「伊織くんのことが好きだよ」

 一見ハーフかと見間違えるほど整った顔立ちをした彼が伊織を真っすぐ見つめてそう言った。
 同じ男から見ても格好良い彼に至近距離で見つめられ、しかも熱の籠った視線を向けられてはいくら恋に疎い伊織でもときめかざるを得なかった。
 周囲はこれがドラマの撮影、バラエティー番組の企画だとでも思っているのだろうか。これはプライベートだというのに二人を大きく避けるように丸い円を描いて二人を遠巻きに見つめている。
 彼の背後にあるファッションビルの大型ビジョンが切り替わり、まるで図ったかのようにアイドルである彼の姿を映し出した。
 私服とは違い王子様ルックのキラキラした衣装に身を包んだ彼が優しい笑みを浮かべマイクを掲げている。その笑顔でこちらに向けて指でハートを作るファンサービスを背景に今現在の本人は真剣な表情で伊織を見つめている。
 アイドルの彼とプライベートの彼、二人に見つめられて伊織の心臓は破裂しそうなほど高鳴っている。
 大観衆の中伊織に告白をしているのは大人気アイドル“NoR”の八鳥理聖だ。





 “マッチング成功!”

 という文字が画面に映る。
 画面の中で無駄に派手で奇抜なグラデーションの掛かるゴシック体のその文字がまるでお祝いされるかのようにクラッカーのイラストと共に踊っていた。それはあまりにも安っぽい演出だがなぜかそれを見ていると心が躍るような気がした。
 画面をスクロールして下に行くとマッチング相手の顔写真と名前が表示されている。
 画面に映し出されている写真はただの適当な自撮り写真でもなければ素人が撮った遠目で無駄に凝ったスナップ写真でもない。もちろん駅前で七百円程度で撮ることができるインスタント証明写真でもない。それは間違いなくプロのカメラマンが専用のスタジオで時間を掛けて撮った宣材写真だ。
 彼は見覚えのある男だった。
 金色の髪はさらさらでそういえば今朝家を出る前にシャンプーのテレビコマーシャルで彼を見たばかりだ。
 同じ男から見ても、格好良い、と思える男だ。
 伊織は眠気眼を擦りながらも寝る前にこれだけはしておかなければ、とスマートフォンを握る。
 帰りの車の中でマネージャーの西木にしつこく催促され、車を降りたところでも今日はこれを終わらせなければ仕事が終わりませんとまで言われてしまっている。
 伊織は画面に表示されている彼の名前の文字をメールの文章にコピーアンドペーストするとマネージャーに宛てて送信した。
 これでようやく今日の仕事も終わりだ。一安心した伊織はベッドに大の字で横たわると目を閉じた。





 氏名、生年月日、住所、電話番号、推し。
 コンビニエンスストアにも売っている標準的な履歴書にもその欄が必ず記載されるようになってからもう何年も経つ。

 “推し”は今や社会において必須項目となっていた。

 推しが必須となった世の中、自分で推しを決められない人はマッチングサービスを使っている。それは簡単なプロフィールを入力して、いくつかの項目にチェックを入れて進めて行けばAIが自分の好みに合う、絶対に推せる推しを紹介してくれるというサービスだ。





 遮光性の低いカーテンはしっかりと閉め切っていても朝日が抜けて部屋に入りこむ。そのカーテンとは高校時代からの仲だ。無駄に日当たりの良い部屋の中が明るくなってきても伊織の目が覚めることはない。
 昨晩夜遅くに帰宅し、今日は昼過ぎからの仕事だ。まだ起きるには早い。
 そう思っていた橘伊織だったが昨晩手に握りしめたままだったスマートフォンがぶるぶると震え、大音量の着信音を鳴らし始めた。
 「うわっ」
 残念なことに寝起きは良い方だ。スマートフォンをシーツの上に投げたが手にバイブレーションの名残が残ってしまった。その上それは鳴り止むことなくシーツの上で震え、音楽を流し続けている。
 伊織は諦めてスマートフォンを拾い上げた。
 「もしもし」
 画面に映し出された発信元は同じバンドのメンバーである中川瑛大だった。
 『急いでテレビ見ろ!』
 「テレビ? なんで? どのチャンネル?」
 『どのチャンネル付けてもやってる! いいからテレビ付けろ!』
 寝起きに耳元での大声は堪える。
 伊織はなるべくゆったりとした動作でベッドから降りる。するとまるでその動きを瑛大に見られていたかのように、早く、とまた急かされた。
 「わかったよ、今付けるって」
 面倒臭そうに答えながら伊織はテレビのリモコンを目で探し始める。いつもならばテーブルの上に置いているはずのそれが今は定位置に見当たらなかった。伊織がリモコンを探している間にも瑛大が、急いで早く、と急かす。
 狭いIKの室内をキョロキョロと見渡すとそれは呆気なくテーブルの下に見つかった。こういう時に部屋が狭くて良かったと思う。
 テレビを付けるとチャンネルは昨日の朝に見た5チャンネルだった。そして画面が映ると同時に画面いっぱいに自分の宣材写真が映っていた。
 「は?」

 ロックバンド“rise”でギター&ボーカルを務める橘伊織さん。

 紹介はそれだけではない。

 神奈川県出身の現在二十二歳。好きな食べ物は家系ラーメン、嫌いな食べ物はブロッコリー。趣味はガチャガチャ。両親ともに教師を務める家庭に生まれ、一人っ子。幼い頃はとてもやんちゃで、毎日幼稚園の園庭にある木に登っては……。
 とキャスターに事細かに紹介されているのは間違いなく自分――橘伊織のことだ。
 中学時代に友人たちと組んだバンド“rise”はメンバーそれぞれの頭文字を取って中川瑛大が付けた、と豆知識まで披露されている。
 所属バンドの紹介だけでなく、出生、幼い頃の思い出、学業の成績、部活動の内容まで語られていることに伊織はただただ驚くしかない。
 しまいには中学時代の同級生だという全く覚えのない人のインタビューまで添えられていた。
 「なん、だよ、これ……」
 5チャンネルから4チャンネルへ、6チャンネル、7チャンネルとチャンネル変えてみるどのチャンネルでもなぜか自分の特集が組まれていた。唯一の良心は国営チャンネルと通販チャンネルだけが通常通りつまらない番組内容を送っている。
 「え? 俺何かしたっけ?」
 事件事故を起こした覚えはもちろんない。かといって結婚もしてないし交際もしていない。仮にしたとしても悲しいことにこんなに大々的に取り上げられるほどの知名度は今の自分にはなかったはずだ。
 なぜなら伊織のバンドは数日後にメジャーデビューを控えており、まだその知名度には達していないからだ。
 電話の向こう側で瑛大が大きな声を上げていた。彼の背後からはテレビの音が聞こえる。どうやら彼は伊織と同じチャンネルを見ているらしい。こちらと向こうの音が少しずれて聞こえるのは不思議な感じで頭がおかしくなりそうだ。
 今は事細かにバンドの話をしてくれていた。これは良い宣伝になる、と思ってしまった現金な自分がいる。
 「伊織、お前“NoR”の理聖とどんな関係なんだよ!?」
 その言葉に伊織は首を傾げる。

 “NoR“の理聖。

 寝起き、そして起きて早々の騒動にうまく回らない頭で伊織は考える。そして伊織が“理聖”を思い出す前にテレビ画面が彼の姿を映してくれた。
 八鳥理聖、大人気アイドルデュオ”NoR“の一人。爽やか王子と呼ばれている言葉通り、人当たりの良い爽やかな笑みを浮かべている写真が映る。
 金色の髪と形の良い眉、色素の薄い瞳。
 「八鳥……理聖……」
 伊織にはその名前に覚えがあった。



 メジャーデビューに向けて、公式ホームページに載せるプロフィールに“推し”を載せなければいけないとマネージャーから言われていた。
 いまいち他人よりも“推し”に関心がない伊織は今までは周りに合わせて古いロックバンドを上げていた。
 しかしメジャーデビューで多くの目に晒されるということでもっと真剣に考えるようにと言われてしまったのだ。
 突然誰かを推せと言われてもそう簡単にできるものではない。中学の時からずっとバンド一筋だった伊織はスポーツにもバンド以外の音楽にも酷く疎かった。
 バンドメンバーのプロフィールを見てそれぞれの推しを検索してみるがピンとくるものはない。
 いつも“推し”にしていた古いロックバンドの音楽を聴き直してみるが、とても良いとは思うがこれが“推し”かと問われると違和感を覚える。
 いくら考えても一向に思いつかない伊織は悩んだ挙句、最終手段である国営の推しマッチングサービスを利用することにした。
 そして彼が伊織の“推し”に選ばれた。
 絶対的信頼のおけるマッチングサービスが言うのだからきっと彼が伊織の推しとなるのだろう。伊織は画面に映る彼のことをよく調べることもなくマネージャーに新しい“推し”を伝えた。
 そしてマネージャーは公式ホームページの伊織のプロフィールにそれを載せただけのはずだ。

 必須項目を入力しておすすめされたのが”NoR”の八鳥理聖だった気がする。

 八鳥理聖、彼は伊織の推しになった人だ。



 だからなのか。いやだがしかし、メジャーデビュー目前の未だ売れていない(自分で言って空しくなるが)ロックバンドのギターボーカルのプロフィールがこんなに騒がれるはずがない。
 なんでこんなことに、と伊織がぐるぐると考えている間も瑛大と電話は繋がっているし、番組は進んでいく。
 「まさかの相思相愛! いかがですか、コメンテーターの皆さん」
 興奮気味にキャスターが言ったのが聞こえた。伊織は思考を止めてたった今聞いた言葉を繰り返す。
 「相思相愛……?」
 「八鳥理聖がなんでお前を推してるんだよ」
 電話の向こう側で瑛大が言った。

 八鳥理聖が俺を推している。

 その言葉に伊織は覚えがない。

 急いでスマートフォンでNoRの公式ホームページを検索するが検索画面からなかなか画面が切り替わらない。
 画面をリロードする度に 『アクセス集中のためお繋ぎできません』の文字を見送る。
 「NoRのホームぺージ、全然開けねえっ」
 『俺、スクショ画面持ってるから今送……』
 そう言って瑛大が画像を添付してメッセージを送信しようとした瞬間、テレビ画面にフリップが映し出された。
 「今回話題になっているのはこちらです」
 キャスターがそう言って二枚のフリップを並べる。それは伊織と理聖のプロフィールだ。
 あまりにも顔が良い男の隣に自分の写真が並ぶのはなんとも居心地が悪く、伊織は顔を顰めながらも画面を見つめる。

 橘伊織
 十一月三十日生まれの二十二歳。神奈川県出身。

 八鳥理聖
 二月一日日生まれの二十一歳。東京都出身。

 キャスターが「ここ!」と興奮した声を上げて指差したのは推しの欄だ。

 八鳥理聖(NoR)
 橘伊織(rise)

 伊織の推しの欄には理聖の名前が書いてあるのは昨晩マネージャーが早速伊織のプロフィールを更新してくれたからだろう。
 しかし問題なのは理聖の推しの欄だ。そこにはなぜか伊織の名前が書かれていた。
 最初伊織は自分の名前を読むことが出来なかった。画面に顔を一気に近づけてようやく伊織は理聖の推しに自分がなっていることに気付いた。
 「はああああああぁあ!?」
 電話の向こう側で瑛大が「うっせええ!」とほぼ同時に大声を上げ、どうやら勢いでどこかのボタンを押してしまったらしく電話が切れてしまった。
 伊織はキャスターの言う相思相愛の意味をようやく理解した。
 伊織の推しは理聖で、理聖の推しは伊織。お互いを推し合っているのは確かに相思相愛と言える。そしてこの互いに推し合うということがいかに特別な意味を持つか伊織はよく理解していた。


 お互いに推し合うことは特別な意味を持つ。

 それは結婚と同義だ。


 未だ手の内にあったスマートフォンの着信がまた鳴る。電話が切れた瑛大からかと思って画面を確認すると今度はマネージャー・西木からの電話だった。
 「もしもし」
 『伊織くん!? ニュース見た!? どういうこと!?』
 どうやらマネージャーも瑛大と同じらしい。
 「俺の方が聞きたいですよ! どうなってるんですか!?」
 『とにかく今すぐ事務所に来てもらえる!? riseのみんなにも召集掛けるから』
 マネージャーの背後からは鳴りやまぬコール音が聞こえていた。どうやら事務所も今回の推し騒動で大変なことになっているらしい。
 今すぐ、と再度念押しするとマネージャーは他のメンバーに連絡を入れるために直ぐに電話を切ってしまった。
 「はぁ……」
 伊織が大きなため息をつくと同時にテレビ画面一面にパッと理聖が映し出される。どうやらそれはライブ映像らしく、爽やかな笑みを浮かべた彼がファンたちに手を振っていた。彼に手を振られたファンたちの黄色い悲鳴が大きく響く。
 「……早く事務所へ行かなくちゃ……」
 伊織は立ち上がるとその場に寝間着のジャージを脱ぎ捨て、クローゼットを開けた。
 今すぐ、というマネージャーの言葉と背後に聞こえたけたたましくなる電話の音を考えると悠長に朝食を取っている場合ではないのかもしれない。そう考えると伊織は特にコーディネートに悩むことなく適当なパーカーとパンツに着替えを済ませ、最低限に寝ぐせを整えると玄関のドアを開けた。
 「あっ」
 と外に一歩踏み出したところで声を上げて中に戻ると念のためとキャップとサングラスとマスクを装着して再度外に出る。
 マンションから出た瞬間、向かいから歩いてきた二人組の女子高生の口から“理聖”という単語が聞こえた。伊織は身体を縮ませながら聞き耳を立てる。
 「理聖の推しが女性アイドルとか女性タレントじゃなくてほんとよかったー。女だったらめっちゃ嫉妬してた」
 よかった、と彼女はほっと胸を撫でおろしているようだった。
 「推しってつまり愛ってことだもんね」
 女子高生たちの会話に伊織の心臓はバクバクと嫌な音を立てる。
 彼女たちが言うには、推しは愛、らしい。今まで推しに関心がなく、特別推しがいなかった伊織にはその感覚はよくわからなかった。
 駅まで徒歩十五分の道のり、駅が近づくにつれて行き交う人は増えていく。そして雑踏に混じって徐々に理聖と伊織の話をしている人も増えていった。
 「NoRの理聖が……」
 「理聖くんが……」
 と言っても皆が話題にしているのは彼の推し側である伊織のことではなく理聖のことばかりだ。聞き耳を立てて周囲の話を聞いてみると中には彼の推しである伊織の名前さえ知らない、覚えていないという人ばかりだった。
 いくら朝のワイドショーであんなにも取り上げられていたとしても未だメジャーデビューをしていない伊織への関心などそんなものだ。
 周囲に正体をバレることなく駅にたどり着き、無事電車に乗り込む。比較的空いている最後尾車両に乗ると端の席に腰掛けて念のためキャップの鍔を目深に下げた。
 そして伊織はスマートフォンを取り出すとSNSを開く。
 「ゲっ」
 思わず小さな声が漏れた。直後近くの乗客たちが揃って伊織に視線を向けた。伊織は慌てて誤魔化すように咳ばらいを数回するとなるべく下を向いて画面をスワイプしていく。
 所属バンドの公式アカウントを開くと同時に汚い言葉が並んでいるのが見えた。それらの送り主は全て初期アイコンでアカウント名も適当な捨てアカウントからで、あることないこと誹謗中傷コメントがバンドアカウントに向けて送られていた。
 「うわっ」
 そのあまりの酷さに思わず伊織はまた小さな声を上げた。その声はちょうどトンネルに入る轟音のお陰で隣に座る女性にしか聞こえていなかったのが幸いだ。
 恐る恐る個人アカウントを開いても同じような状況で辟易する。
 個人の方にはいわれのない誹謗中傷だけでなく昔からのファンからの「人気アイドルに媚を売るとは思わなかった」という辛辣な言葉が投げかけられておりそれが何よりも伊織の胸を深く抉る。
 
 人気アイドルに媚を売ったつもりはない。

 心の中でそう否定すると悲しさよりも怒りが沸々と湧いてくるような気がした。

 その一方でエゴサーチをすると「理聖が好きなんだから良いバンドに決まってる」「理聖が好きなものはみんな好き」という肯定的な意見も見えるのだからもう伊織は何がなんだかわからなくなっていた。
 伊織は自身の個人アカウントを開き直して文字をタップしていく。

 謝罪、弁明、反論、無視。

 いろんなパターンの文章を打っては消していく。
 今はきっとどのパターンの投稿をしても意味はないのだろう。
 「はあ……」
 伊織は大きなため息をつくと電源ボタンを押して画面を落とした。
 暗い画面に反射して映るキャップにサングラスにマスク姿の怪しい男には大人気アイドルの推しになる要素が何も見当たらない。
 もしかしたら相手も自分と同じようにマッチングサービスを使った可能性がある。むしろそうでなければ説明がつかないとまで伊織は思った。



 伊織が事務所に着くと既にバンドメンバーは皆揃っていた。
 「遅い!」
 ギターの中川瑛大はタンタンと早いリズムで足を踏み鳴らしている。
 「渦中の人が社長出勤ってどういうこと? やる気あんの?」
 そう言ってニヤニヤと笑いながら面白がっているのはベースの英咲だ。
 「伊織、大丈夫か?」
 唯一伊織のことを心配してくれたのはバンドの良心、ドラムの一之宮蓮司だった。
 「上手く変装してきたし、裏口から入ったから大丈夫。マネージャーもご迷惑おかけしてすみませんでした」
 頭を深々と下げて謝罪する伊織にマネージャーが首を横に振る。
 「こちらとしてもまさかNoRの理聖くんとお互い推しになるとは思ってもみませんでした。そもそも、まさか伊織くんが理聖くん推しとは知らなかったよ」
 「僕も全然知らなかった。伊織、中学の頃からアイドルは全然興味ないって言ってなかったっけ?」
 マネージャーの言葉も咲の言葉も伊織の胸に深く突き刺さる。
 「えっと……」
 視線が宙を彷徨い、意味もなく手のひらで頬を撫でたり唇を隠したりしていると瑛大と目が合った。
 瑛大の唇が、観念しろ、と動いているのが見えた。その言葉に伊織は首を大きく左右に振る。それを見た瑛大は大きなため息をつくと伊織を指差した。
 「こいつ、アイドルなんて今も全然興味ないですよ。そもそもNoRを知らなかった可能性もあります」
 「え!? どういうことなの伊織くん!」
 「……俺も伊織がNoRの話をしてるところは見たことねえな」
 「ちょっ、蓮司まで!」
 唯一の味方だと思っていた最後の良心にも振られ、伊織は大きく息を吐くと意を決して口を開いた。
 「あの、俺、実は……推しマッチングサービスを……」

 “推しマッチングサービス”

 その単語が伊織の口から飛び出た瞬間、一同はしんと静まり返り、その後はそれぞれ異なった反応を示した。
 咲は手元のスマートフォンでサービスを検索するとトップページを見て無邪気に笑った。
 「これ、本当に使う人いたんだ」
 「お前の目の前にいるんだよ!」
 「マッチングを使うほど推しに困ってたのか……言ってくれれば俺の推しを紹介したのに……」
 「悪いけど蓮司の推しは勘弁して」
 伊織は中学時代から蓮司に延々と語られるプロレスの話には疾うに飽き飽きしていた。
 「……俺はマッチング使おうがどうでもいいと思うけど」
 「瑛大……」
 意外に一番優しかった瑛大に伊織は飛びつく。
 「問題なのは、たまたまマッチングされたからよく知らないのに推しにしとこう、っていうところだろ」
 伊織は瑛大から瞬時に距離を取る。猫のように俊敏な動きで部屋の隅に移動した伊織を皆が見つめている。その視線に伊織は大量の冷や汗をかいていた。
 それは図星だった。
 「え? 伊織くん、そうなの!?」
 「えっ、あ~どうかな~」
 また目線を右往左往させる伊織にマネージャーがジトっとした目線を向けていた。
 「……伊織くん、NoRの最新シングルのタイトルは?」
 「えーっと……なんだっけかな……ちょっとド忘れしちゃって……」
 あはは、と乾いた笑い声を上げる伊織にマネージャーの目はどんどん冷たくなっていく。
 「理聖くんの相方の名前は?」
 「あはは」
 「理聖くんの誕生日は?」
 「あー」
 「理聖くんの血液型は?」
 「えっとね……」
 マネージャーだけではなくバンドメンバーの目線さえ冷たい。
 「理聖くんの苗字は?」
 「それは知ってる! 八鳥だろ!」
 「わっ、正解」
 一問正解、と咲がパチパチと拍手を鳴らした。
 「……伊織くん、たまたまマッチングされたからよく知らないのに推しにしたね……?」
 「………………はい」
 ついに観念した伊織はその場に土下座の勢いで頭を深々と下げた。
 「いや、だってマネージャーが急いで推しを教えろって言うから!」
 「だって前に聞いていた推しのレジェンドバンド、伊織くんが推してる気配が微塵もなかったんですもん!」
 確かに以前伊織が推しの欄に書いていた一九六〇年代のロックバンドは教科書に載るほど世界的に有名なだけで伊織は特に円盤を集めたり頻繁に聞いたりだとか特別推しているかのような態度を見せたことはなかった。
 それも昔から推しという観念が他人より薄い伊織がプロフィールに書くためになんとかしてひねり出したものだった。
 「にわか」
 ぼそりと蓮司が言った。その隣で瑛大がうんうんと何度も大きく首を縦に振る。
 「対して知りもしないのに推しにしたってことが世間にバレたら絶対にやばい」
 「えっそんなにヤバイ?」
 「……うーん……NoRはコアなファンが多いって聞くから良い印象にはならないんじゃないかなぁ」
 瑛大を援護するように咲までそう言うのだから伊織はいたたまれなくなり最後の頼みの綱だとマネージャーに視線を送った。
 「マッチングサービスの使用は問題ありませんが結果だけを見てよく知りもしないのに推しにするというのは……」
 この場に伊織の味方は一人もいない。そのことに伊織はがっくりと肩を落とした。
 「と、とにかく! 世間には伊織くんが“にわか”だとバレないようにすればいいんですよ! まずは理聖くんのプロフィールから勉強していきましょう」
 理聖くんのプロフィールをまとめてきます、と言うとマネージャーはメンバー四人を置いて部屋を出て行ってしまった。ドアが閉まると同時に伊織は大きなため息をついてソファに座り込んだ。
 「でもさ、なんで理聖くんは伊織のこと知ってたんだろうね。NoRがriseを知ってるなんてありえないよ」
 咲が自嘲するとそれに対して蓮司は控えめに頷いて見せた。
 まだメジャーデビュー前、インディーズではそこそこ人気があった自信はある。それでも今をときめく大人気アイドルに知られていて、更に“推し”にされるほどだとはメンバーの誰も思ってもみなかったのだ。しかも推しにされているのはバンド自体ではなく橘伊織個人なのだ。それはあまりにも限定的過ぎる。
 「伊織、お前本当に理聖と接点ないのか」
 「咲と蓮司は中学からだけど、瑛大は幼稚園の時からずっと一緒だろ。お前が知らないのに俺が知ってるわけないじゃん」
 実家は隣同士でクラスは幼稚園から高校まで十五年間ずっと一緒。大学も同じ大学の同じ学部でバイト先も同じの瑛大に伊織のことで知らないことはない。
 「あんなにキラキラして顔が良い奴がいたら嫌でも覚えてるだろうし」
 「それは……確かに」
 今朝のニュースを見た直後に理聖について調べていた瑛大は彼が自分たちよりも一歳年下あることを知っている。自分たちの一学年下にそんな目立った人物がいた記憶はない。
 その時ドアが開き、事務所社長を先頭にマネージャーが帰ってきた。
 伊織は勢いよくソファから立ち上がると頭を下げる。
 「おはようございます」
 「おはよう」
 綺麗な黒髪ロングヘア―の社長はいわゆる美魔女と呼ばれている人物だ。疾うに不惑の歳を越えているというのにその見た目は皺ひとつなくあまりにも若い。
 奥の椅子に社長が腰掛けたのを見て目の前のソファに伊織が腰掛けるように促された。マネージャーと残りのメンバーはソファの後ろに立つと皆が緊張した面持ちで社長を見つめていた。
 社長は目の前に座る伊織をじっと見つめる。刺さるような視線から目を反らしたいが反らせない。膝の上で握られている拳がじっとりと汗をかき始めていた。
 「今回の」
 社長が話し始めた瞬間、ドアがノックされた。
 「……どうぞ」
 許可を得てドアがゆっくりと開いていく。そしてドアの向こう側に見えた彼の姿に伊織は慌てて立ち上がった。
 「の、NoRの八鳥理聖……!」
 伊織の言う通りそれは伊織の“推し”である八鳥理聖だった。
 理聖の姿を目の前にして、伊織は心臓が痛いくらいバクバクと高鳴っているのを感じていた。
 もしかしたら“にわか”の分際で推しと書いてしまったことを咎めに乗り込んできたのではないか。メジャーデビュー直前にしてこのバンドはおしまいかもしれない。
 目の前に理聖が現れただけで伊織はものの数秒のうちに最悪のシナリオを頭の中で生み出していた。
 その時、理聖と伊織の目が合った。
 伊織は慌てて目を反らすと所在なさげに足元を見る。その一方で理聖は穴が開くほど伊織をじっと見つめていた。
 「遅くなり申し訳ありません」
 NoRのマネージャーだという男性が伊織たちに律義に名刺を手渡す。見ると彼は、三益という男らしい。
 そして理聖は彼に促されて伊織の隣に腰掛けた。伊織が少し身体を端に寄せると理聖がにっこりと微笑んだ。
 「うちもちょうどプロフィール更新の時期でして、まさか推し合うことになるとは予想だにせず」
 失礼しました、と三益は深々と頭を下げた。それに対して社長が首を左右に振って見せる。
 理聖は部屋に入ってからずっと笑顔を浮かべていた。その優しい笑みに世の中の女性たちは皆メロメロになるのだろう。しかし彼は伊織の推しであるにも関わらず、伊織には通じていなかった。それでも理聖は笑みを絶やすことはない。これが大人気アイドルのメンタルか、と伊織は心の中で一人ごちった。
 「実は伊織くんのことは推しマッチングサービスで知ったんです。それからriseのことを調べて、曲を聞いて、すぐにファンになりました。特に、高校の学園祭のために作った”希望の唄“が好きで、動画サイトに上がっていた当時のライブ映像を見て伊織くん推しになったんです」
 「あ、えっと……」
 真摯に推しである伊織への愛を告げる理聖に対して伊織は言葉を詰まらせる。
 「すみません、まさか推しに会えると思わなくて我慢が出来なくて」
 そう言って恥ずかしそうに頬を桃色に染めて笑う彼の姿を見たらきっとファンは卒倒してしまうのだろう。
 しかし残念ながら伊織は彼を本当に推しているわけではないのでその効果はない。
 あまりにも本気で伊織を推しているような素振りを見せる理聖にまさか、推しマッチングサービスで偶然推すことになって尚且つまだ理聖のことを良く知らない、とは言えない状況になっていた。
 伊織は苦笑いを浮かべると後ろに立つマネージャーとメンバーたちに視線を送った。彼らは皆「余計なことは言うな」と目で訴えかけていた。伊織は小さく頷く。
 とりあえず推してくれていることへの礼を言おうと伊織が口を開いた瞬間、riseのメンバーたちと同じく理聖の後ろに立っていた男が先に声を上げた。
 「お前、まさか半端な気持ちで理聖を推してんじゃねえだろうな」
 「ひぃっ!」
 声を荒げてそう言ったのは理聖の相方であるNoRの九尾乃依瑠だった。彼はライトピンク色の髪に左右の耳に五個ずつピアスの穴をあけていた。
 王子様を売りにしている理聖に対してオラオラ系の彼だが理聖に勝るとも劣らないルックスを持ちその人気は理聖と綺麗に二分にされているらしい。
 乃依瑠は伊織をキッと睨みつけると持っていた鞄の中身を漁り始めた。そしてテーブルの上に投げつけるように中身を出した。
 「えっと……これは……」
 バラバラと鞄から出されたそれはNoRのCDアルバム、ライブDVD、フォトブック、グッズの数々だった。
 「ファンのお前なら当然持ってる物だろうけどな、特別に理聖がサインを入れてやった。ありがたく受け取れ」
 乃依瑠の言う通りよく見るとそれらには理聖の直筆サインが入れられていた。ファンならば喉から手が出るほど欲しいものなのだろう。しかし今の伊織には全く響いていなかった。
 芳しい反応を見せない伊織を訝し気に見る乃依瑠に気付いた瑛大たちが慌てて口を開く。
 「よかったな、伊織! 家宝決定だな!」
 「嬉しいね~伊織~!」
 「俺も欲しい」
 彼らの反応を見て伊織はハッとすると作り笑いを浮かべた。
 「凄く嬉しいです! わ~、理聖くんのサインだ~! 俺一つも持っていなかったんで凄く嬉しいです~!」
 「一つも?」
 ギロリと乃依瑠が鋭い視線を送る。咲は慌てて伊織に抱き着くふりをして彼の首をそっと締め上げた。
 「ぐえっ」
 「理聖くんのサインを! 一つも持っていないってことだよね! 嬉しいねえ、伊織!」
 「……紛らわしいこと言うんじゃねえ。何度も見て理聖のことをもっと推せ」
 乃依瑠が定位置に戻ったのを見て一同は安堵のため息をつく。
 そこでようやく社長が口を開いた。
 「初めてこのお話を聞いた時は夢でも見ているのかと思いましたがどうやら本当のようでとても安心しました。お互いを推し合い、芸能界で切磋琢磨していける良い関係をこれからも気付いて行けたら光栄です」
 「こちらこそ、弊社社長も同様に申しておりました。今後ともNoRを、八鳥理聖をどうぞよろしくお願いいたします」
 深々とお辞儀をする三益マネージャーに一同も頭を下げる。頭を下げたまま伊織はちらりと理聖を盗み見た。彼は綺麗な顔で頭を下げている。そして伊織の視線に気が付くとまた優しい笑みを浮かべた。


 八鳥理聖はどうやら本当に橘伊織を推しているらしい。





 マスコミをなんとか避け、伊織は自宅へと無事帰宅を果たした。
 帰り際に理聖から聞いた話によると理聖の方は自宅マンションまで報道陣が詰めかけているという。なので一応伊織の方も気を付けた方がいいと忠告を受け、伊織自身も同じ状況を覚悟して帰宅したが自宅周辺には数名のマスコミが張っていたものの、少し変装した伊織に気付くことはなく伊織は無事に帰宅することができた。
 向こうは大人気アイドル、こちらはメジャーデビュー前のバンドマン。分かってはいたがあまりの扱いの差に伊織は大きなため息をつく。
 ソファの足元に乃依瑠から受け取った荷物を置き、ひとまずテーブルの上に中身を全て並べてみることにした。
 銀色のペンで書かれた理聖のサインが照明に反射して彼自身のようにキラキラと輝いて見えた。
 とりあえずまずは、と伊織は最新のライブDVDを手に取る。
 途中、酒を飲みながら消化した約三時間の大ボリューム映像(本編のみ、特典映像を除く)を見終わった伊織はパッケージに印刷されている笑顔の理聖をじいっと見つめる。
 確かに顔が良い。歌もダンスも上手い。ファンサービスのタイミングもばっちりで、ファンが多いのも確かに頷ける。
 それでも伊織は理聖を推すことができない。
 理聖の顔が伊織は決して嫌いではない。同じく歌を仕事にしている者としても歌は上手いと思う。観客への魅せ方もとても参考になる。
 もう一つ別のディスクを取り出して再生しながら写真集に目を通す。
 NoRの歌声を聞きながら手元で綺麗な顔をした理聖を見る。見開きを使った理聖の笑顔に伊織はそっと触れた。
 同じ男から見ても格好良いと思う。ライブDVDを見ていると男性ファンも散見される。
 男が男性アイドルを推していても恥ずかしいことだとは思わない。好きになったのなら、それが推しだというのなら周囲を気にすることなく推せることはとても素晴らしいことだ。
 マッチングサービスでは絶対に推せると結果が出ていたのにもかかわらず、それでも伊織は理聖を推すことができない。
 テレビ画面にはこちらに向かって笑顔で手を振る理聖の姿が映っていた。それを伊織はぼうっと眺める。


 絶対に推せる、って言っていたのに。



 自分はなぜか理聖が推せない。





 翌日、朝起きると周囲の状況は大きく変わっていた。
 事務所に行くために玄関から外に出ると突然たくさんの人が一斉に伊織の元へと押し寄せてきた。
 「riseの橘さんですよね、理聖くんが推しだと話題ですが」
 「え!?」
 「すみません、理聖くんの推しポイントについて少しコメントいただけませんか」
 「は!?」
 閉じかけたドアの隙間から見える室内を無遠慮に覗き込んだマスコミが伊織にマイクを向ける。
 「お部屋の中に理聖くんのポスターなどは飾っていないんですか」
 昨日はただうろうろしていただけで無害だったマスコミが一気に有害に見える。
 「伊織くん!」
 玄関前で囲まれて身動きが取れなくなっている伊織を救ったのはマネージャーだった。彼は周囲を掻き分けて伊織の手を取ると車に向かって走りだした。
 二人は急いで車に乗り込むと予定よりも随分と早く今日の現場に向かって車を走らせた。
 「大丈夫でしたか?」
 「大丈夫じゃない。マネージャーが助けてくれなかったら今ごろの俺は丸裸だよ」
 伊織は首を横に振って答える。その答えにマネージャーは笑い声を上げた。
 まるで他人事のように笑うマネージャーを伊織は後部座席から睨みつける。
 赤信号で車が止まったタイミングでバックミラーを通して伊織を見るとマネージャーはまた笑った。その笑みはすぐに真剣な表情へと変わる。
 「ところで、今日は予定通りですが明日以降の予定に大幅な変更が……」
 伊織はとても嫌な予感がした。
 
 突然舞い込んできた伊織個人への大量の仕事はどれも理聖に関するものばかりだった。
 中には堂々と八鳥理聖との推し関係に関するトークと内容を記載するものもあれば、riseメジャーデビュー直前スペシャルと銘打ってバンドの話のついでを装って推しの話を聞こうとするメディアまでも現れた。
 聞かれることは理聖のことばかりだ。
 家の前に待機するマスコミからの質問には答える必要はない。しかし番組収録、雑誌インタビューとなると話は別だ。社長の意向で推しに関する話にNGはついていない。
 あれから何度も繰り返してDVDを見て、CDも聞いた。暇があれば写真集を眺め、彼が出演する音楽番組もバラエティー番組も追えるものは全てチェックしている。
 それだけ聞くと理聖は伊織にとって立派な推しのように聞こえるがその実伊織は未だ理聖のことがよくわからない。
 人に推しについて聞かれた時は音源や資料の知識だけは積もりに積もっていた伊織はそれらしいことを言っているだけでどうにか逃れることができた。
 SNSの反応は上々だ。
 まだファンたちは皆伊織が“にわかファン”だとは気付いていないらしい。
 むしろ最近は伊織の推しに対する熱心な姿に心打たれ、誹謗中傷していた人たちさえも伊織の推し活を応援し始める始末だ。
 
 メジャーデビューも目前に迫ったある日、伊織のスマートフォンに理聖から着信が入った。
 事務所で初めて会った日に社長の勧めもあり連絡先を交換したはいいが連絡を取るのはこれが初めてだ。
 「はい、橘です」
 「あの、八鳥です。伊織くん、もしよければお食事、ご一緒しませんか?」
 「食事……?」
 突然のお誘いに伊織はぐるぐると考えを巡らせる。
 DVDや写真集やテレビで何度も見てきた格好良い顔の隣に並ぶ平々凡々な自分の姿はあまりに滑稽ではないだろうか。そもそもあのキラキラした王子様は一般人に擬態することはできるのだろうかといささか疑問が残る。
 「riseのメジャーデビューを祝って」



 待ち合わせ場所に指定されたのは六本木にある焼き肉屋の個室だった。
 シンプルだが高級感漂う店先に伊織は既に尻込みをしていた。一瞬ドレスコードを疑ってしまうほどだ。
 それでも意を決して店に入り、八鳥の名前を出すと伊織はすんなりと予約の個室へと案内された。
 照明の落とされた廊下は暗く、他の個室へと繋がるドアはあるが防音設備がしっかりしているのか話し声は一切聞こえてこない。
 「伊織くん、こんばんは」
 個室に入ると既に理聖は席につき、ドリンクメニューを眺めている所だった。
 「こんばんは、理聖くん」
 伊織が理聖の向かい側の席につくと理聖が見ていたメニュー表を手渡された。
 「ドリンクどうぞ」
 「ありがとう。理聖くんは何にした?」
 「僕はハイボール」
 「それじゃあ俺もそれで」
 「食事メニューはコースでいい? 伊織くんも肉好きだからたくさん食べるよね?」
 「うん」
 テキパキと注文を入れ、即座に運ばれてきたドリンクを手に乾杯をして一口目を煽る。
 続々と運ばれてくる肉を焼いては食べを繰り返し、二十代の若者たちはコースメニューでは足らず結局単品で何品か注文をした。次来るときは食べ放題メニューでもいいね、と話すほど二人はいつの間にか打ち解けていた。
 話題は音楽のことが多かった。アイドルとバンドという音楽の形態は違えども二人とも各々の枠にとらわれず音楽は全て好きだった。
 もちろん自分たちの曲の話にもなり、それぞれが相手の好きな曲名を披露しその話題もそれなりに盛り上がりを見せた。
 酒の力もあり二人はだいぶ打ち解けていた。終いにはマネージャーの愚痴やメンバー間のプライベートな話題も出るほどだ。
 ドリンクのラストオーダーが届き、店員が去ったのを確認すると理聖はまるでひそひそ話をするかのようにテーブルに身を乗り出して囁いた。
 「伊織くんって、本当は僕のこと推してないでしょ」
 「え!?」
 予想だにしなかった言葉に伊織は思わずお冷の入った小さなコップを倒してしまった。幸い中身は少なく、テーブルの上と伊織の袖口を少し濡らしただけで大きな被害は免れたのが幸いだった。
 「な、何でそう思うの?」
 慌てた動作で自分のおしぼりを使ってテーブルを拭いていると同じ動作をする理聖の手が見えた。
 水気を拭い取ったテーブルの上でおしぼりを握る二人の手がこつんとぶつかる。
 「ファンのみんなは気付いていないみたいだけど、本人はさすがに気付くよ」
 理聖は自身が握るおしぼりから手を離すと伊織の手を握った。
 伊織の手は酒の影響で赤く火照っていた。
 「……ごめん」
 これ以上は誤魔化すことはできないと伊織は目線を下げると頭を垂れる。
 理聖から返事はなかなか返ってこない。もしかしたら呆れられてしまったかもしれない。
 伊織はゆっくりと顔を上げた。理聖は変わらず優しい笑みを浮かべて伊織を見つめていた。伊織の拳を握る理聖の手はいつの間にか両手になっており、しっかりと握っていた。
 「……怒ってないのか?」
 「怒るなんてそんなことありえない」
 眉を下げて理聖の様子を伺う伊織はまるで小さな子犬のように委縮していた。
 「僕、伊織くんに推してもらえるように全力で頑張るから、だから絶対に僕のことを推して」
 理聖は自信ありげにそう言うと伊織の手を自身の唇に寄せ、ちゅ、と音を立てて口付けを落とした。その動作はあまりにもスムーズで手慣れているように見えて伊織の心臓はドキドキともやもやを同時に抱えた。
 理聖から手が離れた瞬間、伊織はその手でラストオーダーで頼んだレモネードを掴む。そしてそれの味もわからないほど一気に飲み干した。
 ぷはっ、と息を吐いてコップを下ろすとニコニコと微笑む理聖がこちらを楽しそうに見つめていた。



 翌日の移動中、伊織はルーティーンとなっているSNSのチェックを始める。
 今日は特にチェックに余念がない。というのも今日がいよいよ伊織の所属するバンド“rise”のメジャーデビューシングルの発売日だからだ。
 今日は昼のバラエティー番組の生放送出演と夜には新宿でのレコ発ライブが待っている。一緒に移動の車に乗っている他のメンバーたちもいつもよりも浮き足立っているように見えて伊織はますますワクワクしていた。
 その時、伊織と同じくSNSのチェックをしていた咲が声を上げた。その声のあまりの大きさに瑛大が手元の雑誌から顔を上げて咲を見る。
 「うるせーぞ、咲」
 「ねえ、伊織! 理聖くんのアカウント見た?」
 「理聖の? なんで理聖の……」
 今日チェックするべきは主にファンの反応だ。自分たちのアカウントへの反応やコメント、エゴサーチが主になる。
 確かに理聖は伊織を推しとしているが伊織はチェックの対象に理聖を含むつもりもなく、今日はまだ理聖のアカウントを見ていなかった。
 「ほら」
 なかなか自分のスマートフォンで理聖のSNSを見ようとしない伊織に業を煮やした咲が自分の画面を伊織に向けた。
 「理聖くん、riseのデビューシングル買ってくれたって!」
 画面を見るとそこには確かにriseのデビューシングルを手にウィンクをしている理聖が写っていた。
 「“riseデビューシングル、今日発売! 僕も早速ゲットしました!”って、まるで自分のCDが発売したみたいだな」
 投稿記事の文章を読んだ瑛大が、はっ、と鼻で笑っていた。
 画面をスワイプしてその記事へのコメントを見ると本当か否かわからないが、自分も買いました、今聞いてます、という言葉が並んでいる。
 伊織がコメントをじっと追っていると画面が勝手に上へと上がっていってしまった。どうやら理聖が新しい記事をアップしたらしい。
 そして投稿時間ゼロ分の記事を早速見た伊織は顔を真っ赤にして黙り込んでしまった。
 「どうした、伊織」
 突然大人しくなった伊織を心配して蓮司が画面を覗き込む。
 そこには“僕の推し見つけた”という言葉と共にCDショップに貼られたバンドポスターの伊織を幸せそうな顔で指差す理聖の姿が写っていた。
 どうやら写真はその一枚だけではないらしい。二枚目を開いてみると両手でハートを作ってまたしてもポスターの伊織を囲っている写真が出てきた。
 理聖のすらりと長く綺麗な指で作られたハートの形の中に最高のキメ顔をしている伊織が綺麗に収まっている。
 その記事に理聖のファンが付けたコメントは“理聖くんの指格好いい”だ。その伊織と全く関係ないコメントに隣から覗き込んでいた瑛大は思わず吹き出して笑った。
 「お前の推しの推しアピール凄いな」
 「凄く恥ずかしい……」
 未だに照れつつ咲にスマートフォンを返す伊織を見て瑛大は何か思いついたように今自分が読んでいた雑誌を伊織に手渡した。
 「瑛大、なに?」
 「いいからいいから」
 いいから、と何度も言葉を繰り返しながら瑛大は雑誌と交換に伊織のスマートフォンを受け取ると顔認証画面だけ伊織に画面を向けてロックを解除させた。
 そして伊織に雑誌の表紙をこちらに向けるように指示すると雑誌を持つ伊織の写真をパシャリと撮った。
 「急になに……」
 まるで雑誌の宣伝みたいに、と呟きなら伊織は持っている雑誌の表紙を自分の方へと向けた。そして、ひゅっ、と息を吸った。
 そこにはいつもの王子様スマイルではなくクールな視線をこちらに向けている理聖がいた。
 「はい、投稿完了」
 「え!? ちょっ、瑛大!」
 瑛大からスマートフォンを奪い返した頃には既に遅い。
 伊織のSNSアカウントの最新記事は理聖が表紙を飾っている音楽雑誌を手に持っている伊織の写真が上がっていた。
 これはいくらなんでもまずい。一見して立派な推しアピールだ。
 記事を消そうか悩んでいるうちに瞬く間に大量の反応が返ってくるので伊織はその記事を消すタイミングを完全に失っていた。
 「瑛大!」
 声を大にして起こる伊織に瑛大が文字を指差す。
 「別に正当な宣伝だよ」
 瑛大の指先を追って文字を読む。

 “デビューシングルについてこちらの雑誌でも特集していただいています! 雑誌も本日発売です! ぜひチェックしてみてください!”
 確かにこの雑誌には特集記事が組まれており発売日も今日なのだからSNSで宣伝してもおかしくはない。
 しかし問題なのは表紙だ。この雑誌の表紙を飾っているのはNoRで、しかも偶然伊織の指先は理聖を差しているように見えていた。
 瑛大はもちろんこれを理解して投稿しているのだから非常に質が悪い。

 理聖と伊織のお互いの推しアピール。

 とファンたちは異様に盛り上がっているようで今更アップした記事を削除することはできなくなっていた。





 お互いの事務所がNGを出さないお陰もあって二人の共演は日に日に増していた。そして先日の食事の際の理聖の宣言通り、彼は伊織を落としにかかっている。
 撮影収録現場で顔の良い男――しかもこれから絶対推しになるとマッチングに予言されている男に肩を引き寄せられ、耳元で囁かれて平気な者など存在するのだろうか。

 推しとの対談、というテーマで組まれた女性誌のインタビューでは距離の近いツーショット写真と理聖からの伊織への熱い思いの籠ったコメントが並ぶ。
 「動画サイトに伊織くんの高校時代の学園祭ライブの映像があるんですけど……」
 「そんなのよく見つけたな!?」
 「伊織くんのバンドriseが満を持してメジャーデビューするということでインディーズ時代の推し曲があるんですけど……」
 「俺より俺のバンドの宣伝してる……」
 インタビュアーも理聖が楽しそうに話す様にとても満足しているように見えた。理聖の撮れ高はこれでばっちりなのだろう。
 となると次は伊織の番だ。
 理聖のあまりの熱量に伊織は圧倒されつつも片方がそうなると当然伊織にも同等の熱を求められる。
 「伊織さんの方はいかがですか?」
 インタビュアーに尋ねられ、いよいよ自分の番が来てしまったと伊織は心臓をドキドキさせる。
 「えっと……俺は……」
 事前に考えてきた答えで本当に大丈夫なのか伊織は頭の中で再度考えながら口を開いた。
 「NoRのライブだと昨年夏の五大ドームツアーが好きですね。テーマも衣装もセトリもどれも凝っていて……」
 昨年の五大ドームツアーのライブDVDは乃依瑠から貰った中にあり、伊織は今日まで何度も勉強してきた。
 この答えで理聖のファンは伊織が理聖のことを推していると認めてくれるだろうか。
 「ああ、わかります。特に福岡のアンコールが評判高いんですよね」
 うんうんとインタビュアーが何度も首を立て振って頷く。どうやらこの答えは正解らしい。
 伊織は安心して話を続けることにした。
 「俺は特に東京公演三曲目と四曲目の間のフリートークが好きです」
 これは推しアピールのために取って付けた話ではなく伊織が本心から思っていることだった。
 歌もダンスも衣装もファンサもセトリももちろん良かったが、一番素が出ているフリートークが一番面白い。
 その言葉にインタビュアーが、えっ、と動きを止めた。理聖を見ると理聖も驚いているように見えた。
 「あっ、えっと……」
 何かまずいことを言ってしまったのか、と伊織がその場を取り繕うとした時、理聖がニコニコと微笑みながら口を開いた。 
 「一番素が出るフリートークを楽しんでもらえるって本当は一番嬉しいかもしれません」
 突然の助け舟に伊織は視線で理聖に礼を言うと理聖からウィンクが返ってきた。

 生放送のバラエティー番組では理聖があまりにも立ち位置の印を無視して伊織の隣に寄って行ってしまうのでレギュラーメンバーのお笑い芸人に何度もいじられてその度に大笑いを起こしていた。
 終いには”推しコンビ“というチーム名で理聖と伊織がチームを組んでクイズ番組に出演するまでに至る。
 クイズに正解する度に顔を見合わせてハイタッチをしていた二人だったが賞金百万円が掛かった最終問題に正解した時にはさすがに興奮を禁じえなかった理聖が伊織を抱きしめ頬にキスをした。
 「ちょ……っと!!!!」
 瞬時に顔を真っ赤に染めた伊織が声を上げると理聖は悪びれることなく笑って見せる。
 「推しに対してこれはさすがにルール違反かな? でも僕は推しの伊織くんにリアコ勢だから」
 理聖がそう言った直後、観客たちが黄色い悲鳴を上げ、大盛り上がりの中番組は終了した。
 番組が終わって伊織は共演者への挨拶もそこそこに他チームとして出演していたメンバーも置いて楽屋に戻っていた。当然話しかけようとしてきた理聖は無視した。
 急いで楽屋に飛び込んだ伊織だったが未だに頬の火照りは静まりそうもない。
 それから少し遅れてメンバーたちも楽屋と戻ってきた。
 「伊織お疲れ、今日も大活躍だったな」
 一人ソファに腰掛ける伊織はスマートフォンを食い入るように見つめていた。
 「なに? 早速エゴサ?」
 咲が背後から覗き込むと画面はたった今放送した番組名のエゴサーチで止まっていた。
 「盛り上がったみたいでよかったね」
 呑気そう言って衣装の着替えに取り掛かろうとする咲の腕を伊織が引いた。
 「わっ! 急に危ないんだけど!」
 「なあ咲、“リアコ”って何?」
 伊織は真剣な表情で尋ねた。
 「へ?」
 「さっき理聖が言ってただろ、俺のリアコ勢だって」
 リアコ勢ってなに、とあまりにも真剣に尋ねる伊織に思わず瑛大と蓮司までもが噴き出して笑った。
 「な、なんだよ!? どうせこれも推しに関係する言葉なんだろ!? わかんねーんだけど!」
 生まれて二十二年間、推しというものに疎かった伊織はその言葉の意味がわからないが、どうやら他の三人は理解しているようで伊織はムッと唇を尖らせた。
 「リアコっていうのはただ遠巻きに憧れてるんじゃなくてリアルに恋してるって意味。つまり理聖くんは伊織のことをガチ恋してるってこと」
 「ガチ恋……?」
 また新たな言葉に固まってしまった伊織に瑛大がやれやれとため息をつく。
 「おい、まさかガチ恋の意味もわか……」
 伊織の肩に腕を回して顔を覗き込むと耳まで真っ赤に染めた理聖の顔が見えた。
 「……さすがにこれは意味わかってるか」
 瑛大は伊織から離れると衣装の上着を脱いでハンガーに掛ける。代わりにハンガーから外した私服を手に取ると室内のメンバーたちに声を掛けた。
 「ほら、次の仕事も詰まってんぞ!」
 その声に頷き、皆片付けと準備に取り掛かる。
 伊織もソファから立ち上がるとノロノロと準備を始めた。





 「伊織くん!」
 ここだよ、と理聖が大きく手を振って伊織に居場所をアピールして見せる。控えめな声量ではあるが伊織の名前を呼ぶ理聖の声は弾んでいるように聞こえた。
 「……理聖」
 いくら完璧な変装をしているといえども目立つ行動は極力避けたい。
 伊織は早足で理聖の元へとたどり着くと伊織に向かって手を振ってきた手を掴んで急いでその場から離れる。
 すると理聖は伊織と繋ぐ手に力を込めて握り直してきた。
 「っおい、理聖……!」
 足を止めて振り返り伊織が理聖を見る。
 眉を吊り上げて怒る伊織とは対照的に、理聖は嬉しそうに微笑んでいた。
 そのあまりにだらしのない表情に伊織は怒鳴る気が失せてしまった。
 はあ、と大きなため息をつくだけで手を振りほどくことさえ諦めた伊織の手を理聖は自身の唇へと寄せると握った手に唇を落とした。
 「デート、楽しみだね」
 大勢の観客の前でのリアコ発言からますます理聖のアプローチは激しいものになっていた。
 先日は食事、そして今日は買い物、と理聖は伊織とプライベートの時間も一緒に過ごすようになっていた。
 その時間の中で伊織は理聖が実は王子様ではないということを知った。
 画面の中で優しい笑みを浮かべ、歌もダンスも完璧にこなすアイドル。それはまさに偶像なのだと伊織は知った。
 意外と食べ物の好き嫌いが多い。流行りものには疎いのでいつも乃依瑠を頼りにしている。リズムゲームが苦手。片付けが苦手。
 それらは理聖がファンには公開していない姿だ。
 プライベートの理聖は非常に人間臭い、普通の二十一歳の男だ。



 これは非常にまずい、と伊織は一人で頭を抱える。
 自宅のテレビで流れているのは先日放送されたNoRがゲストの音楽番組だ。画面の中で歌を歌い、踊り、カメラの向こう側であるこちらに向かってファンサービスをする理聖には未だにミリも感情が揺らがない。
 それなのに、フリートークでNoRに話題が振られていない時、カメラに抜かれていないと気を抜いている時に彼が映った瞬間だけ伊織の心は酷く揺らいでしまう。

 観客たちの前でニューシングルを披露する姿よりも、二人きりのカラオケボックスで中学時代に流行った懐かしいラップの曲を歌う姿の方が良い。
 ファンのうちわに催促されて投げキスをするよりも、たまたま目が合った時に見せる笑みの方が好きだ。
 雑誌からそのまま飛び出してきた完璧なコーディネートを見せるよりも、時折突然のテレビ通話で見る伊織と同じファストファッションの寝間着の方が見ていて安心する。

 伊織はアイドルをしていない時の理聖が好きになっていた。

 もちろんアイドル活動に真摯に向き合っている理聖も格好良いと思う。それでも伊織が推せる理聖はあくまでプライベートな理聖だ。

 それを自覚した途端、プライベートで理聖に会う度に伊織は以前よりも更にドキドキするようになってしまった。



 「伊織くん、どうしたの?」
 個室居酒屋に入り、先に理聖が座ると伊織は個室の入口で固まってしまった。そんな伊織を見て理聖が不思議そうに首を傾げる。
 恥ずかしくて正面に座れない。かと言って隣に座るのも緊張する。
 しかしいつまでも入口に突っ立っているわけにもいかず、伊織は普段の自分を思い出してテーブルを挟んで向かい側にようやく腰掛けた。
 次に襲い掛かるのは目線の問題だ。理聖の正面に座り、どこを見ればいいのかわからない。とりあえず無難に手元のメニューを見て、なるべく顔を上げないように、上げても理聖から直ぐに目線を外すように心がける。
 「あっ……」
 注文を終えてメニューを片付ける手が不意にぶつかり、伊織は慌てて手を引っ込める。
 ぶつかった指先はもう洗わない、と思ってしまったのだからもう重症だ。
 「伊織くん?」
 ぶつかった指先を謝ってまた頭を垂らしてしまった伊織の頬に理聖が手を伸ばす。そして大きな手のひらで優しく頬を撫でそして次に前髪を掻き上げて額を覆った。
 「熱はないみたいだけど……」
 どうかした? と小首をかしげて顔を覗き込んでくる理聖に伊織は途端に顔を真っ赤にさせると勢いよく椅子を引き、その反動で膝をテーブルにぶつけてテーブルの上の箸をコロコロと床に落とした。
 「大丈夫?」
 「だ、だいじょうぶ!」
 そう言って、たった今来たばかりの大ジョッキを一気に飲み干したので理聖は今日の伊織は大丈夫ではないと確信した。

 昨晩はまともに顔を見てもらえず、会話も言葉を詰まらせたかと思えば勢いよく話し出すなど明らかに普段の伊織とは違う様子を見せていた。
 体調が悪いのかと尋ねても伊織は首を横に振るだけで、アルコールの力以外で頬が赤いのは明らかだった。
 とにかく心配だからと、半ば強引に家の前まで送り届けて、また明日、と別れを告げた。

 そして翌日。今日はまたNoRとriseが揃って出演する音楽番組の収録がある。
 先にスタジオに現れたのはriseで、少し遅れてNoRが入る。
 「あ、riseさん、お疲れ様でーす」
 人懐こい笑みを浮かべて声を掛けてきたのは乃依瑠だった。その隣で理聖が伊織に手を振っていた。
 「お疲れ様です。今日はよろしくお願いします」
 瑛大が代表で挨拶を返し、その隣で伊織が小さくお辞儀をする。
 そんな伊織の態度を見て理聖は、あれ? と思った。
 ぺこりと頭を下げて挨拶をした伊織は昨晩の彼とは似ても似つかず、いつも通りの彼だ。理聖と目が合ったし、変に顔を赤らめることもない。
 昨晩はプライベートで明らかに理聖にドキドキしていた伊織が今日の現場では伊織は理聖になんともないように接する。そのことを理聖は訝しく思っていた。
 “アイドル”の理聖がいくら伊織に触れても伊織は反応しない。曲披露でステージ上からファンサービスを伊織に向けてみても伊織はいつも通りだ。
 しかし一瞬でも理聖自身がアイドルだということを忘れて伊織に熱い視線を送ってしまうとそれに伊織はすぐさま反応を示す。それはまるでオンオフのスイッチのようだ。



 「乃依瑠さん、ご相談したいことがあるんですが……」
 「ん?」
 収録が終わると伊織は人目を避けて乃依瑠に声を掛けた。
 伊織の真剣な表情に乃依瑠は、ああ、と返事を返す。
 「俺もちょうどお前に渡したい物があったし、車で送ってってやるよ」
 乃依瑠の快諾に伊織は表情を少し晴れやかにすると会釈をして自分の楽屋へと戻って行った。乃依瑠も楽屋に戻り帰宅の準備を急ぐ。
 「乃依瑠、マネージャーがご飯連れてってくれるらしいんだけどどうする?」
 「俺、今日は車で来てるからいいや」
 理聖からの誘いを断ると乃依瑠は早々に楽屋を出る。廊下を出ると既に準備を済ませた伊織が待っていた。
 NoRの楽屋の前で待つ姿を見て皆は理聖を待っていると思っていたらしい。それが相方である乃依瑠が彼を連れて行くので周囲は少しだけざわついていた。
 「それで?」
 住所を伝えて車が走り出すとすぐ、乃依瑠はそう尋ねた。伊織は深く息を吐いてから口を開く。
 「俺、やっと推しっていうものが分かってきて……きっと理聖は俺の推しなんだってわかってるんですけど、でもアイドルの理聖のことはどうしても推せなくて」
 「アイドルじゃなかったらなんの理聖なんだよ」
 自分たちの職業をなんだと思ってんだ、と乃依瑠が言う。その言葉は最もだ。
 「もちろん、ファンの前で歌って踊ってファンサービスをする理聖は凄いと分かってるんです。でも俺はどうしてもそんな理聖にときめかなくて」
 理聖は理聖でも、アイドルの理聖を推せない自分が嫌になる。
 伊織は吐き出すようにそう言った。
 車内に沈黙が続き、ようやく乃依瑠が口を開いた頃には伊織の家の前に到着していた。
 「別にアイドルを推せなくてもいいんじゃねえの? アイドルの理聖が嫌いなわけではないんだろ?」
 「嫌いじゃないです、尊敬してるし、応援したいと思ってます」
 伊織の言葉に乃依瑠はようやく笑みを見せると伊織の頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜてやった。
 「いろんな推し方があんだろ。理聖はお前に、フリートークが好き、って言われて喜んでたよ」
 それは素の自分を見てもらえる、と言っていた時だ。
 「ありがとうございました」
 お礼を言って頭を深々と下げる。そのままドアを閉めようとしたところで乃依瑠から紙袋を差し出された。
 それを受け取って何個か取り出すとそれは理聖のグッズだった。袋の中にはまだ理聖のグッズがたくさん詰まっている。
 アイドル衣装を身に纏ったブロマイドコンプリートセットの表情はどれも良い。またそれらをSDキャラクター化したイラストは理聖の特徴をよく捉えておりとても可愛かった。
 「アイドルやってる理聖も推せるといいな」
 そう言って乃依瑠が笑った。

 その現場を所謂パパラッチに撮られていた。

 『伊織! テレビ付けろ!』
 瑛大からの電話で起こされたのはあの日のデジャヴだ。
 「テレビ? また?」
 『どのチャンネルでもやってる!』
 瑛大に急かされて伊織はテレビの電源を入れた。直後、画面に映し出されていたのは昨夜の自分と乃依瑠だ。
 乃依瑠の車から降りた伊織は乃依瑠から紙袋を受け取り、それが理聖のグッズだと確認している。
 「“アイドルの理聖も推せるといいな”」
 昨晩乃依瑠に言われた台詞を司会者が言ったのを聞いて伊織は固まった。
 「え?」
 なんでそれを、と伊織は画面を見つめる。
 「NoRの九尾乃依瑠さんは橘伊織さんにそう言って八鳥理聖さんのグッズを手渡したそうです」

 全部聞かれていた。

 「ということは、橘さんは“アイドルの”八鳥さんを推していなかったということなんでしょうか」
 「本当は八鳥さんを推していなかったってことですか? メジャーデビューに向けての売名行為?」
 「理聖くん推しだと偽って乃依瑠くんに近づこうとしていたという線は」
 「橘さんの理聖くんへのコメントは全部なんだか薄っぺらいというか、嘘っぽいと思ってたんですよね」
 コメンテーターたちが好き勝手言っている。
 電話の向こう側で瑛大が何か言っているようだが伊織の耳には入ってこなかった。聞こえるのはテレビの音だけだ。


 「いわゆる“にわかファン”ですね」


 小太りのコメンテーターがそう言った。






 それから“にわか”という言葉は瞬く間に広まっていった。
 乃依瑠とのあのやり取りだけであることないことを推測され、根も葉もない噂が乱立する。
 炎上だ。
 SNSへの誹謗中傷、所属事務所への電話、どこまでも追いかけてくるマスコミたち。その対応に追われるのは伊織だけではない。事務所はもちろん、バンドメンバーたち、乃依瑠。
 そして理聖には特に大きな迷惑をかけている。
 それが申し訳なくて、苦しくて、辛い。
 今回の報道で理聖に伊織は未だ彼を推していなかったと明確にされてしまった。
 正確には伊織はアイドルの理聖ではなくプライベート理聖を推してはいるのだけれど、それを理聖は知らないはずだ。


 やはり“にわか”は彼を推すべきではなかったのだ。


 伊織は深いため息をつく。
 マスコミが集まっている自宅マンションには帰ることができず、伊織は今都内のホテルに泊まっていた。
 必要なものは全て一室に揃えられているホテルの部屋は一見快適に見えて息が詰まる。
 伊織は帽子を目深に被り、マスクで顔を隠すとホテルの部屋を抜け出した。
 ホテルから一歩外に出ると疾うに夜遅い時間だというのに都心の街は行き交う人で溢れていた。これだけの人がいれば、木を隠すなら森の中、が再現できるだろう。
 特に行く当てもなく人の流れに沿ってスクランブル交差点を渡る。向かい側からきた賑やかな集団と肩がぶつかったが向こうは特に気にしている素振りもなく通り過ぎていった。
 その時、雑踏に混じって理聖の声が聞こえた。
 その声は前方、上の方から聞こえてくる。目線を上げて声のする方を見ると大型ビジョンに映る理聖の姿が見えた。
 どうやらそれは今度発売するNoRのライブDVDのコマーシャルらしい。画面いっぱいに楽しそうに歌って踊る理聖と乃依瑠が映ると周囲の人々は順々に立ち止まっていき、画面を見上げて指差す。
 黄色い歓声を上げ、カメラを上に向ける様子を見るとどうやらそれは初出の広告らしい。
 画面が切り替わり、派手で煌びやかなアイドル衣装を身に纏う理聖から一転、ラフなTシャツ姿の理聖が写る。
 映像特典は未公開だった舞台裏らしい。舞台上での理聖とはまた違って自然な笑みを浮かべ、乃依瑠と無邪気にやり取りをする姿が映し出されていた。
 それまでは立ち止まる人たちを掻い潜って進んでいた伊織だったが、ついに伊織も立ち止まって映像に見入り始めてしまった。
 だって今画面に映っているのはアイドルじゃない理聖だ。
 「理聖くんだ!」
 と誰かが声を上げた。
 画面の中の理聖は衣装合わせをしている。
 その時また黄色い歓声が上がった。画面は特別先ほどと変わらない。それなのにその声はどんどん大きくなっていく。
 伊織は声の元を目で追い始めた。
 黄色い声は段々と伊織に近づいてくる。スクランブル交差点の横断歩道を歩く人ごみがモーゼのごとく道を開けていく。
 カツン、とコンクリートの地面を靴底が鳴り、そしてその中心が伊織の目の前で止まった。
 帽子とマスクで顔を隠した冴えない恰好をした伊織の前に背の高い洗練された身綺麗な男が立っていた。
 この人ごみの中、彼の変装は完ぺきではない。帽子も眼鏡もマスクもないので既に周囲に彼が何者であるかバレていた。黄色い悲鳴を浴びて伊織の前まで来た男。

 それは間違いなく八鳥理聖だった。

 「理聖……」
 「伊織くんのことが好きだよ」
 伊織を真っすぐ見つめて理聖はそう言った。
 「これは憧れなんてそんな綺麗な感情じゃない。僕は伊織くんに恋をしているから、君にキスをしたいと思ってる」
 理聖の台詞に反応を示したのは伊織ではなく周囲を取り囲む野次馬の女の子たちだった。彼女たちが「きゃあ」と大きな声で悲鳴をあげたので伊織は反応するタイミングを失ってしまっていた。
 周囲はこれがドラマの撮影、バラエティー番組の企画だとでも思っているのだろうか。これはプライベートだというのに二人を大きく避けるように丸い円を描いて二人を遠巻きに見つめている。
 彼の背後にあるファッションビルの大型ビジョンが切り替わり、まるで図ったかのようにアイドルである彼の姿を映し出した。
 私服とは違い王子様ルックのキラキラした衣装に身を包んだ彼が優しい笑みを浮かべマイクを掲げている。その笑顔でこちらに向けて指でハートを作るファンサービスを背景に今現在の本人は真剣な表情で伊織を見つめている。
 アイドルの彼とプライベートの彼、二人に見つめられて伊織の心臓はドッドッと破裂しそうなほど高鳴っていた。
 「伊織くんは……?」
 理聖が小さく顔を傾け、伊織を伺う。その眉は下がり、自信なさげな表情を浮かべていた。
 それは大人気アイドルが弱小バンドマンにする表情ではない。彼はもっと、みんなに愛されているんだと、絶対的な人気を持つのだと、自信を持った顔でいてもいいはずだ。
 「俺は……」
 大型ビジョンは尚もアイドルの理聖を映し出している。
 何度見てもやはり伊織がときめくのは大画面の彼ではなく、目の前の彼だ。
 「俺も理聖が好きだ。でも俺が好きな理聖は大きなステージで歌って踊ってファンサをくれる理聖じゃなくて、変装して会いに来てくれて、隠れて手を繋いでくれて、みんなにじゃなくて俺にだけ好きだって言ってくれる理聖がいい」
 それはファンさえ知らない理聖のことだった。アイドルの理聖は会いに来てくれないし、手も繋いでくれない、好きという言葉を安売りしたこともない。そんな理聖を見られるのは伊織だけなのだ。
 伊織だけが知っている理聖。
 ファンは皆伊織に嫉妬した。
 「君のどこが“にわか”なの」
 理聖はそう言うと伊織の手を引き寄せた。
 「こんなに僕のことを知っていて、こんなにも好きなのに」
 理聖が伊織を抱きしめると大歓声が上がった。
 自分たちに向けられたカメラの映像は疾うに発信されているのだろう。





 「実は伊織くんのことは中学の時から知ってたんだ」
 「中学!? 理聖って同じ中学だっけ……? でもこんなに格好良い奴がいたら学年が違くても目立つはず……」
 「中学は別。友達に誘われて行った文化祭がriseの初お披露目ライブだったんだ」
 「あれを見てたのかよ!?」
 「行けないライブで販売したCDは友達に協力してもらって全部買ってた」
 「古参だ」
 「最古参の自信がある」
 「それなのに俺は理聖のことを知ったのは最近だ」
 「時期も時間も関係ないよ。推してくれたことが全てだから」
 「伊織くん、俺のことを推してくれてありがとう」
 「俺も、理聖のことを推せてよかった」



 (おわり)