「これ、ほんとかな」

 買ったばかりのソファは一人で使うにしては大きく、私はそこに寝転びながら独り言ちた。

 橋本(はしもと)朱里(あかり)。28歳。どこにでもある中小広告会社で勤めている。
 あまり変化を好まない性格の私は、新卒の頃からコツコツと職場での立場を確立していき、今ではそこそこの地位に立っていた。
 そして、特にこれと言った趣味があるわけでもないため、割と貯金もある。

 順風満帆に生きていくかのように思えた人生。
 それはつい先日、急にその風向きを変えた。否、変えられてしまった。
 というのも、8年間付き合っていた彼氏に振られたのだ。しかも私が28歳になる誕生日に。

 20歳の時に開かれた高校の同窓会で彼とは再開した。
 高校時代に仲良くしていたということもあって、その後すんなりと交際関係に発展した。
 そこから、約5年間ゆっくりと愛を育み続け、倦怠期や壁が生じても話し合って乗り越えてきた。
 そして、3年前に彼氏の方から同棲の提案をされ、私は二つ返事でそれに返し、最近では結婚も意識し始めていた。
 街のショーケースの中で輝くその純白のドレスに胸を踊らせたり、書店であの有名な某結婚雑誌を手にとって意味もなく眺めてみたり。

 その人と結婚するだろうなと信じて疑っていなかった。所謂、浮かれていた。

 私の28歳の誕生日。
 彼氏の方から近くに新しく出来たカフェに行かないかとの誘いがあった。
 インドアな彼からのそれは珍しく、もしかして、と胸に期待を募らせていた。
 いつもよりほんのちょっと派手目に化粧を施してみたり、お気に入りの服をクローゼットから引っ張り出してみたり。
 それこそ分かりやすく浮かれていた。

 そんな中だった。
 新しくオープンしたということもあって新鮮な空気感の漂う店内。端の席を選んだ2人のテーブルは、注文した季節のフルーツをふんだんに使ったパフェで彩られていた。
 さあ、食べようと私がスプーンに手をかけた時にそれは放たれた。

 『朱里……ごめん、好きな人ができたんだ別れて欲しい』
 『実はもう妊娠させちゃって……。責任取りたいんだ』
 『朱里は僕がいなくても大丈夫だけど、あの子は違うんだよ』

 唖然とした。
 矢継ぎ早に言われた言葉たちに、開いた口が塞がらないとは正にこのことなのかとこの時思った。
 彼女がいるのにどうして他の女の人を妊娠させて、その上そっちを選ぶの、?意味が分からない。

 衝撃のあまりに上手く頭が回らず、そっか、で終わってしまい私の8年間はいとも簡単に崩れ落ちてしまった。
 店内に1人残された女に、周りの客は隠しもせずに哀れみの目を向ける。
 けれど、そんな周りの視線も気にならないほどに、私の脳内は慌ただしかった。
 考えるのは全てこれからのこと。家どうしようとか、アラサー手前から恋愛できるのか、とか。
 しばらくしてハッとし、周りの視線のいたたまれなさにカフェを飛び出て、急ぎ昔からの友達に連絡した。

 そして、一晩中友達に愚痴りたおし、すぐに新しいアパートへの引越し作業を済ませて今に至る。
 突然のことであったため、必要最低限の物のみをあの家から持ってきて、あとは買い直した。
 私の寝転がっているソファが真新しいのもそれが理由だ。

 少し回想が長くなってしまったが、とりあえず今の私は焦っていた。結婚願望のある私にとって今回のことは致命傷で。
 もう無理なのかもしれないと意気消沈していた時に目にしたのは、よくあるマッチングアプリの広告だった。
 よく見る広告に、つい口をついて出たのが冒頭のセリフになる。

 今までそういうアプリを信用してこなかったが、如何せん意地を張っているところではない。
 そう思って、勢いでそのアプリをインストールした。

 ピコンピコン。

 簡単な自分のプロフィールを登録してすぐに立て続けに鳴った通知。
 驚いて見てみると、数人の男性から興味がある、話してみたいという旨のメッセージがきていた。順に返信して、単純にその応酬を楽しんだ。
 ……最初は。
 大事なことだからもう一度言うが、最初は楽しかった。

 「なんでこんなに倫理観終わってるやつばっかなの、?」

 スマホの画面を睨みつけながら言った。
 話しかけてくるのは、いい顔して近づいて来ていざ蓋を開けてみれば、頭のネジがいくらか飛んでしまっているような人たちばかり。
 まだ始めて一日も経っていないというのに、ダメ男フルコンボしそうな勢いだった。
 唯一、話が通じる常識人はたったの1人だけだった。

 「この『こう』って人いいなあ」

 その人は前提として話が通じて、趣味も合う人で。
 30代前半と書かれているため、それほど年齢が離れているわけでもないという点も私を安心させた。
 数日ほど『こう』さんとのメッセージのやり取りを重ね、ついに向こうから会ってみないかとの誘いが来た。
 引っ込み思案な私がまだ早いのでは……と渋るけど、そうも言ってはいられない年齢だ。会ってみて違うと思えば変えればいいだけの話だ、と己を鼓舞し、来る日に備えた。

 週末。今日は『こう』さんと会う日。
 待ち合わせ場所に立って内心そわそわしていた。

 「しゅりさん、ですか?」
 「あ、そうです。こうさん?」

 呼ばれた名は、私のアプリ内でのニックネームだった。
 朱里の漢字を別の読み方をしただけの安直な名前。
 それを口にした男性――こうさんは思っていたよりも長身で、でもやっぱり顔写真よりもいくらか老けているように見えた。

 「そうです。しゅりさん、写真で見るよりも可愛らしい方なんですね」
 「そんなことないと思いますけど……ありがとうございます!」

 よくあるお世辞だとしても、気分は良い。
 そこで少しやり取りをした後、立ち話もなんだからと、近くのカフェに入った。
 こうさんはメッセージでやり取りをしていたように、物腰柔らかくて話が楽しかった。
 その日は、終日談笑して終えた。

 それから、何回か逢瀬を重ねて、お互いのことをよく知り合った頃。
 いつ次のステージに行ってもおかしくない程の関係性になっていた。

 けれど、私には少し引っかることがあった。引っかかるというよりかは、違和感と言った方がしっくりくるかもしれない。
 なんとなく、彼と会って話すとその後の疲労感がすごいのだ。
 引っ込み思案な朱里だから、人と話すことに疲れているのかもしれない、とそれをスルーしていたがどうも違うっぽい。
 彼と話す時にみ異常に疲労感がたまるのだ。
 不思議に思った朱里は、次に彼と会う時に注意深く観察してみようと決意した。

 「いい天気だね。今日はショッピングだったよね」
 「うん」
 「早速向かおうか」

 今のところは大丈夫。
 少し待ち合わせ時刻を15分ぐらい過ぎていて、遅れて来たことに何も言わないのかと思わないでもないが、
 15分だし誤差の範囲内だきっと。
 歩幅を合わせてくれる彼に、私はそう思い直した。

 「この服のデザイン良いなー」
 「うーん、朱里だったらこっちの方が似合う気がする」
 「そうかな」

 今手に取っている方が私の好みではあるけど、センスのある彼がそう言うのなら、そっちの方が似合うのだろうきっと。
 真剣な顔で服を見漁る横顔に、私はそう思い直した。

 「あ、あそこ大変そう。三つ子かな?三人ともギャン泣きしてる」
 「あれぐらいの年齢だったら仕方ないよ。朱里も子どもできたら分かると思うよ?お母さんの大変さが」

 別にあの親子に対して、うるさいとか言及しているわけではないのだが、どうして宥められているのだろうか。……いや、私の言い方が紛らわしかったのかもしれない。
 特に気にも止めてない態度の彼に、私はそう思い直した。

 「そう言えばこの間テレビで見たんだけど、あそこのお店評価高いんだってー」
 「…………そこが良いの?」
 「え、あ。こうさんが嫌なら全然……」
 「いや、まあ、そこでいいよ」

 普段、彼はどこに行きたい何をしたいを何も言わないから、こっちが率先して提案しているというのに。……まあ、人それぞれ好みはあるよね。
 隠しもせずにため息を吐く彼に気づかないフリをして、私はそう思い直した。

 「今日もありがとう、また今度ね」
 「はい、また」

 朱里は彼の背に、片手を上げたまま固まる。

 ……いやいやいや、流石に思い直せなくないか?
 今日1日、改めて意識して彼と接してみたけれど、あちらこちらに私の抱く違和感が散らばっていた気がする。
 単に、私の心が狭いという可能性もあるが、それにしても私の言葉に対して否定から入ったり、まるで文句を言ったかのような返しをされるのはあまり心地の良いものではなかった。

 「これが続くのか……。うん、無理だ」

 今はまだ小さな違和感かもしれない。
 でも今の時点で少しでも違和感を感じ取ったのなら、スパッと切って次に行かないと将来モラハラ男に変身して取り返しがつかなくなる、とどっかの恋愛インフルエンサーが言っていたのを覚えている。

 マッチングアプリ。
 ネットニュースでよく見るような、仕事や年収を詐称していたり、むりやりに身体目的で迫られたり、という明らかにヤバい男とは私は幸いなことにマッチングしなかった。
 けれど、これから出会ったらと考えるとゾッとする。

 「……やっぱりマッチングアプリ、私には合わない」

 すぐにアカウントを削除してアプリをアンインストールした。