「うー、寒っ」
一夜明けると、はい今日から秋ですよとばかりに急に気温が下がった。冷たい風が吹きすさぶ非常階段で、彩人は昼休み開始のチャイムとともに購買にダッシュして買ってきたあんぱんを齧る。
「あ、彩人ここにいたんだ。教室行ってもいないから探したんだよ」
「別に自分の教室で食べればいいのに」
 非常口から現れた悠介は、彩人の隣にちょこんと座ると同じく購買の焼きそばパンにぱくついた。はあと大きくため息をつき、彩人はあんぱんの続きをちびちびと齧る。
結果として、昨日勢いで書き上げた小説は、悠介からは不評だった。いや、悠介ははっきりとそうとは言わないが。ほぼ朝までぶっ通しで読み終えると、良いとは思うけれどと前置きした上で「彩人っぽくないかなぁ」「もっといつもみたいな仄暗くて耽美な話が読みたいな」と言って、そして他の感想を聞き出す前にぱたんと寝てしまった。
 否定された驚きと気まずさに、大人げないと思いながらも今朝は悠介を避けて一人で登校したのだ。
「ん? どうかした?」
「いや。なんでも」
「すごくなんか言いたそうな顔してるよ。あ、焼きそばパンも食べる?」
「そうじゃない」
 良い笑顔で食いさしの焼きそばパンを渡そうとするな。ため息をついて手で払いのける。
「勝手に不完全燃焼になってるだけだから」
「あぁ、昨日読ませてもらった恋愛小説?」
「昨日というか今朝というか。いつもみたいに、さあ次に行くぞって気にならない」
「彩人はなんであれを書こうとしたの? いつもは恋愛小説なんて書かないのに」
「それは……」
 完全に衝動だった。推し作家月波の新作が珍しく恋愛小説だったこと。推しの正体を図らずも知ってしまったこと。正体が分かった途端に、なんとも言えない焦燥感が湧き上がっていてもたってもいられなくなったこと。
「あれは、俺の好きないつもの彩人の話じゃなかった」
柔らかい口調でぐさりと刺された。
「あれって、ほとんど月波はるかだったよ」
「えっ」
「誰に何を伝えたいのか、全然分からなかった。彩人は月波なんかを目指す必要なんかない、彩人らしい仄暗くて少し難解な話を――」
「分かったような口を利くな」
 拳を握って彩人の言葉を遮った。
「俺がどんな気持ちで創作をして、どれだけ本気で小説家を目指しているか、知らないくせに」
 彩人は悠介のために小説を書き始めた。
いずれ離れ離れになってしまった時。
万が一連絡手段すらも断たれてしまった時。彩人がプロの小説家であれば、今までと変わらず悠介に話を読んでもらえる。気持ちを伝えられる。時間が経ったとしても本を手に取ってもらえればいつか気付いてもらえる。彩人にとっては、プロの小説家になるということは、夢と言うよりは悠介と繋がっているために必要な手段だった。それなのに。
「分からないよ。ぜんぜん」
「そうだろ。じゃあ勝手なこと言うな」
「ううん、言うよ」
 いつものふわふわした笑顔ではない、真剣な表情。こうやって見ると整った顔してるんだなとかどうでもいいことを考える。
「彩人の話を読む時彩人とおしゃべりしているみたいで、俺はとっても楽しかったんだよ。俺だけに秘密の話してくれているみたいで」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「昨日のは、彩人と話している感じがしなくて、別の知らない誰かが一方的に話しかけてるみたいだった。俺は彩人が小説家になんてならなくてもいい。ただ、俺とずっと一緒にいて話をしたい」
 勝手な言い分に腹が立つ。その願いは彩人だって一緒で、そのために努力をしているのに。
「彩人は、俺のために小説を書いてよ。俺のためだけに」
「はあ? 勝手なこと言うなよ。なんだよ、お前のためだけにって」
「俺のことだけ考えててよ」
肩に手を乗せられる。
「俺なんかより月波はるかのほうが好きって言ってるみたいで、正直腹が立つんだよ」
 頬を膨らませて不満げな悠介の顔がどんどん近づいてくる。
「月波のこと追っかけて、ポッと出の犬井の言うことなんかほいほい聞いて、好みでも作風でもないコッテコテの恋愛小説書いてさ。一番の読者の俺の意見何か全然聞いてくれないのに」
「おい、悠介?」
「彩人が悪いんだからね」
 そっと呟く。
「俺じゃない奴のほうばっかり見てる、彩人が悪いんだ」
 唇が重なった。初めての柔らかい感触。鼻先と眼鏡がぶつかる。ただスタンプを押しつけたような拙いキスさった。
驚きのあまり、目を見開く。
「なんか、甘いね。あ、あんぱんかなぁ。彩人も焼きそばの味した?」
 今それを聞くか⁈ いや、そんなことよりも、
「お前……! 今、き、キス」
「うん、したよ、キス」
「なんでっ!」
「うーん。したかったから」
 唇に触れながら悠介が瞬きをする。
「こうしたら、俺のほう見てくれるでしょ?」
「はあ? そんな理由で、そんな簡単に、ひょいっと誰にでもすることかよ!」
「簡単にしたわけじゃないよ」
食ってかかる彩人に、悠介はいつもの顔でふにゃりと笑った。
「誰にでもするわけでもない。彩人だからしたかったんだよ」
 口をポカンと開けて絶句する。それは一体どういう意味だ。考えている間に、いたずらっぽい笑みを浮かべた顔がもう一度近づいてくる。
「うん、やっぱりあんぱんの味だ」
 初めてのキスは、あんぱんと焼きそばの風味が混じった奇妙な味がした。