その翌日。教室の中は、少し騒がしくなっていた。理由は「体育があるから時計を外して教室に置いたけど、更衣室から帰って来たらなくなっていた」と谷崎くんが主張したからだ。突然の事実に、皆は近くにいた子たちと一斉に憶測を話し始める。

「なくなったのは昨日なんだろ?なんで昨日いわなかったんだよ」
「もし俺の勘違いだったらいけないと思って、昨日学校や教室、家に帰ってずっと探していた。それでもなかったから、やっぱり今日みんなに言おうと思ったんだ」

間違えてカバンの中やポケットの中に入ったかもしれないし、と声のトーンを落とした谷崎くん。「間違えて」なんて言葉を使っているけれど、その実「誰も盗ってないだろうな?」という心の声がありありと聞こえて来る。クラスの皆も感じ取っているのだろう。「俺は知らない」や「私も見てない」など、それぞれが自身の身の潔白を証明し始めた。

こうなってくると不利になってくるのが、今この場にいない人だ。一斉に、皆の目が一限目が終わっても空席の佐々木くんへ移る。鋭い視線の数々に、木製の机に穴が開きそうだ。皆から漏れ出ているトゲトゲした感情が、斜め後ろの私席のまで流れて来た。反射的に、キュッと身を縮める。心の中で「最悪な流れになりませんように」と祈る。

「そう言えば佐々木、昨日体育の授業いなかったよな」
「更衣室から帰って来た時、教室にいたのは佐々木くんだけだったもんね」

私は昨日、体育の授業が終わるチャイムを聞いて「トイレに行って来る」と教室を出た。だけど近いトイレが清掃中だったから、遠いトイレに行ったのだ。事を終えて教室に戻って来た時は、クラスメイトがほとんどが帰って来ていた。もちろん近藤さんもいた。彼女は私と目が合うと、露骨に避けた。私も私でなんて反応していいか分からないから、何も言わずに彼女の隣を横切る。大切にしたい物ほど壊れるのは一瞬だと感じながら。佐々木くんも、お母さんとの間にこんな感情を抱いていたのかと、そんなことを感じながら。

自分一人で味わうのはあまりにもツライ出来事だから、ついつい佐々木くんのことを一緒に連想してしまう。私の中で、彼の存在が心の支えになっている気がした――だけど私がこんな事を思っていた時に、まさか谷崎くんの時計がなくなっていて、しかも佐々木くんが疑われていたなんて。

「でも佐々木くんはそんなことしない人って、谷崎も知っているじゃん?」
「よく二人で楽しそうに話しているし」

「でも佐々木は不良だぞ?」

その一言が決定打にでもなったかのように、反論していた女子は「そうだけど」と口を閉じる。佐々木くんの立場がどんどん脅かされている。だけど、いるじゃないか。佐々木くんの身の潔白を証明できる人物が。体育の時間、ずっと佐々木くんと一緒にいた私なら、彼が何もしていないと証明できる。私がトイレに言っている間に佐々木くんは教室で一人になったかもしれないけど、だからと言って人の時計を盗む人じゃない。時計よりももっと大事な物があると、既に彼は知っているからだ。見えない絆こそを大切にしている彼だからこそ、有機物には興味がない。

「あの……」

ゆっくりと手を挙げる。瞬間、皆の視線が一気に私へ向いた。いくつもの目が私を見て、私が何を言うか待っている。緊張する、なんてもんじゃない。本当のことを言うだけなのに口周りのあらゆる箇所が震えてしまい、ごくっと喉が鳴る。

「なんだよ、水野」
「えっと、体育の時に私は佐々木くんと一緒にいたから知っているよ。佐々木くんは何もしていない。この部屋で皆が来るのを、ただ待っていただけ」
「本当か?」
「ウソなんてつかないよ」

つく理由もないし、と言った私の声にかぶせて「それはどうかな」と近藤さんが発言する。

「私、昨日みたの。水野さんが佐々木くんのおばあちゃんからお弁当を受け取っている所を」
「どういうことだよ、近藤」

ザワッと教室の空気が変わる。私は、まさかここで近藤さんが出て来るとは思わなかったから、体中が石化したように固まった。

「二人は特別に仲が良いよ。水野さん、佐々木くんのこと好きなんじゃない?それなら佐々木くんをかばうのは当然だよ」
「そんな……」

昨日、仲良くなれるかもと思った人から、こんなことを言われるなんて。悲しい。ツライ。目に涙が溜まった時、昨日佐々木くんが言った言葉が蘇る。

――俺に傷つけられたなら、そっと距離を置いて、二度と近づかないで
――離れられる寂しさを知っているから

ねぇ佐々木くん、あなたの言う通りだった。仲良くなれるかもと期待するから、そうじゃなかった時の喪失感や絶望感がハンパないんだ。身に染みるんだ。一度でも明るい未来を想像してしまったからこそ。結局仲良くなれないのなら、最初から話しかけられない方がマシだ。近づかないでほしい。私をそっとしておいてほしい。誰も私のことを分かろうとしてくれないなら、今だって私のことを放っておいてくれたらいいのに。

「水野と佐々木がそんな関係だったなんてな」
「でも水野さんってサバ女だから」
「ね、どんなタイプでもいけそうだよね」
「相手が不良でも全然平気そう」

俯いた私へ、皆のヒソヒソ声が次々に刺さる。あぁ、泣きそうだ。泣いてしまいそうだ。だけど皆の前で泣くと「サバ女に涙なんて似合わない」と言われてしまう。それは嫌だ。もう傷つきたくない。絶対に涙は隠さないと――決心して拳を握りしめた、その時だった。バタンと勢いよくドアが開かれ、佐々木くんが教室に入って来る。そして私を見つけるや否や、開口一番、

「水野!」

と、私の名前を叫んだ。ビックリした皆が、一斉に佐々木くんに注目する。私も同じく何事かと思い佐々木くんを見る。そして絶句した。だって佐々木くんの顔には大量の汗が流れており、肩が激しく上下に揺れているからだ。酸欠なのか、ビックリするほど顔が青白い。一目見て「佐々木くんに何かあったんだ」と思った。その「何か」を知るのが怖くて、慄いた私は口だけじゃなく全身が震え始める。だけど佐々木くんは皆をかき分けて、ずかずかと私へ歩み寄る。そして長い腕を私へ手を伸ばした。

「来て、水野」
「え、え?」
「ばあちゃんが倒れた」
「!」

耳元で聞いたのは、昨日会ったばかりのおばあちゃんの急変。お弁当箱を持ち、顔をほころばせて孫の話をする彼女を思い浮かべる。声が蘇る。「あなた優しいのね」と私に言ってくれたおばあちゃん。

急な事態に頭がついていかない。だけど体は違った。震えていたはずの体がバネになったように動く。本能だろうか。気づけば私は、ガタンッと机を大きく鳴らして立ち上がっていた。

「佐々木くん」聞きたいことは山ほどあるけど、とにかく今は動きたい。彼と一緒におばあちゃんの元へ行きたいと願った。そんな私の思いをくんでくれたのか、佐々木くんは私の腕を握って来た道をかき分けながら教室のドアへ近づく。

「おい、待てよ」

そんな私たちの行動は、谷崎くんから見ると教室から逃げているように見えただろう。鬼の形相で「時計を返せ」と繰り返した。佐々木くんはピタリと足を止め、浅く呼吸を繰り返す。なかなか整わない息を見るに、ここまで相当走ったらしい。

「時計?なんのことか知らない。俺らは急いでいる。もう行くぞ」
「待てよ盗人。大事な物を盗って楽しいのかよ!」
「盗人?」

ピクッと佐々木くんの体が止まる。根も葉もないことを言われて相当怒っているに違いない。現に、谷崎くんを見る佐々木くんの瞳は怒りに満ちている。だけど彼が言葉にするのは想像していないものだった。切れ長の瞳が、ぐにゃりとゆがむ。怒髪天を衝くという言葉の通り、佐々木くんのうねった髪が今にも天井に着きそうだ。

「俺のことを何といおうが構わない。だけど俺たちは、今から大事な人の所へ行くんだ。もしも間に合わなかったら、谷崎こそ俺たちから大事なものをとった盗人になる」
「は?おい、待てよ!」
「行こう、水野」

その時、佐々木くんのスマホが鳴る。画面を見て無視できない連絡と思ったのか、佐々木くんは廊下に出て電話を始めた。その時、彼の震える肩を見つけてしまう。小刻みに震える肩に、髪から落ちたいくつもの汗の粒が着地していく。あぁ、いま佐々木くんは戦っているんだ。聞きたくな電話の内容を、我慢して聞いているのかもしれない。彼の悲痛な姿を見れば、その心情が痛いほど分かる。「……よし」私の頭に浮かぶモヤが、急に晴れだした。さっきよりも足に力が入る。佐々木くんに腕を引っ張ってもらわなくても自分の力だけで動けそうだ。電話が終われば、また私たちは走り出すだろう。その前に、頑張っている彼の後ろで私も戦う。いつまでも逃げてばかりじゃ、何も変わらないから。

スゥ

大きく息を知って、教室にいる皆を順番に見る。

「私はサバ女じゃないし、佐々木くんは盗人じゃない。本当の私は泣き虫だし、本当の佐々木くんは不良だけど優しい心を持っている。私たちの見た目だけじゃなくて、中身も見てほしい。本当の私を見てほしい。私を知らないなら知ってほしい。言葉は噂を流すものじゃなくて、心を話すためのものだから」

私が言い終わったタイミングで、佐々木くんの電話が終わる。眉は下がり、唇をかみしめている。私はそんな彼の手をギュッと握って、前へ引っ張った。

「行こう!」
「……っ」

すると佐々木くんは一度だけコクリと頷いて、廊下を走る。教室の中で皆がどんな顔をしていたかは分からない。だけど私たちが離れた後、クラスからは何の声も聞こえなかった。静まり返っていた。その静けさがきっと私たちの明日を変えてくれる希望だと信じて、ひたむきに廊下を走る。すると向かいから担任の先生が「落とし物入れ」の箱を持って歩いてきた。「谷崎は教室にいたか?」というので頷くと、担任は安心したように教室を目指す。すれ違いざまにチラリと見えたのは、箱の中に入っている時計。あれは谷崎くんの時計だ。よかった、私たちの誤解は解けそうだ。そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。だけど、いつの間にか追い越されていた佐々木くんの切羽詰まった後ろ姿を見て、再び体に力を入れる。下駄箱で靴を履き替える時間さえ、まどろっこしい。

「はぁ、はぁ」

二人分の息遣いが、だんだんと大きくなってくる。おばあちゃんはどうしたのか、さっきの電話はなんだったのか。聞きたいことはたくさんあれど、どれ一つとして言葉に出来ないまま佐々木くんの後をついていく。すると道を走っていた佐々木くんの足が、突如としてピタリと止まった。乱れた息遣いは過呼吸みたいで、すぐに佐々木くんの背中をさする。

「ちょっと歩こう、ね?」
「いやだ」
「でも、このままじゃ佐々木くんが倒れちゃう」
「いやだ……」

いやだ――と何度も呟いた佐々木くん。その目から、スッと一筋の流れ星が落ちる。

「いやだ、俺からばあちゃんを奪わないで……っ」
「!」

両手で顔を覆って、その場に膝を折る佐々木くん。もう私からは彼の顔が見えないが、彼の震える手の中で、流れ星が瞬いては消えているのだろうかと思うと放っておけない。「大丈夫、大丈夫だよ」と震える体を抱きしめる。佐々木くんは私に抱き着くことはなかった。だけど何度も頭を摺り寄せ、私の存在を確かめていた。まるで一肌を求めるかのように。

「水野、ごめん。ぴ助のことを悪く言って、本当にごめん……」
「佐々木くん」
「きっとバチが当たったんだ。俺がこんなだから、ばあちゃんは……」

佐々木くんの声が、どんどんと小さくなっていく。いつもの彼とは百八十度違う彼を目の前にして私は「そんなことないよ」も「違うよ」も言えないまま、ただただ彼の頭をなでた。

彼が本当にヒドイ人だから、彼の言葉を否定しなかったわけじゃない。なんとなくだけど佐々木くんは今、自分を許してほしくないのでは?と思ったんだ。だから私も、彼の心に寄り添いたくて「大丈夫」と、その言葉だけを何度も繰り返す。

ズッと鼻をすする声が聞こえる。声にならない声が私の腕から聞こえてくる。そして、

「水野、俺と取り換えて」
「え?」
「ぴ助との別れを乗り越えたお前の心と俺の弱い心、今すぐにとりかえて」
「!」

そうか。いつも佐々木くんは怖かったんだ。自分の唯一の理解者であるおばあちゃんがいなくなることを恐れていたんだ。だから「死」に関して無頓着に見えたんだ。ぴ助のことを「たかがペット」なんて悪態をついたのも、死を直視したくなかったから。または反骨心というのだろう。おばあちゃんがいなくなって今度こそ一人ぼっちになる世界を想像したくなくて、必死に自分の心を閉ざして過ごしていたんだ。

「ばかだなぁ、佐々木くん。こういう時こそオラオラして、ドンと身構えていればいいんだよ」
「無理だよ、ばか……っ」
「無理じゃない。言霊って言うでしょ?いつもの強気な笑みで〝おばあちゃんは絶対に大丈夫〟って言ってみてよ」
「……っ」

佐々木くんは、顔から手を離す。涙が流れなくなったタイミングで手を離したのだろうけど、しっかりと跡が残っていた。私は、そんな彼の頬に手を添えて「言ってみて」と促す。すると今度は流れ星が私に写ったのか、私の目からも何度も星が瞬いた。そんな私を見て佐々木くんが頷く。私と同じように、彼も私の頬へ手を添えた。私の両頬に温かな体温が乗っかる。

「ばあちゃんは……大丈夫」
「うん」
「大丈夫……」
「うんっ」

ニッと笑みを浮かべると、佐々木くんの口角が僅かに上を向く。その時だった。彼のポケットに入ったスマホが、大きな音で鳴り始める。弾かれたように私から離れ、佐々木くんは電話を受け取った。

「母さん。うん、ばあちゃんは……そう。分かった」
「……っ」

そう言えば私、おばあちゃんがどんな容態なのかまだ聞いていない。何があったんだろう。おばあちゃんは大丈夫なのだろうか。お願い、佐々木くんの言霊が神様に届いて!

要件を伝えるのみの電話だったらしい。電話はすぐに切られ、スマホが彼の手の中できつく握りしめられている。こういう時、聞いてもいいのだろうか。話してくれるのを待つべきだろうか。

もう何度も心臓がキュウと音を立てて縮んでいる。生きた心地がしないというのは、きっとこういう事を言うんだろう。するとガバッと、いきなり視界が閉ざされる。ビックリしたけど、温かな体温に触れて安心した。佐々木くんに抱きしめられているのだと、遅れて理解する。

「佐々木くん……?」
「ばあちゃん、生きてる。助かった」
「え、やったぁ!よかったぁっ」

私もギュッと佐々木くんを抱きしめる。すると再び、痛いほどの力で抱きしめ返された。だけどそれが嬉しかった。だってこの強さは、佐々木くんのおばあちゃんへの愛の重さだと思うから。それだけ佐々木くんにとって大切な人がいるという事実が、私は嬉しいんだ。泣きながら「良かった」と、何度も何度も繰り返した。

 ❀

その後、我に返った私たちは、道の往来で抱きしめ合っていることに気づいた。道行く人たちが、頬を染めて私たちの横を通っている。私たちは磁石の同じ極同士みたく、サッと体を離した。そしてその場から逃げるように、目と鼻の先にある公園へ向かった。

佐々木くんがお母さんと再び電話をしている間に、自動販売機で水を購入する。佐々木くんが座るベンチに踊って来た時、もう電話は終わっていたらしく、彼は落ち着いた顔で遊具で遊ぶ子供たちを見ていた。

「はい、水。飲める?」
「……ん。ありがと」

佐々木くんはどこか恥ずかしそうに私から水を受け取り、どこか恥ずかしそうに冷えたペットボトルを目の上に置いた。目がはれたのだろうか。私もやった方がいいのかな。好奇心で、同じ行為をしようとした。すると佐々木くんが「こら」と、私のペットボトルを持ち上げる。そして自分と私、二人分のキャップを外した。

「いいから水野は、大人しく飲んでなさい」
「でも私〝も〟泣いちゃったし」
「〝も〟を強調しないでくれるかな……」

苦笑を浮かべた佐々木くんは、ポツポツとおばあちゃんのことを話し始める。

「学校に行こうとしたら母さんから電話があってさ。家でばあちゃんが倒れている、息していないって。聞いた時、心臓が止まるかと思った」
「そんな事になっていたんだ……」

そこまで壮絶なことになっていたんだ。佐々木くんからペットボトルを受け取りながら、その時のことを想像して指先が冷えていく感覚を覚える。

「でも、もう大丈夫……なんだよね?」
「どうやら食べ物が喉に詰まっていたらしい。幸い救急車の到着が早くて、救助隊が吐き出させてくれたって。意識は戻ったけど、一応病院に行くって」
「それで……?」
「もう大丈夫らしいから帰るって、さっき電話があった」
「そっか。よかったぁ~……」
「心配かけてごめんね」

とっくに目からペットボトルを降ろしていた佐々木くんは、ボトルの中で揺れる水面を見つめる。

「ばあちゃんの意識がないって聞いて、俺どうすればいいか分からなくて。不安で怖くて、気づいたら水野がいる学校へ行っていた」
「そうだったんだ」
「もしもばあちゃんが最期なら水野に会わせてやりたいって思いもあったけど、それ以上に、あの恐怖に一人で耐えられなかった。誰かに縋っていないと、どうにかなりそうだったんだ」

急に連れ出してごめん――としおらしく謝る佐々木くん。その頭を、やんわりと撫でてみた。初めはビックリして私を見た佐々木くんだけど、私が「いいよ」と許しの言葉をはくとフッと肩の力を抜く。その大きな背中が安らぎに満ちたように、ゆっくりとベンチの背もたれに寄りかかった。

「私は佐々木くんに頼ってもらえて嬉しかった。それに震えている佐々木くんを一人にはしたくなかったし」
「震えてるって……いや、もういいよ。素の俺を見せちゃったんだから、もう言い訳できないし」
「うん、言い訳しなくていいよ」

佐々木くんの顔を覗き込む。

「素の佐々木くんもステキだったから」
「!」

カッと、佐々木くんの耳まで赤く染まる。髪をグシャっと乱暴にかいた後「あ~」と、彼にしては低い声で悶えた。

「水野のそういう所、ズルい」
「ズルくないよ。本音を言っているだけ」
「だから……そういう所だよ」
「?」

言うと、佐々木くんはベンチの上に置いていたスマホを持ち上げる。そうして、ぎこちなく体の向きを私へ変えた。

「電話番号、教えて」
「え?」
「これから用があった時、もう走るのは嫌だからさ。俺、あんまり体力ないし」
「……ぷッ」
「こら、笑うな」

はいはい、と生意気な返事をした後。私の番号を言う。ほどなくして、ポケットに入ったままの私のスマホが音を立てた。

「俺の番号、登録しておいてね。何かあったらかけてきて」
「分かった。佐々木くんもね」
「……ん」

少し照れたように、佐々木くんは重い腰を上げた。これから病院へ行くのかな?それじゃあココでお別れだな。……いま教室はどういう雰囲気になっているだろう。心配はあるけど、佐々木くんよりも先に教室へ戻って皆の反応を見たい。おばあちゃんのことを思って涙を流す心の優しい彼がもう傷つくことのないように、皆の誤解を完璧に解いておきたい。それに教室から出て行く時、私ってば偉そうなこと言っちゃったし。あのことも皆に謝りたいんだ。そうやって皆との溝を埋めて、新たに皆と仲良くなれたら―――

「……」
「ん?どうした、水野」

まだ座ったままの私を見て、佐々木くんがコテンと頭を横へ倒す。それでも動かないものだから「何やってるの」って、笑いながら私へ手を伸ばす。触れた手は温かくて、どこか心地良くて。ずっと握っていたいって、そう思ってしまう。

ねぇ佐々木くん。学校の皆が佐々木くんへの誤解を解いたらさ、そうしたら佐々木くんは今よりも学校に来てくれる?もっと私、佐々木くんと一緒にいたいと思っちゃったんだ。だから佐々木くんが「学校に来たいと思える教室」に私がしていきたい。その一歩が、心から皆と仲良くなるってことなら私、勇気を出して皆とたくさん言葉を交わすよ。目に見えない大事な絆を、佐々木くんを交えてたくさん繋いでいきたいんだ。

「じゃあな。ありがとう、ついてきてくれて」
「ううん。おばあちゃん良かったね」
「……ばあちゃん、ブドウを詰まらせたみたいでさ」
「え、ブドウ?」

ブドウって、果物のブドウ?すると佐々木くんは頷いて「俺の好物で毎日弁当に入っているんだ」と、また頬を赤らめた。

「俺の弁当を作る時、自分の昼も作っていたらしい。だから昼にご飯を食べていた時、喉にブドウが……。それを知った母さんが〝ばあちゃんにとって安全な弁当を、今度は私が作る〟って宣言したんだ。だから……今度から、母さんが弁当を作ってくれることになった」
「そっか……そっかぁ」

おばあちゃんが作ってくれるお弁当だって嬉しい。だけど佐々木くんにとって〝お母さんが作ってくれるお弁当〟っていうのは、きっと特別な意味を持つと思うから。なんだか私まで嬉しくなって、ポカポカと胸が温かくなった。にんまりとした笑みを浮かべる私を見て、佐々木くんが「げ」と一歩引く。また私にからかわれると思ったのか、きびすを返して病院がある方向へ歩いた。その後ろ姿は、心なしか嬉しそうだ。

「佐々木くん良かったね……あ」

私はスマホを出して、不在着信の電話番号へ折り返す。すると私から少し離れた佐々木くんがピタリと止まり、スマホを耳にあてた。

『なに?』
「これは私の希望だから、嫌だったら断ってくれて構わないんだけど」
『うん?』

耳にあてたスマホごと、佐々木くんは首をかしげる。私も同じ動きをして、二人して斜めになった世界に立つ。

「今度お弁当を食べる時、一緒に食べない?その、できれば二人きりで」
『!』

佐々木くんはココからでもよく分かるくらい驚いた顔をした後、カッと赤く染めた。そして少し背中を丸めて、足元に転がっている石を私に向かって蹴り飛ばす。

『ほんと、そういう所だからね』
「え?」
『水野は自分の気持ちをストレートにぶつけてくるよね』
「それは……やっぱり私がサバサバしているってこと?」

すると遠くにいる佐々木くんが横へ首を振る。「違う」と、ハッキリと否定した声が電話越しからも、前に立つ佐々木くんからも大きく聞こえた。

『それは〝堂々としている〟っていうんだよ』
「堂々……?」
『水野はカッコイイよ』
「!」

今まで自分の気持ちを素直に話すことは、自分にとってマイナスでしかなかった。何を言っても「さすが」とか「言うねぇ」とか「さすがサバ女」とか。だから自分の気持ちに蓋をしてきたんだ。涙だって、皆の前で見せないように。

だけど、自分の気持ちに素直になっていいんだ。それで良かったんだね。

「ありがとう佐々木くん。好きだよ」

ん?
呟いた言葉にハッとして、顔を上げる。涙で潤んだ視界の中に、佐々木くんは立っていた。私と同じくスマホを耳にあてたまま、じっとこちらを見ている。どうしたらいいか分からなくて、ただ私も、彼を見つめ返した。だって私、今「好き」って言ったよね?佐々木くん本人に言っちゃったよね?

「あ、あの、あの……っ!」

突然芽生えた気持ちに、自分自身が戸惑ってしまう。確かに私はどんな佐々木くんもステキだと思うし、おばあちゃん思いなところもカッコイイと思うし、それに、

『水野』
「え?」

まるでアイロンをかけたみたいに、パリッとした声が鼓膜を揺する。私は熱を持ったままの顔を、戸惑いながらゆっくりと上げた。

『何も考えなくていい。何も考えなくていいから――
今から俺に、抱きしめられて』
「え!」

涙でぼやけた視界の向こうで、だんだんと佐々木くんが近づいてくる。大きくなってくる。まるで私の中で芽生えた気持ちと連動するように、徐々に存在感を増していく。そして、

「『水野』」

腕を引かれて、体が傾く。目に溜まった涙は、抱きしめられた衝撃で飛んで行った。クリアになった視界いっぱいに、嬉しそうに笑う佐々木くんの顔が写る。

「俺も水野が大好きだ」

【完】