次の日。
私の斜め前の席は、また空っぽだった。佐々木くん、今日も学校に来ないのかな。それとも遅れてくるのだろうか。はたまた昨日みたいに、学校のどこかでケンカをしているのだろうか。
「そんなこと考えたって、私には関係ないのに」
一昨日から急に関わりを持った佐々木くんがあんなに破天荒な人物だったら、ここまで私も気にしなかっただろう。ただの不良であっても「もう関わりを持たないようにしよう」で終わっていたはずだ。だけどいかんせん出会いというか、ファーストコンタクトが最悪すぎた。私が溺愛していたぴ助の存在を軽んじられたことは、彼がどれほど善人であろうと決して覆らない。いつか謝って欲しいと思っているし、謝ってもらうつもりだ。
あとは、たまに垣間見える彼の憂いだろうか。あるいは影というのか。ともかく普段の佐々木くんからは想像できない「裏の顔」がありそうだと昨日気づいてから余計に、頭の隅に彼の存在がチラつくようになった。佐々木くんは今日、学校へ来るのだろうか。
「ねぇ水野さん」
「ん?」
「今日、急きょ一限目が体育になったんだって。急いで更衣室に移動して、って先生から伝言があったよ」
「え、そうなんだ」
教室を見ると、確かに男女ともに慌ただしく動いている。廊下では授業変更を告げる誰かの大きな声が響いていた。私、あの声が聞こえなかったの?しかも聞こえなかった理由が、佐々木くんのことを考えていたから?「!」そこに気づいた瞬間、カッと熱が顔に集まるのを感じた。私ってば、昨日からどうかしている。
「水野さん?」
「あ、ごめん。ありがとう。急いで移動するね」
「うん、良ければ一緒に行こうよ」
「もちろん、嬉しい」
話しかけてくれたのは近藤さん。クラスで頼りになる学級委員だ。黒髪のボブが、可愛らしい彼女によく似合っている。彼女は私と行けると知ると、何故かとても喜んでくれた。対して私もクラスの女子から「サバ女」と遠巻きに見られることが多いから、こうやってグイグイ来てくれるととても嬉しい。はやる気持ちを抑えながら体操着を掴む。その時、ふと斜め前の席が目に入った。もしも佐々木くんが一限の途中で遅れて教室に来た時、混乱しないだろうか。一限目は漢文なのに誰もいないなんて、私だったら確実に焦る。
私は一旦体操着を机上に置き、教壇にあがる。そして白いチョークを手に取り「一限目は体育に変更」と、黒板のど真ん中に大きく書いた。また教室に残っている人たちが、そんな私を見て「さすが」という。
「サバサバ系女子ってやることなすことカッコイイわ」
「行動に迷いがないよね」
「……」
チョークを戻し、パンパンと手を払う。頭の中では「サバ女って本当はどういう意味だっけ」とモヤモヤしながら考えていた。噂の根底にある「サバ女」から尾ひれ背びれが生えて、色々言われているように感じる。今の行動をもしも近藤さんが行えば「さすが学級委員」となるのだろうか。違う誰かがすれば「気が利く人だね」となるのだろうか。もしそうだとすればサバ女と噂されている私はかなり損だ。だって、どれもこれも「これだからサバ女は〜」と嫌味に聞こえるのだから。別にサバ女だからってわけじゃない。こうでもしないと途中で来た佐々木くんが分からなくなるかなと思っただけ。言えば親切心だったけど、それすらも〝見た目〟に食われてしまったのか。
「……悔しいな」
「何かあったの、水野さん」
「えっと……ううん、なんでもない」
早歩きで更衣室へ移動する。その間、隣の近藤さんはニコニコしながらこんな事を言った。
「実は私、ずっと水野さんと話したかったんだよね」
「私と?」
私がサバ女と呼ばれているから?首を捻る私を見ながら、近藤さんは口に手を添えおしとやかに笑う。
「さっきの黒板に伝言を書く所もそうだけど、水野さんってすごく気が利いて優しいでしょ?それなのに皆からサバサバしてるって言われて……。私はね、水野さんはもっと違う人じゃないかなって思っているんだ」
「!」
近藤さんの弾んだ声が、リズム良く私の心臓をノックする。本当の私に語りかけてくれているようで嬉しい。ノックに応えるように、心臓が早鐘を打ち始める。
「実は……」
知って欲しい。本当は声を大にしていいたい。私はサバサバなんかしていないし、本当は泣き虫だって。サバ女って呼ばれ方も嫌いで、噂なんかなくなってほしいと思っているって。
キュッ
「実は、私ねっ」
足を止めて近藤さんを見る。彼女の笑った顔を見て、泣きそうになった。本当の私を見てくれる人がいたんだ。嬉しくて脱力して、思わず体操服を落としてしまいそう!だけど、その時だった。近藤さんが何かに注目する。
「あのおばあちゃん、誰だろう?」
「え?」
更衣室へ行くには校舎を変える必要があり、校舎と校舎を繋ぐ一階の渡り廊下からは校門が近い。距離にして徒歩二十歩ほど。そこで一人のおばあちゃんが立ちすくんでいて、眉を下げて学校の様子を伺っていた。手に何か持っている?もしかして誰かの忘れ物を届けに来たのかな?
「先生たち気づいているのかな?ウチの学校ってインターホンがなかったよね?」
「明らかに困っていそうだよね」
おばあちゃんは、さっきから不安げに辺りをキョロキョロと見回している。ん?あの下がり眉に見覚えがある。どこかであったような、誰だっけ?
数秒ほど考えると、昨日ケンカ後に私を教室まで送ってくれた佐々木くんの顔が浮かんだ。なんと目の前のおばあちゃんと佐々木くんの困った顔が瓜二つなのだ。そういえば彼は以前「おばあちゃんからタオルを渡された」と言っていた。もしかして彼女は――私は近藤さんに「ごめん」と謝る。
「あの人、たぶん知っている。ちょっと話してくるから、先に行っててくれる?」
「え……」
「すぐ戻るね」
そして校門へ走る。上履きのままだから、砂では無くコンクリートを選びながら近づいた。もしもこんな所を先生に見られたら怒られるだろうな。だけどおばあちゃんを放っておけないよ。佐々木くんに関する重要なことかもしれないし……いや、佐々木くんを心配しているとかではなく、困っているおばあちゃんを放っておけないだけだから。
必死に自分に言い聞かせながら、おばあちゃんへ声をかかえる。
「どうかされましたか?」
するとおばあちゃんは水を得た魚のように、パッと表情を明るくした。
「一年B組、佐々木優羽の祖母です。お弁当を作ったのに、あの子ったら忘れてしまって。どうしようか迷ったけど、結局届けに来てしまったわ」
やや腰の曲がった、白髪のおばあちゃんだ。七十歳を超えていそうな落ち着いた雰囲気。穏やかな声に優しい話し方が、どこか佐々木くんを連想させる。
でも正直〝佐々木くんにお弁当なんて〟と思ってしまった。だって佐々木くんは学校にきていないし、今日来ない可能性だってある。いま私が預かってあげたいけど、お弁当が無駄になってしまうかもしれない。それに、佐々木くんが学校に来ていないっておばあちゃんは知っているのだろうか。知らないのであれば、正直におばあちゃんに伝えるべきだろうか。おばあちゃんは、佐々木くんのことをどこまで知っているんだろう?
「……」
「あの子、今日は学校に来ているかしら?」
「え」
神妙な面持ちでお弁当を眺めていたら、おばあちゃんから話しかけられた。あぁ気を遣わせてしまった。したくないだろう質問を、おばあちゃん自らにさせてしまった。「……」なんて答えようか迷っていると、おばあちゃんがにっこりと笑う。つられて、やわらかそうなほっぺがわずかに上がった。
「答えにくい質問をしてごめんなさいね。あなた優しいのね」
「いえ、そんなことは……」
ブンブンと頭を左右にふる。するとおばあちゃんは「ほほ」と声に出して笑った。
「でもね、いいのよ。優羽のことはよく分かっているから。あなたの様子から察するに、まだ優羽は登校していないのね」
「……はい」
「それなら余計に、このお弁当を預かって欲しいの。〝今日もしっかり食べるのよ〟って、優羽にメール入れとくわね」
「え、〝今日も〟ってことは毎日お弁当を作られているんですか?」
「そうなのよ」
おばあちゃんは目を細めて笑う。私は驚きのあまり、口が開いたままになった。今日だけじゃなくて毎日?お母さんじゃなくて、おばあちゃんがお弁当を作っているの?
おばあちゃんの曲がった腰を見ながら、思わず固まってしまう。そんな無礼な態度をした私を見ても、おばあちゃんはにこやかにほほ笑むだけ。
「優羽の親は、不良になったあの子を見限ってしまってね。でも名前の通り、優しい子なのよ。口は悪いけど年老いた私のことを心配してくれて〝寝とけ休んどけ〟って。あまりにも心配するものだから〝寝てるばかりも毒なのよ〟って言い返してやったの。その言い合いをしてから、私がお弁当を作るようになったわ。こうでもしないと体が訛るって言うと、すっかり何も言わなくなったわ」
「そんなことが……」
言葉は悪いけど、佐々木くんのお母さんは、佐々木くんのことを諦めてしまったのだろうか。そんなお母さんを見て、佐々木くんはなんて思ったんだろう。手を差し伸べてくれたおばあちゃんを、佐々木くんはなんて思っただろう。「……」言葉が出ない。だけどおばあちゃんは頬を赤らめながら、孫である佐々木くんを褒めちぎった。
「私からすると、優羽は目の中に入れても痛くないの。文句を言いながらも、毎日お弁当を食べて帰って来てくれるところもそう。私はね、そんな優しくて可愛い優羽が大好きなのよ」
「……そうですね」
優しい羽と書いて、優羽。以前、おばあちゃんから持たされたタオルを肌身離さず身につけていた彼のことを思い出す。優羽、優羽。うん、いい名前だ。
「このお弁当、私がお預かりしてもいいですか?」
「あら、でも……」
悪いわ、という言葉を飲み込んだおばあちゃん。だけど私が「責任を持って佐々木くんに渡します」と言うと、眉間のシワをゆっくりと伸ばした。
「それじゃあお願いしようかしら。あなた、お名前は?」
「水野と言います。水野が大切な物を預かっているから必ず学校に来るよう、佐々木くんにメールでお伝えください」
「あら、素敵ね」
私たちは、ふふと笑い合う。いかにも男の子のお弁当っぽい黒い包みを、私は至極丁寧に受け取った。私が食べる物よりもずっしりしている。その重さはおばあちゃんから佐々木くんへの愛だろう。なんと心地よく、幸せな重さだ。
「それでは私はこれで。気をつけてお帰りくださいね」
「ありがとうね、水野さん」
私たちはお辞儀をしあって別れる。元いた渡り廊下に戻ると、なんと近藤さんが私の帰りを待っていてくれた。私が手にした黒い包身を見て「なにこれ?」と首を捻る。
「佐々木くんのお弁当を預かったの。あの方は佐々木くんのおばあちゃんで、」
近藤さんが待っていてくれたことが嬉しくて説明していると、みるみるうちに彼女の顔がぐにゃりと曲がっていく。そして「うわ」と、足を後ろへ一歩引いた。
「水野さん、あの佐々木くんのおばあちゃんと仲良しなんだ。しかもお弁当を預かるなんて。不良の人の家族とそこまで仲良しになるなんて、私には無理」
「え」
「やっぱ水野さんって、噂通りサバサバして誰に対しても壁がないんだね」
「!」
絶句した。まさかそんな風に思われるなんて。ただ私は、クラスメイトのお弁当を預かっただけなのに。佐々木くんのお弁当を預かったからそんな風に言われるの?それとも私が受け取ったから、そんな風に言われるの?
「私、先に行くね」
「……うん」
見た目通りの人ではないと言ってくれた近藤さんが、「噂通りサバサバしている」と言い残して、去っていく。私は何の反論も出来ないまま、彼女の背中を黙って見つめた。腕の中のお弁当は、まだ温かい。さっきのおばあちゃんの笑顔を思い出して、私は泣きそうになった。
私の斜め前の席は、また空っぽだった。佐々木くん、今日も学校に来ないのかな。それとも遅れてくるのだろうか。はたまた昨日みたいに、学校のどこかでケンカをしているのだろうか。
「そんなこと考えたって、私には関係ないのに」
一昨日から急に関わりを持った佐々木くんがあんなに破天荒な人物だったら、ここまで私も気にしなかっただろう。ただの不良であっても「もう関わりを持たないようにしよう」で終わっていたはずだ。だけどいかんせん出会いというか、ファーストコンタクトが最悪すぎた。私が溺愛していたぴ助の存在を軽んじられたことは、彼がどれほど善人であろうと決して覆らない。いつか謝って欲しいと思っているし、謝ってもらうつもりだ。
あとは、たまに垣間見える彼の憂いだろうか。あるいは影というのか。ともかく普段の佐々木くんからは想像できない「裏の顔」がありそうだと昨日気づいてから余計に、頭の隅に彼の存在がチラつくようになった。佐々木くんは今日、学校へ来るのだろうか。
「ねぇ水野さん」
「ん?」
「今日、急きょ一限目が体育になったんだって。急いで更衣室に移動して、って先生から伝言があったよ」
「え、そうなんだ」
教室を見ると、確かに男女ともに慌ただしく動いている。廊下では授業変更を告げる誰かの大きな声が響いていた。私、あの声が聞こえなかったの?しかも聞こえなかった理由が、佐々木くんのことを考えていたから?「!」そこに気づいた瞬間、カッと熱が顔に集まるのを感じた。私ってば、昨日からどうかしている。
「水野さん?」
「あ、ごめん。ありがとう。急いで移動するね」
「うん、良ければ一緒に行こうよ」
「もちろん、嬉しい」
話しかけてくれたのは近藤さん。クラスで頼りになる学級委員だ。黒髪のボブが、可愛らしい彼女によく似合っている。彼女は私と行けると知ると、何故かとても喜んでくれた。対して私もクラスの女子から「サバ女」と遠巻きに見られることが多いから、こうやってグイグイ来てくれるととても嬉しい。はやる気持ちを抑えながら体操着を掴む。その時、ふと斜め前の席が目に入った。もしも佐々木くんが一限の途中で遅れて教室に来た時、混乱しないだろうか。一限目は漢文なのに誰もいないなんて、私だったら確実に焦る。
私は一旦体操着を机上に置き、教壇にあがる。そして白いチョークを手に取り「一限目は体育に変更」と、黒板のど真ん中に大きく書いた。また教室に残っている人たちが、そんな私を見て「さすが」という。
「サバサバ系女子ってやることなすことカッコイイわ」
「行動に迷いがないよね」
「……」
チョークを戻し、パンパンと手を払う。頭の中では「サバ女って本当はどういう意味だっけ」とモヤモヤしながら考えていた。噂の根底にある「サバ女」から尾ひれ背びれが生えて、色々言われているように感じる。今の行動をもしも近藤さんが行えば「さすが学級委員」となるのだろうか。違う誰かがすれば「気が利く人だね」となるのだろうか。もしそうだとすればサバ女と噂されている私はかなり損だ。だって、どれもこれも「これだからサバ女は〜」と嫌味に聞こえるのだから。別にサバ女だからってわけじゃない。こうでもしないと途中で来た佐々木くんが分からなくなるかなと思っただけ。言えば親切心だったけど、それすらも〝見た目〟に食われてしまったのか。
「……悔しいな」
「何かあったの、水野さん」
「えっと……ううん、なんでもない」
早歩きで更衣室へ移動する。その間、隣の近藤さんはニコニコしながらこんな事を言った。
「実は私、ずっと水野さんと話したかったんだよね」
「私と?」
私がサバ女と呼ばれているから?首を捻る私を見ながら、近藤さんは口に手を添えおしとやかに笑う。
「さっきの黒板に伝言を書く所もそうだけど、水野さんってすごく気が利いて優しいでしょ?それなのに皆からサバサバしてるって言われて……。私はね、水野さんはもっと違う人じゃないかなって思っているんだ」
「!」
近藤さんの弾んだ声が、リズム良く私の心臓をノックする。本当の私に語りかけてくれているようで嬉しい。ノックに応えるように、心臓が早鐘を打ち始める。
「実は……」
知って欲しい。本当は声を大にしていいたい。私はサバサバなんかしていないし、本当は泣き虫だって。サバ女って呼ばれ方も嫌いで、噂なんかなくなってほしいと思っているって。
キュッ
「実は、私ねっ」
足を止めて近藤さんを見る。彼女の笑った顔を見て、泣きそうになった。本当の私を見てくれる人がいたんだ。嬉しくて脱力して、思わず体操服を落としてしまいそう!だけど、その時だった。近藤さんが何かに注目する。
「あのおばあちゃん、誰だろう?」
「え?」
更衣室へ行くには校舎を変える必要があり、校舎と校舎を繋ぐ一階の渡り廊下からは校門が近い。距離にして徒歩二十歩ほど。そこで一人のおばあちゃんが立ちすくんでいて、眉を下げて学校の様子を伺っていた。手に何か持っている?もしかして誰かの忘れ物を届けに来たのかな?
「先生たち気づいているのかな?ウチの学校ってインターホンがなかったよね?」
「明らかに困っていそうだよね」
おばあちゃんは、さっきから不安げに辺りをキョロキョロと見回している。ん?あの下がり眉に見覚えがある。どこかであったような、誰だっけ?
数秒ほど考えると、昨日ケンカ後に私を教室まで送ってくれた佐々木くんの顔が浮かんだ。なんと目の前のおばあちゃんと佐々木くんの困った顔が瓜二つなのだ。そういえば彼は以前「おばあちゃんからタオルを渡された」と言っていた。もしかして彼女は――私は近藤さんに「ごめん」と謝る。
「あの人、たぶん知っている。ちょっと話してくるから、先に行っててくれる?」
「え……」
「すぐ戻るね」
そして校門へ走る。上履きのままだから、砂では無くコンクリートを選びながら近づいた。もしもこんな所を先生に見られたら怒られるだろうな。だけどおばあちゃんを放っておけないよ。佐々木くんに関する重要なことかもしれないし……いや、佐々木くんを心配しているとかではなく、困っているおばあちゃんを放っておけないだけだから。
必死に自分に言い聞かせながら、おばあちゃんへ声をかかえる。
「どうかされましたか?」
するとおばあちゃんは水を得た魚のように、パッと表情を明るくした。
「一年B組、佐々木優羽の祖母です。お弁当を作ったのに、あの子ったら忘れてしまって。どうしようか迷ったけど、結局届けに来てしまったわ」
やや腰の曲がった、白髪のおばあちゃんだ。七十歳を超えていそうな落ち着いた雰囲気。穏やかな声に優しい話し方が、どこか佐々木くんを連想させる。
でも正直〝佐々木くんにお弁当なんて〟と思ってしまった。だって佐々木くんは学校にきていないし、今日来ない可能性だってある。いま私が預かってあげたいけど、お弁当が無駄になってしまうかもしれない。それに、佐々木くんが学校に来ていないっておばあちゃんは知っているのだろうか。知らないのであれば、正直におばあちゃんに伝えるべきだろうか。おばあちゃんは、佐々木くんのことをどこまで知っているんだろう?
「……」
「あの子、今日は学校に来ているかしら?」
「え」
神妙な面持ちでお弁当を眺めていたら、おばあちゃんから話しかけられた。あぁ気を遣わせてしまった。したくないだろう質問を、おばあちゃん自らにさせてしまった。「……」なんて答えようか迷っていると、おばあちゃんがにっこりと笑う。つられて、やわらかそうなほっぺがわずかに上がった。
「答えにくい質問をしてごめんなさいね。あなた優しいのね」
「いえ、そんなことは……」
ブンブンと頭を左右にふる。するとおばあちゃんは「ほほ」と声に出して笑った。
「でもね、いいのよ。優羽のことはよく分かっているから。あなたの様子から察するに、まだ優羽は登校していないのね」
「……はい」
「それなら余計に、このお弁当を預かって欲しいの。〝今日もしっかり食べるのよ〟って、優羽にメール入れとくわね」
「え、〝今日も〟ってことは毎日お弁当を作られているんですか?」
「そうなのよ」
おばあちゃんは目を細めて笑う。私は驚きのあまり、口が開いたままになった。今日だけじゃなくて毎日?お母さんじゃなくて、おばあちゃんがお弁当を作っているの?
おばあちゃんの曲がった腰を見ながら、思わず固まってしまう。そんな無礼な態度をした私を見ても、おばあちゃんはにこやかにほほ笑むだけ。
「優羽の親は、不良になったあの子を見限ってしまってね。でも名前の通り、優しい子なのよ。口は悪いけど年老いた私のことを心配してくれて〝寝とけ休んどけ〟って。あまりにも心配するものだから〝寝てるばかりも毒なのよ〟って言い返してやったの。その言い合いをしてから、私がお弁当を作るようになったわ。こうでもしないと体が訛るって言うと、すっかり何も言わなくなったわ」
「そんなことが……」
言葉は悪いけど、佐々木くんのお母さんは、佐々木くんのことを諦めてしまったのだろうか。そんなお母さんを見て、佐々木くんはなんて思ったんだろう。手を差し伸べてくれたおばあちゃんを、佐々木くんはなんて思っただろう。「……」言葉が出ない。だけどおばあちゃんは頬を赤らめながら、孫である佐々木くんを褒めちぎった。
「私からすると、優羽は目の中に入れても痛くないの。文句を言いながらも、毎日お弁当を食べて帰って来てくれるところもそう。私はね、そんな優しくて可愛い優羽が大好きなのよ」
「……そうですね」
優しい羽と書いて、優羽。以前、おばあちゃんから持たされたタオルを肌身離さず身につけていた彼のことを思い出す。優羽、優羽。うん、いい名前だ。
「このお弁当、私がお預かりしてもいいですか?」
「あら、でも……」
悪いわ、という言葉を飲み込んだおばあちゃん。だけど私が「責任を持って佐々木くんに渡します」と言うと、眉間のシワをゆっくりと伸ばした。
「それじゃあお願いしようかしら。あなた、お名前は?」
「水野と言います。水野が大切な物を預かっているから必ず学校に来るよう、佐々木くんにメールでお伝えください」
「あら、素敵ね」
私たちは、ふふと笑い合う。いかにも男の子のお弁当っぽい黒い包みを、私は至極丁寧に受け取った。私が食べる物よりもずっしりしている。その重さはおばあちゃんから佐々木くんへの愛だろう。なんと心地よく、幸せな重さだ。
「それでは私はこれで。気をつけてお帰りくださいね」
「ありがとうね、水野さん」
私たちはお辞儀をしあって別れる。元いた渡り廊下に戻ると、なんと近藤さんが私の帰りを待っていてくれた。私が手にした黒い包身を見て「なにこれ?」と首を捻る。
「佐々木くんのお弁当を預かったの。あの方は佐々木くんのおばあちゃんで、」
近藤さんが待っていてくれたことが嬉しくて説明していると、みるみるうちに彼女の顔がぐにゃりと曲がっていく。そして「うわ」と、足を後ろへ一歩引いた。
「水野さん、あの佐々木くんのおばあちゃんと仲良しなんだ。しかもお弁当を預かるなんて。不良の人の家族とそこまで仲良しになるなんて、私には無理」
「え」
「やっぱ水野さんって、噂通りサバサバして誰に対しても壁がないんだね」
「!」
絶句した。まさかそんな風に思われるなんて。ただ私は、クラスメイトのお弁当を預かっただけなのに。佐々木くんのお弁当を預かったからそんな風に言われるの?それとも私が受け取ったから、そんな風に言われるの?
「私、先に行くね」
「……うん」
見た目通りの人ではないと言ってくれた近藤さんが、「噂通りサバサバしている」と言い残して、去っていく。私は何の反論も出来ないまま、彼女の背中を黙って見つめた。腕の中のお弁当は、まだ温かい。さっきのおばあちゃんの笑顔を思い出して、私は泣きそうになった。



