「ねぇ、お話読んで!」
「早く早く!」
「慌てないでください、ほら座って」
二人の少女が楽しそうにはしゃぎながら、女性の周りをクルクル回る。彼女が窘めると、少女たちは大人しく隣に座った。
「これはむかし、むかしのお話です」
女性は少女たちに微笑みかけ、手にしている本を開く。そして、綴られた言葉たちを優しく声に載せて紡いだ。
***
むかしむかし、人々が村や町を作って賑やかに暮らす中、ひっそりと静かに目を覚ました物がある。
その存在は50メートルを超える体躯、6本の足、無数に伸びる手、強靭な牙と翼、金属を引っ掻いたような音の咆哮。それが人々を恐怖のどん底へと突き落とすのは、一瞬だった。
最初に現れたものを皮切りに、それは世界のあらゆる場所に出現した。空を飛ぶもの、地を駈けるもの、海や山に住まうもの……姿形はそれぞれ異なれど、人を襲い、その肉を喰らう。
彼らの力は強大で、縦横無尽に暴れまわり、あっという間に世界を蹂躙した。
人間は彼らに『異形』と名を付け、恐れ忌み嫌い、残された僅かな土地で日々を怯えながら過ごしていた。
***
「わぁ! 怖い!」
「怖い怖い! 食べられちゃう!」
二人の少女はギュッと女性にしがみつく。幼い少女たちには刺激が強すぎたらしい。怯える二人を安心させるように、一層優しい声を紡ぎながら、女性は二人の頭を撫でた。
「大丈夫ですよ。これはずっと、ずっと昔のお話ですから」
「ほんとぅ?」
「食べられない?」
「はい、食べられません。安心してください」
女性はしがみついてくる少女たちに優しく微笑みかける。彼女のその言動で少女たちは落ち着きを取り戻したようだ。しっかりと座りなおすと、話の続きをせがむ。
「続きは!」
「どうなるの!」
「長い間怯え続けていた人間たちですが、やがて異形の弱点を見つけました。それは拳銃です。異形は撃たれるとそこから腐り始めてしまいます」
「拳銃!」
「バンッ!」
「そうです、バンッです。そして人間はどんどん異形を撃ち、異形に奪われていた世界の半分を取り返したのです」
バンバンと手を拳銃の形にして、撃つ真似をする少女たち。随分興奮しているようで、立ち上がって遊び始めてしまった。
「こらこら、まだお話は終わってませんよ。座ってください」
「「はーい!」」
女性の声を聞き、少女たちはまた大人しく座った。それを確認すると女性は物語の続きを語っていく。
「コホン……これはそんなほんの少し平和になった世界でのお話。少し変わった青年陸奥さんと、一人の女性の物語です」
皆さんは聞いたことがあるだろうか、一年中咲き誇るひまわり畑の話を。
弥生村という村の外れにある山、瑞穂山にはどの季節でも一面のひまわりの花を見ることが出来るらしい。
世の中、奇妙なことは多いけれど、ここ数年、世界各地で不思議な現象が頻発していた。甘い水が流れる滝。虹色の花が咲き誇る森などなど。この村のひまわり畑もそんな超常現象の一つ。
言葉だけで表現すると、幻想的で綺麗に聞こえる超常現象の数々。しかし、原因不明のこれらは、何か悪いことの前触れなのではないかと恐れる声も多い。その声たちの中で一番多いのは、異形に関連する言葉たち。
また以前のように、異形たちが暴れ出すのではないだろうか。人間を食べるために、何か悪だくみをしているのではないだろうか。原因不明、ということがその不気味さに拍車をかけて、人々の不安を助長している。
そんな中、学者たちが真相を探るべく世界中に散らばった。僕もそのうちの一人だ。
2月1日、午前10時、ひまわり畑。
「すごいな……」
思わず言葉が漏れた。今僕の目の前に広がっているのは一面のひまわり畑。シンシンと真っ白な雪が宙を舞い、冷たい風が頬撫でる中、まるで『ここだけは夏である』と言うように、眩しい位に咲き誇っていた。季節が二つ同時にやってきたようで、頭が少し混乱する。
圧巻の世界。一歩、その中に足を踏み入れ、触れてみた。
「……」
目を閉じ、静かに息を吐きだしてみる。
ひまわりの花の感触。
ひんやりとしていて、花らしい優しい感覚。
確かにそこに温度があり、感じる生命。
周りが雪に囲まれているということを除けば、僕が今まで出会ってきた花と何も変わらないように思う。この花にどんな謎が秘められているのだろうか。多くの人が言うように、この景色は何か悪い物に繋がることなのだろうか。
僕はひまわりから目線を上げ、北の方を見てみる。そこには自然豊かな瑞穂山には不釣り合いな物が、木々の間からチラリと見えていた。
「あれが、境の柵」
『境の柵』
高さ25mを超える柵で、異形の天敵である鉛で作られている。剣や弓矢が全く効かない頑丈な皮膚を持つ異形だが、鉛玉には驚くほど弱い。少しかすっただけでも、その部位から腐敗が発生し、数刻で身体全体が腐り落ちる。
境によって真っ二つに分けられた、この世界。人間が住むこちら側と、異形が生息するあちら側。
そんな柵が設置されたのは、1000年以上も前の出来事。平和を取り戻したこの世界では、実際に異形を見たことがない人がほとんどだろう。僕も教科書や、研究所の資料画像でしか見たことがない。だけど……
『異形は人類の敵』『食べられる前に撃ち殺せ』
幼い頃からずっと教えられてきた。異形の残酷さと凶暴さ、消えていった命の多さ。
やっと安全な世界を取り戻したのに、また世界を壊されるのではないだろうか。今回の超常現象発生による不安も相まって、人々の心には異形に対する恐怖と憎しみの感情が根強く残っている。
「ん?」
柵を見つめていれば、ふと背中に視線を感じた。振り向くと南の方の木陰に人影が。紺色のローブを着ており、赤茶色の髪の毛が風に綺麗になびいている。だけど鼻先までマフラー巻いているため、はっきりと顔は確認できない。
「こんにちは」
「……こんにちは」
挨拶をすれば弱弱しい声で一応返事はしてくれる。しかし、そのまま木々に隠れるようにして姿を消した。誰だったんだろう。何か用事でもあったかな。
※※※
2月1日、正午、弥生村の宿屋。
「こんにちは! 今日からお世話になります、陸奥です」
ひまわり畑を後にして、僕は宿屋にやってきた。調査が終わるまで、この宿でお世話になる予定である。
「はいはい、お待ちしてましたよ、いらっしゃい。私はこの宿の女将で、楓と言います」
「よろしくお願いします」
服に付いた雪を払いながら待っていれば、若草色の着物を着たご婦人が。穏やかな笑顔で歓迎してくれる。だけど、彼女の視線はすぐに僕の服へと注がれた。
「おやまぁ、その紋章……ロッカス研究所の学者さんかい? あの爆破事故の」
「……そうです」
楓さんの口から飛び出した弊社の不名誉な事故に、僕は苦笑いしか返せない。
僕の所属するロッカス研究所。1500年ほど前、研究員全員死亡の爆破事故で有名である。研究所が丸ごと爆散し、研究資料等も焼失。異形に襲われたことが原因とされているけど、詳しいことは分かっていない。
「今後二度とあのようなことがないよう、所員一丸となって対策しております故、ご安心ください」
「ああ、ごめんごめん。その紋章を見て、事故のことが浮かんだだけなの。不幸なことを思い出させてしまって、ごめんねぇ。ほんと嫌だわ、異形なんていなければ、この世界はもっと暮らしやすいだろうに」
「そうですねぇ……」
「まぁ、昔に比べたら平和なんだよね。ここ何百年は討伐隊の結成もしてないし、ハンターさんたちに感謝しないとね」
異形駆逐専門職、ハンター。今の平和な生活は、彼らの存在が無ければ保てない。境の柵の定期点検や、あちら側での異形駆逐作戦など。特別な訓練を受けた者たちが、一日でも早くこの世界から異形を駆逐できるようにと、日々努力してくれている。危険な仕事にも関わらず、僕たちの生活を守ってくれるハンターさんたちには感謝の心しかない。あ、もしかして山で会ったあの人は、定期巡回中のハンターさんだったのだろうか。お仕事ご苦労様です。
「この辺も昔は活気があったんだよ。でも境の柵も近いし、ひまわり畑も出ちゃったから。今ではあの山に誰も近づかない」
楓さんが寂しそうな声で呟く。
ここ数年は謎の超常現象発生の影響もあり、境から離れた街に引っ越す人も多いと聞く。この弥生村は、村に隣接している瑞穂山を真っ二つにするように柵が設置されている。加えて、不気味なひまわり畑の出現。離れたくなる感情も、分からなくない。
「だから、こうやって陸奥さんが来てくれることに、みんな感謝してるんだよ。どうぞ、よろしくお願いしますね」
「ご期待に添えるよう、精いっぱい頑張ります」
「あ、そうだ。銃は持ってるかね? あいつらは人間を見ただけで、すぐに飛びかかってくるらしいから」
「大丈夫です、ちゃんと持ってますよ」
僕は楓さんを安心させるように、腰に刺しておいた拳銃を見せる。手のひらにずっしりと重みを感じた。
その重みで思い出した。ハンターさんのおかげで平和を保たれているけれど、油断してはいけない。異形は人類の敵、駆逐しなくてはいけない脅威の存在。今回僕が調査を行う瑞穂山は、境と隣接している。万が一、いや億が一位の確率だと思うけど、境の柵を突破した異形と遭遇なんてことがあるかもしれない。
幼い頃から言い聞かされ続けている異形の恐怖。見たことのない存在がより一層不気味さを増して、僕の心にも残っている。だけど……
(本当にあの景色を異形が作ったのかな)
楓さんが異形の恐怖について話しているが、僕の頭には先ほど見た雪の中のひまわり畑が浮かんだ。
先ほど見て来たひまわり畑。仕組みが分からないから不気味な印象もあるけれど、純粋に綺麗な景色だとそう思う。そんな綺麗な景色を、憎い異形たちが作ったのだろうか。
2月2日、午前6時、ひまわり畑。
「寒い!」
鼻をズビッと鳴らしながら、僕はひまわり畑で震えている。今目の前には、雪が太陽光を反射して幻想的な光景が広がっているのだが、そんなことを楽しんでいる余裕は全くない。とにかく寒い。凍え死んでしまいそう。冬の早朝の寒さを舐めてました。
宿を出発した時には、やる気十分出ったんですよ。それはもう胸いっぱいに、ぱんぱんに。だって、村の人たちはこの超常現象に対して物凄い不安を抱えている。だから少しでも早く謎を解き明かして不安を解消したいと思って、早朝から意気込んで来た……んだけど、寒い! とっても寒い!
「よっし、やるぞぉ!」
大声を出して、飛散してしまったやる気を無理矢理かき集める。
寒さに出鼻を挫かれてしまったけれど、仕事はやらねば終わらない。この幻想的な光景の謎を解明するのに、どれくらいの時間がかかるか分からないけれど、それでも始めないことには終わらない。
千里の道も一歩からだもんね。僕はふぅっと息を一つ吐いて、気合を入れなおす。
「……」
そして改めて、目の前に広がる景色を観察してみた。
一面のひまわりの花。眩しい位の黄色の上に、雪が降り積もる。静かな空間、静かすぎるほどの空間。雪が音を吸収して、より一層その静けさを加速させていた。その不気味さにぶるっと背筋が震える。
「頑張ろう!」
自分の弱い心を追い出すように、握りこぶしを作る。どんな謎が隠されているのか分からないが、未知のことを怖いと思う感情は当然だ。怖いと感じることは、何も悪いことじゃない。僕たち学者はその恐怖に立ち向かい、知らないことに手を伸ばす。
※※※
ぐぅぅぅ
鳴り響いたお腹の音で、ハッと気がついた。もうお昼ごはんの時間ではありませんか。
「帰ろう」
即決だった。何の迷いもない決断だった。だって、楓さんが作ってくれた朝食、とても絶品だったよ。昼食を逃すわけにはいきませんとも!
僕はそそくさと帰宅準備を始める。これまでで土やひまわりの花など、サンプルをたくさん瓶に詰めることができた。この後顕微鏡で見てみたり培養などして、一般的なひまわりとの違いを探し出す予定。何か分かるといいんだけど。
「あらら」
息を吐き出しながら立ち上がると、ひどすぎる自分の姿に苦笑いが零れた。夢中になって作業をしていたので、服が泥だらけ。しかも、じっとりと汗もかいており、服の中が蒸れていて気持ち悪い。ご飯の前にまずシャワーかな。
僕はパンパンと、服についた土を軽く払って、物品の入ったリュックを背負う。おっとっと、予想以上に重いな。土とか花とかたくさん採取したもんね、そりゃ重くなりますとも。
ガサッ、ガサッ
「?」
下山しようとしていると、雪を踏みしめて何かがこちらにやってくる音がする。不気味がってこの山には誰も近づかないって聞いていたけど誰だろう。あ、もしかして昨日のハンターさんだろうか。今日もお仕事ご苦労様であります。でも、ハンターさんにしては体重の乗った重い足音のような……
何の音もしない空間に長時間居た故か、その足音はひどく異質な物に聞こえた。ガサッ、サクッと不思議な音を響かせながら、こちらに近づいてくる。そして、その音の正体は静かに姿を現した。
「え……」
と、声が漏れかけて僕は慌てて口を押える。そして、ひまわりの影に隠れるように、さっと身をかがめた。
「@ruhbn」
その口から発せられた、金属を引っ掻いたかのような不快な音。耳がキーンと痛くなる。
木の間から現れた存在は、骸骨の化物。その体躯は5mを優に超えているだろう。頭には大きな角が三本、鋭い牙と大きな口。瞳からは鋭い視線が放たれていた。
実際に見るのは初めてだけど、間違いない、あれは異形と呼ばれる存在だ。
「なんで、異形が……」
異形はまだ僕の存在に気がついていないだろうか。キョロキョロとひまわり畑に目を走らしているだけで、襲ってくる様子はない。だけど彼の視界に入ったが最後、言い伝え通りにあの鋭い爪と牙でバラバラに切り裂かれてしまうのだろう。
ここは境の内側。異形が入り込めないように天敵である鉛で作った柵が設置してあるはずなのに、どうして入ってこれたんだ。昨日ハンターさんがこの山に来てたし、柵の点検はバッチリなんじゃないのか。あ、そうだ拳銃。
僕は思い出して、腰に刺していた拳銃を静かに取り出す。だけど……境の内側に居るってことは、鉛の効かない新種? だとしたら、大変だ。人類が唯一対抗できる手段は、銃弾なのに。また世界が異形に支配されてしまう。
早くみんなに知らせて、とりあえず避難とハンターさんに連絡……を……?
頭を抱えて考え込んでいた僕だけど、ふと、気配を感じた。そして、目線を地面から正面へ向ける。そこには……
「⁉」
ぱっくりと大きな真っ暗闇が、口を広げて待っていた。鋭い牙がずらりと並んでいるのが見える。顔にふわりとかかった生暖かい風。その瞬間、死を悟った。
「…………あ、れ?」
衝撃に身構えて目を閉じていたけれど、一向に食べられる気配がない。もしかして僕は、痛みもなく一瞬で天に旅立ったのだろうか。疑問を感じ、僕は恐る恐るゆっくりと目を開けてみる。
「……」
異形は口を閉じて、そのまま僕の目の前に居た。ギョロリとした瞳で、僕のことを見つめている。え、どういう状況なのこれは。
数秒、お互いに無言で見つめ合っていたけれど、何も起こらない。異形は人間を見つけると、すぐに飛び掛かって食べるはず。なのに、僕は飛びつかれてもいないし、食べられてもいない。ただ彼は目の前で佇んでいるだけ。
もしかして僕の存在に気がついていない? いや、そんなことはないよね、だって息がかかるくらい至近距離なんだもん。それにさっき大きな口を開けていたし。
どうしたらいいんだろう。とりあえず逃げたい、すっごく逃げたいんだけど、変に動くとパクリといかれそうな気もする。ゆっくりと、ソロリ、ソロリ、後ずさりして……
「u@dhvf」
「うわっ⁉」
僕がゆっくり動いていると、異形は再び金属を擦ったような不快な音を出した。耳がキーンと痛くなり、つい足が止まってしまう。異形を見れば、僕の方へ手を伸ばしてきていた。鋭く尖った爪が、太陽の光を反射してキラリと光る。
「u@dhvf」
「うわっ⁉」
パンッ!
近づいてきた鋭い爪を見て、僕は咄嗟に拳銃の引き金を引いた。ほとんど無意識で引いてしまったけれど、銃弾は異形の足に当たったようだ。
「ugpgerarog@!」
再び不快な音を出して、コロンと後ろに倒れた異形。その足からはドクドクと真っ赤な血が滴り落ちていた。
その赤を見て思った、次に赤色に染まるのは僕自身なのだろう、と。
※※※
「はぁ、はぁ……」
僕は夢中で山道を駈け下りた。汗が滴り落ちて、冷たい空気で肺が痛くても、走る足だけは止めない。無我夢中で山を駆け下りる。
早く、早く……村の人たちに知らせて避難を、それにハンターさんたちの派遣を。この世界が、また異形に支配される。頭の中が恐怖でいっぱいになり、不規則に息が乱れた。
「%&#&#!+‘」
「うそ、でしょ」
突如聞こえた金属音に後ろを振り返ると、先ほどの異形が追いかけてきていた。辺りに生い茂っている木々を避けて走る僕に対して、大型の異形はなぎ倒しながら走ってくる。障害となる大岩もその巨体で打ち砕いていた。足を負傷しているのに、何なのそのスピード! そんなの逃げ切れるはずないじゃん!
「反則、でしょ……はぁ、っ……うわっ!?」
異形との距離が縮まってきた頃、僕は雪に足を滑らせて盛大に転んでしまった。すぐに立ち上がろうとしたけど、大型の異物はもう目と鼻の先。僕を食べようと手を伸ばしてきている。
「くっそ」
ズルズルと後ずさりをしながら、僕は手に持っていた拳銃を構える。さっきは驚いて咄嗟に引き金を引いてしまったが、今回は違う。
きちんと「殺す」という意識を持って放つ一発。
「ふぅ……」
拳銃を持つ手が震えて仕方ない。心臓がうるさく脈を打ち、息が上手く吸えない。だけど、相手を殺さないと僕が死ぬ。だから撃ち殺す。
大丈夫、ちゃんと殺せる。乱れる心を納得させて、引き金に指をかけた。
「撃たないでください」
僕が引き金を引こうとしたその刹那、鋭い声と共に紺色のローブに身を包んだ女性が茂みから飛び出してきて、僕と異形の間に立った。あれ、この人、昨日のハンターさん? 僕は慌てて拳銃を下した。
「動かないでください。大丈夫、娘さんは取り返しますから」
ハンターさんの登場に安心したのも束の間、彼女は異形に手を触れて、安心させるように声をかけている。えっと、どういうこと? 何をしているの? 早く撃ち殺さないと危ないのに。
「‘*?=!”」
だけど彼女の言動を受けて、異形は僕に伸ばしていた手を下し、足を止める。心なしかその瞳が潤んでいるように見えるのは気のせいだろうか。その涙は痛みからか、それとも……
「太い血管が傷ついていますね、出血が多い」
女性は傷口に顔を寄せて凝視し始める。そして、肩にかけていたポーチをごそごそと探った。中から出てきたのは、ピンセットにガーゼ、それとあれは消毒液かな? まるで治療をするようなその物品たちに、僕は戸惑いを隠せない。
どうして撃ち殺さないのだろう? 彼女はハンターではないのだろうか。異形は凶暴で残酷な生き物。関わってはいけない存在。なのに、あんなに近づいて、声をかけて、触れて……
「!#%””&”」
僕が考え込んでいると、突然異形から苦しそうな声が漏れた。彼女の手元を見れば、傷口にピンセットをぐりぐりと押し込んでいる。うわ、痛そう……
「ふぅ、取れました。よく頑張りましたね、後は消毒をしてお終いです」
女性は額の汗をぬぐいながら、ピンセットを置く。そこには僕が先ほど打ち込んだ弾丸が。異形の傷口を見てみると、体内に弾丸があったのが短かったためか、腐敗は組織の一部のみで済んでいた。そして女性は手際よく包帯を巻いていく。
「?>~|>?」
「大丈夫です、ここで待っていてください」
包帯を巻き終わると、ひどく焦ったような異形の金属音が聞こえた。そして、女性がつかつかと僕の方に歩いてくる。彼女の纏う空気の冷たさに、ひゅっと喉の奥が締まる感覚がした。
「ひまわりの花をお持ちではありませんか?」
「え、あ、はい。持っていますけど……」
「出してください」
有無を言わせない圧で僕に詰め寄ってくる女性。いろいろ説明してほしいと思ったけど、この人の目が早く寄こせと告げていた。この人、異形より怖いかもしれないぞ。
「ど、どうぞ」
「ありがとうございます」
僕は大人しく鞄の中から先ほど採取したひまわりの花の瓶を手渡す。女性は僕に素っ気なく感謝を述べると、また異形の元へと戻った。
「はい、娘さんは無事のようです、良かったですね」
女性が異形にひまわりの花を渡すその声音は、先ほど僕に詰め寄って時とは一変、優しさが滲み出ていた。異形は両手でそれを受け取り、頬に擦りつけている。そして、瞳からはポロリと涙が。
「もう、目を離してはいけませんよ」
「&#&%$’$」
「傷は一週間もあれば塞がると思いますが、痛むようでしたらこの先の小屋に来てください。私はそこにいますので」
彼女がぺこりとお辞儀をすると、異形の姿が徐々に薄れて消えて行く。とりあえず安心していいのかな。助かったの、かな。ふぅと息が漏れるとともに、僕の身体から力が抜けた。
「瓶、お返しします」
「あ、どうも……」
僕がぺしゃんと地面に座り込んでいると、ローブさん(仮)は瓶を返してくれた。異形に話しかけていた声音とは一変、突き放すような冷たさを感じる。声だけでなく、彼女のその風貌からも近づきがたい雰囲気が物凄く漂っていた。
昨日と同様、赤茶色の髪は低い位置で一つに結ばれており、前髪が長くて左目が完全に隠れていた。そして、マフラーが鼻まで覆っているので、顔のほとんどが確認できない。
この人は一体何者なんだろう。どうして、異形を撃ち殺さなかったんだろう。ハンターさんじゃないの?
「異形に、何をしたんですか」
彼女の纏う空気に怯えながらも、恐る恐る尋ねれば……
「治療です」
即答で返ってきた彼女の言葉。はっきりと言い切られたその言葉に、戸惑いの感情を抱く。
生まれてからずっと言い聞かされてきた、異形は凶暴で残虐な生き物だと。駆逐しなくてはいけない人類の敵なのだと。それなのに……
「どうしてそんなことを。なんで、助けたんですか?」
「助けたいと思ったからです」
「え」
「助けたいと思う感情に、理由が必要ですか?」
彼女の透き通った翡翠色の瞳が僕を見つめた。そんな純粋な瞳を前に、僕は何も言葉を返せない。
『助けたい』という気持ち。それ以外に必要な物はないと思う。だけど、それは人間相手の条件だろう。異形にも同じことが言える?
凶暴で残虐で、人類の敵で……助けた異形が誰かを殺すことだってあるんじゃないか。それでも助けることは正義なのだろうか。
「え、あれ、ちょっと待って!」
僕がジッとローブさんを観察していると、彼女はくるりと踵を返して森の奥へと消えた。静止の声をかけたのに、無視ですか、そうですか。少し傷つく。
「こっちの方だと思うんだけどな」
僕は現在ローブさん(仮)の小屋を捜索中。さっき彼女は異形に言っていた。
『傷は一週間もあれば塞がると思いますが、痛むようでしたらこの先の小屋に来てください。私はそこにいますので』
気味悪がってこの山に人は近づかないって言った楓さんの言葉から、勝手にハンターさんだと思い込んでしまっていた。だけど、さっきの行為を見る限り、異形を駆逐する専門職のハンターであるはずがない。だって治療行為してましたもんね。駆逐とは真逆の行為だ。彼女は一体何者なんだろう。
助けたいから、とそうはっきり告げられたけれど、人類の敵である異形をそれだけの理由で助けていいとは思えない。何か目的があるんじゃないかな。分からないことが多過ぎる。とにかくもっと詳しく話を聞きたい。それに……
「っ」
僕は自分の胸に手を当てて、トクントクンと脈打つ鼓動を確かめる。
ちゃんと、生きてる。
目の前で口を開けられた時、異形に追いつかれた時、もう死んだと思った。だけど、僕は今ちゃんと生きている。怖かったけど、ここに生きている。
もしローブさんがあの場に来てくれなければ、僕は今頃異形のお腹の中で、この世にいないかもしれない。彼女が間に立ってくれたおかげで、異形に襲われなかった。命の恩人だ。
彼女の目的はなんであれ、救われた事実は変わらない。きちんとお礼を言いたいと思う。
「あ、あった……」
数分歩き続けていると、木々が開けた場所に小さなログハウスを発見。だけどなぜか扉が全開である。山の中で人があまり来ないからって、これはあまりにも不用心なのでは? それとも何か理由がある? 罠とか? 入った瞬間床が抜けて落下するとか?
戸惑いながらも、僕はトントントン、とゆっくり壁を叩いてみる。
……
「あれ?」
しばらく待ってみたけれど、中から一向に返事がない。窓から明かりが漏れているし、帰って来てはいるんだろうけど。
扉は開いてるから入って来いってこと? ではないよね、流石に。それに僕が叩いてから、気配を殺すような感じさえした。居留守されているような気がする。
んー、どうしたものか。聞きたいことがたくさんあるし、このまま帰る訳には……
「すみません、先ほど助けていただいた者ですが」
トントントントントントン……
「はい」
しばらく叩き続けていると、奥の方から黒い影が。目を細めてよく見れば、外で見た時と同様、ローブを着て鼻先までマフラーをして完全防備なローブさんだった。そしてその瞳には警戒心が前面に乗っている。
出てくるのが遅かったのは、来訪者が誰なのか警戒していたからかもしれない。女性の一人暮らしの場所へ男が出向くというのはちょっとマズかった? でも今昼間だし、仕方なしかと……それに扉開けっぱなしでしたよ? 警戒するならまずは閉めましょう。そして鍵をかけておきましょう。
「あの、僕の名前は陸奥と言います。先ほど助けていただいたお礼をしたくて来ました」
僕は彼女をこれ以上怖がらせないように、ニッコリと微笑む。そして優しい声を意識して紡いだ。だけど……
「はぁ、どうもこんにちは。それではさようなら」
ローブさんは素っ気なく言い放つと、スススと奥の方へ消えていく。そしてそのまま闇と同化して居なくなってしまった。
えぇ、ちょっと、待って⁉ 折角出てきてくれたのに、強制終了しないで!
トントントントンドンドンドン!
「うるさいです、何ですか」
「ですから、お礼をさせていただきたくてですね。それとお話をお聞きしたいんです」
「そういうの要らないので帰ってもらっていいですか」
え、待って。また奥に行こうとしてる! そうはさせない!
「はぁ? 服掴まないでくれます?」
「ちょっとだけお時間ください」
「嫌です、私忙しいので」
「そこを何とか」
ローブさんはジッと目に力を込めて、僕のことを睨みつけていた。その目が告げている、早く服を離せ、と。
だけど、今離したらもう出てきてくれないような気がする。だから離したくない。
……はっ! でも待って、女の人の服を許可なく触るのって痴漢? 逮捕される? 僕としては話を聞きたいだけでいかがわしい目的は全くないんだけど、これ状況だけみると完全にアウトな感じでは⁉
お宅に押しかけただけでなく、嫌がるローブさんの服を無理矢理掴んでいる、この状況! これは、通報案件‼
サァーと血の気が引いていくのを感じた。「お巡りさーん」と叫ばれる前に手を離さねば、と考えていると……
「はぁ、分かりました。少しだけでいいのならお話聞きますよ」
「誤解なのです……って、本当ですか! ありがとうございますありがとうございます!」
「うるさいです」
「……すみません」
ついはしゃいでしまったら、汚い物でも見るかのような瞳で見られた。うるさくして大変申し訳ありませんでした。これ以上彼女の機嫌を損ねると、やっぱり帰れと言われそうな気がするので、黙って大人しくしておく。
そして通報されなくて済みそう。良かった良かった。
※※※
「どうぞ、こちらに」
「ありがとうございます」
ローブさんは奥の部屋に案内してくれた。そこには小さな机と椅子があるだけの、殺風景な空間。部屋全体から寂しい空気が漂っているような気がした。
それにしてもローブさんちょっと怖い。異形相手に対応している時は、すごく優しい声音だったのに、僕に対応する時はとんでもなく冷たい声音だ。凍えてしまいそうなブリザード対応。なんでなの、僕は異形以下なの? 人類の敵である異形以下なの?
こうやって無理矢理押しかけてしまい、多少迷惑だったかもしれないことは認める。けれど、そんなに冷たくされねばいけないことでしょうか!?
「それで?」
ほらもぅ、圧迫面接じゃんか! 椅子に腰かけた途端、これだもん。その射抜くように怖い目と、めんどくさそうな雰囲気を止めてください! しんどい! 心がキュッてなる!
これは早く要件を終わらせて退散した方がいいのかな。僕の心があまり持ちそうにない。
2月2日、午後3時、ログハウス。
「えっと、僕は陸奥と言います。ひまわり畑の調査で来ました、ロッカス研究所の学者です」
「……はぁ、どうも。私はアサヒと言います」
ローブさん改めアサヒさん。彼女から放たれる「早く帰れ」オーラに何とか耐えて、僕は話を切り出している。
それにしてもアサヒさん、全く顔が見えない。鼻先までマフラーで覆っており、左目は完全に前髪で隠れている。だからアサヒさんの感情を読み取るには、右目と声音しかない。
だけど、何故だろう。僕の自己紹介を聞いて、彼女の声の温度が下がったような気がした。元々冷たいその声が更に温度を失ったような。加えて彼女の瞳に警戒の感情が色濃く出ている気がする。
「あの、何か?」
「いえ、何でもありません。どうぞ、話を続けてください」
なぜ変化してしまったのか分からない。でも、とりあえず話を聞くつもりのままでいてくれるのはありがたい。彼女の気が変わらないうちに、用件を伝えてしまおう。
「先ほどは助けていただきありがとうございました」
「いえ、私はあなたを助けた訳ではありませんので、お気になさらずに」
「へ?」
アサヒさんの言葉に思わず変な声が漏れた。
今この人、僕を助けてないって言った? そんなはずないよね。皆さんも見てましたよね? 僕と異形の間にアサヒさんが颯爽と入ってくれてましたよね? もし彼女が居なかったら、僕は食べられていたかもしれませんよね? ね? ね?
「私が助けたのは、異形の親子です」
「親子?」
「お子さんが乗っていたんですよ、あなたの採取したひまわりの花の上に、米粒位の大きさの」
え……子供? 乗っていた? そう言えば、アサヒさんが異形と話していた時にも、子供の話をしていたような。
彼女から告げられた言葉が、頭の中でクルクルと回る。ひまわりの上に居たなんて、全く気がつかなかった。だけど、知らなかったとはいえ、僕は誘拐しようとしてたってこと?
あれ、もしかして、あの大型の異形が僕を追いかけて来たのは……
「あなたを追いかけたのは、ただ娘を返してほしかったから。『返して、娘を返して』と叫びながら追いかけていました」
僕が結論にたどり着こうとしていると、彼女の冷たい声が真実を告げる。
僕を食べるために追いかけたんじゃないってこと? ただ娘さんを返してほしかっただけ?
そんなの、そんなの……異形は人間を見つけたら食べようとする危険な存在なんじゃなかったの? 今までずっと言い聞かされてきて。……そうだ、そうだよ、だってあの時……
「僕、あの大きな口に飲み込まれそうになりました。あーんって丸飲みに。娘さんを攫おうとしていた僕を、食べようとしたに違いありません」
そう、最初に僕は見ている。目と鼻の先に広がった、真っ暗闇を。鋭い牙が並んでいる異形の口の中を。生暖かい息がかかり、その瞬間に死を悟った。これは紛れもない事実。僕を食べて、娘さんを救出しようとしていたに違いない。やっぱり異形は人類の敵なんだ。
僕が熱心に訴えたその言葉。だけど返ってきたのは、アサヒさんの淡々とした言葉だった。
「異形は人間を襲いません。人肉を食べる子たちは、大昔に狩られたんです。今生き残っている子たちは、木の実や花の蜜が主食の人間には害のない子たちばかりです」
「だけど、口を開けて」
「娘さんを見つけて『あ』と口を開けただけではないでしょうか。人間もよくやるでしょう、驚いて口をパカッと開ける仕草を」
「でも、あんな近くで」
「彼らは目が悪い代わりに、聴覚が優れています。恐らく遠くで娘さんの声を聞いた母親が、陸奥さんとの距離感を間違えて近づきすぎてしまったのでしょう。悪気はなかったはずです。それに、あなたを食べようと迫ってきましたか? ただパカッと口を開けていただけではありませんか?」
アサヒさんの言葉を聞いて思い返してみると、確かにあの時、不自然な間があった。
食べられる、と悟ったけれど、次に目を開けてみたら異形はただそこに居ただけで。鋭い牙で齧られてもいないし、尖った爪で切り裂かれてもいない。僕はあの異形に一切傷つけられていない。
「異形は人間を襲いません」
改めて言い切られたその言葉に何も言い返すことができなかった。
信じられない。生まれてきてからずっと言い聞かせれてきたことを、ひっくり返す真実。いや、僕が生まれるずっとずっと前から、言い伝えられてきたんだ。異形は駆逐するべきなんだって。
すぐには信じられないけれど、異形と出会ったのにも関わらず、僕が無傷で生きていることは事実。それに彼女の説明なら、口を開けた動作もひまわりの花を渡した後素直に消えた理由も、全てに説明がつく。
そして、彼女の言葉を信じるならば、僕は……
「っ」
ただ娘を返してほしかっただけ。大切な人を取り返したかっただけ。ただそれだけだったのに。
「そんな相手を……僕は」
撃ち殺そうとしてしまった。撃たなければ、殺さなければ、自分が食べられると思っていたから。だけど、アサヒさんの話が真実であるならば。あの異形の母親に僕を傷つける意思は全くなかったということになる。むしろ傷つけようと必死になっていたのは、僕の方じゃないか。
両手に残る、弾丸を放った時の衝撃。耳にこびり付いている異形の叫び声。飛び散った真っ赤な血。そして、異形が零した一筋の涙。僕は、僕は……
「信じ、られません」
口をついて出てきた小さな言葉。本当は「信じたくない」だったのかもしれない。
今まで信じてきたことが間違いだった、と認めるのが怖いだけ。
無害な存在を撃ち殺そうとした、という事実を僕が認めたくなかっただけ。
「そうですか」
そんな僕の自分勝手な言葉を聞いて、アサヒさんからは何の感情も乗っていない言葉が返ってくる。だけど、彼女のその瞳が、一瞬、真っ黒に染まったような気がした。
2月2日、午後7時、宿屋。
「ふぅ……」
重力に任せて、布団にボフンと埋まった。お日様の優しい香りに身体全体が包まれる。結局あの後……
「信じ、られません」
「そうですか」
僕の言葉に対して何の感情も乗せずに返ってきた言葉。だけど、彼女の瞳が黒く染まったような気がして。
瞬間悟った、僕はアサヒさんを傷つけたのだと。
「あ、の……」
「信じなくても構いませんが、私があなたを助けた訳ではないことはご理解いただけたかと思います。もう帰ってもらっていいですか」
僕が何か声をかけねばと焦っている間に、線を引かれてしまった。あの時の彼女の瞳が今でも頭から離れない。
だけど、当然の反応だと思う。無理やり家に押しかけて話を聞かせてもらったのに、信じられないっていうのはあまりにも自分勝手が過ぎる。
明日もう一度会いに行こう。そしてちゃんと謝ろう……会ってくれればの話だけど。
「はぁ」
布団に転がりながら、今日のことを振り返ってみる。
一日だけでいろんなことが起こり過ぎた。人生で初めて経験した異形との遭遇、異形を治療しているアサヒさんとの出会い、そして誤解していたかもしれない異形の生態。
「どうして、異形が境の内側に居たの?」
あの異形には鉛が効いたから、柵は有効だってことなんだろうけど。だったらどうして内側に入って来れるんだ? 瑞穂山の奥に隠れていたとか? まさか柵に穴が開いてた?
「結局アサヒさんは何者なんだろう」
異形と話ができる女性。あの時、アサヒさんは異形の言葉を理解しているようだった。僕には不快な金属音にしか聞こえないのに、なぜ彼女には異形の言葉が届くんだろう。それに……
『人肉を食べる子たちは、大昔に狩られたんです。今生き残っている子たちは、木の実や花の蜜を食べて生活している、人間には害のない子たちばかりです』
はっきりと断言されたあの言葉。あの時は衝撃的過ぎてそのまま納得してしまったけれど、どうして言い切れるんだろう。異形全員と知り合いでもない限り、無害かどうかなんて分からないじゃないか。
そこまで考えて、ふと銃を撃った時の衝撃が両手に蘇った。異形が発した声と、真っ赤な血。もし、僕の撃った弾丸が致命傷を与える場所に当たっていたら……
「っ……」
そこまで考えて、ブンブンと頭を振った。
怖いとそう思う。自分たちの認識が間違っているなんて、今まで考えてもみなかった。言われたことをそのまま鵜呑みにして、全てを知っているような顔をしてきた。
彼らがそこに居るというだけで、僕たちは命を奪う大義名分を得る。そんな自分勝手な理屈で、無害な命がいくつ奪われたんだろう。
※※※
2月3日、午前9時、アサヒのログハウス前。
「ふぅ」
昨日に引き続き冷たい雪が降り積もる中、僕は小屋の前に立っていた。口から吐いた息が、白く染まっていく。
一晩、考えた。彼女に言われたこと、実際に僕自身が見たこと。たくさん考えたけれど、やっぱり伝えたいことは変わらない。
もう一つ息を吐きだして、心を落ち着けた。灯りは灯っている。彼女はそこに居る。
トントントン
昨日と同様、何故か扉は開けっ放し。出てきてくれるだろうか。祈りを込めながら、僕は壁を叩いた。緊張しながら彼女の反応を待っていると……
「はい」
警戒心を前面に出した状態のアサヒさんが顔を出す。ローブ、マフラー、手袋をして完全防備の状態。その姿が心まで閉ざしているような姿に見えたけれど、僕はゆっくりと口を開いた。
「おはようございます、陸奥です。お話があって来ました」
「はあ」
僕の真剣な気持ちが伝わったのか、今日は昨日のように奥に消えようとはしなかった。そして、半分戸惑ったような表情をして、部屋の中に通してくれる。
※※※
「話ってなんです?」
「謝罪と、改めてお礼を言いたくて」
「謝罪とお礼……」
アサヒさんは小首を傾げている。だけど、きちんと僕の目を見つめてくれた。その瞳は綺麗な緑色で、昨日のように黒く濁ってはいない。
「昨日はすみませんでした。いきなり押しかけて話を聞いておきながら、信じられないなんて失礼なことを言いまして」
「……」
「僕が信じたくなかっただけなんです。無害な存在に銃弾を撃ち込んだことを認めたくなかったから」
驚いて咄嗟に撃ってしまった一発。撃ち殺そうとして構えていた一発。あの時、撃ってしまったことと、撃とうとしていたという事実は変わらない。
だから、そんな相手は凶暴で残虐で、人類の敵であってほしかった。
「アサヒさんの話を聞いて、一晩考えました。異形が全部、無害な存在だってすぐには信じられないけれど、少なくとも昨日の異形には僕を食べる意識はなかった」
食べられると思ったけれど、静かに閉じられた異形の口。アサヒさんがひまわりの花を返したら、襲ってくることもなく姿を消したこと。不自然な異形の行動の数々は、彼女の説明だと全ての筋が通る。
信じたくないけれど、信じるしかない事実の応酬。それらは僕たちが長年信じてきたことが、間違いだと告げていた。だから……
「僕に、あれ以上撃たせないでくれてありがとうございました」
心からの感謝を、あなたに。
あの時、アサヒさんが一瞬でも遅ければ、僕は銃弾が尽きるまで異形を撃っていたかもしれない。命を刈り取ろうと、必死になって。
それが現実にならなかったのは、アサヒさんが居てくれたから。彼女が僕を止めてくれたから。
「……」
なんて言われるだろうか。『帰ってください』と追い返されるだろうか。僕は頭を下げ彼女の反応をジッと待った。すると……
「どう、いたしまして」
頭の上にか細い小さな声が降った。顔を上げれば、ただでさえ顔がほとんど見えていないのに、口元のマフラーを更に上げようとしているアサヒさんの姿が。それは照れているのですか? 彼女が初めて見せた女の子らしい仕草に、ほんの少しだけ胸の高鳴りを覚えた。
昨日は僕のせいで引かれてしまった線。その線が少しは薄れただろうか。これから仲良くなれるだろうか。だけど……
「話は終わりですね? 帰ってもらっていいですか」
「……」
瞬間、極寒ブリザードの対応に戻ってしまった。少しだけ可愛いなと思った自分を殴りたい。
※※※
「……っ」
極寒ブリザード対応で、陸奥を部屋から追い出したアサヒ。彼の姿が見えなくなった途端、壁にもたれながらズルズルと座り込んでしまった。
暴れる鼓動と乱れた呼吸を落ち着けようと、必死に気持ちを静め込む。
「撃たせないでくれて、ありがとう……」
静かな室内で、アサヒは彼の言葉を噛みしめる様に呟いた。胸の中にポカポカとした温度を感じ、身体全体が温かくて仕方ない。
彼が嘘偽りなく、素直に言葉を伝えてくれた故だろう。そうでなければ、こんなに心に響かない。
「こんなにも嬉しいと思うのは、いつぶりでしょうか」
小さく呟いたその声は、雪と共に世界の中に染みていく。