「ハク?」
「え?」

 ――思わず。
 思わず俺は廊下で聞こえたその名に反応して振り返ってしまった。
 目が合ったそいつの驚いた顔を見て、漸くやらかしたことに気付いてサーっと血の気が引いていく。
 パっと視線を外して前に向き直り、なんでもないふうを装って一緒に歩いていた友人たちの話に加わった。

 ……背中に突き刺さる視線には気付かないふりをして。



(いやいや、何反応してんだ俺。てか、誰だよアイツ)

 一旦教室に戻った後で、まだバクバクと煩い心臓を落ち着かせるために俺はトイレの個室に入った。
 何度か深呼吸をして、天井を見上げる。

(『ハク』って言ったよな。いや、俺の聞き間違えか?)

 だって、ありえない。

 俺の名前は真白。藤野真白(ふじのましろ)
 17歳、高2。特に目立ったところのない、どこにでもいる平凡な男子高校生だ。
 そして先ほど聞こえた『ハク』という名は俺の配信者としての名前。それも『V』がつく方の。
 別に有名でもなんでもない、個人勢の底辺配信者だ。……いや、“だった”。今年の春まで。

 配信を始めたのは去年、この高校に入学してすぐの頃。
 当時、暇を持て余していた俺は広告で見かけた配信アプリになんとはなしに手を出した。
 自分好みにキャラメイクした姿で簡単に配信が出来るそのアプリは想像よりずっと手軽で楽しくて、試しにちょっと遊んでみるつもりが、がっつりハマってしまった。
 歌が上手いとか演技が出来るわけではなかったので基本いつも雑談配信。と言って面白い話が出来るわけでもなかったから、いつも訪問者は少なかった。所謂、底辺配信者。
 それでも、こんな俺にもファンになって応援してくれるリスナーはいてくれて、めちゃくちゃ嬉しかった。……去年の俺は特に。

 でもワケあって今年の春に配信を止めた。アプリも削除した。それから半年が経った。
 配信していたことは今まで誰にも言ったことはない。家族にも。友人にも。
 勿論、Vなので顔バレはしていない。

(なのに)

 なのに今、その名を呼ばれたのだ。
 知らない、見たこともない奴に。
 ネクタイの色で奴が1年だということはわかったけれど。

(やっぱ聞き間違えか?)

 もし聞き間違えでなく本当に俺を『ハク』と呼んだのだとしたしたら、俺の「声」だけでバレたということだ。
 ……そんなことあるか?

(や、ないだろ。ありえない)

 ということはやっぱり俺の聞き間違えだろう。そうに違いない。
 向こうだって誰か別の奴を呼んだつもりが知らない奴に振り返られて驚いただろう。だからあんなにびっくりした顔をしていたのだ。うん、納得。

 漸く気分が落ち着いて、俺はもう一度深呼吸してから個室を出た。

(ていうか俺、まだ未練があるのか……?)

 手を洗って、鏡に映った自分に問いかける。
 配信を止めて、もう半年が経ったというのに。

 ……や、もう忘れよう。
 きっとあの1年だってこんな些細なこと、すぐに忘れるだろう。

(もう会うこともないだろうしな)

 そうしてハンカチで手を拭きながらトイレを出たところだった。

「あんた、ハクだろう」
「!?」

 そう声をかけられて、俺はちょっと飛び上がってしまうくらいに驚いた。
 さっきの1年だ。

(は? 待ち伏せされてた?)

 そうとしか思えなかった。
 射抜くような鋭い瞳が俺を見ていて、再び血の気が引く。
 もうこれは確実にバレている。聞き間違えではなく、本当にコイツは俺を、『ハク』を知っているのだ。

「いきなりなんだよ。俺そんな名前じゃねーし」

 平静を装って視線を外し俺は教室に向かって歩き出した。
 だが奴は諦めなかった。

「間違いない。その声。ハクだ」

(――っ! やっぱコイツ、声でわかったのかよ)

 動揺を悟られないよう、わざと苛ついた声で答える。

「だから誰だよそれ。てか、お前誰だよ」
「俺は『トウヤ』。あんたのファンだ」
「ふぁ!?」

 思わず妙な声が出てしまった。

 『トウヤ』

 その名にはめちゃくちゃ覚えがあった。
 いつも配信に来てくれていた貴重な俺のファンの名だ。

(え、マジで? マジでトウヤ、なのか?)

 トウヤとは配信で色んな話をした。
 大して面白くもない俺の雑談に、いつも嬉しい反応を返してくれていた。
 あの、トウヤなのか?

 ――いや、しかしここで認めるわけにはいかない。

 俺はもう配信者ではない。
 ハクという名は半年前に捨てたのだから。

「いや、ファンとか意味わかんねーし。人違いだろ」
「さっき俺が呼んだら、あんた振り返っただろう」
「聞き間違えただけだ」
「なんで隠そうとする?」
「隠すもなにも、ほんとに知らねーし。てか、ついてくんな」
「あんたのガチファンである俺があんたの声を聞き間違えるわけがない。あんたはハクだ」

(うぐ……っ)

 なんだよこいつ。
 マジで俺のガチファンじゃんか!

 めちゃくちゃ嬉しい。
 嬉しいけど……でも、認めるわけにいかない。
 学校で身バレなんて冗談じゃない。

 スマン。
 お前が本当にあの『トウヤ』なら、マジでスマン!

「似た声の奴なんてたくさんいるだろーよ」
「いない。あんたの声は唯一無二だ」

(ぐふっ!)

 だから、頼むからこれ以上嬉しいこと言ってくれるな。
 半年前の決心が揺らぐだろうが……!
 それに。

 ――コイツが本当にあの『トウヤ』だとしても、良い奴とは限らない。

 ドクリと、心臓が嫌な音を立てた。


「ハク?」

 俺が急に立ち止まったからだろう、奴は不思議そうにまたその名を呼んだ。
 勢いよく振り返り俺は精一杯のマジ顔で言う。

「いい加減しつけーって! 俺はハクなんて名前じゃねーし、配信なんてしたこともねーんだよ!」
「誰も配信なんて言っていないが?」
「あ」

 ……やっちまった。
 じっと見つめられてダラダラと冷や汗が出てくる。
 だがそこでタイミング良く昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

「――と、とにかく、俺は違う! もう教室戻れよ1年!」
「なんで配信止めたんだ?」

 逃げるように駆け足で教室に入ろうとして、そんな低い声が追ってきた。

「あんたの配信、楽しみだったのに。なんで……」
「……」

 俺はもう振り返らなかった。
 教室に入ってピシャリと後ろ手に扉を閉め自分の机へと向かう。

(俺だって、止めたくなかったっつーの……)