく忙しすぎるのかもしれない」
「かなり忙しいです」
「そうでしょ。あなたの場合、忙しい場所にいると一時的に自分自身の向き合わなくちゃいけないことから逃げるんだと思うんだよね。忙しいとそれを口実にできるから。そういった意味で言うと、今の環境は合ってるんだと思う。だけど、ふとひとりの時間ができるとポッカリと心に穴が空いたような感覚が襲うんだと思う。そうしていると、健康面でマイナスになりそうなんだよね。だから、このままだったら、あと5年くらい先で大きな病気するかもしれない」
「やっぱり、暗いんですね。未来」

 やっぱりどうせ私の人生なんて上手くいかないんだと思った。占いをやったところで、私の人生は普通の日々に忙殺されてやがて終わっていくんだ。

 ――きっと。

「いや、そんなことないよ。今の環境がそれだけあなたにとってマイナスであるってだけだから。これが過去のこと受け入れていたら、仕事と恋愛、両方とも集中して、好転してたかもしれないし。要は今のあなたは心の準備がまだ出来ていないから、ゆっくりしたほうがいいってこと」
 おばさんは穏やかな表情をしてそう言った。私だってわかっている。過去を受け入れてさえすれば、志度が死んだことをしっかりと受け入れさえすれば、人生、上手くいくことなんて――。
 だけど、私は志度のことが忘れられない。
 
「ゆっくりできないです。受け入れられないんです。私。彼が死んだこと」
「厳しいこと言うかもしれないけど、今を生きるには過去に折り合いつけないといけないと思う」
「そんなのわかってます」
 私は思わずムキになってそう言った。
「そうよね。きっとそうだと思う」
 おばさんはそう言って、静かに頷いた。
「――私、全然、折り合いつきません。彼のこと、忘れられないんです」
「そうだよね。だからあなたは今、ものすごく困ってるんだろうね」
 おばさんはそう言ったあと、しばらくの間、沈黙が流れた。

「私、自分でも、どうしてこんなに折り合いがつかないのかわからないんです。もう10年前の話ですよ。だけど、彼のことばっかり思い出しちゃうんです。――しかも、今付き合ってる彼からプロポーズされて、幸せのはずなのに」
「そう。幸せなことじゃないの。プロポーズされるなんて。それなのに、なにか、しっくり来ないんだ。今の彼に」
「はい――。悪い人じゃないんですけど、死んだ彼のほうが私を見てくれていたような気がするし、本当は死んだ彼と結婚したかったのかもしれません」
「そう」
「だから――。私、今死んでも全然後悔しないと思います」
 私がそう言うと、しばらくの間、沈黙が流れた。おばさんは私の気持ちを包み込んでくれているように優しく、真剣な顔のままだった。
 
「ねえ。お嬢ちゃん。本当に後悔しないの?」
「はい、だって、私にはもうなにもないんです。10年前で時が止まったままなんです。だから、今の彼とも向き合えない。せっかくプロポーズしてくれたのに――。私もきっと10年前に寿命で今は余生を生きているような気がするんです。ずっと」
「そう。――余生ね。忘れられないんだ。死んだ彼のこと」
「はい。今は本当に辛いし、何のために生きて、何のために働いているのか全くわかりません。だから、今、死んでも別にいいんです」
「――もしかして、近いうちに死ぬ気だった?」
「――はい。……もう、嫌なんです」
 私はそう言ったあと、また涙が溢れた。息は自然に荒くなり、鼻の奥は痛かった。もう、すべてがどうでもよく感じた。どうでもいいから何がなんだかわからないし、おばさんの前でこんなに号泣してしまっている自分を慰める気にもならなかった。

「――ちょっと変わったことできるんだけどやってみない?」
 私はそうおばさんから聞かれ、よく意味を理解できなかった。
「過去に折り合いをつけることができるかもしれない体験なんだけど」
「――体験?」
「うん。死んだ彼と会うことができる体験」
「――どういうことですか」
 え、もしかして、今、バカにされた――? 

「なんて言えばいいんだろう。人間ってその気になれば、タイムスリップできるんだよね」
 私は奇妙なことを言われて、よくわからなくなった。どう言葉を返せばいいのか、数秒考えてみたけど、結局、よくわからず黙ることにした。

「それもそんなに難しくない。うちには補助装置があるの」
「――どういうことですか」
「2日間くらい過去に戻れるってことだよ。実際に何十人もタイムスリップすることができてるの。タイムスリップして、2日目に帰ってくるようになっているの。催眠術の一種みたいな感じかな。イメージとしては」
「そうなんですね」
 私はそう言ったけど、実際のところ、全くイメージできていなかった。2日間タイムスリップしてどうなるんだろう。志度とたった2日会っただけで何が変わるんだろう。だけど、本当だったら、志度に会いたいと私は思った。 
「死ぬ前に彼ともう一度会ってみない?」とおばさんはそう言った。
「どう? 一回5万円なんだけど」
 おばさんはさらに続けてそう言った。私はバッグから財布を取り出し、中身を確認した。3万円足りなかった。 

「あとでまた来てもいいですか」
 私がそう尋ねるといつでもいいよとおばさんは答えた。




14


 店を出たあと、しばらく私の頭の中はぼーっとしていた。空っぽになったように何も考えることができなかった。
 外は蒸し暑く、夏の黄色い夕日が強く射していた。おばさんが言っていることがよくわからなかった。タイムスリップっていきなり言われてもよくわからない。本当にできるのかもわからないし、新手の詐欺にしてはあまりにも雑な詐欺だし、なにかの勧誘にしてもあまりにも幼稚に思えた。
 帰りにサッポロファクトリーに寄った。平日昼間のファクトリーは人はまばらだった。エスカレーターを登り、三階からアトリウムを眺めることにした。適当なベンチに座り、アトリウムのイートインでアイスを食べている人や歩いている人たちを眺めた。

 志度とアトリウムを眺めたことを思い出した。そのとき、アトリウムにはクリスマスツリーがあり、しばらく手すりにもたれてツリーを眺めていた。そして、ベンチに座り、志度と手をつなぎクリスマス色に点滅する電球や、結晶の形や丸の形をしたオーナメントを眺めていた。私は酔ったように落ち着いていた。
 あの落ち着きは運命ぶってただけかもしれない。だって、志度はすぐに死ぬんだから。
 タイムスリップして、もし志度に会えたとしても、私はどうするのかわからなかった。タイムスリップして志度に会って、私は一体何を話すんだろう? 過去に戻って、志度とクリスマスツリーを眺めて、また酔ったように落ち着いた気持ちを味わうだけで終わりなのだろうか。その次の日に志度は死ぬのに。






15


 5年前。

 志度と一緒に手すりにもたれて、アトリウムが一望できる2階の踊り場から大きなクリスマスツリーを眺めていた。クリスマスツリーは地下から3階くらいまでを貫いている。クリスマス色の電飾が木をぐるぐると覆っていて、それらの光の反射で赤やゴールドの大きなオーナメントがファンタジックに反射していた。
 ドーム状になっている天井ガラスの中央から、青白い電飾の帯が左右に広がって吊るされている。アトリウムの中は青白く、ツリーのカラフルな電飾が混ざり合い、淡い空間になっていた。

「ねえ、写真撮ろうよ」
 私はそう言って、携帯をバッグから取り出した。
「いいね」
 志度は笑顔でそう言った。私は携帯のカメラを起動した。右手で志度の腰を掴み、左腕をいっぱい伸ばした。そして、志度の身体に首をもたれて、志度と私とクリスマスツリーが入るように自撮りした。
 自撮りし終わったあと、手すりの後ろにあるベンチに座った。志度はベンチに座っている間も私の左手をつないでいた。

「なあ、日奈子」
「なに?」
「日奈子って最高だな」
「最高ってどういう意味?」
「最高って。――好きだってことだよ」
「――私も。最高に好きだよ」
「――照れるな」
 フッと笑ったあと志度はそう言った。
「照れないでよ。好きだよ。本当に」
「なあ、日奈子」
「なに」と私が言ったとき、志度は私にキスをした。





16



 このベンチで志度にキスされたことを思い出して、身体が少しだけ火照った感覚がした。今はクリスマスではなく、真夏だ。しかも10年前でもない。私は、もう一度志度にキスされたいと思った。手だって繋ぎたいし、とにかく志度に会いたい。

 ――なんで、私だけ、ひとりぼっちで置いてけぼりにされたんだろう。
 私も、死んでしまって、あの世で志度ともう一度会いたい。志度の優しさに触れたいし、志度と何気ないことを離したり、ただ、のんびりと一緒に過ごしたい――。
 本当はあのとき、志度が死ななければ、志度ときっと永遠に過ごすことだって出来たんだ。

 ――きっと。
 志度と永遠に過ごすことができそうって予感を感じたのは夏だったことを思い出した。
 ちょうどこの時期だ。
 あの夏は今年の夏みたいに暑くなく、爽やかで過ごしやすい夏だった。夏休みに入ってから志度としょっちゅう遊んだ。
 その日は、JRに乗って、小樽に遊びに行った。JRの車窓からはキラキラと光る海や、ゴツゴツとした岩場に波が穏やかに打ち付けているのが見えた。小樽に着いて、すぐに二人ともお腹が減ったから喫茶店に入って、モーニングセットを食べたことがあった。




17


 木で出来た扉を志度が開けると、おばちゃん二人の笑い声がちょうどこだましていた。喫茶店の中へ志度と私が入ると、笑い声は自然に満足げなトーンに落ち着いた。入り口の目の前にカウンターがあり、カウンター越しに店員のおばちゃんとカウンター席に座っている客のおばさんが話しているのがわかった。

「いらっしゃいませ。好きな席、座っていいよ」
 店員のおばちゃんがそう言った。志度は一番窓際で角の席を指差して、その方へ行った。席に近づくと、志度は壁側の席を再び指差して、いいよ、座ってと言った。
 席に着いてすぐに店員のおばちゃんが木製のお盆に水が入ったコップを2つ乗せて持ってきた。そして、はいどうぞと言って、志度と私の前に水を置き、その場を去った。そして、また客のおばちゃんと話をし始めた。
 テーブルでメニューを広げると、テーブルはそれで一杯になった。私達は無言でメニューを見た。 

「お腹すいた?」と志度が私にそう聞いた。
「うん、お腹すいた。ねえ、私、これがいい」
 私はそう言ったあとモーニングセットを指差した。手書きをコピーしたメニュー表には、飲み物、トースト、サラダのセットと書いてあった。
「飲み物はどうする?」
「クリームソーダにする」と私は言った。
 志度は右側に振り向き、店員のおばちゃんを呼んだ。志度はモーニングセット2つと飲み物はクリームソーダ2つにすると言った。すると、おばちゃんはちょっと待っててね。と言って、奥にある厨房へ入っていった。

「クリームソーダいいね。夏らしくて」
「いいよね。アイス食べれるし。私、昔から好きなのクリームソーダ。小さい時、お母さんが家で作ってくれたんだよね。メロンソーダ買ってきて、その上にカップアイス乗っけてクリームソーダしてくれたの。だから、こういう喫茶店来たら結構頼んじゃうんだよね。ファミレスでもあるけど、あれは嫌なのさ。アイスがおまけ程度であんまり美味しくないし、ケチくさいのが気に入らないよね。なんでチェーン店ってケチなんだろう?コスパ、超悪いじゃん。あれ」
「確かに。チェーン店にとってはコスパいいんだろうけど、客にとってみりゃ、コスパ最悪だね。そもそも、飲み物の原価なんてたかが知れてるんだから、少しくらいサービスすればいいのにとは思うよね」
「そうなんだ。それって、儲けようとしてるだけってこと?」
「そういうこと」
「だからケチなんだ。私ね、世の中ってなんで、こんなに根本から外れたことばかり溢れているんだろうって時々思うの。こういうサービスの悪さは横行してるし、好きだったお菓子は値上げする割に、入ってる量はどんどん少なくなっていくし、一つのサイズもだんだん小さくなっていく。昔はこんなに大きかったのになんでってがっかりするもん」
「きっと、そういうことして喜ぶ人達がたくさん溢れかえってるんだよ。この国には」
「へえ、ケチだね。私がこういうお店やるんだったら、サービスたくさんしたい」
 私はそう言ったあと、足を宙に浮かせ、右足を弱く蹴り上げると志度の靴に軽くあたった。

「俺もそう思うよ」
 志度はそう言ったあと、私がさっきそうしたように足を私の左足の先にあてた。
「あ、今のお返し?」
「そうだよ。先にそっちがやったでしょ」
 志度がそう言ったあと、もう一度足を私の左足の先にあてた。志度はいたずらをしている悪くて無垢な笑顔を私に見せた。そうやってやり取りしているときにおばちゃんがそれぞれのモーニングセットを持ってきた。
 トーストには目玉焼きが乗っていて、胡椒が多めにかかっている目玉焼きからは湯気が出ている。サラダはレタスの上にトマトが乗っかっていて、レタスにはオニオンドレッシングがかかっていた。

「もうひとつ持ってくるから、もうちょっと待ってね」
 おばちゃんはそう言って、トーストとサラダを置いた。その後すぐ、おばちゃんは一度カウンターに戻り、クリームソーダを2つ持ってきた。クリームソーダは大きなグラスに入っている。そして、アイスクリームはしっかりとした大きさがあり、アイスクリームとメロンソーダの境界は溶けたアイスクリームが白く濁り始めていた。
 
「これこれ。私が求めてたクリームソーダ。最高なんだけど」
「写真撮っていい?」
 志度は携帯を取り出してそう言った。
「いいよ。可愛く撮ってね」
 ピースサインをして、志度が写真を撮るのを待った。そのあと、私も携帯をバッグから取り出して、志度の写真を撮った。私達がこうしている間に、店員のおばちゃんと、客のおばちゃんがまた話に戻っていた。10時半の店内はまるで魔法で水晶の中に閉じ込められたように狭い世界になっていて、居心地がよかった。
 携帯をバッグにしまったあと、いただきますと言った。そして、クリームソーダを飲み始めた。一口目から幸せな甘さがした。志度も携帯をテーブルに置き、モーニングセットを食べ始めた。
 私もトーストと目玉焼きを食べ始めた。トーストと目玉焼きは普通に美味しかった。普通に美味しいことがどれだけすごいことかを誰かに伝えたいけど、普通が違う言葉に言い換えられるだけだ。そうして、しばらく私と志度は会話をあまりかわさず、黙々とモーニングセットを食べた。

「したらね。今日もありがとう。みっちゃん」
 そう言って、客のおばちゃんがお店から出ていこうとしていた。
「たえちゃん、ありがとね。今日もあっついから気ぃつけてね」
 店員のおばちゃんがそう言うのと合わせて、扉についてるベルの音がゆるやかに鳴った。そのあと、扉が重そうにバタンと閉まる音がした。
 志度と私は黙々と食べていた。志度は躊躇なく口を大きく開けてトーストとその上に乗っかている目玉焼きを美味しそうに食べていた。
「お嬢ちゃん、かわいい顔してるってよく言われるでしょ」
 店員のおばちゃんにそう話しかけられた。
「そんなことないですよ」
 私は急にそんなこと言われて、少し顔が熱くなった。
「いいや。かわいい顔してるよ。あんた。さっきからさ、話しながら、ちょっとあんた方、見てたんだけどさ、仲良さそうだね。どこから来たの?」
「札幌です」
「そうなんだ。まだ若いよね。あなた達」
「高校生です」と私はそう答えた。
「そうなんだ。楽しいときだね。一番」
 おばちゃんはそう言ったあと、大きな声で笑った。

「ここのお店は長いんですか」
 志度はそう質問した。私はトーストの最後の一切れを口に放り込んだ。

「ここはね。もう30年くらいだね。うちのお父さんが脱サラして店作ったの」
「そうなんですか。旦那さんは今日はお休みですか?」
「ううん、旦那は5年前に亡くなったの。だから、ゆっくり私一人でやってるの。私も歳だし、やめようかと思ったけど、毎日来てくれるお客さんもいるしさ、まだ続けることにして、今の今までやってるってことさ」
 おばちゃんはそう言ったあと、カウンターに置いてあった水を一口飲んだ。

「美味しいです」と私はおばちゃんにそう言った。
「ありがとう。あんたかわいいわ。今どきさ、そうやって素直に美味しいっていう子いないしょ。みんななんも言わないで食べて、それでお金払って終わり。出ていく時もさ、ごちそうさまくらい言ってくれたらいいのにさ。なんも言わないもんね。そういう子ってだいたいめんこくないんだわ」
 おばちゃんがそう言ったあとまた大きな声で笑った。私と志度も一緒に笑った。

「あなたがた、すごく似合ってる感じする。いやぁ。傍から見てだけどさ、なんか仲良さそうなんだもん。いいなあ。おばちゃんもそういう時あったけどさ、今じゃこんなんよ」
 おばちゃんはそう言ってけたたましく笑った。一体どこがおかしいのかわからないけど、おばちゃんのパーマが笑うのと合わせて派手に揺れていた。きっとこの髪型は何十年も変わっていないのだろう。変わらなくてい良いものもあるのかもしれないとふと思った。

「まだ、付き合い、そんなに長くないんですけどね」と志度はおばちゃんにそう返した。
「坊っちゃん、お似合いかどうかは、付き合いの長さじゃないよ。こういうフィーリングが大事なんだよ。どんなに長く付き合っても合わないもんは合わないんだから。おばちゃんね、長続きする人達、当てるの得意なの。だから、信じてちょうだい。あなた達、結婚するわ。ちょっと、おばちゃん、奥行って洗い物してきてもいいかい?」
「はい、大丈夫です」
 私はそう言った。おばちゃんはそれを聞いたあとすぐに奥の調理場へ下がっていった。

「結婚するって」と志度はそう言った。
「照れるね」
「かわいいって言われたときから、顔赤かったよ」
「そりゃあ、そうなるでしょ」
 私がそう言っている間に志度はトーストとサラダを食べ終え、クリームソーダをストローで吸っていた。 
「なあ、永遠に一緒に居れたらいいなってたまに思うんだ」
「たまにしか思ってくれないの?」
「いや、たまにじゃない常に思ってる」
「本当に?」
「ホントだって。だからさ、今日みたいにさ、こうやって日奈子と二人でのんびり出来るのが最高だと思ってるよ」
「本当にずっと居れたらいいね」
「ずっと居よう」
 志度はそう言ったあと、右手の小指を私の方に差し出した。私は右手の小指で志度の指を握り、指切りした。



 そうやって、約束したのに、志度は死んだ。
 私はため息を吐いた。ひとりきりのベンチは寂しく感じる。サッポロファクトリーのアトリウムは今日も開放的で気持ちがよかった。天井のガラスからはオレンジ色の夏の夕日が射し込んでいる。

 死んだら、意味ないんだよ。
 ――死んでしまったら。



 
18


 今日も仕事を休んだ。今日も身体が痛いことにした。

 志度には夢ですら会ったことがない。今日もお風呂をいれることにした。バスタブを洗い、蛇口を捻った。

 最後があまりにも日常的だった。だから、志度と最後に交わした言葉は「バイバイ、また明日ね」だった。
 デートし終わって、次の日、一緒に学校に行くことになっていたんだから、当たり前だ。映画みたいにロマンティックに愛を伝え合ったり、感謝の気持ちを伝えたり、別れを惜しんだりすることなく淡々と終わってしまった。事故は日常がこのまま続くと思っているときに起きる。きっとそういうものなのだろう。
 志度の葬式では絶対に泣かないことにした。棺に入った志度は寝てるみたいだった。志度の寝顔を初めてみた。志度との恋が続いて結婚していたら、志度の寝顔は見慣れた姿になっていたのだろう。
 そんなこと、そのときは思わなかった。
 そもそも、17歳だったから、まだ結婚を上手くイメージすることができなかった。

 買った入浴剤を入れているプラスチックのかごから、青色のバスボムを手にとり、浴室に入った。湯船をみるとまだ半分もお湯が溜まっていなかった。私は裸になり、バスボムのビニールを開けた。
 そして、そっと湯船にバスボムを入れるとお湯が水色に染まり始めた。それと合せてシトラスの香りがした。

 もし、志度が今も生きていたらどうなっていたのかな。今頃、結婚していたかもしれない。志度のために晩ごはんを作って、どこかに働きに行く志度へ弁当を作っていたかもしれない。
 もしかすると、なにかあってすでに別れていたかもしれない。
 
 だけど、もし、志度が生きていたら、私は志度をどれだけ愛することができていたと思う。
 今、優のことを本当に心の底から愛しているのかどうかわからないように、志度を心の底から愛することができるのかな――。
 
 志度の記憶は日に日に遠のいていっている気がする。年々、志度の声を思い出すことも難しくなってきているし、私の脳内での志度の表情は徐々に動画から静止画になっている気がする。その静止画もやがて画素数が荒くなり、そのうち消えてしまうのだろう。それが0になったとき、思い出すことはほぼ困難になるのだろう。





19


 そんなことばかり、繰り返し考えて、私は水色のバスタブに浸かっていた。
 志度が死んでから、私は不眠症になった。だからもうすでに10年近く上手く眠れていない。不眠症だと気づいたのは志度が死んで数ヶ月くらい経ったときだった。その頃からすでに私は毎日寝る前に志度のことばかり考えるのが習慣になっていた。志度と見たクリスマスツリーのこととか、志度が言った言葉とか、志度が死んだ場面とか――。
 
 志度のことばかり考えていたら、夜更けまで寝れなくなった。寝れたとしても途中で、ハッとして目覚めて、そこから寝れなくなってしまうことが度々起きた。病院で睡眠薬をもらって対処していたけど、最初は効いていた睡眠薬もだんだん効きが悪くなり、結局、効果を得ることが少なくなった。
 志度のことを思い出すと、死にたくなった。これ以上、現実で生きるには、あまりにも気持ちが剥離している。思い出の中だけで生きれたら、思い出に溺れても気づかないだろう。それ以上のことはよくわからなかった。涙がこみ上げてきた。ただ、辛くて涙が止まらくなった。





20


「来ると思った」
 おばさんは私にそう言った。
 おばさんはオレンジ色のサリーをまとっていた。きっと毎日、サリーを着ているのだろう。もしかしたら、サリーを着たまま出勤しているのかもしれない。

「5万円出すとどんな魔法かけてくれるんですか」
 私はおばさんにそう言った。
「そう焦らないで」
「私にとって、なけなしの5万円なんです」
「そうなんだ。とりあえず、こっちでかけて」

 おばさんは占いブースの方を指差してそう言った。私は言われたとおり占いブースの椅子に座った。今日もテーブルにはインドチックなテーブルクロスがひいてあった。
 おばさんはおぼんに乗せてティーカップを2つ持ってきた。ティーカップをテーブルに置いたあと、おばさんはおぼんをパーテーションにかけた。ティーカップにはお茶が入っていた。湯気が出ていて、とても熱そうだ。お茶の匂いですぐにダージリンだとわかった。

 淡くフルーティーで蜜を足したような香りがした。そして、木製のダイニングチェアーを引き、両手でサリーをなぞって座った。サリーをなぞる姿はとても綺麗で、慣れていて、少しだけドキッとした。

「緊張しないで。お茶飲んでからにしましょう。リラックスすることが大事だから」とおばさんはそう言ったあと、お茶を一口飲んだ。
「どう? 昨日より気持ちは落ち着いた?」
「はい、だけど、悲しい気持ちは変わらないです」
「そうだよね」
 おばさんはそう言われると優しく感じた。そうだよねってその言葉がなぜか、夕方を告げるチャイムみたいに胸を痛めた。
「お嬢ちゃん、今が生きるのがつらいんでしょ」
 私がゆっくり頷くと、おばさんは微笑んだ。目尻に細いシワがたくさんできていた。
「私はね、人生って常に何かを失う行為だと思ってるの。あなたにならわかるでしょ?」
「はい。――すでに色んなものを失ってます」
「そうね。あなたが若いからとかじゃなくて、人は多かれ少なかれ何かを失って、経験を得て、そして生涯を全うするんだろうね」
「そうかもしれないですね」

 私はそう言ったあと、おばさんはティーカップを手に取り、またお茶を一口飲んだ。そして、おばさんは目を瞑った。数秒間、そうしたあと、すっと目を開けた。 
「すべての生物にすべて共通していることって何だと思う?」
「――わからないです」
「生まれた瞬間からすべて死に向かっているってことだよ。だって、そうでしょ? 植物は生きるために光合成するし、動物は生まれてから死ぬまで何かを飲んだり、食べたりする。だから、人間が生きる時間って、生涯でご飯を食べる回数は最初から決まっていて、その食べる回数を超えたときに死が訪れるんじゃないかなって思ってるんだよね。不食の人が長寿なのは、もしかすると食べる回数を少なくしているからかもね」

 おばさんはそう言ったあと、またお茶を一口飲んだ。私もおばさんに合わせてお茶を飲んだ。一体、なんの話をしていたのか私は忘れてしまった。人が生涯でご飯を食べる回数について、私はそれほど興味が持てなかった。だから、話を膨らませずに別な話題を切り出すことにした。

「なんで、人間だけ辛い別れを経験しなくちゃならないと思いますか?」
「うーん、難しい質問だね。あなたには悪いと思うけど、別れを経験することで気づくこともあるんじゃないかしら。私はそう思うんだよね」
「どうしてですか?」
「人間、体験しないとわからないことがあるでしょ。どんなことでも。それは別れも一緒だと思うの。誰にでも死は必ず訪れるし、大切な人を失ったら、生きている人間は立ち直って、自分が死ぬまで日常を過ごさなくちゃならない。立ち直らないと、死んだ人と過ごした過去に囚われて、今を生きることができなくなるからね」
 おばさんはそう言ったあと、もう一口お茶を飲んだ。天井のクーラーの音だけが、部屋を支配していた。私もティーカップを手に取り、お茶を一口飲んだ。口の中いっぱいにタージリンの甘い香りが広がった。

「私ね、この装置で多くの人達に感謝されたの。私は管理人だから、実際に自分でこの装置を使ったことはないけどね。だけど、体験した人の顔は多く見た。大体の人は過去を見に行ったあと、現実に折り合いがつくみたい。だけど、そうでもない人も一部いる」
「そうでもない人」と私はおばさんにそう聞いてみた。 
「そう。まるで別人みたいになった人もいたの。多分だけど、過去から帰って来れなくなって、そうなるんだと思う。ごく一部だけどね」
 おばさんはまるで他人事のようにそう言った。

「帰って来れなくなるとどうなるんですか」
「安心して、死ぬわけではないから。その人たちは戻ってきて、そのままお礼を言って、帰っていくよ。だけど、なにかが違うの。様子とかね」
 おばさんはもう一口お茶を飲んだ。私は何も言えずに黙っていた。
「怖がらないで。今はリスクの話してるだけだから。ほとんどの人はそのまま今に帰ってくるよ。ツアーから帰ってきたように満足してね」
「これって、本当に過去に戻れるんですか」
「私にはわからない。大体は思い出を見に行ってきて終わりって感じかな。旅行みたいにね」
 おばさんはニコッと笑ってそう言った。そして、おばさんはまた一口、お茶を飲んだ。

「例えば、タイムスリップして、死んだ相手が本当はお嬢ちゃんのこと、どう思っていたかとか、そういうことを確認して、納得して帰ってくる人がほとんどだね」
 私は頷きもせず、ただ、黙っておばさんの話を聞いた。別に確認したい気持ちなんてない。

 ――ただ、志度に会いたい。
 それだけだ。
 ――タイムスリップできるなら、もしかして。
 
「もうひとつ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「タイムスリップして、死んだ人を生き返らせることはできますか?」
「例えば、どういうこと?」
「えーと、例えば、事故を未然に防いで事故で死ぬはずだった人を助けるとか、そういうことです」
「なるほど、そうね。私は聞いたことない。だけど、断言できる。私は過去は変えられないと思ってる。だって、過去が変わると、今、タイムスリップした事実もなくなる可能性が出てくるでしょ。ここにいるAさんは事故で死んだBさんを生き返らせたくて今、この店からタイムスリップしようとしているでしょ。だけど、Bさんが生きたことになってここの世界に戻ってきたとき、Aさんはそもそもこの店に来る動機がなくなるから、このお店には来ていないことになるでしょ」
「え、どういうことですか?」
「つまり、Bさんを助けたら、そもそもAさんはこの店に存在しないことになるの。タイムパラドックスって言うんだよね。確か、こういうこと。例えば、自分が生まれる前にタイムスリップして、自分の親を殺したら、自分は生まれなくなるでしょ? だって、親が自分を産まないでこの世から存在しなくなるんだからね。これをタイムパラドックスって言うらしいんだよね。だから、これと似たようなことが起きるから、Bさんを助けることができないんじゃないかなって私は思ってるの」
「そうなんですね」
「だけど、うちのタイムスリップじゃ、自分が生きている時までしかタイムスリップできないから、親殺しはできないんだけどね」
 おばさんはそう言ったあと、軽やかに笑った。おばさんの笑い声だけが部屋に響いた。

「どう?それでも体験してみる?」
 おばさんがそう言ったあと、私はおばさんに銀行の名前がついた封筒を渡した。





21


 別の部屋へ移動した。そこには使い古されたダイニングチェアーが一脚置いてあった。それ以外の家具はなにもなく、この部屋だけが急にそれまでの世界観がすっぽり消えていた。窓には黒い遮光カーテンが取り付けられていた。蛍光灯が事務所の一室である雰囲気をより作り上げていた。 
「大体、2日くらい過去に戻れるの。2日目の夜、寝て起きたら、ここに戻ってる感じかな」
 おばさんはそう言いながら、私を椅子に座るようにと左手でジェスチャーした。私はおばさんの指示通り、椅子に座った。
「この椅子があなたを過去に連れて行ってくれるの。やり方は簡単。あなたが目を瞑ったあと、あなたの胸に私は手をあてるから。その間、あなたは戻りたい過去の断片だけを思い出してほしいの。戻りたい過去の場面がイメージできたら私に言って」
 おばさんがそう言ったあと、沈黙が流れた。私はすでに帰る場所を決めていた。
「決まったね」とおばさんは私を見透かしたかのようにそう言った。
 
「はい。もう大丈夫です」
「目を瞑って」
 私はおばさんに言われたとおりにした。視界は黒くなり、何もなくなった。そのあとすぐ、おばさんの手が私の胸に当たるのがわかった。手は温かく、何かが胸を流れていっているような感覚がする。私は言われたとおり、イメージをした。




22


 寒い。ものすごく寒く感じる。肌をさすような冷たさだ。

 雪が降っている。私はコートを着ていた。
 袖を見ると黄色だった。

 そのあと、胸元あたりのボタンを見ると黒色のものだった。気に入っていた黄色のダッフルコートを着ている。さっきまでのTシャツの軽さと比べるとすごく重かった。頭にはフードを被っていた。
 私は、白い道で立ち止まっていた。実家から地下鉄の駅まで行く道だった。降ったばかりの凛とした雪の匂いがした。すでに雪は15センチくらい積もっていて、
 本当に過去に来たのかもしれないと思った。私は抱えていた白いバッグの中身を確認した。財布と携帯、ポケットティッシュが入っていた。携帯はiPhoneではなかった。
 携帯を取り出し、時間を確認した。12時過ぎだった。メッセージの通知があった。メッセージは志度からだった。『改札の前、着いたよ』という文面が表示されている。
 私は慌てて地下鉄の駅まで走った。




23


 大通駅に着き、南北線の改札口を抜けた。地下街へつながる改札前の地下通路の暖房があまりきいていなかった。出口から吹き込む風がとても冷たかった。
 地下で反響する無数の足音と話し声の雑音はいつもどおりだった。

 広場にはいくつものアルミの柱が立っていて、柱にはドーナッツのような赤いベンチが取り付けられていた。待ち合わせをしている多くの人が、ベンチに座り、柱に寄りかかっていた。そして、それらのほとんどが携帯を見つめていた。
 志度は三越のショーウインドウの前に立っていた。志度は携帯をいじっていた。志度はベージュのダウンに黒のパンツを履いていた。ショーウインドウによりかかり、右足を左足首に組んでいた。私は立ち止まり、しばらく志度の姿を眺めていた。手が熱くなり、手のひらに少し汗が滲んだのを感じた。
 壊れかけた時計の秒針のように鼓動が大きくなった。胸から飛び出そうなくらい大きな音を立てている。志度が顔をふと上げた。そして私と目があった。志度の目は優しくぱっちりしていた。シャープな顔立ちとセンターパートの髪型がとても似合っていた。耳に付けているシルバーのピアスが照明に反射していた。

「日奈子、待ってたよ」
 志度は私に近づいてそう言った。私はその場で立ち止まったままでいた。
「――ん?どうしたんだ日奈子」

 志度はもう一度私にそう呼びかけた。私は志度の声を聞いて鳥肌が立った。こういう声だった。遠のいていた志度の声、仕草、立ち姿の雰囲気。私は今、目の前にいる志度から衝撃を受けている。
「――ごめん。遅くなって」と私はそう言った。少し、力んだ声になった。
「いいよ。そんなことより、ランチ行こうぜ」
 志度はそう言って、左手で私の右手をつないだ。




24


 地下通路を歩き始めた。誰かに手を引かれるのは10年ぶりだった。志度の手は暖かく、ゴツゴツしていた。私はこの感覚を忘れていた。思わず泣きそうになり、再び立ち止まった。志度もすぐに立ち止まり、そして、振り返った。不思議そうな顔で私を見た。

「どうした? ――ウソ。泣いてる」
「――ごめん」
 我慢できず、涙が何粒も溢れ出てしまった。私は左手で口を覆い、指を目頭に当てた。志度の顔を見ることができなかった。 
「どうした。日奈子」
 志度は微笑みながらそう言った。その微笑みが優しく感じ、もっと、胸からこみ上げてくる感覚がした。
 志度は私の手を引いて通路の壁側へ移動した。地下街を歩く何人かの人達は私達のことを見て見ぬ振りをしていた。涙は止まらなかった。私はバッグからポケットティッシュを取り出し、ティッシュを目頭に当てた。志度は私の背中をさすってくれている。志度の手はコート越しでも温かい。

 ――落ち着かなくちゃ。
 私は何度か深呼吸をした。深く息を吸って、すっと短く息を吐いた。2度寝たら終わってしまう夢見たいなものなんだ。
 ――だから、今を楽しまなくちゃ。

「ごめん。もう落ち着いた」
「――大丈夫?」

 志度は私の方を覗き込み、心配そうな声でそう言った。
「――大丈夫。行こう」
 私はそう言って志度の手を引いた。

 志度と手をつなぎ、歩きはじめた。地下街の人混みの中をかき分け、ゆっくり歩いている。お互いに無言のままで、無数の人たちの足音をしばらくじっくり聞きながら歩いていると、だんだん、気持ちが落ち着いてきた。
「日奈子。ごめん。俺、なんか悪いことしたかな」
 志度は心配そうな顔で私を見ていた。
「ごめんね」
 私はなんて言っていいのかわからなくなった。まさか、10年ぶりに再会して、感激したなんて、言いたいけど、とても言えない。
「俺、鈍感だから、悪いところあったら言って。直すから」
 志度の声は低くしっかりしている。ぶっきらぼうだけど、しっかりと私だけを見てくれている、そんな志度が私は好きだった。   
「――違うの。デートなのに遅刻したのが嫌だったの」
「気にするなって。俺はなんとも思ってないから」
「ううん。これは自分の問題なの。ねえ、どこのお店行くの?」
「めっちゃ食えて、最高なところ。こっちだな」
 志度はそう言って、出口の看板を右手の人差し指で指さした。




25


 イタリアン食べ放題の店で、パスタとピザを90分かけてかなりの数を食べた。そして、お腹いっぱいのまま、サッポロファクトリーまで歩いた。外は雪がかすかに溶けていた。車道の雪は溶け切り、アスファルトは黒く濡れていた。
 志度に手を引かれながら、志度のバイトの話とか、友達の話を聞いていた。ファクトリーに着き、映画を見ようと言われた。手をつないだまま映画を観た。私は時折、映画を見ている志度の表情を観た。志度は真剣に観ているフリして、後半寝ていた。このまま一緒に志度といれたらどれだけいいのだろうと思った。もし、過去を変えたら、明日の夜寝て、おばさんのところに戻ったら、志度は向こうの世界でも生きているのだろうか。
 映画は主人公が雨の中、ヒロインを救い出していた。そして、ビルとビルの間で追手を巻き、びしょ濡れでキスをしていた。もし、明日を変えることができるのなら、私はこのままがいいと思った。




26


「寝てたでしょ。後半」
 私はカプチーノを一口飲んだ。
「いや、寝てないって。覚えてるって」
 志度はコーヒーが入ったマグカップを持ち上げながらそう言った。
「したら、教えてよ。後半」
「あれでしょ。追われてた。敵に」
「それで?」
「うーん、なんとかなった。うん、いい映画だった」
 志度は気まずそうな表情をしながら、コーヒーを一口飲んだ。
「絶対、寝てたでしょ」
 私が笑うと、志度も笑い始めた。
「昨日、バイト長くてきつかったんだって」
「そうなんだ。有罪だね」
「うわぁ。きびしい」
 志度は両手を上げて、大げさにジェスチャーした。
 
 カフェの窓から見える外はすっかり暗くなっていた。日曜の5時を過ぎたカフェは客はまばらだった。淡い電球に照らされたと木でできたテーブルや椅子の色がとてもファンタジックでシックな空間を作っていた。サッポロビールの工場を再利用したレンガ館やサッポロビールの煙突を登るサンタクロースのオブジェがオレンジ色の照明と青と白の電飾で彩られていた。
 昨日、一人でサンドイッチを買ったときと同じカフェなのに華やかさが違うように感じた。クリスマスの所為かもしれないけど、志度といると世界が明らかに違うような気がした。

「ねえ、志度」
 私は志度のことをまっすぐ見つめた。
「なに?」
「――疲れてるのにデートしてくれてありがとう」
「どうしたんだよ。急に。――照れるな」
「私のために無理をしてくれてるってところがギュッと来るよ。すごくね」
「君のためなら俺は死ねる。――このセリフ、一回言ってみたかったんだよな。へへ、使っちゃった」
 志度は微笑んだあと、またコーヒーを一口飲んだ。
 
「――死んだら、意味ないよ」
「――え?」
「死んだら意味ないって言ってるの!」
 私は思わず大きな声を出してしまった。周りにいた客が私を見ているのがわかった。一瞬、静まり返ったあと、カフェの中は何事もなかったかのように、またざわざわし始めた。
「――悪かったよ」
「――わかってないよ。志度は。死んじゃったら、意味ないんだよ」
「ごめん。気をつけるよ」
 志度はそっとした声でそう言うと、右手で頬杖をつき、外を眺め始めた。雪がそっと降り始めていて、オレンジ色の街灯で雪がキラキラしていた。
 ――私は一体、何をやっているんだろう。
 
「――志度、ごめん。せっかくのデートなのに」
「いや、俺が悪いよ。冗談でも言っちゃいけないことってあるよな。まだ、日奈子のそういうところ、全然わかってないんだな。俺」
「――違うの。私が悪いの。ごめんね」
 私はコーヒーカップを手に取り、カプチーノを一口飲んだ。カプチーノを飲み込むと、身震いした。窓から冷気が伝わり、足元が寒い。
 私はすっと、息をひとつ吐いた。そして、志度に微笑んだ。
 
「相変わらず、ダサいセリフ好きだね」
「まあな」
「面白いよ。ダサいセリフ」
 私はそう言って笑ったけど、志度は頬杖をついたまま、返事をしてこなかった。 
「――水風船の時も言ってたよね」
 私がそう言うと、志度は頬杖をやめて、私の方を見た。
「あのとき、俺、なんて言ったっけ?」
「『もし、俺が明日死んでもいいようにこれやろう』って言ってた」
 私がそう言うと、志度はマジかぁと言って、頭を抱えた。そして、ため息をついた。
「あのときの分も含めて、許してあげる」
 私はそう言ったあと、カプチーノを一口飲んだ。志度はまた顔を上げて、私の方を見た。

「あ、ひげ出来てる」
 志度は私の唇あたりを指さしてそう言った。私は慌てて、トレーに乗っかっていた紙ナプキンで口を拭った。
「バカだなぁ。日奈子は」
「ズルい。飲んだあとすぐにそういうこと、指摘するんだから」
 左手の人差し指で志度を指さして、私は大げさにそう言った。
「だって、カプチーノの泡、口に付いてるんだもん」
「なんか、こういうのもさ、ダサいセリフで言ってみてよ」
「えー、なんだろう。君の白いひげに触れたい」
「うーん、微妙だね」
「だよね」
 私と志度はお互いに笑った。
 ――久々に自然に笑えたかも。

 ここ最近、笑うことも少なくなっていた。桜子と話していてもお腹の底から楽しいと思って、笑うことは最近ものすごく減っていた。志度がいるだけで、こんなに違うんだと思った。

「なあ、日奈子」
「なに?」
「俺って、淡白かな」
「え、そんなことないよ。どうして?」
「だってさ、映画館で寝ちゃったんだよ。俺」
「――いいんだよ。それを含めて志度なんだから、それでいいんだよ」
「優しいな。日奈子は。普通だったら怒るよな。そんなことしたら」
「普通ならね。だけど、今は普通じゃないから、私にとっては何でも貴重に思えるの」
「普通じゃない?」
「うん。私、今が一番楽しいよ。久しぶりにこんな気持ちになった。――こんなの久しぶりだよ。ホントに」
「――そっか。俺も今が楽しいよ。こう見えても」
「わかってるよ。――今、ここに志度が居てくれるだけでいいの。志度がいない世界なんて、退屈で真っ暗だから」
 私がそう言うと、志度はまじまじと私を見つめてきた。急に見つめられて、顔が少しだけ熱くなってきた。
「なあ、日奈子。こうやってさ、ずっとクリスマス気分を味わうにはどうすればいいんだろうな」
 志度はそう言って、また優しく微笑んだ。

「――タイムスリップ」
「タイムスリップ?」
「うん、何回もタイムスリップすれば、何回も今日と同じような気分に浸ることができるでしょ。だから、タイムスリップが一番いいかも」
 私は別に悪いことを言っていないのに、なぜか悪いことを言っているような気がした。タイムスリップは存在する。
 ――タイムスリップして、会いに来たんだよ。君に。
 
「非現実だね」
 志度は笑いながらそう言った。 
「クリスマス近いから、頭ぶっ飛んでるのかも」 
 私は右手を頭の横で回して、クルクルパーのジェスチャーをした。志度は笑いながら、私の真似をして、クルクルパーと同じようにジェスチャーをした。そして、お互いにふっと息を吐き、弱く笑った。
「――クリスマス、バイト入っちゃってごめんな」
「ううん。今日でも十分だよ」
「来年はクリスマス・イブにクリスマス気分を味わえたら最高だな。二人で」
「――うん、そうだね」
 私は志度から、来年という言葉を聞いて、また不意に涙が溢れそうになった。 



27


 志度と一緒に手すりにもたれながら、アトリウムが一望できる2階の踊り場から大きなクリスマスツリーを眺めている。
 カフェを出たあと、お互いに何も言わずにそのまま、アトリウムまで歩き始めた。手を繋ぐことも慣れて、志度が手を差し出したから、私は何言わずに志度の手を繋いだ。
 クリスマスツリーは地下から3階くらいまでを貫いていて、クリスマス色の電飾が木をぐるぐると覆っている。それらの光の反射で赤やゴールドの大きなオーナメントがファンタジックに反射していた。
 ドーム状になっている天井ガラスの中央から、青白い電飾の帯が左右に広がって吊るされている。青い光の中を時折、白い光が流れていた。だから、アトリウムの中は青白く、ツリーのカラフルな電飾が混ざり合い、淡い空間になっていた。

「ねえ、写真取ろうよ」
 私はそう言って、携帯をバッグから取り出した。
「いいね」
 志度は笑顔でそう言った。私は携帯のカメラを起動して、右手で志度の腰を掴み、左腕をいっぱい伸ばした。そして、志度の身体に首をもたれて、志度と私とクリスマスツリーが入るように自撮りした。
 自撮りし終わったあと、手すりの後ろにあるベンチに座った。志度はベンチに座っている間も私の左手をつないでいた。
 
「なあ、日奈子」
「なに?」
「日奈子って最高だな」
「最高ってどういう意味?」
「最高って。――好きだってことだよ」
「――私も。最高に好きだよ」
「――照れるな」
 フッと笑ったあと志度はそう言った。
「照れないでよ。好きだよ。本当に」
「なあ、日奈子」
「なに」と私が言ったとき、左肩から身体をキュッと寄せられる感覚がした。気がついたら、私はすでに志度にキスされていた。
 唇が重なったまま数秒間の時が流れた。志度の唇は柔らかくて、温かった。志度はそっと唇を離した。そして、何秒間かお互いに目を見たまま、また時が流れた。志度の瞳は茶色くて、吸い込まれそうなくらい透明だった。
 そのあと志度はそっと微笑んだ。

「ねえ」
「なに」
「私達、このままで居れたらいいね」
「そうだね」
「本当にそう思ってる?」
「思ってるよ」
「じゃあ、どれくらいなの?」
「それは――」と志度は一瞬、困ったような声でそう言った。
「ねえ。真面目に答えてね。くさいセリフはいらないから」
「――じゃあ、永遠」
「今、言ったね? 永遠って」
「なんだよ。――悪いか」
 志度の顔が真っ赤になっていた。照れくさそうにしている志度はすごく可愛く見えた。

「永遠ってことは――」
「そう。そういうこと。私はいいよ。永遠にいても」
「――俺もだよ。日奈子」
 クリスマスツリーは相変わらずファンタジックに輝いている。私は次の言葉をずっと期待しているけど、よく考えたら、まだ志度は17歳で、そんな気の利いたこと言ってくれるわけがないとふと思った。
 
「ねえ。きっと、私たち、上手くいくと思うんだ。私。だから、永遠にこのままで居れたらいいのに」
「永遠に居たいな。日奈子」
「うん」
 私は左手で志度の右手を握った。すると志度は右手でしっかりと私の左手を握り直してきた。

「ねえ」
「なに?」
「――もし、私が死んだらどうする?」
「日奈子が死ぬの?」
「うん。私が明日死ぬとするじゃん」
「しかも、明日? ――急だな」
「うん。そうだよ。それも、志度は私が明日死ぬことがなぜか事前にわかってて、悩んでるの。どうしよう、明日、日奈子が死んじゃうって。そしたら、今、この瞬間、どうする?」
 私がそう言い終わると、志度はニヤッとした。私も途中からニヤニヤしながら、隣にいる志度を見つめている。

 ――メンヘラって呼ばれてもいいよ。
 どうせ、明日には魔法が解けるんだから。
 
「簡単だよ。俺だったら、日奈子が死ぬのを阻止する」
「どうやって阻止するの?」
「教えるんだよ。日奈子に。明日、日奈子が死んじゃうことを知っちゃったんだ。だから、絶対、明日は一緒に居ようって。一緒に居たら、たとえ病気で倒れても、事故に巻き込まれても救えるじゃん」
 志度は得意げな声でそう言ったあと、しばらくの間沈黙が流れた。館内に流れているクリスマスのBGMが静かにゆっくりと時間を支配しているように感じた。

「――私が死ぬことを知ったら教えてくれるんだ」
「うん。死んでほしくないからな」
 志度の手は温かく、血が通っていて、生きていることを実感できた。私は志度と繋いだままの手を見ながら、弱く息を吐いた。
「私もだよ。――志度にはまだ、死んでほしくない」
「俺も死ぬ気はないよ」
「――本当に?」
「うん。マジなやつ。ほら」
 志度はそう言ったあと、右手の小指を私に差し出した。私はゆっくりと右手の小指を志度の小指に結んだ。 
「俺さ、たまになんでもっと早く日奈子に告白しなかったんだろうって思う時があるんだ」
「私も」
 私がそう言うと、志度は弱く笑った。





28


 志度に告白されたのは高校一年生のときの夏だった。学校帰り、成り行きでそのまま二人で地下鉄の駅まで歩くことになった。志度とは中学校も一緒だった。だから、面識が無いわけではなかった。

 だけど、別に特別、仲がいいというわけでもなかった。同じクラスだったということ、そのとき、席が隣になったことがあり、給食のときや授業中にペアになったり、一緒に日直をやったりしたことはあった。
 志度の話は楽しかったし、ノリも意外に合った。だけど、それ以降、接点もあまりなかったし、友達のグループも違えば、共通の友達もいなかった。だから、このとき声をかけられたのは意外だった。

 そして、地下鉄の駅までは行かずに近くの公園のベンチに座って、話すことになった。自販機で缶コーラを二つ買って、ベンチに座った。
 志度と乾杯をして、コーラを一口飲んだ。炭酸が強くて、耳の奥が少し痛かった。
 目の前に見えるだだっ広い芝生には人気があまりなく、私と志度だけぽつんと二人っきりで残されたような世界観に思えて、妙に緊張した。時折、涼しい風が吹き、風が吹くたびに芝は風上になびいていた。

「なあ」
 志度はそう言って沈黙を破った。
「なに?」
「俺らさ、同じ高校に入学したのって、なんか妙な縁な気がするんだ」
「そう? 桜子だって同じだよ?」
「そうだけどさ、日奈子と桜子みたいに約束して、一緒の高校に入ったわけではないじゃん」
「そうだね」
「俺、日奈子のことずっと気になってたんだ。だけど、全然、今まで接点なくてさ、どうしようって思ってたんだ」
「――え。なんで私なの?」
「なんかわからないけど、ずっと気になってたんだよ。――どうしてだろうな」
 さっと強い風が吹いた。木々が揺れて、葉っぱが擦れる音がする。私は返す言葉が見つからず、しばらくの間、二人とも黙ったままでいた。
「――ねえ、どうして?」
 私は、ドキドキしながらようやく口を開いた。

「――俺さ、気づいたんだ。日奈子のことが好きだってことに」
「えっ」
「だから、俺と付き合ってください」
 志度は右手を私に差し出して、握手を求める姿勢をしていた。
 
 私は突然のことに戸惑った。これまで全く志度のことを恋愛対象として意識していなかった。というよりもまだ、私は高校一年生にもなって、恋愛をしようというスイッチが全く入っていなかった。
 だから、誰かと付き合いたいとか、デートしてみたいとか、そういう考え方の回路がいまいち欠けてた。だから、自分が恋愛しているのを想像できなかったし、誰かから思いを寄せられているとも思っていなかった。しかも、接点もあまりなかった志度にそう言われたから、余計に戸惑った。 
 私は右手で志度の右手を握った。こういうとき、どう言えばいいのかわからないけど、とりあえずいいよって言えばいいのかと頭の中で考えた。そして、一度大きく息を吸った。

「いいよ」
 私は小さな声でそう言った。声はなぜか少しかすれた。
「よっしゃ。ありがとう」
 これまで硬かった志度の表情が一気に笑顔になり、見るからに喜びを爆発させていた。こんなに私と付き合うって事実でテンションあげてくれるんだと、私は実感が持てないままそう思った。




29


「本当はさ、中学のときに日奈子に告ればよかったんだよ。そしたらさ、日奈子との思い出がもっとたくさんできたんだろうなって思うんだ」
「そうだね」
 私はそう言ったあと、志度についた些細な嘘のことについて考えた。本当は告白されたから、付き合い始めて、すごく志度のことが好きになったのに。

 ――だから『私も』と言ったのは嘘だけど、志度が死ぬならもっと早く付き合っていればよかったって思った。
 そう心のなかで弁明しても志度には聞こえていない。
 
「そうそう。だから、死ぬわけにはいかないんだよ。俺は。日奈子とこうやって何気なく過ごせる時間をたくさん作りたいんだよ」
 私は、また泣きそうになった。だけど、ここでまた泣いても仕方がないのもわかっていた。私は一瞬、息を止めて、ぐっと胸に力を入れて、泣くのを我慢した。
 
「――私が意識し始めるのが遅かったんだよ。志度が私のこと気になっているのだって気づけなかったんだから。中学のときから私のこと、気にかけてくれたんでしょ」
「うん。日奈子のことしか見れなくなったよ。だけど、あのときの俺は消極的だった。また日奈子と隣の席にならないかなって思ってたんだもん。――俺はチキンだったな。あのとき」
 志度がそう言ったあと、二人で笑った。
「その歳の男の子なら誰でもそうだと思うよ。みんななにかに気づいて大人になっていく」
「そっか」
「うん。そういうものだよ。私だって、そうだし、志度だってそうだよ。年相応にみんな進化していくんだよ。自然に」
「――だったら、俺、もっと早熟がよかったな」
「そうなの? 年相応のほうが絶対いいよ。順当に」
「順当か。――俺は単純だからさ、もっと日奈子とこうして付き合いたかったってだけだよ。だって、かわいいもん。日奈子。見てたらさ、可愛くて、ほっとけないよ」
 志度が右手を力を入れたのがわかった。私の左手が少しだけギュッと破裂しそうになった。
「痛いよ、もう。力入れすぎ」
 私は左手から志度の手を弱く振り払い、志度の右手の甲をとんと叩いた。
「ごめん、つい力入っちゃった。話してるうちに」
 志度は、右手で私の左手をもう一度、握り直した。





30



「家まで送るよ」
「吹雪いてるからいいよ。それより、明日、一緒に学校に行こう」と私はそう言った。
 地下鉄は空いていた。私と志度は横並びでシートに座っている。向かい側の席には人は座っていなかった。だから、窓の外で流れる蛍光灯をぼんやりと眺めていた。 
「明日さ、駅で合流しようよ」
「え、いつもどおりスーパーの前でいいよ」
 志度は怪訝そうな表情でそう言った。――だけど、朝の待ち合わせの場所を変える必要がある。 
「ううん。駅で合流しよう」
「だからいつもどおりでいいって」
 志度はなぜか譲ってくれなかった。
 
「――したらさ、時間。少し早くしない? いつもより10分早くしようよ」
「――いいけど、どうして?」
「なんとなく嫌な予感がする」
「なにそれ」
 志度は少しだけ不機嫌そうな声でそう返した。――不機嫌になろうがどうでもいい。

「ねえ」
「なんだよ」
「真面目な話。――志度に死んでもらっちゃ困るの」
「は? 何言ってるの?」
「――志度に死なれちゃ困る。私」
 私は左手で志度の右手を握った。そして、ぎゅっと力を入れた。志度は何も言わずにされるがままだった。

「――明日、志度が死ぬ夢を見たの」
「なにそれ」
「私、よく正夢を見ることがあるの。――こういうの信じてくれる?」
 私は志度に嘘をついた。だけど、そんなのどうでもいい。なんでもいいから信じてくれさえすればそれでいい。

「――とりあえず、話は聞くよ」
「ありがとう。――志度は明日、交通事故にあって死ぬの。いつも待ち合わせしているスーパーの前で」
「――それで」
 志度はそう言ったあと、ため息を吐いた。電車は次の駅に停まろうとしている最中でブレーキがかかり、少しだけ左側に身体の重心が傾いたのを感じた。
「ショーウインドウと、車の間に挟まれて、出血多量で病院に運ばれたときにはもうすでに手の施しようがない状態になってた。――私は処置室の前で志度のこと待ってたけど、医者から志度が死んだことを告げられて、呆然としたままになって」
 話しているうちに10年前のあの日を思い出した。私は救急車に乗って、志度と一緒に病院に行った。血まみれの志度。医師が告げた言葉。
 全部、思い出すことができる。
 私はだんだん喉の奥が詰まるような感覚がした。
「そうなんだ。俺、夢の中で死んだんだ」
「――そうだよ」
 電車が駅に到着し、ドアが開いた。ドアが開くと、一緒に冷たい空気が車内に入ってきた。 
「――今朝、そんな夢みたの。志度が死ぬ夢」
「そうなんだ」
 志度がそう言ったあと、少しだけ沈黙が流れた。私と志度が黙っているうちにブザーが鳴り、ドアが閉まった。そして、電車はまた加速を始めた。

「だから、今日変だったんだ。――なんかさ、会った時から泣かれたりして。――日奈子、俺は死なないよ」
「――そうだね。死なないで」
「大丈夫だって。俺、そんなに簡単に死なないって」
 志度のその言葉は宙に浮いたみたいになった。別に志度を信頼していないわけじゃないけど、結果がわかっているから、信ぴょう性がほとんどないように感じた。
 
「ねえ、約束して」
 私は真剣に志度を見つめた。
「――わかった」
 志度は私を見つめてそう言った。私は志度の瞳に吸い込まれそうになった。私は握ったままだった志度の右手を話した。そして、私の左手の小指に志度は右手の小指を絡めた。小指と小指を結んだまま、地下鉄の窓から流れる白い蛍光灯と窓に写っている志度と私の姿を眺めていた。
 
「ねえ」
「なに?」
「明日のお昼、一緒に食べたいものがあるの。だから、コンビニでパン買わないでね」
「わかった」
「約束して」
 私はそう言ったあと、もう一度小指を数回揺らした。そして、そっと指を離した。
 駅の改札を抜けて志度と別れた。志度は反対方向の出入り口へ向かった。私は志度の後ろ姿をしばらく見てから、歩き始めた。上手く待ち合わせの時間を変えることが出来た。明日は志度の命日だ。30秒でも違えば、結果は違うはずだ。もしかしたら、私はもうすでに志度を救えたのかもしれないと思った。




31


 私は志度と別れたあと、近所の24時間営業のスーパーに向かった。地下鉄の駅から出ると、外は吹雪いていた。時折吹く突風が冷たく顔に突き刺さった。そして顔が濡れた。駅前の4車線の道路は車はまばらで、タクシーばかりが通っていた。凍り始めた道路の上に雪がつもり、つもった雪の白さで街灯のオレンジ色がまばゆく反射していた。
 スーパーで200グラムくらいの鶏もも肉と、コチュジャン、6個入の卵、2分の1のレタス、そして、蓋付きの使い捨て容器をささっと買った。レジで財布の中を見たとき、2000円しか入ってなくて、一瞬ヒヤッとした。それらを買うと財布は小銭だけになった。
 スーパーを出る時、吹雪はよりひどくなっていた。自動ドアの先に見える歩道は無数の人が踏み均した細い道があったはずなのに雪が吹き溜まって道が無くなっていた。フードを被り、思いきって外へ出ると、雪が叩きつけるように全身に降り掛かった。




32


 親はもう、すでに寝ていたようで、家の中は静まっていた。私は一通り着替え終わったあと、玄関に置きっぱなしにしていた、食材が入ったビニール袋をキッチンまで持っていった。キッチンの電気を付けた。キッチンから漏れる光でダイニングキッチンの先にあるリビングが薄暗く浮かび上がっていた。
 私は炊飯器から釜を取り出し、一合の米を入れ、米を研ぎ、早炊きで炊飯器をセットした。その後、鍋にサラダ油を入れ、IHコンロの上に鍋を置いた。IHのスイッチを入れ、160℃に設定する。ボールに酒と塩、こしょうを入れた。そして、冷蔵庫にあったチューブのおろしにんにくを入れ、スプーンでかき混ぜた。そして、鶏もも肉をキッチンはさみで一口サイズに切り、ボールの中に入れ、漬け込むことにした。

 換気扇をつけるのを忘れていたことに気づき、換気扇を付けた。
 もも肉に下味を付けている間、レタスを洗い、適切なサイズに手でちぎった。そのあと、ボールとフライパンを取り出した。ボールのなかに片栗粉を入れておいた。そして、フライパンには、コチュジャンとケチャップ、しょうゆとみりん、オイスターソースを入れ、それらをスプーンでかき混ぜた。香りを嗅ぎ、いつも作っている味になりそうなことを確かめた。
 もも肉を揚げ終わったあと、卵焼きも作った。卵焼きが出来たころ、米も炊けた。フライパンを温めタレにとろみが付き始めたところで揚げたもも肉をすべてフライパンの中に入れた。タレと肉汁が絡まり甘く香ばしい匂いがキッチンに広がった。




33


 洗い物をして、プラスチックの使い捨て容器2つにご飯とおかずを入れ終えた。キッチンを一通り片付け終え、寝る支度をした。自分の部屋に行き、携帯の写真に入っていた、月曜日の時間割を確認してかばんに教科書を入れた。携帯で目覚ましをセットし、充電器を携帯に付けた。
 
 電気を消し、ベッドに寝転んだ。
 大きく息を吐くと一緒に涙がたくさん溢れた。志度のこじんまりとした葬式がフラッシュバックした。志度の家族は、みんな泣いていた。だから私は泣かないことにした。そして、そのまま泣かずに日常を過ごすことを決意したのを思い出した。 
 もし、志度が明日死ななければ、私は生まれ変わるかもしれない。僅かな可能性に期待してもいいような気がした。だって、本当に過去に戻れたんだから、過去を変えることだって出来ると思う。
 志度が生きている世界に帰れば、私達はきっと幸せな25歳を過ごしているはずだ。本当に過去を変えることが出来るんだったら、変えたい。
 久々に強い眠気を感じ、そのまま私は眠った。




34


 寝坊した。
 
 私は焦った。時間を見て絶望した。このままじゃ、志度が死んでしまうと思った。慌てて身支度をした。弁当を持ったことを何度も確認して、女子高生の格好をして家を出た。
 外はスッキリと晴れていた。水色の空が気持ちよかった。そんなのはどうでもよかった。私は走り始めた。雪の下は氷になっていて、その上につもった雪で何度も滑りそうになった。このままじゃ、また同じ結末になってしまうと思うと、誰かに鷲掴みされているかのように胸が痛くなった。
 
 今日に限って、道はツルツルだった。
 ――というより、このツルツルになった路面の所為で志度は交通事故にあったんだから、当たり前といえば当たり前に思えた。 
 だから走ることはとても難しくて、私は競歩みたいな速さで待ち合わせの場所の向かい側まで来た。
 
 横断歩道がちょうど赤になった。道の向かいにいつも待ち合わせているスーパーが見えた。志度はまだスーパーの前にはいなかった。志度の家の方面を見ると、奥から志度が歩いてきているのが見えた。志度は携帯をいじりながら歩いていた。志度はまだ私のことに気づいていないようだった。
 信号が青になり、待っていた車も動き始めた。信号が変わってすぐに私も横断歩道を渡り始めた。横断歩道は思った以上にツルツルになっていた。凍ったアスファルトが朝日で照らされ光っていた。横断歩道を待っていた何人かの人たちもゆっくり慎重に渡り始めた。
 みんなペンギンの散歩のように慎重に、静かに横断歩道を渡っていた。やっとの思いで横断歩道を渡り切り、私は走って、志度の方へ向かった。志度は私に気づいて手を振っていた。私は手を振り返さなかった。

 「志度!」
 私は大声で志度を呼んだ。右足を踏み込んだ時、右足の摩擦がなくなった。そして、右足と左足は宙に浮き、私は尻もちをついた。志度をあの場所から動かさないと、と私は思った。
 だけど、身体は鈍く痛んだ。早く立たないとと思いが空回る。心臓が破裂しそうなくらい音を立て、冷静に危機を感じた。
 遠くから日奈子って声が聞こえた。志度が走ってきているのが見えた。私は両手を雪道についたまま、尻に鈍い痛みを感じ、上手く立ち上がれなかった。
 志度は息を少し切らしながら、私に右手を差し出していた。私が志度の右手をつかもうとしたとき、大きな音がした。




35


 あたりは一瞬で静まり返った。この道を歩いていた何人かは立ち止まり、車道の車は停まっていた。何人かの人が大丈夫ですかと言って、車の方へ走っていくのが見えた。私は尻もちをついたままだった。目の前に立っている志度を見ると志度は振り向き、車の方を見ていた。 
 私はまだ、自体を飲み込めていなかった。スーパーのショーウィンドウにシルバーの車が突っ込んでいた。ショーウインドウのガラスは粉々になっていた。何秒かして、ざわざわと多くの人が話し始めたのがわかった。歩みを止めていた何人かは再び歩き始めた。
「ヤバいね」とか「大丈夫かよ」などの複数の話し声がざわめきになっていた。そして、私は派手に転んでいたのに、志度以外、誰一人として、私が滑って転んだことを認知していないようだった。

「日奈子、大丈夫か」
 志度はそう言って、右手を私に差し出した。志度は私をまっすぐに見つめていた。私は志度を見つめたまま、何度か深呼吸をした。
 
「ヤバいな」
 志度は私の右手を掴み、私を起こした。地面に打ち付けたお尻はじんわりと痛み始めている。  
「――志度」
「生きてるよ」
 志度は私の手をつないだまま、そう言って微笑んだ。




36


「やばかったな」
 志度はコーヒーを一口飲んだあとそう言った。
「やばかった」
 私はココアが入っているマグカップを手に取り、ふーっと息を吹きかけた。息を吹きかけると湯気がふんわりとあがった。向かい側の赤いベンチシートに座っている志度は左手で頬杖をつき、窓越しに外を眺めていた。
 志度と私は学校に行く気にならず、そのまま駅前の喫茶店に入った。この喫茶店は年季が入っていた。壁やカウンターはブラウンで統一されていて、床のタイルも四角くて茶色のものが引き詰められていた。照明は裸電球を何個も天井から吊るしたものになっていて、店内はとても薄暗かった。 
「たぶん、あの車、俺に当たってたよな」
「そうだね。粉々になってた。夢みたいに」
 私がそう言うと、志度はため息を吐いた。
「正夢だったってことか」
 志度の声は静かで低かった。志度はコーヒーをもう一口飲んだあと、コーヒーカップをソーサーの上に戻した。

「――正夢じゃないよ」
「え、正夢だろ。だって――」
「志度が死んでないから」
「あ、そっか」
 志度がそう言ったあと、ふっと弱く笑った。私もつられて弱く笑った。
 
「ねぇ」
「なに?」
「――生きててよかった」
「日奈子もな」
 志度は優しく微笑みながら、センターパートの前髪を右手でジリジリといじった。 
「なあ、日奈子」
「なに?」
「俺、マジで死んでたかもな」
「うん」
「――だけど、生きてる」
「――うん」
 私はそれ以上、言葉が出てこなかった。もう一度マグカップを手に持ち、ココアを一口飲んだ。そして、窓越しに外を眺めた。道路には切れ目なく車が走っていて、どの車もゆっくりと通り過ぎていった。
 ――過去が変わった。志度は死ななかった。ようやく私はそれを噛みしめることができた。しかも、簡単にあっさりと出来てしまった。
「あのとき、日奈子がコケてくれたから、助かったんだな。きっと」
「――よかった」
「ありがとう」
 志度はそう言ったあと、また左手で頬杖をつき、窓の外に広がる雪景色を眺めていた。窓の外では無数の人達が駅に吸い込まれていた。

「ねえ」
「なに?」
「ねえ、学校サボっちゃおう。今日」
「いいね。日奈子、悪い子だな」
 志度はそう言って、微笑んだ。

「ねえ、私の家に来ない?」
「え、日奈子の家、行くの?」
「なにビビってるのさ」
 私はそう言って、笑った。志度は急に頬杖をやめて、右手で口元を抑え始めた。
 
「いや、そうじゃなくてさ」
 志度は明らかに目が泳いでいた。
「大丈夫だよ。親は6時までは帰ってこないし、お昼ご飯もうちで食べれるしさ」
「オッケー。わかった。あー、緊張する」
「もう、緊張しないでよ」
 私はそう言いながら志度に微笑みかけた。




37


 志度を実家に招き入れた。私は家に着いてほっとした気持ちになった。志度をリビングに通し、ダイニングテーブルの椅子に座るよう私は志度に伝えた。
「お腹へったでしょ」
 私はかばんから弁当を2つ取り出し、テーブルの上に置いた。
「お、なにこれ。美味そう」
「今、温めて来るね」
 私は弁当を2つ持ち、キッチンへ向かった。弁当をレンジで温めた。弁当からはコチュジャンのいい香りがした。2つの弁当を温め終え、1つの弁当を志度の方へ持っていった。
 
「はい、どうぞ。本当は学校で食べてもらおうと思ったけど、まさかのうちで食べることになっちゃったね」と私はそう言いながら、テーブルに弁当を置いた。 
「やばい、めっちゃいい匂いする」
「やばいでしょ。これ」
 私はそう言いながら、もう一度キッチンへ行き、自分の弁当を持ってきた。テーブルに弁当を置き、私は志度の向かい側に座った。私はいただきますと言い、両手を合せた。志度もいただきますと言った。
志度は割り箸をわり、弁当の蓋を開けた。

「なにチキン?」
「ヤンニョムチキン。美味しいよ」
「自分で美味しいって言うなら、絶対美味しいな、これ」と志度はそう言いながら、箸でヤンニョムチキンを取り、一口食べた。 
「うっま。なにこれ」
「でしょ。私の絶対うまい料理」
 私もヤンニョムチキンを箸で取り、一口頬張った。志度はそのあと、無言で弁当を食べ進めていた。私もあまり話さずに弁当を食べた。

「いや、うますぎだって。日奈子。やばいな」
「嬉しい。――志度に食べてもらいたかったの。ずっと」
「なんでもっと早く食べさせないんだよ。めっちゃうまいわ」
「ありがとう」と私はそう言った。志度は頷きながら、弁当を食べていた。 
「なあ、日奈子。これ、昨日帰ったあと作ってくれたんだろ?」
「そうだよ」
「最高だな」
 志度はまた弁当に箸をつけて食べた。




38


 ご飯を食べ終わったあと、私の部屋で志度と二人っきりになった。私は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、2つのコップに注いだ。部屋に戻って、志度に出した。 
「ありがとう」
 志度はそう言って、オレンジジュースを私から受け取った。志度は私の部屋の床に足を崩して座っていた。
「これが女の子の部屋だよ」
「茶化すなよ」
 志度の顔は少し赤くなっていた。私はオレンジジュースを机におき、ベッドに行き、枕を持った。

「ほら、これが女の子の枕だよ」
 私は枕を両手に持って左右に振った。
「バカかよ。恥ずかしいなぁ。もう」と志度はそう言って、そっぽを向いた。私は枕をベッドに置いたあと、志度の背中に抱きついた。 
「ねえ、外だとこんなこともできないでしょ」と私は志度の耳元でそう囁いた。 
「――そうだな」
「どう?」
「悪くない」と志度はそう言った。
「ねえ」
「なに?」
「こうしてると落ち着くね。――なんでだろう」
「そういう運命なんだよ。俺たち」
 志度はそう言ったあと、右側に寝転び始めた。

「おー、ちょっとちょっと、持っていかれる」
 私も志度の身体に抱きついたまま、志度と一緒に寝転んだ。右腕に志度の全体重がかかった。
「あー、ちょっと、腕痛いって」と私はそう言ったあと、右腕を無理やり志度の脇腹から抜いた。 
「あ、ごめん、ごめん」
 志度はそう言って笑った。全く悪気がなさそうな、とても軽い謝り方だった。私は起き上がって、一度志度をまたぎ、志度の横に添い寝した。志度は私の髪をゆっくりと撫でた。何度もゆっくりと丁寧に私の頭を撫でた。
「よしよし」
 志度は私に抱きついた。志度の左手が私の胸元の前を通り、私の右肩に左手を添えた。そして、志度は私を左手で自分の身体に寄せるようにした。私の背中が志度にくっついた。

「ねえ」
「なに?」
「もし、今、この瞬間、世界が滅亡したらどうする?」
「なにこれ? ダサいセリフシリーズ?」
「うん。ちゃんと、ちょうどいいダサいセリフちょうだいね」
「後悔する。あともう少しだったのに」
 志度がそう言ったあと、私と志度は笑った。

「めっちゃ未練タラタラじゃん」
「そりゃあ、そうでしょ。こんな状況でさ、世界に滅亡されちゃ、困るよ」
「ウケる」
 私はそう言って、肩を震わせながら静かに笑った。私の部屋は今、とても静かだ。時計の秒針がしっかりと響くくらい静かだ。私は志度と二人でシャボンの膜の中に閉じ込められているような心地よさを感じている。
 このまま時が止まってしまえば、完璧だと思った。時が止まってしまえば、私と志度はシャボンに閉じ込められたまま、安全に二人きりで過ごすことが出来るようになるんだ。だけど、残念だけど、秒針はしっかりと1秒1秒進んでいた。

「ねえ」
「なに?」
「私達、今、シャボンの中に閉じ込められているみたいだね」
「シャボンの中に閉じ込められてるの?」
「うん。シャボンの中に閉じ込められて、ふわふわと浮いてるの。時間の流れもすべて止まって」
「いいかもな。それ。こうやったらどうなるの?」
 志度は左手の人差し指で、シャボンの膜を刺す真似をした。
「はい、破裂。現実に戻りました。残念」と私がそう言うと、志度は笑った。
「なにそれ。じゃあ、シャボンを纏うにはどうすればいいの?」
「泡立ててればいいんだよ。シャンプーでも石鹸でもなんでも使って」
「こうやってやればいいの?」
 志度は左手で私の頭をワシャワシャとした。
「ちょっと、止めてよ。髪型崩れる」
「ごめんって。でも、ほら、見てよ。シャボンの膜できたよ」
 志度は何もない空間を左手で指してそう言った。

「ホントだ。ねえ、最高だね」
「あぁ。ホント、シャボンの中に入れば、ずっと何も考えずに一緒に楽しく過ごせそうなのにな」
 志度はそう言ったあと、何もない空間に左手の人差し指で、シャボンの膜を刺す真似をまたした。

「なあ、日奈子」
「なに?」
「――このまま、時が止まればいいのにな」
 志度はそっとした声でそう言った。そんな残酷なこと言わないでよ。ずっと、止まってる方がいいんだよ。――志度。

「――ずっと一緒にいたいよ」
「俺もそう思ってるよ」
 志度がそう言ったあと、しばらくの間、時計の音が部屋中に響いている。

「ねえ」
「なに?」
「私たち、もう二度と、会えなくなるのかな」
「――何言ってるんだよ。日奈子」
 私は黙ったまま、志度に背中を向けたまま、横になったままだった。だから、志度がどんな表情をしているのかわからない。
 私は下唇を噛んだ。志度を救うことはできたけど、このあとどうなるのかわからなかった。25歳の私に戻っても志度が生きていたらいいなって思った。
 未来は変ったのかどうかわからない。

「ずっと、愛してるよ」
 後ろで志度がそっとした声でそう言った。




39


「だから、そろそろ帰るよ」
「――わかった」と私がそう言ったあと、志度は立ち上がった。そして、自分のコートを手に取り、コートを着て、志度は玄関まで歩いていった。
 私は志度の後ろを付いて行った。志度の背中を見ていると胸が苦しくなった。私は咄嗟に志度の腕をつかんだ。
 
「――行かないで」
「ダメだよ。行かないとオーナーにぶっ飛ばされるよ」
「あのコンビニ、代わりのスタッフくらい、いくらでもいるでしょ」
「そうもいかないよ。バイトは学校と違うんだから、休んじゃダメだよ。迷惑かけちゃう」
「――ごめん。そうだよね」
 私は右手を志度の腕から離した。
「――じゃあね。美味しかった。マジで。ありがとう」
「ううん。――また作るね。ばいばい」
「うん。ばいばい」
「――バイト、頑張ってね」
「ありがとう」
 志度は笑顔でそう言った。私も自然に笑みがこぼれてしまったけど、すごく寂しい。本当は行かないでほしかった。だけど、志度はそっとドアを開けて出ていった。
 志度が出たあと、私は急に力が抜けた。 玄関から自分の部屋にトボトボ歩いて戻った。
 自分の部屋の床に仰向けになると涙が溢れた。バイトなんてどうでもいいから、ずっとここに居てほしかった。私はまるで明日も志度に会うかのように振る舞ったけど、もう明日、二度と志度と会えないかもしれない。
 どうせ、タイムスリップは夢みたいに簡単に終わってしまう。目覚めたら、25歳の私に戻るはずだ。そして、占い師のおばさんが私を起こしてくれるのだろう。

『どう? 楽しかった?』と占い師のおばさんが慣れたような口調できっと言ってくるんだ。そして、青色のサリーの裾をひらひらとさせているんだ。きっと。
 起きたら、もう終わりだ。

 大きなため息を吐くと一緒に涙が何粒も溢れてきた。そして、そのまま、涙は止まる気配はなかった。
 しばらく泣いたあと、私はおばさんの言葉を思い出した。
 志度が生きているこの世界に留まり続けたかった。私は現実世界に帰ることがものすごく嫌になった。本当に志度のことを割り切って、優との関係を続けることができるのだろうか。私は――。
 そもそも、これはタイムスリップだと聞かされていたけど、もしかしたら、タイムスリップではなく、私の中の幻想にすぎないのかもしれないと思ったら、急に寒気がした。
 私は親が帰ってくる前に、私服に着替え外に出た。




40


 占いの店の前に着いた。占いの店は一昨日と何も変わっていなかった。同じ看板が雪に埋もれながら、堂々と軒先に立っていた。私は店に入った。
 
「いらっしゃいませ。今日は相談ですか」
「すみません。タイムスリップした者です。ひとつ聞きたいことがあります」
「わかったわ。どうぞ、なかに入って」
 おばさんはそう言って、赤いサリーの裾を泳がせて、私を占い席へ案内した。
「お嬢ちゃんがタイムスリップしたってことで合ってる?」
「はい。そうです。一つ聞きたいことがあって来ました」
「そうなんだ。その前にリラックスしましょう。今、お茶出すからちょっとまってて」とおばさんはそう言って、お茶を取りにいった。
 私は大きく息を吐き出した。私が向こうの世界に戻っても、結局、何も変わらずモヤモヤしたまま、優と結婚することになる。一生、志度のことを想いながら、優との結婚生活をして、優との子供を生んで、育てることになるのかもしれない。それも悪くないのかもしれないけど、一生、心のどこかでモヤモヤしたまま、日々、過ごしていくことになるのかもしれない。
 志度はもちろん向こうの世界では故人になっていて、志度のことを想うたび、私は絶望するんだ。それなら、このままこの世界に留まって志度と二人で楽しく過ごしたい――。

 おばさんがお茶を持って戻ってきた。おばさんはテーブルにお茶を置いたあと、私の前に座った。
「私、帰りたくないんです。元の世界に」
「そう、帰りたくないんだ」とおばさんは優しく笑いながらそう言った。 
「はい。私、前の世界になんて戻りたくありません」
「そうだよね。お嬢ちゃんのように帰りたくないって相談に来る人は珍しいね」
「そうなんですね」
「だから私も少し驚いてるの。珍しいから」
 おばさんはそう言ったあとお茶を一口飲んだ。おばさんは私にお茶を勧めてくれた。だから、私もお茶を一口飲んだ。お茶はダージリンだった。前回とフレーバーが違うように感じた。

「それであなたはどうして今、ここにいるの?」
「彼に会いたくてここに来ました」
「彼には会えた?」
「はい、会えました。本当は、今日の朝、彼は死ぬはずでした。だけど、彼は生きています」
 私がそう言うとおばさんは一瞬、驚いた顔をした。私はそれを逃さなかった。 
「――だから帰りたくないんだ」とおばさんは声色を変えずにそう言った。 
「はい」
「残念だけど、それはできないと思うわ。私にはタイムスリップするお手伝いが出来ても、過去に留まることを手伝うことはできないの」
「留まることが出来た人はいないんですか?」
「そうだね。それはわからない。帰ってきた人しか私は知らないから」
「――私、帰りたくないです。帰ってもきっと、彼のことをずっと想い続けて、自分自身がものすごく辛くなるから、戻りたくないんです」
「帰りたくない気持ちはわかるよ。――だけどね、お嬢ちゃん。厳しいこと言うようだけど、人って抗えるものと抗えないものがあるの。占い師だからわかるけど、これは抗えないものだと思う。他の人にはできないボーナスだから。残念だけどね」
 そうおばさんが言ったあと、しばらく静かになった。時計の秒針だけが場を支配した。

「ただ、私が言えることは、寝ることが現実に戻るトリガーになっているということだけかな」とおばさんは思いついたようにゆっくりそう言った。 
「寝ないと帰らないってことですか」
「そうじゃなくて、単純に2回眠ったときがトリガーなんだと思うの。大体の人はタイムスリップして一夜は過ごせる。だけど、次の夜は過ごせない。それだけのことよ」
「――わかりました。ありがとうございます」
「私が言えることは、ただひとつ。自分で道を切り開いて」
 おばさんはそう言ったあと、目尻に皺を作り、微笑んだ。




41


 私は占いの店に行ったあと、一人でサッポロファクトリーに寄った。アトリウムの吹き抜けには今日もクリスマスツリーが輝いていた。昨日、志度と一緒に眺めた光景、そのままだった。

 当たり前だ。クリスマスが終わるまで、この巨大なクリスマスツリーは撤去されない。そんなことはわかっている。
 私はそのまま、エスカレーターを登り、三階からアトリウムを眺めることにした。適当なベンチに座り、アトリウムのクリスマスツリーをぼんやりと眺めることにした。昨日のことを思い出した。そして、25歳の私に戻りたくないと思った。もし、戻ったとしても25歳の志度が存在している保証はどこにもない。

 ――だったら、今できることをするしかない。
 私は立ち上がり、地下鉄の駅に戻ることにした。駅を出て、私は走り始めた。雪はしっかりと降りつもっていて、雪道は朝のようにツルツルと滑らなくなっていた。志度のバイトが終わる前に志度のコンビニに行くことにした。


 
 志度が働いているコンビニの前に着いた。携帯で時計を見たら21時57分だった。窓越しにコンビニを覗くと、志度はまだレジにいて、もうひとりの店員と話していた。私は店内に入った。志度は話に夢中で、私が店内に入ったことに気づかなかった。私はホットドリンクコーナーに行き、ココアを手にとった。ちょうど、もうひとりの店員がレジを出た。私は迷わずにレジに行った。
 
「あれ、日奈子じゃん」
「また会いたくて来ちゃった」
 私はココアを志度に渡した。志度がココアのバーコードを読み取り、レジの操作をした。私は財布を取り出し、120円を志度に渡した。
「俺も会いたかったよ。やるな、日奈子」
「志度、どうしても話したいことがあるの」
「なんだよそれ。死ぬわけじゃないんだから」と志度がそう言ったあと、私は少しムスッとした表情を作った。
 
「マジなやつ」
「――オッケー、わかった。日奈子、雑誌コーナーで待ってて。すぐ準備するから」と志度はそう言って、お釣りをくれた。
 私は志度に言われたとおり、雑誌コーナーでファッション誌を読んでいた。コートのポケットにココアを入れた。ポケットからココアの温かさを感じた。少ししてから、志度がやってきた。志度の気配に気づき、私は志度の方を振り返った。志度は呆気にとられている表情をしていた。私も思わず、呆気にとられた。
 
「――おまたせ」
 志度はようやっとそう言った。
「ううん、大丈夫。――どうしたの?」
「いや、大丈夫。外出るか」と志度は出口の方を指差してそう言った。





42



 車もまばらな静かな夜だった。時折雪がちらつき、寒かった。きっと気温は氷点下だ。顔に触れている外気は凛として冷たかった。志度はバイト前に家に帰っていたのか、服は制服から、ジーンズにベージュのダウンになっていた。手をつないでゆっくり歩いている。もう、ずっとこうしているだけでいいやと私は思った。
 
「なあ、日奈子」
「なに?」
「俺も会いたいって思ってたんだよ」
「私も」
「じゃあ、両思いだな。今日はそんな気分だったよ。一日」と志度が言ったあと、私は立ち止まった。

「志度、これだけは言わせて。あなたは私にとって、とても必要なの。ずっと好きだから。ずっと」
 私がそう言っている途中で志度が私を抱きしめた。一瞬、時が止まったかと思った。鼓動が徐々に大きくなっていく。私も両手を志度の背中に回した。

「――日奈子。ずっと、一緒にいよう」
 背中で感じる志度の両手は暖かく、顎を当てた肩は硬かった。




43


 どこにも行くあてがなくて、結局、国道沿いのファミレスに入った。もう、明日の学校なんてどうでもよかった。どうせ、寝たら元の25歳に戻ってしまうんだから、17歳の私の生活なんてどうでもいい。
 とりあえずドリンクバーを頼み、志度はコーヒー、私はカフェオレを飲んだ。窓側の席に座り、トラックとタクシーしかほぼ通っていない国道を眺めていた。雪は本格的に降り始めていた。

「私、眠れないんだよね」
「マジで。もしかして不眠症?」
「そう。結構前から」
「病院行ったほうがいいよ」
「もう、とっくに行ってるよ。眠剤出されてる」
「そうなんだ」
「だから、今日はさ、私が眠らないように監視して」
「いや、逆だろ。それ」と志度は笑いながらそう言った。
 
「いいの。今夜だけでいいから」
「ってことは、オールか」
「そうだね」私はニコッとしてそう言った。
「こういうとき、酒欲しくなるよな」
「飲めるの?じゃあ、飲もうよ。一杯おごって」
「なに飲む?」
「ハイボール」
「やるな」
 志度はそう言って、呼び出しボタンを押した。

 ハイボールが入ったグラスが出された。私はグラスが来るまで、未成年だということをすっかり忘れていた。店員は疑いもせず、そのまま酒を出してくれた。目の前にグラスがもうあるんだから、すでに私達の責任ではないと思った。
 志度とグラスを合せた。グラス同士がゆるく触れた音がした。志度は慣れたようにハイボールを飲んでいた。私もハイボールを口に含んだ。安いウイスキーの苦味と炭酸を口の中で感じた。ハイボールを飲み込むと食道がアルコールで熱くなるのを感じた。
「お酒、一緒に飲むの初めてだね」と私はそう言ったあと、もう一口ハイボールを飲んだ。
「そうだな。日奈子と飲むと思わなかった」
「他の人とは飲んでたの?」
「まあね。俺もそういうお年頃だから」
 志度のグラスはもう残りわずかになっていた。

「ピッチ早くない?」
「こんなもんでしょ」
 志度はグラスを飲み干して、呼び出しボタンを押した。 
「それより、俺は日奈子のことが心配だよ」
「私の心配なんてしてくれるの?」
「当たり前だろ。寝れないのはヤバいよな」
 そう志度が言ったとき、店員が来た。志度はまたハイボールを頼んだ。
「もう、慣れちゃった。調子いいときは普通に寝れるし、寝れなくても、眠剤飲めば、寝れるときもあるから、まだマシなほうだよ。私の不眠は」
「そうなんだ。今まで知らなくて悪かった」
「いや、志度が謝ることじゃないよ。私、初めて志度に言ったんだから」
「俺さ、もう少し、日奈子のこと知る努力したほうがいいと思うんだ」
「十分してるでしょ」と私は笑ってそう言い返した。
「いや、してなかった。もっと一緒にいる努力とか、そういうことすればよかったって思う時があるんだ」と志度がそう言ったあと、おかわりのハイボールを店員が運んできた。

「なあ、日奈子。俺がもし、あの時、死んでたらどうなってたんだろうな」
 志度はそう言って、ハイボールを口づけた。過去のことがフラッシュバックした。何か満たされないあの寂しさが胸に溢れるのを感じた。 
「――寂しいに決まってるでしょ。それに苦しいよ」
「悪い。変なこと言ったな」
「志度に死なれたら困るよ、私。何も面白くない20代を過ごすことになるんだよ。目標もなくね」

 私は泣きそうになるのをごまかすためにハイボールをまた一口飲んだ。 
「なあ、日奈子」
「――なに」
 私がそう言うと志度は両手で私の左手を握った。

「いいか、よく聞けよ。ずっと一緒にいよう。どんなアクシデントも今日みたいに乗り越えよう。そして、二人で幸せを掴もう。思いのままに」
 志度の目が少し潤んでいるのがわかった。私は残された右手で志度の手をさらに握った。我慢できなくなった涙が一粒流れ出した。そして次々と涙が溢れ、頬を伝った。






44


「ごめん。昨日から泣いてばかりだね」

 私は感情の波がおだやかになってからそう言った。
「いいよ。泣けよ。泣きたいときに泣かないヤツは損するよ」
「あ、ズルい。自分は我慢して泣かないくせに」と私は笑ってそう言った。口角を上げたら、まぶたが腫れぼったくなっているのがわかった。
「日奈子のハイボール、もう氷溶けて薄まってるよ」と志度はそう言ったあと、ハイボールを一口飲んだ。
「私ね。ずっとこうしたかったの。志度と。ずっと、こうして話したり、一緒にいたかったの。ずっとね」
「俺もだよ」
「私ね、相談したんだ。苦しくて。そしたら、その相談した人が自分で道を切り開くしかないって言うんだよね。厳しいよ。――私だって、抗いたいよ。私だって。今までのことなんてどうでもいいから、今を生きたいよ。私」
 私がそう言ったあと、しばらく沈黙が流れた。志度は黙って、私の次の言葉を待っているのがわかった。
「もう、戻りたくないよ。志度。ねえ、離さないって言って」
「離さないよ。日奈子」
 志度はそっとした声でそう言った。私はそれを聞いたあとテーブルに突っ伏した。セーターの袖はすぐに涙で滲みた。吸い込まれそうな腕の中の暗黒は、私の意識が現実なのか仮想なのかわからない心地よさを誘った。




45


 揺すられて目が覚めた。座ったまま寝ていた。右肩を軽く揺すられている。まだ瞼は重く、首を起こす気にもならないくらい眠かった。それでも無言で何度も右肩を揺すってくる。私は右手で揺すっている相手の手をつかもうとしたが、右手は自分の肩にあたった。そして、また、何度も右肩を揺すられた。
 私は左腕を枕にしていた。左腕は軽くしびれている。首を上げ、身体を起こした。そして、右側を見ると志度が立って笑っていた。私は思わずにやけてしまった。志度が右肩をポンポンと軽く叩いたから、首を右にひねると志度の人差し指があたった。そのあと志度の笑い声が聞こえた。
 窓の外は夜明け前の青さだった。雪はやんでいて、すでに歩道を歩いている人が何人かいた。

「おはよう」
 私は初めて志度に起こしてもらった。私は立ち上がり、ドリンクバーに行った。そして冷たい烏龍茶を取り、席に戻った。




46


 志度と手をつなぎ、火曜日の8時過ぎの国道を歩いている。道はツルツルしていて、何人かが尻もちをついた跡が雪道の上に残っていた。国道の横断歩道を渡ろうとしたら、ちょうど青信号が点滅した。私達は立ち止まり、信号が青になるを待つことにした。駅と反対方向に向かっているから、私と志度以外この信号を待っている人はいなかった。

 穏やかな朝だ。変な体勢で寝ていたから、身体が妙に痛かった。ふたりとも当然のように学校に行く気はなかった。右折してきた車が一台、スリップしているのが見えた。
 
「ヤバい」
 私は右側から大きく押され、投げ出された。私は受け身を取れず、左肩から地面に着き、雪溜まりの方まで仰向けのまま滑った。
 何が起きたのかわからなかった。左肩、左腕が痛い。だけど、大きな音がしたのはわかった。空は冬らしい澄み切った水色をしていて、白くて弱い太陽が眩しかった。




47

 志度は当たり前のように死んだ。救急車に一緒に乗って、志度と一緒に病院に行った。救急車の中で私は志度の顔を見ながら、10年前のことを思い出していた。
 10年前も同じように志度と一緒に救急車に乗って、病院へ行った。あのときもあっけなく志度の命は終わった。たぶん、今回もそうなるだろうというくらい出血がひどかった。

 病院で志度の家族が来るまで、ベッドに安置されている志度と二人きりになった。志度の顔にかけられた白い布をめくり、私は志度にキスをした。志度の唇はまだ微温くて、まだ動けるんじゃないかと思った。
 私は唇をそっと離したあと、しばらく志度の顔を見ていた。志度の顔は血色は消え、黄色くなり始めていた。私は右手で志度の頬をゆっくり撫でた。親指で鼻先から頬をなぞった。そのあと、顔に白い布をかけ、パイプ椅子に腰掛けた。





48


 志度の家族が来たあと私は挨拶をし、事情を説明し、すぐに病室を出た。携帯をバッグから取り出した。

 まだ11時すぎだった。
 ――まだ、午前中の出来事だ。

 ため息をつくと、一緒に涙が流れた。灰色したビニールの廊下は涙で霞んでいる。奥の窓ガラスから差し込む白い光がやけに眩しく見えた。ゆっくりと廊下を歩き、会計ロビーに着いた。緑色のビニールが張られているベンチに腰掛けた。
 座ったまま、前かがみになり、両手で顔を覆った。手はすぐに涙でぐしゃぐしゃに濡れた。息をするとき、声がでないように押し殺した。息をするたびに両肩が上がった。
 結局、同じことの繰り返しだ。そもそも、志度を救えたとしても未来なんて変わらなかった。



49


 ベッドに寝転がった。自分の部屋に戻ってきても何も変わることはなかった。志度はしっかりと死んだ。それも今回も私の目の前でしっかりと死んだ。私はこの現実を見せられるためにタイムスリップをしたのかもしれない。
 そして、今、この瞬間に眠りについたら、あとは現実に戻るだけだろう。今朝、ファミレスで少し寝たのに25歳の私に戻ることが出来なかったのはおそらく、志度が死んでいなかったからだ。志度が死んで私のタイムスリップのツアーが終わることになっていたのだろう。
 マジで性格悪すぎる。何に性格悪いと言えばいいのかわからないけど、とにかく性格が悪い。いい思いさせておいて、二度としたくなかった辛い経験をもう一度させられた。
 私がそもそも志度が死ぬ前日にタイムスリップしたのが悪かったのかもしれない。なんで志度が死ぬ前日なんか選んだんだろう。その選択をした自分がバカらしいじゃん――。

 目を瞑り、寝ることに集中する。ほぼ、オールした上にしんどいことがあったから身体はものすごく疲れている。疲れていて、もう何もしたくない。
 志度の頭部から大量出血している光景や、救急車で酸素マスクをつけられている志度の姿、病院に着いて処置室へ運ばれる姿、そして、死んだ姿。
 すべての映像が何度も再生され、そのたびに私は絶望した気持ちになり、胸が痛んだ。

 ずっと一緒にいようって言ったじゃん。
 ――志度の嘘つき。
 



50


 眠ることができなかった。
 私は当たり前のように学校を休んだ。親に志度が死んだことを簡素に伝えたら、ほっておいてくれた。身体は重くて、食欲は当然のようになかった。歯磨きをして、顔を洗い、水を飲んだあと、また自分の部屋に戻り、携帯を手に取ったあとベッドに寝転んだ。
 携帯を操作して、一昨日、二人で自撮りした写真を表示した。写真のなかの志度と私は笑顔で、二人の奥にカラフルなクリスマスツリーが写っていた。結局、同じだと思った。25歳の私がずっと志度の写真を見て、志度のことをぼんやりと考えているのは一緒だ。
 私は我慢できなくなり、両足を何度も何度もジタバタして、やり場のない感情をベッドにぶつけた。



51


 眠気は一向にやってこなかった。昨日みたいに志度が居ないと生きていけないと思った。志度が居るということだけで私は簡単に眠ることができた。眠れないのは不眠症の所為だと思っていたけど、実はそうではなかったことに気がついた。

 私の人生には志度がいないと、もうどうすることもできないんだ。一日目デートが終わった日、ぐっすり眠ることができたのも、ファミレスで眠気が来て仮眠したのもすべて志度が居るという安心感で眠気がやってきたんだ。きっと。だから、志度を失った私はまともに眠ることすら困難になっているんだ。
 現に今もこんなに疲れているのに眠ることができない。私の人生は志度がいないともう、無理なんだよ。

「なんで死んじゃうの? 志度」
 私はぽつりとそう言った。だけど、誰もその答えは返してくれなかった。大きなため息を吐いても絶望は消えなかった。




52


 一睡もしないまま、志度の通夜に参列した。志度の両親に挨拶をすると、病院のときの礼を言われた。私は通夜に呼んでくれたことを礼を言った。通夜が終わったあと、志度の顔を見せてもらった。
 棺の中で寝ている志度は病院のときと同じように穏やかな顔をしていた。志度を抱きしめたい衝動と、胸にこみ上げてくる熱さを感じた。私は息を止め、その感覚が落ち着くのを待った。すっとその感覚が緩まったのを感じたとき、息を吐いた。

「さよなら」
 志度にしか聞こえないくらいの、ささやき声でそう言っても志度は答えなかった。



53


 葬式が終わったあと、あの忌まわしいファミレスに行った。21時を過ぎたファミレスはこないだのように空いていた。好きな席に座っていいと店員に言われたから、私はこないだと同じ窓側の席に座った。
 ドリンクバーだけ頼み、ココアを取って戻ってきた。テーブルに戻っても私しかいなかった。向かいに志度が居るような気がしたけど、ただ、志度の名残を感じているんだと思うと右目から、一筋の涙がこぼれた。
 バッグからサリンジャーの短編集を取り出した。葬式に行く前に自分の部屋の本棚に置いてあった文庫本を持ってきた。
 高校生のときに確かにこの本を読んだ。
 だけど、ほとんど内容をわすてしまって、難しいという感想しか覚えていなかった。
 だから、この本の最初の短編である『バナナフィッシュにうってつけの日』もほぼ内容を忘れていた。
 30ページもない短編だけど、全然、内容が頭に入ってこなかった。

 だけど、『拳銃の狙いを定め、自分の右のこめかみを撃ち抜いた』で小説が終わり、ずんと重くなるような感覚がした。
 それまで、ありもしないバナナフィッシュの話をして盛り上がっていたかと思ったら、あっという間にシーモアは死んでしまった。
 私は本をテーブルに置き、ココアを一口飲んだ。ココアの甘く、微温くて、優しかった。
 左手で前髪を何度かくしゃくしゃとかき分けても、何も気持ちは変わらなかった。重たくずっしりとした思いはそのままだし、ちっとも眠くなった。
 もう一口、ココアを飲んだ。そして、右手で頬杖をつき、外の景色を眺めた。窓の外に広がる国道は雪が積もっていて、無数の雪はオレンジ色の街灯にちらつき、外は吹雪始めていた。

 ――タイムスリップが終わったら、私も死のう。
 運命が変わらないなら、あの世で志度と一緒になればいい。この世なんて、結局、一緒にいようという淡い約束すら、叶わないんだ。

 もう、タイムスリップも終わりにしよう。寝たいときに寝ればいい。
 私は机に突っ伏して、目を瞑った。闇の中で、いろんな音が聴こえる。マライア・キャリーのクリスマスの曲が小さなボリュームで店内に流れていて、幸せそうな雰囲気だ。

 どこからともなく、絶えない他の客の話し声がざわざわとしている。
 ――みんな、くたばればいい。
 みんな、きっと幸せなんだ。私だって、志度がいれば幸せだったのに。志度。

「ねえ。助けてよ」
 ぼそっと、そう言ったけど、誰も慰めてなんてくれなかった。
 



54


 結局、眠れずに2日が経った。
 すでに頭はぼーっとしていて、気持ちが悪い。流石につらすぎるから、近くの内科に行った。内科で眠れない症状を伝えると1週間分の睡眠薬をもらった。
 私はすでに頭が回ってなくて、医者の話や、受付のお姉さんの話は頭に入ってこなかった。身体はふわふわしていて、雲の上を歩くように気持ちが悪かった。
 家に帰り、すぐに睡眠薬を飲み、ベッドに寝転んだ。そして、目を瞑った。何も考えることができず、私は自然と無を感じていた。もはや志度のことを考えるということすらできなくなっていた。だけど、なかなか眠りに入らない。目を瞑ったまま、待っていたら、いつの間にか眠っていた。





55


 目が覚めた。
 ただいま、25歳――。

 いや、戻ってない。
 身体は右手を下にして、横向きになっていた。景色は実家の私の部屋だった。

 私は起き上がり、机に置いていた携帯を手に取った。携帯も昨日のままだった。携帯で時間を見ると朝の5時半すぎだった。ものすごく長い時間寝ていたことになる。昨日のお昼すぎに寝たから、20時間近く眠っていたことになる。少しだけ頭が痛かった。
 私はようやっと気づいた。なんでタイムスリップが終わっていないのか、よくわからなかった。占いのおばさんは2回寝たらタイムスリップが終わるって言ってた。
 だけど、私はすでに3回目の睡眠を終えてしまった。私はため息をついた。志度が死んだ世界で生き続けても意味がない。しかも、今更高校生をやっても意味がない。もし、これで25歳に戻れなかったら、また大学受験をしなくちゃいけないし、就職活動をしなくちゃいけない。

 しかも、25歳のときにプロポーズしてくれた優に出会えるかどうかもわからないし、優と付き合うこともできるのか、よくわからない。
 ――私は、結局、すべてを失った。
 急に優に会いたくなった。25歳の自分に戻ったあと、優にタイムスリップしたことを白状して、死んだ初恋相手を救うことはできなかった。
 運命はかえられなかった。だから、あなたと真剣に向き合って、生涯を過ごします。って言いたくなった。きっと、優ならそんな私の話も聞いてくれるかもしれない。
 きっと、冗談として受け止めて、『日奈子って面白いね』といつものように言って、笑ってくれるかもしれない。

 ――だけど、優のそういうところが好きになれなかった。
 本当は志度みたいに『バカだろ』って正直な感想を言って欲しい。本当の私を突いたような言葉を返して欲しい。

 もう、そんなこと言っても遅いんだ。
 志度も優も失った今、消えることがない空虚を感じて、死ぬために生きなくちゃいけなくなる。それだけで、ものすごく嫌になった。

 今日も学校を休んだ。昼過ぎに桜子から、メールが来た。3日も学校に行っていないから、気にかけてくれたのだろう。メールには私を気遣う言葉と、もしよかったらカフェで話そうって言われた。だから私はその誘いに乗ることにした。




56



 パルコのスタバで桜子と会った。高校生の桜子と久々に再会した。桜子は幼く見えたけど、今とそれほど変わらない印象を受けた。

 スターバックスの店内はいつものように落ち着いていて、コーヒーの甘い香りが店内に漂っている。私と桜子は店員からフラペチーノを受け取ったあと、窓側の席に座った。駅前通りには多くの人たちが今日も行き交っていた。

「日奈子、大丈夫?」
 桜子はそう言った。私はコアとなる部分は一緒だから、大した変わらないと思った。それは思い出の中の桜子と一緒だ。 
「うん、ありがとう」
「すごく顔色悪いね」
「うん、2日くらい寝れなくて、昨日病院行って、薬で寝たら20時間も寝ちゃったんだよね。それでかも」
「うわ。大変だったね」
 高校生の桜子は本当にしっかりと同意ょうしてくれているように思えた。その優しさはまったく変わってなかった。
 
「ねえ、日奈子」
「なに?」
「私、人を励ますとかそういうことって、下手だと思うんだ。だから、直接的な言い方になったらごめんね」
「大丈夫だよ」
 私がそう言うと、しばらくの間、静かになった。

「――つらいよね。人が死ぬって」
 桜子の声はか細く、静かに感じた。きっと、すごい勇気がいることだったんだと思う。私はゆっくりと頷くと、桜子はテーブルに左肘をつき、鼻をさわった。
「――なんて言えばいいんだろうね。こういうとき。――ショックだよね。日奈子」
「うん」
「――だからね、私、そっとしておいたほうがいいと思ったんだ。日奈子のこと。――だけどさ、1週間我慢したけど、もう無理だった
「――ありがとう」
 私がそう言うと、桜子は真顔だった表情が少し柔らかくなった。
「だから、日奈子のこと誘っちゃった。ごめんね」
「ううん。――大丈夫」
 私はそう言ったあと、志度の肉体はすでに灰になっているのかと、ふと思った。それは絵空事のようにしか思えなかった。
  
「あーあ。上手く付き合えてると思ったのにな」
 私はそう言いながら、上を向いて暖かい色した電球を眺めた。何秒間か眺め、視線をもとに戻すと、青い影が景色に馴染んた。

「だけど、相手が死んじゃったら、恋愛が上手くいくとか、そういうのも全部なくなっちゃうんだね。――当たり前の話だけど」
「あり得ないよ。――死ぬなんて」
 また、二人の間にゆっくりとした沈黙が流れた。志度はやっぱり死んだんだ。それも今回は私のことをかばって死んだ。
 
「――志度さ、私のことかばって――かばって死ん――じゃった」
 喉が急に詰まる感覚で声をだすことが出来なくなった。そして、大量の涙が一気に溢れ、頬に伝う感覚がした。
 私はカウンターテーブルに突っ伏した。白いトレーナーの裾は簡単に濡れていった。背中に擦られる感覚がした。桜子が背中を擦ってくれているのだろう。桜子側からジッパーを開ける音がして、がさこさと何かを探している音がした。
「ティッシュ。使って」
 私は突っ伏したまま頷いた。涙を止めようと食いしばったけど、一向に止まる気配はなかった。私は食いしばるのをやめて、静かに涙が収まるのを待つことにした。桜子はずっと私の背中を擦ってくれている。桜子の手の温かさがトレーナー越しでもしっかりと背中に伝わってきた。
 涙が少し落ち着いた。私は顔を上げ、桜子のポケットティッシュを一枚取り、鼻を噛んだ。そのあと、もう一枚ティッシュを取り、頬と目元を拭いた。せっかくしたメイクも一緒に取れているのがティッシュの色を見てわかった。もういいやと思った。どうせ、化粧直しもしないで、マスクをつけて帰ろうと思った。
 
「落ち着いた?」
 桜子はそっとした声でそう言った。
「うん。――ありがとう」
 まだ顔全体が火照っている。じんわりと熱を持っていて、頭がぼーっとしていた。短いため息をつくと、少しだけ気合が戻った気がした。
 
「本当は、あの日、私が死ぬはずだったんだよ。――きっと。だけど、志度は私のこと、かばって救ってくれたんだ」
「そうなんだ。――どういう事故だったの?」
「横断歩道で信号待ってたら、私の方に車が突っ込んできて、志度が私を突き飛ばしたんだ。――そしたら、志度が車に引かれてた」
「そうだったんだ――」
 桜子がそう言ったあと、またしばらくの間、沈黙が続いた。

「バカな話だよね。ホントに。なんで私のこと、かばったんだろう。自分が死ぬことないのに」
「――咄嗟の判断で、日奈子のこと守ったんだね」
「ううん。バカげてるよ。そんなの」
 私はそう言ったあと、すっかり氷が溶けてしまったフラペチーノを一口飲んだ。

「ねえ、桜子。――私さ、もう生きていけないと思うんだよね」
「やめてよ。そんなこと言わないでよ。――辛いだろうけど」
「私、志度がいないと生きれないよ」
 桜子は黙ってしまった。きっと、重く受け止められたんだ。こんなこと、高校生に言うことじゃない。

「本当は私が死ぬべきだった」
 私がそう言い終わったあと、背中を叩かれた。鈍い音がして、急に目が覚めるような感覚がした。
「バカなこと言わないで。しっかりして」
 桜子は強めな口調でそう言った。私は、はっとした。いけないことしちゃった――。

「――ごめんね。桜子」
「いいの。だけど、自分を見失わないで」
 桜子の声は凛としている。私はため息を吐いた。桜子にじゃなくて、自分に対して嫌気がさした。しばらくの間、お互いに黙ったまま、時間が過ぎていった。
 窓越しの外はまた、雪が降り始めて、空も空間も一気に白くなった。 
 
「私、志度がいないと眠れないんだ」
「え、眠れないの?」
「うん。私ね、元々不眠症気味だったんだけど、志度と付き合い始めてから、寝れるようになったんだよね」
 私は自分が軽く話を脚色していることに少し罪悪感を覚えた。本当は志度が死んでから不眠症になった。

「――日奈子、不眠症なんだ」
「うん。――だけど、志度がいるだけで寝れたんだよね。3日前に志度が死んで、私、不眠症、ぶり返しちゃった。――だから、志度がいないと無理かも。私」
「――そっか」
 桜子はそう言ったあと、ため息を吐いた。
「私、どうしたらいいんだろう」
 私はそう言ってすぐ、なんて野暮な質問なんだろうと思った。相手はまだ17歳の桜子だ。こんな質問するのは親友でも酷な気がした。
 案の定、桜子はまた沈黙したまま、私を見つめていた。そうして目があったまま、会話は止まった。そして桜子は私の左手を両手で握った。桜子の手は柔らかくて一瞬ドキッとした。
 
「日奈子。――今は立ち直らなくていいよ。志度のこと。――頑張らないで。立ち直ろうとすること。思いっきり悲しんでから、次のこと考えたらいいよ。そしたら、きっと上手くいくよ。――私も手伝うから」
 私は頷いた。そのあと、桜子を見ると、桜子の頬に何粒の涙が流れた。私はそれを見て、また胸が痛くなった。 
「だから、今は、今この瞬間にだけ集中して生きて」
 私はもう一度、ゆっくり頷いた。首を下に傾けたとき、涙がまた流れた。




57


 志度が死んでから2週間が経った。私は17歳のままだった。あれから短い時間で何度も眠ったけど、一向に25歳の私に帰れる気配はなかった。私はすでに半分諦めていた。たぶん、これはもう、二度と25歳に戻ることができない。だったら、戻ることを諦めて、17歳の今の人生をしっかりと行ったほうがいいと思った。
 「失うことによって気づくことがある」と占いのおばさんが言っていたことを思い出した。
 私は志度を失ったことで自分の人生をしっかりと生きることを突きつけられていたんだ。――きっと。
 25歳までの私は志度の影を追って、後悔して、苦しい生活をしていた。だけど、それを辞めたらいいってことなんてないし、もう一度、17歳から人生やり直せるチャンスをやるからってことなのかなって思った。
 神なのか、時空なのかわからないけど、性格悪すぎる――。もっと私のこと寄り添ってくれてもいいのに。
 私は右手の平を眺めた。一週間前、確かに志度が私の右手を握った。その感触を思い出した。だけど、だんだんとその感触も消えていくのがわかった。前のときと一緒だ。こうやって志度の声や志度の感触を忘れていく。

 そして、志度の顔も簡単に思い出すことができなくなるんだ。




58


 私が学校を休んでいる間に冬休みが始まってしまった。そして、クリスマス・イブもやってきた。私は引きこもったまま、外に出ず、自分の部屋でテレビを見て過ごした。
 外の世界はクリスマスで楽しそうだった。私は25歳に戻るのを諦めて、17歳になる準備をすることにした。机に置かれていた教科書を何冊かに目を通した。ノートも見たけど、今現在やっている勉強の殆どは面倒で面白くなさそうだった。
 椅子に座り、ノートをテーブルに広げた。そして、何も書かれていないページに17、18、19と書き始めた。そして、25まで書き、年表を作った。
 高校卒業と大学入学、卒業、就職を18、22の欄に書いた。今までの私の人生を振り返ろうとしたけど、これ以上は何も出てこなかった。

 23歳からの私は何もなかった。ただ、書店の中で一日中働いて、疲れて、お風呂入って、寝るだけを繰り返しているだけだった。そういえば、仕事はどうなったんだろう。
 私が無断欠勤したとしても別にあの会社では珍しいことではないから、もしかしたら、普通に回っているのかもしれない。私がいなくったってあの職場は回る。そして、捨て駒として働かされているあの職場は、私を求めていない
 次に私が2度目の人生で、歩みたい人生プランを書こうとした。だけど、全く思いつかなかった。別に何がしたいわけでもない。出会いも求めていないし、明確にやりたい夢もない。結局、私には何も残っていない。




59


 桜子から、また、メッセージがあった。
《もし、大丈夫だったら、またスタバいかない?》
《うん、大丈夫だよ》とメッセージを送ると、明日もスタバで話すことになった。




60


「ごめんね。日奈子のこと、ほっておけなくてさ」
「ううん。ありがとう。気が紛れるよ」
「それならいいけどさ、無理しないでね。途中で帰ってもいいから」
「ありがとう」と私はそう言った。
 桜子は本当に優しいし、私のことを本当の意味でわかってくれている唯一の人物だ。小学校の時から、なぜかわからないけど、息が合う。
 小中高校と、桜子は陽キャのグループにいつも属しているけど、私と二人で遊ぶ時間を作ってくれる。私は陰キャ気味で地味で少数派の友達グループに属することがほとんどだ。だから、時折、友達からあの二人が、なんで仲がいいんだろうって言われることが度々あった。

「最近は寝れてる?」
「うん。少し寝れるようになったよ」
「よかったー。寝れないのが一番キツイからね。体調的に」
「桜子、なんかお母さんみたいだよ」
「だって、気になって仕方ないんだもん。日奈子のこと」
「ありがとう。私のことよりもさ、桜子。クリスマスなのにデートしなかったの?」
「うん。彼、バイトだって。マジでありえないよね。クリスマスくらい休み取れよな。マジで」と桜子はそう言って笑った。 
「そうだったんだ」
「うん。だから、私と彼のクリスマスは先週の土曜日だったの。だから、大丈夫だよ」
「そっか」
 私はそう言ったあと、フラペチーノを一口飲んだ。
 
「ねえ、日奈子。タイムスリップできたらいいのにね」と桜子がそう言った。私は少し、ドキッとした。タイムスリップという言葉に思わず身構えた。
「そしたらさ、私が日奈子にこれから起きること伝えてね。日奈子も志度も救えるかもしれないって、昨日の夜思ったんだ」
「――タイムスリップね」
 すでに私はタイムスリップしていると言えるわけがなく、私は桜子が言ったタイムスリップという言葉を返しただけだった。
 
「うん。――無神経なこと言ってたらごめんね。私ね、なぜかわからないけど、昨日そう思ったことを伝えなくちゃって思ったんだ」
 桜子はフラペチーノを片手に持ちながら、真剣な眼差しで私を見つめてきた。どうして、こんなこと急に言い出したのかわからない。 
「昨日ね、タイムマシンっていう映画観たんだ。ツタヤで借りて。それは死んじゃう恋人を助けようとしてタイムマシーン作って、タイムスリップを繰り返す話なんだけど、結局、恋人を救うことが出来なくて、タイムマシーンの操作事故で未来に吹っ飛んじゃうって話なんだ」
 桜子はそう言い切ると小さく息を吐いた。私は気を紛らすためにもう一口、フラペチーノを飲んだ。
「それ観たあと、すぐに日奈子にLINEしたの」
「そうだったんだ」
「――ごめんね。やっぱり、変だよね」
「ううん。そんなことないよ」
 すでに私はその変なことをやっているんだよ――。桜子。と言いたくなった。
 
「だからね、失った人を追い求めたくなる感情ってどの人にもあるんだって思った」
 桜子はそう言ったあと、ため息をひとつ吐いた。

「でね、何が言いたいかって言うと、私は日奈子のことが好きなの」
「えっ」
 一瞬、ドキッとした。
 
「――大好きなの。私の唯一の親友だから。だから、今は無理かもしれないけど、前向いてほしい」
「――ありがとう」
「こないだ言い忘れたんだけど、私にとって、日奈子は大切な存在だから、死なないでほしいの。だから――」
「大丈夫だよ」
 私はそう言ったあと、桜子に微笑んだ。久しぶりに笑みを作った気がする。少しだけ頰の筋肉が固くなっているのを感じた。
「私は、生きるから。大丈夫」
「日奈子。――なんとか乗り越えようね」
 桜子を見ると、瞳は少し潤んでいるように見えた。それを見て、私も思わず、喉がつっかえる感覚がした。
 




61


 家に帰り、またベッドに寝転んだ。そして、ぼんやりとラックに掛けた黄色いコートを眺めている。
 そういえば、1回目に志度が死んだときは、志度の止血をするために黄色いコートを使ったから、すでにこの黄色いコートはなかった。
 血まみれになったコートを泣きながら、燃えるゴミの袋に詰め込んで捨てた。この黄色いコートだけでもすでに前回の17歳と違う結果になっている――。
 
 ベッドから起き上がり、机の下にしまってある椅子を引き、座った。そして、昨日年表を書いたノートを開き、ペンを持った。そういえば、志度が死んだのも前回の17歳のときと違った。私はノートに縦線を書き、前と後と書いた。


・志度はデートの翌日朝に死んだ
・志度が死んだ場所は駅前の待ち合わせ場所
・黄色いコートは捨てた


・志度はデートの2日後に死んだ
・志度が死んだ場所はファミレス近くの交差点
・コートは捨ててない
・ファミレスで志度とオールした

 今、思いつくだけでこれだけ差があった。
「変わってるじゃん――」
 ぼそっと呟いたけど、別に何も起きなかった。
 占いのおばさんが『過去を変えることはできない』って言っていたけど、すでに私は過去を変えている――。

 そのあと、すぐに『タイムスリップできたらいいのにね』と、さっき桜子が言ったことが脳内で再生された。
 私はノートのページを捲り、今度は「おばさんが言ってたこと」と「実際にあったこと」と書いた。

○おばさんが言っていたこと
・過去は変えられない
・2回寝ると戻れる

○実際にあったこと
・過去は変えれた
・何回寝ても元に戻らない

「あっ」
 そう書いたあと、私は気が付いた。すでにおばさんが言っているタイムスリップと違うことを私はしている。何度、眠っても一向に元の世界に戻らないし、過去は何点かは変わっている。志度が死んだのは同じ結果だけど、内容が違う。

 ペンのノックを何度も押して、神経質な音を立てた。
 どうなっているんだろう――。

 おばさんが言っていたのはタイムスリップはツアーみたいなものだって言っていた。ツアーってことはたぶん、その時代にタイムスリップして過去に起きた出来事をショーケース越しに見ているような感覚なのだろう。
 だから、過去を変えられないから、2回寝たら元の世界に戻ることが出来る。過去が変わらないから、元の世界も変わらない。
 だけど、私の場合、すでに過去は変わってしまったから、元の世界の私は――。
 ため息を吐いた。よくわからなくなった。そもそも、私は2日間だけタイムスリップして、志度とのやり取りを楽しんで、25歳の自分に戻るはずだった。

 ――というか、本当にタイムスリップできるのなら、志度を助けることができるかもしれないと思って、タイムスリップしたのに、結局、志度を助けることができなかった。
 そして、25歳の自分にも帰ることができなくなった――。志度がいない、辛い人生をもう一度やり直すのなんて、もう嫌だ。
 私が元の25歳の自分に戻ることが出来ないのは、もしかしたら、元の世界の私はたぶん、消滅したのかもしれない。
 おばさんはそのことをタイムパラドックスって言ってた。タイムスリップして自分が生まれる前の世界で、親を殺したら、元の世界の自分も存在しなくなる。私はそれと似たようなことをしたのかもしれない。だから、タイムスリップした世界に留まり続けることができたとしか、考えられない。そして、その答えは永遠にわからない。




62


 カーテンを開けると、弱くて黄色い朝日が部屋に差し込んだ。3階の高さがあるこの部屋からの景色は白色一色で、道路も、電柱も、街路樹も、すべてが凍てついている。

 二重窓越しでも冷気を感じる。そっと、窓ガラスに右手を当てると冷たくて、一気に鳥肌が立った。
 正月も12月の延長線上みたいにポッカリと心に穴が空いたまま過ごした。そして、年始のお祝いムードが抜け、そのムードの寂しさも一緒に1月4日は私にのしかかった。成人の日を過ぎたら冬休みは終わる。そして、私は学校に行くだろう。タイムスリップして、もうすぐ1ヶ月が経とうとしていた。そして、志度がいなくなってからも1ヶ月が経とうとしていた。
 桜子に会ったあとから、ひたすら逃避することを考えていた。実際、何度考えても、今後の私の人生をどうやって進めていけばいいのか、全くわからなかった。今更、大学に行って、何を学ぶんだろう?
 私にとってやりたい仕事なんてほとんどない。本屋の仕事も元々、憧れて入ったけど、もう十分やりきった。出版不況の所為で給料にならないし、毎日クタクタなまま、プライベートを犠牲にして働かなくちゃならないことは十分にわかっている。なろうと思っても正社員にすらなれないんだ。

 優と遭うためにもう一度、同じ会社で書店員をやってもいいかもとも思ったけど、優とまた出会える保証なんてなにもない――。 
 そして、そもそも、志度がいないと私の人生は回り始めない。また、優と付き合いながら中途半端な気持ちに苦しめられるかもしれない。

 ――絶対にそうだ。
 志度と一緒に人生を作っていかないと、私は生きていけないんだ。だけど、志度はもういない。その現実を私はまた受け入れたくなかった。




63


 学校が始まり、私は通学を始めた。クラスに入ると幼い同級生達が楽しそうにグループを作って会話をしていた。私が教室に入ると、江利が声を掛けてきた。私は江利に自分の席の場所を教えてもらった。自分の席に座ると、江利は前の席に座った。
 
「日奈子、大丈夫?」と江利は心配そうな表情でそう言った。
「うん。大丈夫だよ」
 私はそう江利に返事をした。江利はクラスで唯一、私と志度が付き合っていたことを知っている。だから、志度が死んだことが私にとってどんなことであったのかもわかっているはずだ。
 
「私より、江利は元気だった?」
「うん、私はこの通り、元気だよ。結構バイトしたから疲れたんだけどね」
「そうだったんだ。年末年始だからコンビニも忙しかったでしょ?」
「うん、大晦日もシフト出たんだけど、大晦日はめっちゃ暇だったさ。最後の3時間くらい立ってるだけだったから、むしろ辛かったわ」
 江利はそう言って笑った。

「そっか、みんな家で紅白観て、おせちでも食べてる感じだよねきっと」
「そうそう。ホント、外に出ないんだね。その代わり2日からものすごく忙しかったよ。マジで時給と割に合わなかったわ」
「どれくらい忙しかったの?」
「目回るくらい」
「マジで。大変だったね」
「うん。しかもさ、うちの店、今すごい人手不足なんだよね。だから、高校生なのに大人がやる仕事させられたりとかさ、結構めんどいのさ」
「そうなんだ」
 所詮、高校生がやらされる仕事なんてたかが知れてるだろと一瞬、思ったけど、ぐっと気持ちを抑え込んだ。
 
「ねえ、日奈子もやらない? バイト」
「え、キツそうじゃん」
「だけど、すぐに決まるよ。お小遣い欲しかったら言ってよ。私がオーナーに言うから」
 江利がそう言ったとき、ちょうど先生が教室に入ってきた。江利は話を止めて、自分の席に戻った。




64


 始業式は退屈だった。狭い体育館にぎっちりと数百人が体育座りをしている光景は久々に見ると異様に感じた。私の前には江利が座っている。ろくに換気もしていないから、酸素が薄くぼんやりとした。

 校長は志度の交通事故を話のネタにしている。
「残念ながら、わが校の生徒がこうした痛ましい交通事故に遭い、亡くなってしまってから、すでに1ヶ月が経とうとしています。そして、このショックな出来事は癒えることがありません。えー、残念ながら――」
 残念ながらをすでに5回言っていた。何が残念ながらだ。ふざけるなと思った。お前はなんにも志度のこと知らない癖に何言っているんだ。こいつ。
 ニュースのやり方と一緒だ。こんなの。センセーショナルに取り上げれば、何でも感傷的に物事を伝え、教訓にすることができる。そんなことで、志度を使わないでほしい。
 
 ――ものすごく腹が立つ。
 お前が善人だと評価されるために志度は死んだわけじゃないんだ。こういう善人面したヤツがどんな組織でも簡単にトップになる。

 ――愛がないんだよ。愛が。
 残念ながらと言っておけば、死者に祈りを捧げたことになるのか。もういいだろ。もう。私は校長の話が終わるまでイライラが収まらなかった。

 目の前に座っている江利は退屈そうに時折、首を左右に伸ばしていた。
 校長の話が終わり、部活の活動報告になった。スキー部がなにかの大会で優勝したらしい。部員が壇上で校長から、賞状を授与されている。
 体育座りをしながら、私は何もやることがないなら、バイトするのもいいなと思った。江利のところで江利と一緒にだべりながらレジ番しているのも悪くないと思った。そして、5万くらい上手く稼げたら、好きなこと出来る幅も広がるなと思った。5万円――。
 5万円出してタイムスリップしたんだった。5万円出して、本当に私の人生が変わってしまった。
 もし、あのとき、志度が死なないでタイムスリップが終わっていたら、きっと、25歳の私の左指には結婚指輪がついていて、志度と幸せな日々が待っていたんだ。だけど、そう思えたのはタイムスリップして、ほんの10時間くらいだけだった。
 私は右手で江利の肩をそっと叩いた。



「すみません。タイムスリップしたいです」私はそう言って、おばさんに5万円が入った封筒を差し出した。
「え、どうして」
 おばさんは動揺しているように見えた。おばさんは占いブースの椅子に座ったままだった。別に悪いことじゃないのに、悪いことがバレたかのような、そんな怪訝な表情をしている。
 
「あなた、どうしてそのこと知ってるの?」
 おばさんはそう言って、不審そうな顔で私を見た。
「私、実は10年後からタイムスリップしてきたのです。ここでタイムスリップしたけど、2日経っても戻れなかったんです」
「ふーん。そうなんだ」
 おばさんはようやく話を聞いてくれそうな雰囲気になった。
「お嬢ちゃん、タイムスリップしてきたんだ。そしたら、私のところでタイムスリップしたってことだよね?」
「はい、そうです。私、このタイムスリップで同じ辛いこと2回も経験したんですけど、もう一度タイムスリップして、どうしても相手に伝えたいことがあるんです。だから、タイムスリップさせてください!」
 私は早くタイムスリップがしたいと思った。
――早く、志度に会いたい。
 
「そう。わかったから、一回、お茶飲んで、落ち着こうね。お茶持ってくるからちょっと待ってて」
 おばさんはそう言ったあと、立ち上がった。今日のサリーの色はオレンジだった。サリーのオレンジの裾がひらりと弧を描いた。おばさんは、前回来たときと同じように奥の部屋へ行った。私はその間、膝に乗せている両手を開いたり閉じたりを繰り返した。両手の平はしっとりと汗で滲んでいる。そうしているうちにおばさんはお盆にお茶を乗せて、こちらに戻ってきた。

「はいどうぞ」
 おばさんはそう言って、私にお茶を差し出した。お茶からはタージリンの香りがした。
「ありがとうございます」
「思い出した。お嬢ちゃんさ、ちょっと前に来たよね。お茶を淹れているときにふっと思い出したわ」
「はい、一回来ました」
「そのとき、言ってたよね。前の世界には戻りたくありませんって」
 私が頷くとおばさんは微笑んだ。そして、カップを手に取り、お茶を一口飲んだ。 
「私がその時、言ったこと、覚えてるかしら」
「――運命には抗えない。自分で道を開いて」
「そう。その通り。運命には抗えないし、自分で人生の道を切り開いて行かないといけないの。どんな人でも」
 おばさんはカップをテーブルに置き、じっと私を見つめてきた。おばさんの目に吸い込まれそうになるくらい、長い時間、おばさんと見つめ合った。

「――お嬢ちゃん、本当は何歳なの?」
「25歳です」
「そう。ならわかるでしょ。その年齢なら」
「わかってるつもりです」
「だけど、不思議ね。こんな人初めて見た。タイムスリップして戻らない人」
「自分でも信じられません」
「お嬢ちゃん、往生際が悪いのかもね」
 おばさんはそう言って、笑った。いや、笑えないんだけど――。
 私は出されたお茶を手に取り、一口飲んだ。
 
「そうだね。本人が一番信じられないよね。もしかして、元の未来に戻ろうと思ってる? 残念だけど、過去に戻ることは出来ても、未来に行くことはできないんだけど」
「いいえ、私はまた、過去に戻りたいんです」
「そう。過去に戻りたいんだ」
「はい。そうです」
「うーん。そしたら、タイムスリップして、そのままなのにどうしてまたタイムスリップしたいの?」
「私が付き合ってた彼が死んだからです。この世界でも」
「そうなんだ。それはお気の毒に」
 おばさんは気持ちがこもっているのかどうかわからないような声でそう言った。私はそれにまた少しだけ、むっとしたけど、そのまま話を続けた。 
「私、たぶんこの世界では、すでに死んでた人間だったかもしれないんです。――彼が私の身代わりになって死にました。本当は私が死ぬべきだったのに。――だから、今度は彼を救いたい。いや、元々、二人とも事故になんて遭わないようにしたいんです。彼も私も死なないようにしたい。ただ、それだけです」
「そう。よく考えた結果、そうしたいと強く思ったんだね」
「はい。だから、この1ヶ月、コンビニでバイトしてお金作りました」
「わかった。あなたには悪いと思うけど、私はどうなっても知らないからね。私はただ、いつもと同じようにタイムスリップを手伝う。それだけをするからね。それでいい?」
「――はい、お願いします」
 おばさんは立ち上がり、椅子がある部屋の方を指さした。





65


 寒い。ものすごく寒く感じる。肌をさすような冷たさだ。私はコートを着ていた。袖を見ると黄色だった。私は、白い道で立ち止まっていた。降ったばかりの凛とした雪の匂いがした。抱えていた白いバッグの中身を確認した。財布と携帯、ポケットティッシュが入っていた。
 携帯を取り出し、時間を確認した。12時過ぎだった。メッセージの通知があった。メッセージは志度からだった。『ヒロシ前、着いたよ』という文面が表示されている。

 私は慌てて地下鉄の駅まで走った。




66



 大通駅に着き、南北線の改札口を抜けた。地下街へつながる改札前の地下通路の暖房があまりきいていなかった。出口から吹き込む風がとても冷たかった。地下で反響する無数の足音と話し声の雑音はいつもどおりだった。 
 志度は三越のショーウインドウの前に立っていた。志度は携帯をいじっていた。耳に付けているシルバーのピアスが照明に反射していた。
 志度はベージュのダウンに黒のパンツを履いていた。ショーウインドウによりかかり、右足を左足首に組んでいた。私は立ち止まり、しばらく志度の姿を眺めていた。手が熱くなり、手のひらに少し汗が滲んだのを感じた。

「日奈子」
 志度が私に近づいてきた。私はその場で立ち止まったままでいた。
「――日奈子」
 志度はもう一度私にそう呼びかけた。志度は真剣そうな眼差しで私を見ていた。私は息を吐いたあと、志度に抱きついた。

「おい」
 周りから視線を感じる。だけど、そんなのどうでもいい。コート越しでも志度の体温を感じる。鼓動は大きくなって、すごくドキドキしている。
 志度は私の背中に両手を回した。そして、お互いにしばらく抱き合ったあと、私は両手を志度から離した。
 
「――ごめん。遅くなって」
「――いいよ。大丈夫だよ」
「うん。ごめん」
「よーし、ランチ行くか」
 志度はそう言って、左手で私の右手をつないだ。




67


 イタリアンバルでパスタを食べた。ランチ営業もやっている店で、お酒もほしくなるくらい雰囲気が良いお店だった。
 ランチを食べたあと、サッポロファクトリーまで歩くことになった。外は雪がかすかに溶けていた。車道の雪は溶け切り、アスファルトは黒く濡れていた。
 志度に手を引かれて、歩いた。お互いに黙ったまま、ファクトリーに着き、映画を見ようと言われた。手をつないだまま映画を観た。

 前回と同じ映画だ。
 私は時折、映画を見ている志度の表情を見た。志度は真剣に観ていた。寝る気配もなく、スクリーンをじっと観ていた。
 映画は主人公が雨の中、ヒロインを救い出していた。そして、ビルとビルの間で追手を巻き、びしょ濡れでキスをしていた。





68


「映画、面白かったね」
 そう言ったあと、私はカフェモカを一口飲んだ。
「ああ、結構よかったね。最後、敵に追われてるところ、超ハラハラした」
 志度はコーヒーが入ったマグカップを持ち上げながらそう言った。

「ね、あれどうなるかと思った」
「最後、雨の中でキスするシーン。あれもよかったな」
「うん、結構ロマンティックだった」
「うん、いい映画だった」
 志度はコーヒーを一口飲んだあと、そっと微笑んだ。
 カフェの窓から見える外はすっかり暗くなっていた。日曜の5時を過ぎたカフェは客はまばらだった。淡い電球に照らされたと木でできたテーブルや椅子の色がとてもファンタジックでシックな空間を作っていた。サッポロビールの工場を再利用したレンガ館やサッポロビールの煙突を登るサンタクロースのオブジェがオレンジ色の照明と青と白の電飾で彩られていた。

「ねえ」
「なに?」
「私って、寂しがり屋かな」
「え、どうして?」
「私、一人じゃ何もできないから――」
「――いいんだよ。それを含めて日奈子なんだから、それでいいんだよ」
 私ははっとした。志度はそれくらい柔らかく穏やかに微笑んだ。志度に肯定されるとなんでこんなに心の底から嬉しく感じるんだろう――。
 
「優しいね。――だけど、本当は一人で強くなって何でも上手く乗り越えなくちゃいけないんだろうけど、私、疲れちゃった」
「みんな一人でなんて生きていけないよ。――しんどいから」
 志度はもう一口コーヒーを飲んだ。私は志度を見つめたまま、志度の言葉をもう一度、脳内で再生した。
 
「ねえ。普通は一人で強く生きていかなくちゃならないんだよ」
「普通ならね。だけど、今は普通じゃないから、俺にとっては何でも貴重に思える」
「普通じゃない?」
「うん。――なあ、日奈子。今が一番楽しいよ。久しぶりにこんな気持ちになった。――こんなの久しぶりだよ。ホントに」

 志度の言葉がひとつずつ、すっと胸に入っていくような気がする。
 ――私も久しぶりだよ。こんなに落ち着いて楽しいのは。
 
「――私も今が楽しいよ。こう見えて」
「わかってる。だから、日奈子が寂しがり屋だろうがどうだっていいんだよ。今、ここに日奈子が居てくれるだけでいい。日奈子がいない世界なんて、退屈で真っ暗だから」
 志度がそう言い終わると、しばらくの間、お互いに黙ったままになった。小さくかかっているジャズにアレンジされたクリスマスのBGMといろんな席からの話し声でざわざわしていた。
 
「ねえ、志度。こうやって、ずっと志度とクリスマス気分を味わうにはどうすればいいんだろうね」
「――タイムスリップすれば、叶うよ」
「タイムスリップ?」
 私は少し動揺した。タイムスリップという言葉が志度から発せられたことが信じられなかった。

「あぁ、何回もタイムスリップすれば、何回も今日と同じような気分に浸ることができそうじゃん。タイムマシーン使って何回も同じ日をやるんだよ」
 すでに同じ日を3回経験しているんだけど、私。とは当たり前だけど、志度には言えない。タイムスリップしても志度が死んだら、意味がないんだよ。
 
 「そしたら、日奈子が遅刻することもわかるから俺も遅刻に合わせて待ち合わせ場所に行けばいいし」
「――ちょっと。そこで遅刻の話持ってこないでよ」
 私がそう言うと志度は弱く笑った。

「もうひとつの方法として、世界中の時計の針を止める。そして、日奈子と二人で止まった世界を散歩するんだよ。クリスマスツリーもイルミネーションも止まったままで、クリスマスの音楽もなし。クリスマスツリーの前で固まったままでいる人達の変な表情見て笑うんだよ」
「え、それは嫌だなぁ」
「あ、この人、鼻の下伸びてる! とか言いながら一人一人見て笑うんだよ」
 志度はそう言って、自分の鼻の下を伸ばした表情して、右手の人差し指で自分の顔を差した。

「バカでしょ」
 私はそう言って、笑った。

「だけど、タイムスリップならそんな心配もいらない。何回も日奈子と楽しい日々を過ごすことができる。――本当はタイムスリップなんかしなくても一緒に過ごせればいいんだけどね」
「えっ――」
「だから、タイムスリップが一番現実的」
 志度はそう言って、にっこりとした表情をした。

「――そうだね。非現実だけど、現実的。だけど、ファンタジーだね」
 私はそう言ったあと、自分でも何を言っているんだかよくわからなかった。

「クリスマスだからね。――クリスマス、バイト入っちゃってごめんな」
「ううん。今日でも十分だよ」
「来年はクリスマス・イブにクリスマス、味わえたら最高だな。二人で」
「――うん、そうだね」
 私は、また不意に涙が溢れそうになった。




69


 志度と一緒に手すりにもたれて、アトリウムが一望できる2階の踊り場から大きなクリスマスツリーを眺めている。クリスマスツリーは地下から3階くらいまでを貫いている。クリスマス色の電飾が木をぐるぐると覆っていて、それらの光の反射で赤やゴールドの大きなオーナメントがファンタジックに反射していた。

「ねえ、写真撮ろうよ」
 私はそう言って、携帯をバッグから取り出した。
「いいね」
 志度は笑顔でそう言った。私は携帯のカメラを起動した。右手で志度の腰を掴み、左腕をいっぱい伸ばした。そして、志度の身体に首をもたれて、志度と私とクリスマスツリーが入るように自撮りした。
 自撮りし終わったあと、手すりの後ろにあるベンチに座った。ベンチに座ってすぐ、志度は私の左手を握った。手を繋ぎ直すたびに弱く電流が走るくらい嬉しさと緊張感が一緒に身体中を駆け巡る。
 
「なあ、日奈子」
「なに?」
「日奈子。好きだよ。ずっと」
「私もだよ。志度」
「私もってことは?」
 志度はそう言って、ニヤニヤとした表情をしていた。

「――好きだよ」
「待ってた。その言葉」
 志度は私にキスをした。唇が重なったまま数秒間の時が流れた。志度の唇は柔らかくて、温かった。志度はそっと唇を離した。そして、何秒間か志度の目を見たまま、また時が流れた。志度の瞳は茶色くて、吸い込まれそうなくらい透明だった。そのあと志度は微笑んだ。

「なあ」
「なに」
「俺たち、ずっとこのまま居ような」
「――そうだね」
「永遠に日奈子のこと思ってるよ」
「――私もだよ」
「あぁ」
 志度はそう言ったあと、もう一度、私の左手を握った。

「なあ。もし、俺が死んだらどうする?」
 志度にそう言われて動揺した。志度が死んだ光景が瞬時に思い浮かんだ。
 雪の上に血まみれの志度。赤くなって捨てた黄色いコート。病院のベッドで顔にしのい布をかけられて安置されていた志度。棺桶に入って安らかな表情の志度。すべて嫌な光景だ。
 志度が死んだあと、すべての光景が最悪で色褪せない記憶がものすごく嫌だ。それらが瞬間的に思い浮かんだ。
「俺が明日死ぬとするじゃん」
「止めて」
 私は思わず志度の話を遮った。

「そんな話しないで。寂しいに決まってるじゃん。――志度が死んだら。私、寂しすぎて生きていけないから。――そんなわかり切ってること、聞かないでよ。悲しくて、辛いんだから!」
 少しだけ、辺りに私の声が響いた。眼の前を通りがかった何人かの人が私と志度の方に視線を一瞬向けたのがわかった。私は右手でスカートの裾をぐっと握った。スカートは簡単に皺になり、手の中に布の一部が収まった。

「日奈子、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ。――ごめん」
 志度は落ち着いた声でそう言った。
「志度、二度と死なないで。二度とね。――人間いつかは死ぬけど、二人で幸せを十分に噛み締めてから死んで。お願いだから。決して私を守ろうとしないで。私は私で自分の身を守るから。志度は自分の身を守って」
「日奈子、そうは行かないんだよ。俺は日奈子を守らなくちゃいけない。――俺は日奈子に死なれちゃ困るんだよ。今、ここで日奈子に死なれたら、俺はこの先ずっと日奈子と過ごしたいと思ってた時間を一人で過ごすことになるんだよ。――だから、日奈子に危険なことがあったら俺は日奈子のこと守らなくちゃいけない」

 また、お互いに黙ってしまった。
 ――もう、二度と同じような結果になってほしくない。私が志度を守るの。そのためにタイムスリップしたんだから。 
「私だってそうだよ――」
「日奈子が死ぬことがわかってるんだったら、俺は日奈子が死ぬのを阻止する」
「――阻止しないでよ」
「いや、阻止する。死んでもらっちゃ困るからな」
「私もだよ。――志度にはまだ、死んでほしくない」
「俺も死ぬ気はないよ。だから、日奈子も死なないで」
 横目で志度を見ると志度は真顔だった。

「ほら」
 志度はそう言ったあと、右手の小指を私に差し出した。私はゆっくりと右手の小指を志度の小指に結んだ。
「俺さ、なんでもっと早く日奈子のこと深く知ろうとしなかったんだろうって思うときがあるんだ」
「――私もだよ」
 そう言ったあと、私は小指をゆっくり離して、右手を膝においた。私だって、志度のこと深く知りたかった。だけど、それができなかったんだよ。 
「俺の人生、いつもそうなんだよな。――気がついた時に大切なことを失って、そのとき初めて気がつく。なんでもっと真剣に深く向き合おうと思わなかったんだろうって」
 私だって、向き合いたかった。真剣に――。
 「――だから、死ぬわけにはいかないんだよ。俺も日奈子も。日奈子とこうやって何気なく過ごせる時間をたくさん作りたいんだよ」
 また、胸がずんと重くなる感覚がする。何度か深呼吸をした。だけど、その呼吸は浅くて細く、息をはくときにプルプルと身体が震えた。
「――私もだよ。私ね、志度とねこうやって何気ない時間を過ごしたいの。ずっと」
 一度、息をはき、両目を何度も瞬きをした。ぎゅっと両まぶたに力を入れると両目から涙が滲んだ。 
「だけど、それができなくなって、モヤモヤしてっていう人生は歩みたくないの」
「そんな人生歩まないようにしよう」
 ゆっくり、うん、と頷いたら、右目から、一滴、涙が頬を伝う感触がした。




70



「家まで送るよ」
 志度がそう言ったとき、乗り込んだ地下鉄はちょうど発車した。ドアのすぐ横の角の席に私は座っていて、志度は私の左隣にいる。車内は空席が目立った。だから、志度の隣に客は座ってなかった。車内が空いているから、みんな大体、一人分のスペースを空けて座っていた。 
「吹雪いてるからいいよ。それより、明日、一緒に学校に行こう」
「いや、送るよ」
「だって、明日も早いでしょ。明日さ、駅で合流しようよ」
「いや、送っていくから」
「――わかった」
 私がそう言い終わると二人とも無言になった。単調な地下鉄の走行音だけがあぐらをかいて、世界を支配しているみたいだった。沈黙の間に列車は2つの駅に停車し、発車した。トンネルの壁で光っている白い蛍光灯が窓の外で星のように流れている。

「ねえ。変なこと言ってもいい?」
 私はそう言って、沈黙を破った。
「なに?」
「――明日、志度が死ぬと思うんだ」
「俺が?」
「そう。明日死ななかったとしても、明後日かもしれない」
「つまり、明日か明後日、俺が死ぬってことか」
 志度がそう言った。私は志度の表情をちらっと横目で見た。志度の表情は真剣そうな表情をしていた。
「そう。両方とも交通事故。だから、志度には交通事故に遭ってほしくない」
「――そっか」
 志度はそう言ったあと、横にいる志度を見ると、何かを考えているような表情をしていた。そして、しばらくしてから、志度はこう言った。

「そしたら、俺も変なこと言ってもいい?」
「なに?」
「明後日、日奈子が死ぬと思うんだ」
「――私が?」
「あぁ。明後日、死ぬかもしれない」
「――そうなんだ」
「うん。つまり、これってさ、どっちかが死ぬってことだな」
「え、どういうこと? わからない。私、わからなくなってきた」
「俺も。今日、オールしよ。学校なんてほっぽり出して」
「ダメだよ。流石に親に怒られる」
「――そっか。したら、明日学校行くふりして、学校サボろう」
「いいよ」
「いつものところで待ち合わせでいい?」
「嫌だ。それはダメ」
「うーん、そしたらどうしようかな。――俺が日奈子の家に迎えに行くよ。玄関の前で待ってて」
「わかった。いいよ」
 私がそう言ったあと、またしばらくの沈黙が流れた。

「ねえ」
「なに?」
「――本当に死なないで。死んでほしくないの」
「大丈夫。死なないよ。日奈子も俺も」
「ねえ、約束して」
 私は真剣に志度を見つめた。

「いいよ」
 志度は私を見つめてそう言った。私は志度の瞳に吸い込まれそうになった。膝においていた私の左手の小指に志度は右手の小指を絡めた。小指と小指を結んだまま、地下鉄の窓から流れる白い蛍光灯と窓に写っている志度と私の姿を眺めていた。





71


 携帯に充電器を付けた。電気を消し、ベッドに寝転んだ。大きく息を吐くと一緒に涙がたくさん溢れた。今度こそ、志度を死なせない。私はそう決意した。志度が生きている世界にすれば、私達はきっと幸せな人生を過ごしていけるはずだ。
 志度は私が死ぬって言っていた。
 ――明後日。

 もし、私が死んだら志度は死なないで済むのだろうか。それだったら、私が死んで、志度が生きれば、それで十分だ。きっと志度は私が居なくてもやっていけるはずだ。元々、私と違って志度は根が明るいし、気合であらゆる困難を乗り越えていけるんだろう。
 ――私の死くらい乗り越えて行けるはずだ。
 だから、明日、きっと志度は死なないだろう。

 だって、私を迎えに来てくれるんだから。明日の夜まではきっと安心して過ごすことができる。そして、退屈な学校になんか行かないで、明日も志度と二人で過ごすことができる。それだけでもすごく嬉しいし、絶対、楽しい一日になる。
 そんな当たり前のことが毎日続けばいいのに――。
 強い眠気を感じ、そのまま私は眠った。




72


「おまたせ」
 志度は私の家のマンションの玄関の前に立っていた。
「生きてるな。日奈子」
 志度はそう言って、笑った。志度は制服を着ていなかった。
「あれ、制服じゃないの?」
「学校行く気ないから、最初から私服にした。日奈子も制服脱いじゃえよ。補導されるぜ」
 確かに志度の言う通りだった。両親もすでに仕事に出ていて、家には誰もいない。
「わかった。ちょっと待っててね」
「いいよ。デートの続きしよう」
 志度はそう言ったから、私はすぐに家に戻った。
 志度と手を繋いで歩き始めた。外はスッキリと晴れていた。水色の空が気持ちよかった。空気は氷点下なのがすぐにわかるくらい凛としていた。雪の下は氷になっていて、その上に積もった雪で何度も滑りそうになった。だから、私と志度はペンギンみたいにペタペタと靴底をあまり上げないでちまちまと歩いていた。

「滑るね」
「ああ、だけど、日奈子の手は離さないよ」
「――うん。離さないで」
 私はそう言ったあと、志度に握られている右手にぎゅっと力を入れた。
 横断歩道がちょうど赤になった。私と志度は自然と歩みを止め、信号を待っている。道の向かいにいつも志度と待ち合わせているスーパーが見えた。あのスーパーの前で志度は車に轢かれた。私は腕時計を見た。まだ車が突っ込む時間じゃなかった。

「ねえ」
「なに?」
「やっぱり、こっち側の道から駅に行こう」
 私は左手で右の方を指さした。これでスーパーの向かい側の歩道を歩くことになる。
「え、だけど、こっちのほうが近いじゃん」
「スーパーの前は嫌だ」
「――わかった」
 志度はそう言ったあと、私の手を引いて、私が指さした方へ歩き始めた。

 横目で信号が青になるのが見えた。あと少しであの信号を渡っていたことになっただろう。一回目は私が滑って転んだ結果、志度を事故から救うことになった。
 信号を待っていた車も動き始めた。凍ったアスファルトが朝日で照らされ光っていた。横断歩道を待っていた何人かの人たちもゆっくり慎重に渡り始めた。みんなペンギンの散歩のように慎重に、静かに横断歩道を渡っていた。

「ねえ」
「なに?」
「もうすぐ、あのスーパーの前に車、突っ込むよ」
「えっ」
 志度がそう言ったあと、すぐに大きな音がした。




73


 あたりは静まり返った。この道を歩いていた何人かは立ち止まり、車道の車は停まっていた。反対側の歩道で何人かの人が車の方へ走っていくのが見えた。「ヤバい」とか「うわぁ」とかそういう声が、いたるところから聞こえて、ざわつきになっていた。
 私と志度はその場に止まったまま、道路越しに反対側の歩道を見ていた。スーパーのショーウィンドウにシルバーの車が突っ込んでいた。ショーウインドウのガラスは粉々になっていた。車道を見ると中央分離帯を超えて、車が飛び出しているのが見えた。握っている志度の手がかすかに震えているのを感じた。

「日奈子、マジだったな」
「うん。マジなやつ。ヤバいね」
「ああ、ヤバいな」
「もしかして、俺らあの事故に巻き込まれてたかもしれないな」
「うん。あのままだったら巻き込まれてたよ」
「マジか――」
「うん、マジ」
「――震え止まらないだけど」志度はそう言った。
 志度の手はさっきにましてブルブルと震えているのが私の手に伝わった。私は繋がれた右手にまた力をギュッと入れた。ちょっとでも震えが止まればいいなと思ったけど、志度の震えは止まる気配はなかった。

「――大丈夫?」
「だいじょばない」
 志度は私の手を繋いだまま、そう言った。




74



 私と志度は地下鉄の駅に着き、いつも通り、定期をタッチして、改札を通り、大通まで行くことにした。地下鉄のホームにはいつものようにスーツ姿の人や、制服を着た高校生、オフィスカジュアルな姿の人で溢れていた。私も数ヶ月前までは同じように私服を着て、憂鬱に出勤していた。
 大通のパルコのスタバに入った。志度はコーヒーを頼み、私はフラペチーノを頼んだ。地下の客席は、数人の客しかいなかった。いつも混雑しているときにしかこのお店を使ったことがなかったから、ガラガラの店内は少し不思議な感じがした。
 だから、いつもなかなか座ることができないひとりがけのソファ席に座った。ソファはゆったりとした作りで、座るとクッションが深く沈み込んだ。

「やばかったな」
 志度はコーヒーを一口飲んだあとそう言った。
「やばかった」
「たぶん、あのまま、横断歩道渡って、スーパーの前にいたら、あの車、俺たちにストライクだったよな」
「そうだね。いつもの待ち合わせ場所、粉々になってたもん」
「あの車の運転手大丈夫だったかな」
「わからない。――だけど、無事でよかった」
「そうだね」
 志度はそう言ったあと、もう一口コーヒーを飲んだ。

「なあ、日奈子」
「なに?」
「日奈子さ、タイムスリップしてるだろ」
 志度はそう言った。笑っておらず、冷静そうな表情をしていた。私も冷静にその言葉をすっと胸に受け止めたつもりだ。別に同様も感じなかった。ただ、どちらが先にそのことを言い出すかの違いに思えた。

「今更、それ言うの」
 私は素直にすっとそう言った。
「やっぱり。――本当は何歳なの?」
「――25歳」
「へえ、そうなんだ」
 志度はそう言った。志度もさして驚いてなさそうな声でそう言った。 
「思ったよりおばさんだった?」
「いや、予想通りのお姉さんだった。だって、昨日から、日奈子大人っぽいもん」
 志度はそう言って、柔和な表情をした。私は少し照れくさくなって慌てて、フラペチーノを一口飲んだ。

「私さ、今日か明日、志度が死ぬって言ったでしょ」
「うん」
「それね、本当なんだよ。私は志度が死ぬところを2回見てるの。志度の通夜も2回行ったの。――もう、嫌なんだ。そんな経験。もう二度と、そんな経験したくないの」
「――そうだな」
「うん。今日志度はあの車に轢かれて死ぬはずだったんだよ。私と学校に行くのにいつも通り、あの場所で私を待ってて、そして、死んだの」
「ドーン」
 志度はそう言って、右手で拳銃のように人差し指と親指をたてて、自分のこめかみにあて、拳銃を撃ったみたいなボーズをした。
 シーモアじゃん。それ。と私は心の中で思ったあと、微笑んだ。すると志度も鼻で弱く笑って微笑んだ。

「――私がもう少し早く行ってたら、こんなことにならなかったのにって、もう何万回も思ったよ。最初はそのうち志度がいなくなったこと受け入れられるだろうと思ってたんだ。だけど、10年経っても無理だった。志度が死んだこと受け入れるのなんて」
「――日奈子、大変だったんだな」
「うん。もうね、限界だったの。仕事も上手くいかないし。生きてて楽しくないし。志度がいないと私、前に進むことが出来なかったんだよ。志度がいないと何もできないよ」
「一人、残しちゃったんだな。日奈子のこと」
「そうだよ。勘弁してよ。なんでそんなに早く死んじゃったの。私、志度と何気ない日常を過ごしたかっただけなの。20代はそうやって過ごして、結婚してさ、上手く行けば、志度と一緒に子育てしてっていう人生送りたかったの私は。――他の人なんて好きになれなかったよ」
 私はそう言ったあと、ため息をついた。今まで言いたかったことをそのまま志度に言ってしまった。

「日奈子、悪かった。――ごめんな。こんな思いさせて」
 私は頷いたあと、また微笑みを作った。
 
「――今、こうして志度と会えてるんだから、それでいいの。私は、今そこにいる志度と一緒に長い人生作ることが出来るんじゃないかと思って、タイムスリップしたの。――私ね、タイムスリップ2回目なんだ。1回目は25歳から17歳にタイムスリップしたんだ。2回寝たら元の25歳に戻るって条件で。だけど、戻らなかったの。25歳に。しかも、志度は同じように死んでしまったから、結局、タイムスリップした意味がなくなったの。だって志度がいないんだもん。だから、そのまま数ヶ月過ごして、バイトしてお小遣い貯めて、タイムスリップさせてくれる占いのおばさんに5万円払って、今、ここにいるの」
「――そうなんだ。留まることができたんだ。一回目のタイムスリップで」
「うん。そのときね、思ったの。私がタイムスリップしてその世界に留まることが出来たなら、もう一回タイムスリップして志度を死なせないことができるんじゃないかって。そして、志度が死んでない世界にそのまま私もとどまれば、ずっと志度と一緒にいることができるでしょ。――そう思ってタイムスリップしたの」
 私はそう言って、すっと息を吐いた。そして、フラペチーノを手に取り、もう一口飲んだ。

「なあ、日奈子」
「なに?」
「俺も――」
「タイムスリップしてるんでしょ?」
 私はそう言ったあと、また微笑む表情を作った。――わかってるよそんなこと。

「――そうだよ。先に言わないでくれよ。大真面目にダサいセリフ言おうと思ったのに」
 志度は笑ってそう言った。

「本当は何歳なの?」
「25歳」
「うそ、同い年じゃん」
「あぁ。びっくりしたよ。同い年で。偶然なのか、必然なのかわからないけど、俺も25歳なんだよ。本当は」
「俺は日奈子と逆だったんだよ」
「逆?」
「うん。明日、日奈子が死ぬことを俺は知ってる。だから、タイムスリップしてきた」
「私も死んでるんだ」
「うん、日奈子も死ぬ。そして、俺も死ぬ。――今、思ったんだけどさ、どちらか片方が生きてる世界線がそれぞれあったってことだろ? それで、なぜかわからないけど、こうしてタイムスリップした生き残った片方がこうやって出会って話してる。これって、奇跡じゃね?」
「え、ごめん、よくわからないんだけど……」
 私がそう言うと、志度は携帯を取り出し、何かを打ち込み始めた。そして、携帯を私に見せた。携帯の画面にはこう表示されていた。

1、日奈子17歳 dead 志登 25歳
2、日奈子25歳 志登17歳 dead
3、日奈子25歳 志登25歳 →新しい世界(win)

「えーっと。この1~3が世界線ね。それぞれの世界。1は俺から見た世界線で、2は日奈子から見た世界線。1と2ではお互いに共存することができない。つまり、どちらかが死んでるってこと」
 志度はそう言ったあと、コーヒーをまた一口飲んだ。私は未だに頭の中が整理できていない。
「1だったら日奈子が死んでるし、2だったら俺が死んでる。だけど、俺と日奈子がそれぞれタイムスリップした結果、3の世界線が誕生した。つまり、今日、明日、二人とも死ななければ。――俺たちは一緒に生きられるかも」
「そっか。身体はお互い17歳のままだけど、意識は25歳同士だから、これでもし、このまま死ななければいいんだ」
「そう。そういうこと」
 志度はそう言ったあと、携帯をジーンズのポケットにしまった。そして、マグカップに手を取り、コーヒーを飲んだ。

「ねえ」
「なに?」
「――私は明日、何時に死ぬの?」
「朝の8時過ぎ、駅の近くのファミレス前の交差点で死ぬよ。――車に轢かれて」
「あ、轢かれるんだ――」
「――え、なにか心当たりあるの?」
「うん。私、2回タイムスリップしたって言ったでしょ。1回目のとき、そこで志度が死んだの」
「え、俺が死んだの?」
「うん。私をかばって。――身代わりになって、私を守ってくれて、それで志度が死んじゃった」
「――マジか」
「うん。だから、そのときもものすごく辛かったよ」
「――そうだったんだ」
 志度はため息をついた。

「あー、なんかさ、どっか行くか。せっかくこうして二人で居るんだからさ」
「いいね」
「――よし、小樽行くか」
 志度はニコッとした表情をした。その表情だけで、チョコレートがすべて溶けて、揮発するくらい、すべてがどうでもよくなり、幸せに感じた。そして、ソファから立ち上がった。




75


 札幌駅から快速電車に乗り込んだ。10時近くになり、通勤ラッシュが一通り終わった車内は空席が目立っていた。二人がけのシートに座った。志度は「先に座って」と言って、私を窓側に座らせた。
 志度も25歳になったんだなと、ふと思った。電車は乗り込んでからすぐに発車した。そして、自動放送で小樽行きであることが告げられた。車内は温かく、湿度で少し窓が曇り始めていた。
 私は小樽に行くと聞いて、行き先はなんとなくわかってしまった。それはきっと志度も同じことを思っているのかもしれない。
 そして、それをすぐに思い出して、行動に移すところがすごく様になっていて、新鮮味を感じた。

 ――こういうことがしたかった。だけど、出来なかった。それが今、叶っていて、不思議な気持ちになった。

「なあ、日奈子」
 志度はそう言ったあと、右手で私の左手を繋いだ。それはさりげなく、とても自然に無駄のない動きだった。志度の手は少し冷えていた。
「なに?」
「俺も会いたいって思ってた」
「私も」
「じゃあ、両思いだな」
「最高だね」
「あぁ。好きだよ」
「私も」
「ありがとう。――こういうやり取りがしたかったんだよな。ずっと」
「私もだよ。こういうやり取り、ずっとやりたかった」
 私はそう言ったあと、右手で窓縁に頬杖をつき、流れる車窓を見た。雪で白くなっている住宅街が左から右へどんどん流れていく。

 ――もしかしたら、もう、志度と離れ離れにならないかも。
 このまま、志度は死なないで、私と一緒に同じ年齢。
 ――お互い25歳の状態で17歳から、人生を歩むことができるかもしれない。
 私は頬杖をやめて、志度の方を見た。

「ねえ」
「なに?」
「私が死んだあと、他の人と付き合ったことある?」
「――大学のときに1人だけ付き合ったことあるよ。――ごめん」
 私は少しショックに感じた。だけど、志度からしてみたら、私はすでに死んでいる存在だったんだから、嫉妬しても仕方ない。この感情が嫉妬になるのかどうか、いまいちわからなかった。
「ううん。いいよ。だってさ、自然なことだよ。私、死んでるんだし」
「――悪かった。だけど、他の人と付き合ったときさ、日奈子のことは絶対忘れないって決意したんだ。その上で、過去の辛いことから立ち直って、新しい道を進もうと思ってたんだ」
「うん」
「だけど、無理だった。――なんでかわからないけど、合わないんだよ。日奈子みたいに」
 志度はぼそっとした声でそう言ったあと、ため息をひとつ吐いた。そして、こう話を続けた。

 「相手の合わないところを見つけるたびに、あー日奈子だったら、こうだっただろうなっていう考えがすぐに出てきたんだ。それで、ダメだ。そんなこと考えちゃ、相手に悪いと思っただけど、自然とそういうのが湧き上がってくるから、自生がきかないんだよね。それで、結局、そうこう自分の頭でやっているうちに相手に愛想つかされちゃった。チャンチャン」
 志度は両手を上げて、まいったというジェスチャーをした。そして、お互いに弱く笑った。
「――そうだったんだ」
「そういうこと。だから、日奈子がいないと俺はダメなんだよ」
「――ごめんね。つらい思いさせて」
「ううん。もう昔の話だよ。こんなの。――日奈子は俺が死んでからいい人と出会えた?」
「うん。一人だけね。だけど、志度のことしか10年間考えられなかった」
 優のことをふと思い出した。そういえば、私、優にプロポーズされているんだった。だけど、もう、元の世界には戻らないかもしれない。
 ――ごめんね。優。
 
「そっか。――ありがとう。そんなに想っててくれたんだね」
「うん。私には志度しかいないよ」
「俺もだよ。日奈子」
 志度はそう言って、私の方を向き、目があった。志度は微笑んでいた。




76



 木で出来た扉を志度が開けると、おばちゃん二人の笑い声がちょうどこだましていた。喫茶店の中へ志度と私が入ると、笑い声は自然に満足げなトーンに落ち着いた。入り口の目の前にカウンターがあり、カウンター越しに店員のおばちゃんとカウンター席に座っている客のおばさんが話していた。

「いらっしゃいませ。いいよ。好きな席、座って」
 店員のおばちゃんがそう言った。志度は一番窓際で角の席を指差して、その方へ行った。席に近づくと、「壁側座って」と志度は言った。私は「ありがとう」と言って、壁側の席に座った。
 席に着いてすぐに店員のおばちゃんが木製のお盆に水が入ったコップを2つ乗せて持ってきた。そして、志度と私の前に水を置き、その場を去った。そして、また客のおばちゃんと話をし始めた。
「あのときと一緒だね」
「おんなじような時間だからね。おばちゃん覚えてるかな。俺らのこと」
「どうかな。気になるね」
 私はそう言ったあと、メニューをテーブルに広げた。私達は無言でメニューを見た。

「腹減ったな」
「うん、お腹すいた。今回もこれにしようかな」
 私はそう言ったあとモーニングセットを指さした。手書きをコピーしたメニュー表には、飲み物、トースト、サラダのセットと書いてあった。 
「飲み物は。――クリームソーダ?」
「そう。覚えててくれてたんだ。私がクリームソーダ好きなの」
「当たり前でしょ。俺だって、どれだけ、日奈子のこと想ってたか、これでわかるだろ」
 志度はそう言ったあと、右側に振り向き、店員のおばちゃんを呼んだ。志度はモーニングセット2つと飲み物はクリームソーダ2つにすると言った。すると、おばちゃんはちょっと待っててね。と言って、奥にある厨房へ入っていった。
「大人になったね」
「日奈子もな。日奈子がクリームソーダが好きな理由は小さい時、日奈子のお母さんが作ってくれてたからだろ。そこから好きになって、こういう喫茶店に来たら、必ず頼んじゃう」
「――すごいね。覚えててくれたんだ」

 私は涙ぐむ感覚がした。

「あぁ。それも、アイスはデカくないとダメなんだよ。ケチくさい小さいアイスはあんまり美味しく感じない」
「もう、なんか恥ずかしい」
 私はそう言って、笑った。志度も一緒に笑った。笑った弾みで、足を宙に浮かせ、右足を弱く蹴り上がった。右足がが志度の靴に軽くあたった。
「俺、実はこういうこと結構覚えてるキャラだから、気をつけたほうがいいよ」
 志度はそう言ったあと、私がさっきそうしたように足を私の左足の先にあてた。
「あ、今のお返し?」
「そうだよ。先にそっちがやっただろ?」
 志度がそう言ったあと、もう一度足を私の左足の先にあてた。志度はいたずらをしている悪くて無垢な笑顔を私に見せた。
 そうやってやり取りしているときにおばちゃんがそれぞれのモーニングセットを持ってきた。トーストには目玉焼きが乗っていて、胡椒が多めにかかっている目玉焼きからは湯気が出ている。サラダはレタスの上にトマトが乗っかっていて、レタスにはオニオンドレッシングがかかっていた。

「はいはい、もうひとつ持ってくるからね」
 おばちゃんはそう言って、トーストとサラダを置いた。その後すぐ、おばちゃんは一度カウンターに戻り、クリームソーダを2つ持ってきた。クリームソーダは大きなグラスに入っている。そして、アイスクリームはしっかりと拳一個分くらいの大きさがあり、アイスクリームとメロンソーダの境界は溶けたアイスクリームが白く濁り始めていた。
「そうそう。これ。私の好きなクリームソーダ」
「すごい嬉しそう」
「だって、やっぱり好きだもん」
「なあ、写真撮っていい?」
 志度は携帯を取り出してそう言った。
「いいよ。可愛く撮ってね」
 私はピースサインをして、志度が写真を撮るのを待った。そのあと、私も携帯をバッグから取り出して、志度の写真を撮った。
 私は携帯をバッグにしまったあと、いただきますと言った。そして、クリームソーダを飲み始めた。いつもの幸せな甘さがした。バニラアイスが程よくメロンソーダに溶けていて、メロンソーダがより濃く感じた。志度も携帯をテーブルに置き、モーニングセットを食べ始めた。
 私もトーストと目玉焼きを食べ始めた。トーストと目玉焼きは普通に美味しかった。そうして、しばらく私と志度は会話をあまりかわさず、黙々とモーニングセットを食べた。

「したらね。みっちゃん。明日も食べに来るから」
 そう言って、客のおばちゃんがお店から出ていこうとしていた。
「たえちゃん、今日もありがとう。したらね」
 店員のおばちゃんがそう言うのと合わせて、扉についてるベルの音がゆるやかに鳴った。そのあと、扉が重そうにバタンと閉まる音がした。
 志度と私は黙々と食べていた。志度は躊躇なく口を大きく開けてトーストとその上に乗っかている目玉焼きを美味しそうに食べていた。
「お嬢ちゃん、かわいい顔してるね」
 店員のおばちゃんにそう話しかけられた。
「そんなことないですよ」
 私は少し顔が熱くなった。

「いいや。かわいい顔してるよ。あんた。だけど、デートのときはお化粧したほうがいいよ。もっと美人さんになるから」
「学校サボったんで化粧は勘弁してあげてください」と志度がそう言った。 
「あれぇ。サボってわざわざうちに来てくれたのかい。それは悪い子だねぇ。だけど、ありがとう。おばちゃんは儲かるわ」
 おばちゃんはそう言ったあと、ゲラゲラと笑った。
「あんた方、どこから来たの?」
「札幌です。学校嫌になってデートしに来ました」と志度はそう言った。
「札幌からかい。それはまた、ずいぶん、学校サボって遠出してきたね。したら、大学生かい?」
「いいえ、高校生です」と私はそう答えた。
「そうなんだ。なんだか、ずいぶん大人びてるね。かわいい顔はしてるけどさ」
 おばちゃんはそう言ったあと、また大きな声で笑った。

「おばちゃんもあなた方の年齢のとき、よく学校サボってたわ。おばちゃんのときは小樽から札幌の喫茶に行って、インベーダーやりに行ったなぁ。あんた方と逆だね」
「へえ、そうだったんですね」
 私はそう言ったあと、クリームソーダを一口飲んだ。
「さっきからさ、話しながら、ちょっとあんた方、見てたんだけどさ、仲良さそうだね。付き合いは長いの?」
「いや、まだそんなに長くないです」と志度がそう答えた。
「あら、そうなんだ。いいねぇ。若いって」
 おばちゃんはそう言ったあと、カウンターに置いてあった水を一口飲んだ。
「あなたがた、すごく似合ってる感じする。いやぁ。傍から見てだけどさ、なんかいいよね。あんた達。仲良さそうなんだもん。いいなあ。おばちゃんもそういう時あったけどさ、今じゃこんなんよ」
 おばちゃんはそう言ってけたたましく笑った。一体どこがおかしいのかわからない。おばちゃんのパーマが笑うのと合わせて派手に揺れていた。
「おばちゃんもこれからですよ」と志度はおばちゃんにそう返した。
「坊っちゃん、上手いねぇ、よく言うわ。出世するよ。将来」
 おばちゃんはそう言ったあと、また大きな声で笑った。私も志度もそのあと、一緒に笑った。

「坊っちゃん、いいこと教えてあげる。お付き合いする人と長続きするかどうかって、フィーリングが大事なんだよ。フィーリングで通じ合うんだよ。だってさ、どんなに長く付き合っても合わないもんは合わないんだから。おばちゃんね、長続きする人達、当てるの得意なの。だから、信じてちょうだい。あなた達、結婚するよ」
「え、ホントですか」と私はおばちゃんにそう聞いた。
「ホントだよ。お嬢ちゃん。楽しみに待ってて、ちょうだい。ちょっと、おばちゃん、奥行って洗い物してきてもいいかい?」
「はい、大丈夫です。ゆっくりさせてもらいます」
 私はそう言った。おばちゃんはそれを聞いたあとすぐに奥の調理場へ下がっていった。

「おばちゃん、俺たちのこと完全に忘れてたな」
「うん、しかも同じようなこと言われて、びっくりした」
「俺たち、結婚するって」
「うん。結婚するって」
「本当は今すぐ結婚したい」
「――私も」
「なあ、俺と結婚してください」
「え、これってプロポーズ?」
「うん。プロポーズ」
「――指輪ないよ」
「あとで渡します。だから、お願いします」
「――生きてたらね」
 志度はそう言ったあと、右手の小指を私に差し出した。私も右手の小指を差し出し、志度の小指に絡めた。そして、指切りをした。




77


 店を出て、海側へ坂を下っていった。外は時折吹く海風が冷たく、ブルブルと震えるくらい凍えた。10分歩いたところで、小樽運河にたどり着いた。
 観光客はまばらで、それほど人はいなかった。交差点を渡ったあと、運河の遊歩道につながる階段を降りた。そして、手を繋いだまま、ゆっくりと運河を見ながら歩くことにした。 
 運河の対岸には石造りの古い倉庫やレンガで出来た倉庫が立ち並んでいた。外壁がレトロな雰囲気を作っていた。それらの建物の屋根には雪が積もっている。運河は波がなく、建物を鏡のように水面に映し出していた。遊歩道と運河の間にあるガス灯は等間隔に置かれ、夜になると、オレンジ色になって綺麗な光景になるはずだ。

「ねえ、志度はどんな25歳だったの?」
「俺も日奈子と同じような感じだと思うよ」
「仕事は何してたの?」
「札幌で就職して、営業職やってた」
「へえ、営業やってたんだ」
「うん。札幌のそこそこの大学行って、卒業して、適当に就職した。やる気もなかったから、適当にやってたよ。だけど、職場の人達がそれなりにいい人達だったから、楽しかったな。飲みに行くのもそんなに嫌じゃなかった」
「そっか」
「だけど、何をやっても満たされなかったな。――なぜかずっと寂しいんだよ。何やってても身が入らない感覚が高校生のときからずっとあって、それは変わらなかった。日奈子が死んでから、俺のすべてが変わっちゃった」
「――そうなんだ」
「あぁ。俺、生きてる意味ないなって感じだったな。恋人がいるわけでもないし、友達もみんな就職して忙しくなってあまり遊べなくなったから、せっかく稼いだ給料も最低限の生活費、家賃とか、光熱費とか、そういうの払うこと以外、使わなかったな。だって、一人で旨い店に行ってもつまらないし、一人で旅行する気持ちにもならなかった」
「――私もだよ」
「えっ」
 志度は間の抜けたような声でそう返した。
「私もずっと志度のこと考えてた。――私ね、付き合ってた男の人にプロポーズされたの」
「――そうなんだ」
「ショックでしょ」と私はそう言いながら笑った。 
「バカ。からかうなよ」
 志度は苦笑いをして、右手で頭をかいていた。

「私ね、その男の人からプロポーズされて嬉しかったの。ちゃんとした婚約指輪もらってさ、こんな私のことちゃんと好きになってくれて、結婚しようって言われて。だけど、すっごいモヤモヤしたの」
「なんでだよ」
 志度は無神経にそんなこと言うから、私はムカついた。
「バカじゃないの。――志度のほうが良かったからに決まってるじゃん!」
 私の声が辺りに響いた。志度は急に立ち止まり、私をじっと見ている。

「ずっと、苦しかったの。こんなに私のこと、わかってくれている志度が突然いなくなって苦しかった。私だって、この10年ずっと寂しくて何やっても身が入らなかったの。志度とこうやってバカみたいなやり取りして、心から安心できる関係になりたかったの。ずっと」
「――悪かった。俺だけじゃなかったんだな。そんな気持ちでいたのは」
「当たり前でしょ! 私は志度のことが大好きなの。だから、一緒に人生歩んでいきたいって思ってるの」
 私はそう言ったあと、運河に面している手すりの方を向き、暗くてぼんやりとしている運河を眺めた。志度は私の横に立ち、一緒になって運河を眺め始めた。

「なあ、日奈子」
「なに」
「マジで結婚しような」
「うん」
「俺、日奈子がいないと内気になるし、すごい寂しいし、人生やってられないんだよ」
「――私もだよ」
「あーあ。だから、結局さ、日奈子がいないと楽しくないんだよ。あの時を境に俺は心の底から楽しむことができなくなったんだと思う。――だから、当たるって噂の占いの店、行ったんだよね」
「やっぱり、そうなんだ」
「うん。俺もさ、実はタイムスリップ2回目なんだよね」
「え、そうなの?」
「うん。あ、だけど、日奈子とは違うよ。俺はちゃんと一回25歳に戻ったんだよ。その時、タイムスリップした先は付き合い始めの頃だったよ。さっきの喫茶店行ったときにタイムスリップしたんだ」
「だから、クリームソーダのこと覚えてたんだ」
「まあな。――だけど、タイムスリップする前から日奈子がクリームソーダ好きなことはずっと覚えてたよ。その日は小樽観光して、次の日は公園で水風船して、日奈子と遊んで、終わった」
 私はふと、10年前の夏のことを思い出した。――あの落ち着いた志度の様子や口ぶり、志度が言ったこと。

「あっ。私、25歳の志度に会ってたんだ」
「えっ」
「そうだよ。きっと。だってあの日、愛してるって言われた。水風船し終わって、べちゃべちゃになったあとで」
 志度を見ると驚いた表情をしていた。そして、志度は立ち止まった。
「――日奈子。お前、マジかよ」
「――うん。一生、一緒にいたいし、ものすごく志度のことが好き。――愛してる」
「俺がこないだ言ったこと、そのまんまじゃん」
「10年越しのお返しだよ」
 そう言ったあと、私は微笑んだ。冷たくなってて、頬の筋肉は固くなっていた。志度も私に微笑み返してきた。

「日奈子って最高だな」
「志度もね」
「なあ、日奈子。17歳の日奈子に言われてはっとした言葉があるんだけど、覚えてる?」
 私は覚えていなかった。だから、首を振ると志度はふっと弱く笑ったあと、こう話を続けた。
「明日、俺が死ぬことがわかってたらどうする? って聞いたんだよ。あのとき。そしたら、日奈子は『知ってたら、助ける』って言ったんだよ」

 私ははっとした。もしかして――。
「だから、昨日、私に俺が死んだらどうするって聞いたの?」
 志度を見ると志度はニヤニヤしていた。だから、私は繋いでいた手を離して、志度の背中をポンと弱く叩いた。 
「こっから、マジな話で、あのとき、17歳の日奈子に知ってたら、助けるなんて言われて、俺、ものすごく衝撃的だったんだよ。助けるって考えがなかったから。ほら、あの占いのおばさん言ってただろ。タイムスリップはツアーだって。だから、俺もツアーだと思って楽しんだんだよ」
「そうだよね。私も最初は志度に会えるだけでいいと思ってた」
 私はまた、左手で志度の手を握り直した。志度の手は冷たくなっていた。
 
「あぁ。俺も日奈子に会えるだけでいいと思ってて、そのまま、1回目のタイムスリップが終わったんだ」
「そうなんだ」
「だけど、戻ってからも心の穴は塞がらない感覚がずっと残ってて、しばらくの間、モヤモヤしてた」
 志度はまたゆっくりと歩き始めた。私も志度に合わせてまた歩き始めた。降り積もったばかりの雪を踏むと、キュッと音がした。
「それで、25歳に戻って、気がついたんだよ。――過去が変わっていることに。占いのおばさんは変わらないって言ってたけど、変わってたんだよ。日奈子の命日が」
「え、死んだ日が違ったの?」 
 過去が変わってる――。私が死んだ日も変わったんだ。
 
「あぁ。だって、命日なんて絶対覚え違いするわけないじゃん。時間まで覚えてたんだから。なのに1日違ったんだよ」
「もしかして、元々の命日って今日だったの?」
「そう、そういうこと。――俺さ、毎年、日奈子の命日に墓参りに行ってったんだ。それで、いつもみたいに軽く雪かきして、墓石、拭いてたらさ、墓石に刻まれてる命日が違ったのさ。え、と思って、墓参りから帰ってから、昔の手帳取り出して、日奈子が死んだ日を確認したら、やっぱり手帳も命日が違ったんだよね。――それで気づいたのさ。1日ずれてることに」
「そうだったんだ」
「あぁ。だから、タイムスリップして戻ったら、日奈子の命日は明日になってた。それで、俺わかったんだ。もしかしたら、日奈子救えるかもしれないって。だって、命日が変わるなら、死なないことにすることもできる可能性あるよなって思ったんだ。それで、またおばさんに5万円払ってタイムスリップさせてもらったんだ」
「――未来、変えられるかもしれないね。私達」
「あぁ。日奈子もそう思って、もう一回、タイムスリップしたんだろ。絶対、二人で生きよう」
 冷たい風がブワッと吹いた。風で遊歩道に積もっていた雪が舞い上がった。そして、あっという間に雪煙になり、白い空間が出来上がった。風が強くて、思わず、私は立ち止まってしまった。私が歩みを止めたから、志度も一緒に立ち止まった。立ち込めた雪煙で遠くの景色は見えない。そして、瞬く間に空の青さがかすかに見えたと思ったら、もう雪煙は消えていた。

 何もかも消えてしまって、志度もこのまま消えてしまうんじゃないかと思った。横を振り向くとしっかりと志度が隣にいた。
 


78


 小樽運河の遊歩道を抜けて、日銀通りを小樽駅方向に歩くことにした。日銀通りは昔「北のウォール街」と呼ばれていて、日銀通りに沿って、大正時代に建てられたノスタルジックなビルが並んでいる。
 だから、この通りに建っている多くの建物が元々銀行だった建物ばかりだ。低層階は石造りで、高層階は白いタイルで作られていた。入口はギリシャ建築を意識した円柱が何本も建っていて、角がなく、丸みを帯びている。地面とすれすれの位置に小さな窓があり、どうして、こんな作りなんだろうって不思議に思う。そういう西洋モダンな建物がたくさん並んでいるから、この通りだけ、異国な雰囲気が出来上がっている。
 私と志度は旧拓殖銀行と郵便局の前の交差点を渡り、郵便局の前で次の信号が変わるのを待っていた。信号が青になったから私と志度は日銀通りにかかる横断歩道を渡ることにした。横断歩道は凍っていて、慎重に歩かないと滑って転びそうなくらいだった。すでに12時前なのに太陽で道の氷は溶けずにそのままだった。

 クラクションが右側から聞こえた。右側を見ると白い車が、クラクションを鳴らしていることがわかった。日銀通りのゆるい坂道から車が下ってきている。だけど、一向に減速しないのがわかった。――スリップしている。

「志度!」
 私がそう言ったあと、志度は私の背中に手をかけて、私のことを前へ押し出した。そして、私は志度に押し出されて、交差点の中間地点を超えた辺りで、転んだ。私は左肩から、転んだ。左腕を軸にして前に滑ったのがわかった。鈍い痛みだ。私は、志度の方を見ると、志度が立っていたはずの場所に白い車が止まっていた。



79


 私は病院の処置室の前のベンチに座って、待っている。今回も同じだ。志度と私は救急車で運ばれた。私はどこも怪我はなかった。ただ、左腕にあざができて、少しだけ痛むだけだった。病院の廊下は消毒とビニールの匂いが混じっていた。運ばれたこの病院は古臭く、塩化ビニールで出来た床は灰色で、所々ワックスが剥がれていた。床の色の所為で、ずいぶんと暗い印象を受け、それが私の気分をさらに落ち込ませた。
 しばらくして、処置室の引き戸が開いた。看護師が扉を開け、どうぞと言っていた。扉から男の人が出てきた。志度だった。私はベンチから立ち上がり、志度の方へ行った。志度の額にはガーゼがついてた。
 
「3針縫った」
「痛そう」
「超痛いよ。マジで」
「――生きてる?」
「死ぬかと思った。――だけど、生きてる」
 志度がそう言ったあと、私は志度に抱きついた。

「――ねえ、志度。私の身代わりになるとか、私を救うとか、そういうこと、もう考えないで」
 そう言い終わったあと、右目から涙が頬を伝ったのを感じた。そのあとすぐに何粒の涙が続けて出てきた。

「ごめん。悪かった」
 志度は私の背中に手を回し、抱きしめた。

「バカでしょ。何回も言わせないでよ。――二人で一緒に居れたら私はそれだけで十分なの。――だからお願い」
「――わかった」
「志度。私にとって、あなたはとても必要なの。ずっと――」
 そう私が言っている途中で志度は私が破裂するんじゃないかって、力で抱きしめた。志度の右腕でぐっと私の身体は、より志度の左肩へ引き寄せられた。ウールのコートの匂いがした。
 
「ずっと、一緒にいような」
 背中で感じる志度の両手は暖かく、肩は筋肉質でしっかりと硬かった。




80


 結局、私と志度が病院に運ばれて、病院を出る頃には、時計の針は15時を回っていた。本当はルタオでケーキを食べるはずだったのに数時間を病院で過ごしてしまった。病院を出るとすでに日はオレンジ色になっていて、あと1時間もすれば日没が訪れる弱々しい太陽だった。冬至前の寂しい感じがすでに出ていた。

「志度、そういえば、今日、バイトなんじゃないの?」
「いいよそんなの。怪我もしてるし。さっき、電話したんだ。日奈子がトイレ行ってる間に」
「そうだったんだ」
「こっちはさ、怪我してるのにめっちゃ怒られたよ。オーナーに。俺に何時間働かせる気なんだって言われた。俺のことコマとしか思ってないよな。普通、大丈夫? とかさ、なんか嫌になっちゃうよね」
「えー、酷いね。上司に恵まれてないね」
「まあね。ってことで、仕切り直しにルタオ行こうぜ」と志度はそう言って、ニコッと笑った。




81


「美味しい。最高」
 私はドゥーブルフロマージュを一口食べたあとそう言った。ドゥーブルフロマージュを口に入れた瞬間、とろけてミルクの甘さが口いっぱいに広がった。ゆっくりそれを噛むと、レアチーズの甘さとベイクドチーズの酸味、風味が口の中で立ち、それだけで幸福な気持ちになった。 
 病院からルタオのカフェまでタクシーで移動した。病院は思ったほど、離れていなくて、ワンメーターで行くことができた。カフェの中はほとんど満席に近かった。私と志度は窓側の4人席に座っている。テーブルの上には白いお皿に乗ったドゥーブルフロマージュ2つとコーヒーとカフェオレが並んでいる。

「やっぱ、何回食べても美味いわ」
 志度はそう言いながら、フォークでドゥーブルフロマージュを掬い、口の中に入れた。しばらく、私と志度は黙々とドゥーブルフロマージュを食べた。さっきの事故なんてまるでなかったかのように食べ続けた。私と志度はほぼ、同じくらいに食べ終わった。ドゥーブルフロマージュを食べ終わって、志度を見ると志度は微笑んだ。
「美味しかったね」
 志度はそう言ったあと、コーヒーを一口飲んだ。

「うん、最高だった。あそこで帰らなくてよかった」
「やっぱり、小樽に来たら、これ食べて帰らないとね。後悔するよ」
「だよね。――事故からのギャップがヤバいね」
「あぁ。死ぬかと思った。マジで。ホント、殺しにかかってるよな。俺たちのこと。――こういうのお祓い行ったらどうにかなるのかな」
「お祓いでどうにかなったら、私達のどっちかが、死んでないよ。たぶん」
「そっか。多分、今日って、最高に不運な日なんだろうな。だって、こんだけ事故りそうになるんだよ?」
「もう、一回、事故ってるけどね」
「あ、そうだった」
「――ねえ、痛い思いさせて、ごめんね」
「ううん。日奈子が無事でよかった」
「結局、志度は私のこと守ってくれたね」
「――当たり前じゃん。日奈子のこと、守り抜くよ」
「――志度」
「なに?」
「死なないでよかった」
 私はそう言ったあと、また涙が溢れそうになった。だけど、口をつぐみ、力を入れ、泣くのを我慢した。




82


 ルタオを出て、小樽運河の方へ歩き始めた。志度は左手で私の右手を握って、そのまま私の右手も一緒に志度のコートのポケットの中に突っ込んだ。日はとっくに沈んでしまって、夜になっていた。
 片側3車線の大きな道路が等間隔で置かれた街灯でオレンジ色に照らされていた。道路は雪で白いから、雪がオレンジ色の街灯を反射して、道路だけぼんやりとオレンジ色の世界になっていた。
 さっきより、気温は下がっているのがわかった。凛とした冷たい空気が顔や耳を一気に覆った。15分くらい黙々と歩くと、小樽運河が見えてきた。運河は昼間見た景色とは違った。
 私達は、観光案内所の前にある広場に着いた。広場の欄干に手をかけて、運河を見ると、青色LEDの電飾が、運河に沿って一直線に光っていた。奥に見える橋の欄干にも同じように青くなっていた。
 運河の遊歩道沿いに等間隔に並んでいるガス灯も同じように青色の電飾がされていた。ガス灯のオレンジ色の光と青色LEDの淡い光が運河の水面に反射して、とても幻想的な世界になっていた。
 
「写真撮ろう」
 志度はそう言って、携帯を取り出した。そして、私の背中に左手を回して、右手で携帯を操作して、自撮りした。
 
「私も」
 私はそう言ったあと、自分の携帯をバッグから取り出し、志度の背中に右手を回し、左手で携帯を操作して、自撮りした。 
「よし、遊歩道行くか」
 志度はそう言って、私の右手を繋いで、また歩き始めた。広場から、階段を降りて、運河横の遊歩道に入った。遊歩道はガス灯のオレンジで照らされていた。間近でみる青いイルミネーションはやっぱり綺麗だった。

「なあ、日奈子」
「なに?」
「今、ふと思ったんだけどさ、俺ら、今日寝れないな」
 志度がそう言ったあと、私は黙ってしまった。私はよくわからなくなった。このまま、元の世界にタイムスリップして戻るわけがないと自然に思っていたから、そのことについて何も考えていなかった。
 
「――日奈子?」
 志度はそう言って、私の方を見た。

「嫌だよ、私。戻りたくない」
「俺もそうだよ。――だけど、タイムスリップは本来、2回寝たら戻るって言われただろ。占いのおばさんに」
「そうだけど、私は前のとき、戻らなかったよ。前の世界に」
「そうかもしれない。だけど、それが今回も出来るとは限らないだろ」
「そうかもしれないけど、私は今回も戻らないことを信じてる。――志度は信じきれないの?」
「いや、そういうわけじゃないけど、嫌なんだよ。戻るのが」
「私も嫌だよ。ずっと一緒に居たいよ。このまま」
「だけど、どうなるかわからない。だから、今日は寝ないようにしよう」
「――わかった」
 私はそう言ったあと、ため息をついた。もし、これが永遠じゃなくて、志度が死んだ世界に戻るのであれば、私は戻った世界でどうすればいいのだろう。志度がいないと意味がない。私にとっての世界は志度がいないと何も起きないことはもうわかっている。おまけに17歳から人生、やり直しだ。それもたった一人で。




83



 札幌に戻ってきた。帰りのJRの電車の中では、二人とも無言で、手を繋いだまま過ごした。魔法が解ける前の憂鬱ってきっとこういう感じなのだろう。小樽からどんどん離れていく車窓も寂しかった。真っ暗な日本海が不気味に見えた。途中から、吹雪はじめて、白い雪の粒が斜めに過ぎ去っていった。志度の手のぬくもりだけが今、確かなことのように思えた。
 結局、どこにも行くあてがなくて、地下鉄で地元に戻り、国道沿いのファミレスに入った。とりあえずドリンクバーを頼み、志度はコーヒー、私はカフェオレを飲んだ。窓側の席に座り、トラックとタクシーしかほぼ通っていない国道を眺めていた。雪は本格的に降り始めていた。
 
「ねえ。本当にこれでお別れかな」
「お別れかもしれないね」
「そんなの。――理不尽だよね」
「理不尽だね。――だから、ギリギリまで起きてよう。お互い。オールしてさ、最後の最後まで一緒にいよう」
「私は信じないよ。戻ること。絶対、このまま志度と二人で人生歩むことができるんだよ。――それにプロポーズしたんだから、責任取ってよ」
「当たり前だろ。俺だって、元の世界に戻ること、信じないよ。信じたくない。だけど――」
「だけど、なにさ」
 私はムキになって食い気味にそう言った。

「戻っちゃうかもしれない」
 志度はそう言ったあと、コーヒーを一口飲んだ。

「ねえ、志度。約束して」
「なにを?」
「戻らないってことを信じ切るってことを」
 私はそう言ったあと、右手の小指を志度の方に差し出した。志度もそっと右手の小指を出し、私の小指に結んだ。
 
「わかった。信じ切るよ」
 志度はそう言ったあと、右手を何度か揺らし、指切りをした。




84


「私、不眠症なんだよね」
「――マジで?」
「そう。結構前から」
「それって、もしかして俺が死んでからのこと?」
「うん。そうだよ。志度が死んでから上手く寝ることができなくなったの。私。睡眠剤飲んでだましだまし寝てたな。25歳のとき。」
「仕事とか、きつかったんじゃない?」
「うん、すごいしんどかったよ。酷い時、睡眠時間1時間くらいで仕事行ったこともあったな。今となっては遠い過去だけどね」
「――そうだったんだ」
「うん。私の人生ね、全然上手くいかないんだ。毎日、ふらふらだったな。だけどね、1回目タイムスリップしたとき、久々にゆっくり寝ることができたんだ。どうしてかわかる?」
「どうして?」
「志度が生きていたからだよ。志度が生きてたから眠れたんだよ。あの日だけ。それで、次の日に志度が死んだでしょ。そのあとから、またすぐに不眠症になったの。眠剤飲まないと寝れなかったの」
「俺が生きていたら、日奈子は不眠症にもならなかったんだろうな」
「うん。私もそう思う」
「ホント、どうしてこうなったんだろうな。なんで、片方が死ななくちゃならなかったんだろうな。――生きていたら、そんなことにならなかったのにな」
「ホントね。私達、経験しなくてもいい経験をしてるのかもって、思っちゃう。――私ね、志度が死んだこと、本当に深い傷になってたんだと思うんだ。その傷がずっと癒えなかったから、志度が死んだ10年、私の人生歩むことができなくなったのかもしれないね」
「日奈子、もう、そんな思いさせないから。これからの10年、絶対、お互いに楽しくなるよ。日奈子が経験した25歳とも違うし、俺が経験した25歳とも違う結果になってるよ。きっと。だから、夢で終わらせないようにしよう」
「うん。だから、今日はさ、私が眠らないように監視して」
「いいよ。俺のことも監視しろよ」志度は笑いながらそう言った。
「うん。絶対に寝かせないから」と私はそう言って、笑った。

「こういうとき、酒欲しくなるよな」
「うん。飲もうよ。ねぇ、一杯おごって」
「なに飲む?」
「ハイボール」
「やるな」
 志度はそう言って、呼び出しボタンを押した。
 ハイボールが入ったグラスが出された。店員は私と志度が未成年であることを疑いもせず、そのまま酒を出した。お金さえ払えば、大体のことは多目に見てくれる。そういう暗黙のルールで社会は回っている。目の前にグラスがもうあるんだから、すでに私達の責任ではないと思った。
 志度とグラスを合せた。グラス同士がゆるく触れた音がした。志度は慣れたようにハイボールを飲み始めた。私もハイボールを口に含んだ。安いウイスキーの苦味と炭酸を口の中で感じた。ハイボールを飲み込むと食道がアルコールで熱くなるのを感じた。
「さすがにファミレスだから、酒なさすぎだよな」
「飲むところじゃないからね」
「安いワインか、ビールか、ハイボールだったら、やっぱハイボールだよな」
「そうだね。私もそう思った」
「お酒、一緒に飲むの初めてだな」
 志度はそう言ったあと、もう一口ハイボールを飲んだ。
 
「そうだね。志度と飲みたかった」
「俺もだよ」
 志度のグラスはもう残りわずかになっていた。
「ピッチ早くない?」
「こんなもんでしょ」
 志度はグラスを飲み干して、呼び出しボタンを押した。 
「なんかさ、早く酔いたくなった。むしゃくしゃして」
「ちょっと、一人で飲んでるわけじゃないんだからさ、先に勝手に酔わないでよ」と私はそう言って、笑った。 
「俺、結構強いから、最初から飛ばさないと酔わないのさ。だから許して」
「いいよ。信じるよ」
「ありがとう。いい子ちゃんじゃないから、どんどん飲むわ」
 志度がそう言ったとき、店員が来た。志度はまたハイボールを頼んだ。

「なあ」
「なに?」
「楽しかったな。今日」
「うん、楽しかったね」
「こんな気持ちになれてよかったよ」
「うん、私も」
「これからもずっと、一緒にいよう」
「もう、当たり前でしょ。――結婚してくれるんでしょ?」
「うん。本当は今日、区役所に行って、婚姻届出したいくらいしたいよ」
「まだ出来ないのにね」
「俺が18になってないからな」
 志度がそう言ったあと、おかわりのハイボールを店員が運んできた。

「ねえ」
「なに?」
「お酒飲んで、おでこ痛くないの?」
「うん、痛いよ。今。縫ったところズキズキする」
「そうだよね。そう思った」
 私はそう言って、笑った。

「いや、笑い事じゃないからね。痛いもん」
 志度はそう言って、笑った。
「なあ、日奈子。俺がもし、あの時、死んでたらどうなってたんだろうな」
 志度はそう言って、ハイボールを口づけた。
「――もう一回、タイムスリップしたかも。今度は小樽になんか行かないで、安全なところで二人でいい子になって閉じこもるの」
「冬眠するクマみたいだね」
「うん。危険な日は冬眠するんだよ。そして、そっと災難がすぎるのを待つ。――そういうことしてたかもしれないね。だけど、次、タイムスリップしても、25歳の今の志度には会えないかもしれないね」
「そっか。25歳の俺が死ぬわけだからね」
「そう。そういうこと。結局、タイムスリップしても頭の中、ぐるぐるするだけだったかもね」
 私はそう言ったあと、ハイボールをごくごくと喉に流しこんだ。食道が一気に熱くなるのを感じた。

「だから、今日、志度が死ななくて本当によかった」
「あぁ。俺もそう思ってるよ。このくらいの怪我で済んでよかったわ」
「痛そうだったけどね。――あの時、私を守ってくれてありがとう」
「ううん」
「志度が死ななくてよかった。死なれたら困るよ、私。また、何も面白くない人生を過ごすことになるんだから」
 私は泣きそうになるのをごまかすためにハイボールをまた一口飲んだ。

「なあ、日奈子」
「――なに」
 私がそう言うと志度は両手で私の左手を握った。

「いいか、よく聞けよ。ずっと一緒にいよう。どんなアクシデントも今日みたいに乗り越えよう。そして、二人で幸せを掴もう。思いのままに」
 志度の目が少し潤んでいるのがわかった。私は残された右手で志度の手をさらに握った。我慢できなくなった涙が一粒流れ出した。そして次々と涙が溢れ、頬を伝った。
「ごめん。泣いてばかりだね」
 私は感情の波がおだやかになってからそう言った。
「泣いてもいいよ」
「あ、ズルい。自分は我慢して泣かないくせに」
 私は笑ってそう言った。口角を上げたとき、まぶたが腫れぼったくなっているの感じた。

「俺は絶対、泣かないから。日奈子のハイボール、もう氷溶けて薄まってるよ」

 志度はそう言ったあと、ハイボールを一口飲んだ。
「私ね。ずっとこうしたかったの」
 頭がカクンと下がった。そして、一瞬寝そうになっていたことに気づいた。

「――日奈子?」
「志度と。ずっと、こうして――話したり、一緒にいたかった」
 意識が朦朧とする。頭の中が空っぽになっていく感覚が襲ってきた。
 
「俺もだよ」
「ずっとね。――もう、戻りたくないよ。――志度。離さないって言って」
「離さないよ。日奈子」
 志度はそっとした声でそう言った。私はそれを聞いたあとテーブルに突っ伏した。セーターの袖はすぐに涙で滲みた。吸い込まれそうな腕の中の暗黒は、私の意識が現実なのか仮想なのかわからない心地よさを誘った。

「おい、日奈子。寝るなよ」
 志度の声が聞こえる。私の意識は穏やかに闇に向かっている。
「おいって。――起きろよ。日奈子。寝るな。――マジかよ」

 志度は、何度も私を揺さぶってきている。だけど、全然、体勢を起き上がることも出来なかったし、どんどん志度の声が遠くなっていくのを感じた。 
「日奈子。――ありがとう。――ずっと、大好きだよ」

 志度の声が泣き声になっていた。
 ――泣かないって言ってたのに。
 嘘つき。




85



「戻ってきたね」
 私は右側を向くと占いのおばさんが立っていた。サリーはオレンジだった。私は大きく息をはいた。息をはききると、虚無感がぐっと襲ってきた。何もない、何もかも終わった――。
 
「終わったんだ」
「ええ、終わりよ」
「何もかも――」
「どう? 気分は」
「最悪です」
「そう。辛いこと言うようだけど、これが現実なんだから仕方ないことだよ。人間、抗うことが出来ないことがほとんどなの」
 おばさんは、腕組をしたまま、微笑んだ。
 
「――私にとって、この世界は何もないことが十分にわかりました。これからの人生もきっと、失望したまま生きることもわかりました。それくらい、心の中が空っぽです。私、もう、生きていく気力ないかもしれません」
「そうは言っても、人間生きなくちゃいけない。どんなにじっとしていてもお腹は減るし、嫌でも食べたり飲んだりしなくちゃいけない。――それが現実を受け入れるってことなのかもしれないね」
 おばさんの声以外、何も音がなかった。この部屋も空っぽだ。私かおばさんが話すたびに声が不自然に響いた。この部屋はまだ夢のつづきみたいな、そんな現実感のなさだ。

「――だけど、私、わかったことがあるんです。実はこの椅子を使えば、人間、運命に抗うこともできるって。だから、2回目のタイムスリップしようと思ったんです。それで実際にタイムスリップして、抗うことができました。簡単です。そんなの。私は彼がいない世界では生きていけないし、彼がいない世界を望みません。彼がいる世界でしか私は幸せになれない。なら、その世界に留まればいい。そういうことです」
 私がそう言ったあと、しばらく沈黙が訪れた。おばさんは私のさっきの話を本当に聞いていたのか不安になるくらい、不自然に時間が流れていった。
「あなたにいいこと教えてあげる。――この椅子はね、実はタイムスリップする装置ってわけではないんだよ」
 おばさんは冷たく冷静な声でそう言った。

「どういうことですか?」
「私はこの椅子に座るときに行きたい過去のことをイメージしてって言ったでしょ。そのときあなたはどうなっているかと言うと、過去の世界に意識が行くの。これがタイムスリップよね。だけどね、本当はこの椅子って、自分が作り上げた世界に行くことが出来る椅子なの」
「え、よくわからないです」
 私がそう言うと、おばさんは察しが悪い子ね。と言いたげな表情で続けて、こう言った。
 
「つまり、さっき、あなたが言った通りよ。答えはあなた自身で出したじゃないの。――自分の人生、こうしたいと思った世界を新たに作ってくれるってこと。だから、死んだ人が死ななかった世界の中で、自分が生きたいと思ったら、その世界に行って、人生を作り直すことができるの」
「え、だけど、2回寝たら、元の世界に戻っちゃいますよね?」
「あれもね、私がそう言っているだけで、本当はそうならないの。みんな、私の話を聞いて、2回寝たらタイムスリップが終わるんだと思うから、椅子はその通りにしてくれるってだけのことなの。だから、私の話を無視した人はタイムスリップしてもその世界に留まり続けることができるってことよ」
「――そうだったんですね」
「そう。そしてね、あなたもその一人なの。多分、もう二度と私に会うこともないでしょうし、今までみたいな暗い人生は歩むことはないでしょう。おめでとう」
「え、どういうことですか?」
「それは自分で体感してみな。おばさんは応援してるからね」
 おばさんの方を見るとおばさんは優しく微笑んでいた。目尻の皺の本数、深さがより優しい印象を受けた。

「さあ、目を閉じて」
 私は言われるがまま、そっと目を瞑った。



 
86



 揺すられて目が覚めた。座ったまま寝ていた。右肩を軽く揺すられている。まだ瞼は重く、首を起こす気にもならないくらい眠かった。それでも無言で何度も右肩を揺すってくる。私は右手で揺すっている相手の手をつかもうとしたが、右手は自分の肩にあたった。そして、また、何度も右肩を揺すられた。
 私は左腕を枕にしていた。左腕は軽くしびれている。首を上げ、身体を起こした。そして、右側を見ると志度が立って笑っていた。私は思わずにやけてしまった。志度が右肩をポンポンと軽く叩いたから、首を右にひねると志度の人差し指があたった。そのあと志度の笑い声が聞こえた。
 窓の外は夜明け前の青さだった。雪はやんでいて、すでに歩道を歩いている人が何人かいた。

「おはよう」
 志度の声だ。
「おはよう」
 私は初めて志度に起こしてもらった。私は立ち上がり、ドリンクバーに行った。そして冷たい烏龍茶を取り、席に戻った。

「なあ」
「なに?」
「ずっと一緒にいれるな」

 志度はそう言って、微笑んでた。志度の表情を見て、私は生きるってこういうことなんだと思った。