その後、私はとても体育の授業に出る気になれなくて、佐々木くんのお弁当を持って一人で教室へ戻る。一気に満タンになった心は、再び一気に空っぽになった。さっき、この廊下を通った時はあんなに幸せな気持ちにだったのに。どうして今は絶望の淵に立たされているんだろう。
ガラッ
教室のドアを開ける。既に体育の授業は始まっているのに、一人の男子が席へ座っていた。
「あー、いたいた。脅迫した人、はっけーん」
「佐々木くん……」
今日も佐々木くんはピアスをキラキラと光らせながら、着崩した制服に身を包んでいた。自分の席だけど足を広げ、存在感が抜群だ。「……遅刻だよ」言える立場にないと分かっていたけど、気づいた時には勝手に口が動いていた。何も喋らなければ泣いてしまうと焦ったからだ。
「脅迫するよりマシでしょ」
「……そうかも」
本当に、その通りだ。私は佐々木くんに近寄り、「はい」とお弁当を渡す。彼は少し気恥しそうに、私を見ないまま「ん」とそれを受け取った。温かなお弁当がなくなって、どんどんと体が冷えていく。覚えたくない喪失感に、急に心細くなった。
「なに?泣きそうな顔をしてどうしたの」
「……別に。ただ寒いなって」
「ふーん。それなら温まる?」
「え?」
グイッと、急に腕を引かれた。何も警戒していなかった私はバランスを崩し、引かれるがまま佐々木くんの胸に倒れ込む。そして座っている佐々木くんの太ももの上に、自転車で二人乗りをするみたいに着地する。
「な、なな!」
思いもよらない事態に、寒いどころか体が沸騰するように熱くなる。逃げようと身じろぎすると「ダメ」と、佐々木くんが私の腰に腕を回した。
「脅迫した人を野放しには出来ないからね」
「佐々木くんは警察じゃないでしょ?」
「警察じゃないただの善人だって、悪人を捕まえることがあるじゃん。それだよ」
「じゃあ私にだって、佐々木くんを捕まえる権利がある」
佐々木くんは「え」と驚いて、拳一つ分くらい私から身を離す。
「俺、なんかしたっけ?」
「私の家族、ぴ助の命を軽んじた」
「ぴ助……」
しばらく考え込んだ後。合点が行った佐々木くんは「あぁ」と目を伏せた。
「水野が泣いた時か」
「っ!」
そうだ私、佐々木くんには泣き顔を見られているんだった。抱っこさせられるわ泣き顔を見られるわで、恥ずかしさが頂点に達する。だけど視線を下げようとした時、佐々木くんが私の顔を覗き見た。
「じゃあ水野も、俺を逮捕しないとね?」
「え」
「だって俺は悪者なんでしょ?」
「そう、だけど……」
佐々木くんが私を抱きしめているこの状況で、佐々木くんを抱きしめ返しちゃうと、それはハグだ。「無理!」と言って、佐々木くんから無理やり体を離す。やっぱりからかっていただけの佐々木くんは、カラカラと楽しそうに笑った。
「なんか水野って飽きないね」
「私は、もう佐々木くんには懲り懲りだよ……」
「はは、だろうね」
そう笑った佐々木くんの瞳が、悲しい色に瞬いた……気がした。さっきおばあちゃんから聞いた話を思い出す。そういえば佐々木くん、お母さんから見放されたんだっけ。じゃあ「懲り懲り」なんて言葉は良くなかったかな。私にとって悪意30くらいの言葉でも、佐々木くんにとっては悪意120くらいに聞こえたかもしれない。
改めて、「言葉を選ぶ」って難しい。一度でも言ってしまえば、取り返しのつかないことになるからだ。その人の背景にあるもの、その人の気持ち、全てを鑑みてピッタリな言葉を選ぶべきだ。そうすれば人は傷つかないし、傷つけられることもない。……だけど、それって可能なんだろうか。「常に全てを鑑みて言葉を発する」って、かなり難しいことだ。
かくいう私だって、さっき佐々木くんを120傷つけようとして「懲り懲り」と言ったわけじゃない(そうは言っても30くらいは気にしてもらいたかったけど)。だけど想像するに、彼は30以上の傷を負ってしまった。私の言葉のせいで彼は傷ついたんだ。それなら、きちんと謝らないと。
「ごめんね」
「なにが?」
「さっき、懲り懲りなんて言っちゃって。良くない言葉だった」
「……」
立ちすくむ私の正面で、椅子に座る佐々木くん。私を見あげた時、その口に描かれているのはゆるやかな弧。
「やっぱり水野って飽きないね」
「ちょっと、真面目に言ってるんだけど」
「そうは言われても、真面目に言われると困っちゃうから」
言うやいなや佐々木くんは私から逃げるように席を立ち、窓際へ移動した。「あー皆が戻ってくるまで暇だな」なんて、白々しい言葉まで吐いて。
「どうしてはぐらかすの?」
「苦手なんだ。真面目な話はしたくない」
全く私を見なくなった彼。その背中をジッと見つめる。真面目な話が苦手って、どういうことだろう?
「俺になんか謝らないでほしい。俺に傷つけられたなら、そっと距離を置いて、二度と近づかないで」
「……なんで、そんなこと言うの?」
「さぁ。分からない。でも強いて言えば、離れられる寂しさを知っているからかな」
「!」
それはお母さんのことを指しているのだろうか。お母さんから見はなされた瞬間、もしかして佐々木くんはかなり傷ついたんじゃないだろうか。それから殻に閉じこもり、心の内に誰も入れていない、とか。
その時、チラリと佐々木くんの横顔が見えた。彼のトレードマークである優しそうな顔を通りこして、泣きそうな顔に見える。ビックリした私は、思わず「あ」と声が出る。
「ハンカチあるよ?」
「……いらないよ。水野と違って俺は泣かない」
泣く理由もないし、と吐き捨てた言葉はただの強がりにしか聞こえなくなった。昨日不良の先輩をたった一人で倒した彼が、今は妙に小さく見える。
「佐々木くんのこと、あなたのおばあちゃんはちゃんと見てるよ。目の中に入れても痛くないって言ってた」
「あのおしゃべり……」
「素敵な関係だなって思ったよ。一度会っただけだけど、私おばあちゃんが大好きになっちゃった」
「……あっそ」
彼の机上に乗ったままのお弁当を見る。おばあちゃんが佐々木くんのことを語っている時の、あの幸せそうな顔を思い出した。佐々木優羽。その名の通り優しい子だと、おばあちゃんは嬉しそうに話してくれた。
「……ごめん」
「え?」
「ぴ助に酷いこと言った。まだ謝ってなかったから」
「……うん、いいよ」
おばあちゃん、私もそう思う。佐々木くんは名前の通り優しい人だと思うよ。少し心がひねくれているけれど、きっと根から悪い人じゃないって分かる。いや、やっと分かった。
言葉で傷つけられることがあるけれど、だけど言葉を交わして得られることもあるんだね。「噂」から逃げてばかりの私だけど、いつか向き合って誤解を解けたなら……その先に大切なものが待っているのかもしれないね。例えば今みたいに。
「伝えとく」
「え、何を?」
「水野がばあちゃんを好きなこと。きっと喜ぶだろうから」
「佐々木くんって、ほんと優しいよね」
「はぁ?」
おばあちゃんが喜ぶことをしてあげるんだもん。やっぱり佐々木くんは優しい人だ。いくら本人が否定しようが、その事実は変わらない。もう私は、彼の心の奥にある温かい物を知ってしまった。
「そう言ったからには、ちゃんとおばあちゃんに伝えてね」
「なんで喜ぶの。そこは〝恥ずかしいからやめて〟って嫌がってくれないと」
「素直じゃないなぁ、佐々木くんは」
眉間にシワを寄せてムスッとした顔の彼を見ながら、私は久しぶりに心から笑った。最悪な第一印象だった彼とここまで仲良くなれるなんて信じられなかったけど、あの日に得られなかった何かを今、私は掴みかけている気がした。
ガラッ
教室のドアを開ける。既に体育の授業は始まっているのに、一人の男子が席へ座っていた。
「あー、いたいた。脅迫した人、はっけーん」
「佐々木くん……」
今日も佐々木くんはピアスをキラキラと光らせながら、着崩した制服に身を包んでいた。自分の席だけど足を広げ、存在感が抜群だ。「……遅刻だよ」言える立場にないと分かっていたけど、気づいた時には勝手に口が動いていた。何も喋らなければ泣いてしまうと焦ったからだ。
「脅迫するよりマシでしょ」
「……そうかも」
本当に、その通りだ。私は佐々木くんに近寄り、「はい」とお弁当を渡す。彼は少し気恥しそうに、私を見ないまま「ん」とそれを受け取った。温かなお弁当がなくなって、どんどんと体が冷えていく。覚えたくない喪失感に、急に心細くなった。
「なに?泣きそうな顔をしてどうしたの」
「……別に。ただ寒いなって」
「ふーん。それなら温まる?」
「え?」
グイッと、急に腕を引かれた。何も警戒していなかった私はバランスを崩し、引かれるがまま佐々木くんの胸に倒れ込む。そして座っている佐々木くんの太ももの上に、自転車で二人乗りをするみたいに着地する。
「な、なな!」
思いもよらない事態に、寒いどころか体が沸騰するように熱くなる。逃げようと身じろぎすると「ダメ」と、佐々木くんが私の腰に腕を回した。
「脅迫した人を野放しには出来ないからね」
「佐々木くんは警察じゃないでしょ?」
「警察じゃないただの善人だって、悪人を捕まえることがあるじゃん。それだよ」
「じゃあ私にだって、佐々木くんを捕まえる権利がある」
佐々木くんは「え」と驚いて、拳一つ分くらい私から身を離す。
「俺、なんかしたっけ?」
「私の家族、ぴ助の命を軽んじた」
「ぴ助……」
しばらく考え込んだ後。合点が行った佐々木くんは「あぁ」と目を伏せた。
「水野が泣いた時か」
「っ!」
そうだ私、佐々木くんには泣き顔を見られているんだった。抱っこさせられるわ泣き顔を見られるわで、恥ずかしさが頂点に達する。だけど視線を下げようとした時、佐々木くんが私の顔を覗き見た。
「じゃあ水野も、俺を逮捕しないとね?」
「え」
「だって俺は悪者なんでしょ?」
「そう、だけど……」
佐々木くんが私を抱きしめているこの状況で、佐々木くんを抱きしめ返しちゃうと、それはハグだ。「無理!」と言って、佐々木くんから無理やり体を離す。やっぱりからかっていただけの佐々木くんは、カラカラと楽しそうに笑った。
「なんか水野って飽きないね」
「私は、もう佐々木くんには懲り懲りだよ……」
「はは、だろうね」
そう笑った佐々木くんの瞳が、悲しい色に瞬いた……気がした。さっきおばあちゃんから聞いた話を思い出す。そういえば佐々木くん、お母さんから見放されたんだっけ。じゃあ「懲り懲り」なんて言葉は良くなかったかな。私にとって悪意30くらいの言葉でも、佐々木くんにとっては悪意120くらいに聞こえたかもしれない。
改めて、「言葉を選ぶ」って難しい。一度でも言ってしまえば、取り返しのつかないことになるからだ。その人の背景にあるもの、その人の気持ち、全てを鑑みてピッタリな言葉を選ぶべきだ。そうすれば人は傷つかないし、傷つけられることもない。……だけど、それって可能なんだろうか。「常に全てを鑑みて言葉を発する」って、かなり難しいことだ。
かくいう私だって、さっき佐々木くんを120傷つけようとして「懲り懲り」と言ったわけじゃない(そうは言っても30くらいは気にしてもらいたかったけど)。だけど想像するに、彼は30以上の傷を負ってしまった。私の言葉のせいで彼は傷ついたんだ。それなら、きちんと謝らないと。
「ごめんね」
「なにが?」
「さっき、懲り懲りなんて言っちゃって。良くない言葉だった」
「……」
立ちすくむ私の正面で、椅子に座る佐々木くん。私を見あげた時、その口に描かれているのはゆるやかな弧。
「やっぱり水野って飽きないね」
「ちょっと、真面目に言ってるんだけど」
「そうは言われても、真面目に言われると困っちゃうから」
言うやいなや佐々木くんは私から逃げるように席を立ち、窓際へ移動した。「あー皆が戻ってくるまで暇だな」なんて、白々しい言葉まで吐いて。
「どうしてはぐらかすの?」
「苦手なんだ。真面目な話はしたくない」
全く私を見なくなった彼。その背中をジッと見つめる。真面目な話が苦手って、どういうことだろう?
「俺になんか謝らないでほしい。俺に傷つけられたなら、そっと距離を置いて、二度と近づかないで」
「……なんで、そんなこと言うの?」
「さぁ。分からない。でも強いて言えば、離れられる寂しさを知っているからかな」
「!」
それはお母さんのことを指しているのだろうか。お母さんから見はなされた瞬間、もしかして佐々木くんはかなり傷ついたんじゃないだろうか。それから殻に閉じこもり、心の内に誰も入れていない、とか。
その時、チラリと佐々木くんの横顔が見えた。彼のトレードマークである優しそうな顔を通りこして、泣きそうな顔に見える。ビックリした私は、思わず「あ」と声が出る。
「ハンカチあるよ?」
「……いらないよ。水野と違って俺は泣かない」
泣く理由もないし、と吐き捨てた言葉はただの強がりにしか聞こえなくなった。昨日不良の先輩をたった一人で倒した彼が、今は妙に小さく見える。
「佐々木くんのこと、あなたのおばあちゃんはちゃんと見てるよ。目の中に入れても痛くないって言ってた」
「あのおしゃべり……」
「素敵な関係だなって思ったよ。一度会っただけだけど、私おばあちゃんが大好きになっちゃった」
「……あっそ」
彼の机上に乗ったままのお弁当を見る。おばあちゃんが佐々木くんのことを語っている時の、あの幸せそうな顔を思い出した。佐々木優羽。その名の通り優しい子だと、おばあちゃんは嬉しそうに話してくれた。
「……ごめん」
「え?」
「ぴ助に酷いこと言った。まだ謝ってなかったから」
「……うん、いいよ」
おばあちゃん、私もそう思う。佐々木くんは名前の通り優しい人だと思うよ。少し心がひねくれているけれど、きっと根から悪い人じゃないって分かる。いや、やっと分かった。
言葉で傷つけられることがあるけれど、だけど言葉を交わして得られることもあるんだね。「噂」から逃げてばかりの私だけど、いつか向き合って誤解を解けたなら……その先に大切なものが待っているのかもしれないね。例えば今みたいに。
「伝えとく」
「え、何を?」
「水野がばあちゃんを好きなこと。きっと喜ぶだろうから」
「佐々木くんって、ほんと優しいよね」
「はぁ?」
おばあちゃんが喜ぶことをしてあげるんだもん。やっぱり佐々木くんは優しい人だ。いくら本人が否定しようが、その事実は変わらない。もう私は、彼の心の奥にある温かい物を知ってしまった。
「そう言ったからには、ちゃんとおばあちゃんに伝えてね」
「なんで喜ぶの。そこは〝恥ずかしいからやめて〟って嫌がってくれないと」
「素直じゃないなぁ、佐々木くんは」
眉間にシワを寄せてムスッとした顔の彼を見ながら、私は久しぶりに心から笑った。最悪な第一印象だった彼とここまで仲良くなれるなんて信じられなかったけど、あの日に得られなかった何かを今、私は掴みかけている気がした。



